【三題噺】手と手
なにがどうしたのだろう。
やけに暗くて狭い。視界の中には黒と、かすかな赤しかない。上を見上げてみると、細い長方形の光が見えた。
どうやら僕はどこかに落ちたらしい。
それもひどく高低差のある、谷間のようなところに。
持っていた通勤鞄も、携帯もない。下ろしたばかりの靴なんて片方なくなっている。
この赤は僕の血液か。それにしてはどこにも痛みなどない。僕は左の壁に手をついてふらふらと歩き始めた。どうやらこの谷は、長く続いているらしい。
どれほど歩いただろう。左手の感覚はなくなり、足は鉛のように重くなってきた。まるで地獄に続く淵だ。暗い、暗い闇を、僕は当てもなく彷徨う。
ふ、と何かに誘われるように後ろを見た。
「…………鈴蘭?」
僕の影が落ちるべき場所に、踏みしめてきた足跡に、凛と咲く白い花があった。鈴のような花……間違いない。鈴蘭だ。淵の中、光るように咲く花の名を、僕は口にしながらまた歩き出す。
「鈴蘭……君影草…………谷間の、姫百合……」
鈴蘭の別名をどうしてこんなに知っているのだろう。
分からない。
分からないが、僕は順繰りに名前を紡ぎ、歩き続ける。赤が黒に溶けていく。黒が僕の肌を塗り潰していく。それでも僕は、なぜだか足を止めることができなかった。まるで何かに呼ばれているように、僕は歩き続ける。
僕の目は光を見た。
鈴蘭だ。
僕の後ろにしか咲かなかった鈴蘭が、道行く僕の目の前に、山のように咲いているのだ。
僕は駆け出した。
縺れる足ももどかしく、転がるように走った。
分かったのだ。あれが僕を呼んでいたと。
「ああ……ずっと待っていてくれたんだね」
僕は鈴蘭の花を一つ摘み取り、口に入れた。
水島は一人、屋上で煙を吐いた。
嫌な事件だった。
林道で起きた事故は八台もの車を巻き込んだ。最も凄惨な事実は、社会科見学に行く途中だった小学生たちを残らず死に追いやったことだった。崖下で見つかったバス内には三十二人の児童達が惨たらしい遺体で発見された。現場検証に当たった水島は、一月経った今でも子供たちの手を夢に見る。
「こんなところにいたんですか」
後輩刑事の高橋が缶珈琲を片手に近寄ってきた。煙草の灰はいつの間にかフィルターにまで迫ってきている。水島は無造作に出した携帯灰皿に煙草をねじ込んだ。受け取った珈琲はすでに温くなっていた。
「ようやく終わった、な……」
水島は先程見た遺体を思い出した。児童を引率していた教師の遺体が、一ヶ月経った今日、崖下の落ち葉の下から発見された。きのこ狩りに来ていた老人の通報だった。
「穏やかな顔でしたね……信じられないくらい……」
形が変わるほど強く打ち付けられた頭、どす黒く変色した血に濡れた彼は、笑って死んでいたのだから。
「それにしてもなぜ……なぜ彼は、」
高橋の言葉を水島は制止した。聞きたくはなかった。それは捜査員誰もが疑問に思い、且つ触れたくないと思っている事実。
落ち葉の下、教師の左手だけが土に埋まっていた。そしてその手を握る、誰かの白い骨。
明らかに事故以前に死んだ、何年も前の骨が、刑事達は恐ろしかった。
雪のように白いそれが、しっかりと死んだ教師の手を握って埋まっていたのだから。
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