後編
結局は眠りも、深羽を救ってはくれなかった。
普段よりも遅い朝を迎えても、彼女はひどく沈んだ気分を纏っていた。まともに授業を受ける気力も湧かず、ただぼうっとして時間を潰す。そして、部活動があるわけでもないのに、帰宅時間ぎりぎりまで学校に居残った。
そして彼女が学校を後にしたのは、奇しくも昨日とほぼ同じ時間だった。等間隔に立ち並ぶ街灯と家の窓だけが光を投げかけるだけになった路地を歩く。やはり昨日と同じく、とうに日は暮れていた。ただ、ここに来れば何かがあるかもしれない、そう思ったのだ。
「ふふ、こんばんは」
そして昨日と同じように足を止めると、少女は唐突に現れた。夜の帳に輝く、大粒のアイオライトのように碧い瞳が深羽を見つめる。
深羽はその瞳を見て、無意識下にある欲望を抱いた。その美しい瞳を刳り抜いてしまいたい。いや、彼女を掠って私だけのものにしたい。
瞬間、狂気そのものとしか形容のできない感情に、思わず怖気を覚えた。
そして、唐突に気がついた。余人をもって狂気じみた感情さえ抱かせる彼女になれるのなら、私は誰にも忘れられはしない。母に、父に、クラスメイトに、そして大好きな兄が、私を、忘れないでいてくれる。
「やっと見つけたのに、いなくならなくてよかった。お願いは、決まった?」
その言葉に、深羽は頷いた。少女は無言で、次の言葉を促す。
「……貴女に、なりたい。忘れられたく、ない」
「いいよ……。叶えてあげる」
微かに震える深羽に、少女は莞爾と微笑んでみせた。美しく儚げな、この世のものとは思われないほどの微笑。深羽はその言葉に歓喜した。
捨てられたくない、忘れられたくない。そんな強迫観念から逃れられるのだ。それは夢であってもいい、それはどれだけ素晴らしく、また心地のいいことだろう。
不意に少女の小さな両腕が、深羽の首筋に伸ばされる。身体が触れ合わんばかりに近づいても、彼女の腕は深羽の首筋に届かない。それを見かねた深羽が少し身体を前に傾げると、少女の顔は喜色に歪んだ。その笑みは、妖しいほどに美しい。背筋が思わず震える。
「嬉しい、とっても嬉しい……。ねぇ、抱きしめて……?」
言葉の通り、ひどく嬉しそうな少女の声。深羽は言われるがまま、その細い身体に腕を回す。少しでも力を込めればたやすく折れてしまいそうな、小さく華奢な身体。
「絶対に、絶対に離さないで」
少女の唇が、甘い束縛の言葉を紡いだ。甘く蕩けるような音色が、深羽の首筋を擽った。もはや微かに空いた隙間でさえじれったい。壊れてしまっても構うものかと、深羽は強くその身体を抱きしめた。互いの体温が、鼓動が互いに共有される。
「ありがとう……」
薄桃に色づいた果実が、深羽に触れる。彼女の知らない、甘く柔らかい妙味に溺れるのは一瞬だった。
禁断の果実というのはこんな味がするのだろうかと、ぼやけていく意識の中で深羽は思い、そして途切れた。
意識が醒めると、身体がひどく軽く感じた。背に羽根でも生えたのかと思うくらいに爽やかで、知らないうちに足はスキップを踏んでいる。だからなのか、いつもよりずっと早く家に着いた。鍵を開けるのももどかしくドアを開けると、出迎えに来てくれたらしい兄が廊下に立っていた。
「ただいま、お兄ちゃん」
彼は驚いた様子で、目の前の少女を見ていた。彼の知る深羽はショートの黒髪と黒目の、いたって普通の少女だったのだろう。
だけど彼を兄と呼んだ少女から、その印象はほとんど消えていた。
顔立ちこそ面影を残してはいるけれど、黒く短かったはずの髪は銀色となって地面につかんばかりに伸び、瞳はまるで海底を思わせる深い蒼色をしていた。そして何よりも印象を変えていたのは、口許に浮かぶに無垢な笑み。
「お、お前は、誰だ……?」
想像の範疇を越える事態に、膝が笑っているのを彼は自覚した。彼の知っている深羽はもっと優しく闊達とした笑みを見せるはずで、こんな飢えた獣のような壊れた笑い方はしない、はずだった。
「何を、言っているの……? 私だよ? 深羽だよ、お兄ちゃん……」
「ち、違う」
「違わない。違わないよ、お兄ちゃん。何も、違わないよ。いつもみたいに、お帰りって言って……?」
靴を脱ぐことを失念しているのか、彼女は土足のまま床に上がった。フローリングに響いた、ひどく大きく硬い足音に、彼は思わず後ずさる。
「お兄ちゃん……?」
こつり。また一歩、少女が床を踏む。
「く、来るな……っ」
「どうして……、どうしてそんなことを言うの? ……私を、忘れてしまったの?」
とうとう、少女はその碧い瞳から一滴の涙を零した。その顔に浮かんでいた笑みが崩れ、透明の宝石のような涙が、白い肌から滑り落ちる。
「嫌、嫌、イヤ、イヤだよ……。忘れないで、私を、忘れないで……」
ふらついているのか、足音が一際大きく響く。そしてそのままもたれ掛かるように、少女は兄を床に組み伏せた。
こいつは深羽じゃない、深羽を騙ったタチの悪い何かだと彼は信じていた。しかし突き飛ばそうとは試みても、身体はまるで言うことを聞こうとしない。かろうじて突き出した両腕が、彼女を身体に触れさせることを拒んでいるばかりだった。そのせめぎ合いのさなかにも、大きな瑠璃の瞳が熱を帯びた視線を向けている。まるでその瞳の映す全ての事物を、記憶に焼き付かせるように。
「何でも、いいの……」
そして涙を零したままの瞳が、笑みを作る。精緻な人形を思わせるその表情は見とれるほどに、鈴の転がるような軽やかな声はこんな状況でなければ聞き惚れてしまうほどに、美しい。
しかし彼を襲ったのは、形容のし難い怖気だった。驚くほど華奢で白い腕が、仰臥する彼の首元に伸ばされるのが見える。このままでは危険だと意識は訴えてくるのだが、不思議と身体はもう何一つ動かない。
「わたしを、覚えて、いて……。お兄ちゃん」
首筋に触れた手は、ひどく冷たかった。彼が無意識に感じていた危険を示すように、ゆっくりと喉が圧迫されていく。朦朧としながら意志が消えていく直前、彼は少女の瞳から零れるもう一滴の涙を見た。
そうして、どれだけの時が経ったのかは分からなかった。ただ一つ深羽が理解したことは、兄がいつしか眠ってしまったように動かなくなったことだった。それに気づいた彼女は、思い切り掴んでいた両手を離す。
「お兄ちゃん、大好き……」
ぴくりともしない彼の厚い胸板に、深羽は顔を埋めた。いつも優しくて格好よかった兄が、彼女は大好きだった。だからこそ、彼には忘れられたくなかった。頬を擦り寄せ、髪を絡める。手で撫でて、唇を近寄せた。何一つ忘れないために、深羽は彼の身体に触れる。
ふと耳を澄ませると、外から靴音が聞こえた。閉めるのを怠ったから、玄関のドアは開きっぱなしになっている。それに気づいたのか足音は急に早くなり、兄と深羽の名前を呼ぶ聞き覚えのある声がした。
「お母さんの、声……」
そう呟いた時、大きな足音が背後で響く。そして脇腹と背中への鋭い痛みと、一瞬だけ身体が浮き上がる感覚、そして床に叩きつけられたと同時に伴う凄まじい苦痛。
お腹を蹴られたのだと気づかないうちから、深羽の瞳は涙を流していた。お母さんは私を私と気づいてくれない。私の名前を呼んでいるのに、私はここにいるのに。
「お母さん……」
また一筋、涙が頬を伝う。どうして気づいてくれないのかと深羽は呆然としながら、母を怨嗟していた。
側で横になっている兄を起こそうとしていることだけは理解できたが、どうやら兄は目を覚まさないらしい。必然的に母の矛先は蹴り飛ばされた深羽に向かう。
「深羽を、深月を返してっ!」
母は髪を掴んで彼女を引き起こした。頭皮と首が引きつれて痛む。母の顔は修羅のような表情を浮かべていて、ひどく恐ろしかった。
「わたしはここだよ、おかあさ、ん……っ!?」
何故、そう言うのだろう。私は深羽なのに。そんな弁明をしようとして、しかしそれさえ言い終わらないうちに、深羽は口の中に血の味を感じた。殴られたのだ、しかも口の中を切るほどに強く。
それをきっかけに、何かが少女の心の中で切れてしまった。誰も覚えてくれないのなら、これでは何もかも無価値ではないか。
もう一度襟首を持ち上げられて視線の合ったとき、少女の手が母親の首を掴み、その細い指先から考えられないような膂力で喉を潰した。無感動なまでに淡々と行われる行為をよそに、少女は眼前で母親が苦悶の表情を浮かべていることさえ見えずに、菫青石の瞳から大粒の涙を流して、ただ人形のように冷たく笑っていた。