監視人
その人は、廊下の隅にひっそりしゃがみ込んでいるのです。
左手のはるか先に手をさしのべ、うしろに三匹猟犬を従えて、肩には小さな鷹を止まらせておりました。
それは白と茶色のまだら模様が美しい鳥でした。
たしか貴婦人が鷹狩りに使うのにふさわしいとされている、ゲンポウとかいう種類のものでした。
身にまとう細腰を強調した裾の長い服には、ほとんど宝石らしきものはついておらず、
巻き毛波打つ彼女は首飾りさえつけておりませんでしたけれど、描かれた鷹は私たちのような身分の低い者が使ってよいノスリではありませんでしたから、おそらくは、やんごとなき生まれの人の肖像だろうと思われました。
面立ちはふっくらしすぎておりませんし、頬がこけているわけでもなく、中肉中背。
コルセットで締められた腰の細さも異様には見えないぐらい自然で、非常に整った骨格の麗人でした。
でもどういうわけか、彼女は目を真っ白な布で縛って隠しておりました。
彼女は何も見えないはずです。
しかしその目線は何もかも見えているかのように、じいっと左手の方をみつめるような姿勢でしたので、
彼女を見るたび私は、想像せずにいられませんでした。
目隠しをしてもなお気にするその先には、一体なにがあるのかと――。
実際には、しゃがむ彼女の左手には扉がありました。
鍵がかかったままで、私はついぞそこが開くのを見たことはありませんでした。
「家令さまが鍵を無くしてしまってね。もう何年もこの部屋は閉じたままなんですって。
まあ、私たちにとっては、掃除する部屋がひとつでも減ってありがたいって感じ?」
長い廊下にずらりと並ぶ部屋。部屋。部屋。
その一室一室の床を掃きながら、先輩使用人はそう申したものです。
この人と一緒に私は一日中、ご主人様の館を掃除する仕事をしていました。
廊下も階段もえんえんと果てしがなく、部屋は何百もありましたから、
私たちはとても忙しかったのです。
回廊に飾られているたくさんの絵画をじっくりながめる暇なんて、まったくありません。
だから私が廊下の隅にしゃがむ彼女に気づいたのは、館に入って何度も冬を越してからでした。
なぜ注意を引かれたのかというと、彼女が目隠しをしているという異様な姿であったことに加えて、その絵画にだけ題名も画家の名前もついていなかったからです。
他のたくさんの絵にはぴかぴか光る銀の板に、
だれそれ卿とかだれそれ夫人とか、
ご主人さまのおじいさまやおじいさまのおじいさま、
おばあさまやおばあさまのおばあさまのお名前が、
それから別荘地の風景の場所の名前が、画家の名前と一緒に刻まれておりました。
私はそれを読むことはできませんでしたが、先輩使用人は自慢げに私に読んで聞かせてくれました。
彼女の母は私たちと同じくここの使用人だったそうですが、彼女の体には半分だけ、やんごとない血が流れているのだそうです。
「この館付きの神父さまがね、奥様とお嬢様として認められなかった母さんと私を哀れに思ってくださって、読み書きや作法をこっそり教えてくれたのよ。だから私は文字が読めるの」
その血筋のせいもあってか、先輩使用人はメイド頭にも家令にも一目置かれていました。
文字が読めるということだけで使用人の間ではかなり評価されますが、ラテン語で書かれた聖書もすらすら、手先も器用、仕事に卒がないとなれば、だれよりも信用されるのは当然です。
彼女は仕事をこなすために、複製された鍵の束をメイド頭から預けられていました。
それはこの館の、百に届くほどの扉を開けることができるものでした。
「鍵がなくなった部屋は地下にひとつ、てっぺんの階にもひとつあるのよ」
地下の部屋は昔、牢屋に使われていたのだとか。百年以上前に当時のご主人さまが囚人を閉じ込めたまま、二度と開けることのないようにと皆に命じて、鍵を館の裏を流れる川に投げ捨ててしまったそうです。
最上階の部屋はとても狭く、数十年前に閉じられたそうで、中にはご主人様の一族の宝物が封じられているというのが、もっぱらの噂です。
いよいよのときに開帳せよと、金貨のたっぷりつまった箱がぎっしり積まれ、複製の鍵は処分され。残っているのは、ご主人さまが持つ本物の鍵ひとつだけなのだそうです。
「ご主人様しか開けられない部屋って、結構あるのよね。この部屋も……そうなんだと思うわ」
複製の鍵を持つ人は三人。
持ち主は家令とメイド頭、そして先輩使用人です。
仕事を始めたころ、先輩使用人はとても不思議に思ったそうです。
「この階にはごくふつうの客室が並んでるのよね。開かなくなった部屋も、お呼ばれされた方たちが泊まる部屋のひとつのはずよ。宝物を隠すのにはあんまりふさわしい感じじゃないわ。
でも、そう思わせるのが狙いなのかもね。開かなくなったのは、私が生まれたころだって話だし。
まあとにかく、掃除しなくていい部屋があるのは、うれしいわよね」
つまりご主人様がてっぺんの部屋に財宝を封じたのとほぼ同じ頃、部屋は閉じられたようです。
とすると開かずの部屋には財宝のつまった箱が隠されているのでしょうか。
それともも地下の部屋のように、そこにだれかを閉じ込めたのでしょうか。
分からぬままに私は今日も、暗い廊下の隅にしゃがむ女性を目の端に入れるのでした。
目隠しをしたままで、開かない扉を見つめる貴婦人を。
館に来て五度目の冬を越したころ。
私と一緒に働いていた先輩使用人は、使用人ではなくなってしまいました。
不幸なことに――いえ、彼女にとってはとても幸運なことに、宮廷にあがっていたお嬢様が病でお亡くなりになったのです。
お嬢様はフランスの宮廷で花嫁修業をしてきた才媛で、大貴族とのご婚約が決まったばかりでした。
ご主人さまは婚家となる家とのつながりがどうしても欲しかったらしく、先輩使用人をついに認知して、「お嬢様」に仕立てあげました。ご主人様には、他に生きているお嬢様がいらっしゃらなかったからです。
奥様は坊ちゃまを三人、お嬢様を四人お生みになりましたが、そのうち女の子三人は、赤子のうちに亡くなってしまったのだそうです。
かくして、「お嬢様」になった人はメイドの服を脱ぎ、絹のドレスに身を包んで、宮廷へと行ってしまいました。ずっと共に床を掃いた私に、複製の鍵束を預けて。
「メイド頭に命じておいたわ。この鍵束の次の持ち主は、あなたにするようにって。
うふふふ、私の幸運を一緒に喜んでちょうだい、エミリー。死んだ母さんもこれで浮かばれるわ」
こうして私は単なる使用人から、鍵持ちの使用人へと格上げされました。
いただいた鍵束のずっしり重いことといったら。
さまざまな形の鍵がありましたが、一本につき一カ所というわけではありませんでした。
同じ鍵で三カ所開けられるところ、四カ所開けられるところがありました。
もしやと思って私は、目隠しの女性が見つめる扉の鍵はないかと試してみました。
鍵がなくなったというのは、先輩使用人の勘違いではないか。
もしくは、部屋をひとつ掃除するのをわざとさぼっていたのかもしれないと思ったのでした。
「あっ。開いた……!」
思った通り、私が気になっていた扉はすんなり開きました。
しかし私の予想は半分しか当たっていませんでした。
扉の錠前にかちりと合ったのは、この階の他の客室に使われるのと同じ鍵ではありませんでした。
なんとそれは独立した一本の鍵で、頭の所に薔薇の彫り物が施されている、とても特徴的な鍵でした。
先輩使用人は、わざとこの鍵を無視したのでしょう。
つまりこの部屋は、開かずの部屋でもなんでもなかったのです。
『ご主人様しか開けられない部屋って結構あるのよね』
思えば、上の階にある部屋も……。
先輩使用人はかなりの数の扉を開けられないといって掃除に入りませんでした。
もしかすると私がもつ鍵で開く扉は、もっとあるのかもしれません。
先輩使用人はきびきび動いて手早く作業する人でした。
卒なく働いてはいましたが、こうしてこっそり絶対数を減らすことで手を抜いていたのでしょう。
「う……なんてカビくさい……」
おそるおそる足を踏み入れたその部屋は、長年閉め切られたままだったので空気が淀み切っていました。毎日掃除しているとなりの部屋と同じ椅子や宅、戸棚などが同じ位置に置いてありましたが、そこかしこに白い埃がたまりきっています。
『ばかね。仕事を増やすなんて』
「お嬢様」になったあの人がそばにいたら、そう言われたかも。
でも開けたからには、やるべきことをしなければなりません。
まずは空気を入れ換えなければと、私は曇りきっている窓を開けようとしました。
何年も閉まったままだったせいか、閉め切られた雨戸がとても重くて、なかなか動きません。一所懸命押していると。
「開けないで」
背後から、女性の声が聞こえてきました。
私はぞくりとして、おそるおそる振り返りました。
「開けてはだめ。ここはそのままに。逃げてしまうから閉じておいて。この部屋ごと」
たしかに、声が聞こえたのです。
でも部屋のどこにも、声の主の姿はありませんでした。
「でも、そ、そ、掃除、しませんと……」
「開けないでくれるなら、おまえの望みをひとつかなえてあげましょう」
いったいなんの悪魔が、この部屋に住み着いているのでしょうか。
腰が砕けた私は悲鳴をあげ、埃にまみれた床に両手をつき、這いつくばりながらその部屋から転がり出ました。
「たす、たす、たすけて! 殺さないで!!」
そして私は長い長い回廊に逃げて、無我夢中で自分の部屋に飛び込み、鍵をぎっちりかけて一晩震えていたのです……
――「ミス・エミリー・ブライト。私はあなたがどうして、この館に忍びこんだ暗殺者の手から逃れたのか、それを知りたいのだが」
「ですから……申し上げた通りです、州長官さま。私は、一年前に……その開かずの部屋で、たすけてと願った……ので……」
ランプがこうこうと、穴蔵のような石組みの部屋を照らす中。
私は震えながら、卓の向かいに座っている州長官さまの尋問に答えました。
「ミス・エミリー・ブライト。暗殺者はあの館の使用人を三人、主人と共に殺した。侵入経路にいた者たちをことごとく屠っている。そして君は、暗殺者の目標である主人の寝室にいた」
「は、はい……ご、ご主人様に……その……」
「主人は暗殺者にめった刺しにされ、出血多量で事切れた。共に寝台にいた君はなぜか見逃され、こうして無傷でいる。なぜだ?」
「わか……わかりません。でも、あのとき……恐ろしい声を聞いたとき、私は、たすけてと……」
いったいなんの悪魔があの部屋にいたのでしょう。
声を聞いた翌朝、私はあの部屋の扉さえ閉め忘れたことに気づきました。あの部屋のある階に行くことさえこわくてたまりませんでしたが、勇気を振り絞って鍵をかけに行きました。触らぬ神に祟りなし、相手の望み通りにしておけば、私は呪われることも害されることもないのではと思ったのです。
がくがく震えながらそこへ行きますと、目隠しをした女性の隣にある扉は閉まっておりました。
私は鍵束から薔薇の彫り物の鍵を探しました。
けれども一本一本丹念に数えるように確かめても、あの特徴ある鍵は見つけられませんでした。
なぜないの? どうしよう、鍵をかけなければ。
焦る私は扉を確かめてなんとか胸をなで下ろしました。
扉の鍵がかかっていたからです。
メイド頭か家令が気づいて、閉じてくれたのでしょうか。
あの部屋から逃げさせてはならないものとは、いったいなんなのでしょうか。
あの声の主は……悪魔としか思えないあれは、あの部屋をずっと監視しているのでしょうか。
もしかすると目隠しをした女性があの声の主?
彼女は見ないふりをして、あの部屋を見張っているのでしょうか?
ああでも、これは単に私我僧思うだけ?
わからない……わからない……
とにかくもう二度と、あそこを開けたいなんて思いません。こわくてそんなことは露ほども思えません。
鍵がなくなってしまって、私はどうしようと困るどころか、心底ホッとしたのです……
「ミス・エミリー・ブライト。鍵の話など、どうでもよいのだが」
「すみません州長官さま、でも、心当たりというか、今はそれしか頭に思い浮かばなくて……」
「とにかく君は暗殺者と知り合いとか友人だとか、つるんでいるということはないのだな?」
「は、はい。そんな関係では、決してありません……!」
事件が起こって一週間後、私はやっとのことで拘置所から解放されました。
州長官様は私を暗殺者を引き込んだ共犯者だと決めつけたがっていましたが、調査が進むにつれて、その疑いはなんとか晴れたようです。
私はご主人様のご葬儀のあと、実家に帰ることにしました。
ご主人さまからいただいた首飾りや耳飾りは、そこそこの財産になるでしょう。
なんとか、お腹の中の子どもを育てていけると思います。
「お嬢様」になった人とは、ご葬儀でちらとすれ違いましたが、宮廷での生活が忙しいようで、私のことはもうすっかり忘れてしまったかのようでした。
このままずっと、彼女の記憶から消えたままでいたいものです。
私が暗殺者の刃を逃れられたのは……
開かずの部屋から逃げたとき口ばしったことが、叶えられたのではないでしょうか。
『た、たすけて! 殺さないで!』
部屋に響いた姿無き声は、それが私が望んだことだと、解釈したのではないでしょうか。
そして。
「お嬢様」もかつて私と同じ経験をしたのではないでしょうか?
私は命をながらえました。
「お嬢様」は……
彼女が願ったことは……
……。
いいえ。
深く考えることはよしましょう。
彼女は私を忘れました。
だから私も忘れましょう。
彼女がどんなに恐ろしい事を願ったとしても。
さあ、荷造りをしてこの館を出ましょう。
なにか恐ろしいものが棲むここから。血に濡れてしまったここから。
あの声に、感謝しながら。