其の八 『見栄』
前回までの簡単なあらすじ。
『山田智実と高梨沙綾のデートを影からサポートすることになった士狼一行。デートの出発地点は喫茶ブルーメン。士狼と公人とニノは、店内の奥まったボックス席から、智実と沙綾の様子を見守っていた。イチャつく士狼とニノに憤慨するシャルロット。新しくアルバイトを始めた円佳を心配する公人。そのとき、ブルーメンに望月啓志という若い大学生がやってくる。彼はブルーメンの常連客で、シャルロットに恋をする好青年だった』
望月啓志には、想いを寄せる女性がいた。いや、女性というよりは少女と形容したほうが正しいかもしれない。少なくとも自分よりは年下だろう、と啓志は予想していた。
啓志が喫茶ブルーメンを初めて訪れたのは、二ヶ月ほど前のことだった。そして、啓志がシャルロットに心を奪われたのも、ちょうどその頃だった。
表現のしようがないほどに美しく、まるで太陽のように温かな笑顔を持ち、とても頑張り屋さんで、わりとドジで、誰に対しても人懐っこく、つまり自分を飾っていない――それが望月啓志から見た、シャルロットという少女である。
すぐに興味を引かれた。気付けば目で追うようになり、彼女の姿を見るのがささやかな楽しみとなった。
だが啓志は、シャルロットの容姿よりも、その性格を好ましく思っていた。例えば、誰も見ていないところで淹れたてのコーヒーをこぼしてしまい、「あわわ、ま、マスターに怒られる……」と半泣きでべそをかいているところとか、赤い髪をしたもう一人の看板ウェイトレスに言い負かされてしまい、「ふんだっ! もうニノとは口を利いてあげないんだからっ!」と頬を膨らませて拗ねるところとか、他にも――
とにかく、シャルロットは見ていて飽きない。ずっと彼女のことを見ていたい、いつの日か自分のとなりで笑ってほしい、と啓志は思うのだ。
「お待たせしました、こちらブレンドになりますねー」
注文していたコーヒーが届けられた。やや間延びした声と、どこか小動物のような愛嬌を湛えた笑顔。それは真面目に労働する店員にはあるまじき態度のはずだが、なぜかシャルロットを注意する者はいない。
ふわりと金色の髪が揺れて、ほのかなシャンプーの香りが鼻腔を掠めた。距離が近い。身体が触れ合う。それだけで啓志の顔は、純情な少年のように赤くなるのだった。
「あのー。どうかしましたか?」
「えっ」
唐突に声をかけられた啓志は、勢いよく顔を上げた。そこにはくりっとした大きな瞳をぱちくりとまたたきさせる、シャルロットの姿。
「なんだか顔が赤いみたいなので、もしかするとご気分が優れないのかなぁ、と思いまして」
「そ、そんなことはないですよ。俺は大丈夫ですから」
慌てて言い繕ってみたが、しかしシャルロットはなにやら使命感に目覚めたような顔で、ずいっと身体を寄せてきた。
「そうですか? でもやっぱり顔が赤いような……それに汗ばんでいるみたいだし」
「大丈夫です、大丈夫ですから離れてくださいっ! そうすれば治りますから!」
「……?」
わたわたと手を振る啓志と、きょとんとした顔で小首を傾げるシャルロット。間もなくシャルロットは離れ、それと同時に啓志は大きく深呼吸した。よし、これでもう大丈夫。
「……ん?」
そのとき啓志は、誰かの視線を感じた。不審に思ってまわりを見渡してみると、店内の奥まったところにあるボックス席、そこに腰掛ける白い髪をした男と目が合った。なぜか彼は、啓志のことを面白くなさそうな目で見つめている。あまり観察しても失礼なので、啓志は視線を戻した。
「それ、なんですか?」
シャルロットが身を乗り出してきた。彼女は興味津々といった顔で、啓志がテーブルに広げていた原稿用紙と参考資料を見ている。ふたたび鼓動が高鳴るのを自覚しながらも、彼は答えた。
「……あぁ、これは大学に提出するレポートを書いてるんですよ。今時、手書きのレポートは珍しいんですけどね。大体はパソコンで印刷して提出するのが多いから」
「へえ、そうなんですか。どんなこと書いてるか、教えてもらっていいですか?」
「いいですよ」
実を言うと、このとき啓志は、内心でガッツポーズをしていた。あししげくブルーメンに通っていた彼であるが、実のところ、シャルロットと言葉を交わせたことは数えるほどしかない。本当はもっと喋ったり、あわよくばデートに誘ったりもしたいと思っているのだが、いつも勇気が出ず、遠目に見るだけで終わっていた。だからシャルロットのほうから話題を振ってくれるのは、とても幸せなことだった。啓志は、参考資料としていた雑誌を広げて見せた。
「これはいわゆる世界に散見されるオカルト現象やら未解決事件を編纂した雑誌なんです。このなかから自分の好きなテーマを選んで、それを自分なりの解釈に基づいて原稿用紙五枚、つまり二千文字以内に収めるようにして書くんですよ。俺がテーマに選んだのは、この《1000人殺し事件》ですね」
1000人殺し事件。
かつて東南アジアで発生し、現在に至っても犯人の手がかりは一切掴めていない、未解決事件のうちのひとつ。これは啓志の知らないことだが、ちょうど《1000人殺し事件》が起こったのと同時期に、戦場から白い髪の傭兵が姿を消したとされている。くだんの事件以降、戦場のオカルトとまで言われた男の話は、人々の話題に上らなくなった。
「……1000人、殺し事件……」
シャルロットは物憂げな顔で、じっと雑誌のページを見つめていた。普段の彼女とは違う、どこか妖艶な面持ち。啓志は見蕩れそうになる自分を戒めた。
耳に馴染みのない発音が聞こえてきたのは、そんなときだった。
啓志とシャルロットが同時に顔を上げると、そこには外国人がひとり立っていた。体格のいい成人男性だ。大きなバッグを背負い、シャルロットに向けて何事かを話している。
実を言うと、啓志はそれほど英語が得意ではない。もちろん人並み程度にはできるが、それはペーパーテストでの話だ。さすがにリスニングまでは完璧にこなせない。どうやらこの外人は、客としてではなく、道を尋ねるためにブルーメンに入りシャルロットに声をかけたらしい、というところまではなんとか啓志も理解できた。まあ啓志はともかく、シャルロットならば英語も堪能のはずだから、道を教えるぐらい簡単だろう。
「……うーん」
だが予想に反して、シャルロットの手際は最悪だった。というのも「きゃー! ずっと日本語ばかり話してたからド忘れしちゃったー!」などといい具合に混乱しているのである。まあそれも啓志には可愛らしく映るのだが、いまは和んでいる場合じゃない。
だんだん外国人の顔が曇ってきた。自分の言葉を理解してくれないシャルロットに不安を覚えたのだろう。もう時間がない。啓志は意を決して、彼女の代わりに自分が――
「……ったく。見てらんねえな」
気だるそうな男の声が、啓志と外国人のあいだに割って入った。
「えっ、士狼……?」
シャルロットがつぶやいた。士狼と呼ばれた白い髪の男性はそれに応えず、流暢な英語で、外国人と会話をしていた。それは本場の人間にも劣らない発音。おそらく海の向こうでの暮らしが長かったのだろう。しばらくしてから、外国人はすっきり顔でお礼を言って、ブルーメンをあとにした。どうやら士狼という男性は、無事に道を教えてやることができたらしい。
「おまえは相変わらずだな。自分の国の言葉を忘れんなよ、バカ吸血鬼」
「ふ、ふんっ! 士狼が出てこなければ、私が華麗に解決してたもん! ていうか私はアメリカじゃなくてドイツ生まれだから、英語はあんまり得意じゃないだもんっ!」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
「ちょっとちょっとー! なによその態度はー! ……あっ!」
シャルロットは手で口を隠し、士狼から顔を背けた。
「あん? 今度はどうしたんだよ」
「自分の胸に聞いてみたらいいじゃない。ニノに抱きつかれてデレデレするような変態さんの士狼とは、もう一生口を利いてあげないんだから!」
「まだ根に持ってんのかよ。これだからバカの相手は疲れるわ」
「あー! またバカって言ったー! 士狼がバカって言ったー! 大体、私のほうが年上のお姉さんなんだから、もっと礼儀というものを――」
それからも士狼とシャルロットは親しげな会話を交わしていた。それを見て、啓志は胸が痛くなるのを感じた。こんな生き生きとした彼女の顔、自分は見たことないのに。
「そういえば士狼、どうして私を助けてくれたの? 私、さっき酷いこと言っちゃったのに」
どこか不安げな上目遣いでシャルロットが言った。
「べつにおまえを助けたつもりはねえよ。ただトイレの帰りに、偶然おまえがキャーキャー喚いてるのを見つけただけだ」
「違うもん! 私はキャーキャー喚いてないもん! もっとおしとやかに対応してたはずだもん!」
「……病院、連れて行くか」
「なんか可哀想なものを見る目で見つめられちゃったー!」
シャルロットが頭を抱えてショックを受けているあいだに、士狼は自分の席に戻っていった。
「もうっ、士狼ってば失礼しちゃうなぁ。この世界一の淑女と言っても過言ではない私に、よくもあんな口を……望月さんはどう思います?」
「…………」
「あの、望月さん?」
「……いえ」
おかしいな、と啓志は思った。士狼が座っているのは奥まったところにあるボックス席。そして、喫茶ブルーメンの唯一のトイレは、士狼たちの席のすぐ近くにある。どう考えても、帰り道に偶然見かけた、では済まされない位置関係だ。シャルロットは気付いてないようだが、きっと士狼は、わざわざ面倒をかけてまで彼女のことを――啓志はかぶりを振り、そこで思考をとめた。
緊急事態発生だ。
鷹を思わせる鋭い目で、周囲を無駄に警戒しながら、山田智実は心のなかでつぶやいた。
彼の対面には、暦荘の大家である高梨沙綾が座っている。彼女は朝露に濡れた森林のように澄んだ空気を身にまとい、ほのぼのとした顔で紅茶を飲んでいる。二人が腰掛けているのは窓辺にあるボックス席。温かな日差しが、テーブルとそこに乗せられた沙綾の細くて白い手を照らしている。
優雅にお茶を楽しむ沙綾とは違い、智実はかつてない危機を感じていた。
率直に言うと、話題がないのである。
すでに三分と二十六秒(智実が計測していたので間違いない。ただしいま、二十八秒になった)ものあいだ会話がない。智実は口下手ではないが、沙綾を前にすると色々とおかしくなってしまう。不幸中の幸いは、沙綾となら会話がなくても気まずい空気にならないことか。彼女の包み込むような母性が、沈黙を安心に変えてしまうのだ。
だが智実としては、この展開は本意ではない。もっと楽しい、思わず笑ってしまうような話を彼女にしてやりたいと思うのだ。やはり女性を笑顔にさせてこその男だろう。
面白い話、面白い話、面白い話……そうか、アレがあったぞ!
深い闇のなかに光明が差したような気がして、智実は俯けていた顔を上げた。
「どうかしました、山田さん?」
おっとりとした声で沙綾が言った。智実はテーブルに肘を載せ、両手を顔のまえで組んでみせた。実に不敵である。
「高梨さん。いまからオレが、貴女に笑顔という名の花を咲かせてみせよう。水を撒く準備はいいかな?」
「は、はあ……」
明らかに間違った感のあるセリフだが、不思議と智実には合っていた。ただし沙綾は、じゃっかん困惑していた。
「これはオレがまだ東南アジアにいた頃、株が大好きな知人から酒の席で聞いた話だ。その知人は、《白い狼》と呼ばれる傭兵のファンみたいなものでな。まあかくいうオレも暇を見つけては《白い狼》の消息を探っているのだが――いや、これはひとまず置いておこう。とにかく、その白い狼の話だ」
「なるほど。白い色をした狼さんのお話なんですねー」
「違う、と言いたいところだが、ある意味では正解かもしれんな。戦場を三日も渡り歩けば《白い狼》の女のタイプが分かる、とまで言われるほど、かの傭兵は有名なのだ。なかでも傑作なのが、ミャンマーの奥地、それもジャングルのなかに設定された防衛線をたったひとりで突破した話で……」
「偉いわねえ、シャルロットちゃん」
「でへへ、それほどでも……」
「……た、たったひとりで突破した話なのだが……」
ふと我に返った智実が見たものは、業務中にも関わらず沙綾に甘えるシャルロットだった。沙綾も智実の話は聞いておらず、ぽわぽわとした笑顔を浮かべて、シャルロットの頭を撫でてやっている。
どうやら自分の話は女性を楽しませるのに向いていないらしい、ということを思い知られた智実は、がっくりと肩を落とした。だが簡単に諦めるわけにはいかない。このまま”面白い話のひとつもできない男”という烙印を押されるのだけは我慢ならない。山田智実の名にかけて、今日だけは沙綾に楽しい一日をプレゼントしなくては。
幸いなことに、いまブルーメンには士狼と公人とニノがいる。彼らなら智実に、なにかいい助言をしてくれるはずだ。昨日の夜、公人は「僕に任せておけば心配はいらないさ」と朗らかな顔で言っていた。
店内の奥まったところにある席に、視線を向ける。そこには自信に満ち溢れた顔でこちらを見つめる公人と、退屈そうにサンドイッチをかじる士狼と、士狼の腕に抱きついて楽しそうにしているニノがいる。智実はアイコンタクトを送ってみた。
――我が同志よ、オレを助けてくれ。
教官に指示をあおぐ新兵のごとき実直な態度である。
――ふっ、了解したよ旦那。あとは僕の指示に従ってくれ。
答えはすぐに返ってきた。恐るべきことに、いまの彼らは言葉を介さずとも意思の疎通を可能としていた。
公人のアドバイスを要約すると『まずは自分の好きな話題から入れ』とのことだった。なるほど一理あると智実は思う。自分の好きなことならぺらぺらと喋れるし、そこから会話の糸口も見つかるだろう。つい一分ほど前、自分の好きな話題から始めて見事に失敗したわけだが、同志公人の助言でもあるのだし今一度トライしてみようか、と智実は思った。
「山田さんは、タバコが好きなんですね」
智実が話しかけようとするよりも早く、テーブルのうえに置いてあるタバコを見つめ、沙綾がつぶやいた。すでにシャルロットは業務に戻っている。
出鼻を挫かれた智実は、やや戸惑ったが、すぐに平静を取り戻した。向こうから話題を提供してくれるなら、それに越したことはない。
「ああ。昔からタバコは好きだったな。女性にとってタバコは好ましくないと思うが、これはオレの数少ない嗜好品のひとつだ。よほどのことがないかぎり止めんだろう」
「私はべつに大丈夫ですよ。兄さんがよく吸っていましたから。タバコの煙を嗅ぐと、懐かしい気持ちになりますねー」
「なるほど。分からんでもないな。タバコとは大人が吸うものだ。子供のころに両親がくゆらしていた紫煙が記憶に残り、懐旧の情をかきたてられてもおかしくはない」
「はい。ですから私は、嫌いではないですよ」
包み込むような慈愛の笑みを浮かべる沙綾。
「タバコを吸う男性は、嫌いじゃないですよ」
「……ぐはっ!」
きっと沙綾に他意はなかったのだろうが、それでも智実は大きなダメージを負ってしまった。美人の言動は、ただそれだけで相対する者に影響を与える。
「どうかしましたか、山田さん?」
「い、いや、なんでもないのだが……」
「そうですか。なにかあったら遠慮なく言ってくださいね。山田さんのためなら何でもしますから」
「くっ……!」
だめだ。この人は自覚のない男殺しだ。このままでは遠からぬ未来、自分は戦死してしまう。
結局のところ、そこそこ話は弾んだのだが、智実としては満足がいっていなかった。やはり男である以上、女性をリードしてあげたいのだ。会話の主導権を握られっぱなしでは気が済まない。しかし沙綾相手にはイニシアチブを取れる気がしない智実であった。
****
うららかな春の陽射しが差し込み、店内をゆっくりと温めながら、最も高くに昇ろうとしている。ほどよく腹を満たした俺たちは、ブルーメンからお暇することにした。ふと気を抜けば目的を忘れそうになるが、いまの俺たちは智実と大家さんのデートを影からサポートする立場なのだ。智実たちが店を出るのなら、そのあとを追わないといけない。
「なによシャルロット。そんなに頬を膨らませて。文句があるならはっきりと言ったらどう?」
呆れ顔のニノが言う。清算レジカウンターの前には、見るからに憤懣やるかたない様子のシャルロットがいる。
「べつに私は怒ってないもん。ニノみたいな変態さんのことなんか知らないんだもん。士狼も士狼だよ、ちょっとニノに抱きつかれたぐらいで嬉しそうにしちゃって……どうせ男の人なんて、みんな大きいのが好きなんだもん……かたちと柔らかさなんて関係ないんだもん……」
言葉とは裏腹に、バカ吸血鬼はやたらと強い力でキーを叩き、俺たちが注文した商品の値段をカウントしていく。ぶつぶつと独り言が漏れているが、生憎と俺はべつに嬉しそうにした覚えはない。
「待て待て。おまえが怒ってる理由なんざ知りたくもないが、俺を周防みたいな位置づけにすんのは止めろ。変態は一人でじゅうぶんだろ」
「そうね。士狼がウチに抱きつかれて喜んでたのは事実だけど、変態なんて一人しかいないしね」
「確かに……ごめんね、二人とも。変態は一人しかいなかったね」
「おいおいおいおい! なんで三人揃って僕を見るんだ!?」
俺たちの生暖かい視線を向けられた周防は、心外そうな顔でたたらを踏んだ。むしろ俺としては、変態と言われた周防が心外そうな顔をしたことが心外である。そこにちょうど俺たちが使っていたテーブルを片付けたばかりの円佳が通りかかった。目鼻立ちのくっきりとした顔立ちと、黒いリボンで結んだサイドポニーが特徴的な、ブルーメンの新戦力である。
「おい円佳! お前からもみんなに言ってやってくれ! 僕は変態じゃないよな!?」
愛しの妹に語りかける周防の目は、とかく希望に満ちていた。世界のすべてが敵に回ろうとも、血を分けた実の妹だけは自分に味方してくれるだろう、と確信している目だ。しかし現実は、変態には優しくなかった。
「はい? あなた誰ですか? アルバイトも許してくれない人なんて、お兄ちゃんじゃありません」
他人行儀の冷たい声だった。唇を尖らせながら、ちらちらと兄を見つめる。シスコンの周防は、妹を心配するあまり、円佳がブルーメンで働くことを快く思っていないのだ。まあこの店、無駄に容姿が整ってる女ばかり揃ってるから、そういう目的で若い男も集まってくるし、制服も上品な可愛らしさがあるし、心配する気持ちも分からなくはない。
「それとこれとは話が別だろう!? おまえはまだ子供だから、バイトの恐ろしさというものが分かってないんだよ! もし男に絡まれたらどうするつもりだ!?」
「べつにどうもしないわよ。普通にお断りするだけだし、そもそも、あたしに声をかけるような物好きな人はまずいないし。あとお兄ちゃん、あたしのこと子供扱いするの止めてよ。もう高校生なんだよ?」
「僕から見れば、おまえはいつまで経っても子供だよ。少なくとも高校を卒業するまでは、アルバイトを許す気にはなれないね」
「……お兄ちゃんのバカ。もう知らない」
円佳は頬を膨らませてそっぽを向く。そして俺を見た。
「宗谷さん、また来てくださいね。あたしはまだまだ未熟ですけど、未熟なりに頑張って接客しますから」
「ああ。まあ肩肘張らずにやれよ。困ったことがあれば、ここにいる先輩に聞け。こいつらならフォローしてくれるから」
シャルロットとニノの頭をぽんと叩く。バカ吸血鬼は気持ちよさそうに目を細めて、狼少女はクールな表情を保っていたが獣耳さんがピョコっと機嫌よさそうに跳ねた。それから円佳は「やっぱり宗谷さん、優しいなぁ。お兄ちゃんとは大違い」と兄に当てつけのように呟き、軽やかな足取りで接客に戻っていった。
「……僕をないがしろにするとは、円佳のやつ、あとで話し合う必要がありそうだな」
ちょっぴり寂しそうな顔で所感を漏らす周防。はっきり言って、こいつが妹を溺愛していることは周知の事実なのだが、本人たちはそれに気付いていなかった。まあ確かに円佳は年相応の愛らしい容姿をしているし、兄としては余計な虫がつかないか気が気じゃないんだろうな。
「つーか、シャルロット。おまえとっとと清算済ませろよ。智実のオッサンたちに追いつけなくなるじゃねえか」
すでに智実と大家さんは一足先に店外に出ている。あの二人のデートコースは周防が考えたものだから追いつくのは簡単なのだが、あまり長く目を離すのも得策じゃないように思える。
シャルロットは「はっ!?」と目を見開き、俺の手からすばやく逃れた。相変わらず意味不明だった。
「や、やっぱり、士狼ってば卑怯だよ! いま私と士狼は喧嘩中なんだよ! 馴れ馴れしく頭とか触っちゃだめなんだから!」
手で控えめな胸を隠すようにして、うー、と唸るバカ吸血鬼。なぜ警戒されてるか、一ミリも分からない。さすがに面倒になってきたのか、ニノが鮮烈な赤い髪をかきあげてから口を開いた。
「はぁ……あのね、シャルロット。あんまり物分りが悪いようだと、士狼に嫌われるわよ」
「えっ、き、嫌われちゃうの……?」
「そりゃあね。男は面倒くさい女が嫌いだし。もしかしたら、もう士狼はシャルロットのことを……」
「だめー! そこから先を言っちゃだめー!」
深紅の瞳をすこしだけ潤ませて、シャルロットはニノに縋る。獣耳さんが”狙い通り”とでも言うように、ピコピコと動いていた。
「そう、いい子ね。じゃあシャルロット、いまからウチの言うことを復唱して」
「う、うん。分かった。復唱する!」
「私はもう士狼のことを怒っていません。はいどうぞ」
「私はもう士狼のことを怒っていません! ……えっと、これでいいの、ニノ?」
「まだよ。次は、私は士狼とニノの関係を応援します。はいどうぞ」
「私は士狼とニノの関係を……って、ちょっとニノー! どさくさに紛れて、私にヘンなこと言わせようとしないでよ!」
「ちっ、さすがに引っかからなかったわね」
楽しそうに戯れる、ブルーメンの看板ウェイトレスが二人。はたから見れば姉妹のように見えないこともない。どちらが姉でどちらが妹かは神のみぞ知るといったところだろう。
キャーキャー喚いているうちに気分も晴れたのか、やがてシャルロットはすっきりした顔で清算を済ませた。その手際は、普段の彼女からは想像もできないほどに洗練されていた。
「シャルロットちゃん、もう一人前のウェイトレスって感じだね。さすがは僕の見込んだ女の子だ」
周防がキザに言い放つと、シャルロットははにかむようにして笑った。
「えへへ、まあ私もこれぐらいはできないと、マスターに怒られちゃうから。これが俗にいうアレだよ、えっと……そうそう、汚名挽回!」
瞬間、俺たちの間に流れていた空気が絶対零度に晒された。
「え……」
「汚名……」
「挽回……?」
俺とニノと周防が、それぞれ呟く。しかし当の本人は、何かの賞でも取ったかのように満足げな顔をしている。
「あれ? どうしたの、みんな? ほらほらー、汚名挽回だよ、汚名挽回。私だって難しい言葉、知ってるんだからね」
あろうことか、バカ吸血鬼は自分の知識を自慢するように、店内に響き渡るような大声で”汚名挽回”を連呼する。微笑ましい顔で俺たちの様子を伺っていた客が、気まずそうに目を背けた。憧れる先輩の痴態を目撃した円佳は、わざとらしいぐらいシャルロットに背を向けて、接客に取り組んでいる。
「へへー、これでもう私のことをバカだなんて言わないでしょ。まあ汚名挽回ぐらい知ってないと、淑女として失格だもんね。べつに汚名挽回を知ってたからって大人のお姉さんってわけじゃないけど、汚名挽回は汚名挽回だし、だからみんなも私のことをもっと――」
「――止めなさい、シャルロット!」
とてつもなく悲しそうな顔をしたニノが、シャルロットを強く抱きしめた。さきほどまでピコりにピコっていた獣耳さんは、水をやり忘れた花のごとくしおれていた。
「ど、どうしたの、ニノ? もしかして、そんなに私のこと見直したの?」
「……そうね、ある意味、見直したわ。だからもういいの。シャルロットは頑張ったわ。ゆっくりと休みなさい」
言って、二人は身体を離す。シャルロットの滑らかな頬を優しく撫でて、ニノは真実を口にしようとした。
「いい、シャルロット。これ以上、あんたが恥を晒すまえに教えてあげる。汚名挽回っていうのは……」
「待てニノ。ここはあえて、そっとしておこうぜ」
ニノの華奢な肩に手を置く。俺が触れた瞬間、しおれていた獣耳さんが嬉しそうにピョコっと復活した。
「どうして、士狼? このままだとシャルロットがバカだってことがみんなにバレるわよ?」
「もうバレてるから大丈夫だ。それにお前、シャルロットの誇らしげな顔、見てみろよ」
俺たちは揃ってシャルロットを見つめる。くりっとした赤い瞳には、まるでお座りができた犬が主人に『褒めて褒めてー』とでも言うように、誇らしげな光が宿っている。
もしここで真実を告げれば、汚名とは挽回するものではなく返上するものであることを告げれば、きっとバカ吸血鬼は今日一日、ブルーメンで仕事ができなくなるだろう。だからシャルロットの知識を矯正するのは、夜になってからのほうがいい。自分の部屋で一晩中も悶えれば、また気分を入れ替えて働けるようになるだろう。まあブルーメンの常連客は、シャルロットのバカなところも含めて気に入っているようだが。
「……士狼がそう言うなら、ウチに異存はないけどね」
獣耳さんを順調にピコらせながら、ニノはシャルロットから離れた。
「シャルロットちゃん……なんて罪な女の子なんだ。この放っておけない感じが男心をくすぐって止まないね」
「とりあえずおまえは病院行ってこい」
いまにも薔薇を咥えそうな周防にツッコミを入れておく。その最中、何者かの視線を感じた。店内のカウンター席に腰掛ける、周防よりもいい男がこちらを見ていた。確か、望月啓志という名前だったか。彼はいまだ「汚名挽回」を自慢げに連呼するシャルロットを見て、薄っすらと頬を染めながら楽しそうに笑っている。
ふと、目が合った。
望月啓志は俺のことをやや不愉快そうに見てから、勢いよく顔を逸らし、テーブルに広げた原稿用紙に向かった。なんか恨まれることでもしたのだろうか。まあ何でもいいが。
それから俺たちは、バカ吸血鬼の元気な声と、円佳の優しい声に見送られながら、ブルーメンをあとにした。はやく智実と大家さんに追いつかないと。
結論から言うと、デートの次の予定はツーリングだった。智実が大型バイクを駆って、大家さんとタンデムするのである。俺と周防とニノは自動車で、二人のあとを追いかける感じだ。
「なあ周防。この車、どこから持ってきたんだ?」
「僕の家の車だよ。父さんに無理を言って借りてきたんだ。だから変なところ触って汚したりしないでくれよ」
白い四人乗りのセダンの車内は清潔感に溢れていた。窓やミラーはよく磨かれているし、シートも煙草の臭いは染み付いていない。新車として売られていても違和感はないほどだった。恐らく周防があらかじめ掃除しておいたのだろう。なぜなら。
「どうだい、ニノちゃん。なかなかの乗り心地だろう?」
「そうね。思ったより悪くないかな」
この場には男だけではなく、見目麗しい少女がいるからに他ならない。豊満な身体をシートに預けて、ニノは興味深そうに車内のあちこちを見つめていた。ニノが身じろぐたびに腰まで伸びた長い髪が揺れて、ほのかなシャンプーの香りが密閉された空間に充満する。まだエンジンはかかっていないが、この心地いいニノ自身の甘い体臭は、車が走り出しても消えることはないだろう。
「ねえ士狼。もし眠くなったのなら、ここに士狼専用のいい枕があるわよ?」
俺があくびをしていると、小首を傾げてニノが言った。ぽんぽんと太もものあたりを叩いている、
「あ? まあ、眠いのは眠いが寝るほどでもねえよ。つーか、おまえ離れろ。暑苦しいって何度言えば分かるんだよ」
「べつにいいじゃない。ちょっとぐらいアピールさせてよ。せっかくのチャンスなんだから」
凄まじい勢いでピコピコする獣耳さんを見ていると、なんか『この耳を落ち込ませたくない』と思うのだから不思議なものである。
「おーい、ニノちゃん。君が気付いていないようだから、あえて言葉にするけどね」
「うん? なに?」
運転席で格好よくハンドルを握っている周防が、後部座席にいる俺とニノのほうに振り向いた。
「僕のとなりの助手席が空いてるよ? ここは君のための特等席なんだから、宗谷みたいな冴えない男には構わず、僕のもとに来ればいいじゃないか。僕のドラテクを間近で見るチャンスだよ?」
「へえ、周防って運転に自信があるのね」
「まあね。こう見えても、峠を攻めさせれば天才的だと謳われたものさ。巷では《走り屋公人》、《音速の魔術師》、《スピードの向こう側に辿りついた男》とか、いろいろと噂されてたりするんだけど、まあここから先は自慢になるから言わないでおくよ」
「そうなんだ。この前、円佳がブルーメンでの休憩時間中に『お兄ちゃんの運転する車には二度と乗りたくないです。なんか見ていて危なっかしいので』って言ってたんだけど、あれは周防の運転が上手すぎたからなのね」
「も、もちろんさ!」
脂汗をかきながら周防が答える。なんか「円佳のやつ、あとで覚えてろよ……」とか呟いていたりもするが、ここは聞いていないフリをしておくのが無難だろうな。
そうこうしているうちに車が走り出す。ニノが乗っているからか、不気味なぐらいの安全運転だった。俺が女なら多少は好感度アップする程度には、安心して運転を任せることができる。見慣れた街の風景が窓のそとを流れていく。
ツーリングコースはあらかじめ定められていて、先にスタートした智実たちと合流するポイントも決まっている。さりげなく合流したあとは、バレないように智実と大家さんがタンデムする大型バイクの後ろについていけばいい。
「ところで宗谷は、車の運転とかできるのかい?」
悠々とハンドルを切りながら周防が言った。俺の気のせいでなければ、ひとつひとつのアクションが無駄に格好をつけているように見える。まさに女にモテたいがために車を運転する野郎の姿だった。
「そりゃ車の運転ぐらいできるわ。むしろ俺のほうこそ《走り屋士狼》と言われる自信があるぐらいだ」
「さすが士狼ね。ちなみにウチも車ぐらい運転できるわ」
「なるほど。それならもし僕が疲れたときは、二人のうちどちらかと運転を交代してもよさそうだね」
「ああ、任せろ。車だけじゃなくてヘリや輸送機、あとは船とか戦車も動かせるぜ。まあ免許なんざ持ってないけどな」
「べつに免許なんていらないじゃない。もし事故りそうになったら、車から飛び降りればいいだけの話だし。ね、士狼?」
「――徹頭徹尾、僕が運転するよ! 君たちには何があってもハンドルを握らせないからな!? ずっと後部座席で大人しくしててくれ!」
周防が俺たちのほうを振り返りながら叫ぶ。案の定、ハンドルを切りすぎて、すり抜けをしてきた原付とぶつかりそうになってしまった。
「バカ。ちゃんと前を見とけよ。それとおまえ、ゆっくり走りすぎだ。勘違いしてるやつは多いが、速度を出さないことが安全運転じゃねえからな。まわりの車が法定速度を越えて走っていたら、自分もそれに合わせろ。すべての車が時速八十キロで走っているなかを四十キロで走ってたら、そっちのが危ねえよ」
「な、なるほど……宗谷のくせに説得力があるじゃないか」
「まあおまえが事故りそうになったら、俺たちは飛び降りるからどうでもいいけどな」
「いやいや助けてくれよ!」
周防が後部座席を振り向いて叫んだ直後、今度は前方の車に突っ込みそうになった。俺は周防にツッコミそうになった。