其の九 『黎明』
あれから何が起こったかを話そう。
シャルロットはとにかく周囲一帯に見境なく炎を撒き散らしまくった。あまりに豪快だったものだから、時々俺の方にまでそれが飛んできた。
まあおかげで、多少の暖は取れたんで良しとしよう。そしてあははーと笑いながら、吸血鬼狩りのヤツら相手に優勢に立ち回ったのも良しとしよう。
しかしそこからが最悪だった。
彼女の白い顔が、何故か赤くなっていくかと思うと、急に目を回した挙句、その場に倒れてしまったのだ。
困惑する俺――というよりも吸血鬼狩りを他所に、その場に力なく蹲って「血が足りないよー」と連呼する姿は、呆れも怒りも泣きたくなるのも通り越して、最早笑いたくなる有様だった。
どうもあの力はどういう理屈か、大量の血を必要とするようだ。
それで気まずくなった雰囲気の中、銀髪のカインが銃をその場に落として、両手を上げ「参りました」と言ったのだから尚始末が悪い。
相手をするのも馬鹿らしくなったのかと思ったが、どうもやけに晴れやかな顔をしているところを見ると違うらしい。その最中、坊主頭のロイは焼け焦げた服のあちこちをはたきながら「あっちぃー!」と喚き散らしていた。
とりあえずシャルロットに駆け寄って抱き起こした。外傷はもちろんのこと脈も呼吸も正常だ。
ただし酔っ払ったみたいに目を回しているのは頂けない。何もかも台無しだ。まるでいつかの夜を思い出す。
俺の腕の中で昏倒するシャルロットを見て、カインはいつもの涼しげな顔を珍しく微笑ませていた。
「このような顔もするのですね」
何か見えざる真実に気付いた探偵のような、驚きを含ませた声。
「今更気付いたのかよ。だから言っただろ。こいつはバカみたいな吸血鬼だってな」
「それにしてもバカすぎるだろ。闘り合いの最中に気絶するヤツがどこにいるんだって話だ」
ところどころ焼け焦げた服をはたきながら、ロイが言った。
三人して、これまた馬鹿みたいにシャルロットの顔を覗き込む。
しばらくするとカインが、先ほど落とした銃を拾って懐にしまったあと踵を返した。
「では、敗者は去るとしましょう」
それは漫画などで良く見る、負けた主人公のライバルが格好いい笑みを浮かべて立ち去るシーンに似ていた。
「ロイも構いませんね? あの時、私たちは明らかに押されていた。結果の見えた勝負に拘るほど、貴方も馬鹿ではないでしょう」
「いやいや、そんなことよりな。むしろ勝ち負け以前に、こんなヤツと殺し合おうとしてた自分が可哀想に見えてきたってほうが正解だろ」
この場でシャルロットが起きていたら、「ちょっとちょっとー!」とまた怒り出すんだろうなと思った。
そのままあっさりと立ち去ろうとする吸血鬼狩り。靴を焼け焦がせたロイが、振り返り様に「あばよ白髪野郎、お前悪くなかったぜ」なんて自分の方が格上であるかのような発言を残して、歩きにくそうに行く。
坊主頭を追おうとする銀髪の吸血鬼を、俺は呼び止めた。
「――なあ。本当は全部、アンタの思い通りなんじゃないか?」
ぴたりと止まる。
やがて振り向いた顔からは、特にこれといった感情が見受けられない。
「……有り得ませんね。私たちは仕事を完遂させたのです。士狼は信用できる男です。その貴方が提示した方法で、シャルロットから世界に対し吸血鬼の機密が漏れる危険性が無くなった。無力化された吸血鬼に、何時までも構っていられるほど、私たちもヒマではありませんので」
「そうか? でも最初から考えると、どうもおかしいんだよなぁ。お前、本当にこのバカ吸血鬼を今まで捕まえられなかったのか? あのハゲはともかく、アンタは頭がキレる男だ。その気になれば、とうの昔にシャルロットを捕まえて連れてくなり殺すなりできたはずだ。ホテルの時も違和感があった。あんな行き当たりばったりな停電は、俺なら絶対にやらない。追い詰めたような風を見せて、一度逃がせば警戒されるのに、あっさりと俺たちを逃がした。もう一度聞くぜ。どうなんだよ、カイン」
――きっかけはあの時。
ホテルから電力が絶たれ、一切の光が失われた闇の中。
『まあ、そうだね。吸血鬼狩りってきっとバカなんだよ、バカ。ほんと呆れちゃうよね。なんでか知らないけど、いっつもこんななの』
『いつも?』
シャルロットがなんともなしに呟いた言葉がずっと引っかかっていた。
別に暗闇に乗じて襲い掛かるわけでもない。それは俯瞰して見れば明らかな無計画で、プロフェッショナルの仕事とは到底思えない。
そう。
もしも邪推が許されるのだとすれば、それはシャルロットに吸血鬼狩りという名の危険が迫っているのをわざと教えているような――
ふむ、とカインは顎を擦る。
「買い被りすぎですよ、士狼。私はロイとは違って、争いを好まない臆病なタチでしてね。出来ることなら、無駄な衝突は控えたかったのです」
「おいおい、アンタにしては意味の分からない苦しい言い訳だな。そんな無駄な衝突は避けたいなんて野郎が、吸血鬼狩りとかいう物騒なもんやってるわけないだろうが。――それに、お前舐めすぎなんだよ。人を殺すつもりもなく、俺に銃口を向けてんじゃねえぞ」
涼しげな顔を崩すことのないカインの顔が、珍しく驚いたように目を見開く。それは驚愕というよりもむしろ、感心の色が強かった。
そう、この銀髪の吸血鬼は本当に舐めすぎなのだ。
シャルロットと闘り合う際にも、手を抜いていやがったのだから。
やがて胸のうちに秘めた想いを吐露するように、カインはふうと息を吐いた。
「……そうですね。正直に言えば、シャルロットには強い興味がありました」
「あんだよ、惚れてんのか?」
「どうでしょうね。この思想にどのような名を付けてよいものか、私には分かりません。ですから本当に、強い興味があったとだけ言うのが正解でしょう。……士狼、私はね。かつて百年ほど前に一度だけ会ったことがあるのですよ。通称”悠久の時を生きた吸血鬼”に」
カインは何かを思い出すように空を見上げた。俺も釣られて上を見る。
綺麗な三日月の色が少しだけ薄くなっている。気付けば、それなりに夜明けが近いようだった。
「男でもあり女でもある。子供でもあり老人でもある。人間でもあり吸血鬼でもある。そんな掴み所のない、ある種の神々しささえ感じられる方でした。神という言葉でさえ太古の人間があの者を見て紡ぎ上げたものだとさえ言うような。私は彼に強い憧れ、……いや、崇拝に近い感情を抱きました。きっと熱心な信仰者が実物の神をその眼で見る日が来るのだとしたら、あの日の私はまさしくそれだったのでしょうね。そして彼はそのとき、一人の少女を連れていた」
「……なるほど、それがこいつって訳か」
「ええ。最もそのとき彼女は生まれたばかりでまだ幼すぎた。私のことなど憶えてはいないでしょう。しかし私は色褪せること無く憶えています。傍らにいる者の手を握り、笑顔で父の名を呼ぶその少女の姿を」
優しげな顔。覚えているかぎり初めて見るような柔らかな笑みを浮かべて、カインがシャルロットを一瞥する。
恐らく本人に自分が笑っている自覚はないだろう。それぐらい薄くて、自然な微笑みだったのだから。
きっと――カインはシャルロットが心配で心配で仕方なかったのだ。違う言い方をするなら、ある意味彼女の親のような気分だったのだろう。
例えるなら、自分が好きな有名人の子供を見るファンだ。本来ならそれは手も目も届かない位置にある存在なのに、孤独となり旅をするシャルロット、かつて通称”悠久の時を生きた吸血鬼”とその娘を知ったカイン、そして吸血鬼と吸血鬼狩りという関係が、二人の存在を近づけさせた。
もしかしたらカインはシャルロットを見守るためだけに吸血鬼狩りに入ったのはではないか、とも思ったがそれは邪推過ぎるような気がして聞かないでおくことにした。
いくつもの偶然が重なって、その関係は成り立っていた。シャルロットが日本という小さな島国にいたのも、他のハンターに見つからなかった要素の一つだろう。
いずれカインが本当に彼女を捕獲して連行するつもりだったのか、縛られることのない自由な生き方をさせてやりたかったのか、それともどうすべきか分からず追うふりをしながら転機を待ち望んでいたのか――どちらにしろ今となっては分からない。女の幸せを願う男の想いを聞くことは、俺の主義ではないからだ。
「……そうか。不器用だな、アンタも」
「貴方ほどではありません。他人の為に命を投げ出すような人間など、私は見たことがありませんよ」
「別に投げ出してなんかいないさ。これも仕事なんでな。それに俺があんな坊主頭に殺られる訳ねえだろうが」
ニヤリと笑う。
するとカインも釣られて、珍しく声を出して笑った。
「ははは、これはいい。その言葉、ロイにも聞かせたかった」
「聞かせてやればいい。ついでに言っといてくれ。てめえも悪くなかったぜ、ってな」
「はい、確かに。では私も行くとしましょう。ロイがあちらで待っている」
気付けば数十メートル先。カインがいないことに気付いたロイが、手持ち無沙汰そうに突っ立っている。きっと靴が焼け焦げているせいで、こちらまで歩いて戻るのが面倒なのだろう。
視線に気付いた俺は、親指を下に向けて地獄に堕ちろとジェスチャーする。それを見て慌てたように怒ったロイも、全く同じジェスチャーを返してきた。
俺に背を向けてカインは歩き出す。
呼び止めたい訳ではないが、なんとなくその背中が悲しそうに見えた俺は思わず声をかけていた。
「ようカイン。お前、最後にコイツに会っていかなくていいのか? 何なら叩き起こすぜ」
「いえ、構いません。彼女にとって私は、ただの吸血鬼狩りに過ぎませんから。それにこれで、一つの仕事が終わりました。士狼、私は今ね、果てのないマラソンを走り抜いて走り抜いて、ようやくゴールしたような、そんな気持ちなのですよ。立つ鳥は跡を濁さぬもの――この国のことわざでしたね」
その歩みが止まることはない。
振り返ることなく、カインは最後に「さようなら、士狼。機会があれば、今度はロイとまた酒でも飲みましょう」と、粋なことを言って遠ざかっていった。
「……チ。酔っ払った吸血鬼なんて、こいつ一人で十分だっての」
はあ、とため息をついて、でもそれも悪くないかもなと思う。
俺は飲み比べでもきっと、あの坊主頭には負けない。昨日の敵は今日の友などと青臭いことを言うつもりはない。しかし酒の席では無礼講だ。美味い酒が飲めるヤツ同士ってのは、きっとそれだけでも敵とか仲間とか以上の価値があるんだろう。
「おい、起きろアホ。もう帰るぞ」
うーんと唸るシャルロットの頬を軽くはたく。寒さも相まって結構痛そうである。
しばらくして彼女は薄っすらと瞼を開いた。
「あ……れ? 夢? ……うん、そうだよね。士狼が私のために怪我なんかするはずってなんか血出てるよ士狼っ! 大丈夫、ねえ死なないでっ!」
「うるさいっ! 傷の方はなんか知らんけど、お前が血を吸ってから出血が治まったんだよ。ほんとデタラメだなお前らは」
涙目になってまとわりついてくるシャルロットを引き剥がす。
すると彼女は何故か正座して、きょとんとした顔をした。
「あ、うん。吸血鬼の唾液には人間の組織細胞をある程度だけど、活性化させる力があるらしいんだ。だから首筋から血を吸っても、傷はすぐ治っちゃうの。吸血鬼が現代で生きていく知恵というか力というか、そんなもんだね。まあそれぐらいの傷になると、完全には治らないみたいだけど」
「はーん。……ん? てことは俺の背中にはお前の唾液がついてるってことか? うおっ、なんか急に鳥肌立ってきたっ」
「ちょっとちょっとー! 何を言ってるのかな、士狼は。こんな美少女の唾液だよ? 嬉しさに涙を流すならともかく、鳥肌が立つなんて絶対ありえないし!」
「はいはい分かった分かった。文句なら帰ってから聞いてやるから、行こうぜ」
立ち上がって、尻の部分についた汚れをはらう。
シャルロットに向かって手を差し伸べた。
「え、でも、私、帰る家なんてないし……」
「バーカ、起きてから寝言言ってんじゃねえよ。この際だからハッキリ言っといてやる。お前の帰る家が無いなんて、ちっぽけな問題はな。俺たちがなんとかしてやるってんだよ」
そう。
人が。
吸血鬼が。
家を求める誰かが――帰るべき家を作るのなんて、簡単なことなのだ。居心地の良い場所に腰を下ろすだけでいい。しかも手を差し伸べてくれる誰かがいるのなら、何も難しいことはない。ただその手を掴めばいいだけの話。
――かつて、一人の傭兵がそうしたように。
帰る家がないと沈んでいたシャルロットは俺の言葉を聴いて、例の人懐っこい笑顔を浮かべた。
「――うん! 帰ろう、士狼!」
手に感触。
冷えた小さな手が、俺の手のひらをしっかりと掴んだ。
吐息の白い、打てば響くような、そんな冬の夜。俺たちは二人並んで歩き出す。
気付けばいつかの夜と同じ黎明。吸血鬼狩りなんて面倒な問題も、その後にこんな綺麗な夜明けが見れるというなら悪くないと思った。
夜が終わる。
――ああ確かに、バカで泣き虫で人懐っこく笑う吸血鬼の夜はこうして終わったのだ。