第七十三話 壊れた幻想
その日の正午、結羽は拓士達と共に怜治の待つ海水浴場に向かった。砂浜でパラソルの下でくつろいでいる人々や海で楽しそうに泳いでいる人々を横目に歩みを進める。やがて人気のない砂浜の奥まで来ると、怜治と、再会した時に一緒にいた四人の生徒がいた。
結羽の姿を見ると、怜治は嬉しそうに口元を吊り上げる。
「逃げずに来たことは褒めてあげましょう。……お連れの方もご一緒のようですが」
そう言って怜治は拓士の方に視線を向ける。拓士も負けじと怜治を睨む。
「結羽一人で来いとは一言も書いてなかったからな」
「そうでしたね。ところで……」
拓士から結羽に視線を戻すと、怜治は質問を投げかける。
「その服と靴を、あなたに身に着けるように言ったのは何故だと思いますか?」
それはずっと結羽にも拓士達にも分からなかったことだ。大切な恋人の仇のような存在にどうして服と靴を贈り、身に着けてくるように言ったのか。
「その服と靴は元々、由紀に贈る為のものでした」
大人になった時、誕生日のプレゼントとして彼女に贈るつもりだったものだ。それはもう叶わない、甘く幼い願いだ。そんな儚い輝きを、泡の如く消し去った者に渡したのは、生きている自分では彼女にそれを渡せないから。
「海で溺れ死んで、それをあの世で待っている由紀に渡してください」
壊れたような笑みを浮かべた怜治の言葉に結羽達は戦慄する。
「何を言ってるんだ。ここで一度結羽が死んだとしても、寿命が残っているから……」
「それが何だと言うのですか? 由紀の寿命があの時に尽きたのだから、胡蝶蘭さんの寿命が数分後に尽きてもおかしくはないでしょう?」
狂っている。この目の前にいる男は、大切な存在を喪ったが為に、思考も感情も既に常軌を逸したものと成り果てていた。
結羽は影闘士だから、寿命が尽きて自然に死ぬ以外で命を落とせば、その肉体は消滅する。そうすれば結羽の存在は、影闘士以外の者の記憶からは消えてしまう。怜治は結羽が影闘士だと知らない為、そう言っているのだが、ここでもし結羽は死んだ場合、怜治は自分の仇と呼べる存在を記憶と共に失ってしまうことになる。自分以外に恨める者がいなくなった時、怜治の心は果たしてどうなってしまうのか。
ただ、藤見由紀が死んだという事実だけが彼の中で残り、どうして自分だけがのうのうと生きているのか、と己をひたすら恨むに違いないだろう。
それを知らない怜治は、口が裂けそうなほど吊り上げる。
「安心してください。あなたが死んだ後、僕も死にますから」
由紀の仇が消えて心が安堵感に満ちたら、きっと影鬼が由紀のもとに連れて行ってくれるだろうから。
この世界からの死を求めて、影鬼にあえて喰われようとした者は確かにいた。だが、怜治のそれは、壊れた幻想に他ならない。
拓士は、結羽を護るように彼女の前に出て怜治に言い放つ。
「ふざけるな! お前の自分勝手な理由で、結羽を死なせてたまるか!」
そんな言い争いをしているのを、遠くから伺っている影がある。未來と颯、飛鳥だ。三人はいざという時、怜治達を止める為に待機している。それは結羽の頼みでもあった。