其の二 『兄妹』
――周防円佳。
今年から姫神と同じ女子高に通い始めた新入生。もっと言うなら、今年16歳の高校一年生。
シャルロットやニノたちよりも小柄だが、年齢のわりには発育が良く、すでに女性的な丸みを帯びた身体をしている。
誰かさんの妹だけあって、まだ幾分か幼さを残しているものの、顔立ちは整っており、思わず護ってやりたくなるような愛らしさを持っている。薄っすらと茶色がかったセミロングストレートの髪は、黒いリボンによって括られてサイドポニーに纏められている。
まあ、かなりの美少女と認めてもいいだろう。
性格は礼儀正しく、面白いぐらい謙虚で、容姿について褒められると顔を赤くして否定する。どうやら自分のルックスに興味がないようだ。
なんというか、垢抜けていない娘である。
今時の女子高生は、髪を脱色したり、うざったらしく爪を装飾したり、やけに目元を強調した化粧などをしているものだが、円佳にはそれが一切ない。
でも俺個人としては、そんな円佳だからこそ好感が持てる。
「――お兄ちゃん。なにか言い訳ある?」
男なら例外なく目を奪われそうな満面の笑みを浮かべて、円佳は小首を傾げた。それと同時、年季の入った黒いリボンと、サイドポニーの房が揺れる。
「い、言い訳だって?」
明らかに動揺しながら切り返すのは、苦虫を一万匹ほど噛み潰したような顔の周防公人である。
ぷち迷子に陥っていた少女――円佳を暦荘まで案内した俺は、ついでとばかりに周防の部屋も教えてやった。そして二人は感動の対面を果たしたのだが――どうもこの兄妹は、感動のベクトルが真逆のようなのだ。
あぁ、なんか面倒の予感がするなぁ。
お昼時ということもあって腹も減ってるのになぁ。
でも「じゃあ俺は昼飯を調達しに行くので、このへんで」とか言って、この場を離脱できる空気じゃないしなぁ。
まあ適当に結論を出すか。
「やっぱり周防と関わると、ろくなことがないな」
おっ、なんだか一言で纏めることが出来た感じだ。
「おい宗谷! なに失礼なことを言ってるんだよ! ていうか、それは僕の台詞だ! 円佳を連れてきたのは、もしかしなくても宗谷だろう!?」
独り言にツッコミを入れられてしまった。
「まあ確かに、円佳を連れてきたのは俺だ。でもよ、困っている美少女を放っておくなんざ男の風上にも置けないだろ?」
「だ、だから美少女じゃないですってばー! それに……ま、まど、円佳って、呼び捨てにするなんて……!」
容姿を褒められただけで、円佳は顔を赤くして反論してくる。
その大げさなリアクションが、どこか周防と似ている。そういえば目元とか、全体的な雰囲気も似てるし。俺が円佳に感じた面影は、周防のものだったのだ。
それにしても――この二人。
実にからかい甲斐のある兄妹だ。
「ん? 円佳って呼んだらダメなのか?」
「当たり前です! 男の人が、そんな気軽に女の子の名前を口にしてはいけない! ……はずです!」
円佳曰く――あたしを下の名前で呼ぶ異性は、お父さんとお兄ちゃんともう一人ぐらいのものです、とのこと。
相変わらず、言葉の節々から男慣れしていないのが分かる。
上記の台詞を雪菜が口にしたのなら古風と取るのだが、円佳だとそうもいかない。
「そうだぞ宗谷。よく兄の前で、人の妹を気安く名前で呼べるものだね。その図々しさには感心さえ覚えるよ」
「でも円佳って呼ばないと紛らわしいだろ? おまえら二人とも”周防”だし。間違っても周防を公人とだけは呼びたくねえし」
「ぜひ呼んでくれよっ! むしろ、どうして下の名前で呼んでくれないんだ!?」
「その答えは、鏡を見てくれば分かる」
「だから僕の顔は気持ち悪くないわっ!」
「そうですよ! べつにお兄ちゃんの顔は気持ち悪くなんてありません!」
ふと、予想外のところから反論があった。
俺と周防は顔を見合わせたあと、俺たちの間にいる円佳に視線を向けた。
「あっ、違いますよっ? お兄ちゃんを庇ったわけじゃないですよっ?」
「…………」
「えーと……そ、そうだ! お兄ちゃんの顔立ちを馬鹿にすることは、妹であるあたしの顔を馬鹿にされたということになりますよね!? だから、宗谷さんの悪口に反論したあたしは間違っていないんです」
どうですか、と言わんばかりに胸を張る円佳。
……もしかして、この子は……。
「まあ、あたしの正論が通ったことはひとまず横に置きましょう。今はお兄ちゃんを叱ることのほうが大事です」
「叱るって――おまえは僕の母親か? なにが悲しくて五つ下の妹に説教されなきゃいけないんだ」
「怒られるようなことをお兄ちゃんがするからでしょ? 一年以上も顔を見てなかったのよ? それに電話は出ないし、メールも返事してくれないし。普通は小まめに連絡を入れるものじゃないの?」
「なんだよ円佳。おまえ、僕のことを心配してるのか?」
冗談げに周防が言うと、円佳は、かあ、と頬を赤くした。
「――そ、そんなことあるわけないでしょ!? なんであたしがお兄ちゃんの心配しないといけないのよ! ただ、うちにはお母さんがいない分、あたしが家族の健康管理とか諸々をしないといけないの!」
「それが余計なお世話だって言ってるんだ! おまえが口うるさいから、僕も実家に近寄りたくないんだよ!」
「口うるさいですって!? どうせお兄ちゃんなんて年中暇にしてるに決まってるんだから、正月ぐらいは帰ってきてよ!」
「大学生は忙しいんだ! それこそおまえと口を利く暇もないぐらいにね!」
「嘘ばっかし。大学生は時間を持て余してるって、夕貴さんが教えてくれたもん!」
「夕貴? ……おい円佳。それは男じゃないだろうな?」
「もちろん男の人よ。しかもお兄ちゃんとは違って、とっても優しくて、とっても格好よくて、とっても女の子想いだし。それに夕貴さんは可愛い顔をして――あっ、これは禁句だったかな……」
口を押さえて空を見上げる円佳は、ここにはいない誰かを想像しているように見えた。
「円佳。おまえ――その夕貴っていうヤツと付き合ってるんじゃないだろうな?」
「な、なによ、急に恐い顔して」
「いいから答えろ」
詰問する周防には、どこか有無を言わさぬ迫力があった。
「……付き合ってない」
「本当か? 僕に嘘をつくなよ?」
「本当だってば。それに夕貴さんは、あたしの友達の……恋人? 許婚? ……まあ詳しくは分からないけど、とにかくそういう人だから」
円佳が萎縮しながら言うと、周防は安心したと言わんばかりに胸を撫で下ろした。
その二人の様子を見て、薄々とだが感づいたことがある。
もしかしてこいつら……。
「そういえば、お兄ちゃんこそどうなの? まだ女の人を追い回すような生活を続けてるの?」
「――人聞き悪すぎだろう!? まるで僕がストーカーみたいな言い草じゃないか!」
「似たようなものでしょ? お兄ちゃんってば、あたしの友達まで口説こうとするし」
実の妹である円佳の口から、いま語られる周防公人の過去。
……まさか、妹の友人にまで手を出していたとは。そろそろ周防のことを尊敬したほうがいいのかもしれない。
「うるさいな。美しい女性に、年上も年下も関係ないんだよ。僕は、自分が認めた女の子ならば、たとえ幼稚園児であっても口説くさ!」
おまわりさーん。
ここに犯罪者がいますよー。
「……こんな人と、あたしは血が繋がってるなんて」
肩を落とす円佳の気持ちが、痛いぐらいに理解できる。
仕方あるまい、激励の言葉をかけてやろう。
「分かるぜ。おまえの言いたいことは死ぬほど分かる。例えば……ほら見ろ、周防と血が繋がってる自分を想像してみたら、鳥肌が立ったぞ」
「うわぁ、ほんとだ……あたしといい勝負ですね。ほら、ここ見てください。肌が粟立っちゃってるでしょう?」
円佳はスカートを少しだけ捲くって、ふともものあたりを指差した。
白く、柔らかそうな足には、確かに寒気を表したかのようなさぶいぼが見られた。
「――おい! 僕が黙ってるのをいいことに好き放題言ってくれたじゃないか! というか宗谷、人の妹の足を見るなよ! それに円佳も、簡単に足を見せたりするな!」
「もう、急にどうしたっていうのよ。なんだかお兄ちゃんらしくないね」
「僕らしくない――というと、円佳も女子高生になったものだから、とうとう僕の素晴らしさに気付き始めた……ということかな。どう思う、宗谷?」
「俺に話を振るなよ。幼稚園児を口説ける周防さん」
「――あんなの例え話に決まってるだろう!?」
「そうかなぁ? お兄ちゃんのことだから、案外ほんとだったりして。まあでも、今は暦荘に住んでるから安心かな。ここなら幼稚園児はいないだろうし、なにより年頃の女の子は絶対いなさそうだもんね。そうでしょう、宗谷さん?」
「だから、どうしておまえら兄妹は俺に話を振るんだ。ちなみに暦荘に年頃の女は――」
そこまで言いかけて、俺は口を噤んだ。
……いる。
だって、いるじゃないか。
暦荘には、これでもかと年頃の女がいるじゃないか。
シャルロットとか、雪菜とか、ニノとか、姫神とか――メチャクチャいるじゃないか。
しかも大家さんだって妙齢の美女だし、如月とか久織のやつも個性が強すぎる気もするが十分に美人で通用する。
まずい。
これは嫌な予感がする。
円佳が、暦荘の女性陣と顔を合わせてしまったら大変なことになる――と俺の勘が告げている。
ただ不幸中の幸いにも、シャルロットとニノと雪菜の三人はブルーメンにいる。これで四つの核弾頭のうち、三つを仮封印したことになる。
あとは部屋に篭っているだろう姫神が、このまま顔を出さずに大人しくしてくれれば――
「――また騒いでいるのか、周防。……ん、宗谷もいるのか」
そのとき。
俺の祈りを無視するかのように、女性の声が聞こえてきた。
振り向いた先にいたのは――まあ言うまでもないが、姫神千鶴であった。
薄手のシャツ一枚にジーパンという、見るからに部屋着を連想させるラフな格好の姫神は、くびれた腰に手を当てて、少し離れたところに佇立している。普通に立っているだけのくせに、なんだかモデルみたいに格好いい。
「さっきから声がすると思っていたけど、これは何の騒ぎなんだ?」
やや呆れたような雰囲気を滲ませつつ、姫神が歩み寄ってくる。
ちなみに周防は、この世の終わりを目撃したかのような顔をしていた。
「何も騒いでねえよ。だから、おまえは部屋に帰ったほうがいいぜ」
「言われるまでもなく長居する気はないさ。ただ私は、また周防が余計なことを言ったんじゃないかと――うん?」
そこで姫神は、円佳に気付いたようだった。
「その制服は……私と同じ愛華女学院か。新入生かな? でも、どうしてこんなところに愛女の生徒が――まさか周防が!?」
「――違うわっ! なんだよ、その誘拐犯を見るような目は! これは僕の妹だよ!」
「妹だって? 周防の?」
怪訝に眉を潜める姫神。まあ気持ちは分かる。周防の家族構成なんて、今日まで聞いたことがなかったからだ。
しかし渦中の円佳は、姫神を見つめながら、ぶるぶると身体を震わせているだけだった。
「……ち、ち、ち」
「ち?」
その疑問の声は、きっと俺と周防と姫神、三人のものだったと思う。
次の瞬間。
「――千鶴先輩だぁー!」
子供みたいに瞳を輝かせながら、円佳が叫んだ。
「まさか千鶴先輩に会えるだなんて! あたしってば、やっぱりツイてるのかなぁ!?」
円佳は一人で盛り上がっているのだが、俺たちは相変わらず意味が分からなかった。
俺と周防はともかく、名を呼ばれた姫神は真実戸惑っているようだった。
「……えっと、私のことを知ってるのか?」
「そんなの当たり前じゃないですか~! 愛女に通っている生徒で、千鶴先輩のことを知らない子なんていませんよ~!」
ちなみに愛女とは、姫神と円佳が通っている愛華女学院という女子高の略称だという。
「高臥菖蒲ちゃんのこと知ってますよね!? あたし、菖蒲ちゃんのお友達なんです!」
「ああ、知ってるよ。保健委員会が一緒だしね。それに私の親戚が、菖蒲の家とは古い馴染みだから、私と菖蒲も昔からの知り合いなんだ」
聞くところによると、円佳と菖蒲なる女が高校一年生で、姫神が高校三年生という先輩後輩の間柄になるらしい。
「じゃあじゃあっ、萩原夕貴さんのことはご存知ですか!?」
「また懐かしい名前が出てきたな。知ってるどころか、夕貴くんとは同じ道場に通っていたからな。友達というよりは仲間みたいなものさ。まあ夕貴くんは、途中で空手を辞めてしまったけどね」
「やっぱり、菖蒲ちゃんと夕貴さんの言ってたことは本当だったんだ……!」
なにやら一人で理解を深める円佳。
が、やはり俺たちには意味が分からない。
「おい、さっきから二人で盛り上がってるところ悪いんだが、俺たちにも分かるように話してくれよ。おまえらの学校じゃあ姫神は有名なのか?」
「――有名なんて陳腐な言葉で、千鶴先輩の知名度は表せませんよっ!」
愛華女学院において、姫神は”有名”という言葉を凌駕する存在らしい。
それから円佳は、嬉々とした笑顔を浮かべながら語ってくれた。
「お兄ちゃんと宗谷さんもお分かりかと思いますけど、千鶴先輩は美人なんです! 格好いいんです! モデルさんみたいなんです! それに加えて運動神経も良くて、毎年恒例の体育大会では千鶴先輩の活躍を記録するためだけに、こっそりとデジカメを持参するのが通例とか! 下級生の間では、この時期からすでに千鶴先輩のボタンを誰が貰うか、という競争まで勃発してるぐらいですよ!」
よほど興奮しているのか、円佳は息継ぎなんて知るかと言わんばかりのマシンガントークを披露した。ちなみに当の本人である姫神は、どこか照れたように頬を赤くして苦笑している。
「しかも愛女には、千鶴先輩の武勇伝や伝説が数多くあってですね! あるときは、電車で痴漢にあっていた女生徒を颯爽と助けてあげたり! あるときは、ストーカーに悩んでいた女の子の相談に乗っただけではなく、そのストーカーさんを華麗に撃退したり! あるときは、愛女に出没した盗撮魔を自主的に捕まえたり! しかもですよ? 千鶴先輩は、もう絶滅したはずのラブレターやファンレターを始めとした手紙を、靴箱に十数通も入れられるという漫画でしか見られないような――」
「いや、もういい。姫神の凄さは十分に伝わったから」
永遠に話が続きそうだったので、ここらで歯止めをかけることにした。
まあでも分からない話じゃない――というか、むしろ妙に納得できる話だった。
姫神千鶴という女は、男の俺から見ても普通に格好いい。
身長は本人曰く168センチメートルとのことで、女性の平均身長よりも高い。しかも手足は細くて長く、腰は服の上からでも分かるほどくびれていて、顔立ちも整っている。間違いなく、今すぐにでもモデルとして活動できるだろう。
円佳を美少女だとするなら、姫神は美女とか美形といった表現のほうが正しい。
もしも姫神のような女が女子高に通っているとすれば――それはもうアイドルと同じだろう。同級生からは頼られ、下級生からは憧憬の眼差しを受けること間違いなしである。
俺と周防は、円佳の話を聞いて素直に感心していたのだが――姫神は気恥ずかしいらしく、ほんのりと頬を上気させて俯いていた。
「それにしても、どうして千鶴先輩がここにいるんですか? まさか、ご近所に住まわれているとか?」
「いや、ご近所もなにも、私はここに住んでるんだけど」
「……はい? ここって、暦荘ですか?」
「そうだ。そこにいる宗谷士狼と周防公人は、いちおう私の隣人ということになる」
さも当然のように告げる姫神。
しかし、円佳は寝耳に水だったらしく、目に見えて狼狽した。
「で、でもですよ!? 暦荘が住みよいアパートだと仮定しても、年頃の女の子が一人で住むには危険だと思います!」
「大丈夫だよ。ここの大家さんは素晴らしい方だし、住人のみんなも心優しい人ばかりだから。一部を除いて」
そう言って姫神は、じろり、と半眼で周防を睨んだ。
「どうしたんだい? そんなに僕のことを見つめて」
驚くべきことに、周防は嫌味すら自分に都合よく変換する思考回路の持ち主だった。
「もしかして千鶴先輩……お兄ちゃんに口説かれたりしてませんよねっ?」
しかし、さすがの周防も、その円佳の発言だけは都合よく変換できなかったらしい。周防は慌てながら、俺に向かって「円佳を止めてくれ! 頼む!」と小声で言ってきた。
もちろん無視した。
「あと、もう一つだけ聞きたいんですけど――暦荘に住んでる若い女性は、千鶴先輩一人だけですよね? まさか、千鶴先輩の他にも年頃の女の子がいるなんてこと、あるわけがないですよね?」
円佳の声には、質問というよりも懇願に似た響きがあった。
だが、悪いことは重なるらしい。
「――あれ、士狼? こんなところで何してるの?」
バカみたいに暢気な声が、湖に波紋をもたらす小石のように、俺たちへ向けて投げかけられた。
振り向くと、そこにはシャルロットとニノと雪菜がいた。
「……おまえ、仕事は?」
「今日はお昼で上がりなの。だから三人で昼食を食べて、今こうして帰ってきたわけなんだけど」
「マジかよ。そんなの一言も聞いてねえぞ」
だって一言も言ってないもん、とバカ吸血鬼は言った。
……いや、今はシャルロットに構っている場合じゃない。
なんとなく嫌な予感がして円佳を見れば、案の定と言うべきか、円佳は俯いて身体を震わせていた。
「……お兄ちゃん。これ、どういうこと?」
「どういうことも何も、見たまんまさ。彼女たちは僕のガールフレンドで」
「――そんなの一言も聞いてないわよ! というか、こんなに綺麗な女の人たちが、お兄ちゃんの相手をしてくれるわけないでしょう!?」
「相手にされまくりだよ! 今年のバレンタインデーだって、みんなからチョコレートを貰ったぐらいさ!」
顔を真っ赤にして口論する周防兄妹を他所に、シャルロットたちは「そういえば周防にもチョコあげたね」とか「あぁ、すっかり忘れてたわね」とか「ニノちゃん、右に同じくですー」などと、主婦の井戸端会議のように顔を寄せ合っていた。
「まさか千鶴先輩だけじゃなくて、外人さんや良家のお嬢様まで住んでいるなんて……! アパートには若い男性ばかり住んでいると思って、お兄ちゃんの一人暮らしにも安心してたのに!」
憤慨する円佳。
それを他所に、シャルロットたちは「外人さんって私たちのことかな?」とか「そうじゃない? シャルロットとかモロだし」とか「私は良家のお嬢様じゃなくて、自称陰陽師ですー」とか言っていた。
「もう我慢できない! これ以上、お兄ちゃんに辱められる女の子を見たくないわ!」
「辱めてないよ! おまえは僕のことを変態だと思ってるのか!?」
「当然よ! それに、こんな可愛らしい方たちを、お兄ちゃんが放っておくはずないでしょう!?」
言って、円佳は歩き出した。
それを他所に、シャルロットたちは「ねえねえっ、可愛らしい方たちって、もしかしなくても私たちのことかなっ?」とか「まあ、ウチが入ってるのは間違いないわね」とか「いえ、待ってください。それよりも周防さんが、自身を変態だと理解していないことについて話し合いましょう」とか言っていた。
「おい円佳、どこに行くんだ!」
「決まってるでしょ、暦荘の大家さんに問い詰めるのよ! こんな年頃の女の子ばかり住まわせて、いいご身分ですね、って! どうせ暦荘の大家さんって、中年の男性なんでしょう!?」
「違う! 暦荘の管理人は、ご近所でも評判の美人大家さんだ!」
「嘘ばっかし! そんな漫画みたいなこと現実にあるわけないじゃない!」
周防を振り切って、円佳は小走りで大家さんの家に向かって行く。
「もうお兄ちゃんの言うことなんて信じないもん! あたしが直接、大家さんに話を聞くんだから――!」
実に勇ましいことである。周防の妹とは思えない。
円佳は大家さんの家のチャイムを鳴らしたようだが、しばらくしてもレスポンスは帰ってこなかった。
「もしかして、留守なのかな……」
眉を寄せながら、円佳が呟いた瞬間だった。
「誰ですかー? いま手が離せないので、勝手に上がってきても構いませんよー」
やけに間延びした大家さんの声が聞こえてきた。
……やばい、果てしなく嫌な予感がする。これは一年ほど前に、俺と智実が大家さんの家を訪ねたときと状況が酷似している。智実のオッサン、あのときはリアルに鼻血を出したっけな……。
円佳は躊躇していたようだったが、家人の許可をもらったことが決意を後押ししたのか、意を決して玄関扉を開いた。そして円佳の姿は、間もなく家の中に消えていった。
どうやら怒り心頭に発している円佳には、大家さんの声が中年男性のものではなく若い女性のそれである――という矛盾に気付くだけの余裕はないらしい。
頭を痛めながらも、俺は素早く円佳のあとを追った。
果たして――大家さんの家に飛び込んだ俺の目に映ったのは、予想を裏切らない光景だった。
まず目に入ったのは、大口を開けて呆然とする円佳。そして、その視線の先には大家さんがいた――のだが、我らが暦荘の大家こと高梨沙綾は、お客さんを迎えるにしては常軌を逸した服装だった。
……いや、これは服装と言えるのだろうか?
「こんにちは、宗谷さん。いいお天気ですねぇ」
俺の気も知らず、大家さんはおっとりとした笑みを浮かべている。
しかし、俺は声を大にして言いたい。
――笑うヒマがあったら服を着ろ! と。
なんと大家さんは、ほとんど裸に近い服装だった。
恐らくはシャワーを浴びていたのだろう。うっすらとカールのかかった長髪は、たっぷりと水を吸い込んでいるし、白磁のような肌の上には、拭いきれていない水滴が幾筋も伝っている。
バスタオルを身体に巻いただけ、という世にも無防備な姿。しかし胸が大きすぎるせいか、上半身のほうにタオルの布地の大部分を費やしてしまい、結果として下半身は下手をすれば局部が見えそうなほどギリギリだった。
知らずのうちに、俺は生唾を飲んでいた。
シャルロットたちにはない大人の色気、とでも言おうか。とにかく男を魅了する何かが、大家さんにはあった。
そんな俺の葛藤に気付いていないのか、大家さんは相変わらず瞳を眠そうにしており、仕草の一つ一つには慌てた様子がない。男である俺にあられもない姿を見られているのに、まったくもって普通である。
……それにしても、あの胸は反則だと思うのだ。ニノも凄いが、大家さんはもっと凄い。バスタオルで覆っているはずなのに、今にも零れんばかりじゃないか。
白い肌には、濡れた髪の毛が張り付いていて、これでもかと言うぐらい色っぽい。温かいシャワーを浴びていたせいか、その肢体は薄っすらと桃色に染まっており、頬は微かに紅潮していた。
水と汗に濡れ、朱と桃に染まった大家さんは、男を惑わすためだけに作られたアタッチメントのようにさえ見えた。
「あ、あのっ! 一つだけお聞きしたいんですが、あなたは暦荘の大家さんじゃないですよね!? きっと大家さんの娘とか、親戚の方ですよね!?」
よほど現実を認めたくないのか、もう理解しているだろうことを円佳はあえて問うた。
――が。
現実とは、いつだって無常なのである。
「はい、暦荘の大家は私ですよ」
目元を和らげて、大家さんが言った。いつも眠そうな目をしているものだから、余計に優しそうな笑顔に見えるというか、なんというか。
しかし予想に反して、円佳のリアクションは皆無だった。
……いや、訂正しよう。
円佳は、あまりにも衝撃的な事実と、大家さんの無防備な姿を見たことによって思考を止めていた。
もっと正確に期して言うのならば。
――周防円佳は、立ったまま放心していたのだった。
****
紆余曲折はあったものの、円佳は暦荘の面々に快く受け入れられた。
兄である公人とは違い、円佳はとにかくしっかり者で、頑張り屋だった。その賢明に努力する姿は、どこか背伸びをする子供のようにも見えて、シャルロットたちから大いに可愛がられた。
暦荘の大家である高梨沙綾は、無防備な姿で出迎えてしまったことを詫びたあと、円佳と真摯に向き合った。その結果、円佳は暦荘の住人たちが良心的な者ばかりだということを理解したのだ。
円佳が暦荘を訪れた夜――ささやかではあるが、沙綾の自宅で小さなパーティーが開かれた。
当初は遠慮していた円佳だったが、暦荘の住人たちと接するうちに、彼らが事務的なものではなく心からの歓迎によってパーティーを催してくれたと理解したのだろう。気付いたころ、円佳は輪の中心で自然な笑みをこぼしていた。
夜も更けて、みんなが解散するときに沙綾が言った。
「今夜は、私の家に泊まっていってね」
と。
それに、ありがとうございます、と頭を下げたあと、円佳は続けた。
「でも大丈夫です。あたしはお兄ちゃんの部屋に泊まりますから」
もちろん総勢で反対された。
宗谷士狼からは「なあ円佳。おまえ、近親相姦って知ってるか?」とか。
シャルロットからは「だ、だめだよっ! 円佳は私の部屋で、私と一緒に寝るんだもんっ!」とか。
凛葉雪菜からは「深夜、女の子の悲鳴で起きるのだけは遠慮したいところです」とか。
ニノ=ヘルシングからは「悪いことは言わないわ。それだけは命に代えても止めておきなさい」とか。
姫神千鶴からは「もう無理をしなくてもいいんだ。今夜は私の部屋に泊まりに来ればいい」とか。
とにかく十人十色の否定意見が出たのだ。
それでも円佳は鷹揚に、ともすれば神への生贄に選ばれた巫女のような健気さで首を横に振った。
――あたしは、お兄ちゃんの部屋で寝ますから。
本人の口からそう言われれば、改まって外野が口を出せるはずもなく。
結果として円佳は、兄である公人の部屋で一夜を明かすことになった。
ちなみに最も反対していたのは、言うまでもなく部屋主の周防公人である。
「なにが悲しくて、五歳下の妹と同じ部屋で寝なくちゃいけないんだい!?」
声を大にして周りの賛同を得ようとするも、だれも公人を助けてはくれなかった。むしろ「おまえと一緒に寝ようとする円佳の勇気を讃えるほうが先だろ」と士狼に一蹴されたぐらいである。
こうした経緯があって、周防円佳は、実の兄である周防公人の部屋に泊まったのであった。
トントン、と小気味よい音が鳴っている。
薄ぼんやりとした意識の中で、どこか懐かしい断続的なリズムを耳にした周防公人は、包まっていた毛布を退けて上半身を起こした。
昨夜、円佳にベッドを譲ったため、公人は床にクッションを敷き詰めて眠った。慣れない体勢と場所で眠ったせいか、体のあちこちから悲鳴が上がる。それは下手をすれば筋肉痛であるのかもしれない。
円佳の歓迎パーティーを終えて、部屋に戻った公人と円佳が最初にしたことは、なんと部屋の掃除だった。
正直に物申せば、公人は常日頃から部屋を清潔な状態に保っている。だから、わざわざ夜中に掃除を始めることもなかったのだが、円佳は「どうしても掃除するのっ!」と言い張った。
――公人の母親は、円佳が五歳のころに病気で亡くなっている。それに加えて父親は、とある企業の重役であるためか、仕事で家を空けることが多かった。
そういう経緯があって、円佳は年端も行かぬ小学校低学年ごろから周防家の家事を一手に担ってきた。ゆえに公人は、円佳の家事関連の命令にはどうにも弱い。
円佳が、掃除をする、と言えば悪態をつきつつも従ってしまうのは、体に仕込みこんだ癖というか習慣みたいなものか。
「――あっ、お兄ちゃん起きたの?」
どこか弾んだ円佳の声がする。
重たい瞼を擦りながら確認してみると、キッチンのほうには円佳が立っていて、公人に向けて笑みを浮かべていた。
円佳は愛華女学院指定のセーラー服の上にエプロンを着けて、手には包丁を握っている。よく見れば鍋には火がかけられており、炊飯器も電源が入っているようだ。鼻を鳴らしてみると、なんとも食欲をそそる匂いもする。
「いま朝ごはん作ってるの。だから、もうちょっと待っててね」
申し訳なさそうに苦笑して、円佳は小首を傾げた。それと同時、年季の入った黒いリボンと、ポニーテールの房が揺れる。
公人は毛布を片付けて、洗面所で最低限の身だしなみを整えたあと、キッチンに向かった。
「なんだか機嫌がよさそうじゃないか、円佳」
コップに牛乳を注ぎながら、公人はとなりに立つ円佳を見た。二十センチ近く身長差があるものだから、やや見下ろすかたちとなる。
「そう? お兄ちゃんの気のせいじゃないかなぁ」
言って、円佳は調理を進めていく。しかも微かにではあるが、鼻歌まで唄っている。
幼いころから共にあった公人の気のせいでなければ、円佳は明らかに上機嫌であった。
「うーん、絶対に僕の気のせいじゃないと思うんだけどね」
「違うもん、お兄ちゃんの気のせいなんだもん」
ふふふ、と小さく笑う円佳。
それを見て、さらに容疑が強まった。
「いーや、どこからどう見ても機嫌が良く見えるぞ。僕の目を誤魔化そうだなんてリアルに十年早いね」
「お兄ちゃんの目なんかどうでもいいけど――そんなにあたしって機嫌が良さそうに見えるの?」
「そりゃあもう見えまくりだよ。いつだったっけな、確かずっと前にも――」
――このように上機嫌の円佳を見た覚えがあった。
しかしながら、あまりにも記憶が古すぎて正確に思い出すことができない。確か、公人と円佳が小学生のときだったのは憶えているのだが、逆に言うとそれ以外は憶えていない。
公人の脳内では、まだ幼い円佳が上機嫌に喜んでいて。
公人の目の前では、成長した円佳が笑っている。
「……? どうしたの、お兄ちゃん。急に黙っちゃって」
「いや、どうってことはないけど――」
僕としたことが言い忘れていたな、と思った。
コップに注がれた牛乳を飲んだあと、公人は続けた。
「高校入学おめでとう、円佳。これからもしっかり勉強するんだぞ。なにか困ったことがあれば、口うるさく説教しないという条件付きで、僕に連絡するといい」
となりにある小さな頭を――円佳の頭を優しく撫でてやる。それと同時、年季の入った黒いリボンと、サイドポニーの房が揺れた。
一瞬だけ目元を和らげた円佳は、しかし次の瞬間には頬を真っ赤にして公人の手を振り払った。
「――ば、バッカじゃないの!? お兄ちゃんのくせに、家に帰ってこないくせに、あたしの連絡も無視するくせに、こんなときだけ優しくして……!」
胸元を押さえながら、円佳は気恥ずかしそうに俯く。
「うるさいな。僕にも都合というものがあるんだよ。世界中の女の子を魅了してしまう僕は、美しい女性の相手をするので忙しいのさ。例えば……アレかな。ふっ、円佳にも見せてやりたかったなぁ。僕のバレンタインデーの活躍をね!」
「はいはい、どうせ義理チョコでしょ」
「そんなわけないじゃないか。この僕こと周防公人に、本命以外のチョコレートを渡す女の子なんていないんだよ。それに義理チョコを貰ったのは僕じゃなくて、宗谷のほうだぜ」
「まあお兄ちゃんの狂言はいつものことだとして――宗谷さんって、なんとなく不思議な人よね。これまで会ったことのないタイプの人っていうか」
「おいおい、円佳まで宗谷をバカにしないでやってくれよ。あいつは女にモテない男なんだからね」
「うーん、そうかなぁ? 宗谷さんって、女の人にモテそうな気がするけど。なんて言えばいいのかな、こう……どこか危なっかしくて放っておけないって感じかな。いわゆる、母性本能をくすぐるタイプ、なのかも」
「……ふう、まさか僕の妹ともあろう者が、男を見る目がないなんてね――いや待て。言っておくが円佳、他のどんな男を好きになろうとも、宗谷だけはダメだぞ!?」
「どうして? お兄ちゃんと宗谷さん、とっても仲が良さそうだったのに」
屈託のない円佳の台詞は、しかし公人の心を深く傷つけた。
「おい円佳――我が妹よ。今の発言を取り消すんだ」
「だからどうしてよ。確かに宗谷さんは、見た目ちょっぴり恐くて、言葉遣いも悪くて、いじわるなところもあるけど――でもあたしを暦荘まで案内してくれたし、シャルロットさんたちにも懐かれてるし、きっといい人なんだと思う。それに……ちょっと格好いいし」
頬を薄く染めて、口元を綻ばせる円佳。
「――待て。まさかおまえ、宗谷を好きになったなんて言うんじゃないだろうな!」
「言わないわよ。第一、あたしみたいな残念な子に好意を寄せる男の子なんて、まずいないでしょ?」
円佳は自己評価の低い少女だ。
しかし公人は、身内びいきを除いたとしても、円佳のルックスが頭一つ抜けていることを理解している。なんだかんだと言われているが、公人の審美眼は本物なのである。
とは言ったものの、これは公人にとって好都合だ。円佳の自己評価が覆らないうちは、円佳が異性と交際することは多分にないだろう。それでなくとも愛華女学院という女子高に通っているのだから。
そうだ、円佳に恋は早いんだ――そう公人は思う。
「……まあいいか。円佳はまだまだ子供だしね。男と恋に落ちるのは五年早いよ」
「子供じゃないもん! こう見えても、脱げば凄いんだから」
「なに!? つまり、そのセーラー服の下は、けしからんことになっているというわけかい!?」
鼻息を荒くして、わざとらしく指をワキワキさせる公人。
「――ちょっとお兄ちゃん! 本当に身の危険を感じるから、そういうのは止めてよー!」
抗議の声を上げる円佳は、しかし笑っていた。
公人も襲い掛かる素振りを見せてはいるが、その実は冗談だった。
当然だろう。
二人は兄妹なのだ。
唯一無二の、この世に一組だけの、かけがえのない兄妹なのだ。
もちろん公人は、円佳のことを妹としても女としても可愛いと思っている。しかし、決して欲情はしない。例え円佳が絶世の美女であったとしても、恋慕することは絶対にないだろう。
それが兄妹というものだ。
親子ほど密接ではなく、恋人ほど交わりもしないが――それでも兄妹は特別だった。
例外はあるだろうが、少なくとも周防の兄妹は特別だったのだ。
早くに母親を亡くし、父親は仕事で家を空けていることもあって、幼い円佳の面倒を見てきてのは他でもない公人自身であった。それは、ほとんど親代わりと言ってもいいだろう。
だからだろうか、幼いころの円佳は、とにかく公人の後ろをついて回った。公人は、そんな円佳が可愛くて仕方なかった。
あるとき――二人が小学生のとき。
公人は、円佳に『あるもの』をプレゼントした。生憎と、その『あるもの』が何だったのかは憶えていないが、とにかく円佳が喜んでくれたことだけは憶えている。
――お兄ちゃん! これ、大切に使うね!
そう笑顔で言ってくれた円佳の顔が、今でも忘れられない。
公人には予感というか、確信があった。
きっと自分たちは、どれほどロマンチックな運命に翻弄されようとも、決して兄妹という一線を越えようとはしないだろう。世の中には、近親相姦というものに惹かれる人間もいるらしいが、公人にはそれが理解できない。
正直な話、円佳の裸を見ても興奮するとは思えなかった。せいぜい「あっ、若い女の子のおっぱいをタダで見れた。ラッキー」ぐらいのものである。喜びはしても、興奮だけはしない。
とにかく、それが周防家における『兄妹』だった。
「――もうっ、お兄ちゃん! ちゃんといただきますしないと行儀が悪いでしょ!」
「だから、おまえは僕の母親か? 朝っぱらから怒鳴らないでくれよ」
テーブルの上には朝食が並べられていた。
日本人の場合、基本は米食ではあるが、朝食に限っては調理の手間を惜しみ、トーストで済ます家庭も少なくない。
しかし周防家では、昔から朝も昼も夜も米と決められていた。それは今朝も例外ではない。
白米、味噌汁、焼き魚、おひたし、漬物という献立。質素ではないが豪華でもない。
「……ねえお兄ちゃん。美味しいかな?」
食事が始まってから数分後、ふと円佳が言った。
やや不安そうに、上目遣いで公人を見つめてくる。それと同時、年季の入った黒いリボンと、サイドポニーの房が揺れた。
「まあまあだね。嫁に出しても恥ずかしくはない、とだけ言っておくよ」
「ほんとっ? よかったぁ……お兄ちゃんに手料理を食べてもらうのは久しぶりだったから、ちょっぴり緊張しちゃった」
「兄に緊張してると、恋人にはもっと緊張すると思うよ。まあ円佳には恋愛なんて早いんだけどさ」
当たり前のように言うと、円佳は不満そうに頬を膨らませた。
「……前から思ってたんだけど、お兄ちゃんってあたしのことを馬鹿にしてないかな」
「そんなつもりはないけど――どうしてだい?」
「だって、いつもあたしのことを子供扱いするし、恋をするのは早いとか言うし。それにあたしが中学生のころ、ちょっと男の子と二人きりで話してたぐらいで、後から問い詰めてきたこともあるし」
「当たり前だろう? 円佳には恋愛なんて早いのさ。だから兄として、おまえが大人の女性になるまでは注意してやるのが義務だ」
言って、公人は味噌汁を飲む。
それを相も変わらず不満げに見つめていた円佳は、しばらくして何かに気付いたようで、得意げに微笑んだ。
「ははーん、そういうこと」
「なんだよ気持ち悪いな。言いたいことがあるなら言ってくれ」
「あれでしょ? お兄ちゃんってば、あたしのことが心配なんだよね?」
どこか嬉しそうに円佳は言う。
しかし公人は、口の中の味噌汁を噴き出さないようにするのが精一杯だった。
「――だ、だれがおまえの心配をしてるって言うんだよ! 寝言は寝てから言ってくれ!」
「だからね。お兄ちゃんが、あたしの心配をしてるって言ったの。違った?」
「違いまくること噴飯ものの如しだよ! 花の女子高生になったというのに、おまえの頭は幼稚園児並みか!」
「それはあたしの台詞よ! 大学生にもなって、いまだに女の人のお尻を追いかけてるなんて最低じゃない! お兄ちゃんに口説かれたって、千鶴先輩が教えてくれたもんね!」
「……姫神のやつ、余計なことを!」
「とにかく、もうあたしは子供じゃないんだから。恋愛だって出来るし、もう半年もすれば結婚だって出来るようになるもん。それでもお兄ちゃんは、あたしのことを子供だって言うの?」
「ああ、子供だね。おまえはいつまで経っても子供さ」
一蹴する――円佳は反論してこなかった。
いつもの円佳ならば、姦しく捲し立ててくるものなのに。
「……あたし、子供じゃないもん」
と、俯きながら。
「もう、お兄ちゃんから護られるだけの妹じゃないもん」
どこか悲痛に呟きながら、円佳は首を振る。それと同時、年季の入った黒いリボンと、サイドポニーの房が揺れた。
色素の薄い、やや茶色がかった前髪が陰を落とし、円佳の表情は伺えなかった。
「子供だろう? だってさ――せっかく可愛らしいセーラー服を着ているくせに」
このとき公人には、本当に悪気はなかった。
むしろ円佳を元気づけようとさえしたぐらいだ。
それでも――言葉を選ぶべきだった。
禁句、というものがある。
聞き手の感情を害さないように、その人間の前で言ってはいけないとされる言葉のことだ。
つまり。
円佳にとっての禁句こそが――
「いつまでそんな子供っぽい黒のリボンつけてるんだよ。とっとと捨てて、新しいのでも買えばいいのにさ」
――その公人の、一言だったのだろう。
ふらふらとした足取りで立ち上がった円佳は、感情のない声で問うた。
「……お兄ちゃん。今、なんて言ったの」
円佳の様子を怪訝に思いながらも、その原因が自分の一言にあると思っていなかった公人は、もう一度だけ言葉を重ねた。
「だから、その黒いリボンを捨てろって言ったのさ。なんなら僕が、新しいリボンを買ってあげてもいいよ。高校の入学祝ってことで」
「――そんなのいらないっ!」
怒声があった。
耳を劈くような大声。
肌がビリビリと痺れるような感覚。
「……そんなの、いらないもん……!」
気付けば、円佳は涙声だった――否、確実に泣いていた。
瞳からは涙をこぼして。
鼻を何度も啜って。
隠し切れない嗚咽を噛み殺し。
公人の前で、公人の発言のせいで――泣いていた。
「お、おいっ。どうしたんだよ円佳。僕、なんか悪いこと言ったか?」
しかしながら、公人には現状を把握するだけの材料が足りていなかった。
円佳には知っていて。
公人には知らない。
そんな『あるもの』が、この兄妹の隔たりとなっていた。
「言ったもん……! お兄ちゃん、円佳をいじめたもん……!」
頬を真っ赤にして、目から涙をしとどに溢れさせながら。
まずいな、と公人は思った。
円佳が自分のことを『あたし』ではなく『円佳』と言うときは、決まって一つしかない。
それは――本当に悲しくて大泣きするとき、だ。
「このリボンは……! このリボンだけは……絶対に、捨てないんだもん……! お兄ちゃんの命令でも、お父さんのお願いでも、例え死んだお母さんの遺言だったとしても、絶対に、捨てないんだもんっ!」
そこまでして。
そこまでして――守るものが、円佳にはあるのだろうか。
公人には分からない。
もしかしたら思い出せないだけかもしれないが、どうしても今は分からない。
「約束したもん……円佳、約束したんだもん……!」
言って。
円佳は、年季の入った黒いリボンを解いたかと思うと、公人に向けて投げた。
あれだけ捨てないと言ったばかりなのに――捨てた。
――公人に向けて、捨てた。
「円佳っ!」
地面に落ちる前に、なんとかリボンをキャッチした公人は、妹の名を呼んだ。
しかし円佳は、すでに玄関で靴を履き終わったところだった。
「待てよ円佳っ! 一体どうしたっていうんだ!? 僕に説明してくれ!」
「……説明?」
と。
円佳は最後に振り返って、瞳から溢れる涙を拭おうともせず、自嘲気味に笑った。
「……お兄ちゃん、本当に憶えてないんだね」
その言葉の意味を、公人が理解するよりも早く。
周防円佳は玄関を開け放ち、部屋の外へと駆け出していった。
追いかけようとは思った。今すぐにでも追いかけなければと思った。
それでも――今の自分には、追いかける資格がないような気がした。
円佳は、しっかり者なのは確かだが、その反面、精神的な幼さを残している面もある。だが大した理由もなく、ああやって泣き叫ぶような妹ではないはずだった。
逆に言えば、大した理由があるのだ。
それを理解しない限り――否、思い出さない限り、公人が円佳を追いかけても、先と同じような展開になるだけだろう。
「……この部屋。こんなに広いと思ったのは初めてだ」
孤独となった公人は、どうして円佳が泣いてしまったのかを真剣に考えてみることにした。
暦荘の隅っこ。
正確に言うならば、暦荘二階の渡り廊下の、隅っこ。
そこで円佳は三角座りをして、膝の間に顔を埋めながら、泣いていた。
――昔から、お兄ちゃんのことが好きだった。
母親は病気で逝ってしまい、父親は仕事のためかほとんど家を空けていた。だから円佳は、よその家庭よりは親の愛情を知らない。
それでも寂しいと思ったことはなかった。
兄である周防公人は、いつだって円佳の面倒を見てくれた。
勉強を教えてもらったことがあれば、いじめられているところを助けてもらったこともある。公人の隠していたお菓子を黙って食べたのに、怒られるどころか、美味しかっただろう、と頭を撫でてくれたりもした。
兄の前では素直になれないけれど、円佳は公人のことが大好きだった。
よく友達には、円佳はお兄さんの話ばかりするね、と言われる。
公人が一人暮らしをする際には、これでもかと猛反対した。
愛華女学院を選んだのも、暦荘と近かったからだ。
ああ、そうだ。
――言ってしまえば、円佳は大のお兄ちゃんっ子なのだろう。
認めたくないし、そういう自覚はないけれど、きっとそうなのだ。
「……お兄ちゃんの馬鹿」
嗚咽の合間に、息継ぎさえ放棄して罵倒する。
「お兄ちゃんの馬鹿、お兄ちゃんの変態、お兄ちゃんのいくじなし」
確かに公人は、女性を口説くことが趣味のナンパな男性である。
でも円佳は知っている。
公人が真に想いを寄せるのは、いつだって――死んだ母親の面影がある女性だと。
姫神千鶴という少女を初めて見たとき、円佳は息を呑んだ。似ていると。顔立ちも、雰囲気も、どことなく母親に似ていると思った。円佳が千鶴に憧れを抱くのは、決して愛華女学院の先輩だからという理由だけではない。
いつだって公人は、本当に好意を寄せる女性に対しては素直じゃない。千鶴だけを唯一『名字』で呼んでいるのが、いい証拠だろう。
それに公人が女性に頻繁に声をかけるようになったのも、元はといえば母親が亡くなってからだ。あれ以来、まるで欠けた穴を埋めるように、公人は女性の温かみを求めるようになった。
――そんなお兄ちゃんが。
「大嫌い」
――子供扱いするけど。
「あたしは、もう大人だもん」
――恋をするにはまだ早いと言うけど。
「好きな人が、見つからないだけだもん」
――それでも、お兄ちゃんのことが。
「っ――大っ嫌い! お兄ちゃんなんて、大嫌いなんだから――!」
叫んだ。
膝のあいだに顔を埋めたまま、スカートの布地に向かって叫んだ。
「……あーあ、とうとう周防のやつも犯罪者か。まさか実の妹に手を出すとは思ってなかったけどな」
頭上から声が降ってきた。
ゆっくりと顔を上げてみると、そこには宗谷士狼が立っていた。
今時アウトローでも見かけないような白い髪に、どこか冷たい光を宿した瞳。顔立ちは比較的整っており、目つきの悪さがなければ女性ウケしそうだ。身長は高く、180センチメートルはあるように見える。体格も優れており、その鍛え抜かれた体躯が、服の上からでも分かる。
「……宗谷、さん」
ぼんやりと、名前を呼ぶ。
「やっぱり円佳だよな。どうした、そんなに泣いて。やっぱり周防のやつに変態チックな行為を強要されたのか? まああいつは馬鹿で」
「――お兄ちゃんは馬鹿じゃないっ!」
士狼の声と重なるようにして、円佳の怒声が響いた。
「……馬鹿じゃ、ないもん……ただ、忘れてるだけ、だもん……きっと、思い出してくれるもん……!」
溢れる涙を拭いながら、ふと円佳は思った。
どさくさに紛れて、宗谷さんに失礼な口を利いちゃったなぁ――と。
まあ、それもいいかもしれない。
むしろ円佳は、士狼に怒ってほしかった。
おまえはダメな子だと。
お兄ちゃんを困らせる悪い妹だと。
そう、罵ってほしかった。
「……円佳。俺は何があったかは知らねえし、聞くつもりもねえよ。でも――」
と。
「泣いてる女を放っておけるクズ野郎でもねえんだ」
見上げれば、そこには優しげな笑顔を浮かべる士狼がいた。
円佳の頭に、ぽん、と士狼の手が乗せられる。その大きな感触に心地よさを覚えた瞬間、ゆっくりと、慈しむように撫でられた。普段なら揺れているモノが――長年続けてきたサイドポニーの髪は、今日に限ってストレートに下ろしてあるし、もう黒いリボンもないけれど。
本当ならば泣き止むのが正解だったのだろうが、円佳の瞳からはさらに涙が溢れた。
士狼に抱きつき、みっともなく泣きじゃくる。
それが数分も続けば、いつしか事情を説明するだけの余裕も生まれていた。
「……ふうん、なるほどな」
すべてを聞き終えた士狼は、一度だけ頷いた。
「――だったらよ。俺にいい方法があるぜ」
どこか悪戯小僧のような笑顔を浮かべて、士狼は言った。
藁にも縋りたい気持ちの円佳は、当然その『いい方法』とやらを聞いたのだが――
「……そ、それ、本気で言ってるんですかっ?」
「本気だ。まあ正直に言うと、ちょっとだけ俺の趣味が入ってるのは否定できねえけどな」
「あの、趣味って?」
「おまえをからかうのは面白いんだよ」
くしゃくしゃ、と頭を強く撫でられる。
士狼の『いい方法』はやり過ぎではないかと思ったが、よくよく考えてみると、それが一番、公人の気持ちを確かめられるような気もした。
公人が――お兄ちゃんが、どれだけ円佳のことを大切に思っているのか。
それをどうしても知りたかった円佳は、涙を拭ったあと、胸元に手を添えて強く頷いた。
――こうして、狼と女子高生は手を組んだのだった。