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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
第五月 【本日も晴天なり】
82/87

其の三 『尾行』


「姫神! それは本当かい!?」

 暦荘の階下で、近所迷惑など考慮していないような周防公人の声が響き渡った。

 公人の部屋から円佳の姿が消えてから約二時間が経っていた。すでに太陽は高い位置にまで上っている。時計がないので正確な時間は分からないが、午前十時あたりを回ったところが妥当だろう。

「あ、ああ。さっき雪菜ちゃんが教えてくれたんだ。だから間違いないと思う」

 公人の剣幕に圧されたのか――姫神千鶴は、たたらを踏んで頷いた。

 無駄な贅肉など一切ないスラリとした身体と、肩の高さで切りそろえられたセミロングの黒髪。まったく気を遣っていないのだろう、その肌には僅かに日焼けの跡が見られるものの、十分に女性的な白さを保っている。

 見る者にため息を強制させるような、理想的なバランスで整った顔立ち。その美しさは、どこか男性的な凛々しさも纏い、姫神千鶴という少女を中性的な容姿に見せていた。

 切れ長の二重瞼には、揺るぎない意思のようなものが宿っている。鋭い眼差し、と言い換えても間違いではない。気合の入っていない者が千鶴と対峙すれば、ほぼ確実に気圧されるだろう。

 一般的な女子高生が夢中になる”オシャレ”という装飾を、千鶴は自身に施していない。

 きっとオシャレに興味がないのだろう。当然かもしれない。千鶴ほど素材に恵まれていれば、そもそもオシャレをする必要もないのだから。そして、その事実に千鶴は気付いていない。

 今日も例に漏れず、千鶴の服装はシンプルだ。

 上は、黒を基調としたレース使いのブラウス。

 下は、これといった特徴のないタイトなジーンズ。

 もちろん女性として最低限のオシャレはしているが、必要以上の着飾りをしないのが千鶴だった。今日の服だって、実を言えば凛葉雪菜のプロデュースである。

 機能性を重視しつつ、見栄えのいい服装――それが姫神千鶴のファッションだった。

「……なるほど。姫神はともかく、情報源が雪菜ちゃんなら信じてみてもよさそうだね」

「そうだな。雪菜ちゃんも確定情報だって言ってたから――」

 ――話は一時間前にまで遡る。

 休日ということもあり、やや遅い時間に目覚めた千鶴は、自分のベッドにいつの間にかニノが潜り込んでいることに気付いた。もはや驚きはなく、宿代と言わんばかりに獣耳を触ってやるのが習慣になっているぐらいだ。

 基本的に、ニノは自由気ままで、用事がないときはいつまでも眠っていたりする。寝息に合わせてピョコと動く獣耳を突いたりして遊ぶのは、千鶴の密かな楽しみの一つだった。

 それは今朝も同様だったのだが、千鶴がニノの獣耳を堪能しているときに、畏まって雪菜が訪ねてきた。


「――千鶴ちゃん。士狼さんと円佳ちゃんが、なにやら男女の関係に発展しているようです」


 開口一番の台詞がそれだった。

 もちろん千鶴は驚いた。色んな意味で驚いた。まさか士狼と円佳の間に恋愛感情が生まれるとは思いも寄らなかったし、雪菜があまり悲しんでいるように見えないのが謎だったし、なにより話が突拍子すぎるような気がした。

 しかしながら、千鶴にとって雪菜は信頼できる親友である。だから雪菜の言い分も何とか信じたし、そもそもすぐに露見するような嘘を雪菜がつくとも思えなかった。

「それでは千鶴ちゃん。この事実を、周防さんに伝えてくださいね」

 ペコリと頭を下げた雪菜は、その言葉を最後に千鶴の部屋を去っていった。

 たかが五分程度の間にもたらされた情報量は、千鶴の頭を上手い具合に掻き回して混乱させた。それにベッドのほうではニノが暢気に眠っていて、きっと気のせいだとは思うが、獣耳が千鶴を応援するようにピコピコ動いている。

 しばし逡巡した千鶴は、仕方なく公人を訪ねることにしたのだった。自室のベッドに、ニノを一人残したまま――

 これが、千鶴が公人に話した事の顛末である。

 当初は、あの円佳が男になびくのはありえない、と思った公人だったが――今回ばかりは一蹴することも出来ない。

 あれだけ泣いて、大事にしていたリボンを捨ててまで、円佳は走り去って行ったのだ。

 ……もしかして宗谷のやつ、円佳の弱っているところに付けこんだんじゃないだろうな?

 それしか考えられなかった。

 兄の目から見ても、円佳は愛らしい少女だ。高校生になって一気に女らしくなったし、女性特有の色気も出てきた。

 公人は、士狼のことを悪人だとは思ってない――しかし男という生き物は、一時の情欲に流れることが多々ある。

 士狼が円佳の泣き顔に心を動かされてしまった――というのも考えられない話ではなかった。

 この話を千鶴から聞いたとき、もちろんすぐに士狼へ問い詰めようとした。

 ……だが、公人は円佳を泣かせてしまった。雪菜の情報が正しければ、きっと士狼の傍には円佳がいるだろう。あれから二時間しか経っていないというのに、どのツラを下げて会いに行けばいいのか。

「なあ周防。どうするつもりなんだ?」

 自己の世界に没頭していた公人は、その気を遣ったような声を聞いて現実に引き戻された。

「どうするって、何がだい?」

「おまえは妹が――円佳が大切じゃないのか?」

「まさか! あんな口うるさい妹、べつにどうなってもいいさ!」

 なんとなく心のうちを見透かされたような気がして、公人は視線を逸らした。

 真正面から臆することなく見つめてくる千鶴の瞳は、いまの公人にとって嘘発見器に等しいから。

「昨日の夜、大家さんの家で円佳と話したよ。周防の妹にしては、今時珍しい出来た子だと思った。でも、あの子には一つだけ大きな欠点があるな」

「欠点? 円佳のなにが悪いっていうんだ」

 口にしてから、しまった、と公人は思った。円佳を馬鹿にされたような気がして、反射的に険悪な物言いになってしまったからだ。

 それを気にした様子もなく、千鶴は言った。

「円佳は――おまえの話ばかりするんだよ」

「…………」

「他にも話すことはあるだろうに、ずっと周防のことばかり聞いてきた。お兄ちゃんは暦荘で上手くやっているのか、ちゃんとご飯を食べているのか、友達はいるのか、お金の無駄遣いはしていないか、とかな」

 千鶴の口から言葉が紡がれるたび、公人の口元は緩んでいった。

 それを気取られたくなくて、公人は顔を俯けた。

「中でも一番笑ったのは、お兄ちゃんは私のことを何か言ってませんでしたか、という質問だった。円佳の存在すら知らされていなかったと私が答えると、あの子は頬を膨らませて可愛らしく拗ねてみせたよ。あんな出来た妹の唯一の欠点は、女にだらしない兄を慕っているという点だけだ」

「……なにを言ってるんだい? この僕のような美男子を兄に持ったということが、円佳にとって最高の幸せじゃないか!」

 円佳と喧嘩した陰鬱な気持ちと、円佳が自分を慕っているという事実に歓喜した気持ちを誤魔化すため、公人はわざと大げさに振舞った。

 そんな公人を見て、千鶴は安心したと笑った。

 そんな千鶴を見て、公人は一つの決意を固めた。

「――よし決めた! 僕は、円佳と宗谷の関係を調べる!」

「調べるって言っても、どうやるんだ?」

「決まってるじゃないか。一組の男女が部屋でじっとしてるわけないだろ? きっと宗谷たちは、いつか外に出かけるはずだ。そのときに尾行するんだよ、尾行。部屋の中ならまだしも、外なら様子が丸見えだからね」

「……いや、普通に話を聞きに行けばいいだろ? どうして回りくどい方法を取るんだ?」

「ふっ、それは秘密さ。僕という生き物は、秘密を持つことによって輝くんだよ」

 キザに前髪をかきあげる公人を見て、千鶴は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「だから姫神は部屋に帰りなよ。あとは僕が何とかするから」

「いや、私も一緒に行こう」

 走ることがあってもいいようにと屈伸をしていた公人は、予想外の一言を聞いて動きを止めた。

「ま、まさか、姫神……おまえ!」

「ああ。周防を一人にすると何を仕出かすか分からな――」

「――僕のことが好きだったのか!」

 遮るようにして公人が言うと同時、千鶴が瞳を細めて指を鳴らした。

「ひいぃぃぃぃぃっ! じょ、冗談に決まってるじゃないかっ! そんなに怒らないでもいいだろう!?」

「ちっとも冗談に聞こえなかったぞ。むしろ自分の言葉こそが真理とさえ思っていそうだった」

「あっ、分かるかい?」

 瞬間、千鶴の指が鳴った。

「ひいぃぃぃぃっ! だから冗談だって言ってるだろ!?」

 頭を抱えて後退あとずさる公人。

 千鶴は、ふん、と不満げに鼻を鳴らした。

「……それで、どうするんだ? 尾行するとは言っても、そんな簡単なことじゃないだろ?」

「はっ、甘いぜ姫神。しょせん尾行だよ? ただ後ろをつけるだけだよ? ちょっと距離をあけて、こっそりと後を追うだけじゃないか。こんなの小学生にだって出来るに決まってるよ」

「そうかな? 私は難しいと思うんだけど」

 両腕を組んで高笑いする公人とは対照的に、千鶴は物憂げに瞳を伏せて弱気になっている。

 ――そのときであった。

 遠くのほうで鳴っていたロードノイズが一際大きくなったかと思うと、バイクの甲高いマフラー音が住宅街に鳴り響いた。

 鼓膜を侵すかのような轟音に顔をしかめた公人たちの目前を、一台のバイクが通り過ぎていく。そのシルバーを基調とした大型のオフロードバイクは、暦荘の脇にあるスペースに停止して、駐車した。

 バイクに跨っていたのは、質のよさそうなスーツを着た男だった。フルフェイスのヘルメットを被っているものだから顔は見えない。

 しかし公人と千鶴には、それが誰なのか一発で分かった。


「――聞こえたぞ公人よ。貴様、尾行が簡単だなどと世迷言を言ったな?」


 その男は、淀みのない動作でヘルメットを外し、それをバイクのシートの上に乗せた。

 白日の下に晒されたのは、カラスの濡れ羽のような漆黒の髪――不吉なまでに黒いその髪を、男はオールバックにしている。

 左目の眉あたりから頬の上部にかけてまで、瞼を通過するような形で大きな切り傷が入っており、それが男に暴力的な迫力を与えていた。

 恐らく180センチメートルは優に超えるだろう身長と、一朝一夕の訓練ではまず身につかない鋼の筋肉は、しかし品のよさそうなスーツの下にしまわれている。

 年の頃は二十代後半から三十代前半が妥当か。年若い男性には醸し出せない、ある種の渋みのようなものが雰囲気として加わっている。

 一見して危ない人にも思えるが、よく見るとサラリーマンに見えなくもない。

 ――その男は名を、山田智実やまだともさねと言った。

「誰かと思えば、智実の旦那じゃないか。ここ最近、姿を見かけなかったけど、どこか行ってたのかい?」

「ああ。久しぶりにまとまった休暇が取れたものでな。無人島まで野鳥の観察に出かけていたのだ」

「……スーツで?」

「うむ。サラリーマンとは、そういうものなのだろう?」

 おまえは決定的な何かを間違っている――という視線を公人と千鶴は送ったが、智実は気付かない様子だった。

 一歩一歩踏みしめるような足取りで、智実は公人たちの元にやってきた。

「それより貴様――もう一度、先の言葉を繰り返してみろ」

 鷹のように鋭い瞳を、さらに細めて。

 まるで軍隊の教官さながらの威圧感を迸らせながら、智実は問う。

「先の発言? ……ああ、もしかして『尾行なんて簡単』ってやつかい?」

「――愚か者めがぁ!」

 公人が軽い調子で答えたのと同時、智実の怒声が青空のもとに響き渡った。

「尾行を甘く見るなっ! 尾行とは、常に死の危険と隣り合わせの任務なのだ! 特定の対象者に、己の存在を気付かせることなく見張り続けることによる疲労の蓄積は、その道を極めたプロフェッショナルの者でさえ――否、プロフェッショナルの者ほど大きくなる! それを貴様、言うに事を欠いて『尾行は簡単』とほざくなど万死に値するぞ! 七年前、上海の地にて、尾行に失敗し敵側に捕らえられたオレの戦友に謝罪しろ!」

 智実は、公人の胸倉を掴んで、これでもかと揺さぶった。

「――ちょっと智実さん! 周防が死にそうになってる!」

 仲裁に入ったのは千鶴だった。

「……ふむ、オレとしたことが興奮してしまったようだ。すまんな」

 やれやれ、と自身を戒めるように首を振り、智実は続けた。

「しかし千鶴よ。おまえは公人とは違い、尾行という任務の難度を理解しているようではないか」

「いや、べつに私は理解しているわけじゃないけど――ただ難しそうだなって思っただけさ」

「それでいいのだ。さすがに武道を学んでいる者は違うな。感心したぞ」

 鷹揚に頷く智実と、微妙な顔で賛辞を受け取る千鶴のかたわらで、青い顔をして咳を繰り返していた公人が口を開いた。

「……それよりも旦那。さっきまでバイクに乗っていたのに、どうして僕たちの会話を拾えたんだい?」

「ふむ。もっともな質問だな。実は、いざというときの襲撃に備えるため、暦荘の近辺には盗聴器を――すまん失言だ。忘れてくれ」

「――ツッコミどころがありすぎて忘れられないわっ! これでもかと脳裏に焼きついたよ! 襲撃ってなんだ!? しかも盗聴器を仕掛けるとか、それって犯罪とかにならないのかい!?」

「だから失言だと言ったろう。オレは神に誓って盗聴器など仕掛けていない。……ふっ、まあオレは無神論者なのだがな」

「最後の一言で台無しだよっ!」

 ここで恐ろしいのは、智実が真顔だということだ。これっぽっちも冗談を口にしている雰囲気ではない。だからこそ公人も、盗聴器を仕掛けたという常識外れの発言を無視することができない。

 この山田智実という男なら、どんな非現実的な行為だってやりそうなのだ。

「さて。話はスピーカー越しに聞かせて――いや、今日は偶然にも耳の通りがいい日でな。おまえたちの事情は理解しているつもりだ」

「なあ姫神。僕、もう突っ込まなくてもいいよな?」

「うーん……」

 諦めきった顔の公人に対し、千鶴は曖昧な笑みを浮かべて首を傾げていた。

「まずは言わせてもらおう――公人よ、オレは感動したぞ。大切な妹のために体を張ろうとするおまえの心意気は賞賛に値する。しかも相手は宗谷なのだろう? あの男を敵に回すのは骨だというのに」

「そうかい? しょせん宗谷だよ? そう警戒することはないと思うんだけどね」

「ふむ――しかし宗谷士狼という男は、オレでも未だにはかりきれん。ゆえに全力でかかるべきだろう」

「智実さんの言うとおりだ。宗谷は一筋縄じゃいかない。……だって、強いからな」

 どこか憧れの眼差しで空を見上げなら、千鶴がぽつりと漏らした。

「うむ。その認識で間違っていない。少なくとも油断の許される相手でないのは確かだからな。そこで、だ。このオレが直々に、おまえたちに尾行というものを教えてやろうではないか」

「……い、いやぁ。べつに旦那は気を遣わなくても、あとは僕たちでなんとか……」

「遠慮するな。軽く口頭で、最低限のコツを述べるだけだ。オレも尾行は専門外であったからな。さほど伝授できることもない」

 はた迷惑そうな顔をする公人と、興味を示したのか智実の瞳を真っ直ぐに見つめる千鶴。

 正直な話をすれば、公人は嫌な予感がしていた。智実という人物は、決して悪人ではないのだが、たまに間違った方向に情熱を燃やす悪癖があるのだ。

「まずは基本中の基本――いや、初歩から教えよう」

「分かったよ。初歩だっていうなら僕たちにも出来るだろうしね」

「尾行するときには、まあ当然だが、とりあえず気配を消しておけ」

「初歩のくせに難しすぎるわっ!」

「難しいだと? おかしいな。オレは以前、おまえが気配を消している瞬間を目撃したのだが」

 秀麗な眉を歪める智実。

「あれは確か、一年ほど前のことだったか。ちょうど街を歩いていたときだ。オレは人込みの中に公人の姿を見つけたのだが、その数瞬後には我が目を疑うこととなった。なぜか。オレの知覚能力では補足できぬほどの気配遮断スキルを公人が見せていたからだ。あまりの出来事に驚愕したオレは、公人の視線の先を辿った。すると、そこには春風にスカートを捲くられる女性がいてな。その後ろを気取られないように尾けていた公人は、紛れもなく気配を消していたのだ。

 あれは見事だったな。常人であれば、即座に女性に気付かれてスカートを押さえられてしまい、下着を見物できなくなってしまうだろう。しかし公人は違った。違ったのだ。あれ以来、オレはおまえを対等な男として見るようになったのだ」

「男として認めてもらうきっかけがイヤすぎるだろそれっ!」

 加えて言うなら、公人には気配を消している自覚などなかったし、やれと言われて出来る気もしなかった。

「……へえ、ずいぶんと楽しそうなことをしてたんだな。周防」

「まあね。あのストライプのパンツは――ひいぃぃぃぃっ!? そんな指をポキポキさせなくてもいいだろう!?」

「いや、そろそろ一度、本気で周防を粛清したほうがいいような気がしてきたんだ」

「粛清って――僕は虫か何かかよ」

「……なあ周防。一緒に虫に謝りに行こう? 私もついていくから」

「えっ、なんだいその反応は!? なんで僕と同列に並べられた虫が被害者みたいになってるんだ!?」

 さすがにショックの公人であった。

 それにしても、と思う。

 すこし前までは円佳と喧嘩して、大切な妹を士狼に傷つけられたかもしれないと聞かされて、陰鬱な気分になっていたというのに。

 千鶴と、智実と。

 暦荘の住人と話しているだけで――不思議と心が落ちつく自分を、公人は感じていた。

 公人はポケットの中に手を入れて、そこに折り畳んで取ってある黒いリボンを握り締めた。

 円佳が――ある意味では自分の命よりも大切な妹が、いつも肌身離さず髪留めに愛用していたリボン。もう六、七年間は円佳の髪留めとして機能していると思う。

 ……しかし。

 きっと今の円佳は、髪をストレートに下ろしている状態だろう。あの妹は、この黒いリボン以外を使用することは絶対にない。

 思い出したのだ。

 あれだけ円佳が泣き喚いた原因に、公人は思い当たったのだ。

 それと同時に、公人は己を強く責めた。

 ――そのリボンを捨ててしまえ、と円佳に言うのは、兄妹の絆を捨ててしまえ、と口走るのと同義だから。

 だから返したい。

 もう一度、プレゼントしたい。

 リボンの保存状態は、信じられないぐらい良好だった。もちろん新品同然とまではいかないが、それでも七年近い月日を消費したとは思えない有様。

 ……円佳は、よほど丹念に手入れをしていたのだろう。

 いつまでも使えるように。

 兄妹の絆が切れないように。

 ずっと、ずっと。

 公人が忘れてしまっても、それでも円佳は憶えていた。

 本当に申し訳ないことをしたと思う。兄として失格だと強く自覚する。

 でも、きっぱりと謝ることが出来ないのも確かだ。あれだけ喧嘩したあとだし、なにより公人と円佳は、もともと素直じゃない間柄だった。

 本当は円佳のことが大切なのに――口うるさい、と表面上は馬鹿にして。

 本当は公人のことが大好きなのに――お兄ちゃんはだらしない、と照れ隠しに文句をつけて。

 そんな兄妹だ。

 決して素直じゃないし、口に出して好意を示したりもしないけれど。

 それでも。

 ――喧嘩するほど仲がいい、という言葉がこの世にはあるのだ。

 あんな口うるさくて、兄を敬うことを知らなくて、反抗期まっしぐらの妹でも――それでも大切なのだ。

 あんな口うるさくて、兄を敬うことを知らなくて、反抗期まっしぐらの妹だからこそ――誰よりも可愛く見えて、兄である自分が見守ってやらなければならないと思うのだ。

 だから公人は、円佳が男と交際するのには大反対だ。

 それはもしかすると、愛する娘に彼氏が出来たときの父親と、同じ反応なのかもしれない。

 もちろん円佳の愛情が本物であり、相手の男が公人も認めるぐらいの好青年ならば構わない。そのときは涙を飲んで、成人するまでは清い交際をする、と約束させた上で見守ろう。

 だが、今回の例だけは許容できない。

 相手の男が宗谷士狼だから――ではない。

 いまの円佳は傷つき、弱っている状態だ。だから一時の安心と温かみを得るためだけに、男に愛情を求めることもあるだろうし、下手をすれば身体を許してしまうことだってあるかもしれない。

 だから公人は、

「智実の旦那。僕に尾行のコツとやらを教えてくれ」

 例え、実の妹を尾行するという、なんとも情けない手段に出たとしても、円佳を見守るつもりだった。

 雪菜と千鶴には悪いが――公人は、士狼が円佳に手を出したとは思っていない。

 確かに士狼は、バカで愛想が悪くて女にモテない朴念仁の見本のような男である――と公人は思っている。

 でも、決して悪いやつではないのだ。それだけは公人とて理解しているつもりだった。

 だから公人の考えとしては、士狼は円佳の相談に乗ってやっているのではないか、というものだった。それなら二人きりになるのも自然だし、長時間一緒にいてもおかしくはない。

 率直に言うのなら。

 ――公人は、士狼のことを信用しているのだ。ちょっとだけだが。一応だが。仕方なくだが。

 とにかく――事の真相を暴くためにも、公人は手段を選んでいられないのである。

「……ふむ、よかろう。公人がそこまで言うのなら、このオレが全身全霊を以って尾行の何たるかを叩き込んでやる」

 感慨深げに頷く智実。

「そうかい? なら、ちゃっちゃと教えてくれ」

「――愚か者がぁ! 貴様、なんだその口の聞き方は!? それが教官に教えを請う者の態度か!? いまの貴様の台詞として正しいのは『そうなのでありますか? では、自分にご鞭撻のほどをお願い致します』だろうが!」

「…………」

 公人は、やっぱり手段を選ぶべきだったかな、と考えを改めることにした。





 智実に尾行の講習を受けること一時間、各々の部屋で準備をすること三十分、暦荘の前で張り込みを続けること一時間。

 アクションが起こったのは、その日の午後一時のことであった。

 公人と千鶴は、連れ立って外出する士狼と円佳を発見。即座に尾行を開始することにした。

 士狼の様子はいつもと変わりないが、円佳のほうは見るからに落ち込んでおり、歩く足にも力がない。それに円佳はセミロングの髪をストレートに下ろしていた。

 公人たちは智実に教わった事柄を脳内で反芻しながら、士狼らを追跡する。

 ――まず尾行の基本として、目立たない服装を選ぶことが挙げられる。かといって地味すぎても駄目だ。人込みの中で浮かないような、それでいて溶け込むような服装が好ましい。

 また、対象と目を合わせることだけは絶対に避けるようにする。目とは最も感情を伝える部位。視線を合わせるだけで、勘のいい者ならば何かしらの違和感に気付く可能性もある。

 尾行する際、相手との距離はおよそ二十メートルから五十メートルほどを保つようにする。

 また、歩行速度は均一にせず、ある程度の緩急をつけることによって、人込みに溶け込むことが出来る。ただし、どのようなアクシデントが発生しても絶対に走ってはならない。

 ターゲットに勘付かれないように追跡するだけ――と聞くと容易にも思えるが、尾行ほど神経をすり減らす行為も珍しい。ターゲットに勘付かれないようにするためには、相手の一挙手一投足から片時も・・・目を離してはならないのだから。

 尾行における困難な状況として『人の少ない場所』、『夜間』などが挙げられる。

 前者は説明するまでもないだろう。

 後者は、夜は暗闇でターゲットに気付かれない、つまり簡単だと誤解釈している者が多いが、それは逆である。夜は人気が少ないので、人間は無意識のうちに警戒心を強め、普段よりも慎重になる傾向にあるのだ。

 とは言ったものの、公人たちは恵まれている。いまは昼頃ということもあって明るく、人通りも多いからだ。それに士狼らは進んで人気の多い場所――駅前に向かっている。

 ただしターゲットと顔見知りなのは大きなマイナスだろう。顔を見られてしまえば終わりと言ってもいいのだから。

「……な、なあ姫神。調子はどうだい?」

「いや……今のところ普通じゃないか?」

 ぎこちない会話。

 ついでに言えば、知り合いが並んで歩くにしては距離がやや遠い。

 それもすべて智実の発言のせいである。

 ――周囲の人間に怪しまれないために、おまえたちは恋人同士であるかのように偽装しろ。

 もちろん反対した。

 公人は、何もそこまでしなくてもいいんじゃないか、と思ったし、千鶴は色恋沙汰を一度も経験したことがないので気恥ずかしいという感情が強く出たのだ。

 しかし口々に文句を言う公人と千鶴を見て、智実は言った。

 ――つまりおまえ達は、公人の妹よりも、己のつまらないプライドを優先するということだな?

 そう言われてしまうと、腹を括るしかなかった。

「……あのさ姫神。もっと自然な顔したらどうだい?」

「それは私の台詞だ。周防のほうこそ顔が強張ってるぞ」

「そりゃ強張るよ。なんてったって僕のとなりには、暴力という言葉を具現化したかのような女がいるんだからね」

「ふん、それを言うなら私のとなりには、変態という言葉を具現化したかのような男がいるけどな」

 憎まれ口を叩きながらも、公人たちは士狼らを注視することを忘れなかった。

 ターゲットを観察する際には、背中よりも足元――もっと言うなら踵を見るのが一番安全だ。そうすれば相手が振り向いても目が合う可能性は低いし、なにより勘の鋭い者は背中に浴びせられる視線に気付くこともある。

「つーか姫神さぁ、もっと女の子みたいな可愛らしい笑顔とか出来ないのかい? さっきから微妙に威圧感っぽいものを感じるんだけど」

「女の子みたいな笑顔はともかく、可愛らしい顔なんて私には出来ないに決まってるだろ。そういうのはシャルロットのような女の子にしか出来ないんだよ。私なんて、男から見れば何の魅力もない女に決まってるさ」

 どこか拗ねたように千鶴は呟く。

 相変わらず円佳とは違ったベクトルで自己評価の低い千鶴ではあるが、周囲の人間から見た千鶴は高評価を得ているようだった。その証拠に、すれ違う人間の大半がわざわざ振り返り、姫神千鶴という少女を目で追っている。

 レース使いの黒のブラウスと、タイトなジーンズという質素な組み合わせなのだが、その”質素”という要素は敢えて組み込まれたものであるかのように、千鶴は一つの被写体として完成していた。

 千鶴本人は、恐らく気付いていない。

 いつも自分に人が振り向くものだから、きっとそれが当たり前だと思っている。すれ違った人の大半が振り返るのは、千鶴のルックスが優れているからなのに。

 予想外と言うべきか、あるいは予想通りかもしれないが――千鶴に憧れの目を向けるのは、男性よりも年頃の女性のほうが多かった。

 そのバランスの取れた肢体と、ほどよく高い身長は、まさに女性誌専属のモデルのよう。

 千鶴の胸が平均よりも小さいのはご愛嬌だろう。むしろ小さいからこそ、全体的な細さが手に取るように分かる。胸が大きい女性は、ふくよかなイメージを持たれてしまいがちなのだ。

 となりを歩く千鶴を見つめながら、公人は改めて思う。

 確かに姫神千鶴という少女はしたたかだ。その生き様、容姿、雰囲気は武道とよく合う。しかし、だからといって千鶴がそこまで武道に傾倒する理由が分からない。

 公人の知る限りでは、千鶴は家の意向に従うのが嫌で、姫神家を飛び出したらしい。そして千鶴が通う道場には、高梨沙綾の甥に当たる高梨京也という少年がいて、彼の紹介で千鶴は暦荘に転がり込んだという話だ。

 公人は思う。

 どこまでも真っ直ぐに突き進んでいくような強さを持つ、この姫神千鶴という少女も――自分一人では解決することのできない問題を抱えているのだろうか。

「……それにしても宗谷と円佳は、普通にデートしているようにしか見えないな」

 ふと千鶴が呟いた。

「確かに、そう言われてみれば見えなくもないね。くそっ、宗谷のやつ、普段はモテないからか知らないけど、無駄なボディタッチが多い気がする」

 士狼と円佳がいるのは、駅前にあるショッピングモール。その数多く展開する洋服店などを士狼らは梯子はしごしている。どうやら士狼は、円佳に洋服を見繕ってやるつもりらしい。

 ちなみに公人たちは、すこし離れたところにある雑貨店の陳列棚の影に隠れて、士狼らを観察していた。

「……つーか僕たち、普通に怪しいよな」

 尾行対象は違う店にいるのだから、必然、公人と千鶴は雑貨店の入り口付近に陣取ることになる。おかげで出入りする客からは怪訝な目で見られてしまう。

「ああ。でも智実さんの言うとおり、帽子やサングラスといった類を持ってこなくてよかった」

 当初、公人たちは変装するために帽子を被り、サングラスをかけ、マスクをつけるという素人丸出しの有様を見せていた。

 しかし智実曰く、それらの装備品は人込みの中では逆に浮いてしまうので止めたほうがいい、という。

 まだ帽子やサングラス単品ならば違和感もないが、複数に渡って『人となりを隠すような装飾品』を纏ってしまうと、途端に怪しい人物に見えてしまう。

「そうだね。まあ智実の旦那、僕たちに盗聴器と発信機とトランシーバーを持たせようとしたけど……」

 やれやれ、と公人が肩を竦めていると――突然、千鶴が勢いよく身を寄せてきた。

「うおっ――ひ、姫神さん!?」

 香水とは違った、自然な優しい匂いが鼻腔をつく。それは、ほのかな石鹸の匂いだった。

 たしか千鶴は高価な品に拘らない少女で、普段から一個百円の石鹸を使っていると聞いたことがある。しかし、その必要最低限の役割を果たすだけの大量生産品が、なぜこんなにもいい匂いに思えるのか。

「――静かに。いま円佳がこっちを見たんだ」

 千鶴も必死なのか、この近すぎる距離を疑問に思わないらしい。

 美形と称するに相応しい顔立ちが間近にあって、公人はガラにもなく体が熱くなるのを感じた。

「……どうやら気付かれたわけじゃないらしいな。ただ偶然に私たちのほうを見ただけか」

 ふう、と深く息を吐いて千鶴の身体が離れていく。

「また移動するみたいだ。行くぞ、周防」

 どうやら千鶴自身、この尾行に夢中になっているようだった。

 なぜかドキドキしてしまった公人は、その動悸と羞恥を隠すため、わざと大げさに振舞うことにした。

「――はっ、誰に命令しているんだい? お前のほうこそ僕についてこいよ、姫神!」

 それは店内に響き渡るほどの大声であり――結果として公人たちは周囲の視線を集めることとなった。

 幸いにして士狼たちは離れた場所にいるので、こちらに気付いた様子はない。

「バカっ、周防が騒ぐと連れの私まで変な目で見られるだろ!」

 よほど気恥ずかしかったのか、頬を赤くした千鶴が公人の肩を叩いた。

 それを見て、

 ……なんだ。姫神も年頃の女の子らしいところがあるんだな。

 と、公人は不思議な安心を感じた。

 とりあえず雑貨店には長居できなくなってしまったので、二人はポジションを変えることにした。もちろん士狼らの様子には細心の注意を払いながら。

 今のところ、尾行対象に不自然な動きはない。智実曰く、尾行されていることに気付いた者は必ず不審な動作をする、とのこと。それを見逃さなければ、たとえ気付かれたとしても、安全に引き下がることが可能だ。

 ショッピングモール内を並んで歩く士狼と円佳――その後方二十五メートルほどに公人たちの姿がある。

 遠くから様子を伺う限り、士狼が積極的に話題を振って、それを円佳が力ない笑顔を浮かべながら対応する、という感じだった。

 やはり公人の想像どおり、士狼は円佳を慰めてくれているのだろうか。

 それともまさか――いや、下衆の勘繰りは止めよう。あんな朴念仁でも、いちおう暦荘の仲間なのだ。知人の妹に手を出すような男と疑いたくはない。

 しかし気のせいでなければ――士狼からは下心のようなものが感じられる。必要以上にボディタッチが多いし、なにより今の士狼は、獲物を食らおうとする男の顔をしているように見えた。

 ――そのとき、公人の携帯に着信があった。

 鈍いバイブレーション振動を続ける携帯をポケットから取り出し、公人は怪訝に思いながらも応じた。


『――こちら、コードネーム・アルファ。状況はどうだ? どうぞ』


 通話口から聞こえてきたのは、さきほどまで尾行の講習に熱を上げていた智実の声。

「……新手の詐欺かい? 何してるんだよ、智実の旦那」

 もちろん辟易したが、無視するわけにもいかず、公人はそう言ったのだが。

『コードネーム・ブラボーよ。貴様はもう少し、自分が尾行任務を遂行中であるという意識を持つべきだ。作戦中はコードネームで呼んでくれ。どうぞ』

「いや、どうぞって言われても。しかも、これ携帯だろう? 普通に話せばいいんじゃないか?」

『甘いな、甘すぎる。いまのブラボーの台詞は、かつてミャンマー防衛線が過熱していた頃、定期任務のパトロール中、ベースの周辺だからと油断して大した装備も持たず出かけ、結果として武装した麻薬密売組織と遭遇してしまい、不意打ちに似た銃弾の雨の中を掻い潜る最中に被弾し、無念を言い残して息を引き取ったカレン人の青年将校のようだったぞ。気をつけろ。どうぞ』

「――比喩が長すぎるわっ! しかも四秒に一回はツッコミどころがあるってどんだけだよっ! どうぞ!」

 つい智実につられて『どうぞ』と返してしまう公人であった。

 公人が突然叫びだしたことに千鶴は目に見えて慌てた。しかし電話の相手が智実であると知るや否や「どうして智実さんが?」と言って、千鶴は首を傾げた。

 でも本当に首を傾げたいのは、電話を受けた公人のほうである。

「……それで旦那。この電話は、僕たちの尾行を邪魔してまで必要なものだったのかい?」

『はぁ……作戦中はコードネームで呼んでくれと言ったろう』

「えっ!? 呆れられるのは僕のほうなのか!?」

 もしかして智実は、ここを日本ではなくアメリカとでも思っているのだろうか。

『まあいい。公人がそこまで言うのなら、オレも手を緩めよう。さすがに盗聴される恐れもなさそうではあるしな』

「僕たちの会話を盗聴して誰が得するんだ」

『気にするな。おまえがそれを知るのは、もう少し先のことだ』

「ええぇぇぇっ!? 僕には、それを知る予定があるのかい!?」

 いちおう口元を抑えてはいたが、公人の声は予想以上に大きく、すれ違う人の大半が振り向いていた。

 千鶴にギロリと睨まれてしまったので、公人は冷静になろうと努める。

『さて、時間がないので本題に入ろうではないか。率直に言うと、オレがお前たちを手伝ってやろうと思ってな』

「手伝う? 具体的には何をするんだい?」

『いわゆるオペレーターというやつだ。オレは今、尾行対象者である宗谷士狼と周防円佳、そして尾行遂行者である周防公人と姫神千鶴、この四人の位置を把握できる場所にいる』

「ふーん。つまりショッピングモール内にいるってことか。でもこんなに沢山の人がいるのに、よく僕たちを見失わないもんだね」

『まあな。常に宗谷たちの位置はマークしているし、おまえたちの位置はさきほど取り付けた発信機によって――すまん失言だ。忘れてくれ』

「――だからツッコミどころがありすぎて忘れられないわっ!」

『ふむ、そうか。だが本当に忘れてくれて構わないぞ。なにせオレは神に誓って発信機など取り付けていないのだ。……ふっ、まあオレは聖書を見たことすらないのだがな』

「おい旦那っ! 絶対に誤魔化す気ないだろっ!?」

「そういう周防も、尾行する気があるのか疑うけどな」

 さすがに人目を憚らないツッコミが過ぎたのか、となりを歩いている千鶴が呆れたような視線を向けてきた。

「違うんだ姫神。僕が悪いんじゃない。むしろ僕は被害者なんだよ。信じてくれ」

「……まあ電話をしながら、尾行にも集中するのは難しいか。分かった、信じる。だから今度こそは……」

 言いかけた途端、千鶴は肩を落として、顔を手で覆ってしまった。

 それを疑問に思った公人は――次の瞬間、自分が士狼たちの姿を見失っていることに気付いた。きっと千鶴も同様の理由で肩を落としたのだろう。

 公人は電話に集中していたし、千鶴は公人の声がまわりの注意を引くことを気にしていたせいで、士狼たちにまで気が回らず、結果としてマークを外してしまったのだ。


『――安心しろ。宗谷の位置は完璧にトレースしている。オレの誘導に従って後を追うがいい』


 責任を転嫁し合っていた公人と千鶴は、その一言によって口論を止めた。

 智実が言うには、士狼たちはショッピングモール二階にある喫茶店に入ったという。遅い昼食か、あるいは小腹が空いたのか。

 どちらにしろ、これは喜ばしい事態である。

 なぜなら喫茶店に入ったということは、しばらくの間は移動せず、一箇所に留まり続けるということなのだから。つまりターゲットを見失う可能性は限りなく低くなり、安全に監視できるというわけだ。

『むしろ逆だろう。これは面倒なことになったと考えるべきだ』

 そんな公人の楽観した考えを、智実が重い声で否定した。

『ターゲットが商店や民家に立ち寄った場合、出口が複数存在する建物ならば一緒に入り、出口が単数ならば外で待つのが一般的だ。まあ出口が複数あったとしても、それらを同時に見張れるのであれば外で待機しても構わないがな。

 見たところによると、その喫茶店の入り口は一つ。よって外で待機するのが正解と言える。というのも、通常の尾行とは違い、おまえたち四人は顔見知りだからな。店内で客を装いつつ、宗谷たちを監視するのはリスクが高すぎる。

 仮に、おまえたちからは見えて、宗谷たちからは見えないという恵まれた位置に腰を落ち着けたとしても、相手がトイレなどを理由に席を立った場合、そのアドバンテージが崩れ去る可能性もある』

「話が長いよ旦那。つまり僕たちは、外で宗谷たちが出てくるのを待っていればいいってことだろう?」

『そうなるな。だが外で待機するだけ、と甘く見るなよ。その喫茶店は店内から外の様子が見えるような造りになっているし、なにより店の近くで長時間うろつくのも怪しまれてしまうからな。……とは言ったものの、ここはショッピングモールだ。しかも休日だしな。本来、人込みとは煩わしいものだが、今回だけは隠れ蓑として利用できるだろう』

 確かに智実の言うとおり、休日のショッピングモールは多種多様な人間で溢れかえっていた。

 家族連れ、カップル、部活帰りの学生、一人で買物に来ている者、友人と買物に来ている者、さらには警備員や従業員も合わせると、本当に数えるのも億劫になるほど人がいる。

 これなら士狼と円佳に見つかることは、まあよほどのミスを犯さないかぎりはないだろう。

 公人たちは、近くの自販機で缶のオレンジジュースを買った。これが当面の糖分である。

 本当ならば格好よく缶コーヒーを買いたかったのだが、智実に駄目だと言われてしまった。カフェインには利尿効果があるため、長時間の尾行や張り込みにはあまり向かないのだという。

 公人と千鶴は、ちょうどいい位置にあった大きな丸い柱に身を隠すようにして張り込むことにした。ここなら喫茶店の入り口が見えるし、人通りも多いし、近くにはエスカレーターもあるので逃走経路の心配もない。

 士狼たちは喫茶店に入ったのだから――まあ小一時間はゆっくりするだろう。

 つまり、

『初めての尾行だ、さすがに疲れただろう。オレが監視を続けるから、おまえたちは三十分ほど休憩しておけ』

 しばしの休息タイムというわけだった。

「いやぁ、旦那。それは嬉しいんだけどさ」

『む? なにか気になることでもあるのか』

「気になるっていうよりも心配なんだ。さっきから僕と通話しっぱなしだけど、電話代とか大丈夫なのかい?」

『気にするな。オレは心を打たれてしまったのだ、おまえの妹を想う気持ちにな。そのためならば一億円の電話代請求が来たとしても、オレは笑って払ってやろう』

「僕が気にするわっ! こんな尾行ごっこみたいなのに一億円もつぎ込まれちゃうと、僕と円佳が気まずくなるじゃないかっ!」

『……貴様。尾行ごっこだと? 尾行ごっこと言ったのか? 公人ともあろう男が、なんたるザマだ。やはり人間とは堕落する生き物らしいな。一年前、オレの見ている前で、女性のスカートの中身をがむしゃらに追っていた、あのときの輝かしいおまえはどうした!?』

「マジトーンの声で恥ずかしいことを言わないでくれっ!」

『ふむ、恥ずかしいか。しかし何を照れるのだ公人よ。性欲とは、人間が持つ原初の欲求だろう。女性の下着に興奮することは、男として実に正しい生理反応ではないか』

「それを言うなら、智実の旦那は沙綾さんに欲情とかしないのかい? ほら、あの大きな胸を思い出してごらんよ。まさに究極の乳房アルティメットバーストと言ってもいいと思うよ」

『バカモノ! 貴様、オレの高梨さんを性的な目で見るとは……絶対に許さんぞ! しかも高梨さんの胸を、少年漫画のような技名に例えるなどと言語道断だ!

 これはオレが学生の頃の話だが、あの方は学園中の男に好意を寄せられていたのにも関わらず、誰とも交際することなく、ただ勉強が友達だと言わんばかりに全国模試で驚異的な結果だけを残し続けた、まさに日本を代表する清楚で賢い女性なのだぞ! それを貴様……!』

「えー、あぁ……そういう話は、また酒の席で聞くよ。というわけで、宗谷たちに動きがあったら電話してくれ!」

 智実が暴走しそうだったので、公人は今のうちに通話を終わらせることにした。

 携帯をポケットにしまった公人は、深くため息をついて柱に背を預けた。

「とりあえず休憩しておけってさ。しばらくの間は智実の旦那が見ててくれるらしいから。……まったく、旦那も沙綾さんの話題になると人が変わるな。勘弁してほしいよ」

「そうか。でも智実さんのことだから、いまの周防の言葉も聞いてたりしてな」

「…………」

 そんなまさか、と笑い飛ばせないところが山田智実である。

 いちおう盗聴器の類が仕掛けられていないか、着ている衣服や柱の裏などを調べてみたが――さすがに杞憂のようだった。

「……ふう。どうやら旦那の魔の手は及んでいないようだね」

「まあ、智実さんだって万能じゃないんだし」

 公人と千鶴は、二人並んで柱にもたれかかっていた。

 何をするわけでもなく、何かを話すわけでもなく――ただ柱にもたれかかっているだけ。

「……周防って、本当に円佳のことが大切なんだな。今日おまえを見てて、思った」

 公人が、兄妹らしき小さな子供二人を引き連れた女性を見つめていたとき――千鶴が遠慮がちに言った。

「べつに大切じゃないさ。ただ僕は兄だからね。妹を見守る義務があるんだよ」

「……そうなのか」

 どこか儚げに、千鶴は笑う。

「羨ましいな、そういうの。私には兄妹なんていないから分からないよ」

「僕としては一人っ子のほうが羨ましいけどね。円佳みたいな妹を持ったことが、僕にとって最大の不幸だよ」

「いいじゃないか。楽しそうだと思うけど」

「甘いぜ姫神。となりの芝生は青く見えるもんさ」

 この空気なら聞ける、と公人は思った。

「……そういう姫神こそ、なんだかんだ言って一人っ子を満喫してるじゃないか。雪菜ちゃんは実家が遠いらしいけど、姫神の家は電車で何駅も離れてないんだろう? せめて正月ぐらいは帰ってあげたほうが家族の人も喜ぶんじゃないかい?」

 あっ、そういや僕も正月帰ってないや――と公人は思った。

「……確かに、年に一度ぐらいは実家に帰るべきなのかもしれないな。でも多分、私が帰っても家の敷居は跨がせてもらえないと思う」

「ほとんど勘当じゃないか」

「そうかも。私の家は――姫神家は古い家だから、周防たちが聞いても信じてくれないようなしきたりが多くあってな。それを厳格に守っている父は、家に反発して飛び出した私に失望してるんだ。家業を継がないような娘に用はない、って」

「家業か。たしか姫神の家って、生け花が上手なんだっけ?」

「正確には華道だな。姫神の生け花には、哲学的な要素も含まれているから」

「ふうん。つまり姫神も、実家では花と戯れて女の子してたわけか」

 公人が茶化すように言うと、千鶴は苦笑した。

「女の子はしてないけど……でも、雪菜ちゃんみたいに振袖を着ることも多かったよ」

「姫神が振袖っ!? そんなの似合うわけ」

 ない――と言いかけて、公人は考えを改めた。

 基本的に和服は、胸が大きいよりも小さいほうが似合うとされている。しかも千鶴のスレンダーな身体ならば、どんな和服だって着こなせるだろう。

「……どうしたんだ? 急に黙ったりして。しかも私の身体をジロジロ見てるし……」

 千鶴は瞳を細めて、両腕で身体を隠した。

 その仕草は、本人が思っているよりもずっと女の子らしくて――なにより可愛らしい。

 なんとなく嬉しい気分になった公人は、口端が緩んでしまうのを自覚した。

 ――が、その笑みを、千鶴は変態的なものだと解釈したらしい。

「周防? なに私の身体を見てニヤついてるんだ?」

 千鶴は満面の笑顔を浮かべている――と見せかけて、密かに頬の筋肉を痙攣させていた。人の多いショッピングモールということもあり、怒りの爆発を我慢しているのだろう。

 千鶴が殴ってこない、と分かった途端。

 公人は調子に乗った。

「いやぁ、だって姫神ってさぁ、はっきり言って美人だからなぁー」

「お世辞はいい。私なんて、ニノと比べたら月とすっぽんだろ」

「そっかなあ。姫神はめっちゃくちゃ可愛いのにな~」

 わざとらしく口笛を吹きながら、公人はひたすらにうそぶいた。

 しかし千鶴に”可愛い”は禁句。人目を憚らずに頬を真っ赤にした千鶴は、それを見られたくないとでも言うように、そっぽを向いた。

「――か、からかうなよ! やっぱり周防は私のことが嫌いなんだって、いま再確認した!」

「ああ、べつに姫神のことは好きじゃないね。だって、いつも僕に暴力を振るってくるんだから」

「……それは周防が悪いんだろ。だって、いつも私に余計なことを言うから」

「余計なことを僕に言わせる姫神が悪いのさ。やっぱり女の子は、シャルロットちゃんみたいに可愛らしい子か、雪菜ちゃんみたいな日本美人か、ニノちゃんみたいに蟲惑的なエロさを持つ子がいいんだ。それに比べて姫神は……はぁ」

「はいはい、周防のお気に召さなくて悪かったな。私だって周防のことなんか」

「――でも」

 これだけは言っておいてやろうかな、姫神もいちおう女の子だしな――と、公人は男の意地を見せることにした。

「可愛いって言われて照れる姫神は……まあちょっとぐらいなら、可愛い女の子に見えるぜ。……まあ、本当にちょっとだけだけど」

「……ふん。そんなこと周防に言われても、ちっとも嬉しくないな」

 とは言ったものの。

 なぜか二人の顔は微かに赤くなっていて、それぞれ違う意味で羞恥を感じているのは一目瞭然だった。

 気まずい空気が流れる。

 その沈黙を打破するかのように、公人の携帯が鳴った。

『こちら、コードネーム・アル――すまん、つい癖が出てしまったな。公人よ、オレだ。智実だ』

 相変わらずの低く響くような渋い声であった。

「ああ、旦那か。宗谷たちが動いたのかい?」

『うむ。そろそろ喫茶店から出よう、と会話していた。おまえたちも準備しておいたほうがいい』

 なぜ士狼たちの会話を拾えたのか――という疑問が脳裏をよぎったが、公人はあえて聞かないことにした。

 千鶴に尾行を再開する旨を伝える。

『それにしても公人よ』

 最後に、智実が重々しい口調で言った。


『――オレが高梨さんの話になると人が変わるというのは、本当なのか? 自分では普通のつもりなのだが』


 ……もちろん。

 どうして自分たちの会話が智実に筒抜けであるか、ということを、もう公人は突っ込まなかった。





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