2.始まりの日
湿り気を帯びた深い緑の匂い。
そこかしこから聞こえてくる大小様々な動物の鳴き声。
一度見てしまえばそう簡単には忘れられないほどの緑に埋め尽くされた風景。
――ミロクの森。
面積が広く、森の中を川が横断するように流れている。それ以外は特徴がない森。
森の中は植物の採集や動物の狩りが日常的にできるほど安全な場所だ。近隣の小さな町の住人は食料集めとなれば、もっぱらこの森を訪れる。
――と、ここまでが一般的に知られているミロクの森の情報。
件の小さな町――ベルーグでは、遙か昔から語り継がれている、ある言い伝えがある。
曰く、ミロクの森には、森神と呼ばれる神様が住んでいる、そんな一説だ。
森神というものが何を指すかは分からないし、神殿や祠のような分かりやすい聖域が森の中にあるわけでもない。その上語り継がれているだけでベルーグの住民も、森神を実際に見たことがある者は皆無だ。
だがそれでも未だに根強くその伝承が残っている。それもまた事実。
その理由は単純。ミロクの森の安全性は森神あってこそということをベルーグの住民はみんな理解しているからだ。
伝承からくる漠然とした信仰心としてではない、
森神を日頃から敬っている者は多くの恩恵を預かることが出来る。
例えば、この森で迷ったとしても気づいたら町に戻れている。
例えば、生活のため必要最低限の狩りであれば怪我をすることはない。
これらは待ちが出来て以来何十年と続いている事実。そしてそれは森に害なすものに対する報復も必ずあると言うこと。
例えば、森で悪さをする者には森の動植物からの強い返礼がある。
例えば、森神への信仰心を忘れようものなら森は荒れ、いつもののどかな森が嘘のように危険な場所になるなど。
これまでの歴史なんて振り返らなくても、森神はベルーグの住民に寄り添っている近しい存在なのだ。
畏れ、恐れられている。それが森神であり、ひいては神様という存在でもある。
自然を思うがままに操れるほどの力を有している存在。もし本当に存在し、なにかしらのことで怒りに触れ、その力を暴走でもされてしまえば、間違いなく世界的な脅威になる。
だから決して森神を、いや、神を怒らせるな。その逆鱗に触れるな。さもなくば自らの身だけではなく、この世の全てが騒乱に巻き込まれてしまうだろう。
これはこの世界ならば子供でも知っている常識だ。赤ん坊の頃から言い聞かされることだし絵本にだって書いてある。
だから人々は神を信仰する。その存在が本当に実在するかなんて疑問は抱くことすらせずに。
そしてそれは、ある意味正解で、ある意味不正解だ。
なぜなら――神も、そして森神も、間違いなく存在するが、その力は絶対なんかじゃないからだ。
ズン……と、重く小さく響く音。それは重量ある何かがゆっくりと移動している音だ。
その音は不規則に間を置きながらミロクの森の中に響く。鳥の鳴き声にも負けるような小さな音だが、動物たちはその音が少しでも聞こえれば揃って逃げ出してしまう。だからこそ小さくてもその音は森に響きわたる。
その音の発生源の近くには動物は一匹もいない。幸運なことにその日は人間もいなかった。
それは本当に幸運なことだろう。
もしその音の発生源――血だらけの巨大な狼のような森神を生き物が見てしまえば、それだけで気絶してしまっていただろうから。
この世界で絶対的な存在の一体である森神。本来は3メートルほどの巨躯全身を、美しい黄金色の柔らかな体毛で包まれている狼のような姿で、その瞳は森の神であることを主張するようにどこまでも深く彩りのある緑色。他の生物であれば野性的で攻撃的に見える牙や爪でさえも、森神のものは温かさ感じる。もし人間に見られても恐れられることなどなく、間違いなく崇拝の対象になる神々しい外見だ。
だが、今の森神はそんな神の姿とはほど遠い。
美しいはずの黄金色の体毛はどこも赤黒くそまってしまっていて見る影もなく、今もなおその体の下に大量の血液を垂れ流している。体の主な外傷はあげればきりがない。何かに切りつけられたような跡、何かが突き刺さったような跡が全身にあり、何かが爆発したかのように腹の一部は黒い消し炭になっていた。
ミロクの森を写していた緑の両の目は右目が潰されて、芸術的な牙や爪はどれも砕けて痛々しい。
内蔵や筋肉、骨が遠目にも見えてしまうその姿はとてもじゃないが神とは表現できない。ゾンビやグールという言葉が最もふさわしい。
明らかに生存するために必要なものがいくつも足りていない。
いったい何があって森神はここまでの重傷を負ったのか。力ある者が重傷を負う理由、そんなもの選択肢はそう多くはない。
世界を揺るがすかもしれないほどの力を有する森神。それ以上の力を持つ者に襲撃されたのだ。
ことの発端はほんの一時間前。いつものように自然に溶け込み森を見守っていた森神の元に一人の人間が現れた。
そう、人間だ。
森神からすれば自分より圧倒的に弱い存在であり、また自分が見守るべき対象でもある、ただの人間。
どうやら自分を視認できているらしく愛想良く笑みを向けてきた。自分を見ることの出来る人間は珍しいと思ったが、ごくまれにそういった人間がいることは知っている。森神としては興味を示すほどの存在ではなかった――この時までは。
その人間がおもむろに掌を森神に向けたかと思えば、次の瞬間には森神の大きさに匹敵するほどの爆炎が森神に迫っていた。
「――っ」
声をあげる暇すらなかった。
森神は抵抗すら許されず迫り来る爆炎に飲み込まれる。だがそれだけでは終わらない。爆炎は辺りに飛び散ることも草木に燃え移ることもなく、執拗に森神だけを燃やし攻撃し続ける。その様は一度獲物に絡みついたら死ぬまで締め付け続ける大蛇を彷彿とさせる。
爆炎の元凶と思われる人間はそんな恐ろしい現象を起こしたにも関わらず、最初に浮かべていた笑みを潜め不満げにため息をつく。
「神の使いと言われるだけはありますね。これくらいじゃびくともしませんか」
森神に絡みついていた爆炎が徐々にその勢いを弱めていく。どんな炎でも燃えるためのエネルギーがなくなってしまえば消えていくのが必然だ。
そうして炎は大気中に溶けるようにして薄まっていく。それに合わせるように轟っと薄い炎を振り払い、中から無傷の森神が現れた。
まさに威風堂々。体にまとわりつく炎など気にもしないその姿は、神の名を有するに相応しい威圧感を放っている。
今程度の炎では森神に傷は付けられない。いやもっと言えば平常時の森神ならば避けるなりすぐさま反撃するなり、自分や森を害する人間を排除するため何かしらの行動に出ていた。
だが、森神は今の攻撃を受けても敵意だけを人間に向けて低く唸ることしかできないでいた。
その理由は森神のすぐそばにある。
「あら……? これは驚きました。まさか子供がいるなんて」
そう。森神のすぐ真後ろ。先ほどの炎を森神がわざと避けずに真正面から受け止めた理由。
そこには森神をそのまま小さくしたような、震え続ける子犬がいた。
森神の子供だ。
「私たち人間のように子を親が甲斐甲斐しく育てるというのは自然界ではあまり見られない光景らしいのですが……そこはさすが神ですか。美しい家族愛ですね」
森神の行動に心から感心したのか何度も頷いてみせる人間。その余裕ある話し方から森神からの敵意はまったく意に介していない。
それではまずい。
森神の現状の第一目標は子供を逃がすこと。そのためには敵の意識が自分に向いてもらわなければならない。
敵の意識を自分に向けさせつつ子供を守る。そのために自分がすべきことは。
「ガァアアアッッ!!」
森神が吠え、駆ける。
小さな人間に向かって疾駆するその構図はまさに獲物と獣。怪獣となんら遜色ないほどに巨大な獣が全力で駆けるだけでも凄まじい威圧感があるというのに、神の逆鱗をそのままに表している激昂。並の人間ならばあまりの恐怖に命の危険すらあるだろう。
だが、森神の認識はまだ甘かった。
今、目の前にいる人間相手には、何かを守るだとか、そんな形振りを構う余裕なんてどこにもなかったということを。
人間は慌てることなく再び掌を突き出した――ただし今度は森神の後ろいる子供に狙いをつけて。
それを理解できたのは人間の口元がいやらしく弧を描いたからか。
飛び出した自らの体を四本の足で強引に止める。それだけでも近くにいた人間にはハリケーン並みの突風が浴びせられているはずなのに、びくともしない。だがそんなことは森神にとってどうでもいいことだ。森神は停止する際の反動を利用し、今度は自らの子供の元へ飛び込む。
同時に子供の上空に現れる無数のまばゆい光。目を奪われるほど美しい光景だ、あまりに美しすぎて、体の震えが止まらなくなるほどに。
嫌な予感に抗うためにも、森神は必死に子供を守ろうと前足を限界まで伸ばす
光が落下し始めるのと森神が子供に覆い被さるのと、どちらが早かったか。
無数の光はその形を剣に変え無慈悲にも森神たちの元へと降り注いだ。
ザクザクザクザクザクッッッ!!!! と降り注いだ剣が突き刺さり続ける音が鳴り響く。先ほどの爆炎とは違う意味でありえない現象だ。
「家族愛、親子愛、実に素晴らしいです……でも、こんなにも手玉に取りやすく利用できるものも、なかなかないですよね」
人間は笑みを浮かべたまま剣を空から降らし続ける。その笑みは邪悪であり同時に無邪気にも感じる。まるで子供が虫の足をちぎって楽しんでいるかのような無意識の狂気。
「ふぅ……少し土を巻き上げすぎましたね。煙たくなっちゃいました」
何百何千もの剣を降り注ぐと、人間は光の剣の生成を止める。あまりの衝撃に舞い上がった土埃と森神たちがいた辺り一帯に突き刺さっている光の剣。それらは時間をかけてゆっくりと風に吹かれ流れていく。
三度姿を現す森神――ただし、今度は無傷とは言えない。いやむしろその逆。
全身に光の剣による切り傷刺し傷が浮かんでいる。無傷なのは森神の体の下で丸まっている子供だけ。
痛み、というものを感じたのはいつぶりだろうか? 森神は体に走る激痛に顔をしかめる。体に走る激痛は常に体に力を入れていないと意識を刈り取られてしまうほどのもの。こんな辛い思いをするくらいなら逃げ出してしまいたい。神であろうと人であろうとそう考えるのは必然だ。
だが……子供を守るためならば自分のことなどどうでもよくなるのも神でも人でも変わらない。
当然だ、それが親という物なのだから。
動こうとすると血が溢れてしまうが、構うものか。森神は自分の傷など一瞥もせずに自分の下で震えてしまっている子供を安心させようと優しく舌で舐める。
その光景に今度は満足いったのか笑みをさらに深くしながら人間は告げる。
「神様っていっても無敵な訳じゃないでしょう? こうやって一方的に攻撃し続ければダメージ与えられますね。こっちも心が痛むんですからさっさと死んでくださいね」
「グガァアアアアア!!!!!」
そう言って、人間は笑みを絶やさず次の攻撃手段を用意し、森神は再び人間に牙をむく。
それだけで物理的な威力を持ちそうなほどの轟音が、森に響き始める。
人間の狂気と森神の親としての意地。その戦いはどこまでも一方的で、どこまでも悲惨だった――
――そして、時間は現在に戻る。
いつ歩みを止めて死んでしまってもおかしくない森神。全身赤黒くおぞましいその姿に反して、瞳に浮かぶ色は明るい喜びの色だ。
今回の戦闘、自分の命を賭けて戦った。その対価は大きすぎるものだったが、それだけに得たものも大きい。
戦闘中どうにか襲撃者である謎の人間の目を掻い潜り子供を逃がすことができた。ただ子供の居場所を把握するほどの余裕はなかった。だから死に体に鞭打ちこうして子供の行方を捜している。
手がかりはある。森神はこの森の中であればどんな生物の生き死にも感知できる。その感覚によれば森神の位置からそう遠くない場所で一つの生命が今終わりを迎えようとしている。
それが森神の子供かは分からない。だがあの人間ではないだろう。森神はあの人間に一矢報いることはできたが、それは致命傷とまでいかないものだったからだ。
いや、もうあの人間のことなどどうでもいい。今はただ自分の子供の安否が知りたい。元気なその姿をもう一度確認したい。その純粋な親心のみが、今の森神を突き動かしていた。
押せばそのまま倒れてしまいそうなほど弱々しい足取り。痛みを堪えて足を動かす。目を閉じてしまいそうなのを堪えて足を動かす。諦めてしまいそうなのを堪えて足を動かす――そんなことを何度も何度も繰り返す。
だが、それもすぐに終わりを迎える。
必死に動いていた足が、ついに折れ、重い地響きとともに森神の体が地面に崩れた。
もう体を動かすことはできない。呼吸をすることすら億劫だ。だが、森神の心は実に穏やかだった。
森神が倒れたその少し先、そこには死にかけている生物――木の幹に捨てられている人間の赤ん坊がいた。それはつまり、この森で今死にかけているのは目の前の赤ん坊と、自分自身だけということ。
それを見た瞬間、不謹慎ながらも森神はこう思ってしまった。
――あぁ、満足だ、と。
神の一体としてであれば、自分の子供を守るだけで満足するなどもっての外だ。自らのことを信仰してくれている大勢の人間を切り捨て自らの目標を優先するのだから。
それは十分に理解している。誰に非難されても甘んじて受け入れよう。それでも、森神はこう思うのだ。
あの子を助けられてよかったと。
これから自分の子供がどういう道のりを歩んでいくのかは分からない
楽しく平和な毎日かもしれないし、辛く険しい道かもしれない。森神である自分でも予想のつかない不思議な毎日かもしれない。未来のことは神である森神にも分からない。
だが、その分からない未来を守ることができたのが、森神は何よりも嬉しかった。
もちろん、未練がないと言えば嘘になる。
やはり子供の成長は自分の目で見ていたかったし、それができなくてもせめて死ぬ前にもう一度自分の子を抱きしめてやりかったが、それも今となっては無理だ。
大きく体を膨らませ深呼吸する。
森神は自分の首筋に死神の鎌が当てられていることに気がついていた。このまま時間の経過を待つだけでもその鎌は森神の命を絶つだろう。
あとはもう子供の幸せを願うだけ……だが、神様の性質としてか、ふと今更ながらに、目の前にいる死にかけの赤ん坊のことが気になった。
こんな森深くに置き去り、いや、捨てられているということは親から見捨てられたのだろう。
この赤ん坊にも、分からない未来は存在しているというのに、だ。
「……」
この森には森神がいるということから、こう言った捨て子はほとんど見られない。森神自身捨て子というものは初めて見たほどだ。
赤ん坊は既に衰弱しきっていて呼吸も浅い。森神と同じく放っておいても息を引き取るだろう。
自分の子供を守って死んでいく自分の目の前にいる、同じく死にそうな敵の赤ん坊。
妙な縁もあったものだ。
「……――っ」
迷いはしなかった。
自分は親だが、やはり神でもあるのだ。
目の前に理不尽に死にゆく命があれば、救いの手を差し伸べる。どんな理由があったとしても、子供の未来を奪うことは間違っているのだ。
森神の体はもう動かない。だから、体力とは違う力を体内で動かす。それは皮肉にもあの襲撃者と同じ力。
深く、息をはく。
それに合わせて細胞に残った僅かな力一つ一つを全てかき集め、体の中心で混ぜ合わせまとめていく感覚。
その感覚が高まっていくにつれて、森神の体が淡い発光を始めた。
最初は狭く、徐々に広く。
その光はあらゆるものを飲み込み包んでいく。森神の体が触れている草、近くにある大きな石、少し離れた場所に横たわっている大木。
全てを温かく包み込むその光。それはまさに神が発する聖なる光。
そしてついに、その光は赤ん坊の体をも包み込む。
大丈夫だ、そう難しいことではない。いつもやっていることと同じだ。それにこのまま放っておいてもどうせ互いに死ぬのだ。自分の未来はもう決まっている。
森神は口元に笑みを浮かべる。それだけでも口からは大量の血が溢れてきたが、森神の表情はやはりどこか明るい。
森神と赤ん坊を包む光はさらにその光度を増していく。もはや目を開けていられないほどだ。
その光を見て、森神は終わりの時を感じ取る。
これから何かが終わり、何かが始まる。
それはこの世界に大きな影響を与えるようなものじゃないだろう。森神自身そんな影響は望んでなどいない。
ただ、ささやかな願いとして。
自分の子供と、この赤ん坊。その両方の小さな幸せだけを最期のその瞬間まで祈って――
――そして、光が弾けた。