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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
第五月 【本日も晴天なり】
85/87

其の六 『研究』

 ニノの部屋で、私たちは力尽きていた。

 実はついさっきまで壮絶な死闘――ただしトランプで――を繰り広げていたので、私たちは心身ともに疲れ果てた状態だった。

 年頃の女の子が、四肢を投げ出してぐったりとしている様子は、どことなく物悲しいような気がしなくもない。

 千鶴は壁を背もたれに座って灰色に燃え尽きてるし、雪菜は「ギブですー」とか言って仰向けに寝転んでるし、ニノはうつ伏せに倒れたまま動かない(でも時折、獣耳がピクっ、ピクっ、と痙攣してるけど)。

 女のプライドを賭けたトランプゲームは、私たちの体力を根こそぎ奪っていった。敗者には罰ゲームがあったりもして、まさに『友情なんて知るかー!』と言わんばかりの醜い争いだったのである。

 私も、ニノも、雪菜も、千鶴も――誰も、なにも喋らない。

 それでも沈黙が心地いいというか、自分でもよく分からないけど、とても落ち着く。

「……くんくん」

 あれ。

 なんかいい匂いがするような。私の気のせいかな。

 でもお腹減ってるし、私と雪菜が買ってきたお菓子も全部食べちゃったから、美味しくて甘いものが食べたい。

 そんな私の願いが通じたのか。 


「みんなー、おやつができましたよー」


 どことなく間の抜けた声とともに、障子が開いた。いい匂いが強くなる。

 部屋に入ってきたのは、大きなトレイを持った高梨沙綾さんだった。いつも柔和な笑みを浮かべている彼女は、このあたりでは評判の美人大家さんである。ちょっと天然なところもあるけど、裏表がなく、私が落ち込んでたりすると、なにも言わずにとなりに座って頭を撫でてくれるような人なのだ。

 どうやら大家さんは、私たちのためにデザートを作ってくれていたらしい。

「うぅ……大家さーん」

 エネルギーを補充するために、私は大家さんに抱きついた。

「あらあら、シャルロットちゃん。それにみんなも。遊ぶのはいいけど、あんまり無茶はしないでね」

 苦笑して、大家さんが頭を撫でてくれた。

「んー、もっと撫でてー」

「ふふ、よしよし」

 さらに苦笑した大家さんは、私を優しく抱きしめて、乱れた髪を整えてくれた。なんだか眠くなってきちゃった。このまま睡魔に身を委ねてしまいたい。

 ぼやけた視界の中、身体を起こしたニノが、不機嫌そうな顔をしているのが見えた。獣耳がピンと尖っている。

「……ほら、シャルロット。大家さんが大変そうだから、早く離れなさいよ」

「えー、べつに大変じゃないもん」

 甘えたいざかりの私は、視線だけで『迷惑じゃないですよね?』と大家さんに聞いてみた。もちろん大家さんは目元を和らげたまま、ゆっくりと頷いてくれた。

 それでもニノは納得がいかないらしく、

「い、いいから離れなさいよ。一人占めは駄目なんだから」

 私は腕を引っ張られて、大家さんの胸の中から強制的に退かされてしまった。

 畳の上に放り出された私は、天国から地獄に堕とされたような錯覚に陥った。まったくもって納得がいかない。いくらニノでもやっていいことと悪いことがあると思うのだ。これは一言、ガツンと言ってあげたほうがいいかもしれない。

「ちょっとニノー! こう見えても私は百年近く生きてるんだから、もっと尊敬の念を持って……」

「うっ、急に頭が」

 ニノはこめかみを押さえて、ふらふらとよろめいたかと思うと、大家さんの胸元に飛び込んだ。絶対わざとである。

 でも大家さんには、狼少女の演技が見破れなかったらしい。

「あらあら、ニノちゃん、大丈夫? 頭が痛いのなら、お薬を持ってきましょうか?」

 私のときと同じように、大家さんはニノを優しく抱きしめた。獣耳がピコピコと跳ねまわる。当の本人は、珍しく素直な顔をしていた。

「ううん、薬なんていらないから、もっとこのままで、ママ……じゃなくて、大家さん」

「ママでいいのよ。ニノちゃんは私の娘のようなものなんだから」

 ピョコっ、と獣耳が反応した。相変わらず目敏いやつである。でも憎めないところが歯がゆい。

 聞くところによると大家さんは、ニノの母親によく似ているという。両親と死別してしまった彼女が甘えたいと思うのは当然かもしれない。

 ただ大家さんを取られた立場にある私としては当然、面白くない。

「……ふむ、この匂いはアップルパイですか。それもブルーメンのマスターに勝るとも劣らぬ腕前と見ました」

 寝転がっていた雪菜が「むくりなうですー」と呟きながら、身体を起こした。

 そういえば――大家さんがなにかを持ってきてくれてたっけ。

 畳の上に置いてある大きなトレイには、見ているだけでも涎が出てきそうなデザートが鎮座なさっている。それは四人分のアップルパイだった。

 ぐう、とお腹が鳴る。

 壁にもたれかかっていた千鶴も、甘い匂いに釣られたように顔を上げた。

「もういやだ……なにもかも忘れたい……食べて、忘れたい……」

 どうやらトランプの罰ゲームが、千鶴の心に大きな傷を残したようである。まあ私も思い出したくないのは同意だけど、あれだけ落ち込んでるってことは、よほど辛かったのか。

「大家さん。このリンゴはどちらの?」

 鋭い評論家のような目をした雪菜が、アップルパイを見つめてそう言った。

「ご近所の商店街よ、雪菜ちゃん」

「なるほど。では使用した材料は?」

「リンゴの他に、バター、砂糖、シナモン、レモン汁、薄力粉、強力粉、溶き卵、あとは隠し味の調味料をいくつか……かしら?」

 頬に手を添えて、ちょっぴり気恥ずかしそうに大家さんは笑った。あまり大したものを使ってなくてごめんね、と言いたいんだろう。

 しばらく考え込んでいた雪菜は、不意に顔を上げて、

「合格です」

「合格? 雪菜ってば、なに言ってるの?」 

「いえ、気にしないでください。それよりも大家さん、できればあとで詳しいレシピを教えていただけると嬉しいのですが」

「もちろん。また今度、教えてあげるわね」

「はい。よろしくお願いします」

 この二人は、たまに休日に集まって料理の勉強……というか、レシピの教えあいみたいなのをしているのだった。雪菜は和食以外にも手を伸ばしたいらしく、洋食やデザート関係にも明るい大家さんによく頼っている。

 それから私たちはアップルパイを小皿に取り分けた。温かい紅茶も淹れて、それらを折りたたみ式の小さなテーブルの上に載せた。

 大家さんの作ったアップルパイはほっぺが落ちるほど美味しくて、私たちはほこほことした笑顔をこぼしながら舌鼓を打った。

「これ美味しいね、千鶴」

「ああ。擦り減った心には甘いものが効くしな……」

「……それを言うなら疲れた身体には~、じゃないかな?」

「ニノちゃん。リンゴを食べないなら私がいただきましょうか?」

「これは食べないんじゃなくて、最後の楽しみにとってあるのよ。だから――って、フォークを伸ばさないでよ、せっちゃん!」

 そうして私たちは栄養補給を終えた。とても穏やかな時間である。

 でも、それは嵐の前の静けさに過ぎないのだと――このときの私たちは知らないのであった。



****



 それは俺の部屋で、智実のオッサンと酒を飲んでいたときのことだった。

「だれか来たようだ」

 発泡酒を持った智実が、やや警戒したような声色でそう言った。

 相変わらず律儀にスーツを着ているオッサンの頬は、ちっとも赤くなっていない。かくいう俺もシラフ同然なので、第三者がいまの俺たちを見れば、ノンアルコールビールで酒盛りをしてるように見えるだろう。

「たしかにさっきから足音が近づいて来てるな。どうせシャルロットか雪菜だろ?」

「いや、女の足音ではない。この気品に欠けたリズムは、恐らく若い男性のものだ」

「女じゃねえってことは……あいつか」

 うむ、と智実が頷いた瞬間、扉がドンドンと遠慮なくノックされた。絶対あいつである。

『宗谷ー! ここを開けてくれー! 僕だー!』

 くぐもった周防公人の声。

 それを無視して、俺は酒を呷った。

「宗谷よ。対応しなくてもいいのか?」

「ああ。だってあいつの顔を見たら、せっかくの酒が不味くなっちまうだろ。大家さんも言ってたじゃねえか。食い物や飲み物を粗末にすんなって」

「む。高梨さんがそう言っていたのなら、オレも従おうではないか」

 周防を無視することに決めた俺たちは、他愛もない話を交わしながら酒盛りを続けた。

『おい! 僕だよ宗谷! 大事な話があるんだ! ずっと待ち続けていたチャンスが到来しちゃったんだよ! だからここを開けてくれー!』

 懲りない周防は、もはやノックというより嫌がらせに近い力でドンドンと扉を叩いて、必死に存在をアピールしてくる。

「それで姫神のやつと決闘することになってよ、あのときは参ったぜ」

「ほう。オレが暦荘を離れている間に、そんなことがあったのか」

『聞こえてないのかい!? 天使の調べとまで言われた僕の声を無視するなんて正気の沙汰じゃないぜ、宗谷!』

「宗谷よ。これは少々、失礼な発言に当たるのだが、もしやシャルロットは頭の出来が芳しくないのではなかろうか。この間、あの子が部屋に忘れ物を取りに行くのを連続して三回ほど見かけてしまったのだが」

「なんだよ、知らなかったのか? あいつはバカって呼ばれると喜ぶぐらいのバカだぞ。これからは智実も、シャルロットをバカって呼んでやってくれ」

「了解した。心に留めておこう」

『いいのかい!? 本当に僕を無視しても! ていうか、部屋にいるんだろう!? ここを開けてくれよ宗谷!』

 放っておいても帰る気配がないので、俺は仕方なく応対してやることにした。

「留守だから帰ってくれー」

『いやいや、いるじゃないかっ! めっちゃ部屋の中から返事が聞こえてきたぞっ! なんで居留守を使ってるんだい!?』

「おまえがうざいからに決まってんだろ」

『うざくないわっ! ……まったく、宗谷の審美眼のなさには驚きを隠せないね。そういうところがモテないんだって早く自覚したほうがいいよ?』

「そういや智実ってよー」

『せめて居留守するならもっと声を忍ばせて会話してくれっ!』

「この間も雪菜がさー」

『ふんっ、宗谷が僕を無視するなら、こっちにも考えがあるぞ!』

 しばらく声が途絶える。

 十秒ほどして、

『……イタタタタタっ! 宗谷、お腹がやばい! 男の子の日だ! 早くここを開けて、僕を助けてくれ!』

「なんだ男の子の日って。初めて聞いたぞ」

 しまった、思わず突っ込んでしまった。

『あれれ、知らないのかい? ぷぷっ、相変わらず宗谷は無知だねー? ま、特別に君にも男の子の日を説明してあげるから、僕を部屋に入れることだね』

「なあ智実。男の子の日ってなんだ?」

「分からん。そんなものは寡聞にして聞いたことがない。十中八九、公人の嘘だとオレは判断する」

『旦那も人のボケを真面目に受け取らないでくれー! つーか、もう入るからね! 勝手に入るからな!?』

 がちゃん、と扉が開く。もともと鍵は開いていたので、痺れを切らした周防が勝手に入ってきやがったのだ。

 なぜか慌てた様子でやってきた周防は、テーブルを挟んで座る俺と智実を見下ろして、

「やっぱりいたじゃないか! おい宗谷、もう言い逃れはできないぞ!」

「は? おまえ、人の部屋に無断で侵入したくせに、その態度はなんだ? まずは謝れよ」

「むむ、そう言われてみればそうだね。すまない、宗谷。たまには僕も過ちを犯してしまうみたいだ」

「いや、分かってくれたならいいんだよ。じゃあな」

「じゃあね……って違うだろう!? いまから僕たちの夜が始まるんじゃないかっ!」

「聞いたか智実。こいつ、俺たちとヘンなことをするつもりらしいぜ」

「それは困る。いくら公人と言えども、さすがに体までは許せん。お引取り願おう」

「だ、そうだ。悪いな」

「――いつの間に僕が男を求めているという設定が出来たんだい!?」

「うるせえな。とっとと帰れよ。おまえが持ってきた話が面白かった試しなんてねえんだよ」

 それは俺の紛うことなき本心だった。

 しかし周防は、ショックを受けるどころか自信ありげな笑みを浮かべた。

「……ふっ。ところがどっこいだぜ宗谷。今夜ばかりは本当に美味しい話を持ってきたんだよ」

 なにやら鬼気迫る表情である。

「ほう、美味い話か」

 周防の言葉に、智実が反応した。

「……まあ聞くだけならタダか。仕方ねえからおまえの発言を許してやるよ」

「ふっ、君たちがそこまで言うなら、僕もやぶさかではないよ? じゃあ心して聞いてくれ」

 マジで帰らそうかな、とも思ったが、俺はギリギリで踏みとどまった。

 周防はバカみたいに仁王立ちして、あぐらをかいて座る俺と智実を睥睨する。

「いいかい? まず前提として、僕たちは男だよな?」

「当たり前だろうが。それがどうした」

「よくぞ聞いてくれた。つまりだよ? 実はいま、ニノちゃんの部屋にはシャルロットちゃん、雪菜ちゃん、姫神の三人がお泊りをしているんだ。分かるかい? 僕に暴力を振るうあの格闘バカは横に置くとして、類稀なる美貌を持った美少女が三人も集まっているんだぜ? これはチャンスだと思わないかい?」

「公人よ。すまんが、おまえがなにを言いたいのかさっぱり分からん。もっと手短に話してくれ」

「おいおい、智実の旦那ともあろう男が分からなのかい!? まあ結論から言っちゃえば、だ」

 周防は続けた。

「これは美少女の生態を調べる千載一遇のチャンスなんだよ! 夜、女の子が四人集まるとなにをするのか、なにが起きるのか、知りたいとは思わないかい!? 正直に告白すると僕は、女の子の生態を記した本を自作したいとまで考えてるんだよ! これは絶対に売れるね! 印税の一割は君たちにあげるから、ぜひ協力してくれ!」

「帰ってください」

「おいおい! そんな危ない人と接するときみたいに距離を置いた口調と態度で謝らないでくれよ! 僕たち男は、こういうときだけは仲間だろう!? なあ宗谷、バレンタインデーのときも二人で語り合ったじゃないか!」

「ビールうめー」

「酒なんかどうでもいいわ! いまは女の子だろう!? それに、いくら宗谷でも僕を無視するのは許さないぞ!」

「公人よ」

「む、なんだい旦那」

「おまえの言っていた女性の生態とやらを調べることで、オレになんの得があるというんだ? 公人を手助けすることによって、オレにある一定の利益が出るのなら文句は言わん。しかしオレは金に困っていないし、女にもさほど興味はない。率直に言って、おまえに協力することは時間の無駄だと思うのだが」

 これでいい。

 俺が手を下さなくても、智実が周防の提案を断ってくれる。あの変態ナルシストの周防に、智実を説得するのはまず不可能だろうし。

「なるほどね、利益がないと旦那は僕に力を貸してくれないと」

「うむ。そのとおりだ」

 両腕を組んであぐらをかく智実は、鉄壁の要塞みたいであった。

 しかし周防はひるむことなく、挑戦的な笑みを浮かべた。

「……いいのかい、旦那」

「なにがだ?」

「女の子の生態を調べる――これはいわゆる一つの任務なんだよ!? 智実の旦那は、提示されたミッションを前にして尻尾を撒いて逃げるような臆病者だったのかい!?」

 やっぱりバカだ、こいつ。

 智実のオッサンがそんな口車に乗せられるわけ――

「……任務、だと?」

 ただでさえ鷹のように鋭かった智実の目が、さらに細まった。

「公人よ、オレは勘違いをしていたようだ。いま一度問おう。これは任務なのか? とすると、警察は動いているのか? 軍部は? 各国の諜報機関、並びに政府の緊張状態はどうなのだ? 内閣安全保障室にも連絡はいっているのだろうな? ……いや、違うか。それら公の機関にも通せない極秘任務だからこそ、おまえはオレの元にこの話を持ってきた。そうだろう?」

「…………」

 うーむ。

 やっぱり智実のほうがアホかもしれん。

「そ、そうだよ旦那! この極秘任務を秘密裏に遂行するためには、旦那の力が必要なんだ。それに女性の生態を調べるってことは、沙綾さんを研究するってことでもあるしね」

「……た、高梨さんを研究、だと……? がはっ!」

 なぜかは分からないが、智実は口元を抑えて吐血の仕草をした。

「な、なんて卑猥な……高梨さんを研究などと……!」

「これも仕方ないんだよ、旦那。沙綾さんのおっぱいは、海外の先進国の研究対象になっているからね。このまま放っておくと、僕たち以外の人間が、沙綾さんを調べつくしてしまうだろうね」

「なに……くっ、そんなことは絶対に許さんぞ!」

「その意気だよ旦那! 沙綾さんのおっぱいを悪い組織から護るために、いまこそ僕たちが立ち上がるんだ!」

「了解だ! どこのマイナーな組織が相手かは知らんが、オレを出し抜ける諜報機関など存在しない! 高梨さんを護るために、オレは女性の生態を調べようではないか!」

 立ち上がって拳を握る智実と、そのかたわらで煽り続ける周防。

 色々と話がすり替わっているというか、あまりにも矛盾点が多すぎて指摘する気にもなれないが、大家さんが話に出た瞬間、智実は一人の『エージョント』に変身してしまった。

 まあ俺は関係ないんだし、このまま酒を飲んでいよう。

「なにをしている、宗谷! 我らが高梨さんを護るために、おまえも立ち上がるのだ!」

「…………」

 とりあえず、今夜の一切合財を円佳に報告してやろう、と俺は心に決めるのだった。



****



 女の子は、男性の目がないとちょっとだけ行儀が悪くなってしまう生き物である。

 ただし例外もあって、礼儀作法のきっちりとした雪菜はどんなときでも正座を崩さないし、実家では生け花を嗜んでいたという千鶴も基本的に姿勢がいい。

 この場合、ちょっぴり行儀が悪いのは私とかニノのことである。私たちは畳のうえに大の字で寝転んで、ぐでー、とくつろいでいた。

「のんびりするのって気持ちいいねー」

「そうね。まさしく極楽って感じ」

 リラックスしていることをを表しているのか、獣耳が『ゆら~り』と海にただよう魚のように揺れている。

 雪菜は縁側に腰掛けて、あの白い猫を膝に乗せて頭を撫でてあげている。千鶴は壁にもたれかかりながら、読みかけの文庫本を開いていた。

 べつに特別なことはしていないはずなのに、とても落ち着く。自分の部屋に一人でいるときよりも、なぜか落ち着くのだ。

 そのとき。

 ニノの獣耳が『ピンっ』と尖った。

「んー? どうしたの、ニノ」

「……いま、だれかに見られているような気がした」

「あはは、まっさかー。こんなところに怪しい人なんていないってば。ニノの気のせいだよ」

「……そう、ね。さすがに考えすぎだったかも」

 ニノが肩の力を抜く。それと合わせて、獣耳が『フニャン』となった。



****



「――見事だ。ニノ=ヘルシングの知覚能力は、実に素晴らしいな。まさか感づかれるとは思わなかった」

「感心している場合じゃないよ。まさかバレたんじゃないだろうね?」

「安心しろ。そんなドジは踏んでいない。逃走経路も確保済みだ。心配はいらん」

「まあ確かに旦那なら、どんな無理難題でも何とかしてくれる気はするけどさ」

「うむ。オレが不可能を可能にしてやろう」

「そんな背筋が寒くなるような台詞が似合うのは、世界を探しても旦那ぐらいしかいないと思うよ」

 暦荘から二百メートルほど離れたとある建物の屋上に、俺たちはいた。ここからは大家さんの家にあるニノの部屋が、ちょうどいい具合に見えるのだ。

 智実が自室から持ってきた十万円以上もする暗視双眼鏡が、女の部屋を覗くという実に下らない犯罪のために使われている。恐らく今世紀最大のアホな使用法だろう。開発者の人に謝りたい気分である。

 暦の上では五月だが、さすがに夜は肌寒い。

 俺はホットの缶コーヒーを片手に、一人で夜空を見上げていた。それは、自分が『女の生態を研究する』という名の”覗き行為”に付き合っている事実を、忘れたいがための現実逃避かもしれなかった。

 ここの屋上は、人が出入りするようには作られておらず、フェンスを始めとした落下防止用の安全装置が設けられていない。しかしまあ、だからこそ覗きがしやすいのも確かである。

 智実と周防は、屋上の端っこに体を横たえて、スパイよろしく双眼鏡を構えていた。ちなみに暗視スコープの他にも、トランシーバーや盗聴器といった犯罪丸出しの装備もある。

 ずずっ、とコーヒーを飲みながら、俺は人生を儚んでいた。

「あー周防はやく死なねえかなー」

「死なないわ! つーか、僕は死ねないんだよ!」

「なんで?」

「そんなの決まってるじゃないか。僕には美の女神ヴィーナス様の加護があるはずだからね。死のうとしても信じられないような奇跡が起きて、ありとあらゆる不幸や凶事から僕は護られちゃうのさ」

「よし、試してみるか」

 とりあえず周防の体を持ち上げて、屋上から落とそうとしてみた。

「タンマ! ちょっと待つんだ、我が同士よ! 僕たちは女の子の生態を探るために、手を組んだはずじゃなかったのかい!?」

「それとこれとは話がべつだろ。おまえは女神様の加護を受けてるんだろ? じゃあ、ここから落ちても助かるはずだよな」

「まあね。余裕だよ」

「そうか。あばよ」

「――待ったぁぁぁぁっ! 冗談だよ! さっきのは僕なりの可愛いジョークってやつだよ! 謝るから下ろしてくれ!」

 解放してやると、周防はふたたび屋上に寝そべった。もちろん双眼鏡を構えて。

「ふん、僕は宗谷に構っている暇はないんだよ。いまは女の子を見るほうが大事さ」

「そのとおりだ、公人。これは神聖な任務なのだからな。気を引き締めてかかるべきだ」

「うんうん、やっぱり旦那は――って、うおおおぉっ! 部屋の中でごろごろ寝そべってるニノちゃんのタンクトップの裾がまくれあがってるー!」

 智実と周防の発言から察するに、和室の障子は開いていて、部屋の中の様子が丸見えとのことだった。

「ふむ……公人よ、あれを見てみろ。縁側に腰掛け、白い猫を撫でている雪菜が、薄っすらとではあるが笑みを浮かべているぞ」

「おおっ! 本当だ! くはー! 雪菜ちゃんの安らいだ顔、可愛いー!」

「おまえら、マジで変態にしか見えねえな……。それに雪菜が笑ったぐらいでそんなに興奮すんなよ」

 すると、周防が血走った目で俺を睨んだ。

「宗谷はなにをバカなことを言っているんだい!? 僕は雪菜ちゃんの笑った顔なんて、ほとんど見たことがないんだよ! 普段はクールな子が密かに笑っていたら、心がキュン……となっちゃっても仕方ないじゃないか!」

「はあ? 眼科行ったほうがいいんじゃねえか、おまえ。そりゃ頻繁じゃねえけど、楽しいことがあったりすると笑うぞ、あいつ」

「それは宗谷の見間違いではないか? オレは”人間観察”を趣味の一つとして掲げているが、凛葉雪菜が笑っているところなど、あまり見た記憶がない。確かにゼロでないが、それでも年に一度か二度の希少性だろう」

「オッサンまで寝言ほざくなよ。雪菜は笑うって」

 こいつら、二人して俺をハメようとしてんのか? まさか雪菜が俺と一緒にいるときだけ笑う、みたいな愉快なオチはないだろうし。

 それからも俺は、意味不明なぐらい熱の入った智実と周防を見ながら、空しく缶コーヒーを啜るのだった。



****



 またしてもニノの獣耳が『ピンっ!』と尖った。

「やっぱりおかしい……この感じ、誰かに見られてる……?」

 上半身を起こしたニノは、きょろきょろと周囲に視線をめぐらせた。

「あはっ、そんなの気のせいだよ。この部屋を覗ける場所なんて近くにはないじゃない」

「そうね。でも遠くにはあるかもしれないでしょ? 例えば、そこらのマンションの屋上から望遠鏡の類を使えば、この部屋の様子を見ることもできるでしょうね」

「……本気で言ってるの?」

「ウチを誰だと思ってるのよ」

 ニノ=ヘルシング。

 人狼の中でも飛びぬけた能力を持つ一族の末裔にして、最後の生き残り。

 そのニノがここまで自信満々に言うのだから、もしかすると本当に覗かれてるかも……?

「なんか、ちょっと心配になってきたね。ねえ雪菜ー、千鶴ー」

 私は一度、みんなに相談することにした。



****



「まずいな。どうやら気付かれてしまったようだ」

「なんだって!? それは本当かい、旦那!」

「うむ。恐るべきはニノ=ヘルシングだ。あれは尊敬に値する勘の良さだな。それに美しい。いい女スパイになれる」

「落ち着いてる場合じゃないだろう!? 早く逃げないと!」

「慌てるな。彼女らは、自分たちの生態を探られていることには感づいたようだが、その研究者がオレたちであることにまでは理解が及んでいない」

「つ、つまり?」

「まだ任務は失敗していないということだ。しかし、このままでは我々が不利なのは間違いない。なにか打開策が必要だな」

「…………」

 夜空ってよく見ると綺麗だよなー。

 この際だから、流れ星が見えるまでずっと空を見上げてやろうかなー。

「むっ」

「今度はなんだい!?」

「双眼鏡を覗けば分かる」

「……って、いつの間にか障子が閉まっちゃってるじゃないか!」

「ああ。これはよくない流れだ。このままでは研究に支障が出てしまう」

「くっそー! せっかく目の保養ができると思ったのにー!」

 これでもかと歯噛みする周防は、本気で悔しがっているように見えた。目には涙まで滲んでいる。

 双眼鏡を覗きこみながら思考に耽っていた智実が、聞こえるか聞こえないかぐらいの声で、ぽつりと言った。

「やはり――オレたちもリスクを背負うべきだな」



****



「誰かに覗かれてるわ」

 ニノが言った。

 私たちは和室の中央に円を組むように集まって、秘密の作戦会議をしていた。すでに障子は閉めてある。

「覗かれている、ですか。ニノちゃん、それは間違いないのですか?」

「ええ。なにか……無機質な男の視線と、変態的な男の視線を同時に感じたの。もしかするとプロかもしれないわ」

「プロ? 覗きにプロなんてあるのか? それに私たちを覗いて、得をする人間なんていないだろ?」

 千鶴の疑問を聞いて、ニノが人差し指を左右に振った。なぜか獣耳さんも一緒に動いているけど。

「チッチッチ。甘いわね、ちーちゃんは。男なんて、女なら誰でもいいのよ。それにこの部屋に集まっている女は、身内びいき抜きに見ても、みんな美人だしね。覗かれる理由なんて掃いて捨てるほどあるわ」

「ほえー、そうなんだ。でも男の人って、女の子を見てどうするつもりなんだろうね? ただ見るだけで満足できるものなの?」

 下着を盗んだり、手で触って痴漢するならまだしも、遠くから見てなにをするのかな?

「どちらにしろ、もし本当に覗かれているのだとしたら、なにか対策を立てなければなりませんね」

 さすがの雪菜も、どこかで私たちを嘲笑っているだろう覗き魔を警戒しているようだった。

 そのときである。

 縁側のほうから誰かの足音が近づいてきたかと思うと――部屋の前で止まった。障子には人間の影が映っている。

 私たちが息を呑むのと、その声が聞こえてきたのは、まったくの同時だった。

「こんばんは。みんなの王子様こと周防公人だよ。ここを開けてくれないかい?」



****



「コードネーム・ヒップよりバストへ。状況を報告しろ。どうぞ」

『こちらコードネーム・バスト。あと数分で暦荘に到着するよ。どうぞ』

「…………」

 智実と周防のバカ極まりないやり取りを、俺は一歩引いて見つめていた。すでに缶コーヒーは飲み干してしまったので、心のよりどころは夜空に輝くお月様ぐらいだった。

 いま屋上にいるのは、俺と智実の二人だけである。周防のやつは現場の様子を探りに行くとかいう名目で、単身暦荘に向かったのだ。

 交信は最新の小型トランシーバーを通して行う。しかも、ご丁寧なことにコードネームまで決められていて、周防がバスト、俺がウエスト、智実がヒップだった。もうマジで泣きたい。

 智実は屋上の隅っこのほうで暗視双眼鏡とトランシーバーを手に持ち、周防と連絡を取り合っていた。

「無理はするなよ、バスト。おまえの役割は飽くまで様子見だということを忘れるな。怪しまれる前に退避するのだ。どうぞ」

『言われるまでもなく分かってるさ、ヒップ。僕は女の子の生態を研究するまでは死ねないからね。……だから、さ。この研究が終わったら、みんなでパーッと遊びに行こうじゃないか。どうぞ』

「バストめ……ふっ、了解した。おまえがそこまで言うなら、オレは止めん。しかし一つだけ言っておくぞ。……絶対に、戻って来い。コードネーム・ヒップから言えるのは以上だ。どうぞ」

 なんかちょっといい感じの沈黙が流れる。

『……ふふふ、僕も仲間に恵まれたもんだな。捨てたもんじゃないね、人生ってやつは』

「奇遇だな、バストよ。オレもまったく同じことを考えていた」

 またしても、ちょっといい感じの沈黙が流れる。

『さて、と――コードネーム・バストより各位へ。これから現地へ潜入するよ』

「コードネーム・ヒップ、了解」

「……ふわぁーあ」

「宗谷あぁぁぁっ!」

 さっき酒を飲んだせいか、微妙に眠い。退屈だったのであくびをしていると、急に智実が怒鳴ってきやがった。

「うおっ、なんだよオッサン。そんな大声出して」

「ちゃんとコールサインを言え! 危険を顧みず、オレたちの研究のために敵地へ潜入したバストに失礼だろう!」

「……ったく、めんどくせえなぁ。コードネーム・ウエスト、了解」

『ふっ、ウエストのその気だるげな態度も嫌いじゃなかったよ』

「…………」

 めちゃくちゃポジティブに解釈されてしまった。

『それでは、これで交信を終了するよ。どうぞ』

「了解だ。あとはおまえの衣服に取り付けた超小型の盗聴器により情報を得させてもらう」

 そうして交信は途絶えた。

 智実は片耳にイヤホンを指して、両目をつむっている。きっと周防の犠牲を無駄にしたくないと、全神経を聴覚に費やしているのだろう。

 俺は空を見上げながら、もう『夜のほうが大好き派』を止めようかなぁ、と考えていた。



****



 公人には自信があった。

 もともと彼の顔立ちは、いちおう自他共に認める美男子なのである。街中を歩いていて、女性から声をかけられたこともある。ただし、機嫌をよくして応対すると、その一分後には『や、やっぱりいいです……』と去られてしまうこともよくある。

 とにかく公人が世間一般的に見て優れたルックスをしているのは疑いようがないのだ。

 ニノの部屋に続く障子を開き、公人は腰に手を当てて、

「やあみんな、今夜も綺麗だね。シャルロットちゃんの愛らしい笑顔、ニノちゃんのずば抜けたプロポーション、雪菜ちゃんの艶やかな黒髪、姫神のスラリとしたボディ……ふっ、困っちゃうな。もし君たちの中から誰か一人を選べと迫られたら、僕は迷わず山にこもって仙人に弟子入りし、気合で分身の術を習得して見せるだろうね」

 キューティクルが豊富な前髪をかきあげて、彼は笑った。

 これは何度も練習してきた必殺スマイルだ。実の妹に「……お兄ちゃん、なにやってるの?」と軽蔑の眼差しで見られようと、鏡のまえで何時間も練習してきた公人の奥義である。

「……あれ?」

 しかし反応がない。

 見ると、シャルロットたちはポカンとした顔をしていた。気まずい沈黙が十数秒ほど流れる。

 彼女らはゆっくりと顔を見合わせたあと、ふたたび公人を見つめて、叫んだ。

「あー! そっか、周防だー!」

「えっ、僕のことかい?」

 やっと注目されたか、と公人は嬉しくなった。

 だがシャルロットたちは慌しく立ち上がったかと思うと――なんといきなり公人の体を押さえつけてきたのだった。

「ま、待つんだ! さすがの僕も四人同時はキツい! そりゃあ確かにやぶさかでもないけど――!」

 公人は最後まで言えなかった。四肢を拘束され、まるで捕虜のような扱いを受けてしまったからである。

 困惑する彼のまえに、頬を膨らませたシャルロットが立ちはだかった。

「もうっ、やっぱり周防だったんだね! どうせそんなことだろうと思ってたけど!」

 それだけ言って、シャルロットは公人の顔など見たくないとでも言うように身を翻した。

 彼がなにかを言うとするよりも早く、今度は獣耳をピンと尖らせたニノがやってきた。

「最っ低ね。隠れてこそこそ覗くなんて……いやらしい。見損なってたわ、周防」

「ちょっ、言葉が違ってるよニノちゃん! そこは『見損なってた』じゃなくて『見損なった』だろう!?」

「ふん。気安く名前を呼ばないで。変態」

 取り付く島もなく、ニノは去っていった。

 そうこうしているうちに雪菜が歩み寄ってくる。

「こんばんは、周防さん。そしてさようなら」

「雪菜ちゃん! 違うんだ、これは誤解なんだ! 僕の話を聞いてくれ!」

「おつぽよですー」

 またしても、公人は一人取り残された。和室の隅っこのほうに。しかも布団で体をぐるぐる巻きにされている。あまりにもひどい扱いだった。

 絶望していた公人のもとに、最後の少女がやってきた。姫神千鶴である。

「…………」

「や、やあ姫神。君ってよく見ると美人だよね。よければ今度、食事でもどうだい?」

「…………」

「どこ行くんだい姫神!? せめて一言だけでも声をかけてくれ! じゃないと寂しいじゃないか! 姫神? 姫神……姫神ー!」

 ここに一つの任務が失敗を告げた。

 こんなときなのに――いや、もしかするとこんなときだからかもしれないが、公人は猛烈な眠気を感じていた。

 まぶたが鉛のように重くなり、深い奈落に落ちていくような感覚が身を包む。

 ――ああ、僕は……もう……。

 そうして公人は、意識を失ったのだった。



****



「きみ……ひと……?」

 智実のオッサンが呆然とした顔で立ち上がった。さっき火をつけたばかりのタバコが唇から落ちていく。

「なんだよ。あいつの身になにかあったのか?」

「それどころではない! これを聞いてみろ!」

 智実はイヤホンを外し、盗聴器を小さなスピーカーに繋いだ。そこから漏れ出てくるのは、シャルロットたちの怒声と、周防の悲鳴だった。どうやら現在進行形のようである。

「おのれ……きゃつらめ! 公人が無抵抗なのをいいことに!」

「もう帰っていいか?」

「コードネーム・ヒップよりバストへ! 返事をしろ、バストー!」

 智実は冷や汗を流しながらトランシーバーに呼びかけるが、もちろん反応はない。

 それでも智実は、必死に声を張り上げ続ける。

「聞け! 貴様らの非道な行いは、世界中の人間から後ろ指を差されるほど醜いものだ! ジュネーブ条約を知らんとは言わせんぞ! 捕虜にも人権はあるのだ! 分かったらいますぐバストを解放しろ!」

『うわあぁぁぁぁっ! や、やめてくれえぇぇぇぇーっ!』

 盗聴器から周防の声が漏れてくる。声は一方通行だ。向こうの声はこちらに聞こえるのに、こちらの声は向こうに聞こえない。智実からすれば、さぞ歯がゆく感じるだろう。

「バスト!? まだ無事なのか、バスト!? 諦めるな! あの約束を果たすまでは……いや、オレを置いて逝くなど許さんぞ、貴様! なんとしてでも生きて帰れ、バストよ!」

『ぐはっ、ぐほっ、がはっ! ……う、うぅ…………っ』

『ふん。ようやく無抵抗になったわね。てこずらせてくれるじゃない』

 盗聴器のスピーカーから周防のうめき声と、ニノの勝ち誇ったような声が聞こえてきた。

 智実は素早く立ち上がると、暗視双眼鏡を地面に置き、俺に向き直った。

「……ウエスト」

「誰がウエストだ。俺は宗谷士狼だ」

「細かいことは気にするな。いまは非常事態だ」

 智実はタバコを取り出すと、ジッポのライターで火を着けて、薄闇に紫煙を吐き出した。

 なんともいえない静寂。

 どこか寂しげな目で俺を見つめて、智実は言う。

「オレがバストを助けに行く」

「そうか。もう帰っていいか?」

「あいつを放ってはおけん。仲間だからな。危険だとしてもオレは行くぞ」

「人の話聞けよ」

「ウエストにも頼みがある。どうか……オレとバストの帰還を、ここで待っていてはもらえないか?」

 とても儚げに言われてしまった。

 まあ暇っちゃ暇だし、引き受けてもいいか。これが周防の頼みなら断ってたけど、他ならぬオッサンの頼みだからな。

「ああ、分かったぜ。おまえの帰りを待っててやる」

「ウエスト……!」

 思いっきり両手を握られた。かなり痛い。

 がさごそと準備を整えた智実は、屋上の出口に向かった。

「……宗谷よ」

「あん? なんだよ」

「……ふっ、いやなに。オレとしたことが感傷に浸ってしまうとはな。人生とは分からんものだ」

「こんなことで悟れたら仙人はいねえよ」

 俺のツッコミを無視して、智実は続けた。

「今夜の任務が終わったら――オレとおまえと公人の三人で、酒の続きでも飲もう。冷えたビールとつまみを用意して、一晩中飲み明かそうではないか」

「…………」

 なぜか、果てしなく嫌な予感がした。

 それから智実はなにも言わず、屋上から出て行ってしまった。

 俺は智実の残した盗聴器とイヤホンを身に着けて、暗視双眼鏡を片手に、オッサンの様子を見守ることにした。



****



 智実には自信があった。

 いくら手強かろうと、しょせん相手は素人の集団である。智実に男尊女卑の思想はないが、彼としては男を相手にするよりは、女を相手にするほうがいくらか気分はマシだった。

 暦荘に到着するや否や、目も暮れず仲間の元に向かう。

 こんなときでも品のいいスーツを着こなす彼は、宣伝スチールの被写体のようにバッチリと決まっていた。

 足音を立てずに縁側を歩き、ニノの部屋に前に立つと、毅然とした声で告げる。

「夜分遅くに申し訳ない。オレだ、智実だ」

 障子の向こうで、ぴたりと喧騒が止む。それから少女の声で、ひそひそと何事かを話し合うような気配が漏れてきたが、智実は辛抱強く待った。

 しばらくして、障子がゆっくりと開いた。

「……山田さんですか」

 対応したのは雪菜であった。

 どちらかと言えばシャルロット、ニノ、千鶴のほうが御しやすいと考えていた智実にしては不運なスタートと言える。

 ……これに失敗すれば、公人の身が危ない。

 智実の背中を汗が濡らしていく。これほどの緊張は生まれて初めてかもしれなかった。

「凛葉雪菜よ。どうかオレを部屋に入れてはもらえないか。大切な話があるのだ」

「……分かりました。どうぞ」

 やや逡巡してから雪菜が身を引いた。

 シャルロットたちからすれば、公人に続いて短いスパンでやってきた智実のことは疑って当然なのだが、それでも智実の誠実な人柄が、彼女らの心に僅かばかりの隙を作ったのである。

 部屋に入ると、うっすらと空気が甘かった。

 智実は慎重に視線をめぐらせて、トラップの有無を探る。しかし、それらしいものは見当たらない。安全が保障されていることを確認すると、ほっと吐息を漏らした。

 そして。

 部屋の片隅に――布団ですまきにされた周防公人が、その無残な体を横たえていた。

 ……公人、無事だったか!

 思わず駆け寄りたい衝動に駆られたが、ここで公人との関連性をさらけ出してしまうほど、智実は間抜けではない。

 むしろ不機嫌そうな態度を装い、シャルロットたちを一瞥して、

「感心できんな。公人がなにをしたのかは知らんが、同じ家に住む人間をああもひどく扱うとは。さすがのオレも止めざるを得ん」

 自分のことは棚に上げて、智実は言う。

「悪いことは言わん。いますぐ公人を解放しろ。おまえたちも、いずれ愛する男のもとに嫁ぐのだろう? 将来を誓い合った女が、過去にこのような非人道的な行いをしていたら、オレは幻滅するぞ」

 智実の説教を受けて、シャルロットたちはちょっとだけ罰の悪そうな顔をした。

「……確かに、私たちもやりすぎたかもしれないね」

 一途で素直なシャルロットが、しゅん、と肩を落としながら吐露した。

 それに同調した他の三人も、揃って申し訳なさそうな顔をした。

 ……ふっ、容易いものだな。

 状況を俯瞰して見れば、この場合、悪いのは明らかに智実たちなのだが――仲間を救いたい、任務を成功させたいと願ういまの彼にとって、細かいことはどうでもよかった。

「智実さん。私も反省したよ。無抵抗の人間を四人で襲うなんて、いまにして思えば最悪だ。武道を志す者として恥ずかしい」

 ほとんど泣きそうな顔をする千鶴。

 さすがの智実にも罪悪感が沸いてきたが、それを押し殺して、彼は目元を和らげた。

 落ち込む千鶴の肩をぽんと叩く。

「いいのだ、千鶴。オレは怒ってなどいない。きっと公人も許してくれるだろう。なにがあったのかは分からないし、過去をなかったことにもできないが、未来を変えることはできる。そうだろう?」

「智実さん……」

 シャルロットたちは感動したようだった。

 なにもかも――すべては山田智実の計画どおりである。

 そのとき。

 なんの断りもなく障子が開き、暦荘の大家である高梨沙綾が部屋に入ってきた。

「あらあら、山田さん。こんばんは。お久しぶりですね」

「――っ!? た、高梨さん!?」

 これまで智実の顔と心を覆っていた鉄の仮面が、ここにきて剥がれ落ちてしまう。彼はひどくうろたえて、純情な少年のように頬を赤らめた。

「あ、いや……んんっ。こんばんは、高梨さん。オレになにか用かな?」

 向かい合う二人。

 智実の身長は180センチメートルを優に越えているので、女性の平均身長ほどしかない沙綾とは頭一つ分も違う。

 天然無垢な――ぽわぽわとした優しげな上目遣いが、智実のハートを打ち砕く。

 一つ断っておくと、べつに智実は女性が苦手というわけではない。沙綾だけが特別なのだ。

「……あら?」

 と。

 沙綾は軽く背伸びをして、智実に顔を近づけてきた。

「――なっ!?」

 まるで天国と地獄の境目にいるようだった。

 ほのかな石鹸の匂い。色白の肌。女性的な魅力に溢れた美しい顔立ち。胸元で強く自己主張する双つの膨らみ。そのすべてが山田智実という人間のアイデンティティを激しく揺さぶってくる。

 石化する智実の胸元に手を伸ばし、沙綾は小首を傾げた。

「ネクタイが曲がっていますよ、山田さん。せっかく凛々しい容姿をしているんですから、もっと気を遣ってくださいね」

 なにを言われても――智実の耳には入ってこなかった。

 互いの吐息が肌にかかるぐらいの近距離に、想いを寄せている女性がいる――この事実は、智実にとってビックバンにも等しい衝撃だった。

 感動と緊張によってプルプルと震える智実のポケットから、なにか小型の機械のようなものが落ちる。

 シャルロットがそれに気付いた。

「ん? なんだろ、あれ……」

 幸せに浸っている智実は知らない。いまこのとき、証拠品の一つが押収されてしまったことを。

 間もなく、驚愕に満ちた声が室内に響き渡った。

「あー! こ、これ! 周防が持ってたやつとおんなじだー!」

「――チぃっ! しまった!」

 我に返った智実は、任務の失敗を悟った。

 こうなったら力づくで公人を連れて逃げるしかない――そう決意し、身を翻した智実の前に、高梨沙綾が立ちはだかる。

「……本当、なんですか?」

 震える体。瞳には清水のように澄んだ涙が溜まっており、いまにも目尻からこぼれおちそうだった。

 智実の体が、鎖で縛られたかのように固まる。ほとんど金縛りだった。指どころか眼球さえも満足に動かせない。

 沙綾は本当に悲しそうな顔をしている。神に祈るように両手を組んで、ずっと智実のことを見つめている。

「山田さんは……智実先輩は、そんなひどいこと……しませんよね?」

 智実先輩。

 それは、まだ二人が学生だった頃の話。いまから数えて十年近くも前の話。当時、沙綾は智実のことを『山田さん』ではなく『智実先輩』と呼んでいた。

 不意打ちである。

 いきなり昔の呼び名を持ちだすなど――反則だった。

「……すまない、高梨さん」

 智実はくずおれた。畳のうえに膝をついて、懺悔するように項垂れる。

「任務は失敗だ……すまない、ウエスト」



****



『任務は失敗だ……すまない、ウエスト』

「……はぁ」

 盗聴器に繋いだイヤホンから、智実の謝罪が聞こえてきた。それからすぐに向こうは騒然となって、やかましい喧騒が津波のように押し寄せてくる。

『止めろ! 確かにオレはおまえたちの気分を害してしまったかもしれない! しかし、これではジュネーブ条約が! ジュネーブ条約があぁぁぁぁっ!』

 俺はイヤホンを外した。

「……どうすんだ、これ」

 死屍累々じゃねえか。

 正直に言って、俺は女を覗いて喜ぶような趣味はないし――いまさら周防と智実の意思を継ごうという気にも、当然なれない。

 こうなったら、素直に名乗り出るべきだろうか? 実際のところ、俺はこの場にいただけで、なにも覗いてないわけだし。

 でもなぁ。

 それも情けないっていうか、なんか負けた気がするっていうか。

 俺は暗視双眼鏡を手に、屋上の隅っこに寝そべって、ニノの部屋の様子を観察してみた。

 すると――縁側に腰掛ける雪菜が見えた。

「……何やってんだろうな、俺。まあこれも全部、周防のやつが悪いんだが」

 なんともなしに呟くと、となりから「にゃっ」と猫の鳴き声が聞こえてきた。

 俺は双眼鏡を覗きながら、

「おっ、おまえもそう思うか。猫のくせに話せるじゃねえか」

 当然のことだが、猫は人語を話せない。帰ってくる返事は、全部「にゃっ」である。

 それからしばらく猫を相手に問答を続けていた俺は、ふと気付いた。

 ――なんで屋上に野良猫がいるんだ?

 ゆっくりと双眼鏡から目を離し、となりに視線を移してみる。そこには薄っすらと透けた体躯の猫がいた。微妙に光り輝いている。よく見ると普通の猫とは違ったフォルムをしていた。

 嫌な予感がして――俺はもう一度、暗視双眼鏡を使って縁側を見た。

 そこには。

 不自然なぐらい穏やかな顔をした雪菜が、こちらを真っ直ぐに見つめていた。




 結論から言うと、それからすぐに俺の所在はバレてしまった。

 俺は抵抗せず、シャルロットたちの捕虜となった。なぜか畳のうえに正座させられて、暦荘の女子四人組に囲まれながら、ぐちぐちと文句を言われるのである。

 バカ、アホ、カス、ナス、おたんこなす、タコ、間抜け、朴念仁、鈍感、白髪頭――思いつくかぎりの罵倒をされた。

 そして、さすがに語彙も限界に近づいたのか、数瞬の沈黙が生まれる。それを見計らったように、バカ吸血鬼が躊躇いがちに口を開いた。

「ところで士狼。一つだけ聞きたいんだけど、いいかな?」

「なんだ?」

「……その、士狼ってね……だ、誰を見てたのかなぁって」

「はあ? なに言ってんだおまえ。寝言は寝てから言えよ」

 付き合っていられない。

 すると、今度はニノが前に出た。獣耳が『ピコピコ!』と景気よく揺れている。

「士狼。これは大事な話よ。もうこの際、ハッキリ言っちゃったら? 俺が見てたのはニノだー、ってね」

「…………」

「ち、違うもん! 士狼が見てたのはニノじゃないもんっ!」

「じゃあ誰なの? まさかシャルロットとでも言うつもり?」

「そ、それは……!」

「ほら見なさいよ。胸を張って、私だ、って言えないんなら引っ込んでなさい。へっぽこ吸血鬼が」

「――大家さーん! ニノが私をいじめるー!」

 シャルロットが泣きながら部屋を出ていった。すぐとなりの部屋から「うえーん!」という泣き声と、「よしよし」という優しげな声が聞こえてくる。

 ずいっと姫神が前に出てきた。

「……そ、宗谷」

「なんだよ。もう意味不明なことは言うなよ」

「……う、うぅ」

 姫神は顔を真っ赤にして、あーでもない、こーでもない、と悩んだ。

 考えがまとまったのか、融通の利かない格闘娘は顔を上げた。

「宗谷!」

「な、なんだよ」

「……また!」

「また?」

「決闘しよう!」

「…………」

 厄日だ。絶対に厄日だ。これも全部、周防のせいだ。

 言いたいことを言って満足したのか、姫神がスッキリした顔で離れていく。

「はぁ、やっと終わったか」

「いいえ、士狼さん。むしろいまから始まりと言っても過言ではありませんよ」

「げっ」

 そうだ。

 恐らく最も扱いづらいであろう、自称陰陽師こと凛葉雪菜が残ってたじゃないか。

 雪菜は、正座している俺の前に、同じく正座した。

「……なにしてんだ、おまえ?」

「士狼さんを見ています」

「…………」

「…………ぽっ」

「だから無言で頬を赤らめんなっ! 二度も同じツッコミをする俺の気にもなれや!」

「いやですね、士狼さんは。いつかの夜も言いましたが、私は無言ではなく、ちゃんと”ぽっ”と口にしていますよ。これでは私のボケも浮かばれません。よって、やり直しを要求します」

「こんなもん二度とやりたくねえよ! ていうか、もうどうでもいいから……!」

 この混沌と化した大家さんの家。

 部屋の片隅には布団ですまきにされた周防がいて、それをニノと姫神が「そろそろ解放してあげる?」と相談してるし。

 向こうの部屋では、シャルロットが「大家さーん。もっと頭撫でてー」とか言って大家さんに甘えてるし。

 庭のほうでは智実がタバコを咥えながら、物憂げな顔で夜空を見上げているし。

 そして、俺の目の前には――あの自称陰陽師がいるのである。

 この状況を打破するために、俺は叫んだ。


「とっとと俺を部屋に帰しやがれー!」


 そんなこんなで暦荘の夜は更けていく。

 いつもどおりの騒がしい日常は、こうして終わりを告げていく。

 俺は雪菜の相手をしながら、事の発端を担った周防に絶対地獄を見せてやる、と心に誓うのだった。


 

[暦荘かしまし編 完]




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