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ヘルマン先生はわたしが電報を送っている合間にも、いくらかの聞き込みをして情報を集めていました。
それから、キエルの町を出発したわたしたちは、西に針路をとって馬車屋の行方を追いました。その旅路は電信線を追うのに等しい、なだらかな道でした。等間隔に並ぶ電信柱には注意書きの張り紙があります。
「メリーくん。この印がしてある記事をメモしておいてください」
先生は運転中、思い出したように新聞をわたしに渡しました。
それは一九二四年六月二四日、つまり、今日発行のタブロイド紙でした。新聞は小さく折りたたまれていましたが、印をされている記事が表にあったのですぐにわかりました。
『自由の国でマフィア組織を摘発。担当捜査官マグラリー・バッジは麻薬及び酒類の出所を暴き、現在そのルートを捜査中。買取業者の検挙も時間の問題だろう』
国際欄に書かれていた記事である。
わたしにはこのことが今回の事件と何の関係があるのか、まだわかりませんでした。
午後三時を過ぎて最初の町、ヴェルバーに到着し、三両の馬車屋を見たという話を伺うことが出来ました。電信所でも、三日前に電報を依頼した人物がいたことが明らかになります。
小さな町です。農耕をしている方々がほとんどでして、人の出入りはめっきり減ったことも電信所の通信士さんは話してくださり、印象に残っていたそうです。
「人相や服装は覚えておいででしょうか?」
ヘルマン先生がこう質問をしますと通信士の方は気さくに言います。
「頬のこけた男でしたよ。酷く痩せてて……。背はあなたより一寸低いくらいで、それからそう、山羊のような顎鬚を蓄えておいででしたな」
「表に馬車などはございましたか?」
「ああ、よぉく覚えておりますとも。立派な重種の馬三頭と荷車三両。実に力強い馬でしたな」
わたしはそれを聞いて、はたとヘルマン先生の顔を窺ったのをよく覚えています。
その時の先生はとにかく殊勝な顔をしていらして。
「メリーくん。間違いなく、馬車屋はここを通過した。彼の紳士や水夫が話してくれた通りです」
ヘルマン先生にとってこれは大きな収穫でした。
行方知れずの『サンドラット社』は間違いなくヴェルバーを訪れて出立したのです。
わたしたちもすぐに出発しました。その道中は明るく、心なしか『イーゼッタ二号』も速度を上げている気がしました。
しかし、捜査は一日してならず。
わたしたちは港湾都市として賑わうハンバートンで夕食を調達し、電信柱を眺めるようにして西へと進んでいきます。その電信柱もヴェルバーの道中に見かけたものとは打って変わって、怪しげな広告が目につくようになりました。
わたしは不安で暮れていく空が重苦しく感じました。さっきまでの浮き足立った気分も、進んでいくほどに萎んでいったのです。
そして、バンズには夕日も傾き始めた頃に着いたのですが、ここが難所でした。
地元の駐屯兵たちが検問を敷いていたのです。黒い兜で頭をすっぽりと隠し、ダッフルコートで身を包んだ検問兵たちは、わたしたちが乗る『イーゼッタ二号』を心底怪しんだのは当然です。
「どこから来た?」
「キエルの町から。ちょっとした尋ね人を探しにね」
ヘルマン先生は天蓋カバーを開けると、腰を浮かせました。それで上半身は外に出て、屈みこんでいた検問兵も背を正しました。
「キエル? あんな遠いところからわざわざ……」
「この車、見たことないが?」
両脇を固める検問兵は『イーゼッタ二号』に興味があるようでした。
「ああ、無理もありません。試作車なもので」
「ベンツか、それともフォード?」
「航空メーカーのものさ。今はまだ名を知られていないようですがね」
ヘルマン先生の話に検問兵は納得したようにうなずきました。
わたしにはこういった機械の話は疎く、彼らが口にした名が自動車屋であったことはのちに知るのでした。
先生は名刺を差し出して、タバコをふかしました。
「つかのこと伺いますが、最近馬車屋がここを通りませんでしたか? ぼくらのように北の方から」
「さて、通行証を持った連中の出入りはよくある。馬車屋だっていくらか通ったね」
「その中に樽をいっぱいに積んだ荷馬車はありましたか? 『サンドラット社』という三両編成なんですが」
「そこまでは覚えていない。俺たちだって交代でここをやってる。なぁ?」
「そうとも」
検問兵の一人が相方に同意を求めると、片側の兵隊さんもうなずいた。
ヘルマン先生は視線を泳がせて、言葉を探るように口を開きました。
「では……、そう、そうですね……。ここで、もし怪しげなものを発見したりしたら、しょっぴかれるわけでしょう?」
「ああ、もちろんとも。我々はその点、目も鼻も利く。その荷馬車は何か危険物でも積んでいたのか?」
「いいえ、ぼくらには全くの無害なのです。だというのに、行方知れずになってしまったんで、探しているというわけです」
「そうか。それは一大事だ。しかし、我々も多忙なために人時を割くことはできないので、ご勘弁を」
ヘルマン先生は片手を上げて、答えました。それから後ろの方を向いたので、わたしも後ろの様子を窺いました。
ちょうど駅馬車が大きな車を引いて近づいてくるではありませんか。
「では、ぼくらはこの辺で失礼してもよろしいですかな?」
「いや、すまないが、そちらの方に回って持ち物検査にご協力願えますか」
検問兵は生真面目に言って、町の入り口付近にあるテントを指さした。
ヘルマン先生は肩をすくめて彼らの指示に従い、『イーゼッタ二号』を移動させて持ち物検査を受けるはめになってしまったのです。
その検査というのも逐一説明をしなければなりませんでした。中でもトランクに入っていました拳銃については小一時間はたっぷり質問攻めにあったので、わたしはもうへとへとでした。
町を脱したときには日は落ちて暗くなってしまいました。
しかし、ここで宿をとるのも危ないとヘルマン先生はタバコに火をつけて、『イーゼッタ二号』をヴェルヒェに向けて発進させました。
「あれが黒兜団ですか? あんなにしつこいとは思いませんでした」
「彼らにとってみれば、生活のよりどころです。空軍がなくなって、おまけに多くの将校が職を失ったわけですから」
「軍人さんはほかの生活を知らないのでしょうか?」
「教養を積んだ人たちは、ひとたびその味を知れば、ただの被雇用者にはなりきれないのです」
もともとヘルマン先生は退役軍人です。
軍の内情を少なからず知る先生の口振りは同情的でした。噂の一団の過激な活動を批判する一方で、どこかやりきれない様子がうかがえました。
この日の夜は月明かりが美しく輝き、周囲の様子が見て取れ、ヘルマン先生の青白く冷淡な表情を見えました。
ヘッドライトが照らす馬車道。黒い影の電信柱に電信線。なだらかな丘陵が続く風景は普段では見えてこない情感があります。
車内で夕食に買っていたライ麦パンとチーズのお弁当を食べていると、いよいよヴェルヒェの明かりが見えてきました。
「宿があればいいんですがね……」
町はすでに静まり返っていまして、民家から漏れる明かりも弱々しいものでした。
その中で二回りは大きい家が見えて、宿屋の看板を掲げていました。時間を見れば、夜の一〇時になろうという時間でした。
わたしたちは『イーゼッタ二号』を宿屋近くに止めて、門戸を叩きました。
すると、人のよさそうな店主さんが出迎えてくださり、一晩の寝床を貸していただけることになりました。
「新婚ですかな?」
店主さんはニコニコと笑みを浮かべて、火のついた燭台とフックのついた棒を手に二階へ案内してくれます。
「いいえ、親戚のようなものですよ」
ヘルマン先生はそう返して、案内された部屋を見渡しました。
店主さんが天井につるされているランタンを棒で取って火をつけたところで、困った顔を浮かべました。
「それでしたら、もう一部屋ご用意いたしますか? なにぶん狭い部屋ですので、ベッドもご覧のとおり一つしかございません」
その質問にヘルマン先生は遅れて入ってきたわたしに目配せして確認を取りました。
わたしはとくに勘ぐることなく首を縦に振って、ベッドの方へ。
「いえ、この一部屋で結構です。ただ毛布と水をご用意願えますか」
「かしこまりました。では、ストーブの火も焚きましょう」
店主は部屋の中央にある円柱型の薪ストーブを開けて、そばにあった小枝や薪をくべていきます。
「いはや、助かります。この辺りは平穏そうでようやっと休めます」
「ええ、ええ、そうですとも。一揆だのなんだのと、噂が絶えないのですが、この町は違いますよ」
そうでしょうとも、と先生は言って窓際にあります胡坐椅子に腰かけました。
わたしは荷物をベットの傍に置いて夜風にあたろうと、もう一つの窓へと歩み寄りました。
「ちょいと物騒な話はここに来る前に見てきましたから。この町の静けさを思うと、ご主人の言葉は真実なのでしょう」
「嫌ですね。また、戦争になるんですかねぇ?」
「そうならないことを願うばかりですよ」
世間話を耳にしながら窓を開けて、わたしは夜空をぼんやりと眺めます。
今日一日を思い返しながら、疲労感にふと頭を下げました。と、ちょうど宿屋の前に影法師が一つ見えました。月明かりの濃い影はぴくりとも動かず、じっと佇んでいます。
わたしはその主の方へ視線を上げてみると、フードですっぽりと顔を隠した御仁がいらっしゃいました。
「……?」
「ご主人、最近はどうです? 人などは来るものですか?」
ヘルマン先生の質問に店主さんは「ええ、来ましたよ」と答えました。
マッチを擦る音とストーブの窓が閉まる音が嫌に頭に余韻を残します。
「珍しいもので荷馬車が三両。古臭い行商人かとも思ったんですがね、すぐに町を出ていきまして」
「ご主人、その話を詳しく聴かせていただけますか?」
先生が食い入るように質問するのと、外の御仁が顔を上げたのはほとんど同じでした。
「それならここに残った一人に聞いてみた方が早いよ。なんでも、電報を待ってるとかって……」
わたしは月明かりに照らされた御仁の顔を見て、目を疑いました。
長い顎鬚にこけた頬。そして、その瞳がはっきりとわたしと出会ったのですから、驚かずにはいられません。
「先生っ! 外にコルトー氏がいます!」
わたしが窓から先生の方へ振り向くと、ヘルマン先生は表情を硬くして胡坐椅子から跳び上がったように走り出しました。
「メリーくんは窓から見張ってくれ!」
「ちょっと、お客さん!」
店主さんの驚く声を背にして、ヘルマン先生は猛然と部屋をかけ出て階段を下る音がけたたましく響きました。
わたしは言われた通り外へ目を向けると、コルトー氏と思しき人物も背を向けて走り出していました。
しかし、玄関を飛び出したヘルマン先生の速いこと。あっという間に怪人の背を見つけて、迫ると捕まえてしまいました。
「お客さん、何なんです?」
店主さんがわたしに並んで窓の外を見ました。
そのころにはヘルマン先生はコルトー氏と思しき人物の腕を引いて、宿屋へと戻ってきます。