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第1章

 今日、俺は会社をクビになった。

 いや…「クビになる」といったほうが正しいのかもしれない。

 理由は簡単だ。

 今日、俺は社長をぶん殴ったのだ。

 そして、そのまま会社を飛び出した。

 だから、直接誰かにクビを言い渡された訳ではないのだが、社長を殴ったのだからタダで済むはずがない。

 俺が会社を飛び出してから1時間が経とうとしている。

 今頃、会社では俺の処分がとっくに下されていることだろう。

「春山アキラをクビにしろーっ!!」真っ赤な顔で怒鳴っている社長の姿が目に浮かぶようだ。

 クビだけで済めばいいが、もしかすると傷害罪で訴えられたりして…。

 そんな不安も一瞬頭をよぎった。社長あいつならやりかねない。

 まぁ…もしそうなったら、その時はその時だ。

 それにしても…

 あれから1時間も経つというのに俺のケータイは沈黙したままだ。

 あのとき、社内ではかなりの人間が一部始終を目撃していたはずなのに誰も連絡してこないのはどういうことなのか?

 あの会社に俺のことを心配してくれるような『友』がいないことは最初から分かっているが、1人ぐらい連絡してきてもいいのではないか?

 ま、別に心配して欲しい訳じゃないけど…。

 それにしても夏樹だけは、すぐに電話してくると思っていたのだが…。


 夏樹雄介は、俺とは同期入社で同僚だった男だ。

『だった』というのは…夏樹は、半年前に突然課長に昇進して“同僚”から“上司”になったのだ。

 ついこの前まで一緒に飲み歩き、釣りや競馬に行っていた同僚が、今は俺の直属の上司だ。

 夏樹の課長昇進は、異例中の異例の大出世だった。

 俺は、そういう話には鈍感なのだが20代半ばで課長に昇進というのは普通では有り得ない話なのだそうだ。

 入社以来、俺のことを『アキラ』と呼び捨てにしていた夏樹は、課長になった途端『春山さん』と名字で、しかも『さん付け』で呼ぶようになった。

「春山さん、この書類だけど…」

「春山さん、あの件だけど…」

「春山さん、はるやまさん、ハルヤマサン…」

 夏樹に『春山さん』と呼ばれる度に俺は寒気がした。

 夏樹は俺のことを『さん付け』で呼ぶようになったが、俺は相変わらず奴のことを『夏樹』と呼び捨てにしている。

 以前は俺と同じように夏樹と呼んでいた周りの連中は、途端に『夏樹さん』とか『夏樹課長』と呼び方を変えたがこれが社会のルールなのだろうか…。連中の適応力の良さには感心する。

 俺にしてみれば、『夏樹』は『夏樹』であって、それ以上でもそれ以下でもない。


 あの日―

 夏樹の昇進の辞令が出た日以来、あいつと俺は仕事のこと以外ほとんど話さなくなった。

 もちろん飲みに行くことも釣りや競馬に行くこともなくなった。

 確かに夏樹は入社した頃から同期の中では、抜きん出た存在だった。だが、夏樹がこの若さで先輩たちを差し置いて課長になれたのは、夏樹が単に優秀だったからではない。要するに、上司に取り入るのが上手かったのだと俺はそう思っている。

 所詮、世の中そんなものだ。

 いくら頑張って働いても、上司に気に入られなければ出世なんて夢の話…。

 努力だけでのし上がれるほど今の世の中、そう甘くは無いということだ。

 俺は、昔からそういうことは苦手だった。

 俺は、他人のご機嫌を取ったり、話を合わせることが出来ない人間だが夏樹は違う。夏樹は、上司の命令には素直に従ったし、いつも期待以上の成果を挙げた。

 何より、夏樹は社交的な人間だ。

 そこのところは俺とは決定的に違う。

 上司に誘われればいつでも酒を飲みに行くし、仕事以外のどんな話題にもそれなりに対応できる。

 上司に可愛がられる人間とは、夏樹のようなタイプのことを言うのだろう。

 その点、俺はどうだ。上司に「ちょっと一杯行くか?」と誘われても「すいません、今日はちょっと予定があって…」と、5回に4回は確実に断っている。もちろん、予定などない。面倒なだけだ。

 愛想笑いして上司のご機嫌を窺いながら飲む酒ほど不味いものはない。

「そうかぁ、残念だな…夏樹はどうだ?」そんな時、上司達は必ず次に夏樹に声をかける。もちろん夏樹は一発でOKする。上司も満足そうな顔をする。

 上司の連中だって恐らく初めから、俺と飲みに行きたいとは思っていないのだろう。元々、夏樹を誘うつもりで、俺には社交辞令で声をかけた…というのが何となく分かっていたので、断るのが礼儀の様な気もしていた。出世欲など全くない俺だが、さすがに夏樹が課長に昇進した日は凹んだ。

 先を越されたから――。そんなことではない。異例の大出世なのだから、そこをひがんでみても仕方がない。俺が凹んだのは課長の給料を知ってしまったからだ。

 あの日…夏樹の昇進が発表された日、社内の奴らは大騒ぎだった。

「夏樹さん、すごいですね!」

「夏樹課長!おめでとうございます!」

「夏樹さん!さすがです!」

「夏樹課長!おめでとうございます!」

「夏樹課長!夏樹課長!夏樹課長…!!」

 この騒動を避けるように俺は給湯室に向かった。マグカップにコーヒーを注ぎ一口啜った時だった。

 後輩の『冬月アヤ』がやってきた。

「夏樹さん…、あの若さで課長だなんて凄いですよね…」冬月が戸棚から自分の赤いマグカップを取り出して言った。

「あぁ…」

「すごいな」と続けて言うつもりだったが、なぜか「あぁ…」しか言えなかった。

 事務室では、まだ夏樹の昇進の話題で盛り上がっている。そんなに大騒ぎすることなのだろうか…課長なんて仕事が忙しくなるだけじゃないのか?

「春山さん、確か夏樹さんと同期…でしたよね?」冬月が、赤いマグカップにコーヒーを注ぎながら聞いてきた。

「うん。そう、同期…。あいつには敵わないよ」と俺は心にもないことを言ってみた。

 確かに、俺は夏樹のように上司と上手く付き合うことはできない。だが、仕事の面では夏樹に敵わないと思ったことは一度もない。

「そんなことないですよぉ、私、春山さんだって凄いと思いますよ!」思いがけない冬月の一言に思わずコーヒーを吹き出しそうになった。

「はぁ!?俺のどこが凄いんだよ!」

「えーっとぉ…」冬月は言葉に詰まって、コーヒーに口をつけた。

 やっぱり社交辞令か…。ま、いいけど。

「あ、そうそう!知ってますか?」話題を変えようと思ったのか、冬月が声のトーンを少し上げて切り出した。

「ん?何を?」

「課長になると、お給料いくらもらえるか?」冬月が、回りの目を気にするような仕草で俺の耳元に顔を近付け小声でささやいた。いきなり下世話な話題を言い出した冬月だが、そんな冬月のことが可愛らしく見えた。

「ん?ああ、知らねー、てか給料そんなに変わるの?」出世どころか自分の給料にすら無頓着の俺は、課長になったら給料がいくら貰えるのか?など考えたことは無かった。

「ええ!?知らないんですかぁ?すっごい変わりますよ~」冬月はただでさえパッチリした目を丸くして言った。こんな入社3年目の女の子が知っていることを、俺は知らないのかと恥ずかしくなった。

「あ、そうなの?ふぅ~ん…で?いくらなの?」聞かなければ良かったと思った時には時すでに遅く、冬月から返ってきた答えに俺は一瞬めまいを覚えた。

「そうですねぇ…役職手当とか入れると…今よりも10万以上は増えるんじゃないかな~」これが冬月の答えだった。

「じゅ、10万!?マジで!?」いくらなんでも、それは大袈裟だろ。俺はせいぜい2~3万くらいだと思っていた。この子、もしかして超テキトーなこと言ってねーか?と疑ってみたが冬月は「私、入社して1年目って経理課にいたじゃないですか、だから知ってるんですよ!」と、自信満々に言い残し給湯室を出て行った。

 そういうことか。あながち嘘ではなさそうだ。それにしても10万とは…急に夏樹のことが少し羨ましく思えた。そして課内の連中が大騒ぎしているのが何となく分かった気がした。

「そうかぁ、そりゃ確かにめでたいかもな…」


 ——だが、夏樹の課長昇進の裏には、決しておめでたくない真実が隠されていた。

 俺は、そのことをひょんなことから知ってしまったのだ。

 そして、そのおめでたくない真実は、俺にとっても無関係な話ではなかった。

 それが、ついさっき俺が社長を殴った理由である。

 半ば放心状態でフラフラと街中をさまよい、気付けば小さな公園のベンチに腰かけていた。会社を飛び出してから、この公園までどうやって来たのだろう?歩いてきたのか、走ってきたのか、それともタクシーで来たのか。よく覚えていない。かなり興奮していたようだ。

 腕時計を見た。【AM11:30】あれから1時間半が経とうとしている。

 まだ誰からも連絡はない。着信やメールがないか、念のため確認しようとケータイが入っているズボンのポケットに手を突っ込んだ。

 …ない「あれ?」

 思わず声を出してベンチから立ち上がった。

「え?ウソ!?」

 いつもケータイを入れているズボンの右ポケットには何も入っていない。

 左のポケットは……ない。

 全身から血の気が引いて行くのを感じながら、俺は上着のありとあらゆるポケットに手を突っ込んで探したが、どのポケットにもその姿はなかった。俺は、公園のベンチの前に茫然と立ち尽くした。

 血の気が引いた頭の中は真っ白だった。そして、その真っ白な頭の中に記憶が少しずつ蘇ってきた。

 その記憶を完全に取り戻すのにそう時間はかからなかったが、記憶が戻った変わりに俺はその場に立っていられなくなり、崩れるようにベンチに座りこんだ。

 置いてきた…。

 忘れてきた…。

 スマホ……机の上だ。

 なんということだ。今日のことは、昨夜何回もシミュレーションしたはずだ。なのに、なんという失敗を!!これじゃ、連絡なんてある訳がない!!

 いくら興奮していたとは言え……どうする!?俺のスマホ!

 あの時、ベンチに力なく座りこみ肩を落とした俺は、きっと他人が見たらかなりヤバイ奴だっただろう。

 どうしよう

 どうしよう

 どうしよう

 そんな俺に追い打ちをかけることが起きた。もうひとつ、思い出してはいけないことを思い出してしまったのだ。

 バッグも忘れてきたじゃないか!!!

 俺は、バッグまで机の下に置いたまま会社を飛び出してきた。要するに『手ぶら』で飛び出してきた訳だ。スマホだけじゃなくバッグまで…あのバッグ中には財布、家のカギ、車のカギ…大切なものは全部、会社に置いたままだ。

「何やってんだよ!!」俺は自分の馬鹿さ加減に呆れて地面を蹴った。

 腕時計を見ると、時間は昼の12時を回っていた。


 今ならランチタイムでみんな外に出払っているはずだ。

 取りに行くか?スマホとバッグ…

 最悪、スマホは諦めたとしても、バッグだけは無いと困る。財布とその中のキャッシュカードにクレジットカード。それから部屋のカギと車のカギ…。

 どうする?…俺!

 今なら昼休みだし…人が少ないはず…とは言え、まったく無人になっている訳ではない。

 社内で弁当を食べるヤツもいれば、出前を取るヤツもいる。そして、なによりも厄介なのは…夏樹だ。

 夏樹は、以前は毎日俺と昼飯を食いに出ていたが、課長になった途端毎日『愛妻弁当』を持ってくるようになった。

 ……無理だ。

 どう考えても、社内には入って行けない。だいいち、どんな顔をして入って行けと言うんだ。

 俺は、社長をぶん殴って飛び出してきた男だぞ。

 俺は公園のベンチで頭を抱えた。

 どうすればいい?

 どれだけ考えても、誰かに頼んで持ち出して貰うという方法しか思い付かなかった。でも、誰に?

 真っ先に夏樹の顔が浮かんだが、俺はそれをすぐに消し去った。

 アイツにだけは頼めない。しかし、元々人付き合いが苦手な俺には、残念なことに他に頼めそうなヤツはいなかった。

 ……仕方ない。夏樹に頼むしかないか。

 俺は、腹をくくって立ち上がり会社に向かって歩き出した。

 時刻は12時15分、できれば昼休みのうちに事を済ませたい。10分ほど歩き会社のすぐ近くのコンビニの前で呼吸を整えた。一度だけ深い深呼吸をしてから「よし!」と気合を入れて会社へ電話をしようとケータイに手を伸ばした――が、ケータイは無い。

「ああああ!そうかぁ!!!」俺は思わず天を仰いだ。

「アホか!」本当に自分がアホに思えてきた。何やってんだ…俺は。

 仕方ない、公衆電話を…探すしか…

 あああ!!!

 財布も無いのか!!!!!!

「なんだよっ」自分に呆れて今度は笑ってしまった。

 さて、どうする?

 せっかく、気合を入れて腹をくくって夏樹に電話するつもりだったのにすっかり心が折れてしまった。

 もしも、今ここに無料でかけられる公衆電話があっても電話する勇気は俺にはないかもしれない。

 この21世紀の便利な世の中で電話もかけられない自分が情けなかった。ここにあるコンビニの店員に土下座して店の電話を貸してもらおうかとさえ思ったが、さすがにその勇気もなかった。

 どうする?どうする?どうする?

 何も入っていないのは分かっていたが、無意識に俺は上着とズボンのポケットに何度も何度も手を突っ込み何かないか探したが、出てきたのはシワくちゃのハンカチと、一枚の封筒だけだった。

「……あ。これも…か…」もう一つ、大事なことを忘れていた。

 この封筒…上着の内ポケットに忍ばせておいた白い封筒…表には『辞表』とバランスの悪い文字が書かれている。

「こいつも……忘れちまったか…。」思わず天を仰いだ。

 社長をぶん殴った後、この辞表を叩きつけて会社を去るつもりだったのに…この計画は、ことごとく失敗に終わったようだ。ま、辞表など叩きつけたところで、俺はクビなんだろうけど…

「くそ!どっかに10円玉でも落ちてねーかな…」俺は、開き直り足元をキョロキョロしてみたが、当然金なんか落ちているはずがない。しかし、ここでじっとしていることもできず俺は路地から飛び出し、街中をさまよった。

 その時、パチンコ屋が目に飛び込んできた。仕事帰りに、たまに夏樹と一緒に来ていたパチンコ屋だが、夏樹が課長になってから一度も足を踏み入れていなかった。

 おそらく今後も入ることはないだろう。今の俺にはパチンコなんて無縁の世界だ。なにせ1円も持っていないのだから…。

 パチンコ屋を横目に通り過ぎようとしたとき、ふと思い出したことがある。

 あ…そうだ…もしかすると!

 俺は次の瞬間、パチンコ屋に飛びこんでいた。

 平日の昼下がり―――。

 パチンコ屋の客はまばらだった。

 ほとんどが、暇そうなおばちゃんと仕事もしないでフラついている若者ばかりだった。

 俺ももうすぐコイツらの仲間入りになるのかと思うと少し切なくなったが、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。俺は、店に入るとそのまままっすぐ奥へ進んだ。

 たしか、トイレの入り口の所に……

 あった!!!我ながら、自分は機転の良さに感心した。

 トイレの入り口の前、男子トイレと女子トイレの間の壁にテーブルがあり、そこには小さな機械が2台並んで置かれていた。


【ケータイ急速充電器(無料)】


 店がサービスでやっている無料の急速充電器だ。

 しかし、こんな機械…使ってるヤツを見たことないが今日はどうだろう。

 いた!あるぞ!

 充電器の前には、確かに見知らぬ誰かのスマホが1台と今では化石と化したガラケーが1台、機械から伸びたケーブルに繋がれていた。

 よし!ガラケーあった!

 スマホは、本人の顔認証や指紋認証があるので本人以外使うことはできない。狙うならガラケーの方だ。

 デジタルのタイマーは『09』となっている。

 さりげなく近づき、周りを見る。幸い、このガラケーの持ち主はパチンコに興じている最中らしい…。

 充電器の説明書が置いてあった……見てみると『20分で充電完了』と書いてある。

 もう一度、その機械に目をやると、デジタル表示が『10』に変わった。

 あと10分ということか…。

 俺は、一度その場から離れて、周りに誰もいないことを確認してからその他人のケータイに近付いた。

「ちょっと借りるだけ…すぐ返すから」

 自分に言い聞かせるように、ガラケーから充電ケーブルを引き抜き足早に店の外へ出た。

 よし!誰にも気付かれていないようだ。

「これって立派な犯罪だよな…」

 と、少々心が痛んだが、考えてみれば数時間前に社長を殴ったのだって立派な犯罪ではないか。

 そもそも、こうなったのもすべてあの社長のせいだ。

 俺がこんなところで他人のケータイを盗む…いや、無断で拝借する羽目になったのも、あの社長のせい…。

 俺は自分に言い聞かせた。重大な犯罪を犯すヤツは、こうやって罪を上塗りしていくんだな…きっと。


 俺は、店の裏側に回りさっそく他人のケータイから会社に電話をかけた。

 夏樹に直接電話するのが一番いいのは分かっていたが、もちろんアイツの番号なんて覚えている訳もなく、営業一課に電話する以外方法はなかった。

 頼む…。

 夏樹、直接電話に出てくれ!!

「もしもし、丸川商事営業部第一課です。」

 運が良かったのか、悪かったのか、電話に出たのは夏樹ではなかった。

「あ…もしもし。……冬月?」電話に出たのは冬月アヤだった。

「…冬月か?」もう一度聞き返した俺に、冬月は一瞬言葉を失った様だったが、すぐに「…はい。お世話になっています。」と、返事をしてきた。

 まわりの連中に相手が俺だと悟られまいとしたのだろう。

 さすが…。俺は、冬月の気遣いに感謝した。

 見た目や言葉使いこそ今時の感じだが、冬月は、実はすごく冷静で頭のいい女だ。

 滅茶苦茶な人事ばかりしている会社だが、冬月をうちの課に異動させたことには感謝している。冬月は、俺が営業一課で夏樹を別とすれば唯一、まともに話ができるヤツだった。

「ごめん、冬月…。何も言わずに聞いてくれ。」

「はい。」

「この電話は、すぐに切らないといけないから…ごめんな」

「いえいえ。」

「俺、さっき会社を飛び出したとき、手ぶらで飛び出しちゃったんだよ」

「あ、そうですか」

「で、俺の机の上にケータイがあるだろ?」

「えーっと…あ、はい。ございますね。」

「それと、机の下に俺のバッグもあるよな」

「ええ、ええ、そうですね。」

「悪いけど、それ…外に持ち出せるか?」

「え?すいません、もう一度お願いします。」

「今、俺…会社の近くのパチンコ屋から電話してるんだけど…持ってこれないか?」

「え~っと、少々お待ちください。」と冬月が言ったあと受話器からは、保留メロディが流れはじめた。普段、自分の会社に電話することなんて滅多にないので気付かなかったがこの会社の保留メロディは『となりのトトロ』だった。

 早くしてくれよぉ…

 こうしている間にも、このケータイの持ち主が盗まれたことに気付いていないか気がかりで仕方なかった。

 となりのトットロ、トット~ロ…と何回か繰り返した後、突然その陽気なメロディは消え、替わりに冬月の声が聞こえてきた。「お待たせしました。ご依頼の件、了解いたしました。」

「マジ!?大丈夫!?ありがとう!」

「はい。それでは、後ほど…」

「ありがとう!じゃあパチンコ屋…あ、やっぱ隣の本屋で待ってるから!」

「はい。かしこまりました。失礼致します。」冬月は最後まで冷静だった。

 電話を切った俺は、小さくガッツポーズをし、本気で冬月に感謝した。

 よかった。夏樹に頼むつもりだったが、冬月がいたじゃないか。なぜ気付かなかったのだろう。

 夏樹に頼むよりも、冬月に頼む方が全然気が楽だった。それにしても、冬月はどうやって俺の机からスマホとバッグを持ち出すつもりなんだろう。

 俺が会社を飛び出したあと、恐らく誰かが俺に電話をかけたはずだ。そして、持ち主を失った俺のスマホの着メロが机の上で鳴り響いたはずだ。

 そう『となりのトトロ』が…。

 俺の着メロと会社の保留メロディが偶然にも同じ『トトロ』だったことに妙な運命を感じそうになったが、それは大きな勘違いだと首を横に振った。

 俺のトトロが鳴れば、俺がスマホを忘れたこと、ついでにバッグも忘れたことを誰もが気付くだろう。

 それが、突然なくなっていれば「誰が持っていった?」ということになるだろう。

 本当に冬月は、スマホとバッグを持ち出せるのだろうか?

 あの時、冬月は俺の話に適当に合わせていただけで、こんな俺のためにそこまでリスクを負うようなことをしないのではないか。今さらながら不安になってきた。

 しかし、ここは冬月を信じるしかなかった。

 俺は、パチンコ屋の駐車場を横切り隣のビルの1階にある本屋へ向かおうと歩き出したが、すぐに足を止めた。

「やべー!ケータイ返さなきゃ!」そういえば、あれから何分たったのだろう?

 タイムリミットは10分。たぶん、まだ10分は経っていないはず。今なら、そっと返しておけば間に合う…はずだった。

 俺が、パチンコ屋の店内に入るとトイレの前では何人かが深刻な顔をして話をしていた。

 その光景を見て、何が起きているのか俺には一瞬で理解できた。

 充電中の自分のケータイが無くなっていることに気付いた持ち主が、店員に何やら訴えていた。

 恐る恐るそのすぐ脇を通り過ぎると、どうやら俺が盗んだケータイの持ち主は70代ぐらいの老人で、「警察を呼べ」とかなんとか物騒な話をしていた。

 俺は、ズボンのポケットの中でギュッとその老人のケータイを握りしめた。

「どうするかな…」

 こんなとき、冷酷非道な奴なら何も考えずにケータイをその辺に放り投げてしまう

 のだろうが、窮地を救ってくれたこのケータイの持ち主にそこまでする気にもなれず

 俺は、気付かれないように休憩コーナーのテーブルの上にそっとケータイを置いて逃げるようにパチンコ屋を飛び出して隣のビルへと急いだ。

 本屋に向かう途中、何度かパチンコ屋を振り返ったが誰も俺を追いかけては来なかった。

 本屋に入り、店内を一回りしたが冬月の姿はなかった。

 さすがに、そんなにすぐ来れるはず無いよな…。

 そして深いため息をついて目の前にあった読みたくもない小説を手に取った。

 俺は、他に行くあてもなく、ただここで冬月が来るのを待つしかできない身だ。

 冬月がすぐに会社を抜け出せるとは思えない。長期戦を覚悟して、小説の表紙をめくった。

 偶然手にした小説は意外と面白く、気付けば3分の1ほど読み進んでいた。

その時——

「春山さん」

 すっかり読書に夢中になっていたので、突然名前を呼ばれて心臓が止まりそうになった。

 振り返ると、そこにいたのは両手いっぱいに荷物をぶら下げた『冬月アヤ』だった。

「あ、冬月…。急に変なこと頼んでごめんな!」

 と言いながら、こんな時に呑気に小説を立ち読みしていたことを隠すように、さりげなく後ろの平積みされた山の上に戻した。

「春山さん…。」

 気のせいか、冬月の声が震えているような気がした。

 俺は、何の罪もない冬月にこんなことをさせてしまったことを心から申し訳なく思った。

「冬月…ごめんな。」

 軽く頭を下げてもう一度謝った。

 そして、「ありがとう。大丈夫だったか?マジで助かっ…

 と言いかけた時だった。

 俺の言葉をさえぎって冬月が口を開いた。

「春山さん!」

 冬月の声は、さっきとは違い何かを決意したような力強い声だった。

「ん?」

「春山さん。私、会社辞めてきちゃいました。」

「ふ~~ん…えええぇっ!!!!!?????」

 冬月の告白に、俺は思わず大声を出してしまった。

 静まり返っていた本屋の店員と客が一斉に俺と冬月に注目した。

 俺は、申し訳なさそうに近くにいた客の何人かに軽く頭を下げ、今度は、声を押し殺して冬月に迫った。

「おい!冬月!辞めたってどういうことだよ!」

 冬月は、真剣な顔でしばらくのあいだ俺の目をじっと見つめていた。

 その顔は、今にも泣き出しそうにも見えたし、笑い出しそうにも見えた。

「…おい。…冬月?」

 俺が会社を飛び出してから、この短時間で、冬月に…いや、あの会社で何が起きたのか分からないが、冬月に何かがあったことは間違いないようだ。

 その『何か』に俺が関係していることも間違いないだろう。

 俺はここで冬月が大声で泣き出すのではないかと腫れものにでも触るかのように出来るだけ優しい声で話しかけた。

「…ふゆつき?」

 が、冬月から返ってきたのは意外な一言だった。

「春山さん。ランチご馳走してください!私、お昼まだなんです。」

 そう言って冬月は微笑んだ。

 それは、いつもの爽やかな笑顔だった。


 突然の冬月の告白に俺は言葉を失っていた。

 口を開いたのは冬月のほうだった。

「さあ、行きましょ!」

 そう言うと冬月は、両手いっぱいに抱えた荷物をドサッと床に置いて店の外へと出て行った。

 ランチはどうでもいいが、確かに場所は変えた方がよさそうだ。

「あ、あぁ…」と言うと俺は、床に置かれた荷物を慌てて拾い上げて、冬月のあとを追いかけた。

 冬月が持ってきた荷物は、俺のバッグの他に女性用のトートバッグが2つと、会社の手提げ袋が1つ、そして小型のスーツケースが1個。

 男の俺でも持ち切れない程のこれだけの荷物をここまで運んできた冬月に改めて驚かされた。

 スタスタと歩道を歩いている冬月のうしろを大荷物を抱えて追いかけながら考えた。

 さっき、冬月が言った「会社を辞めてきた」とはどういうことなんだ?

 この荷物の量を見る限り辞めてきたというのは冗談ではなさそうだが、冬月が突然会社を辞める理由が、いくら考えても俺には分からなかった。

 いったいあの会社で何が起きているんだ?

 冬月は何も言わずに歩道をスタスタと歩いている。

 俺は、いったん立ち止まり肩に食い込んだ黒いトートバッグを反対の肩に

 かけ直して、冬月の隣までかけ寄った。

「なぁ、冬月…」

 冬月に聞きたいことは山ほどあったが、何から切り出せばいいのか分からなかった。

 そのとき、冬月が口を開いた。

 顔は正面を見たままだった。

「春山さん、なに食べますかぁ?」

 どうやら、ランチをおごれというのは冗談ではなかったようだ。

「あ、あぁ…何でもいいよ」

 本当に何でもよかった。

 交差点を過ぎると、ラーメン屋の看板が見えた。

 なんとなく沈黙が嫌で「そこにラーメン屋あるけど…」と声をかけてみたが

「春山さん、安く済まそうとしてるでしょ」

 とあっさり切り返された。

「いや、そういうつもりじゃ…」

 本当にそういうつもりじゃなかったが、確かに冬月の言うとおり、こんな時にラーメン屋はどうかと自分でも反省した。

 しかし、女性と二人きりで食事などしたことがない俺は、こんなときどういう店に入れば良いのかまったく見当がつかなかった。

 しばらく二人で通りを歩いていると、冬月が無言で俺の肩に手を伸ばしてきた。

「ひとつ持ちます。」

「あ、あぁ…悪いな…」

 と、右の肩に食い込んでいた黒いトートバッグを冬月に渡した。

「いえ、これ私のですから」

 考えてみればそうだった。いま渡したトートバッグ以外にももう一つ、ピンクのトートバッグ、それから会社の大きな紙袋、それと小型のスーツケース。

 すべて冬月の私物が詰まったものだった。

 …と言って、「全部自分で持てよ」なんて、恐ろしくて言いだせなかった。

 冬月は、俺から受け取ったトートバッグを軽々と肩にかけると

「ここにしましょう!」

 とニッコリ微笑んで一件の店を指差した。

 冬月が指差した先には、いかにも重たそうな木製のドアに小さな金色のプレートが埋め込まれていて、そこには【シェ・フルール】と上品な文字が刻まれていた。

 この通りは毎日通勤で歩いていたはずなのに、こんな店があったことを俺は初めて知った。

「ここ?…いいけど」

 ドアの横に大きな三色の国旗が垂れ下がっていた。

「イタメシかぁ…」

「フレンチです!ふ・れ・ん・ち!」

「あ、そっか。」

 俺は苦笑いしながらナイフとフォークで料理を食べている自分の姿を想像してみたが、それはとても恐ろしい光景だった。

「ここ、お箸も使えるフレンチだから大丈夫ですよ!」

 どうやら冬月に俺の心の中を覗かれていたようだ。

「あ、あはは」

 俺が困った顔をすると「さぁ、行きましょ!」と、両手をふさがれた俺に代わり、冬月が重い木製ドアを押すとカランコロンと心地のいい鐘の音が響いた。


「いらっしゃいませ」

 店に入ると蝶ネクタイの店員に、薄暗い店内の一番奥のテーブルに案内された。

 思ったよりも広い店内は、OLらしき若い女性でいっぱいだった。

 男性客の姿は、俺が見たところ一人もいない。

 普段からOL達はどこで昼メシを食っているのだろうと疑問に思っていたが、こういうことか。長年の疑問が解決された気がした。

 両手にぶら下げたバッグとスーツケースを邪魔にならないように壁際に置いて席に座ると清楚な真っ白いブラウスを着た女性の店員が「いらっしゃいませ」と、水が入った魚の形をしたガラス瓶とコップ、そして必要以上にバカでかいメニューを手渡してきた。

 黒い皮のカバーのメニューを恐る恐る開いてみると、中には左右に1枚ずつメニューが書かれた紙が挟んであった。

 左側には『ランチタイムMENU』、右側には『DRINKMENU』と書いてある。

 こんな店で何を頼めばいいんだろう?と心配したが、その心配は無用だった。

 なぜならランチタイムのメニューは、ひとつしかなく、メインの料理を肉か魚のどっちにするか選ぶだけだったからだ。

 さっきの女性店員を呼び、冬月は肉、俺は魚でランチメニューを注文した。

 店員が注文を繰り返すと、冬月が思い付いたようにもう一度メニューを開きしばらく眺めたあと「それと生ビール2つください。」と言って、パタンとメニューを閉じた。

「あ、ビール…いっちゃう?」

 俺が苦笑いしながら聞くと「もちろん」と短く答えて冬月は笑った。

 こんな冬月の笑顔を見ていると、さっきの言葉が悪い冗談に思えてしかたなかった。

 注文を終え、俺はコップの水を一気に飲み干してから切り出した。

「なぁ…冬月。会社辞めてきたってどういうこと?何があったの?」

 ずっと気になっていたことをやっと聞けた。

 すると、冬月は静かにこう言った。

「春山さん、その前に春山さんが答えてくださいよ…。春山さんこそ、なんで急に社長のこと殴ったりしたんですか?」

 冬月の言う通りだった。

 冬月のことを問い詰める前に、まず俺がすべてを話すのが筋だろう。

「…だよな。まずは、俺だよな。」と、俺は空になったコップに目を落とした。

 しばらくして、生ビールが運ばれてきた。

 居酒屋の感覚で、生ビールと言えば持ち手の付いた中ジョッキしか知らなかったが、さすがはフレンチレストラン。

 琥珀色のよく冷えていそうなビールが、お洒落な細長いグラスに注がれていた。

 グラスのふちギリギリまできめの細かいクリーミーな泡が浮かび、底からは炭酸の気泡が立ちあがっている。

 いつもの習慣で、俺はグラスを手に取ってから乾杯しようと冬月のグラスに自分のグラスを近付けたが、冬月はグラスをまっすぐ自分の口に運んで涼しげな顔をしてビールを一口飲んでグラスを元の場所に置いた。

 それもそうだ…。

 俺はいったい何に乾杯しようとしていたのだろう。

 俺も、グラスを口に運びよく冷えたビールを一気に半分ほど飲むとグラスを静かに置いてから口を開いた。

「冬月…。」

「はい。」

「今朝、俺が社長を殴った件だけど…。」

「はい。」

「悪いが、今の俺…上手く説明できる自信がないんだ。いつか必ず冬月にはちゃんと話す。約束する。絶対だ。だから今は…今、俺が話せる部分だけを話すけど許してくれ。」

 俺はこう前置きをしてから話をはじめた。

 まず、俺が今朝、社長を殴ったのは発作的にやった訳ではなく計画的だったこと。何日も前から何度もシュミレーションしていたのに本番はその半分も達成できなかったこと。

 上着の内ポケットに辞表を用意してあって、社長を殴ったあと叩きつけるつもりだったが忘れてしまったこと。

 社長を殴り、クビになるかもしれないが後悔はしていないこと。

 ずっと前から我慢してきたが、ついに我慢の限界を超えてしまったこと。

 できることなら、俺一人の胸にカギをかけて閉まっておきたかったこと。

 これらを、一気に冬月に打ち明けた。

 我ながら、かなり支離滅裂な説明だった。たぶん誰が聞いてもこの説明で納得するヤツはいないだろうと思った。

 実際、俺が話をしている間、冬月は相槌も打たずにキョトンとして俺の説明を聞いていた。

 そして、話の途中、料理が運ばれて来ていたことに二人とも気付いていなかった。

 ひとしきり、話をしたあと我に返った俺は目の前に置かれた料理に目をやった。

「あ、料理来てたんだ…。」

「…ですね」

 冬月は、”心ここに在らず”といった感じだった。

 恐らく、今の俺の説明を冬月なりに理解しようと頭の中で整理していたのだろう。

 だが、しばらく沈黙したあと

「食べましょう」

 と言って冬月は微笑んだ。

 どうやら、整理は失敗したようだ。


 料理は想像以上に美味かった。

 冬月の言うとおり、本格的なフレンチにも関わらず箸が添えられていたのが

 ありがたかった。

 そして、何よりも冬月がステーキを箸を使って食べていることに俺は感謝した。

 とても食べにくそうではあったが…。

 俺も冬月も無言で食べていた。

 他人から見ると、俺と冬月はどう見えるのだろう?

 兄弟?恋人同士?それとも…

 半分ほど、食べたころ沈黙を破ったのは冬月だった。

「あ、春山さん。すっかり忘れてました。」と言って、冬月が自分のセカンドバッグを開いて何かを探しはじめた。

「はい、コレ。」

 冬月がバッグから取り出したのは、俺の携帯だった。

「ごめんなさい。遅くなって」

 そうだった。いろいろあってすっかり忘れていた。

 俺はこの携帯とバッグを取り戻したくて冬月を呼んだのだ。

「あ、ああ…すっかり忘れてたわ。ありがとな。」

 俺は携帯を受け取ると同時に携帯を開いて着信履歴を確認した。

 携帯の画面には【着信あり:1件】と表示されていた。

 その着信履歴を開くと、発信者は案の上『夏樹雄介』となっていた。

 携帯の着信履歴で夏樹の名前を見て、ふと思った。

 もともと俺はこの携帯を取り戻すため、夏樹に頼むつもりで会社に電話をかけた。しかし、電話に出たのは冬月だった。

 もしあの時、夏樹が電話に出ていたらどうなっていたのだろう?

 少なくとも、今ここでこうしてフレンチを食べる羽目にはなっていないだろう。

 もしあの時、夏樹が電話に出ていたら…

 それでも、冬月は会社を辞めていたのだろうか?

 やはり、冬月が会社を辞めたのは俺のせいなのだろうか?

 そのことを、どうしても確認したくて俺は顔をあげた。

 と、同時に冬月が先に口を開いた。

「春山さん。私が会社辞めたからって、春山さんが責任を感じないでくださいね。」

 図星だった。

 こいつは本当に人の心が読めるのかと少し怖くなった。

「え?」

 俺が困惑した表情を見せると冬月が続けて言った。

「今度は、私の番ですね。」

「は?」

 俺は、冬月の言った意味がすぐに理解できなかった。

「私の番ですよね。私も会社を辞めてきた理由を説明しないと…」

 そういうことか。

「あ、うん。何があったの?」

 俺が聞くと、冬月は静かに語り出した。


 冬月は、しばらく沈黙した。

 自分が会社を辞めた理由を、俺にどうやって説明するか考えているようだった。

 サラダの中のミニトマトを箸で転がしている。

 俺も、冬月の心の準備がととのうまで無言で待った。

 そして、ようやく冬月が動いた。

 ビールグラスを手に取り一口飲んだ。

 それを見て、俺も残りのビールを一気に全部飲み干して、空のグラスを置いた。

 俺がグラスを置いたのとほぼ同時に冬月が話しはじめた。

「えっと…、さっきの春山さんじゃないけど、私も何から話せばいいのかよく分かんないな…。

 まず、最初にこれだけは言っておきたいんですけど……私が会社辞めたのは、本当に春山さんのせいじゃ無いですから責任感じたりしないでくださいね。

 あ、でもきっかけを作ったのは春山さんかもしれませんね。

 もし今朝、春山さんがあんなことをしなければ今日いきなり辞めることも無かったでしょうから…。

 あ、だからと言って、春山さんのせいだって言ってるんじゃないですからね。

 春山さんには、逆に感謝しているくらいです。

 ごめんなさい。なに言ってるか分かんないですよね。

 辞めた理由…。そう、理由ですよね。

 えっとぉ、なんて言えばいいのかな…。こういうことかな…。」

 そういうと冬月は、テーブルの隅に置かれていた水の入った瓶を手に取った。

 ワインの空き瓶を水差しとして再利用したのだろうか。

 高さ30センチほどのガラス瓶、というよりもボトルと言った方がぴったりなのかもしれない。

 魚の形をしたそのガラスのボトルは、上の注ぎ口が魚の口に見立ててある。

 そして、中の水には何かがフワフワと漂っていた。

 さっき飲んだ時にほのかにレモンの香りがしたので、この浮いているものはレモンの果実なのかもしれない。

 やっぱり、こういうお洒落な店は”お冷や”まで気取ってるんだなと感心した。

 冬月は、その魚のボトルを持ち上げて、空になっている俺のコップに水を注ぎはじめた。

 突然の冬月の行動を、俺は何も言わずに見つめていた。

 冬月が瓶を傾けると、魚の口からは水がトクントクンと音をたてて空のコップを満たしはじめた。

 8割方コップに水が入ると、冬月はボトルを元に戻し水を注ぐのをやめてこう言った。

「つまり、こういうことです…。」

 さっぱり意味が分からなかったが

「…うん。」

 と、一応分かったフリをしてみた。

「…って、分かんないですよね。」

 分からなくてよかったのか…。

 こいつは何が言いたいのだろう。

「今まで、ずっと私は…と言っても、一年くらい前からですかねぇ…。ずっと我慢してたんです…。」

 冬月は、そう言うと今注いだばかりの俺のコップをおもむろに持ちあげた。

 何をするのかと思って見ていると、冬月はおしぼりの白いタオルをテーブルの上に広げた。そして、その真ん中にコップを置いた。

 冬月が何をしようとしているのか、さっぱり分からなかったが、俺はそのまま事の成り行きを見守っていた。

「このくらい。そう…ずっと、これくらいまで我慢してたんです。8割くらいかな…。」そう言うと、冬月はコップに注がれた水の表面の高さに人差し指を水平に並べた。

 もの凄く抽象的な表現だったが、なんとなく冬月の言いたいことが理解できた。

 女という生き物は、みんなこういう物の例え方をするのだろうか?

 面倒くさい生き物だな。と思ったが、ずっと前から冬月が何かに我慢していて、それが限界の8割ぐらいだった…ということは十分伝わってきた。

 そういえば、俺もついさっき同じようなことを冬月に言ったような気がする。

 俺のは、もっと支離滅裂な表現だったが…。

 俺も、ずっと我慢してきた。だが、ついにその我慢が限界を超えた。

 そして、あの行動に出たのだ。

 冬月が言いたいこともこういうことだったのだろうか?

「さっきの、春山さんの話…」

 冬月が言った。

「ああ、何が言いたいか全然分かんなかったよな…。」

 俺が苦笑いして言うと

「はい。全然」

 と、冬月は素直に答えた。

「悪かったな…」

 俺は、困った顔をして右のほっぺたを掻いた。

「冗談ですよ。でも、確信部分はわかりませんけど、たぶん春山さん、私と同じだったんだと思います。春山さんも私と同じ、このコップの水だったんですよね…。」

 そう言うと、冬月は再び二人の間に置かれたコップを大袈裟に覗き込んだ。

 そして「…で、」と、言ったあと再びボトルを手に取り、コップにゆっくりと水を足しはじめた。

 冬月はコップに顔をぐっと近づけて「ずっと我慢してたのがぁ…」と言いながら少しずつコップに水を注いでいる。

 そしてコップのふちギリギリまで水が満たされるまでの間、冬月はその模様を実況中継でもするかのように

「あぁ、もういっぱいぃぃ…ああぁ、もうだめぇ…」

 と言いながら、まるで無邪気に遊んでいる子供のような顔で少しずつコップに水を垂らした。

 コップに注がれた水が、ふちいっぱいにまで満たされたところで冬月は手を止めた。

 コップの水は表面張力でコップの高さよりも2、3ミリ盛り上がって見えた。

 あと1滴でも水を足せば間違いなく溢れてしまうだろう。

 そんな微妙な光景を眺めながら冬月がぼそっとつぶやいた。

「これが、昨日までの私の気持ち…。」

 今度は冬月の言っている意味がはっきりと分かった。

「そして、俺の気持ち…か…」

 俺もつぶやいた。

 確かに、冬月の言うとおりだった。

 コップのふちギリギリで表面張力しながら耐えているこの水は俺と冬月なのかもしれない。

 何か些細なきっかけさえあれば、いつでも感情が溢れてしまう状態だったのだろう。

 そのきっかけが、ついに起きたと言うことか。

 冬月にとって、そのきっかけが俺のあの行動だったのだろう。

 俺と冬月は、無言でそのコップの水を見つめていた。

「一度こうなったら、この水を減らすのって難しいですよね…」

 冬月が言った。「コップを持ち上げようとしてもこぼれちゃうしな」

 と俺が言うと

「そうなんですよねぇ」と言いながら冬月が、サラダの皿から、ミニトマトを素手で摘まんだ。

 そして、なんのためらいも無く表面張力で盛り上がっている水の表面に落とした。

「ドーン…」

 ミニトマトはコップの底に沈み、かわりにギリギリで留まっていた水がコップから溢れだした。

 俺は、そこではじめてコップの下に敷いたタオルの意味が分かった。

 それにしても、冬月がそこまで我慢していた事とは何だったのだろうか?

 俺とは違い社内で友達も多そうだし、上司達ともうまくやっていたように見えた。

 冬月は、そのキャラクターから営業一課のアイドル的存在でみんなから好かれていたはずだ。


「冬月が、そんなに我慢してたことって、何だったの?」

 俺は、単刀直入に聞いてみた。

 すると、冬月の顔が一瞬暗くなったように見えた。

「あ、ごめん!言いたくなければいいよ。」

 俺は慌てて手を振った。

「違うんです。私、嬉しいんです…。」

「え?嬉しい?」

「はい。今まで、こんな話できる人…会社にいなかったから」

『今まで、会社にいなかった。』って、俺もその会社にいたんだけど…

 と思ったが、あえてそこには触れずに

「そうなの?だって冬月、会社に友達いっぱいいるじゃん」

 と聞いてみた。

「う~ん…友達っていうか、みんなそこまで深く付き合ってないから」

 そうだったのか。

 俺に比べりゃ、冬月の交友関係は相当『深い付き合い』だと思うのだが。

 やはり、女というのは不思議な生き物だと思った。

「実は、私…」

 冬月が、真剣な顔をして言った。

「うん。」

「私、実はずっとセクハラを受けてたんです。」

「は?」

 冬月は、平然と言ってのけた。まるで、他人事のような口ぶりだった。

 しかし、よく考えてみれば若い女性にとってこんなことを俺の様な男に告白するのは、相当な勇気だったに違いない。

 しかし、俺は、何と言ってよいのか分からなかった。気の利いた言葉のひとつでも言えればよかったのだが。

「そうだったんだ…」

 としか言えなかった。


 正直、男の俺にはセクハラを受けている女性の気持ちを100%理解してやることができるのか…自分でもよく分からなかったが、会社を辞めるほどなのだから、それは相当ツライことなのだろう。ということは俺にも容易に推測できた。

 そして、そこでひとつ単純な疑問が湧いてきた。

「誰に?」

 湧いてきた疑問を思わず声に出してしまった。こんな質問をして冬月は気を悪くしないだろうか?と少し心配になったが、質問の答えはすぐに返ってきた。

「社長です…。」

 そう言いきった冬月の顔は怒りと悲しみと憎しみを押し殺している様に見えた。

「社長!?」

 冬月がセクハラを受けていた相手は社長だった。

 そう、俺が今朝ぶん殴ったアイツだ。

 アイツならやりかねないな。と思った。

 そして、冬月がアイツにセクハラを受けていたことなど全然知らなかったが、今になって思えば、もっとボコボコにしてやれば良かったと後悔した。

「うん。…丸川。」

 冬月がうなずいた。

 社長のことを『丸川』と呼び捨てするのを聞いて、冬月の心の傷と憎しみの深さを知った気がした。

 その時、俺たちのテーブルに店員がやってきた。

「空いたお皿、お下げしてもよろしいですか?」

 店員はそう聞いてきたが、二人とも料理はどれも中途半端に残っていて空いたお皿は一枚もなかった。

 しかし、すっかり冷めきった料理を今さら食べる気にもならず、二人同時に「あ、はい」と答えると、店員がまだ料理が残っている皿を片付けながら「デザートご用意してよろしいですか?」と聞いてきた。

「へ~、デザートも付くんだ…」

「うん。ここのデザート、美味しいんですよ」

 と俺に言った冬月だったが、店員にはこう答えた。

「すいません。デザートの前にビールおかわりお願いします。」

 冬月は冗談を言っているのかと思ったが、そうでもなさそうだった。

 店員もキョトンとしていたが「はい、ビールおひとつで?」と注文を確認してきた。

「春山さんも飲みますよね?」

「あ、うん…。」

「じゃあ2つ」

「はい、かしこまりました」

 こんな時にたいしたヤツだと思った。

 それとも、こんな時だから飲むのだろうか?

 そしてまた、よく冷えた新しいビールが俺と冬月の前に運ばれてきた。

 俺がそのビールグラスに手を伸ばした時だった。

「カァーーン」

 とグラス同士がぶつかる軽快な音が店内に響いた。

 そして「乾杯」と冬月が小さくつぶやいて、ビールをおいしそうに口にした。


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