第百十話 目覚め
ある影世界の中央に、寝台が置かれている。その周りには多くの花々が飾られていた。その寝台で眠っているのは、一人の女。腰まで届くふわふわした、淡い橙色の髪で、纏っているのは、桜色と臙脂色の袴だ。袴の袖には、紫色の蝶が舞っている。
女はやがて目を覚まし、血のように真っ赤な瞳が現れる。彼女の瞳に最初に映ったのは、スターチスだった。だが女はスターチスのことを知らず、どうして自分がこんなところにいるのか、無言で戸惑っていた。
そんな女に、スターチスは優しく微笑む。
「お前は今、影操者になったんだ。だから、ここにいる。俺は、スターチス。影操者を統べる存在だ」
女はまだ戸惑いつつも上体を起こし、スターチスを見上げる。彼が、私を助けてくれたということだろうか。ならば彼に従うべきか。
そんな女の姿を愛おしそうに見つめているスターチスは、彼女の頭を優しく撫でる。
「お前にはまだ名前が無かったな。……今日からお前の名前は“リナリア”だ」
「リナリア……」
女は与えられた名前を反芻する。可愛らしい名前なのに、どこか切ない響きだ。
そしてスターチスはリナリアに何か差し出す。それは、蝶をかたどった髪飾りだった。
「そこにいるジニアに髪を結ってもらえ。俺には髪型のことなど分からないからな」
「……はい」
リナリアは頷く。するとジニアがリナリアの傍にやってきて、彼女の髪をまとめ始める。つむじに近い箇所で結い上げると、リナリアから髪飾りを受け取り、結った紐を隠すように髪飾りを差し込む。髪を結ってもらったリナリアの姿を見て、スターチスは満足そうに微笑んだ。
それから数日間、リナリアとスターチスは一緒に過ごしていた。リナリアはスターチスから影操者についての話を聞いていた。スターチスは影操者達を統べる主であること。影操者は影鬼を使役することが出来るが、弱い者を影世界に引きずり込んで捕食するのは、ほとんど野良の影鬼だということ。影操者には、それぞれ特殊な能力を持っているということだ。
スターチスの話をリナリアはしっかり聞いていた。自分のことを真っ直ぐに見つめているリナリアに、スターチスはくすりと笑う。
「スターチス様? 私、何かおかしいことでも?」
首を傾げるリナリアの頭を、スターチスは優しく撫でる。
「いや。真剣に俺の話を聞くお前が、可愛くてな」
可愛いという言葉にリナリアは顔を真っ赤にして、スターチスから目を逸らす。ちらりと上目遣いでスターチスを盗み見ると、彼は穏やかな表情でこちらを眺めていた。再び頬に熱が宿りそうになった時、リナリアはあることに気づいた。スターチスは自分ではなく、自分越しに誰かを見ていることに。
それに気づいたリナリアの頬の熱は一気に冷め、代わりに興味を抱いた。スターチスが慈しむような眼差しを向けるのは、一体誰なのか、と。
リナリアが目を覚ましてから数日後、スターチスは別れを惜しむような表情で、リナリアに言った。
「俺はしばらくの間、ここには戻らない。お前は好きにするといい」
「好きに……」
好きにしろと言われて、リナリアは戸惑った。自分は影操者になって日も浅く、何をすればいいのか分からなかった。今の自分は、復讐したい者がいるわけでもないし、ヒトを捕食したいわけでもない。
そんなリナリアの気持ちを察して、スターチスは優しく微笑む。
「すぐに決めなくていい。時間ならたっぷりある」
「……はい」
頷くリナリアの頭を撫でると、スターチスは暗闇の中に姿を消した。
登場人物の花言葉
リナリア:「この恋に気づいて」