9.ランド式コミュニケーション術
聖都に来て4日目。
体の怠さは依然として抜けないが、悪化もしていない。夜更かしした次の日くらいの怠さだ。魔力運用の練習に問題はない。
それに、昨日の夜くらいから魔力の流れや量というものが少しずつ分かってきた。
今自分がどれくらいの量の魔力を流しているのか、どういう向き、どういうルートを通って流しているのか。それが分かってきただけでネスキアに看てもらったあの初日の何倍も魔力を扱うのが楽しい。何かを練習していてそれが上達しているという実感はどんなものよりも強い原動力になる。
もっともっと練習したい、その気持ちに従って高いモチベーションで練習すれば当然効率も上がる。さらに上達を実感できて練習したくなる。正の循環だ。
どんな物事だってこの循環に乗ってしまえば上達は早い。なにかスポーツを始めたばかりの子供がよくなる状態だ。しかも今の俺の体は周りの情報を何でもスポンジのように吸い込もうとする子供の体。ここまでの条件が揃えば自然と技術は上がっていくに決まっている。
楽しくて仕方がない、もっと練習したい、もっと上達したい、もっと、もっともっともっともっともっともっともっと――
――そんなこんなで、今に至る。
「ランド大丈夫……?」
「大丈夫、ごめんなさい……」
また魔力切れをした俺はセイラに膝枕されながら横になっていた。
楽しすぎてネスキアに言われた量を完全に越えて練習を続けた俺は初日と同じくぶったおれてしまった。朝食の時間になってもいっこうに現れない俺を心配してセイラが見に来てくれて助かった。
この魔力切れという状態にはまったく慣れない。無理矢理例えるなら、車酔いとのぼせた状態が一気に襲いかかってくる感覚だ。そんな体調最悪な状態に慣れるなんてことはありえないのかもしれないが、それでも起き上がることすらできないのはさすがに自分の体が心配になってくる。
いや、体内のエネルギーが空になるのだからあまり良くない状況というのは間違っていないのかもしれない。
「また倒れちゃった……」
「まぁ、使い慣れてない頃には誰だって何度かするわよ。落ち込まなくても良いわ」
「子供の頃に気絶するくらい魔力を使う子供は中々珍しいですけどね」
「ネスキア様!」
余計なことを言うなとばかりにネスキアに非難がましい視線を送るセイラ。
それにネスキアは苦笑いしながら肩をすくめるが、すぐに少し険しい、真面目な表情を俺に向けた。
「いいですかランド君。君のようなまだ体が未発達な子が頻繁に魔力切れを起こすのはあまり良くないのです。魔力は体で言うところの血液と同じですから。足りないことが多くなると体が弱っていくのは当然です……ランド君なら、分かりますよね?」
「はい……」
初日に散々注意したのに俺がこうなってしまったためか、ネスキアの言葉には僅かに怒気が籠もっていた。
どんどん上手くなっていく正の循環。そこまで分かっていればオーバーワークにもなりやすいことは俺なら分かったはずなのに、こうなってしまった。自己管理がなっていない。
「……子供のうちから自己管理が完璧に出来る子なんていませんよ。ランド君はむしろできすぎているくらいです。だからそんなに自分を責めなくても良いのです。私も、ランド君が賢い子だからといって放任しすぎていました。私の方が落ち度はあります」
自虐の念から黙り込む俺を見てネスキアは再び相貌を崩す。
「これからはこういうことにならないよう一緒に気をつけましょう。セイラも言っていましたが魔力を使い始めた時にはこういうことはよくありますから」
「そうなんですか……?」
「はい。と言っても多いのは魔法を使い始めた時にですが。魔法を使えるようになる平均年齢はおおよそ10歳前後。その時に自分の魔力総量を考えずに術式に魔力を流し込み続けて、魔力切れ、というのが多いです。ですからランド君のような事例はとても稀ですね」
10歳……確かにその年代と比べると俺の体は全然発達していない。そんな時期からこんなに酷使していては成長に不都合が出るかもしれない。幼い頃から筋トレしすぎると身長が伸びないのと似ている。
「まぁ、今のランド君は魔力の回復速度にも制限がかかっていますし、少なくとも今日はもう魔力運用の練習は控えた方が良いでしょう」
「え……あの、メライの水とかを使って回復というのはダメなんですか?」
「ダメです。あれは非常時の裏技のようなものですから。無理矢理魔力を回復させる、ということ自体体に負担が大きいですから。どんな理由があっても今日はこれ以上の練習はダメです」
「な、ならせめて夜に回復してから――」
「ランド君も、お母さんを悲しませたくはないでしょう?」
その時になって俺はようやく今まで黙っていたセイラの表情に気がついた。
子供の意見を尊重してあげたい、だけどこれ以上体に負担がかかるような無茶はしてほしくない。そんな親の葛藤が一瞬で見て取れる表情。当然だ、セイラは元々表情を隠すのがあまり上手くない。
だからこそこうもはっきり分かる、セイラが俺に向けてくれている愛情が。
「……分かりました」
その表情の前では、俺の楽しみや夢などどうでもよくなった。
俺は、家族を傷つけるようなことだけは絶対にしたくなかったから。
そうして俺は今日一日フリーになった。
魔力や魔法のことばかり考えて周りが見えなくなっていたことを反省し、今日は他のことに集中することにした。
とは言っても、体はまだまだふらつくためセイラやネスキアの手伝いをするわけにはいかない。それに魔力を回復する一番良い方法はリラックスすることだとネスキアは言っていた。
そうなると今の俺に出来ることはまた読書しかない。
俺はネスキアに借りた本を大教会の中庭に持ち出し、キレイに手入れされている草むらに座り込む。
穏やかな日光、微かに頬を撫でる風、柔らかな草むら。リラックスしながら読書に励むには絶好のロケーションと言える。
そういうわけで読書開始だ。まだまだ理解しきれない強敵な本を前にうんうんと唸りつつ読み進めていく。集中できる環境と言うこともあり読書自体はなんの滞りもなく進んでいく。
だがほとんど疲労困憊と変わらない体調の子供の集中力なんてたかが知れている。限界はすぐに訪れる。
「はぁ~~~~~」
ぽすん、と背中から草むらに倒れる。少しひんやりしている地面や葉っぱが気持ちいい。
「……ていうかこれ、こんだけ疲れるまで読書続けてたらリラックスとか体休めるとかなんの意味もないんじゃ」
これが本末転倒というやつか……リラックスというのも難しい。
これがもしも前世であればネットサーフィンだのアプリゲームだので暇を潰せたのかも知れないが、この世界にはそんな物当然無い。
そう、この世界は娯楽が少ないのだ。こう、一人で難しいことを考えずに楽しめる娯楽が!
……一人で、と限定している辺り俺もなかなかぼっち根性逞しいと思う。
「んぁ?」
「……っ!」
自分の性質の悲しさに苦笑いしていると気配を感じそちらに視線を向ける。その際寝転がっていて体勢が悪かったせいか変な声が出た。まずいまずい。なんだかんだセイラはこういっただらしないことにうるさい。こんな声を出したところを見られてしまえば面倒なことに――じゃなくて。
視線を向けた先、大教会から中庭に続く階段。そこにある柱の陰にある人物の姿が見えた。
そんなところに頭が見えるような格好で隠れるのはこの教会には一人しかいない。アンジェだ。
昨日部屋に呼びに来てくれたときと状況がほとんど同じだ。俺のことを警戒するように隠れながら観察しているところまで。
「……」
読書は疲れた。体力的に読むのは辛い。
ただでさえ娯楽が少ないこの世界。しかも教会なんて禁欲的な場所だ。余計に遊べる物は少ない。
魔力運用の練習はあれだけするなと言われているし、セイラが悲しむ顔は見たくない。
することない、暇、暇、暇。
そんな俺の前に、肉体的にはほぼ同い年の子が一人。
……話してみよう、そう思うには十分すぎる条件が揃っていた。
こうして、アンジェと仲良くなってみよう作戦は地味に始まったのであった。
さて、ここで俺、ランド・ファイミィの人間スペックを振り返ってみよう。
少し茶髪がかった黒髪に子供らしいどんぐり眼。瞳の色は父親譲りで金色。身長もこの年代の平均身長くらい。顔の造形はこの年ではまだ断定は出来ないが、そう悪い方ではないだろう。別に額に第三の目が、とか、人間にはないはずである翼が生えているとか、そういう特異性もない。見た目に関しては十分良い物だ。つまり、特に怖がられたり警戒されるような要素はないと思われる。
次に性格。
性格は、少し表現が難しい。そもそも性格というのはその人物が所持している記憶、経験などに大きく左右される。俺ならば前世の記憶のせいもあり、子供にしては物腰が落ち着いて知性的な会話ができてしまう。
さらに前世ではあんな家庭環境でさらに家庭外でも常に家族との相対評価に晒され続けて……有り体に言えばひねくれて心が育ってしまっている。
そして子供というのはそういった内面に潜む本質を見抜くのが上手いとされる。これは生物として弱者に当たる子供は、相手の本質を見抜き危険な人物には無闇に近づかないようにするため、らしい。あくまでも一説ではあるが。
だがそれを本当だとすれば、子供は俺の内面を見抜き、外面との不一致に違和感を持つだろう。大人であれば違和感を意思の力で飲み込み関係ないと思えるかも知れないが。子供は感情に素直だ。だからこそ。
「なぁ、アンジェ?」
「……っ、ひゃぅ」
俺は小さな女の子に声をかけただけで小さな悲鳴を上げられても仕方がないのだ。これは俺のせいではない、強いて言うのであれば前世の環境が悪い。
悲鳴を上げられたことで一発で思考停止してしまった俺のことを置いてアンジェは走り逃げ去る。それを俺は見送ることしか出来ない。
そもそも、前世の環境的に俺は友達を作ると言うことが苦手だ。致命的なまでに苦手だ。俺が何もしなくても周りは俺をすごいすごいと持てはやして、家に帰れば限界突破するほどの徹底した無関心。俺のコミュニケーション能力は育つための栄養を得ていないのだ。
そんな俺に激しい人見知りであるアンジェの相手は相当厳しかった。
簡単に仲良くなれるようであれば今日までのうちにもう仲良くなっている。
「どうするべきか……」
庭に座り腕を組んで考える。
アンジェとは――というか同年代の子とは仲良くなりたい。友達と仲良く気兼ねなく遊ぶというのは俺にとって夢であり、目標でもあるのだ。前世での下心丸見えな友達モドキの関係は友達とは決して言えない。俺は友だちがいない、略してはがないだ。
人と仲良くなる方法、人と仲良くなれる方法……何か良い方法があると思うんだけどなぁ。
――ちなみにこの時の俺は人と仲良くなる完璧で絶対的な方法があると思い込んでいる痛い時期だったりする。
テイク2。
人と仲良くなるには相手が興味を引く話題をすべし。
確かこんな感じのことが前世に読んだ何かの本のどこかに書いてあったような気がする。
不確定すぎるソースを元に、俺はアンジェが廊下を歩いているところを待ち伏せていた。
セイラに聞いた話によると、アンジェはよくセイラに料理のことを聞いているらしい。やはり幼くても女の子。料理に興味津々というわけだ。
俺は料理が出来るわけではないので料理を教えることはできない(前世であれば夕食を用意できる程度には出来たが)。だが何も料理の話題は作り方だけではない。
見た目や味、それに料理を元に広げていく様々な会話。話せる内容はそれなりに多いのだ。
さらに廊下を歩いているアンジェはなにやらバケツを持っている。アンジェでも持てるほどの小さな物だが、アンジェの体格だとそれなりに大変な重さだろう。
だが重要なのはそこだ。重い物を持っていれば当然動きは鈍くなる。だから今までのようなエンカウント直後に逃げ出す、なんてことはないはず。さらにバケツを持ってあげれば自然と一緒に歩くことが出来て会話につなげやすいという完璧な作戦!! これほどまでに完璧な作戦を思いつくなんて、自分はコミュ障、なんて認識は少々過小評価だったかも知れないな。
ふふふ、と笑みを浮かべているうちにアンジェが俺が隠れている通路の角まで移動してきた。さぁ、作戦実行だ。噛んだりするなよ俺の口よ!
「なぁアンジェ? もしよかったらバケツ持と――」
「きゃあ!!」
ばしゃあっ、バケツが宙を舞った。
――まぁ、急に出ていったら驚くし、驚かせたらこうなるよな。と濡れた体をタオルで拭きながらため息をつく俺だった。
「アンジェ!」
「ひゃぁっ!?」
「アーンジェ?」
「ひゃうっ」
「アンジェー!?」
「やぁっ!」
その後も俺の失敗が続くこと両手の指くらい。
さすがに、心が折れかけてきた。
「話しかけるところでつまずくってどうなんだよ……」
会話にならない。会話がかみ合わないという意味でなく会話にまでステップアップできない。
俺は別に幼女をいたぶって楽しむような高尚な性癖は持ち合わせていないため、話しかけるたびに怖がられるいうのは普通に精神的ダメージがでかい。さっきの昼飯の時間なんて俺が席に着くだけで小さく悲鳴を上げられた。泣きたい。
興味が湧いて話しかけてみようと思ったが、それ以上にあんなに怖がらせてしまった事への後悔の方が大きくなってきた。諦めないにしても少し時間をおくしかあるまい。
そうなると再び始まるのはやはり読書の時間……なのだが。
午前と同じく向かった中庭の中心、ちょうど俺が座っていたのと同じ場所には先客がいた。
アンジェだ。
しかもアンジェは午前中の俺と似たような姿勢で、草むらの上に置いた何かを一心不乱に見て、いや、読んでいる。
そう、アンジェが読んでいるのはこれまた俺と同じく書物。それも遠目に見る限りには装丁も同じ物に見える。
そういえば、午前なぜアンジェはこの中庭に来た? 何かすることがあるのならしているはずだし、昨日のように俺を呼びに来たという感じでもなかった。
……柱に隠れて見えなかったが、もしかしたらアンジェも本を持っていたのではないか? 俺と同じでこの中庭で読書に励もうとしたところを俺がいてできなかった、という可能性。
だとするなら、なんとなく罪悪感が出てきてしまう。俺が悪いことなど何一つないにしてもだ。
彼女のことが気になり、俺は静かに中庭に入りアンジェに近づいていく。
声をかけないのは心が折れかけていたというのもあるが、さすがに読書中の人物にいきなり声をかけるのは気が引けた。読書中は誰だって外界の情報をシャットアウトしたいものだ。
そうして手を伸ばせば相手に触れるほどの距離まで近づいてみたが……すごい、この距離になってもまだ気づかれない。俺がいるのはアンジェの背後だが、それでも普通は人の気配を感じるものだ。相当集中してこの本を読んでいるんだろう。
「……」
キレイだな、と思った。
こうして落ち着いてアンジェのことを見る機会がなかったため意識から離れていたが、そうだ、俺はこの子に出会った初日にもキレイだと感じた。
風によって僅かに舞う白の長髪。ページをめくる幼くも細く整った指、文字を追いゆっくりと動く髪色とは相対した黒い瞳。幼女趣味はない俺でもその光景には目を奪われる物があった。
そんな姿を脇から眺めながら俺もなんとなく自分で持ってきた本を開き読み始める。
今なら俺も集中して読める気がしたのだ。
そうして中庭に再び訪れた穏やかな時間。
一つの空間を共有しながらも互いの存在は共有していない俺たち、だがその個人と個人という関係に俺は無性に嬉しくなった。
魔力運用の練習の時間にも負けないくらいに有意義な時間だ。
だが、そんな時間はすぐに終わりを迎える。
その理由は簡単。午前の俺と同じ。子供の集中力なんてそう長くは続かないのだ。
「……? ……ふぇ? ……っ!?」
集中力が切れ近くにいる俺の気配に気づくのに一秒。俺の姿を確認してなぜここに俺がいるのか疑問を持つのに一秒。そして俺がいるという現実を理解するのに一秒、というところだろうか?
時間が経過するのに合わせてアンジェの表情が徐々に変わっていくその様子は少し面白かった。まぁ、面白く感じてもそれをどうにかするだけの余裕は俺にもなかったけれど。
声にならない悲鳴を上げいつものように走り去ろうとするアンジェ。だが先ほどまで座り込んでいた足は痺れてしまったのか、踏み出した足で踏ん張れずその場にこけてしまった。
「うぅ……」
「だ、大丈夫……?」
もっと気の利いた言葉や安心できるような言葉を言えたら良かったのだが、そんなトークスキル俺にはもちろんない。だから出てくるのはありきたりな心配の声と差し伸べた掌だけ。
しまった、こんな不用意に手なんか伸ばしてしまったらまた怖がらせるか……?
だが俺の不安とは裏腹にアンジェは小さく唸り迷った様子を見せながらも俺の手を掴んでくれた。もしかしたら足かどこか痛くて上手く立ち上がれないのかもしれない。
アンジェは俺の手を引っ張ってゆっくり立ち上がるが、まだどこか痛そうだ。くそ、こういう時こそ前世の記憶を役に立てるべきだろ。応急処置だとか、悪化させない方法だとかくらいは俺だって知っているだろう、確か患部に負担がかからないように固定して、いやそれ以前に大人を呼ぶべきか――
「――……う」
「え?」
俺があれこれ考えていると、蚊が鳴くような、本当に小さなアンジェの言葉が聞こえてきた。
なんとなく聞こえた気もするが……本当に? 本当にそんなことをアンジェが俺に言ってくれるのか?
「あり、がとぅ……」
――言った。
目も合わせられず、怖そうに体を震わせながらも、アンジェは俺に言葉を伝えてくれた。
その事実が、こうして今言葉を交わせていることが嬉しすぎて、今までの苦労が全部吹き飛んでいってしまった。
「えっと、その、どういたしまして……足、大丈夫? 痛くない?」
「……痛い、でも大丈夫」
それは、痛いけど怪我はしていないと言うことか。それならよかった。
まだ俺の話し方に落ち着きがないのは勘弁してほしい、ようやく話すことが出来てまだ距離感が掴めてない。
怪我の確認が終われば再び話すことがなくなってしまう。そうすれば今のこのいい雰囲気は霧散してまた避けられ続けるのはなんとなく分かった。
だから必死に会話のタネを探し続けている。今あの料理の話題は急展開過ぎて意味がない、だが他に俺が振れる会話なんて……いや、ある。
ついさっき気になったことがあったじゃないか。
「……なぁ、アンジェ。さっきから読んでたあの本ってなんなんだ?」
「っ、み、見てたの……?」
「うん、のぞき見ようとしたわけじゃないんだけど……僕もここで本読もうと思ったからさ」
その証拠にと俺は先ほどまで俺が読んでいた本を指さす。草むらに開かれたままになっている本、それを見てアンジェは何か気づいたのか小さく声を上げた。
「これ……お父さんの本……」
「えっと、何か本はないかって聞いたら貸してくれたんだ……もし良ければ、読んでみる?」
良ければも何も今言ったようにこの本はネスキアのものなのだから俺が勧めるのも何かおかしい。まだ混乱が収まっていないのかも知れない。
だがアンジェはふるふると首を横に振った。
「いい……これ、もう読んだ、から……」
「へぇ、アンジェもこの本知ってたんだな――って、はぁ!?」
「ひぅっ」
会話に緊張しすぎてつい流しそうになってしまったが、ちょっと待て。
もう読んだ? この本を? 俺よりも一つ年下のこの子が?
……いや、読んでいること自体はそこまで問題じゃない。文字の習得が異常なまでに早いなとは思うけど、読むだけならできるかもしれない。
だけど、今のアンジェの言い方では……
「えっと、読んだって、内容も理解した上で?」
俺の問いかけにアンジェは怯えながらもこくりと頷く。
これでも俺は一応、文字の習得に全力を注いできた。子供がなんとなく覚えていくスピードと、前世の記憶があって目的もある俺が全力で覚えていくスピード、それを比べれば間違いなく俺の方に軍配が上がる。
だが現実は違った。それはつまり、俺が思っている以上に俺はポンコツだったか、あるいは、アンジェが超が付くほどの天才っ子だったか。そしてそれはおそらく後者だ。
親が魔法のエキスパートとまで言われる人なんだ、その娘であるアンジェもそれに伴う実力を持っていてもおかしくはない――
「――って、いや、違うだろ」
自分の思考に頭を振り否定する。
そうじゃない。そうじゃないだろ。
親がどうのこうのではない、こんなにも優秀なのはアンジェが自分で頑張ったからだ。確かに才能なんかはあったかもしれないが、才能があるだけでは凡人と何も変わらない。努力をしたのは彼女自身だ。
アンジェはアンジェ。すごいのはアンジェだ。
「あの、どうかした……?」
「ん? あぁ、いや……」
怯えの色に心配の色も含ませた声色でアンジェが首を傾げるが、それには特に緊張しない。
当たり前のことが分かって、なんとなく力が抜けた。友達になりたいのに相手のことを見ていないなんてそれこそ馬鹿な話だ。
だから俺は、どこかに隠れてこそこそ窺ったり、調べて相手のことを知るのではなく、真正面からアンジェを見て微笑む。
「僕、この本で分からないとこ結構あるんだ。もしよかったら教えてくれないか?」
「――、……ぅんっ」
余計な力が抜けて、自然な態度で自然な距離感で頼んだ。
それを聞いたアンジェの表情も、先ほどまでより何倍も明るいものになった。
そうして、二人で一つの本を読みながら俺が分からないところを一つ一つアンジェに聞いて教えてもらう午後。その温かな時間は、アンジェとの距離を少しだけ近づけてくれたような気がした。