其の八 『結末』
それは思いのほか懐かしい感覚だった。
瞳を、灰を、筋肉を、手を、足を、頭脳を――その全てを混ぜ合わせるように稼動させて、己の体を一つの武器にする。
人間と人間が互いに命をぶつけ合うというその行為。きっと『人』がそうだと定義された原初から、近代においてまで延々と繰り返してきたことだろう。
俺の得物は頼りないナイフが一つだけだが、日本刀に比べればおもちゃのような刀身でも、相手の刃を受け止める役割さえ果たしてくれれば十分だ。
坊主頭の日本刀はこれでもかと研ぎ澄まされていて、銘こそ無さそうなものの相当な業物だ。受け損なえば致命傷になるのはまず間違いない。
俺も坊主頭も、互いに小さな傷をつくりながらも顔に笑みを浮かべていた。理由はひどく簡単でひどく単純――楽しいからである。
スポーツの延長線上――賭けるものが勝敗ではなく、命になっただけ。
坊主頭は剣術だけならシャレにならない腕前だったが、いかんせん真っ直ぐすぎた。俺の誘いに躊躇いもなく乗ってくる。アレは気付いていないんじゃなくて、分かった上で真っ向から潰してやると言っているのだ。
そういう馬鹿は好きだが、これは殺し合いだ。相手を殺しきるだけの力を持つ両者が闘う場合、読み違えたほうが命を落とす。
――そのとき俺は、この殺し合いに終止符を打とうと決めていた。
坊主頭が鞘に収めた日本刀を持って近づいてくる。抜刀術を駆使するのがこいつの技らしい。
だから次は刀を抜くよりも先に、俺が坊主頭に切り込んでやる。抜刀術は抜けば最速だ。だから抜かせなければいい――それだけの話である。もっともそれは理論的にはであって、言うは易いが実行するのは難い。
肉薄する。
殺気を迸らせて、対峙する相手のみに全神経を集中させる。
――だから。
それに気付くのが遅れたのだ――
俺と坊主頭の間に、両手を広げたシャルロットが割り込んできた。涙を浮かべた赤い瞳で、懸命に嗚咽を飲み込んで。
「やめてよぉ――!」
ポニーテールに結われた金色の髪が踊った。
本当に例えようもないほどにバカな女だ。自分が走りこんできたくせに、目を閉じて、何かを耐えるように俯いているのだから。
「んなっ――」
「っ、バカが――!」
驚愕したのは俺か、坊主頭か――当然両方だった。
互いに必殺の一撃を見舞うつもりだったのだ。それは行く手に何かが立ち塞がった程度で殺せるような弱い力じゃない。。
手に持っていたナイフを放り投げる。今そんなものは邪魔だった。
空いた両方の手を、藁をも掴もうかという必死さでシャルロットに向かって伸ばす。なぜなら――目を瞑り両手を広げて立ち塞がるシャルロットの背後に、鞘から刃を振りぬこうとしている坊主頭が見えたからだ。
坊主頭も懸命に立ち止まろうとしているようだが、さすがに動き始めた体へその命令は遅すぎた。
……一瞬、強い光が目を刺した。僅かに引き抜かれた銀色の刀身が、鏡のように月光を反射したのだ。
間に合え……。
間に合え……。
間に合え……!
指がシャルロットに触れる。
指先を曲げて身体を掴む。
――刀身が反射させる光の量が増す。
力任せにシャルロットを抱き寄せる。
足に力を込めて俺と位置を反転させる。
今度は俺から眩しい光は見えなくなって、代わりにシャルロットの潤んだ眼が見えた。
ルビーのような瞳が驚愕に見開かれる。その顔が少し面白くて俺は笑った。……さてさて、俺の背後にシャルロットはなにを見ているのか。
――大袈裟だな。
そんな顔するなよな、泣き虫吸血鬼が――と。
心の中で呟いたはずの声は、なんとなくシャルロットに届いたような気がした。
――瞬間、背中に鋭い痛みがあった。
「イ――てぇ……!」
「士狼……? しろう、しろう! 何してるのよ、バカぁ――!」
俯けに倒れる。
腕の中にはまだシャルロットがいて、俺の下に敷かれるような形だった。
眼と鼻の先には金色の髪。シャンプーのようなリンスのような甘い香りがして、それが酷く場違いだと思った。
「お、おいおいっ、何がどうなってんだぁ?」
強く困惑した声。
背中が熱い……斬られた時の感覚からして、致命傷という訳ではなさそうだ。皮が切れたか、もしかしたらもう少し奥まで届いてるかもしれない。
冬だということで若干厚着していることも幸いだったか。とりあえずこの傷自体は死に直結しないだろう。
しかし、動き回ることはちょっとできそうにない。
「ちょっと、大丈夫!? 士狼っ! ……っ、ウソ――すごく血が出てる……」
腕の中から抜け出して、俺の背中を見たシャルロットは相当に慌てふためいてるらしかった。
「……うるさいんだよ、バカ。傷に――っ、……響くから、静かにしてくれ……」
「う、うん。でも、えっと、えっと」
止血するつもりなのか、シャルロットは取り出したハンカチを広げて俺の背中に当てる。
……しかし残念ながらハンカチはすぐに血を吸って赤くなってしまい、止血の役割を果たさなくなってしまった。
カインが遅れてやってくる。
銀髪の吸血鬼は現状を数秒眺めただけで、状況を察したみたいだった。
「……ロイ。止めは刺さないのですか?」
その一言に、二人は示し合わしたようにカインの方を向いた。
「止めって……士狼はこんなに怪我してるんだよ!?」
「そうだぜカイン。俺もこんな状態の白髪野郎をどうのする気は起きねえ」
「……何を言っているのか。貴方たちは殺し合いをしていたはずです。
ロイ、貴方は経緯はどうであれ、こうして士狼に致命傷を与えたのです。――士狼、戦場では強い者が生き弱い者が死ぬ。そうですね?」
「……ああ。全く持って正論だ」
戦場では油断したり、気を抜いたやつが真っ先に死ぬ。
俺だって目の前に出てきたのがシャルロットでなければ、きっとそのままそいつを目隠しなり盾なり利用して、坊主頭を殺そうとしていただろう。
これは俺の弱さだ。守ってやらないなとなーってヤツを作ってしまった俺の弱さだ。
だが何よりも始末が悪いのは、捨てるべきはずのその弱さを嫌いになれそうにない点だ。
「だそうですが。さあロイ、遠慮なく止めを。貴方ができないというのであれば、不本意ながら私が殺りますが」
俺の頭に銃口を向けるてくる。
……マズイなぁ、今すぐこの状況を打破できる方法が思い浮かばない。
それに体が寒くなってきた。出血が多すぎたのだろう、体温が急激に低下していく。追い討ちをかけるように目も霞んできたし、指先も震えてきた。これはどうも本格的にヤバイらしい。
かつて俺を拾ってくれた人たちの顔を順に思い浮かべ、もうすぐ会えるかもしれないなぁとバカなことを考えてみた。
――しかし。
「待って」
ゆらりとシャルロットが立ち上がった。
カインの手を掴んで、銃口を俺から逸らす。
「どうしました? シャルロット」
涼しい表情を崩さない。
カインの手を掴むシャルロットの指に、力が込められていくのが分かった。
「……もし貴方たちが士狼を殺そうとするなら――代わりに、私が貴方たちをやっつける」
涙と寒さで赤く染まった顔で、シャルロットはそう宣言したのだった。
「……ふむ。どうやら当初の通りになりそうですね、ロイ」
「ああ。白髪野郎には悪いが、コイツが動けない以上、俺らも仕事しなくちゃなんねえからな」
やっぱそう来るよなぁ。ていうかどちらにしても、このバカ吸血鬼が闘うっていうんなら俺の苦労はどこにいけばいいのか――
シャルロットは赤い瞳を吸血鬼狩りに向け、
「二人まとめてかかってきていいよ。手加減なんてしないけど。――あ、それと殺すことなんてしないよっ。その代わり私が勝ったら、何も言わずにこの街から出て行ってもらうからね」
自信満々に言い放った。
……なかなか決まってるじゃないか。まあ無駄に容姿が整っている分、何をしても大抵は絵になるからな。
「――いいでしょう。ただし殺さないという条件を付けるなら、私たちが勝った場合、貴女にはトランシルヴァニアまで共に来ていただくことなりますが、よろしいですか?」
「うん、お好きにどうぞ」
「ふむ。ロイは?」
「よろしいぜ。元々はと言えば、こいつが目的で日本くんだりまで来たんだからな。白髪野郎がリタイアしたってんなら、次は必然的にこいつだろ」
「ならば――」
カインとロイが身構える。
しかしシャルロットは警戒する素振りを欠片も見せず――否、それどころか殺意を迸らせる吸血鬼狩りに背を向けた。
倒れた俺を覗き込む。
「おい、てめえ俺を抜いて話進めるんじゃねえよ……」
「あはは、ごめんごめん。でもその前に止血しとかなくちゃ」
シャルロットは赤いダウンを脱いで黒のタートルネックも脱いだ。やがてキャミソール一枚になった彼女は寒そうに震えた後、すぐさまダウンを着なおしてチャックをした。
「私が着てたのだけどこれで我慢してね。今はこんなのしかないんだ。本当はあんまり持たないから、”アレ”を使いたくなかったんだけど。えと――それから」
ごめんね、と言ってシャルロットは舌を出す。
金髪赤眼の吸血鬼Aは――倒れる俺の背中にキスをした。
……背中が温かい。昨日の夜、シャルロットに血を吸われたときと同じような感覚が身を包んだ。あの時はただ不気味だったが今は違う。温かいお湯の中に浸かっているような、そんな幸福感。
そういえば――伝承では吸血鬼に血を吸われる者は、その際に性的快楽を感じるという。
しばらくそうして、シャルロットは最後に慈しむように傷口を舐めたあと背中から口を離した。
不思議と出血が止まったような気がする傷口に、先ほどまで着ていたタートルネックが当てられる。やや生暖かいそれは、きっとシャルロットの体温が残っているから。
……ほんと、温かい。
「ご馳走さま、士狼」
「チ――勝手に人様の血、吸ってんじゃねえよ。バカ」
「もうバカってなによ、バカって。相変わらず口が悪いなぁ」
「うるさい。とっとと行けよ」
はいはい、と苦笑してシャルロットは立ち上がった。
「待っててくれてありがとうね。お二人さん」
「多勢に無勢ですから。ハンデです」
吸血鬼狩りと対峙する。
水を打ったように静まり返ったこの場で、シャルロット前方に右手を伸ばした。
「いいの? ――言ってなかったけど、私、強いよ」
ゆらゆらと揺れる。
金色の髪が何か得体の知れない力から逃げ惑うように舞い上がった。
「っ――ロイ、下がりなさいっ」
「ぐっ、これは――!」
二人が後退しようと足に力を込める。
それと全くの同時に、まるで透き通るような透明さでシャルロットの声が響く。
「くらえ――!」
直後。
冬の寒さを打ち消すような灼熱の火柱が巻き上がった。その位置はちょうど数秒前まで、カインとロイが立っていた位置だ。
それは凄まじい勢いの火炎だったはずなのに、まるで手品のようにすぐに消えてしまった。今見た光景は夢だったのかと目を瞬かせるが、よくよく観察すれば地面が黒く焦げている。
――俺は一つ失念していた。世界に残る吸血鬼の伝承。彼らは総じて血を吸い、日光や十字架を嫌い、棺桶で眠ったり美しい貴族であったりする。
そして伝承の一つには、こうも記されている。吸血鬼は不可思議な魔法、魔術の類をも扱えたといのだ。
昔の人間が嘘も真も交えて作った御伽噺は知らない。けれど文字通り、火のないところに煙は立たないという諺もある。
遥か過去――吸血鬼の伝承を紡いだ語り手は、きっと今の俺のように燃え盛る炎を目の当たりにしたのだろう。
吸血鬼狩りの二人は、先の一瞬で十メートル近い距離を跳躍して着地すると、狐に化かされたような顔でシャルロットを見た。
「――火を操る力。吸血鬼の中でも古参の者に稀に見かける発火能力ですが、まだ幼い貴女が」
「あっちぃ! カイン、やばい! 靴が焼けて、足火傷しちまったぞ!」
涼しげな顔を珍しく緊張させたカインの横で、足を押さえてケンケンと飛び跳ねるロイ。
シャルロットは腕を向けたまま静止していた。
「まだやる? 言っとくけど、パパならもっともっと凄いことできたんだから」
誇らしげな顔でニヤリと笑う。どうやらこいつは、親と自分が吸血鬼だということに強い誇りを持っているらしいのだ。
そういえばシャルロットが胸を張るときは決まって、その二つの話題の時だったな。
「当然です。むしろ貴女のその能力を見て、私たちと共に来るべきだという気持ちはより強くなりました」
「ぐぅヤロウ、買ったばかりの靴を燃やしやがってっ! 絶対ぶっ殺す!」
「だから殺さないってば。それに靴のことなんて知らないよ、バーカ!」
シャルロットが前方に右手を置いたまま、空いている左手であっかんべーをする。
それはもちろん、ロイの怒りという火に油を注いだだけだった。日本刀に手をかけ、シャルロットに向かって疾走する。カインはその場で銃を構えた。
月の綺麗な冬の夜。
再び例の透き通るような声で、シャルロットの声がする。
「いくよ、本当にどうなっても知らないからね」
言葉に反応するかのように、強烈な火炎が、今度は広範囲に巻き起こった。