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前編

「あーあ、もう日が暮れてる……。って、もう七時十分前なの?! 急がないと……!」

 空を見上げて嘆きながら、新堂深羽(しんどうみう)は後輩というだけで他人を雑用に散々こき使ってくれた、意地汚そうな細面のテニス部の先輩の顔を思い出す。そして絶対に許してやるものかと、念入りに心に誓った。

 おかげで、毎週楽しみにしているドラマが始まるまで幾ばくの余裕もないのだ。教科書の詰まった鞄と、部活動で使う道具一式と着替えを押し込んだサブバックを肩にかけ、それまで走っていた駅前の大通りから住宅地を縫うように走る細い道へ入っていく。

 日頃から部活にはまめに参加して体力にはそれなりの自信はあるが、大きな鞄を二つも抱えて走り続けるのはやはり辛い。深羽は時間に一抹の余裕があることを確認して、家からそれなりに近い街灯の下で小休止することにした。

 鞄のストラップが胸を圧迫しているのか、いつも以上に息が苦しい。荒い呼吸と火照る身体を落ち着けようと、俯いて幾度か深呼吸をする。それでどうにか身体をなだめすかして、再び顔を上げたとき。

 刹那、夜闇から、鈴を転がしたように可愛らしい声が、聴覚を包んだ。

「やっと、みつけた」

 なぜか安堵の篭る声だった。何の理由もないが、深羽にはそれが莞爾と微笑んだように感じた。あからさまな敵意はないはずなのに、思わず怖気を覚えて振り向くと、それは街灯の白い光に照らされていた。

 夜空に大きく輝く満月を、まるで飲み込んでしまったようにぱっちりと見開かれた碧い瞳が、他の全てを霞ませるほどに印象的だった。それを物憂げに縁取る長く繊細な睫毛と、同じ白金に輝く流れる水のように艶やかな髪。小さく愛らしい薄桃の唇は瑞々しい果実を連想させて、真っすぐに通った鼻梁が華やかさに端正な人形のような趣さえ与えている。その肌は夜目にも分かるほど、白く透き通っていた。まるで病院着のようなシンプルな白のワンピースを着た彼女は、女子としてごく普通背丈である深羽の胸元に留まるほどの、小さな体躯しかない。

 あきたきりの例えが許されるのなら、妖精のような可憐さと、危うさを感じさせた。触れることすら躊躇してしまいそうなぐらい華奢かつ繊細で、何かの絵画からでも抜け出して来たようにさえ錯覚してしまう。その大きな瞳にじっと見つめられたまま、深羽は動くことも叫ぶこともできなかった。

「こんばんは」

 街灯の下で動けなくなってしまった深羽の腕を、少女は迷いなく手に取る。まるで蔦が纏わりつくような、優しいけれど毅然とした意思が存在する、繊細なガラス細工のように細い指。それを振りほどくこうという試みに、深羽は得体のしれない恐怖にかられて躊躇った。

「貴女が、私のことを見つけてくれたの……」

 少女は何を考えているのだろう、そんなことなど深羽には思いつきもしなかったが、不意に深羽の手を取って、ゆっくりと口許に近寄せた。少女は微笑んだまま、瞼を閉じて指先を唇に含む。

 ぬるりとした生暖かい感覚が、深羽の指を包んだ。思わず鳥肌が立ったが、身体は金縛りにあったように動かない。このまま指を噛み切られるかもしれない、そんな有り得ないはずの恐怖に怯える深羽に、少女は構わず、聞き惚れてしまいそうな美しい声で語りかける。

「貴女の願いを聞かせて? 一つだけ、何だって叶えてあげる」

 少女の声音は心なしか、楽しんでいるようにも聞こえた。少女の唇に囚われた指に舌が絡みついて、まるで愛しあっているかのように丹念に、そして深羽を弄ぶように舐める。

 指先を犯されているような行為は奇妙で、恐ろしくて、だけどどこかが疼くような感覚がする。それは経験したことがあるようでいて、経験したのはどこであったかは思い出せない。そればかりが気になって、膝が笑いだしたことも、吐き出す吐息の熱っぽさにも深羽は気づけなかった。

 そうされてどれだけの時が経ったのかさえ、判然としなかった。ただ、少女はまるで幻か何かだったように、微かな笑い声と言葉だけを残して掻き消える。

「ふふ。明日、また会いましょう……?」

 終わってしまった。そう理解すると、深羽は道路の上にだらしなくお尻をついた。見たかったはずのドラマが始まる七時はとうに過ぎていて、指先は透明な液体で濡れている。

 それは幻ではなかったことを証明するのと同時に、深羽の心を縛りつけるには十分すぎるほどの刺激だった。疲労のせいか、深羽は普段に倍して重く感じる鞄を抱え直した。


 学業も運動も、新堂深羽は何もかもが凡庸な人間だった。部活動としてテニスをやってはいるものの、それだって成績は真ん中。決して下手ではないにしろ、試合に出られるほどの技術はない。容姿や嗜好も至って普通であったし、誰かと比較されれば簡単に霞んでしまう。

 だから彼女は怯えていた、そして恐ろしかった。何をしても一番にはなれない、中途半端に引っ掛かっているだけの自分。いつか私は忘れられてしまうのだろう、そう思うたびに、深羽は不安でたまらなかった。

「どうしたの、深羽? 取るなら取りなさい、行儀が悪いわ」

「あ、うん……」

 母の言葉で、どうやら呆けていたらしいと深羽は気づいた。現実に引き戻された深羽は食事を再開しながら、食卓を無意識に伺った。母は深羽にそれだけを言うと、既に空けられていた父のコップにビールを注いでやる。受け取った父は上機嫌そうに赤い顔を綻ばせて、兄や母に職場での自慢話をして聞かせていた。それを母はときどき相槌を打ち、兄は苦笑しながらも受け答えする。

 その時、深羽はひどく深い寂寥感に捕われた。何故だか家族なのに、自分の除いた自分の家族が他人のように見えた。

「何か一つだけ、何だって叶えてあげる」

 そして、あの少女の声が頭にこびりついて、離れようとしてくれない。

 彼女の箸の先端に摘まれた豚の生姜焼き。仮にそれらを食べることを忌避し続けるなら、深羽の身体はそう遠くない未来にその生命を燃やし尽くすだろう。だから深羽は生きるために必要としている。だが、いつかはそれを必要としていてもしていなくても、時が経てば忘れられて、捨てられていくのではないだろうか。

 深羽には、それがひどく悲しく思えた。そしてそう思うだけで、捨てられたくない、忘れられたくないと心がひどく軋んだ。

 そそくさと食事を終えると、深羽は家族から逃げるように部屋へ引きこもった。何かをするほどの気力もなく、着替えもせずにベッドに寝転ぶ。

 天井の照明でさえも、ひどく目に刺さるように感じた。深羽は電気を消してしまうと、布団に包まった。そしていつしか、深羽の意識は泥のような眠りの中に引き込まれていった。

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