其の七 『喫茶』
「高梨さん! どうか、どうかオレと……で、ででで、デートをしてはもらえないだろうか!?」
「はい、いいですよー」
「なっ! なんだとー!?」
俺はよく知らないのだが。
どうやら数日前、大家さんと智実のあいだにこのようなやり取りがあったらしいのだ。
当人たちしか知らないはずの会話をどうして俺が知っているのかというと、当人たる智実本人から事情を聞いたからである。
それもこれも数分前の出来事が発端だった。
非常に不本意なことだが、俺はそのとき暦荘の階下で周防公人と雑談に興じていた。とくに理由はない。ただ偶然にばったりと出会ってしまっただけである。
周防のよく分からない自慢話を聞いていると、向こうから大股でずんずんと智実がやってきた。
死地に赴く戦士ですらも道を開けてしまうような威圧感を迸らせながら、智実は俺たちの前で立ち止まり――あろうことか土下座をしたのだった。
「宗谷! 公人! どうかおまえたちの力をオレに貸してくれ!」
「は?」
「へ?」
揃いも揃って間の抜けた声を上げる俺と周防だった。
ここで一つ断っておくと、この山田智実という男の能力はかなり人間離れしている。気配遮断、声帯模写、尾行術といったスパイのような技術はもちろん、果てにはマネーゲームやら電子戦にも優れるという超人ぶりである。
おまけに戦闘能力もずば抜けており、あの《吸血鬼狩り》のロイや《青天宮》の忌野でさえも、純粋な実力では智実に敵うまい。聞くところによると智実の実家は、長きに渡って暗器を用いた戦闘術を継承する家系であり、本人は兄に家督を譲って実家を飛び出したらしいのだが、それはまたべつの話である。
とにかく、飛行機が墜落しようが豪華客船が沈没しようが自力で生還しそうなこの男が、なにを血迷ったか俺たちに助力を請うために土下座したのだ。
これは明らかにただごとではなかった。
「いきなりどうしたんだい、智実の旦那。まさか沙綾さんとデートの約束でもしちゃったんじゃないだろうね? ははっ、まあ旦那にそんな……」
「そのまさかなのだ、公人っ!」
くわっ、と目を見開き、智実は面を上げた。
「たまたま高梨さんの機嫌がいい日だったのか、あるいは神なる天上の存在がオレに味方をしてくれたのか――詳しい理由は分からんが、なぜか高梨さんはオレの申し出を受け入れてくださったのだ!」
「そ、そうなんだ。まあよく分からないけど、とにかく土下座はやめたほうがいいと思うよ。ほら、宗谷も迷惑そうな顔してるじゃないか」
「いや、まあ迷惑っつーか、大家さんとデートする権利を手に入れた智実はとりあえず死ねと言いたい」
暦荘のマドンナと言っても過言ではない大家さんを独り占めするなど断じて許さない。
ちなみに俺は、大家さんみたいな大人の魅力に溢れた女性が好みなのだ。間違ってもシャルロットに代表される精神的な幼さを残した女など好みじゃない。
嫉妬ともいえる俺の言葉を受けた智実は、そそくさと立ち上がり、照れくさそうに頭をかいた。
「ふっ、あまり褒めてくれるな。まあオレが高梨さんとデートをするのは不変の事実なのだがな」
「どうでもいいけど褒めてねえよ」
なんだか智実のやつ、マジで嬉しそうだな。もう数年の付き合いになるが、こんな微笑ましい姿は初めて見た。
俺は周防に言う。
「そういやおまえ、智実が俺たちの大家さんとデートするっていうのに意外と落ち着いてんだな。普段のおまえならもっと怒るじゃねえか。大家さんのおっぱいを独占するのは許さない、とか言って」
「はあ? 宗谷はなにを言っているんだい? 沙綾さんの本命は僕に決まってるだろう? いずれ彼女は巡りに巡って僕のもとにたどり着くんだから、それまでは他の男にも夢を見させてあげるさ」
「……よく智実のまえでそんなことを言えるな、おまえ」
まあ幸いにも、いまの智実は約束された薔薇色の未来に想いを馳せているので、周防のバカみたいな発言は聞こえていないようだった。
「ところで旦那。沙綾さんとデートをするのは分かったけど、僕たちに力を貸してくれっていうのはどういうことなんだい?」
「む、そうだった。まずはおまえたちの助力を確約しておかねば話が進まんな」
スーツの胸元にあるネクタイをきゅっと締めなおし、智実は自信に満ち溢れた顔で、
「単刀直入に言おう。オレは高梨さんをダメ元でデートに誘い、かくして約束を取り付けることに成功したわけだが――しかし、どうすれば彼女を楽しませることができるのか分からんのだ」
「いや、それ堂々と言うことじゃないと思うよ」
呆れたようにかぶりを振り、続ける。
「そういえば旦那は女性をエスコートした経験はあるのかい?」
「うむ、当然だろう。かつてイギリスにいた頃、潜入した社交界のパーティーで貴族の令嬢と親しくなったこともある。すでに許婚のあったアデリーヌは、しかしオレさえいれば金も地位も名誉もいらないとまで宣言してくれてな。いや、あのときは参った。屋敷の空き部屋にまで案内されて、酒に酔ったアデリーヌにしなだれかかられたときは、さすがのオレも覚悟を決めたものだ。だが皮肉にも、オレが彼女をベッドに押し倒したまさにそのとき、通信機にシグルド3――ああいや、上司からの連絡が入ってな。オレは泣き喚く彼女のひたいにキスをして、『君を幸せにする男はべつにいる』と囁き、その場をあとにしたのだ」
「…………」
沈黙が続く。
俺と周防はアイコンタクトをかわし、どちらが”その役目”を担うか瞬時に相談する。結果、周防が『僕に任せてくれ』と言わんばかりに頷いたので、俺は身を引くことにした。
周防は大きく息を吸って、
「今時そんなファンタジスタな展開はB級映画でも見られないわ! つーかアデリーヌって誰だい!?」
安直ながらも、それはそれは鋭いキレのあるツッコミを披露したのであった。
数え切れないほどあったツッコミどころのなかでも、女性に関する事柄を追求したあたりが周防らしいと言える。
智実はスーツの内ポケットからタバコを取り出し、ライターで着火。
「アデリーヌが誰か、とは聞いてくれるな、公人よ。……ふっ、まああえて説明するならば、彼女はオレの思い出のなかに住む女性……といったところかな」
物憂げな顔でタバコを咥える智実さんだった。
なんか軽くイラッとしたので、とりあえず智実を一発殴っておいた。ほんのすこし前のめりになった智実は、しかし体勢を崩すことはなく、真顔のまま殴られた箇所をさすった。
「なにをするのだ、宗谷」
「いや、俺もよく分かんねえけど、なんかおまえを殴りたくなったんだ。許してくれ」
「釈然としないが、まあいいだろう」
美味そうに紫煙をくゆらせる。
腕を組んで難しそうな顔をしていた周防が言う。
「つーか、話を聞いたかぎりじゃ旦那って女性の扱いが上手いとしか思えないんだけど」
「ふむ。まあやぶさかではないな。少なくとも、オレのとなりにいる女性が泣くことはないだろう」
「そういう台詞は沙綾さんに言ってあげなよ。とまあ、そういうわけで僕たちの力は必要ないんじゃないかい? 旦那なら一人でも上手くやれると思うよ」
「ほう……」
智実は不気味なほどに唇のはしを吊り上げた。
不敵に笑う、とはまさにこの表情だった。
「……それはどうかな? あまりオレをみくびるなよ公人。このオレが高梨さんと二人きりでデートという状況下で、まともに機能するとでも思っているのか? だとしたらおまえは観察眼を養うべきだ。はっきり言って、オレは高梨さんと二人きりになると緊張して日本語を喋れなくなる自信すらある」
「これはボケかい!? 真面目かい!? 僕には分からないよ、宗谷!」
言っていることは冗談としか思えないのだが、智実は真顔なのだ。しかし基本的に、この山田智実という男はジョークの類を口にすることがない。つまりは真面目なのだろう。
「……はぁ、疲れるわマジで。そもそも大家さんと楽しくデートできねえんなら始めから誘うなって話だよな」
「仕方なかろう! 許可してくれるとは思わなかったのだ! 最も戸惑っているのは他でもないオレだ! 異論は認めんぞ!」
「なんで逆ギレしてんだよ! 明らかに俺たちのほうしかキレることを許されない状況だろうが、バカ!」
「む、すまん。つい興奮してしまったようだ」
神妙な顔つきで頭を下げる。長くなったタバコの灰がぽとりと落ちた。
そのとき。
なぜか不遜な顔をしていた周防の喉から、怪しげな笑いが漏れた。
俺はポケットから携帯電話を取り出す。
「ひっひっひ……そうか、そうだよ……これは……」
「あ、病院ですか? 変態ナルシストの治療とかってやってますかね?」
「僕は病気じゃないわっ! つーか宗谷! もしかしなくても変態ナルシストって僕のことかい!?」
「俺だったら怖いよな」
「オレでも怖いだろうな」
「……消去法が憎いっ!」
まあ消去法じゃなくても、変態ナルシストといえば周防しかいないと思うのだが。
こほん、と咳払いをする変態ナルシスト。
「とにかく、だ。旦那がどうしても協力してほしいって言うんなら、僕たちが手を貸そうじゃないか。おなじアパートの仲間だしね。そうだろう、宗谷?」
「今日の昼飯はラーメンにすっかなー」
「ちょっ、そんな何事もなかったかのように大きく伸びをしながら清々しい顔でどこかに行こうとしないでくれ!」
「うるせえな。俺を巻き込もうとすんなよ。このあいだの一件で、おまえに関わるのは時間の無駄だって悟ったんだよ」
あれは忘れもしない、一週間ほど前の夜のことだ。
俺と智実と周防はどこぞのマンションの屋上から、ニノの部屋に泊まっていたシャルロットたちを覗くという実に意味不明な行動をしてしまったのだ。もうあんなことは絶対ごめんだった。
……しかし。
まったく興味がない、といえば嘘になるのも確かである。
大家さんとデートするぐらいなら許してやってもいいが、しかし、もし智実のオッサンが男の本能に負けて狼さんになってしまったらどうする? その場に俺が居合わせれば智実を力づくで止めることもできる。でも虫のごとき周防にはそれができない。ぷちっと踏み潰されて終わりだろう。
ここは大家さんのため、智実のため、そして周防のために――俺も立ち上がるべきかもしれない。
「一寸の虫にも五分の魂、か……」
「おいおいおいおい! どうして僕を哀れむような目で見ながらそんなことを言うんだい!?」
「いや、気にすんなよ。周防が絶滅しちゃ円佳に申し訳が立たねえしな」
「気にするよ! 絶滅ってなんだい!? それに何度も言ってるけど、円佳って下の名前で呼ばないでくれ! そんな親しげに!」
「話は聞いてたか? そういうわけで俺たちが協力してやるよ、オッサン」
「自然に話を進めるなよ! テンションを戻すのがしんどいじゃないか!」
顔を真っ赤にして、むきー、と地団太を踏む周防だった。
「ふむ……」
短くなったタバコを携帯灰皿にしまった智実は、俺と周防の顔をゆっくりと順に見た。
「それでは言葉に甘えておまえたちに助力を頼むとしよう。差し当たってはデート当日までに高梨さんの好きなものをリサーチして――」
早速、相談が始まる。
こうして大家さんと智実のデートを応援しよう作戦が幕を開けたのだった。
デート当日は、雲ひとつない晴れであった。
まず最初に、とてつもなく幸先が不安になる話をしておこう。デートプランを考えたのは周防である。もちろんすべて周防が考えたわけではなく、ところどころに智実の意見も取り入れられているらしいが、予定の大部分を考えたのは周防公人だと思ってくれて構わない。
基本的なルールは簡単。
智実と大家さんは楽しくデートをするだけ。そして俺と周防は、そのあとをこっそりと尾行しつつ、状況に応じた指示を出す。
幸いにも智実は読唇術を心得ているので、離れたところからでも俺たちの”唇”さえ見えていれば意思の伝達ができる。ちなみに智実が咳払いを二回したら『困っているから指示をくれ』という合図である。
今回のデートは午前九時が開始だった。やや早いような気もするが、周防に言わせれば、まずは気軽に朝食を摂りつつ雑談をするのが吉なのだそうだ。
そんなこんなでデートの出発点は、喫茶ブルーメンだった。もちろん周防のチョイスである。
「……なあ周防。なんでブルーメンなんだ?」
「沙綾さんの性格を考慮しただけの話さ。あの人は高価なものを奢られると逆に恐縮してしまうタイプだからね。まずは見知った場所で緊張をほぐしてあげるのが一番なんだよ」
「言われてみればそうかもね。たまには周防もまともなこと言うじゃない。見直したわ」
「いやぁ、なんだかニノちゃんに褒められると照れるなあ。どうだい? よかったら今度、二人で……」
「ねえ士狼。よかったら今度、二人で出かけない? なにか美味しいものでも食べに行きましょうよ」
「ふう、相変わらずニノちゃんは照れ隠しが下手だね。よりにもよって宗谷みたいな朴念仁を誘うなんて。ウソがバレバレだよ」
「…………」
すでにため息が止まらなかった。
智実と大家さんは、日当たりのいい窓辺のボックス席に向かい合うようにして腰掛けている。それを俺たちは奥まったところにある席――さらに言うなら、大家さんからは見えず、智実からは見える位置にある席――に座って、こそこそと彼らを覗いているわけだった。
こちらのメンバー構成は、雑兵こと宗谷士狼、変態ナルシストこと周防公人、狼少女ことニノ・ヘルシングの計三人である。
なぜ関係のないニノが混じっているのか、実をいうと俺にもよく分からない。
「おい。さっきから聞きたかったんだが、なんでおまえがここにいるんだよ」
「そりゃあ暇だったからよ。今日はなーんにも予定がなかったしね。それにこんな面白そうな話に乗らない手はないでしょ?」
なにが楽しいのか、獣耳さんをピコピコと軽快に揺らしながらニノは言った。
「……まあ百歩譲って、おまえの同行を許してやるとしてもだ。とにかく俺から離れろ。暑苦しいんだよ」
「もう、士狼は相変わらずなんだから。こんないい女がそばにいるんだから、もっと笑ってもいいんじゃない?」
ここは四人がけのボックス席である。俺とニノが並んで座り、その対面のソファを周防が独占している。
さっきからニノのやつは機嫌よさそうに微笑みながら、俺の腕を抱きしめて離さないのだ。かたちのいい豊かな谷間にむにゅんと挟まれる俺の左腕は、果たして被害者なのか加害者なのか、なんとも判断の難しいところである。
鼻先をかすめる綺麗な赤い髪と、もう嗅ぎなれてしまったニノの甘い香り。……なんかこいつ、今日はやけにいい匂いがするな。髪も微妙に湿ってるし、もしかして朝風呂でも入ってきたのだろうか。
「あー、ニノちゃん? 僕という絶世の美男子に目が眩んでしまって、宗谷という箸休めのごとき醜悪な存在に食いつきたくなる気持ちは分かるんだけど、そろそろメインディッシュを思い出してもいいんじゃないかい?」
「うん? だからウチはいま、メインディッシュを味わってるじゃない。またあとで周防に構ってあげるから、いまは大人しくしてて」
「大人しくできるわけないだろう! 一体、君はどうしてしまったというんだい!? 僕が大トロだとするなら、宗谷はガリのようなものじゃないか!」
周防の言葉のなにが癇に障ったのかは分からないが、ニノはむっと目を細めた。
「うるさいわね。ガリのくせに」
「いつまで続くんだこの照れ隠しはー!」
「気安く話しかけないでよ。ヘンタイ」
「うおぉぉぉぉーっ! まるで道端の虫を見るような目で罵倒されたー! でもちょっとだけ心地いいと感じる僕がいるー!」
頭を抱えて悶える姿からは、どこからどう見ても隠密行動をしている自覚があるとは思えない。いちおう俺たちは大家さんに見つかってはいけないのに。
「ねえ士狼。さっきから無駄話してばっかりだけど、あの二人のことは放っておいていいの?」
やや不安そうに小首を傾げるニノは、遊び半分でついてきたわりにはそれなりの使命感を持っているようだった。周防とは大違いである。
「ああ、いいんじゃねえか? いまのところは自然に会話できてるみたいだしな」
ちらりとソファから身を乗り出して、二人の様子を観察してみた。ぎこちない智実と、天然でぽわぽわとした大家さん……なるほど、足して二で割ると、ちょうど『普通』になる塩梅だ。
まだ午前九時を回ったばかりだが、今日は土曜日なので店内にはちらほらと客の姿がある。どうせならもうすこし賑わってくれたほうが俺たちとしては隠密行動をとりやすいのだが、そこまで望むのは無理か。
ピョコっ、と獣耳が跳ねる。
「結構いい雰囲気ね、あの二人。……ああいうの、ちょっと憧れるかも」
ちらちらと俺のほうを伺いながら、なにかを期待するような視線を送ってくる。
「なあ周防、腹減ったからなんか食おうぜ」
「ちょっと! どうしてウチじゃなくて周防に構うのよ! 士狼はそんなにガリが好きだとでも言うの!?」
「だから僕はガリじゃないって言ってるじゃないか! ニノちゃんは顔も身体もパーフェクトだが、唯一の欠点があるね! それは男を見る目さ! いい加減、君もシャルロットちゃんや雪菜ちゃんみたいに僕の素晴らしさを理解してくれよ!」
勝手に周防ファンにさせられるバカ吸血鬼と自称陰陽師であった。
「――お客様? あまり気持ち悪い発言をなさらないでくださいますか? 思わずぷちっと潰しちゃいそうですので」
耳に心地いい女の声――しかし、かすかな怒気を孕んでいる気がする。
俺たちが揃って視線を向けると、そこにはシャルロットが――いなかった。
代わりにいたのは、可愛らしいブルーメンの制服に身を包み、怒りに震える手でトレイを抱える少女。まだ幼さの残る美貌の持ち主。綺麗な弓形を描く眉がつりあがっているところから見るに相当、ご立腹のようである。
「なっ、なななっ、なっ、なっ!」
これは予想外だったのか、周防の顔が固まった。
ちなみに俺も固まった。
ニノだけは「そういえば言ってなかったかな?」と得心した顔である。
「いらっしゃいませ、お客様。あたしは先週からこの店で研修をさせていただいている、周防円佳です。いずれはシャルロットさんやニノさんのようにいっぱしの戦力となるよう努力するつもりですので、どうぞよろしくお願いします。……ね、お兄ちゃん?」
天使のような微笑みを浮かべて首を傾げてみせる、少女あらため周防円佳。年季の入った黒いリボンと、サイドポニーの房が揺れた。
****
公人のもとに死神が――否、士狼とニノのもとに新米ウェイトレスが訪れたのとまったくの同時に、智実たちの席にはシャルロットが姿を見せていた。ポニーテールに結われた金色の髪。色白の肌。深紅の瞳。
仕事中なのにも関わらず人懐っこい笑顔を浮かべるシャルロットは、紛れもないブルーメンの看板ウェイトレスであった。ニノは小さな子供と成人男性を中心に人気を集めているが、シャルロットは老若男女問わず慕われている。
「わあっ、大家さんだー! 智実もいるー! もしかして私の仕事ぶりを見に来てくれたのかなっ?」
近くに座っていた常連客が振り向く程度には大きな声だった。
まわりの人々の視線が集中する。
高梨沙綾とデートをしている姿を見つめられるのが気恥ずかしく感じた智実は、こほん、と小さな咳払いをした。ちなみにもう一回、続けて咳払いをすると、公人たちに助けを求めるという合図になる。
「シャルロットよ。いくら顔見知りとはいえ、親しき仲にも礼儀は必要だとオレは愚考するぞ。それが勤務中なら、なおさらだ」
「あっ、そういえばそうだった。こないだマスターに怒られたばかりなのに……」
くりっとした大きな瞳をうるうると潤ませる。その可愛らしい様子を見ていた常連客は、ウェイトレスらしからぬシャルロットの様子を、あろうことか微笑ましそうに見つめていた。まるでこうでなければブルーメンじゃない、とでも言うように。
「あらあら、シャルロットちゃん。そんなに落ち込まなくてもいいのよ。山田さんも怒っているわけじゃないんですから」
口元に手を当てて上品に笑った沙綾は、しゅんと項垂れるシャルロットの頭を優しく撫でてやった。するとシャルロットの顔がふにゃふにゃに緩み、世にも幸せそうな吐息が、小さな唇から漏れた。
しばらくして、子犬のような顔から、ビシッと引き締まったウェイトレスの顔になったシャルロットは、
「それでは気を取り直して――いらっしゃいませ、お客様。今日は雲ひとつない晴れ。カップルがデートをするには絶好の日ですよね。それではご注文を」
「ぶっ!」
ちょうど水を飲んでいた智実は、寸前のところで沙綾に噴きかけるのを堪えた。
シャルロットの口調にはまるで含むものがなかった。つまり『カップルがデートをするには絶好の日』と彼女が言ったのは、紛れもない偶然なのである。
きっと慕っている沙綾のまえだからこそ、いつもは言わない気の利いた前口上を述べたのだろうが、それはただでさえ早鐘を打っていた智実の心臓にダメージを与える結果となった。
「……? 大丈夫ですか、山田さん?」
「あ、ああ。すまない。大丈夫だ」
天然気質といっても過言ではない沙綾は、智実の心情にまったく気付いていない。それはシャルロットも同様だった。
結局、朝食を抜いてきた二人は、シャルロット一押しの軽食をオーダーすることになった。また智実はコーヒーを、沙綾は紅茶をそれぞれ注文する。
シャルロットは手馴れた手つきで専用の紙にオーダーを記し、それを復唱した。ちなみにブルーメンは電子機器を使わず、紙に注文内容をメモするシステムである。
「はい、ご注文は以上でよろしいでしょうか?」
滑舌のいい声で復唱を終えたシャルロットは、確認するように智実と沙綾を交互に見た。
「うむ。見事だ」
「よく頑張ったわねぇ、シャルロットちゃん」
またしても沙綾に頭を撫でられたシャルロットは「えへへ……」と得意げに笑みをこぼした。
それから凛とした所作できびすを返し、金髪赤眼の吸血鬼はマスターのいる厨房へと――
「あっ」
――引き上げようとした瞬間、なにかを思い出して歩みを止めた。
怪訝顔をする智実と沙綾。
シャルロットは言う。
「そういえば店の奥のほうに、士狼たちが――ひぃっ!?」
うっかりと口を滑らした(まあ彼女は頭の出来を士狼に危惧されて、事情を知らされていないのだが)シャルロットは、次の瞬間、智実の殺気を総身に受けて背筋を凍らせた。
目尻に涙を溜めてあとずさるシャルロットに向けて、智実はドスの利いた声で釘を刺す。
「……感心できんな。いまのおまえは仮にも社会の歯車たる身だ。うかつな言動は、その他大勢の人間に迷惑をかける可能性がある。分かるか?」
「え、えっと、話が難しくてよく分からな……ひいぃぃぃぃっ!」
「分かるな、シャルロットよ?」
「は、はひぃっ! 分かりましたー!」
脱兎のごとく駆けていくシャルロットの背中を見て、智実は小さくため息をついた。彼女はマスターに注文を告げたあと、新たに訪れた客の対応に追われていた。
「シャルロットちゃん、様子がおかしかったようだけれど、大丈夫なのかしら」
頬に手を当てて首を傾げる沙綾。
どうやら気付かれていないらしい、と智実は胸を撫で下ろした。
「なに、きっと急用を思い出したのだろう。高梨さんが心配することはない」
「ですが……」
「それよりもっと貴女の話を聞かせてほしいのだが。ダメかな?」
わりと恥ずかしい台詞だったが、智実も沙綾も気にした様子はない。そういう意味では二人の相性は悪くないと言えよう。
沙綾は目元を和らげた。
「……わかりました。こうして山田さんとゆっくり話すのは久しぶりですから、私もたくさんお話しますね」
****
「そうですね、ちょうど一週間ぐらい前からです。シャルロットさんとニノさんが推薦してくれたので、思いのほかあっさりと採用していただいて」
「なっ、なっ、ななっ!」
円佳は愛想よく事情を説明してくれた。そのかたわらでは不肖の兄が、驚きのあまり大口を開けて石化している。どうやら知らされていなかったらしい。
「どうですか、宗谷さん。あたし、似合ってます?」
照れくさそうな顔でくるりとターン。ほどよく引き締まった白い太ももがあらわになる。ブルーメンの制服は膝あたりまでのスカートなので、激しい動きをすると相応の役得が周囲の男どもにもたらされる。
そもそも円佳は将来が楽しみな美形なので、よほど奇異な服じゃないかぎりは着こなせる。事実、衣装負けはしていない。
「ああ、まあいいんじゃねえか? 似合ってると思うぞ」
「本当ですかっ? やったっ」
きっと顔見知りの異性からどう評価されるのか心配だったのだろう、円佳は愛らしい笑みをこぼした。
そのとき、視界のすみで獣耳がピンと尖るのが見えた。
シャルロットに並ぶもう一人の看板ウェイトレスは、偉そうに腕と脚を組んでふんぞり返りながら、
「ふん、士狼に褒められたからって図に乗らないことね。円佳はまだ研修中の身なんだから。外見を気にする暇があるなら仕事内容を気にしなさいよ」
「いやいや、おまえいきなり先輩風吹かしすぎだろ。さすがに後輩をいびるのは止めろよ」
「いいんです、宗谷さん。確かにニノさんの指導は厳しいですけど、でも、あたしが困っているときに真っ先にフォローしてくれるのは決まってニノさんなんです」
落ち込むどころか、憧憬の眼差しでニノを見つめる円佳。俺の知らないところで狼少女は活躍しているようである。
尖っていた獣耳がピョコっと跳ねる。
「……お、おだてたって何もでないわよ。これからもビシバシいくから覚悟しなさい」
「はい、お願いします。あたしもいつか、ニノさんみたいな格好いい女の人になれたらいいなぁ」
「それは無理ね。でもまあ、目指すだけなら自由だけど」
不遜な物言いである。
ところが円佳は、ほっと胸を撫で下ろした。
「よかったぁ。もう勝手に目指しちゃってたから、怒られるかと思いました」
獣耳さんが目ざとくピコピコと軽快に揺れる。
ニノはかすかに頬を赤くしながらそっぽを向いた。
「……ふん。せいぜい厳しく指導してあげるから、しっかりと働きなさいよ」
「もちろんです! これからもよろしくお願いしますね、ニノさん!」
無邪気な後輩の努力を認めないわけにはいかない先輩の姿がそこにはあった。相変わらず素直じゃないニノは、年下の可愛らしい後輩ができたことを喜びながらも、それを口に出すことはできず、行動で愛を示すつもりのようだ。
「なっ、なっ、なっ、なななっ!」
しかし。
一件落着かと思われた案件を蒸し返せずにはいれない男がいた。他でもない円佳の実兄、周防公人である。
これまで蓄積していた圧倒的な何かを爆発させるように、周防は叫んだ。
「なっ――なんで僕に一言も相談しないんだっ!? おまえはまだ高校一年生なんだぞ!? アルバイトするには早すぎるだろう!?」
それはかなり大きな声だったが、幸いにも大家さんには聞こえていないようだった。距離的に遠いということもあるが、それ以上に、あの人が天然なのだ。
周防はわりと本気で怒っているというか戸惑っている様子だが、それに対する妹はしたたかだった。
「はぁ……あのね、お兄ちゃん。あたしはもう十六歳なんだよ? アルバイトできる年齢なんだよ? 自主的に社会勉強しようとする妹を褒めはしても、べつに怒鳴ることはないでしょ?」
「これが怒鳴らずにいられるかって話だよ! 僕はおまえがアルバイトすることを許した覚えはないぞ! それに、おまえ、そのスカート!」
「……? スカートがどうかしたの?」
「どうかしたの、じゃないだろう!? そんな膝小僧さえも露出しそうな短いスカートを穿いたら、健全な若い男じゃなくても見るよ!」
周防の表現にやや誇張があったので訂正。
確かにブルーメンのスカートは『どちらかといえば』短い部類には入るが、そこまで心配するほどでもない。まあ学校のスカートよりちょっとだけ短いかな、程度である。どんな神風が吹こうと下着が見えることはないだろう。
どんどん呆れ顔になっていく円佳。
「まあお兄ちゃんの心配も分かるけど、ちゃんとニーソックスを穿いてるから大丈夫よ。これなら素足も見えないし」
「なにを愚かなことを言っているんだ! その長さのスカートとニーソックスという組み合わせこそが、僕の懸念する最大のポイントに決まってるだろう! その制服のスカートは、ただ直立しているだけじゃ膝小僧が見えるか見えないかぐらいの長さだが、ウェイトレスが動きまわることによって裾が絶妙な具合でひるがえってしまうんだ! この意味が分かるかい!? つまり円佳は、パっと見はタイツで生脚を隠す女だけど、店が忙しくなり激しい動きが増えるとチラチラとスカートがまくれあがってしまい、隠された真実であるニーソックスと、そのさらに上にある艶かしい太ももが露出してしまうんだよ! 結果として男どもは『またあの子の太ももが見たいなぁ』と期待して、動きまわる円佳を眼で追うことになるんだ! これでおまえが初めからタイツを穿いていれば、まず間違いなく『サービス精神の悪い女』と見なされて興味が失われることに成功するものを……! なのに、どうして円佳はニーソックスを選んだんだ! 僕に説明してみろ!」
「宗谷さん、ニノさん、ご注文はどうしますか?」
「――って僕の話を聞けえぇぇぇぇぇーっ!」
「いやよ。だってお兄ちゃんの話、長いんだもん。それにところどころ意味が理解できなかったし」
「安心してくれ、僕も自分でなにを言っているのかいまいち分からなかった。……とにかく、だ。僕はおまえがアルバイトすることを認めない。それだけ理解してくれればいいよ」
飽くまでも突っぱねる兄に業を煮やしたのか、円佳が不服そうに目を細めた。
「いい加減にしてよ、お兄ちゃん。そんなにあたしのことが信用できないの?」
突き放すような声。
さすがに頭が冷えたらしく、周防は罰の悪そうな顔をした。
「あぁ、いや、べつに信用してないわけじゃないぞ? でも僕は……」
「もういい。お兄ちゃんはいつまで経ってもあたしを子供扱いするんだ」
それから円佳は、愛想のいい笑顔で俺たちに振り向いた。周防のことは無視するつもりらしい。俺とニノが揃って軽食を頼むと、想像していたよりもてきぱきとした対応をし、厨房のほうに引き上げていった。
「……なんだよ、円佳のやつ」
不平を漏らすその顔は、どこか寂しそうに見えた。客が増え、賑わってきた店内を忙しなく駆けまわる円佳の肩も、さっきより落ち込んでいる気がした。
「まったく、素直じゃないわね」
ニノが大きなため息を漏らす。
「……まあ俺たちが手出しする問題じゃねえよ」
智実と大家さんのデートをサポートするのが本来の目的だっていうのに、この調子じゃあ周防は使い物にならないかもしれない。さすがにもう殴られるのは面倒なので、今度ばかりは不干渉を決め込もう。
そうこうしているあいだにも客は増えていく。円佳は研修中とは思えない手際で現場をさばいていた。きっと相当、努力したのだろう。兄に褒めてもらいたいがために。
「おい周防。妹を心配する気持ちも分かるが、シスコンはほどほどにしとけよ」
「僕はシスコンじゃないわ! さっきの会話を聞いてただろう? 僕たちのあいだに兄妹愛は存在しないのさ」
「まったく意固地だな。巻き込まれる俺たちの身にもなれってんだ」
なにをどう言っても周防の姿勢は変わらない。妹が可愛いのは分かるが、さすがに過保護がすぎると思う。ここは信頼できる人間が経営してる店だし、従業員のなかにはバカ吸血鬼と狼少女が紛れ込んでいる。円佳のアルバイト先をこの街から選択するとしたら、まず間違いなくブルーメンを超える職場はない。
「……はぁ」
俺とニノは顔を見合わせ、盛大なため息をついた。
****
午前十時をまわる頃になると、店内の席は半分以上が埋まってしまう。これからお客さんが増えることはあっても減ることはない。恐らく、あと一時間もしないうちに席は全部埋まるだろう。つまり本当に忙しくなるのはこれからなのだ。
ブルーメンの大人気商品である私は、研修中の身である円佳を見守りつつ、大人のお姉さんさながらの頑張りを見せていた。
でも私の心には小さなしこりが残っていて、それが集中の邪魔をする。
「……こそこそ」
物陰に身を隠し、大家さんと智実のほうを観察してみた。ぎこちないながらも楽しく会話する二人。それはとてもいいことである。でも、だとするならさっき私が怒られたのはどうしてなのかな……。
もしかして自分でも気付かないうちに、智実の機嫌を損ねちゃったのかな? なんか、すんごく怖い顔してたし。
「うー、分からないよー」
頭を抱えてああでもないこうでもないと悩んでいると、近くの席に座っていたお客さんに生暖かい目で見られてしまった。
「え、えへへ……」
などと苦笑してから、私は足早にその場を離れた。
とりあえず一人で考えていても始まらないので、士狼たちに挨拶しよう。ちょうどお客さんにも一通りオーダーが行き渡ったし、しばらく私たちが呼ばれることはなさそうだし。
奥まったところにあるボックス席は、構造の関係や、近くに置かれた観葉植物のせいで、やや人目につきにくい。あまりお客さんからは人気がない席なんだけど、士狼たちは落ち着くという理由から、よくそこを利用するのだった。
よし、とにかく笑顔でいこう。
「おはよう、みんな! 本日はお日柄もよく、空も晴れて……」
尻すぼみになる声。
向かい合うようにして設置されている二つのソファには、やけに意気消沈した周防と、そして――身体をぴったりとくっつけてイチャイチャする士狼とニノがいた。
二人の視線が私に向く。周防はあさっての方向を見つめたまま微妙な顔をしていた。
「はあ? 本日はお日柄もよくって、そんなことを言うウェイトレスは初めて見たぞ」
士狼め、相変わらずの悪口である。
「だれかと思えばシャルロットじゃない。どうかしたの?」
小悪魔のような笑み。
ニノは士狼の左腕を抱きしめたまま、ほとんど無理やり寄り添っている。
もちろん黙って見ていることできない。
「ちょっとちょっとー! ブルーメンでは公序良俗に反する行為は禁止のはずだよ! そんなにくっついてるとマスターに怒られるんだから!」
「うるせえな。俺じゃなくてニノに言え。こいつが離れようとしないんだよ」
「つ、つまり悪いのはニノってことだから……ちょっとニノー!」
珍しく気持ちよさそうな顔をして獣耳さんをピコらせるニノを、キッと睨みつける。でも当の本人は、私の怒りなんてどこ吹く風だった。
「ねえシャルロット。それって嫉妬?」
「なっ――」
かあ、と顔が赤くなるのが分かる。
ニノは悪びれることなく、むしろ私を挑発するように意地の悪い目をしていた。
「……し、士狼はそれでいいの?」
「よくねえよ。でも抵抗すんのも疲れたし、もうニノが飽きるのを待つことにした」
「さすが士狼。そういうところ、好きよ」
「うー!」
じたばたと地団太を踏んでみるが、それで事態が解決するはずもない。
「ふんだっ! もういいもん! 士狼のバカ! ニノのアホ! 二人して変態さんになっちゃっても知らないんだから!」
自然と頬が膨らむのが分かる。
私は士狼たちに背を向けた。背後から「どうしたんだ、あいつ?」とか「さあ? へっぽこ吸血鬼のことなんて放っておきましょうよ」とか聞こえてきたけど、あえて無視した。もう二人とは口を利いてあげないのだ。
でも、士狼も抵抗したとか言ってたわりには、あんまり嫌そうじゃなかったような。やっぱりあの谷間に腕を挟まれるのは、男の人にとってやぶさかでもないのかな。
「…………」
私は制服の胸元を引っ張って、開けた隙間から中を覗いた。確かに大きいとは言えないけど、かたちや柔らかさには自信があるんだけどなぁ。
「はぁ……」
がっくりと肩を落とす私だった。
そのとき、ちりんちりんとベルが鳴った。この澄んだ音色こそが、お客さんの出入りを示す合図でもある。
視線を移動させる――と、入り口のところに人影が。
私は無理やり笑みを取り繕って、お客さんを出迎えた。
「いらっしゃいませ! お一人様ですか、それとも――あっ」
その人の顔を見た瞬間、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。
たぶん、周防とおなじぐらいの年齢の男性である。オシャレな服に身を包み、肩にかばんを引っさげている。身長はかなり高く、顔立ちも爽やかだ。
いわゆる美形の類には余裕で入るんじゃないだろうか。少なくとも周防と同等か、それ以上なのは間違いないと思う。
彼はブルーメンをよく利用してくれる常連さんの一人だった。いつも人の少ない朝にやってきては、ここでごはんを食べていく。まえに一度、世間話したときに聞いた情報によると大学生らしい。
たしか名前は、望月さん。
「……こ、こんにちは」
じーと見つめていると、なぜか望月さんは顔を赤くして俯いてしまった。
「はい、こんにちは! いつもありがとうございます!」
いまの自分にできる最大限の笑みを浮かべてみた。よく士狼に人懐っこい笑顔とか言われるけど、ここだけの話、私としては色っぽい大人の女を演出しているつもりだったりする。
望月さんの様子がすこしおかしいような気がしたけど、よく考えれば、これはいつもの反応だった。
だって私が笑ったり、コーヒーを給仕するときに身体が当たっちゃったり、お会計のときに手が触れたりすると、望月さんは頬を赤らめて身を引くんだもん。
私は空いている席に望月さんを案内した。この時間だとボックス席は埋まっちゃうので、仕方なくカウンター席を使ってもらうことにした。
彼はメニューを見ながら、
「……えっと、それじゃあ俺は」
「ブレンドですよね?」
「え? あ、はい、まあ……でもどうして?」
私ほどの凄腕になると、常連さんの好みなんて把握していて当たり前なのだ。
きょとん、とする望月さんに私は言う――大人の女の決めゼリフを。
「あはっ、ウェイトレスたる者、お客様の『いつもの』ぐらい覚えていて当然でしゅ――痛っ! し、舌かんだー!」
痛いよー。
舌がひりひりするよー。
目尻に涙を浮かべて悶える私を見て、望月さんはとても優しげに微笑んだ。
「……はい。それじゃあ『いつもの』をお願いします」
「うぅ、……わ、分かりました」
情けないところを見られちゃったという羞恥心に苛まれながら、私はとぼとぼと厨房に引き上げていった。
ずっと私の背中を望月さんが見ているような感覚があったけど――いまはできるならそっとしておいてほしかった。
****
「ん?」
これまで沈黙を保っていた周防が、自分よりもいい男を見つけたときのような反応をした。
「なんだよ。自分よりいい男でも見つけたのか?」
「はっ、宗谷の頭の悪さが露呈した瞬間だね! 僕よりいい男なんて存在するわけないじゃないか! テレビで男性アイドルグループを見るときも、その液晶画面に反射した自分の顔のほうにいつも見蕩れるぐらいさ! この星において、僕に追随できる男なんてまずいないね……と言いたいところだけど」
珍しく謙虚な周防。その物憂げな視線の先を辿ってみると、明らかに周防を上回っていそうな男前がいた。
そいつは一人でカウンター席の隅のほうに腰掛けて、キャンパスノートを開いている。勉強でもしているのだろうか。
「あの周防よりもいい男がどうかしたのか?」
「えっ、そんなやつどこにいるんだい?」
「…………」
すげえ。
いまの台詞には一切、演技らしいところがなかった。つまり周防は、本気で自分よりもいい男がいないと確信しているのだ。もはや尊敬するレベルである。
「……まあいいか。んで、あいつがどうかしたのか?」
「どうかしたってわけじゃないんだけど、ただ、僕とあの男は大学が同じなんだよ」
「ふーん。じゃあ挨拶でもしてくればいいじゃねえか」
「いいや、たぶん向こうは僕のことを知らないから無理だね」
「は? どういうことだ?」
「これは非常に認めたくない事実なんだが、あの男――望月啓志は、僕の通っている大学ではちょっとした有名人なのさ。そう知名度があるわけじゃないけど、あいつは読者モデルをやってるんだ。しかも父親は外資系企業の重役だって噂もある」
「へえ……」
つまり周防は、自分の地位(果たしてそんなものが築かれているのかは知らないが)を脅かすかもしれない天敵を警戒しているのだ。
「でも、そんな女に人気のありそうな野郎が、どうして一人でブルーメンに来るんだよ」
「知らないね。僕が聞きたいよ」
まあ会話したこともない他人の思惑を、俺たちが理解できるはずもない。
しかし。
ブルーメンの看板ウェイトレスその二である狼少女は、さきほど届けられたカルボナーラをついばみながら、さも当然のように言う。
「あの男、この店の常連よ。ほとんど毎朝、ここに通ってる。だって彼、シャルロットに惚れてるもの」
「…………」
顔を見合わせる俺と周防。
沈黙。
獣耳がピョコっと跳ねる。
「うん? どうかした?」
「そりゃあな」
「当然だよ」
俺と周防は、まったくの同時に言う。
「あの間抜けなバカ吸血鬼に惚れる男がいるなんざ信じられねえよ」
「僕のシャルロットちゃんに近づく男がいるなんて信じられないよ!」
ふたたび、顔を見合わせる。
無駄なシンクロを披露した俺たちを尻目に、ニノはおしぼりで口周りに付着したホワイトソースを拭っていた。
「まあ見てたら分かるわよ。あの子――望月だっけ? とにかくその望月は、ここにいるあいだ、ずっとシャルロットを目で追ってるんだから。まあ当の本人はまったく気付いてないけどね。バカだから」
俺はニノの獣耳を見た。
「……なるほど。嘘は言ってないらしいな」
「当然よ。ウチが士狼に嘘をつくわけないでしょ?」
ニノは前傾姿勢を取った。こいつは平均よりも露出度の高い服を着ているので、ただでさえ扇情的なプロポーションが強調される。かたちのいい谷間がぶるんと弾んだ。
それを無視して、俺は周防とともに望月さんちの啓志くんを観察することになった。
「お待たせしました、こちらブレンドになりますねー」
今日は調子がいいのか、珍しくバカ吸血鬼が空気を読んだ。俺たちに見られているなど露とも知らないシャルロットは、望月のもとに淹れたてのコーヒーを届けた。
人懐っこい笑みを浮かべるシャルロットは、給仕することに専念しているため、気付かない。
たまにコーヒーをこぼしてしまうあいつは、カップをテーブルに置くまでのあいだは気を抜くことを許されないので、気付くだけの余裕がない。
望月は熱の帯びた瞳で、ずっとシャルロットのことを見つめていた。
身体が触れるたびに純情な少年のようにびくっと驚いて、頬を赤くする。金色の髪がかすめるたびに鼻を鳴らす。無邪気で明るい横顔に見蕩れては幸せそうに笑みをこぼす。
一人の吸血鬼に心を奪われてしまった周防よりもいい男が、そこにはいた。