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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
第五月 【本日も晴天なり】
83/87

其の四 『青空』



 公人たちは、ひたすらに士狼と円佳を尾け続けた。

 ターゲットに気付かれぬよう、周囲の人間に怪しまれぬよう尾行するのは予想以上に困難だった。しかし山田智実という強力な助っ人がいたこともあり、成果だけ見れば悪くなかった。

 これでもかとショッピングモール内を歩き回ったあとは、レストランで夕食を摂った。もちろん公人たちは店に入らず、外で菓子パンを齧りながら、士狼たちが出てくるのを待っていただけだったが。

 いつの間にか日は沈み、あれだけ青かったはずの空は赤を通り越して黒くなっていた。本格的な夜の到来にはもう少しだけ時間がかかりそうだったが、まあ月が映えるような夜空が広がるのも時間の問題だろう。

 午後七時を過ぎる頃には、士狼らは暦荘に帰宅していた。

 それにすこし遅れて暦荘に着いた公人たちは、いざというときのために士狼らの近くで待機することにした。

 ターゲットの姿が消えたのは、205号室――つまり宗谷士狼の自室である。その近くに控えるのだから、必然、公人たちが潜むのは隣室ということになる。

 具体的に言うと、公人たちは204号室――要するに凛葉雪菜の部屋にいた。もちろん部屋主の許可は取ってある。事情を把握している雪菜が快く貸し与えてくれたのだ。ただし雪菜は「あ、私は千鶴ちゃんの部屋でテレビを見てますので」とのことで、特に彼女自身の協力が得られるわけじゃなかった。


「いやぁ、ここが雪菜ちゃんの部屋かぁ。実は僕、雪菜ちゃんの部屋に入るのって初めてなんだよね」


 青を基調とした配色。

 年頃の女子が好みそうな、可愛らしいコーディネート。

 強く和をイメージさせる雪菜だが、その部屋のデザインは洋風に近い。ややアンティークな趣は感じられるものの、畳が敷き詰められていたり、壁に掛け軸が飾られているわけではなかった。

 部屋の中央に鎮座する丸テーブルの上には、温かな湯気を立てる湯のみが三つ置いてある。淹れたのは千鶴。中身は玉露ものの日本茶。これは雪菜お気に入りの日本茶らしく「ぜひみなさんで頂いてください」と本人から勧められたものでもあった。

 智実はテーブルの前にあぐらをかき、千鶴はベッドに所在無さげに腰かけ、そして公人は――仁王立ちしながら部屋を見回していた。

「うーん、さすが雪菜ちゃんだ。なんか分からないけど、そこらじゅうからいい匂いがするね。花とか石鹸が混ざった匂い、とでも言えばいいかな」

 すんすん、とひっきりなしに鼻をならす公人を見て、千鶴は不愉快そうに眉をしかめていた。

「おい周防。あんまり女の子の部屋をじろじろ見るなよ。しかも遠慮なしに匂いを嗅ぐとか、さすがの私も引くぞ」

「失敬な物言いだね。まるで僕が変態みたいに聞こえるじゃないか」

「そう言ったからな。雪菜ちゃんは私の大事な友達なんだ。間違っても周防にだけは、雪菜ちゃんの部屋を漁られるわけにはいかない」

「さすがの僕も漁りはしないよ! おまえは僕をどのレベルの変態だと思ってるんだ!」

「バカっ、それを口にしたら私まで変態になるだろ!?」

「ええぇぇぇぇっ!? 言葉にするだけで変態認定されるほど僕はアレなのかい!?」

「……うっ!」

「どうした姫神!? 僕と目が合っただけで、どうして口元を押さえて気分が悪そうにするんだ!?」

「いや、ごめん。ちょっと待って」

 公人の動きを手で制して、千鶴は慌てた様子でお茶を飲んだ。

「……ふう、さすが雪菜ちゃんお気に入りの日本茶だ。魔よけの効果もあるらしい」

「ないわっ! そんなもんあるわけないだろう!? つーか、やっぱり僕は魔よけが必要とされるほどアレな存在なのかい!?」

「……うっ!」

「その流れはもういいよっ!」

 公人と千鶴がいつもどおりに口論をしている頃。

 丸テーブルの前であぐらをかいている智実は、腕を組みながら難しそうな顔をして黙りこくっていた。

「智実の旦那。さっきからどうしたんだい?」

「どうもしていない。ただ宗谷士狼と周防円佳の会話に不審な点がないか確認していただけだ。どうやら隣室では、テレビを見て盛り上がっている最中らしい」

「いやいや、僕としては宗谷たちよりも旦那のほうが不審に思えて仕方ないよ。どうして宗谷たちの会話を拾えるんだ」

 この暦荘というアパートは、お世辞にも防音機能が優れているとは言えない。 

 しかしながら、それが盛り上がっているとしても、日常における談笑の声が聞こえるほど壁が薄いわけでもない。せいぜい誰かが叫び声を上げたり、人間二人が取っ組み合いをした場合、その気配を感じ取れる程度。

 公人たちが雪菜の部屋にいるのも、士狼たちの動向を探るため――というよりは、円佳の貞操を守るためだった。

 これから夜は更ける。どんどん更ける。夜というのは男女の時間でもある。耳を澄ませていれば、隣室で男女が事に及ぼうとする前兆ぐらいは何とか感じ取れる。それを回避するのが、公人の目的だった。

 すでに覚悟は決めてある。

 今日は無理でも――明日には、ちゃんと円佳と向き合おうと。

 おまえのことが大切だと、かけがえのない妹だと――そう言葉にして言うことは出来なくても、あの反抗期まっしぐらの妹が公人の妹であるかぎり、空前絶後の喧嘩をしたとしても、懲りずに向き合ってやろうと思うのだ。

 そう。

 これは公人が生まれた瞬間から――円佳が生まれた瞬間から、もう決まっていたこと。

 公人が兄となり、円佳が妹になった瞬間から、ずっと続いていく業のようなもの。

 喧嘩をしても、恋人ができても、結婚しても、別離を迎えても。

 二人が兄妹であるかぎり、その絆は切ろうとして切れるものじゃない。

 だから仕方ないんだ――と公人は自分に言い聞かせる。

 円佳のことが大切とか、命に代えても護ってやりたいとか――そう公人が思うのは、兄妹だから仕方なく、なのだ。一見しっかりしているように見えて、その実は精神的な幼さを残しているあの妹を、仕方ないから兄である自分が護ってやろうとしているだけなのだ。

 女らしく成長したとは言っても、円佳はまだ高校一年生。

 恋愛だけならまだしも、男と一晩共に過ごすには早すぎる年齢。

 円佳が士狼の部屋に滞在するのは、多く見積もってもあと数時間が限度だろう。だから午後十時を回れば、千鶴が士狼の部屋に向かい、円佳を連れ出す予定だった。

 現在の時刻は午後七時半過ぎである。つまり残り二時間半近く、何事も起こらぬよう祈るのが、いまの公人にできる唯一のことだった。もちろん異常事態があれば、すぐにでも円佳の元に駆けつけるつもりではあるが。

「そうだ姫神。ちょっと思ったんだけどさ」

 落ち着きなく部屋の中を歩き回っていた公人が、わりと真面目な顔つきで言った。

「なに? 雪菜ちゃんの下着がしまってある場所とかは聞くなよ」

「いや、そのことじゃないけど――でも言われてみれば、この部屋のどこかには雪菜ちゃんの下着があるんだよね」

「……言っておくけど、私は拷問されても口を割らないからな」

「安心してくれ。さすがの僕も、女性の下着を物色したりはしないよ。いいかい姫神。パンツやブラジャーというのは、女の子が身につけることで初めて価値が生まれるんだ。だから箪笥にしまってある下着を見ても、僕は興奮はしないね」

「それを聞いて安心したけど――でも、なんで女である私が、男である周防に下着についてレクチャーされてるのかが分からないな」

「はっ! 雪菜ちゃんやニノちゃんならともかく、おまえが女の子ぶる気かい、姫神」

 キューティクルが見るからに豊富な前髪をかきあげる公人。

 その自己陶酔極まりない仕草を見て、千鶴が慌てて日本茶を飲んだ。

「断っておくが、僕の目は誤魔化せないぜ? こう見えても、昔から女性のバストを言い当てるのは天才的だと謳われたもんさ」

 胸の話題が出た瞬間、珍しく千鶴が怯んだ顔をした。

 それと時を同じくして、物思いに耽るように両目を閉じていた智実が、興味深そうに片目だけを開けて公人を見た。

「そうだなぁ、例えばニノちゃんは――ズバリFカップだろうね。違うかい、姫神?」

「……さ、さあ、私には何とも」

「ちなみに沙綾さんもFカップだと思うよ。胸の大きさで言えば沙綾さんだが、ニノちゃんのほうが腰が細いからね。胸自体の大きさに差はあっても、バストのトップとアンダーに視点を当てて考えてみれば、結局は同じFカップになってしまうというわけさ」

「……ふ、ふむ。なるほど。高梨さんは……そ、そうか。ふむ、ふむ……」

 智実は感心したように何度も頷き、千鶴は驚きに目を見開いていた。

 そう。

 今この場を支配しているのは――他の誰でもない、周防公人。

 公人が持つスキルを前に、智実と千鶴はひれ伏していたのだ。

「ちなみに雪菜ちゃんはEカップだろうね。普段は和服で身体のラインが隠れているけど、まあ僕の目を持ってすれば余裕で見抜けるってもんさ」

 すでに千鶴は笑みを失っていた。

 胸の大きさは、服の上からでもある程度は分かるものだが――それでもここまで正確に見抜かれるとは想像していなかったのだろう。しかも常に和服を着ている雪菜のバストを看破するなど、もはや正気の沙汰ではない。

「……なるほど。姫神の表情から察するに、僕の考察に外れはないみたいだね」

 ニヤリ、と公人は笑う。

「雪菜ちゃんがEカップということは、シャルロットちゃんはCカップあたりが妥当だろうね。ある意味では、シャルロットちゃんが万人に受けるスタイルなのかもしれない。スレンダーだし、ほどよく胸も大きいからね」

「そ、そんなことを言われても、私はなにも言わないぞ」

「ほほう? 君も強情だねえ、姫神千鶴」

 公人はノッていた。

 もしかすると、この世を見下ろしているであろう天上の神が、こっそりと力を貸し与えているのかもしれない。

 そう思わざるを得ないほど、千鶴と智実は、公人が作り出した空気に呑まれていた。

「そして、極めつけは姫神――君のバストだ」

「っ――!」

 自信に満ちた顔で公人は、千鶴を指差した。それはどこか、推理小説のクライマックスを彷彿させる。

「待ってくれ、待ってよ周防。頼むから……お願いだから、それ以上は……!」

 ベッドの上で女の子座りをして、両手で身体を抱いて、千鶴は瞳を潤ませていた。

「ふふ、いい顔だね。ペットにしたいぐらいだぜ、姫神」

 その気持ち悪さを極めたような台詞も、公人が作り出した空気の前では違和感を持たない。

「さあ、今こそ姫神の秘密を解き明かしてやろうじゃないか。モデル体型という言葉を隠れ蓑にして、これまで姫神が覆い隠してきた真実を、今こそ白日の下に――!」

「や、やめてくれぇぇぇぇぇっ!」

「はははははっ! その泣きそうになった顔が心地よいわ! これからは僕を怒らせないように生きることだなぁ!?」

 耳を塞いで蹲る千鶴を見下ろし、公人はこれでもかと高笑いをかましたあと、千鶴を指差した。

「ズバリ! 姫神のバストは――!」

 そのときであった。

 まるで千鶴が抱える何かを守護するように、来客を告げるチャイムが鳴った。部屋に響き渡る甲高い音は、公人が生み出した空気を消失させ、泣きそうになっていた千鶴に勇気を与え、沙綾のことを考えていた智実を現実に呼び戻した。

「……誰だい? もしかして雪菜ちゃんかな」

 公人が怪訝そうに言うと、それを千鶴が否定した。

「いや――雪菜ちゃんは私たちの用が終わるまでは帰ってこないよ。だから違うと思うけど……」

「ふむ。つまり招かれざる客である可能性が高いというわけだな」

 言って、智実が立ち上がった。

「旦那。なにをするつもりだい?」

「決まっている。オレたちに遊んでいる暇はないのだ。よって、早急にお引取り願おう」

「――落ち着け旦那ぁっ! ここは日本だぞ!? それが完全だったとしても、人を殺しちゃったら犯罪になるぞー!」

「おまえこそ落ち着け、公人。オレは武力行使に乗り出すつもりはない。ここは穏便に事を済ませてみせようではないか」

 スーツのネクタイを緩めながら、智実が玄関のほうに向かっていく。

 それを公人と千鶴は、初めておつかいをする子供を見守る母親のような顔で見つめていた。


『雪菜ー? もしもーし。いないの? ねえ、雪菜ってばー』


 繰り返されるチャイムの音と、断続的に鳴り響くドンドンと玄関扉を叩く音。

 その声から察するに、どうやら来訪者はシャルロットのようだった。

 暦荘はあまり防音性に優れているとは言えない――だから扉を叩くような音でさえ、二つ隣の部屋ぐらいまでならば聞こえてしまう。

 つまりシャルロットがこれ以上、音を立てるような真似をすれば、隣室にいる士狼や円佳がそれを怪訝に思って、様子を確認しようと外に出てくる可能性があるのだ。そうなると、雪菜の部屋に公人たちが潜んでいるという事実が露見しかねないし、そこから辿って尾行の件までが露呈するかもしれない。

 少なくとも、公人たちにとって――ここは正念場だった。

「……まずいな。シャルロットちゃん、僕に抱かれたいのは分かるんだけど、わざわざ雪菜ちゃんの部屋にまで訪ねて来なくてもいいのに……!」

「はいはい。そうだな」

 拳を握り締めて、脳内を桃色の妄想で埋める公人を、千鶴はもう止めなかった。

 そうこうしているうちにもシャルロットによる悪意なき妨害工作は勢いを増していた。居留守を使う、という選択肢はすでにない。

 玄関まで歩み寄った智実は、んん、と何度か喉の調子を確認しているようだった。

『ねえ雪菜ー、もしかして本当にいないのー?』

 やはり、どうあってもシャルロットは諦めてくれないらしい。

『おっかしいなぁ。さっき部屋の中から人の気配がしたんだけど――はっ!? こ、これはもしかして、噂のイジメってやつじゃ……? うわーん! せ、雪菜ってばー! 謝るから許してよぉー!』

 一人で誤解して一人で納得したシャルロットは、もはや騒音を撒き散らすだけの侵略兵器に違いなかった。

 さすがに公人と千鶴が慌てて腰を上げたとき――智実が動いた。


「吸血鬼さん、落ち着いてください。私はちっとも怒っていませんから」


 ――否。

 果たして動いたのは――本当に山田智実だったのだろうか。

 少なくともシャルロットを嗜めようとした声が、智実のそれでなかったことだけは確かである。

 ここにはいないはずの少女――凛葉雪菜。

 鈴を鳴らしたような透明感溢れる声を、しかし抑揚のない口調によって紡ぐ雪菜は、もちろんこの場にはいない。

『……うぅ、せ、雪菜? 私のこと、嫌いになってないの?』

「もちろんですよ。吸血鬼さんは、私の大事なお友達ですからね」

 やはり。

 二度ふたたび、雪菜の声がした。

 現実から目を逸らすことなく、曇りなき眼で真実を見れば――答えは一つしかない。

 公人と千鶴はこれでもかと大口を開き、玄関扉のほうを見つめていた。

 正確には、玄関扉の前に立つ智実を見つめていた。

 もっと正確に言うのなら――凛葉雪菜の声を模写した智実を、二人は見つめていたのだった。

『……な、なんか今日の雪菜は素直すぎるような……いつもは私のことを友達って言ってくれないのに』

「そうですね、私にも照れというものがありますし。でも、こうして扉を挟んでさえいれば、私も素直になりますよ」

『……えへへ、なんか雪菜、優しいね』

「吸血鬼さんほどではありませんよ。ところで、本日はどのようなご用件でしょうか?」

『あっ、そうだね。まあ大した用事はないんだけど、ただよければ一緒に晩御飯でも食べないかなって』

「なるほど、把握しました――しかし吸血鬼さん、残念ですが今夜は私の都合が悪くてですね」

『うーん、そうなんだ。分かった、じゃあ私は部屋に戻るね』

「そうしていただけると助かります。――ああ、ちなみに今夜はなるべく静かにしていてくださいね』

『……? まあ、雪菜がそう言うなら、そうするけど』

「はい。それでは。……えっと、私は雪菜ですー」

『……? あぁ、うん。それは分かってるけど』

「そうですか。では心配いりませんね」

『心配? なんのこと?』

「いえ、気にしないでください。むしろ気にすると何かに負けますよ、吸血鬼さん」

『よ、よく分からないけど、あまり負けたくないから私は帰るねっ! じゃあ!』

 そんな間抜けな応酬を最後にして、シャルロットは自室に引き上げていった。

 智実はネクタイを緩めながら、深くため息をつく。

「……なんとか誤魔化せたようだな。危ないところだった」

 一仕事を終えた男の背中が、そこにはあった。

「む? どうした、公人に千鶴よ。そんな未確認生物を見るような目でオレを見て」

「――未確認生物よりある意味では未確認的な要素が見受けられたよ! 今のは何なんだい!?」

「声帯模写だ」

「そんなタバコの銘柄を答えるときみたいな気軽さで返答しないでくれっ!」

「ふむ――まあオレとしては及第点の出来だったのだがな。もう少し凛葉雪菜のボキャブラリーを研究しておくべきだった」

「気持ち悪いぐらいそっくりだったから心配いらないよ! というかボキャブラリーで思い出したけど、あの最後にとってつけたような『私は雪菜ですー』はなんだったんだ」

「気にするな。おまえがそれを知るのは、もう少し先のことだ」

「――だから僕にはそれを知る予定はないわっ!」

 智実は、よほど特徴的な声質でなければ大抵はコピーできる。しかも雪菜は口調に感情を乗せないので、まだ楽に模写できるほうだった。そういう意味では、シャルロットは真似のしにくい部類に入る。

 当面の危機は乗り越えたものの――まだまだ夜は始まったばかり。

 それから事態が本格的に動くのは、シャルロットの訪問から一時間が経った頃だった。





 事の発端は――珍しく慌てた様子で、智実が重い腰を上げたこと。

 それまで丸テーブルの前で不動とも言える様相を見せていた智実が、ほとんど性急と言っていい動作を見せたのだ。当然、公人と千鶴は何事かと不審に思い、智実に声をかけようとした。しかし疑問を尋ねようとする声を遮るかのように、次の瞬間には暦荘に少女の悲鳴が響き渡った。

 恐らく、智実は数瞬早く察知していたのだ。ゆえに事を未然に防ごうとしたが、それよりも悲鳴のほうが――円佳が危機に陥るほうが早かった。

 甲高い悲鳴から遅れること数秒――宗谷士狼の部屋から激しく争うような気配と、破壊音にも似た物音がした。

 言葉にはしなかったが、雪菜の部屋にいた全員が、異常事態が発生したということを理解し、早急に対処を開始。

 靴を履くこともなく部屋を飛び出した公人は、自身の後ろに千鶴と智実が続く気配を感じながらも、士狼の部屋に向かった。

 途中、悲鳴を聞きつけたシャルロットが自室から顔を覗かせた。それを、騒ぎが大きくなるのは得策ではないと判断した智実が、巧みな話術を以ってシャルロットを説得。ひとまず自室にて待機しておくようにと彼女に指示を出した。

 公人と千鶴は、チャイムやノックといった訪問者なりの礼を尽くさず、いざとなれば扉を突き破ってまで侵入する気概で、士狼の部屋のドアノブに手をかけた。不幸中の幸いか――むしろ予想に反して、と言うべきかもしれないが、なぜか鍵はかかっていなかった。

 まるで招き入れられているかのよう。

 本来、他人の部屋に侵入するという行為には多少の摩擦があるものだが、公人たちは何の障害もなく、あっさりと士狼の部屋に立ち入ることができた。

 これまで聞いたこともないような円佳の大声を聞き、頭に血が上っている公人には、あまりにも事がスムーズに進みすぎている、という不自然さを怪訝に思う余裕はなかった。

 果たして――その光景は、どう解釈するのが正解だったのだろうか。

 公人と千鶴の目に映り、頭に飛び込んできた情報量は、実はさほど多くない。

 以前と変わらぬ質素な宗谷士狼の部屋。ひっくり返ったテーブル。一人の少女に覆いかぶさる士狼。仰向けに倒れた円佳。泣きそうな顔で倒れた円佳。色素の薄いセミロングストレートの髪を乱した円佳。乱暴されたように制服を乱した円佳。

 ――そんな情報の羅列が、公人の脳内を埋め尽くした。

 部屋の状況より、士狼の体勢より――大切な妹が無事かどうかだけを何度も確認した。

 円佳は士狼に両手首を掴まれ、頭の上で固定されている。その小さな身体は、士狼の持つ腕力の前には蹂躙されるだけに過ぎない。これから自分の身に降りかかるであろう男の欲望から逃れる術を持たず、円佳は瞳の端に涙を浮かべ、諦めきった顔で身体を震わせている。

 卸したてだった制服は乱れ、はだけ、しわが寄っていた。開けた肩口からはブラジャーの肩紐や鎖骨が顔を覗かせ、まくれあがったスカートの裾からは柔らかそうな太ももが顔を見せており、下着さえあらわになっている。

 ふと士狼が――公人と千鶴を見た。

 女性に暴行するのは、法に抵触する行為。警察に通報すれば間違いなく士狼には実刑が下る。

 だが士狼は言い訳一つせず――笑った。

 見せ付けるように。

 口端を歪めて。

 それは――嘲笑だった。

 嘲笑い。

 おまえは愚かだと、おまえには妹を救えないと、そう公人に宣告するための――笑み。

 さすがに傍観するのは限界なのか、千鶴が一歩前に出た。

 無気力かつ無抵抗だった円佳が――そこで初めて、小さな抵抗を見せた。

 ただ上向きだった頭を横向きにして、玄関に立つ公人を見つめる――というだけの身じろぎ。

 瞳に溜まっていた涙が、円佳の頬を流れていく。

 何かを訴えかけるような視線。

 次の瞬間、円佳の唇が微かに動いた。


 ――おにいちゃん。


 それは耳を澄ましてもなお聞き取ることのできない小さな声量だったが、不思議と公人には明瞭に聞こえた。

 だが円佳の言葉には続きがあるようだった。

 ――た。

 無音となった世界、あらゆる変化が停滞した、まさに走馬灯にも似たスローモーションの視界の中、公人は円佳の唇の動きだけを追っていた。

 ――す。

 ドクン、と暴れる鼓動が、全身に血液を送り込む。

 ――け。

 動悸が激しく、息切れもひどい。頭に上った血が、周防公人という人間の思考を停止させ、一つの感情だけを浮き彫りにしていく。

 ――て。

 それが合図だった。

 それだけで十分だった。

 円佳が――大切な妹が助けを求めたという事実だけで、公人が動く理由は完成した。

 慌てることなく、逸ることなく、ただ機械のような動作で部屋に上がりこんだ公人は、なにも言わず士狼の肩を引っつかむと、これまで溜めていた力を拳に集中させて思い切り振りぬいた。

 一切の手加減もない――むしろ限界以上の力が全身を駆け巡っている。

 顔面を殴打された士狼は、口端から血を飛び散らせながら吹き飛び、壁に激突した。

「……痛ってえなぁ。ちょっとは手加減しろよ」

 壁に背を預けたまま、冗談げに士狼は言う。

 公人は士狼の元まで歩み寄ると、その胸倉を掴んで乱暴に起立させ、やはり全力で顔面を殴った。

 鈍い音がして、士狼の体が傾ぐ。

 これまであまり人を殴ったことのない公人の拳は、二度に渡る暴力に耐え切れず、皮膚が裂けて血が滴っていた。腹部などとは違い、顔面には歯があり、皮膚が薄く頬骨が出っ張っていることもあって、殴った拳のほうがダメージを受ける場合が多々ある。

 しかし公人にとって、そんなことはどうでもよかった。

 無様に尻もちをつき、口元を拭う士狼を見下ろして、公人は言った。

「おまえ――円佳に何をした」

 震えた声に、震える体。

 恐怖ではなく、圧倒的な憤怒が公人の体に震えをもたらしていた。

「おまえ――僕の妹に何をしたんだ」

 荒くなった呼吸を正そうともせず、公人はありったけの想いをカタチにするように叫んだ。


「おまえぇぇぇぇっ! 僕の妹に何をしたって聞いてんだよぉぉぉぉっ――!」


 冷静さを失った公人は、千鶴が制止する声も無視して、士狼に襲い掛かった。

 なぜか抵抗しない士狼を押し倒し、胸倉を掴んで体を揺さぶり、馬乗りになって何度も殴った。

 うめき声一つ上げない士狼は、ずっと口端を歪めたまま、公人の目を見るだけだった。

「……なあ周防、悔しいか? 悔しいよなぁ?」

 沈黙を保っていた士狼が、そこで初めて口を開いた。

 公人は殴る手を止めて、胸倉を掴んだまま、続けられる言葉を待つ。

「でも、おまえには悪いが、もう頂いちまったよ」

 くつくつ、と意地の悪い笑みをこぼす士狼。

「ありゃ今朝のことだ。てめえらが暢気に暦荘の階下でバカみたいな雑談に花を咲かせてるときだ。てめえが姫神や智実と笑ってた頃、円佳は泣き叫びながら犯されてたんだ。知ってるか、周防。円佳のやつ、処女だったぜ。おまえのお陰だ。おまえがこれまで無駄な努力を続けてきたおかげで、俺は円佳の初物を頂くことができた」

「…………」

「あれは最高だったわ。何度も何度も『お兄ちゃん』って、おまえを呼ぶ円佳を犯すのはよ。まあ無理やり犯っちまったあとは人形みたいに大人しくなったんだけどな」

「……それは、本当か」

「あ?」

「……おまえ、円佳に乱暴したのか」

「そうだ。おまえの大切な妹は、俺に汚されたんだ」

「……おまえ、おまえ――おまえぇぇぇぇぇっ!」

 血液が沸騰しそうだった。

 もう何が正しくて、何が間違っているのか――分からない。

 それでも一つだけ許せないことがあり、一つだけ確かな想いがある。

 円佳を傷つけた者は、殺してでも罪を償わせてやる。

 例え公人が罰を背負うことになろうとも、あの反抗期まっしぐらの妹を泣かせた奴は、神様だろうが王様だろうが許さない。

 また、心の底では信頼していた士狼に裏切られた――という事実が、公人の怒りをさらに燃え上がらせた。

 すでに公人の拳は痛覚をなくし、士狼の顔と同じぐらい血に濡れている。

 本来であれば公人を止める役割を持つ千鶴は、しかし公人の気迫に押されて動けずにいた。

 薄気味悪い沈黙の中――公人が暴力を振るう鈍い音だけが木霊している。

 公人の脳内は、消しゴムで擦られたかのように真っ白だった。ただ『円佳を傷つけられた』という一つの想いが、崩れ落ちそうな公人を支えている。

 遠くのほうで千鶴が何かを言っているが――それは公人の耳には入っても、心にまでは届かない。

 今の公人を止めることができるのは、きっと唯一人だけ。

 でも、その唯一の少女は、公人の背後で乱暴された体勢のまま泣いているだけで――


「――お兄ちゃん! もう止めてよぉ――!」


 歪み始めていた何かを矯正するような声が――聞こえた。

 それは公人にとって、誰よりも大切な少女の声。

 それは公人にとって、誰よりも護るべき妹の声。

 それは――周防円佳の、声だった。

 一心不乱に士狼を殴り続けていた公人は、振りかぶっていた腕を止めた。

 ゆっくりと振り返ってみる――と、そこには円佳が立っていた。乱れた制服を直そうともせず、ただ辛そうに唇を引き結び、瞳に涙を滲ませながら。

 神に祈るときのように両手を組み、円佳は言う。

「……お兄ちゃん、もういいから……だから、止めてよ……」

「なにがいいんだ円佳。僕はこのクソ野郎を殴らなきゃ気が済まないんだよ」

「クソ野郎ねえ――じゃあ、そのクソ野郎から妹を護れなかった駄目な兄貴はどうなるんだ?」

 士狼は挑発するように笑みを浮かべた。

「――宗谷あぁぁぁっ!」

「――待って、お兄ちゃん!」

 懇願にも似た叫び。

「……宗谷さんも、もういいですから、止めてください。あたしのために、そんなに血だらけになって……」

 見るからに悲痛そうな表情で、円佳は肩を落とす。

 公人の頭に、なにかが引っかかった。

 ――なぜ円佳は、申し訳なさそうな顔をしている?

 ――なぜ士狼は、これといった抵抗を見せない?

 ――なにより円佳は、どんな理由があって『あたしのため』と口にした?

「円佳、どういうことだ」

「…………」

 居心地悪そうに顔を俯ける円佳。

 公人は立ち上がり、円佳のほうへ歩いていく。

「……説明しろ。おまえ、僕に何か隠してるだろ」

 これは勘ではなく、確信だった。

 円佳が生誕したときから数えて十六年――公人はずっと『兄』であり『親』だった。まだ兄妹が幼い頃に母は逝ってしまい、父は家族を支えるため仕事に打ち込んだ。だから公人と円佳は、そこらの兄妹よりも一緒にいる時間が長かったし、支えあう機会も多かった。

 きっと公人のことを誰よりも理解しているのは円佳だろうし、円佳のことを誰よりも理解しているのは公人だ。

 その経験と自負が言っている――円佳は隠し事をしている、と。

「あのね、お兄ちゃん! ……えっと、その……あたしは、宗谷さんに乱暴されてないの」

 自分の身体を両腕で抱くようにしながら、円佳は告白した。

「乱暴されてない、だって? じゃあ、どういうことなんだ」

 部屋の中央で。

 公人と円佳は向かい合った。

 玄関のほうでは千鶴が、部屋の片隅には士狼が尻もちをついたまま、兄妹を見つめている。

「……実は、演技なの」

 沈黙に耐え切れなくなった円佳が、どこか気まずそうな、それでいて嬉しそうな顔で告げる。

「お兄ちゃんが、あたしのことを本当に大切に思っているかどうかって、それを確かめるために、宗谷さんに協力してもらったの。付き合っているようなフリをして、あたしが乱暴されたような真似をして、お兄ちゃんの反応を見ようって」

「…………」

「ごめんね、お兄ちゃん。宗谷さんはわざと悪者っぽく振舞ってくれてたけど、本当は何もしてないの。あたしは男の人とキスしたこともないし、だから……」

「本当か?」

「え?」

「本当に、おまえは宗谷に乱暴されてないんだな?」

「う、うん、それは本当……。でも、あたし嬉しかったよ? とっても嬉しくて、泣きそうになるぐらい幸せだった。だってお兄ちゃん、あたしのことを心配して――」

 不自然に円佳の言葉が途切れる。

 それと合わせて、パン、と甲高い音が響いた。

 公人が――円佳の頬を打ったのだ。

 色素の薄いセミロングストレートの髪が揺れて、円佳の顔を覆い隠す。

「――ぇ、あ――」

 突然の仕打ちに、円佳は混乱しているようだった。公人に打たれた頬を押さえたまま、呆然とした様子で大きく目を見開いている。

「……お、お兄ちゃ、ん……?」

「ふざけんな。おまえ、僕を騙したってのか」

 心の底から公人は怒っていた。

 その抑えきれない憤怒が伝わったのか――円佳は親に叱られた子供のような顔で、一歩退いた。見るからにうろたえている。

「……お兄、ちゃん……ま、円佳のこと、嫌いに、なったの……?」

「当たり前だろ。兄を騙すような妹を好きになるはずがないじゃないか」

 突き放すような一言。

 円佳の涙腺が緩み、瞳の端から大粒の涙が流れていく。それは頬を伝って、顎まで到達したあと、大きな雫となって床に吸い込まれていった。

 極寒の地に放り出されたかのように――円佳は身体を震わせる。

「――やだぁ! お願い……何でもするし、何度でも、謝るから……だから、円佳を、嫌いにならないでよぉ……!」

 ひたすらに涙が溢れる。

 嗚咽をかみ殺すことさえ出来ず、円佳は駄々を捏ねるように涙を流した。

 とめどなく泣き続ける円佳――その姿が、公人の知る、幼き日の妹と重なる。

 だが公人の怒りは収まらない。

 どう自分の中で折り合いをつけようとも、この怒りが収まるとは思えなかった。

 そう。

 あまりにも怒りが収まらず、子供のように泣き喚く円佳がうっとうしいので――

 公人は、妹を抱きしめることにした。

「――お、お兄ちゃ……!」

「うるさい! 言っておくけど、僕は怒ってるんだ!」

 いくら成長したとは言っても、円佳の身体は小柄なほうだ。だから公人の胸の中に、ちょうど円佳は収まる。

 細くて、柔らかくて、小さくて、そして大切な妹の身体を――公人は一切の手加減もせず抱擁した。

「……で、でも、お兄ちゃん、あたしのこと、嫌いになったんじゃ……ないの?」

「当たり前だろ! おまえのことなんか大嫌いだ! いつも僕に口うるさく説教しやがって! しかも宗谷と組んで僕を騙すなんて、おまえは何様のつもりなんだよ!」

 ビク、と円佳の身体が震える。

 公人に嫌われた、という事実がショックだったのだろう。

「……でもさ」

 気づけば。

 悲しくはないし、感動もしてないし、本当になぜなのかは分からないけれど――

 いつしか――公人の瞳からも涙が溢れていた。

 円佳と同じように。

 まるで合わせ鏡のように――兄妹は抱きしめ合いながら、互いの身体を涙で濡らしていた。

 感極まった公人は、必死に嗚咽をかみ殺して、ありったけの想いを口にする。

 しゃっくりにも似た横隔膜の痙攣――でも、そんなものに負けていられない。この妹を想う気持ちは、きっと神様にだって邪魔できないから。

「でもさぁ……! おまえは僕の妹なんだよ! 僕はおまえのお兄ちゃんなんだよ! 自分でも頭がおかしいとは思うけど、僕は騙されて安心してるんだよ……!」

「……お兄、ちゃん」

「よかった……」

 みっともなく涙を流しているけれど――それでも公人は『お兄ちゃん』だから。

「円佳が無事で、よかった……!」

「――あ、あぁ……!」

 限界だった。

 公人と円佳は、これまで離れていた時間を取り戻そうとするかのように抱きしめあい、ひたすらに想いを吐露した。

 当然だろう。

 二人は兄妹なのだ。

 どうしようもなく唯一無二で、かけがえのないぐらい大切な、そんな兄妹なのだ。

 なにかの拍子にボタンをかけ違うことだってあるけれど――それでも違えたボタンは、もう一度かけなおせばいいだけの話。

 喧嘩をするほど仲がいい、という言葉があれば。

 雨降って地固まる、という言葉もある。

 まるで雨のように流れ落ちる兄妹の涙は――ただでさえ大地のごとく強固であった二人の絆を、より強く固めていくだろう。

 そう――

 だって公人と円佳は――『兄妹』なのだから。




****

 



 これで、どこぞの素直じゃない兄妹が素直になるために、とあるアパートに住む白髪の男が悪役を演じた挙句、これでもかとボコボコに殴られる――という何とも俺が報われない物語は終わりだ。

 というか下手な尾行をかましてまで、俺と円佳の様子を見守ろうとするとは――きっと近い将来、円佳に想いを寄せる男子は苦労するんだろうな。周防的な意味で。

 しかも智実のオッサンが周防たちに協力してたみたいだし――まあ俺も、雪菜に協力してもらってたんだから文句は言えないが。シャルロットにも協力を頼もうかと思ったのだが、あのバカ吸血鬼は変なミスを犯しそうだったので止めておいた。

 ただ、俺が予想していた以上に、周防のパンチが強烈だったのは参った。やっぱり家族を大切に想う気持ちっていうのは、周防みたいなナンパ野郎にも少なくない力を与えるらしい。

 おかげで俺は鼻血が出るし、口腔内は切り傷だらけだし、散々な目に合ってしまった。不幸中の幸いは、歯が無事だったことか。生れつき歯が丈夫で助かった。ちなみに余談ではあるが、俺は虫歯になったことがない。

 事の真相を知った周防は、やけに神妙な顔で、俺に頭を下げた。もちろん許した――というか、俺も周防を騙していたわけだし、五十歩百歩という意味ではお互い様だ。今度、二人で酒でも飲みに行こう、みたいな感じのオチで、俺と周防はいつもどおりの『観客と芸人』という間柄に戻った。

 本当の問題は、周防ではなく雪菜のほうだ。

 あの自称陰陽師に協力を要請する際、「構いませんよ。ですが士狼さん、世の中には等価交換という言葉がありまして」と、不吉なことを言っていた。いずれ変なお願いをされるかもしれないが、まあそこはほら、また別の話である。

 ただ不本意なことは、俺が円佳に興味を持っている、という情報がすんなりと浸透したことだ。実に許しがたい。俺は大家さんみたいな、大人の魅力にあふれた女性が好きなのだ。間違っても円佳とかシャルロットとか、ああいうタイプの女はご免被りたいのである。

 とにかく、これで周防兄妹にまつわる物語は終わりだ。

 俺にもかつて姉と呼んだ人がいたので、そういう意味では周防の気持ちも分かる。

 ……それにしても。

 やっぱり周防と円佳は、からかいがいのある兄妹だよなぁ――




****




 トントン、と小気味よい音が鳴っている。

 薄ぼんやりとした意識の中で、どこか懐かしい断続的なリズムを耳にした周防公人は、包まっていた毛布を退けて上半身を起こした。

 昨夜は大変だった―――と公人は思う。

 怪我をした士狼を見て、シャルロットは泣き喚くし、雪菜は怪しげな薬や札を持ち出してきた。千鶴はなぜか感動した様子だったし、智実は公人に対する評価をさらに上げたようだった。なにより円佳が、子供の頃のように公人の服の裾を掴んだまま、ずっと離れようとしなかった。おかげで昨夜は、ベッドで一緒に眠るはめとなったのだ。

 すでに円佳は起きているようで、キッチンのほうからは食欲をそそる匂いが漂ってくる。


「――お兄ちゃん、起きたの?」


 愛華女学院の制服を着て、その上にエプロンを纏った円佳が、やけに機嫌のよさそうな笑顔を浮かべながら振り向いた。

 公人は洗面所で身だしなみを整えたあと、キッチンに向かった。そして冷蔵庫から牛乳を取り出して、コップに注ぎ、ごくごくと飲み干す。

「なんだか機嫌がよさそうじゃないか、円佳」

 まるで、いつかの朝と同じように。

 円佳は鼻歌を唄いながら、器用に包丁を扱っていた。ただし色素の薄い髪は結われておらず、ストレートのまま背中に流れている。

「そんなことないもん。お兄ちゃんの気のせいだもん」

「いやいや、明らかに機嫌がいいじゃないか。まったく、せっかく花の女子高生になったっていうのに、子供みたいなところは変わらないね」

「お兄ちゃんのほうこそ、もう大学生なんだから、宗谷さんみたいな大人の落ち着きを持てばいいのに」

「はっ、なにを言ってるんだい? 僕は女性の相手をしなければならないから、落ち着く暇なんて――いや待て我が妹よ。もう一度だけ注意しておくが、他のどんな男を好きになろうとも、宗谷だけは駄目だぞ!?」

 これだけは譲れない、と公人は声を荒げる。

 しかし案ずることはない。

 円佳は自己評価の低い少女で、自分には恋愛など出来ないと思い込んでいる。だから本来、わざわざ円佳に注意を促す必要はないのだ。

 トントン、と軽快なリズムで上下に運動していた包丁が――止まる。

「……ど、どうしてよ。あたしだって、恋愛ぐらいしてもいいでしょっ?」

 公人から視線を逸らして、円佳は訥々と呟いた。

 さきほどまでは一定のリズムだった包丁の動きが、いまは動揺したように不規則である。

「お、お、おま、おまえまさか、宗谷のことを好きになったなんてバカを言うんじゃないだろうな!?」

 以前、この質問をしたとき、円佳は「言わないわよ」と断言したはずだった。

 円佳は透きとおるような色白の頬を、かすかに赤く染めた。

「……い、言わないわよ。べつに、宗谷さんのことなんて……」

「ぐわあぁぁぁぁっ! そ、その反応は止めてくれぇぇぇぇぇっ!」

 最悪の予感が脳裏を掠めた。

 しかし、公人は自己の崩壊を防ぐために、辿り着いた答えを忘却するという荒業を無意識のうちに使用した。

 頭を抱えてのたうち回る公人を尻目に、円佳は物憂げな様子で調理に没頭していた。だが時折、「ねえお兄ちゃん。えと、宗谷さんって――」などという前口上を発端として、宗谷士狼に関する質問を投げかけてくる。それは公人に途方もないダメージをもたらした。

 楽しそうに鼻歌を交えながら、てきぱきと朝食の用意を進める円佳を見て、公人は何気なく口にした。

「……それにしても、円佳も高校生になったんだよな」

「うん、もうあたしは子供じゃないよ。こう見えても、脱げば凄いんだから」

「そっか。そうだよな。おまえはもう子供じゃないもんな」

「……? お兄ちゃん?」

 いつにも増して神妙な公人の声に、円佳は訝しげな様子で振り向いた。

「なあ円佳。もうおまえは子供じゃないけど――」

 そう言って、公人はポケットから黒いリボンを取り出した。

 もう色褪せた記憶――思い出すのも億劫になるほど古い、公人にとっての、円佳にとっての、ある意味では兄妹にとっての原初の記憶。

 あれは公人たちの母親が病気で亡くなってから、数日と経たない頃だ。

 四人だった家族が三人になって――公人と円佳には、なにか兄妹を繋ぐ”絆”が必要だった。

 幼い子供にとって、母親がいなくなる、という事実は、家族の絆を疑うに相応しい出来事だったのだろう。本来、母親とは家族に必要不可欠のものであり、自分たちを見守ってくれるのが当たり前の存在。しかし公人ら兄妹は、その時になれば『家族』なんて簡単に壊れてしまう、という現実を知ったのだ。

 だから絆を欲した。

 なにか形として見える家族の証が必要だった。

 これがあれば大丈夫だと、これさえあれば自分たちは兄妹だと、そう信じることができる”あるもの”を探した。

 あれは――母親が病気で亡くなってから、数日と経たない頃だ。

 公人は貯めていた小遣いをはたいて、可愛らしい黒のリボンを買った。散財していた公人にはあまり貯金は残っておらず、想定していたものよりも質素な”絆”となってしまったが、それでも円佳は喜んでくれた。


 ――お兄ちゃん! これ、大切に使うね!


 まだ『母親が死んだ』という事実を、幼い故に理解していなかった円佳は、世にも幸せそうな顔でリボンを受け取った。

 あの日から、円佳の髪型が変わった。

 あの日から、円佳の髪型は変わらないようになった。

 セミロングストレートの髪をサイドポニーに結う――そんな見方によれば子供っぽくも見える髪型を、円佳は何年にも渡って継続した。外出する際、円佳が髪を結わなかったことなど、公人は一度として見たことがない。

 どれほど大人びようと――円佳には、この黒いリボンがよく似合う。

「――ほら、忘れ物だよ。それでも僕の妹なのかい、おまえは」

 円佳しか妹はいないし、円佳しか妹と認める気はないけれど――公人は照れ隠しに、そんなことを言った。

 大きく真ん丸とした瞳を何度もぱちくりと瞬きさせる円佳に、公人はもう一度だけ黒のリボンをプレゼントする。しかし円佳が呆然としていたので、仕方なく公人が髪を結ってやることにした。

 ――それにしても、当時幼かった円佳が覚えていて、プレゼントした本人である僕が忘れてたなんて、兄失格だな。

 心のうちで己を戒めながらも、公人は円佳の髪を結った。それはお世辞にも上手いとは言えず、むしろ不恰好なサイドポニーであったが、円佳が文句を言うことはなかった。

「……お兄ちゃん、思い出してくれたんだ」

「まあね。つーか、僕が忘れるわけないじゃないか」

 やれやれ、と公人が肩をすくめながら言うと、円佳が頬を膨らませた。

「嘘ばっかし。お兄ちゃん、どこからどう見ても忘れてたくせに」

「あれは演技だよ。ふっ、まあこの美男子こと公人の華麗なる演技を見れてよかったじゃないか」

「そんなの何の自慢にもならないわよ! むしろ慰謝料を請求したいぐらいだし!」

「慰謝料だって!? おまえ、兄である僕になんて失礼なことを言うんだ! それでもおまえは僕の妹か!?」

「当たり前でしょう!? あたしがお兄ちゃんの妹じゃなかったら、誰が妹だって言うのよぉ――!」

 絶え間なく続く口論。

 せっかく仲直りをしたのに、せっかく兄妹の絆が戻ったというのに――それでも次の日になれば、二人は飽きることなく口論をする。

 しかし、それでいいのだ。

 そうじゃないと、駄目なのだ。

 なぜなら――これこそが周防兄妹の日常であり、在るべき姿なのだから。

 この日、二人はいつまでも実のない話を繰り返していた。

 どこか情けない兄を叱り、同時に甘えようとする円佳が、しかし素直になれず、頬を膨らませてそっぽを向くたびに。

 ――年季の入った黒いリボンと、サイドポニーの房が、雨上がりを告げる白雲のように揺れていた。




 [周防兄妹編 完]




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