特別編「守りたい人の未来」
このお話は 第86部分 特別編「守りたい人の過去」の続編となります。
由比の悲鳴で、私は飛び起きた。横を見れば、滝のように汗をかいて呼吸が乱れている由比の姿。
とても普通の悪夢を見ていたようには見えない。それにしては尋常じゃない汗の量。
たぶん、またあの夢を見たんだとすぐにわかった。由比にとって、未だ向き合う事すら難しいあの事件。
「由比、落ち着いて深呼吸」
「うん…」
由比が両親と生き別れになる事となった事件だ。
配信でも、流血表現のあるグロテスクなゲームで発作が出かける事がある。
由美さんとあの話をしてから、一度由比にあの事件について聞いた時の事。途中でみるみる顔色が悪くなり、泣きながら何度も嘔吐した。
それ以来私はもう触れてはいけない事だとわかってしまった。克服できたらきっと、もっと配信者としてのレベルは高くなっただろう。
だけど由比に辛い思いをさせるくらいなら。一緒にゆっくりと、遠回りをしていく方がいい。
あの夢を見た日の由比は、一日休ませないといけない。そのくらいにあの出来事は彼女の心身への負担が大きい。
朝の8時を迎え、私は業務を始める。色々な取引先からのメールを確認して、その全てに返信を済ませていく。
その間に幸喜と何気ない会話を挟み、その内容に由比の話が出た。
「由比のあのトラウマ、どうにかできないかな」
その問いに、私は答えられなかった。どうにかできるのなら、既に解決できているから。
今までもそうだった。友人知人の悩みを聞いては色々な事を思いつき、解決へのアプローチをを見出せていた。
でも由比の場合は違う。そっと触れるだけで過剰なまでに拒否反応が起きる。
「色々試したよ。でもダメだった」
「そっか」
「幸喜は何か思いつく?」
「いや、何も」
私と幸喜の間に沈黙が訪れる。まだ他の社員の出社は無く、いるのは私と幸喜だけ。
このスカイスタジオ株式会社は、基本的に残業は禁止。平社員の出社も9時から17時。なので早く来る人もいない。
社内の由比の泊まり部屋のドアが開く音がした。次にした音は、トイレのドアが開く音。
これで今日4度目だ。何回も吐いていて、非常に心配になる。
「ちょっと由比の所に行ってくる」
「ほい」
私が立ち上がりトイレの近くへ来ると、ちょうど由比が出てくる。
顔色は良くなく、歩き方も少しふらついている。私はそんな由比の横に並び、背中を擦ってあげた。
「ごめん…」
「いいのよ。それより、近くに居てあげるから」
トラウマによる症状は、軍属の時よりも酷くなっている気がした。
『茨城県小美玉市中野谷に住む夫婦が刺され、病院に搬送される事件が起きました』
由比が再び寝た後、私は偶然見つけた昔のニュースを何回も見ていた。
これがあの事件。由比の人生が大きく狂ってしまった日の事。
「もしもこの事件を防ぐ事が出来たら」
「それをしたら、由比は僕たちと会っていない」
幸喜に強く被せられ、私は思わず押し黙った。
「友香さん、少し頭冷やしてきた方がいいよ」
「…ごめん」
じゃあ、何をすれば。どうすれば由比が辛い事と向き合わずに済むだろうか。
他の人が体験し得ないような不幸と。
夕方、起きてきた由比の表情は暗い。
どうにか精神状態は回復できたようだけど、それ以上に今日の配信をお休みしてしまった事をお詫びしたいと私に告げた。
「いいよ。それより大丈夫?」
「うん。だいぶ曖昧になってきているから」
そう。由比あの時の記憶は夢として蘇り、やがて朧気になっていく。
それが時々起きてしまう。それ以外でも血を見る度発作となり、由比に襲い掛かる。
「そう…」
私と由比の、今日の会話はそれで終わりとなった。
自宅へと帰り、これから配信をする。
だから残りの時間は由比の配信を見て、様子を見守るしかない。
『みなさんこんばんわ。バーチャルライバーの桜宮空奈です!』
いつもの挨拶で、由比の配信が始まっていく。
まだまだ調子が悪いはずなのに、それでもファンの為に頑張るのが由比だ。
『ごめっ、ちょっとミュート!』
咳交じりにミュートを告げる。
少しだけ、やっぱり声の調子が良くない。私は見かねて由比へメールを送った。
無茶をしないようにと、私の自撮りも添えて。
『ごめんなさい。マネさんから気遣いのメールが来ちゃいました』
水を飲む仕草の後、申し訳なさそうにする由比。
でもクスクスと笑っている。どうやら私の計らいは成功したらしい。
「友香さん、由比の様子は?」
「今はもう大丈夫そう」
幸喜も由比の事が心配で、私のパソコンの画面をのぞき込んだ。
ライアーやファン、私と幸喜にとって由比は宝物だ。由比はいつもそう。
由比の周りにはいつもたくさんの人がいて。
『誰もが信じ崇めたくなる 無敵のアイドル』
少し前に話題になった曲を歌う。由比はシンガーとアイドルをスイッチできるのが大きな魅力であると言われている。
それは由比が自然に身に着けた技能だから、もっと輝いていけるはず。
「由比、頑張って…」
私はそう願い、由比の配信を見守るだけ。
これからもきっと、そうしていく。




