其の一 『円佳』
「やあ宗谷。相変わらず辛気臭い顔してるじゃないか。ちょっとは僕を見習ったほうがいいと思うよ? まっ、君程度に僕を見習うことが出来るかどうか、はなはだ疑問ではあるんだけどねー?」
暦荘の階下で、いきなりそんなことを言われてしまった。
暦は四月、季節は春、天気は快晴と、思わず外に出たくなるようなラインナップである。もちろん自然公園などでは今が盛りとばかりに桜が花を咲かせており、目を楽しませてくれること間違いなし。
部屋の中でじっとしているのもなんだし、ちょっと外をぶらつこうかな、もしくは大家さんの手伝いでもしようかな、と思った俺は、わりと適当な気持ちで外に出たのだが。
しかし。
……なんとも不幸なことに……周防公人に、出会ってしまったのである。
「よう周防、相変わらずうざいな」
「そうだよ、僕はうざいのさ。世界中の女の子は、みんな僕のことをうざいと思って――ないわ! おい宗谷! 顔を合わせるなり酷いこと言うじゃないか! 僕のガラスハートが傷ついてしまったら、君は責任を取れるというのかい!?」
キューティクルの豊富そうな茶髪を振り回して、華麗なノリツッコミを披露してくれた。実に周防である。
「任せろ。砕けた破片は、ゴミ箱に捨ててやるから」
「――いやいや! せめて海とかに流してくれよ! 弔う気ゼロじゃないか!」
「あっ、バレた?」
「バレたも何も、一ミリも隠せてないよっ! そんな舌を出して可愛らしく言っても、気持ち悪いだけだから止めてくれ!」
「……マジか。周防に気持ち悪いって思われたのか、俺は」
「むむ? どうした宗谷。なにを落ち込んでいるんだい?」
「答えを知りたきゃ、鏡でも見てきてくれ」
「――僕の顔は気持ち悪くないわ! この世紀の美男子を捕まえて、なに頭の悪いことを言ってるんだ。僕ほど素晴らしい男は、世界に一人だけだというのに」
なるほど。
やっぱりこいつは、今世紀最大のアホだったんだ。
この周防公人という男は、いちおう暦荘の住人ではあるのだが、とにかく勘違いが激しいのが特徴的だ。
確かに顔立ちは整っているし、服のセンスだって悪くない。しかし性格が、シャルロット曰く「気持ち悪い」、雪菜曰く「終わっています」、ニノ曰く「近寄りたくないわ」、姫神曰く「あいつは女の敵だ」というなんとも可哀想な感じなのだった。
ただし周防の中にミジンコほど残った名誉のために言わせてもらうと、こいつは嫌われてるわけじゃない。むしろ世間一般で言うところの基準とは少しズレるが、愛されている、と言っても過言じゃないのだ。
シャルロットが可愛らしいバカだとすると、周防は気持ち悪いバカ。
つまりは、そういうことである。
「まあ落ち着けよ。おまえが最高だってことは分かってるから」
「……ふん、まあ分かっているのならいいんだけどね」
腕を組み、顔を背けて、どこか釈然としない様子の周防だった。
「それよりお前、こんなところで何してんだ? もしかしなくても暇なのか?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど――ただ、なんとなく嫌な予感がするんだよね。それで部屋でじっとしてられず、こうして外に出てきたわけだよ」
「なんだそりゃ。要領を得ない答えだな。違う惑星でやり直して来い」
「――僕は地球に適応できる生き物だよ! 曖昧な答えを返しただけで、なんで地球不適合生物とみなされるんだよ! ていうか、なんだよこのツッコミは!」
「すげえ……自分のツッコミにツッコミ入れてるぜ、こいつ」
「驚くポイントがおかしいじゃないか! もっと前半部分のツッコミを評価してくれよ!」
「まあいいけどな。でも、テストで0点を取ったようなもんだ、って教えてもいいのかな」
「――声が大きいよっ!」
おまえのほうがな、と言おうとしたが、そうすると話が長くなってしまいそうなので止めておいた。
「それで、さっき言ってた嫌な予感ってなんだ?」
「……うーん、何なんだろうな」
「おまえが何なんだろうな」
こう言うとツッコミを入れてくると思った周防は、しかし難しそうな顔をして腕を組んでいるだけだった。
「……真面目な話をすると、僕の勘って当たるんだよな。それも嫌なほう限定で」
「まあ、そういうことって結構あるよな」
「だろう? 人間って不思議と嫌な予感のほうが当たっちゃうよな。ちなみに、この感じには覚えがあるんだ。たしか姫神のやつを口説こうとした朝も、こういう嫌な予感があったんだ」
「なるほど。そしてボコボコにされたってわけか」
「まあ認めたくはないけど、そんなところだね。だから今回も、女性関係の難が出るんじゃないか、と身構えているわけさ。例えば、僕を愛するあまりアマゾネスの間で抗争が起きるんじゃないか、とかね」
「…………」
「あー、なんか辛気臭い話になっちゃったな。せっかくの清々しい朝なんだから、もっと盛り上がる話をしようじゃないか」
ちなみに現在の時刻は、朝の八時であったりする。
さらに土曜日でもあるから、周防たちも学校は休みなのだろう。
「あれは昨日の夜かな、ちょっと面白いことを思いついたから、一人で延々と考えてたわけだけど、この際だから宗谷も一緒に考えようか」
「面白いこと?」
「いわゆるあれだよ。暦荘の女子の中で、この子を恋人にしたい、この子はお嫁さんにしたい、みたいな感じのやつさ。暦荘はびっくりするぐらい美少女が揃っているからね、妄想にも力が入るよ」
「夜中に一人、そんなことを考えてたのか……」
「いやだなぁ、そんなに褒めないでくれよ宗谷! 照れちゃうだろう?」
すげえ。
もう尊敬してもいい領域にまで達してるな、周防のやつ。
「そうだね、まずは例を挙げてみようか。例えばシャルロットちゃんなんかは、間違いなく恋人にしたい子だろう?」
金髪赤眼の吸血鬼ことシャルロット。
背中まで伸ばした長髪をポニーテールに纏めた、スレンダーな体系の――まあ美少女。
ちょっぴりバカな言動。
人懐っこい笑顔。
すぐに拗ねて、すぐに泣く。
無邪気で明るい性格。
ついでに言えば、泣き上戸。
――確かに、シャルロットは恋人に適しているかもしれない。こいつを嫁にもらっても、料理とか絶対に出来なさそうだし、掃除してたらバケツとかひっくり返しそうだし。
でも一緒にいて楽しいのは間違いない。
なによりシャルロットを連れて街を歩けば、そこかしこから嫉妬と羨望の眼差しを受ける。金髪に、赤眼に、色白の肌というだけでも目立つのに、類稀な美しさを持っているのだから。
もう少し落ち着きを持って、家事全般の腕前を上げることが出来れば、お嫁さんランキングの上位にも食い込むであろう。
「まあ言われてみれば、シャルロットって恋人にぴったりなのかもしれないな」
「――えっ? い、今なんて言ったの?」
「あん?」
ふと背後から聞きなれた声がした。
怪訝に思って振り返ってみると、暦荘の二階から――ちょうど階段を下りてきていたシャルロットと目が合った。
「おおっ! シャルロットちゃんじゃないか! まさに噂をすればってやつかな、というわけでこっちに――」
「――ちょっと周防は黙ってて」
シャルロットは深紅の瞳を半眼にして、周防を睨み付けた。
なんだなんだと思っていると、バカ吸血鬼はトコトコと俺に向かってきた。そして、ずいっと顔を近づけてくる。
「あのね、士狼。……さ、さっきの言葉、もう一度だけ聞きたいな」
「さっきの言葉?」
「……うん。だめかな?」
頬を赤らめて、もじもじとするシャルロット。
なんだかよく分からなかったが、まあ要望に応えてやることにした。
「……シャルロットって恋人にぴったりなのかもしれないな」
ため息混じりに復唱する。
するとバカ吸血鬼は瞳を輝かせて、小さくガッツポーズをしていた。
「――シャルロットちゃん。喜んでいるところ悪いんだけど、ていうか宗谷の面子を守るためにわざと喜んでいるフリをしてるところ悪いけど、これはね――」
周防は苦笑しながら事の顛末を説明した。
暦荘の女子の中で、恋人にするなら誰か、お嫁さんにするなら誰か――そんな男が好んでしそうな話を、自分達はしていたのだと。
すべてを聞き終えたシャルロットは、面白くなさそうな顔をして「なーんだ、期待したのにー」と唇を尖らせた。
「そういやお前、今から出かけるのか?」
「えっ? あっ、うん。これからブルーメンでお仕事なんだけど」
「そっか。頑張れよ。俺もあとで顔出すわ」
なんとなく褒めてあげたい気分になって、シャルロットの頭を撫でてみる。するとバカ吸血鬼は、とても気持ちよさそうに瞳を細めて「ふぁ……」と欠伸のような吐息を漏らした。
「士狼が来るなら、いっぱい頑張っちゃおうかな?」
「バーカ。俺が行かなくても頑張らなきゃダメだろうが」
少し強めに頭を撫で回してやる。ポニーテールに結われた金色の髪が、まるで犬の尻尾のごとく舞う。
「わわっ――ちょっと士狼っ! 髪が乱れちゃうってばぁ……」
頬を薄っすらと赤くして、むずがゆそうにするバカ吸血鬼。
「うるせえ。とっとと行って来い。頑張ってこいよ」
最後に、ぽんっと頭を叩いて送り出してやった。
シャルロットは途中で何度か振り返りながらも「士狼ー! 待ってるから、絶対来てねー! 約束なんだからねー!」と楽しそうに言って、ブルーメンへと旅立って行った。
「……バカ吸血鬼が」
ちょっと照れくさかった。
さて、それじゃあ大家さんのところにでも顔を出して、なにか手伝えることがないか聞いてみようか。
「――いや待ってくれよっ! なんでさっきから僕の存在が忘れ去られてるんだ!?」
目の前に踊り出てきたのは、どこか慌てた様子の周防公人である。
そういえば、この変態ナルシストを忘れていたことを忘れていた。
「あっ、そういや周防もいたな」
「――僕のほうがシャルロットちゃんよりも圧倒的にいたよっ! もう七割り増しだよっ! 宗谷とシャルロットちゃんが妙にいい雰囲気だったから、声をかけづらかったんだよ!」
「俺とシャルロットはべつに普通だって。それより、微妙な数字を言って笑いを取ろうとするのは時代遅れだから止めたほうがいいぜ。なんだよ七割り増しって。ちっとも面白くねえじゃん。スベるのも大概にしろ」
「――べつに笑いを取ろうとしていないのに、なんでダメ出しを受けなきゃいけないんだよっ!」
猿のように顔を真っ赤にした周防は、むきー! と、これまた猿っぽい声を上げながら地団駄を踏んだ。
「さーて。それじゃあ次は、お嫁さんにするなら誰か、について話そうじゃないか」
とてつもなく切り替えが早かった。
きっと女の話をするのが楽しくて仕方ないのだろう。なにせ一人で深夜に妄想して楽しめるほどなのだ。こいつの夢の中で、シャルロットたちが汚されていないかが心配である。
「まあいいけどな。それにしても恋人じゃなくて嫁か。こりゃ料理とか掃除が得意な女じゃないと駄目だな」
「宗谷のくせに分かってるじゃないか。というわけで、やっぱりお嫁さんにしたいのは――雪菜ちゃんだと思うんだよっ!」
自称陰陽師こと凛葉雪菜。
腰ほどまで伸びた黒髪と、女性的な色白の肌をした日本美人。
基本的には無表情。
抑揚のない口調。
どんなときも和服。
料理の腕前は、和食に限ってプロ級。
密かにいい身体をしている。
たゆんたゆん。
あらゆる物事をそつなくこなす――というか、俺は雪菜が何かに失敗したところはあまり見たことがない。飽くまで”あまり”だが。
「……なるほど。確かに雪菜が適任かもしれねえな」
「そうだろう!? きっと雪菜ちゃんは、自分が愛した人を一途に想い続け、どんなことがあっても尽くして尽くして尽くし抜くような子だよ! 例えば、夫が仕事から帰ってくると、玄関で三つ指をついて迎えてくれるんじゃないかな? そして、こう言うわけだよ! ……公人さん、夕食に致しますか? それとも、お風呂に致しますか? ……で、でも、もし公人さんが望むのでしたら、私を召し上がって頂いても構いませんよ……みたいな!? というか、いまの似てたと思わないかい!?」
「確かに、ちょっとだけ似てたな」
雪菜は淡々と話すようなやつだし。だからモノマネする側も、比較的やりやすいのだろう。
それに周防の言ったとおり――雪菜は自分が愛した男に尽くすタイプの女だと思う。常に夫を立てて、自分は一歩引いて見守るみたいな。
普段から掴みどころのない発言をする女だが、その実は頭がキレるやつだしなぁ。
「ふっ、僕のモノマネの素晴らしさを理解できるとはね。さすがは宗谷だ」
「はいはい、ありがとう」
「うむ、苦しゅうないぞ。ところでさ、宗谷も思うだろう? 雪菜ちゃんは、お嫁さんにしたい女の子ナンバーワンだって」
雪菜と結ばれた未来を――少しだけ考えてみる。
あいつは自称陰陽師とかいう意味分からん存在だが、それでも目を惹くような美人だし、何より一緒にいて落ち着く。
だから自然と答えは決まっていた。
「ああ。確かに――雪菜をお嫁さんに出来たら幸せだろうな」
「――士狼さん。そのお言葉を二年もの間、待ち望んでおりました……」
「え?」
ふと背後から聞きなれた声がした。
怪訝に思って振り返ってみると、暦荘の二階から――ちょうど階段を下りてきていた雪菜と目が合った。
……なんか、どっかで見たようなシチュエーションだ。既視感がやばい。
雪菜は黒曜石のような瞳を細めながら、ゆっくりとした足取りで俺に近づいてくる。
「やあやあ雪菜ちゃんじゃないか! うん、今日も美しいね。なんていうのかな、雪菜ちゃんって他の女の子にはない独特の魅力があるよね。例えるなら」
「――申し訳ありませんが、周防さんは静かにしていてください」
抑揚のない口調で、きっぱりと言い切る。
速やかに退場を要求された周防は「まあ、たまには宗谷に夢を見せてあげてもいいかな。バレンタインのときも、どうせ一つもチョコを貰えなかったんだろうし?」と含み笑いをしていた。
もちろん無視した。
「よう、雪菜じゃねえか。おはようさん」
「おはようございます、士狼さん。……ええと、いい朝ですね」
なんか挙動不審だな、こいつ。
無駄にもじもじしてるっていうか。
「ああ、いい朝だな。それよりおまえ、これから時間あるか?」
「はい、ありますよ。元々、外から話し声が聞こえてきましたので、少し様子を見に来ただけなんです。ですから、出掛ける予定はありません」
「そっか。じゃあ、あとでブルーメン行かねえか?」
「構いませんよ。たまにはクソ吸血――いえ、吸血鬼さんと遊ぶのも悪くないでしょう」
「決まりだな。たぶん三十分後には出るだろうから、用意しといてくれ」
「分かりました。……分かりましたけど、あの、士狼さん」
相変わらず無表情のまま。
その視線は俺と交わることなく、そっぽを向いていた。
「どうした?」
「……さきほどの言葉を、もう一度だけ聞きたいです」
うわーシャルロットに続いて雪菜まで勘違いしてるなー、と思ったが、まあ要望であるのだし、せっかくだから答えてやろう。
「……雪菜をお嫁さんに出来たら幸せだろうな」
言い終える前に、白磁のような肌には薄っすらと朱が差していた。
きっと他人が見れば、雪菜は無表情のまま頬を微かに赤らめているだけのように見えるだろうが、俺にはそれが内心で喜んでいるのだと、すぐに分かった。
「――雪菜ちゃん。ちっとも女にモテない宗谷のために、頬を染めてまで喜ぶ演技をしてあげる君には感服するけど、さすがに優しさが過ぎると思うよ?」
苦笑しながら、事の顛末を説明する周防であった。
しばらくして――雪菜の瞳から輝きが消えた。彫像のように固まっている。
「……ろ……ます」
「なんて言ったんだい? もっと大きい声で言ってくれないと聞こえないよ、雪菜ちゃん。せっかく綺麗な声をしてるんだからさー」
顔を俯けたまま、ボソボソと囁くような雪菜に対し、周防は愛の告白でもされると思っているのか、やたらと気のよさそうな笑顔を浮かべていた。
しかし次の瞬間。
「――呪います」
と。
周防に向けて、一言だけ冷たく言い放った雪菜は、ゆっくりと階段を上って自室に消えていった。その冷静さが逆に恐い。もしかして、あいつが部屋に戻ったのは、藁人形とか怪しげな札を取りに行くためじゃあるまいな。
「……こ、恐かった。どうしたというんだ、雪菜ちゃんは」
バカみたいに大口を開けている周防、その額には脂汗が滲んでいる。
「なまじ顔立ちが綺麗な分、雪菜ちゃんが怒ると恐いな……まあ、なんで怒ったのかは分からないんだけど」
「お疲れさん。来世では、もう少し性格を矯正して生まれてきてくれよ。でも俺の息子に生まれてくるのだけは勘弁な」
「――えぇぇぇぇっ!? やっぱり僕、呪われて死ぬのか!?」
「そんなの俺が知るわけないだろ。でも部屋に隠してるエロ本の処分は忘れるなよ」
「くっ、分かったよ宗谷。中学三年生のころ、近所のコンビニで、サングラスをかけて缶コーヒーとアダルト雑誌を一緒に買ったんだが、そのときから五年来の付き合いであるエロ本は今夜にでも――って、僕は死なないわっ!」
キレはともかく、勢いだけは芸人顔負けのノリツッコミであった。
「大変そうだな、おまえ。もうちょっと落ち着こうぜ」
「――君たちのせいだろ!? 前から思ってたんだけど、宗谷と雪菜ちゃんって、なんか他人とは思えないんだよな。言葉にしなくても、お互いの考えを分かり合えている、みたいな」
「そうか? 自覚したことないけどなぁ」
「まあ兄妹がいる人じゃないと分からないかもね、この感覚は」
まるで自分に姉か妹がいるような発言をして、周防は頷いた。
「よし! じゃあ次は、一夜の相手をお願いするなら誰か、にしようじゃないか!」
「いきなり下品になったな」
「まあ僕たちも健全な男だからね。男子二人寄らば下ネタ、という格言もあるぐらいだし」
「ねえよ」
「――じゃあ発表しよう! 僕としては――やっぱりニノちゃんに一夜の相手をお願いしたいと思うんだよっ!」
狼少女ことニノ=ヘルシング。
鮮烈な紅色の長髪と、頭部にピョコと生えた獣耳が特徴的な美少女。
お姉ちゃん風を吹かせるのが大好き。
面倒見がいい。
およそ女性としては完璧なプロポーション。
大人っぽい顔立ちと、クールな性格。
その実は甘えたがりで、しかし素直になれない女。
街を歩いているとよくナンパされるそうだし、ブルーメンでも若い男性客から頻繁に口説かれるらしい。ニノのおかげで、ブルーメンを訪れる男性客が二割り増しになったと、冗談げにマスターが言っていた。
「上手く言えないだけどさ。なんていうかこう……エロいんだよな、ニノちゃんって。身体つきはもちろんのこと、顔もさあ……とにかくエロいんだよ」
「まあ気持ちは分かるけどな」
「そうだろ!? やっぱり宗谷も分かってくれたか! いやぁ、でもニノちゃんって非常にけしからんよなっ! あの子に言い寄られて我慢できる男は、この世にいないんじゃないかな?」
「……そ、そうだな」
「ん? どうして目を逸らすんだい? ……ははあ、分かったぞ宗谷。ニノちゃんに迫られたところを想像して、興奮しちゃったんだろ? まあ、そんなこと現実ではありえないだろうから、妄想の中だけでも夢を見るのは悪くないと思うよ。だって、ニノちゃんが身体を許す唯一の男は――たぶん、この僕だからねっ!」
すげー。
周防まじすげー。
勘違いもここまで来ると清々しい。
まあ――いいか。
あえて何も言わないでおこう。
とりあえず適当に同意してりゃ、周防も満足するだろう。
「そうだなぁ。一度でいいから、ニノを抱いてみたいよな」
「――そ、そんなこと言われても、心の準備がまだよ……!」
「げっ」
ふと背後から聞きなれた声がした。もはや凄まじいデジャビュである。
振り返って確認してみると、大家さんの家の玄関あたりにはニノが立っていた。遠目でも、獣耳がピコピコと嬉しそうに動いているのが分かる。
「おおっ! ニノちゃんじゃないか! いやぁ、今日も美しいね。それに相変わらずいい身体をしてるし……げへへ」
「――気持ち悪いから、あなたは黙ってなさい。ウチを抱いていいのは、一人だけよ」
ぴしゃりと言い放つ。
周防を押しのけて登場したニノは、どことなく気恥ずかしそうな顔をしていた。
「ようニノ。今日も相変わらずいい耳してるな」
「そ、そう? ……ありがと」
自分で言って、どんな褒め言葉だ、と思ったが、ニノには有効なのだった。
「これから出掛けるのか? それとなく遠出の準備をしてるみたいだが」
「あぁ、まあ遠出じゃないけど、出掛けるのは本当よ。今からブルーメンで仕事なの。ちょっと寝坊しちゃったから、急がなくちゃいけないのよね。本当はシャルロットと一緒に行く予定だったんだけど、用意に時間がかかりそうだったから先に行かせたの」
ふぁっ、と小さく欠伸をかみ殺すニノ。
「なるほど。でも朝に強いって、あいつ本当に吸血鬼かよ」
「どうかしら。シャルロットの場合、ブルーメンで仕事をするのが楽しいらしくって、前日はなかなか寝付けないとか言ってたわ。それで夜更かしして、そのまま出勤するのも多いし」
「ただの子供じゃねえか……」
普通の人間ならば、夜更かしをすると目が充血してしまうものだが、シャルロットは元々赤い瞳をしているので、一目で気付くことが出来ない。
ニノ、シャルロット、雪菜、姫神の四人は、よく誰かの部屋に泊まったりしているので、互いの寝相や起床の様子などを熟知しているのだろう。この間も、一番広いニノの部屋に四人でお泊り会とか開いてやがったし。
「まあいいや。引き止めて悪かったな。遅刻しそうだってんなら、急いでブルーメンに行って来いよ」
「ええ、分かったわ。それで――いつにする?」
「なにがだ?」
「もう、士狼ったらとぼけたフリしちゃって」
このこのー、と肘で突いてくるニノの獣耳は、とても機嫌が良さそうにピコピコしている。
「――したいんでしょ? さっき、抱きたいって言ってたじゃない」
あぁ。
やっぱり『二度あることは三度ある』って諺は、うざったらしくなるぐらい本当だったんだ。
「いや、それはな」
「もう言葉は要らないわ。ただ今夜、士狼の部屋に行くから。……それで、伝わったでしょ?」
ニノは人差し指を俺の唇に当てて、言葉を封じた。
俺は呆れて物も言えなかったのだが、その沈黙を肯定と取ったのだろう。ニノは、さきほどの人差し指の先端をペロリと舐めた。間接キスならぬ、間接ペロリだった。その舐め方が、なんというか扇情的過ぎた。
「――ふう、さすがニノちゃんだ。やっぱり美しい女性というのは、モテない男にも気を配るものなんだね」
やれやれ、と肩を竦めながら俺たちの間に入った周防は、道化のように回りくどい口調で説明を始めた。
もう俺はなにも言わない。
でも獣耳さんの変化を見れば、自ずと答えは出るだろう。
以下、獣耳さんの軌跡である。
ピコピコっ!
ピョコっ、ピョコっ。
ピョコ……ピョコ……。
……ペタン。
なんだか可哀想だった。
寒さに震えるうさぎを見捨てるような気分だ。
「……ふん。まあ初めから分かってたけどね。ただ士狼をからかってみただけよ」
きっと怒っているのだろう、獣耳はピンと尖っていた。
「おいおいニノちゃん。頼むから宗谷をからかうのは止めてあげてくれよ。こいつは今まで女にモテたことがないんだから、冗談を本気にしちゃうかもしれないだろう?」
「そうね。じゃあ止めておこうかな」
「分かってくれたならいいんだよ。まあ本当の男は、今まで美少女を囲ってきたような男は、ちょっとやそっとの誘惑じゃあ動じないんだけどね? あっはっはっはっ!」
「ねえ周防? えっち、しよっか?」
「――ぶはっ!? に、ににに、ニノちゃん!? いきなり何を言うんだね君は!? あまり男の子をからかうものじゃありませんよっ!?」
明らかに動じていた。
「でもニノちゃんがどうしてもって言うなら……ふっ、今夜、僕の部屋に来てもいいんだよ? その代わり、明日以降はもう僕なしじゃあ生きられなくなってしまうよ?」
周防は、顔を斜め45度ぐらいにして、前髪をかき上げた。恐らく、あれがこいつのキメ顔なのだろう。
しかし。
「……あれ? なあ宗谷、ニノちゃんの姿が見えないような気がするんだけど」
「ああ。ニノなら、もうブルーメンに向かったぜ。遅刻しそうらしくてな。走って行ったぞ。まるで汚らわしい者から逃げるような速度で」
「なぁるほど。きっとニノちゃんは、僕の格好よさに耐え切れなくなっちゃったんだな。いやぁ、普段は大人びているからこそ、その乙女な部分に萌えるね」
うーん。
周防の、自分の都合のいいように事実を改変する思考回路は、もはや見習ったほうがいいレベルにまで達しているな。
「さーてと、じゃあそろそろ僕は部屋に戻るかな。今日は嫌な予感がするからね。いっそ部屋に篭っていたほうがいい気がするんだよ。だから今日は僕のところに来ないでくれ。どうしても訪ねたくなったら、美少女を連れてきて扉をノックしてくれ。そのときは喜んで応答しようじゃないか」
「まあ周防の部屋に行くことはないと思うが、分かったと言っておく。つーわけで、俺は雪菜とブルーメンに向かうわ」
と、言ったところで思い出した。
「そういえば周防。さっきの例で行くと、姫神のやつは何に当てはまるんだ?」
シャルロットは、恋人。
雪菜は、お嫁さん。
ニノは、一夜の相手。
姫神は――なんだろう?
「ん? 姫神だって? ……ぷっ、それはいい質問だね、宗谷くん。今ちょっとだけ考えてみたんだけど、最高の答えを思いついたよ」
「面白くなかったら承知しねえからな」
「安心しなよ。こればかりは天才的なネタだと自負してもいいね。というわけで――」
そのとき。
暦荘の一階の、とある一室から誰かが出てきた。
しかし周防は止まらない。むしろ加速していた。
「――シャルロットちゃんは恋人、雪菜ちゃんはお嫁さん、ニノちゃんは一夜の相手、そして姫神は――用心棒だぁ! ……くっ、あっはっはっはっ! これは傑作だと思わないかい!? 確かに姫神は美人だが、僕に暴力を振るう女なんて、もう用心棒でいいよ! いやぁ、自分の発想が天才すぎぐはぁっ――!」
言葉の途中で周防のからだは飛んでいた。
それはもう見事な飛行だった。
もし「空を飛びたいな」と夢見る子供がいれば、俺は「あいつを参考にしろ」と断言するだろう。
「……本当に懲りないな、おまえは。どこまで私を怒らせれば気が済むんだ」
声は、女特有の高い音色。
現れた影は、すらりとしたスレンダーな体型の少女だった。
思わず見蕩れてしまうほど長い美脚と、くびれた腰と……ま、まあ女の魅力は胸では決まらないよな、うん。
肩の高さで切りそろえられたセミロングの黒髪と、揺ぎない意思が篭った切れ長気味の二重瞼。
融通の利かない格闘娘こと姫神千鶴。
堂々の登場だった。
「――ぎゃあああああああっ! ひ、姫神だーっ!」
まるで幽霊でも目撃したかのような絶叫。
尻餅をついたまま、殴られた頬を押さえたまま、恐怖に体を震わせている。
「周防は用心棒が欲しいんだろ? じゃあ、私の実力を確かめてくれ。行くぞ」
「行くなっ! 待て姫神っ、話し合いの場を持とうじゃないかっ! さっきのは周防流の可愛いジョークってやつだよっ!」
「午前八時二十八分」
「そ、それがどうかしたのかい? いきなり時間を確認して」
「死亡推定時刻だ」
「――うわあぁぁぁぁっ! こいつ僕を殺す気満々だーっ!」
尻もちをついたまま後退る周防を、姫神は指をポキポキと鳴らしながら追い詰める。
「きゃー! 人殺しぃ、この人殺しぃ! そ、宗谷っ! 頼むから僕を助けてくれぇぇぇっ!」
「今日は記念日だなー」
「――おい宗谷っ! なに長年の夢を達成したかのように朗らかな笑顔を浮かべてるんだよっ! 暦荘における財産が失われてしまうかもしれないんだぞっ!?」
もう面倒だったので、無視を決め込むことにした。
姫神のやつも、そう酷いことはしないだろう。……たぶん。
「覚悟は出来たか周防。とは言ったものの、私も鬼じゃない。せめて遺言ぐらいは聞いてあげてもいいよ」
「それはもう鬼だよ! 完璧なまでに鬼だよっ! それよりもちょっと待て、本当に待ってくれっ! さっきは悪かったからっ! 姫神は用心棒じゃなくて、女なら誰もが羨むような美人だからっ!」
言い訳がましい台詞だったが、その言葉を聞いた姫神は、なにを思ったか歩みを止めた。
「…………私だって、いちおう女の子なんだから、傷つくことだってあるんだぞ」
微かな囁き。
それは風に乗って、俺の耳に届いた。しかしパニックに陥っている周防には聞こえなかったらしい。
「えっ、なんだって? 私だって、いちおう女の子なんだから、公人さまには存分に傷つけてもらいたい――って言ったのかい? つまり遠まわしに夜のお誘いってことかな?」
「…………」
俺は呆れて閉口した。
もはやコイツわざとやってんじゃねえか、と思うほどである。
憤怒と羞恥によって顔を赤くした姫神は、勢いよく腕を振り上げた。
「――ひえぇぇぇぇぇっ! お、お助けくだされ姫神様あぁぁぁぁっ!」
新手の神様を崇める神主のような叫喚――いや、断末魔だった。
きっと悲惨な光景が広がるだろうからと、そんなグロいもん誰が見るかと、そう思った俺は、急いで雪菜の部屋を訪ねたあと、揃ってブルーメンへと向かった。
――その後。
周防がどうなったかは、誰も知らない。
その日の正午。俺はブルーメンから暦荘への帰路についていた。
あれから――雪菜とブルーメンを訪ねると、出迎えてくれたのはウェイトレス姿のシャルロットとニノだった。ボックス席に案内された俺たちは、仕事中とは思えないほど雑談に加わってくる従業員(主にバカ吸血鬼)を退治しつつ、紅茶やケーキを食いながら駄弁っていた。
およそ二時間半ちょっとブルーメンにいたわけだが、さすがに昼頃にもなるとランチ目当ての客が増えるくるので、邪魔をしてはいけないとお暇することにした。ただし雪菜のやつは「あ、私はもう少しだけ吸血鬼さんをイジメ――こほん、ここで時間を潰していますので」とのこと。
そんなこんなで俺は、一人寂しく帰宅しているわけなのだった。
あれだけ肌を刺すように冷たかった冬は終わりを迎え、街のそこかしこでは桜が花を咲かせて懸命に春をアピールしている。時折風に乗った花びらが俺の服にくっついたりして、それを摘んで匂いを嗅いでみると、あぁ春だなーと実感することが出来た。
よく出会いや別れを象徴する、とか言われる季節だけあって、街には、真新しいスーツや制服に身を包んだ若者が数多く見受けられる。
――ほら、噂をすれば俺の前方に、どことなく初々しい感のある少女がいるじゃないか。
見るからに卸したてのセーラー服に身を包んだ彼女は、間違いなく新入生だろう。中学生にしては発育がいいので、恐らく高校生が妥当か。
その少女は、手に地図らしきものを持って、周囲を探るようにしながら歩いている――と思ったら、今度は立ち止まって首を傾げたりしている。まあ、このあたりは入り組んだ地形になっているので、分かりづらいのは確かだが。
きっと彼女は――とある目的地に辿り着きたいのだけど、その住所や地名も分かっているのだけど、このあたりを訪れるのは初めてなので、いまいち勝手が分からず、ぷち迷子のような状態に陥ってしまっているんだろう。
とは言ったものの、俺には関係ないし、ここは視線を合わさず通り過ぎるのが無難。
少女との距離は、およそ十メートルほど。なおも地図と周囲を交互に見ながら、彼女は眉を寄せているようである。
――ふと、眼が合った。
完璧なまでに目が合ってしまった。
もう見つめあうと言っても過言じゃないレベル。
「……あのう、ちょっといいですか?」
嫌な予感に限って当たってしまう、とは周防の言葉だったか。
困り果てた顔で、少女は恐る恐るといったふうに歩み寄ってきた。
近くで見ると、思っていた以上に整った顔立ちであることに気付く。まだ幾分かあどけなさを残してはいるものの、それが絶妙なアクセントとなり、大人の女性には醸し出せない愛らしさを演出していた。
やや色素が薄い髪はほんのりと茶色ががっていて、肌は抜けるように白い。ぱっちりとした二重瞼は、どこまでも純粋無垢な色を見せており、思わず護ってやりたくなる。
シャルロット達よりも小柄な身体だが、かといって発育皆無というわけでもなく、むしろ姫神よりも一部分限定で言うのなら育っている。年齢のわりには豊満な身体つきをしているようだ。
少女は、長めの髪を年季のありそうな黒いリボンで括って右側に垂らし、サイドポニーにしていた。
偏見や先入観や俺個人の感情を抜きにして言うならば、十分に美少女で通用すると思う。
しかし、俺が気になったのは。
……なんとなく、この子の顔には覚えがあるんだよなぁ……。
「えっと、どうかしましたか?」
じぃーと見ていると、少女は引きつった顔であとずさった。
「……悪い悪い。ちょっと考え事してた。それで、俺になんか用か?」
「あっ、はい。少々、道をお聞きしたいと思いまして。よろしいですか?」
「いいぜ。役に立てる範囲で教えてやるよ」
「本当ですかっ? ありがとうございます!」
ぱぁ、と顔を輝かせて、ほぼ直角に近い角度で頭を下げてきた。
めちゃくちゃ礼儀正しい子のようである。
「で? どこに行きたいんだよ」
「はい。この地図にある、暦荘というところに行きたいのですが」
目元を和らげて、愛想よく聞いてきた。
「……暦荘だって?」
「そうですけど。あの、もしかして、ご存知ありませんか?」
怪訝に聞き返したのがまずかったのか、少女は笑顔を曇らせてしまった。
それを見て、後悔に近い感情が湧いてくる。他意はない。ただ女は、笑っているのが一番なのだ。この俺の前で、悲しそうな顔をするやつは許さない。
だから。
「いや、知ってるぞ。むしろ暦荘は、俺の家だし」
道案内ぐらいは、手間とは感じない。これが『隣町まで案内してくれ』とかならば断っただろうが。
第一、俺は暦荘に向かっていたのだ。物のついで、とは正にこのことだろう。
「そうなんですか!? うわぁ、凄い偶然! あたしって、ツイてるのかなぁ?」
よほど困っていたのか、踊りだしそうな勢いで喜ばれてしまった。
それを微笑ましく見つめていると、少女は視線に気付いたらしく、顔を赤くして俯いてしまった。
「……ご、ごめんなさい。あたし、子供みたいですよね」
「謝らなくてもいいって。それに礼儀正しすぎるのも問題だと思うぜ。おまえみたいな女は、子供みたいにはしゃいでるほうが可愛いだろ」
「か、からかってるんですか? あたし、ちっとも可愛くないのに」
少し褒められただけで、頬を羞恥に染める様子から鑑みるに――恐らく、あまり男性慣れしていないのだろう。
おかしなものだ。
この子ぐらい整った顔をしていれば、それはもう可愛いだの綺麗だの褒められるだろうに。
ちょっと容姿について言及されただけで、ここまで狼狽するとは――よほど清純なのか、もしくは男に興味がないのか。
「からかったわけじゃねえよ。女なら、もっと褒められることに慣れとけ。将来きっと役に立つはずだ」
「はあ、努力してみます。……うん? 努力? いや、この場合って努力するって言うのかなぁ。意識の問題かな? ……むぅ、分かんないや」
小首を傾げて、形のいい眉を寄せる少女。
礼儀正しいのは人前だからで、本来は歳相応の女の子らしい性格をしているようだ。
「まあ頑張れよ。それよりも、とっとと行こうぜ」
「あ、はい。お手を煩わせてしまったみたいですいません」
俺が歩き出すと、少女はペコリと頭を下げてから後ろに続いた。
まあ実を言うと、この地点から暦荘までは徒歩五分程度なので、道案内の時間は間もなく終わるし、そもそも俺がいなくても彼女は自力でたどり着いただろう。
このあたりが物珍しいのか、きょろきょろと周囲を見渡す少女――その様子を、俺は肩越しに伺っていた。
……うーん。
やっぱりだ。
どこかで、この子を見たことがあるような気がする。
この際だから、それとなく聞いてみるか。
「なあ」
「はい? なんでしょう?」
「おまえさ、どこかで俺と会ったことねえか?」
足音が止まる。
振り返ってみれば、少女は警戒するように身構えていた。
「どうした? ナンパな野郎を見るような目をして」
「――ち、近寄らないでくださいっ! 大声出しますよ!?」
一歩踏み出すと、一歩後退されてしまった。
「初めからおかしいとは思ってましたけど、やっぱりあたしの予感は正しかったんですねっ!」
「おいおい、いきなりどうした。病院なら向こうだぞ」
「うるさいっ! あたし、男の人には興味ないの! それに、あたしみたいな残念な子をナンパしても、あなたには得がないはずよっ!」
「いや。そのへんの女を捕まえるぐらいなら、おまえを口説いたほうがいいだろ」
「っ~~! やっぱりっ! やっぱり、あたしの身体が目的だったのね! そういえば髪は真っ白だし、目つきも悪いほうだし、堅気の人には見えないわっ!」
「おい。人を外見で判断したらダメだろ? ごめんなさいは?」
「あっ、ごめんなさい……。あたしったら、なんて失礼なことを」
しょぼん、と肩を落として、少女は頭を下げた。
「分かったならいいんだよ。これからは気をつけような」
「はい……じゃなくてっ! くっ、なんて巧みな話術なの!? ま、まさか……これが噂に聞くナンパ師!?」
「んなわけねえだろ。俺のどこがナンパ師だよ。あんまり聞き分けないようだと、オシオキすんぞ」
「オシオキ!? オシオキって、まさか……よく少女漫画とかでニヒルな男の子が、清純で世間知らずな女の子にイタズラしちゃうときに使う、あのオシオキ!? ……あ、あわわわっ」
「そうだ。ぐちゃぐちゃにしてやるよ」
「……ぐ、ぐちゃぐちゃ……」
茹蛸のように顔を真っ赤にした少女は、ふらふらと身体を左右に蛇行させた。
どうやら、この手の話には耐性がないらしい。外見と性格を裏切らない清純な娘のようだ。
いい加減、少女の脳がオーバーヒートを起こしそうだったので、事情を説明というか種明かしすることにした。とりあえず俺はナンパ師ではなく、おまえを口説くつもりは毛頭ない、と口を酸っぱくして伝えておいた。
「そ、そうですよね! あたしって、ちっとも魅力ないですし」
全てを聞き終えた少女は、納得したような、落胆したような、そんな曖昧な顔をした。
「いや。おまえに魅力がなかったら、誰に魅力があるんだよ。もっと自信を持て」
「……うぅ! も、もうからかうのは止めてくださいよぉ! もしかしたら、あたしってちょっぴり可愛いのかなって、そう勘違いしちゃうじゃないですかー!」
「勘違いすればいいじゃねえか。少なくとも、俺はおまえのこと可愛いと思ってるけど」
これは事実だった。
色素の薄い髪は、脱色とは全く違う天然の美しさを持っているし。
透き通るような白い肌は、化粧をしていないのに――いや、化粧をしていないからこそ瑞々しい。
ぱっちりとした目も、通った鼻筋も、小さな唇も、鈴を鳴らしたような声も。
きっと学校の男子たちは、この少女のことを放っておかないだろう。
まあ俺は、口説いているというよりは、からかっているだけなのだが。
「……あたし、あなたみたいな人、苦手です!」
機嫌を損ねてしまったのか。
少女は、赤く上気した頬を膨らませて、ぷいっと顔を逸らした。その際に、トレードマークであろうサイドポニーの房と、年季の入った黒いリボンが揺れた。
それにしても――ちょっと褒めただけで、苦手と言われてしまったのはショックである。
べつにお世辞とかじゃないんだけどな。
「悪かったな。おまえの嫌がることしちまって。もう可愛いとか言わないねえよ」
なるべく神妙な顔で言ってみた。
「あっ、いえいえ、謝らなくても結構ですってば! …………それに、可愛いって言われるの、ほんとは嬉しいですし」
「ん? 最後なんて言ったんだ?」
「なんでもありませんよ。ただの独り言です」
両手を後ろで組んで、小首を傾げながら、少女は柔らかな笑顔を浮かべた。
でも――こうして見ると、どっかで会った気がしてくるんだよなぁ。
というよりも、この子が誰かに似てるのかもしれない。例えば、女優とかタレントとか、とにかくテレビや雑誌で目にする機会が多い人間の面影があって、だからこそ既視感があるとか?
どちらにしろ答えは出ない。せめて雪菜がいれば「この子は、昨日見た昼ドラの主演を努めていた女優さんに似ています」と看破してくれそうなものだが。
道中、何度も先のように愉快な口論が勃発したのだが、そのたびに俺が折れたり謝ったりすると、少女も釣られて大人しくなるのだった。
総括として――この子は、とても純粋で、とても礼儀正しくて、まったくと言っていいほど男慣れしてなくて、意外とノリがよくて、そして誰かに似ている――ということになる。
そうこうしているうちに俺たちは暦荘に到着した。
まあ五分程度の道のりを二十分近くかけて踏破するという、ある意味で凄い時間の無駄遣いをしたわけだけど。
「へえ、ここが暦荘なんですねー!」
お祈りするときのように両手を組んで、瞳を輝かせながら少女が言った。
「そうだ。というわけで、俺の役目は終わっただろ。じゃあな」
「――ちょっと待ってください!」
翻って歩き出したところ、腕を引っ張られて阻止されてしまった。
「なんだよ。まだ道案内が必要なのか?」
「実は、そうなんです」
冗談のつもりで聞いたのに……。
よほど慌てて俺を引きとめたのか、少女の呼吸は乱れていた。その胸元では、セーラー服のリボンが揺れている。
そういえば、このセーラー服って姫神が通ってる女子高のものだよな。つまりこの子は、姫神の後輩に当たるわけか?
「まあいいや。ここまで来たら最後まで案内してやるよ」
「ありがとうございます。それでは遠慮なくお聞きしますけど、周防公人さんの部屋は何号室でしょうか?」
「周防? あいつの部屋なら、すぐそこの101号室だ」
「分かりました。……えっと、つまり、その部屋なんですよね?」
周防の部屋を指差しながら、念を押すように問うてくる。もちろん頷いてやった。
それにしてもこの子、なにを思って周防に会いに来たんだろうか。
ひょっとすると――あたしの姉につきまとわないでください、とか、あたしの友達にちょっかいかけるのは止めてください、とか、そういう警告の類に来たのかもしれない。
それを証明するように、周防の部屋の場所を聞いてから、少女は面白くなさそうに眉を寄せていた。どう見ても不機嫌になっている。
「――ちょっと待て。どうせなら俺が周防に声をかけてやるよ」
今朝、女難の相があるかもしれない、と周防は言っていた。
つまり見知らぬ女よりも、俺のほうが警戒されない可能性が高い。
「……はい、お願いします。あたしだと出てきてくれないかもしれないので」
私は怒っています、と言わんばかりに頬を膨らませるが、ぶっちゃけ可愛らしいだけで、あんまり恐くない。まあ指摘すると怒りそうなので、あえて触れないが。
「じゃあ行くぞ。準備はいいか?」
「はい。あたしは覗き穴から見えない位置に待機してます」
とかスパイみたいなことを言ったかと思うと、彼女は俺の背後に隠れた。
覗き穴から見えない位置ってそこかよ、と思って呆れつつ視線をやると、『どうしました?』というように小首を傾げる。なんというか、ちょっと抜けているようだ。
まあいい。
とりあえず周防を呼び出してみよう。
「――おい周防。いるんだろ?」
強めにノックする。
呼び鈴を鳴らすよりも、こっちのほうが恐怖感があるような気がして、あえて鳴らさなかった。よく暴力団が借金を取り立てに来るようなときも、大抵は乱暴にノックするだろ?
『――なんだよ宗谷。僕は、姫神にやられた傷を癒すので忙しいんだ。また今度にしてくれ』
扉のすぐ向こう側から、くぐもった声が聞こえてきた。
「ふーん、また今度でいいんだな?」
『だからそう言ってるじゃないか。まさか宗谷が美少女を連れて来れるわけもないし』
「そのまさかだ。おまえ好みの美少女を連れてきてやったぞ。こりゃ将来が楽しみな女だ」
もちろん嘘じゃない。
ふと背中をツンツンされた。振り返ってみると、めちゃくちゃ小声で「……だから、あたしは美少女じゃないですってばー!」と密かに抗議されてしまった。
もちろん無視した。
『――なにぃぃぃぃっ!? び、美少女だとっ!? おい宗谷、それは本当だろうね!?』
「命を賭けてもいいぜ。大体、俺がおまえに嘘ついたことあったか?」
『――ありまくりだよっ! むしろ嘘しか言われてない気がするぐらいさっ!』
「止めてくれ。照れる」
『褒めてないよっ!』
相変わらず忙しいやつだった。
「とにかく美少女を連れてきたから、早くドアを開けろよ。あんまり対応するのが遅いと帰っちまうかもしれないぞ」
『いや、それはまずい! 絶対に美少女を帰らすんじゃないぞ、宗谷っ!』
ガチャガチャと開錠する音。
その刹那、振り返ってアイコンタクトをかわした。
――今だっ!
――分かりましたっ!
咄嗟に退いた俺と交代するようにして、サイドポニーの房を揺らしながら少女が前に出る。
次の瞬間、ドアが開いて周防が顔を出した。
「――やあやあ、待たせてしまったみたいだね! それにしても、わざわざ僕を訪ねてくるとは君も見る目があるじゃないか! 姫神のやつにも見習わせてあげたいぐらいだよ! あはははは…………え」
腰に手を当てて高笑いしていた周防の顔が――固まった。
「久しぶりね。元気してた?」
対して、少女は天使のような笑顔を浮かべている。
「い、いやぁ、僕の目はおかしくなっちゃったのかなぁ?」
「ううん。おかしくなってないと思うよ?」
「――嘘だ! じゃあ何でおまえがここにいるんだよ、円佳っ!」
「自分の胸に聞いてみたら?」
「聞いてみたけど分からないさ!」
その言葉と同時、少女――円佳の頬がピクと震えた。笑ってはいるが、その実は怒りを堪えているらしい。
「へーえ、分からないんだ? 一年以上もの間、家には帰ってこないし、電話すらかけてこないし、メールを送っても無視するのに? それでも分からないとか言っちゃうんだ?」
円佳は、可愛らしく小首を傾げて、サイドポニーの房と、年季の入った黒いリボンを揺らしながら、言った。
「あたしが来たからには、もう今までのようには行かないからね。お兄ちゃん?」