其の一 『嘲笑する獣』
よく晴れた日の昼下がり。とある街のとある喫茶店にて、一人の男性が優雅にティータイムを楽しんでいた。
柔らかな日差しの当たるオープンテラスには、白妙のテーブルを囲うようにして、大勢の人間が腰掛けて談笑している。ついこの間までは冬ということもあり、オープンテラスには人など見当たらなかったものだが、それも最近では掌を返したように賑わっている。
当然であろう。もう暦の上では四月なのだ。ようやく冬も終わりを迎え、本格的な春も間近となった。その証拠に、街を行き交う人々は揃ってコートを脱ぎ捨てて、代わりに真新しい制服やスーツを纏っていた。
世界的に見ても、四季と呼ばれる季節の移り変わりがある国は稀有だ。
その一つが日本であり、日本と同じ緯度に存在するオーストラリアなども同様。
この国――日本は、経過する時間に応じて季節も移ろう。
花が咲き乱れる春。
灼熱の日が照る夏。
夜の月が美しい秋。
雪が降り積もる冬。
日本人は気付いていないだろうが、彼らは恵まれているのだ。変幻自在な四季に囲まれていることもそうだが、何より国全体の生活水準が高い。飢餓に苦しみ、少年兵がライフルを構えて死んでいく光景に比べれば、多少の貧富の差などあってないようなもの。
例えば、借金に苦しみ、女が身体を売って金を稼がねばならなくなったとしても、それは恵まれていると胸を張るべきだ。なぜなら海の向こうでは、命を対価にして、ようやく明日を食いつなぐ程度の賃金しか入手できない者達もいるのだから。
一晩男に身体を売ることで高賃金を得る――例え、それが女性としての尊厳を引き換えにしているとしても、命を天秤に賭けるよりは遥かにマシだろう。
日本は恵まれている、本当に。
そして、それを理解していない人間が多すぎる。
しかし。
だからこそ彼――ミカヤにとって、この日本という国は利用価値があり、同時に動きやすい国でもあった。
十数席あるオープンテラスの一つに腰掛けているミカヤは、都会に溶け込むようなカジュアルな服装をしていた。
上は、ロングTシャツに灰色のベスト。
下は、各所にダメージが入ったデニム。
そして頭には、つばの広いハットを被っている。配色は、灰色のベストを除いて、全て闇を固めたような黒色だった。
ミカヤは白塗りの椅子に足を組んで腰掛けながら、古ぼけた雑誌に目を通していた。テーブルには温かな湯気を放つコーヒーカップが置いてあるのだが、それに手をつける気配はない。
ただ口端を不気味に吊り上げながら、帽子の奥に隠れた瞳を愉しそうに歪めて、雑誌に目を通しているだけ。
それは、世界に散見されるオカルト現象や未解決事件を編纂した雑誌だった。ミカヤが開いているページには、大きなゴシック体で『1000人殺し事件』と書かれている。
――通称『1000人殺し事件』。数年前に東南アジアで確認されたのが始まりで、現在に至っても未解決として扱われている事件。詳細は不明。ただ一夜にして小さな街が壊滅状態に陥り、そこに滞在していた1000人余りの人間が殺された。
この事件が迷宮入りしている原因は、犯行推定時刻に軍隊を初めとした戦闘部隊の動きが、周辺からは一切見られなかったことだ。
一夜のうち、という時間制限が設けられた状況下で、街一つと1000人もの人間を消すための最低条件は、以下の二つ。
一つ、厳しい訓練を積んだエリート部隊などを動員すること。
一つ、相手側が無抵抗の状態であること。
前者はともかく、後者は難しいだろう。当時の該当地域では小規模な紛争や攻略戦が相次いでおり、周辺の街には最低限の戦闘の備えがあった。それを証明するように、殺された人々は大部分が武装済みの状態(実は、その街には戦争を生業とする民間軍事会社の人間が滞在していた)だった。つまり抵抗――いや、戦闘した痕跡が確かに見られたのだ。
犯人の手口は、爆薬などを使った大量虐殺――ではなく、刃物や銃器を用いた惨殺であった。
しかし、そうすると辻褄が合わない。
武装した街の人々を相手に、対人戦闘を仕掛けることによって『1000人殺し事件』を成すためには、圧倒的な物量と人員がいる。だが当時の該当地域周辺を調べてみても、その夜に活動が確認できた軍隊は皆無だった。
ミカヤが目を通している記事には、まるで一夜のうちに街が勝手に滅んだかのようだ、などと大げさに書かれている。
犯人は不明。
原因は不明。
詳細も不明。
全てが不明。
ただ現状で分かっているのは、1000人余りの人間が他殺された、という事実のみ。
だからこそ、この事件は『1000人殺し事件』という通称で呼ばれ、胡散臭い雑誌社に面白おかしく取り上げられるまでに至った――
記事に書かれている概要を見て、当然だろう、とミカヤは笑った。
なぜならば、かの『1000人殺し事件』の犯人に該当するのは、たった四人のみなのだから。
「――久しぶりね、ミカヤ」
待ち人の声が投げかけられたのは、そんなときだった。
ミカヤが顔を上げても、そこには誰もいない。しかし代わりに、背後の空席に誰かが腰掛ける気配があった。
あえて同席しなかったのは、恐らく用心のためだろう。確かに日本は滑稽なまでに平和ボケしているが、警戒するに越したことはない。
周囲の視線が集まる。
それはきっと、見目麗しい彼女のせい。あやふやな存在感を放つミカヤとは違い、彼女は人目を引く。
「――ええ、お久しぶりですねぇ。アリシア・アーレンス中尉」
振り返ることなく、ミカヤは口端を吊り上げながら言った。
突き抜けるような青空の下、賑やかな喧騒で満ちたオープンテラスの隅、ミカヤと彼女は背中を合わせたまま挨拶を交わす。
「中尉ね。その名で呼ばれるのは、いつ以来かしら」
「ナチスが崩壊する寸前――ベルリンがソ連に占領されたとき以来じゃないですかねぇ?」
「嘘ばっかり。四年前にも呼んだくせに。
ねえ、ちょっとあなた、注文いい? このクラブサンド一つと、ミックスジュースを頂ける?」
通りがかった若い男性ウェイターは、彼女の美貌に目を奪われていたようだった。それを察したミカヤは、美しい薔薇に隠された棘を見抜けないウェイターを嘲笑し、そして同情した。
彼女――アリシア・アーレンスは、どこか浮世離れした容姿の持ち主である。女性にしては高い身長と、理想的な曲線を描いた豊満な身体は、まず日本人とは思えない。事実、彼女の彫りの深い顔立ちは、明らかに欧州のものだ。外見年齢は、二十代半ばが妥当だろう。
特筆すべきは、その雪のように白い毛髪か。見ようによっては銀髪と取れなくもないが、陽光の下ではっきりと確認すれば、それが高貴な銀ではなく無彩色の白だと分かるだろう。ゆるやかにウェーブを描く長髪は、下品になりすぎない程度に巻き毛にされている。
アリシアは、一見して上品な女性だった。気品の溢れる身のこなしは、英国の上流階級を彷彿させる。服装も、薄手のカーディガンと、レースのフレアが美しいロングスカートという落ち着いたものだ。絶え間なく浮かべた柔和な笑みは、聖母のような慈悲さえ湛えている。もっとも、アリシアの瞳だけはこれっぽっちも笑っていないが。
注文を承ったウェイターは、カーディガンの隙間から覗くアリシアの乳房に鼻の下を伸ばしながら、足早に店内に戻っていった。
「ふうむ、気の毒な青年だ。天使と悪魔の区別がつかないとは」
「そうかしら。私は可愛いものだと思うけれど。女を犯したいと思う男の視線は、いつだって快感だわ」
アリシアは、白磁の頬を薄っすらと赤くして、内股を擦り合わせた。
「ははあ、相変わらず倒錯した性癖ですねえ。コメントに困りますよ」
「……それ、あなたにだけは言われたくないわ」
二人は背中を向けあったまま、互いに唇を小さく動かして話を進めていく。
「そういえばミカヤ。あのヘルシングの小娘は――ニノはどうしたの? あなたにしては、珍しく目を掛けていたようだったけれど」
「ああ、ニノですか」
くつくつと哂って、ミカヤは帽子のつばを抑えた。
「――捨てましたよ、あんな粗大ゴミ」
その声からは、一欠片の親愛も感じられなかった。
「まあ多少の後悔もありますがね。ニノは救いようのないゴミでしたが、さすがヘルシングの名を継ぐだけあって、その戦闘能力は群を抜いていました。純粋な実力だけで競うのならば――アリシア、貴方もニノには敵わないかもしれません。とは言っても、それを払拭して余りあるクズでしたけどね、あれは」
「でしょうね。あの子、人狼とは思えない膂力だったし。ただ、オツムの出来は良くなかったようだけれど」
「はい。通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の抹殺などという化石のような悲願に、いつまでも縋り続けた愚かな娘――まったくもって不愉快です。あんな粗大ゴミに手塩を掛けていたー、なんて笑い話としても披露できませんよ。しかしまあ、今にしてみれば、もったいないことをしたなぁと思いますけどね」
本当に憂鬱そうに溜息をついて、ミカヤは続けた。
「ニノは粗大ゴミのような女でしたが、ルックスだけは素晴らしかった。ですから手足の腱を切って四肢の自由を奪い、たっぷりと調教を施したあと、裏市場に性奴隷として出品すれば、数多の買い手がついたでしょう。間違いなく一財産は築けたと思います。それが、ボクは惜しくてなりませんよ」
「そうね。確かに処女とは思えない身体だったし」
「おやおや、まさかアリシアさんともあろう方が嫉妬ですか?」
「どうかしら。嫉妬というよりは、侮蔑でしょうね。それにあの子が、男に身体を許すわけがないでしょう」
「……ふむ。まあ今頃は、どこかの誰かさんに股を開きまくっているかもしれませんが」
その発言に、アリシアは秀麗な眉を潜めた。
「へえ? あの子、まだ生きているのね。てっきり殺したのかと思っていたんだけれど」
「はい、ゴミ捨て場に放置してきました。それに回収業者さんは、あの粗大ゴミを快く受け入れてくれましたし」
「それって、誰?」
「――《白い狼》ですよ」
やや冷めたコーヒーを啜っていたミカヤが、その名を口にした。
瞬間――本当に数秒間だけ、時間が止まったような錯覚があった。
暢気にコーヒーを楽しむミカヤとは対照的に、アリシアは大きく目を見開いて身体を震わせていた。それは恐怖でも武者震いでもない。ただの歓喜――いや、性的興奮といったほうが近いかもしれない。
たまらない、とでも言いたげに頬を上気させて、内股を擦り合わせる。
その最中、クラブサンドとミックスジュースを御盆に乗せたウェイターがやってきた。さきほどと同じ従業員である。まだ年若い彼は、扇情的なアリシアを見て生唾を飲んでいたようだったが、それすらもアリシアは意に返さない。
顔を赤くしながらも給仕を終えたウェイターは、やはりカーディガンから覗く双つの膨らみを、名残惜しく見つめながら去っていった。
「……白い狼。あれは、本当にいい男だった……」
夢見る少女のように恍惚とした表情。
頬に手を当てて、恋煩いを抱えた乙女のごとく首を傾げながら、アリシアは肺に溜まった熱い息を吐き出した。
「あの男になら、犯されてもいい――ううん、犯されたいといっても過言じゃないわ。あぁ、もう、思い出すだけで濡れてきそう」
「……あらら、アリシアの悪い病気が出ちゃいましたか。しかし残念ながら、今の彼は《白い狼》ではありませんよ。ただの腑抜けた犬だ。
それに、どうやら彼は《白い狼》の伝説を、自分一人で作り上げたと思っているようですしね」
「そう――あなたがそう言うなら、白い狼は腑抜けてしまったのでしょうね。でも、そんな彼を、私が調教してあげるのも――素敵」
どんな不埒な妄想をしたのか、いやいやと首を振るアリシアの背後で、ミカヤは心底呆れていた。
「断っておきますが、軽挙は慎んでくださいよ? 《白い狼》が滞在している街には、朔花の連中が目を光らせていますから。ボクたちが包囲網を掻い潜ろうとすれば、確実に邪魔が入るでしょう」
「朔花が? ……ああ、なるほど、そういうことだったのね」
合点がいった、とアリシアは満足げに頷いた。
言葉にするまでもない。
ニノと行動を共にしていたミカヤ。
ヘルシングの目的は、通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の抹殺。
そして、かの朔花家が重い腰を上げざるを得ない理由を推測してみれば、容易に答えは出る。
――《白い狼》が滞在している街には、通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の娘がいる。つまり、あの小さく偉大な吸血鬼を守護するために、朔花が動いているのだろう。
それにミカヤは、ニノを《白い狼》に預けたと言っていた。ヘルシングが追い求めていたのは、いつだって一人の吸血鬼だ。
よって、《白い狼》が滞在する街と、ニノ=ヘルシングが滞在する街と、通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の娘が滞在する街は、イコールで結ばれることとなる。
そこまで考えたアリシアは、ふと思い出した。ミカヤが銀貨という吸血鬼殺しの兵器を集めていることを。
「――ねえ、ミカヤ。アレは手に入ったの?」
「いえ、残念ながら。ニノは粗大ゴミなりに仕事をしてくれたんですが、偏執的なストーカーさんがボクを追いかけてきたんですよ」
「相変わらずキルヒアイゼンの当主様とは仲がいいのね」
「一方的な偏愛ですよ。とにかく、いいところで邪魔が入ってしまって、アレを回収することは出来ませんでした」
「そう。でもねミカヤ――いいのかしら? 束縛を断ち切りたいのでしょう?」
クスクス、と楽しげに笑って、アリシアはクラブサンドに齧り付いた。
その背後では、ミカヤが足を組んだまま沈黙している。誰が知るだろう。ミカヤが口を閉ざしているのは、ある種の警告なのだと。それ以上、言葉を続けることは許さないと。
長い付き合いだ、当然アリシアもその警告に気付いている。しかし彼女が黙することはなかった。
「あなたが銀貨を欲しているのは――」
「――おい、アル」
ぱりん、とひび割れるような音がした。それは比喩じゃない。事実、ミカヤの眼前にあるコーヒーカップには亀裂が走っていた。
祭りのごとき賑わいを見せていたオープンテラスは、今や通夜のごとき静けさを見せている。昼下がりのティータイムを楽しんでいた客は、揃いも揃って額に脂汗を滲ませて、周囲を警戒していた。
日本人は平和ボケしているが、それでも本能的に察したのだろう。
誰だって、殺意には敏感なものだ。
「それ以上言いやがったら、てめえ――殺すぞ」
ミカヤは、背後の席に座っているアリシアに最後の警告を発した。
忌々しげに舌を打つミカヤ――その帽子が落とした影の中には、狂気に満ちた金色の瞳があった。
「あら、ごめんなさいね、よく聞こえなかったわ。だから、もう一度言ってくれる? 誰を殺すって言ったの?」
空間を侵食していく殺気は、常人ならば正気を保つことさえ困難であろう。
にも関わらず、オープンテラスに陣取っている人間たちが己を維持できているのは、その殺気が唯一人にのみ向けられているからだ。
しかし当の本人は、ミカヤの殺意を真っ向から受け止めて尚も余裕があった。その証拠に、水を打ったように静まり返った広場で、アリシアは悠然とした笑みを浮かべながらドリンクを口にしている。
「へーえ、言うじゃねえのアル坊。てめえよぉ、マジでいっぺん死んでみるか?」
「それは私の台詞よ。今は――まあ月は出ていないけれど、それでもあなたを殺すぐらいなら簡単よ」
まるで風船のように殺気が膨れ上がっていく。それは、もはや破裂寸前だった。
「ク――」
「ふふ……」
次の瞬間。
二人の口から紡がれたのは、剣呑とした挑発ではなく、どこまでも愉快そうな笑いだった。
静寂に支配されたオープンテラスに哄笑が溢れる。それをきっかけに、広場に満ちていた殺気が薄れていった。
客やウェイターは、揃って首を傾げたり、見過ごせない疑問を討論しているようだったが、真実を知らない人間達に答えが求まるわけがない。否、誰も理解できないほうがいいのだ。
当然だろう。
自分たちが殺されかけた――なんて冗談みたいな真実は、知らないほうがいいに決まってる。
「いやぁ、安心したぜ。てめえは《白い狼》と違って、腑抜けてねえみてえじゃん」
「あなたもね。てっきり丸くなったのかと思っていたのだけれど、私の杞憂だったようで嬉しいわ」
禍々しい金色の瞳、残忍な口調、狡猾な性格、歪な殺気――それらは全て、アリシアの記憶にあるミカヤと一致するものだ。
他者を弄び、誰かを欺くことを趣味とするミカヤは、常時社交に長けた人格を表面上に形成している。
つまり偽りの仮面を被り、その奥から他者を覗き見て、自分の掌で踊りゆく愚者を嘲笑っているのだ。
「そういやアル、ハウゼンの奴ぁ何してやがんだ? 一緒に来日する予定じゃなかったのかよ」
「ええ、確かに同じ飛行機で日本に来たのだけれど――どうも彼、この国に別個の用があるらしくてね」
「……別個の用だぁ?」
忌々しげに舌を打って、ミカヤは問いを変える。
「なら、あの堅物は放っておいてやるとしてもだ。メルヴィスの奴は?」
「さあ? 彼女の行方は、私も知らないわね。七年ぐらい前に上海で別れたきり、顔も見てないし」
「――ったく、どいつもこいつも使えねえなぁ」
「あなたがそれを言う? 肝心なときに捕まらないのは、いつもあなたのほうでしょうに」
クラブサンドを美味そうに平らげたアリシアは、ナプキンで口元を拭う。そしてミックスジュースで喉を潤す最中、はたと思い出した。
「そういえば、さっき熱心に雑誌を見ていたようだったけれど――なにが載っているの?」
アリシアの記憶にある限り、ミカヤという男は、必要な知識を補うための書物を読み漁っても、娯楽を目的とした雑誌類を好んで読むことはないはずだった。
唯一の例外は、ナチス・ドイツが崩壊したときか。彼らの戯れで一つの国家が悲惨な末路を辿ったとき、ミカヤは愉悦に満ちた笑みを浮かべながら、ありとあらゆる情報媒体に目を通していた。
つまりミカヤが雑誌を読んでいる、ということは、そこには彼の興味を惹くだけの事実が編纂されているのだろう。
少なくともナチスが崩壊したときと同等の――ミカヤにとって愉しくて堪らないニュースが。
「……あぁ、これか?」
口端を吊り上げたミカヤは、後ろ手に雑誌をアリシアへ渡した。
口頭で教えてもらえると思っていたアリシアは、まさか雑誌を手渡されるとは予想していなかったので、困惑を隠せなかった。当然だろう。百聞は一見にしかずというが、一度聞いただけで理解できるものを、わざわざ見る必要は逆にないのだ。
それにアリシアは気まぐれで問うただけで、この雑誌に載っている如何なるニュースにも興味は――
「……ふうん、そういうこと」
適当にページを捲っていたアリシアは、それを見つけるのと同時にミカヤの意図を理解した。
「懐かしいよなぁ? もう何年前の話だ、ありゃあ」
「どうだったかしら。四年ぐらい前じゃない?
それよりミカヤ。これ、《白い狼》は知ってるの?」
アリシアが開けたページには――大きなゴシック体で、『1000人殺し事件』と書かれていた。
この事件の犯人は不明とされているが、しかし逆に犯人が見つかったとしても、それを信じる者はいないだろう。誰だって、1000人もの人間を殺したのが、たった四人のみとは想像しないし、信用もしないものだ。
そう。
この事件の原因を作ったのは、なにを隠そうミカヤだ。
そして。
この事件を引き起こしたのは――
「知ってんじゃねえの? アイツも立派な当事者の一人だろ」
「当事者……ね」
「他人事みたいに言うなよアル。てめえもだろぉ? オレ様と、おまえと、白い狼と、そんでもって――」
禁句だと知っていながら――否、禁句だと分かっているからこそ、ミカヤは面白がって、それを口にする。
「――九紋京香。この四人だろぉ? アルちゃん」
その名を聞いた瞬間、アリシアの顔が歪んだ。
彼女の整った顔立ちを台無しにしているのは、憤怒と狂気の二つ。それら負の感情が絶妙にブレンドされた顔は、女性というよりは一匹の狼に見えた。
アリシアは、右手で左肩を押さえながら背中を丸めた。まるで屈辱に耐えるかのように。
そこにあるのは――アリシア・アーレンスの左肩にあるのは、一つの銃創だった。白磁のように美しい彼女の肌に残った傷跡。美という概念を固めたかのような身体の中に、唯一混じってしまった醜。時経ても消えることのない、アリシアにとっての汚点。
――それは、九紋京香によってつけられた傷だった。
「あの人間の小娘は――絶対に私が食い殺してやる」
「止めとけや。あれにタイマンで勝つのは絶対に無理だっつーの」
アリシアは何も言わない。それは、無言の肯定だった。絶対に勝てないかどうかは横に置くとしても、九紋京香という女が化物のような実力を有しているのは認めざるを得ない。
そして問題は、その女を生んだのが、ここ日本という国であることだ。
「日本は確かに平和ボケしてるが――それでもアジアの中で、この国が最も脅威的なのは間違いねえよ。まあ長い歴史を誇っているだけあって、独自の体系で進化した技術や組織が残ってやがる。数百年前に比べりゃあ退魔の力も衰えているかと思ったが、そうでもねえようだし?」
ミカヤは、脳裏に一人の男を思い描いた。
金色の髪が特徴的な、紳士を装った男だ。復讐に駆られた愚かな鬼。せっかくミカヤが手を貸してやったというのに、青天宮の組織力を計るための当て馬にしたというのに、あっさりと死んでしまった。
「相変わらずやりづれえ国だぜ。隙だらけのくせに、肝心なところはしっかりとガードしてやがる。おまけに戦力を保有しねえとか吹聴してるくせに、専守防衛を基本に置くはずの自衛隊は強力ときた」
そう。
日本は油断のならない国である。
まず防衛を任とするはずの自衛隊が、すでに高い戦力を有している。
確かに日本は戦争をしない。だから実戦を繰り返す国の方が強いのではないか、と思われるが、実際は違うのだ。戦争を数多くこなしている国は、それだけ優秀な精鋭部隊を死なせているという側面も持つからだ。
加えて、この極東の島国は、世界的に見ても、長く深い歴史を持つ。これだけ一つの民族が続いた国も珍しいだろう。つまり、連綿と受け継がれてきたものが数多く残っている。その一つが、陰陽師を始めとした退魔の者達だろう。
もっとも。
アリシアにとって、日本のことなど関係なかった。
「――そんなものは知らないわよ。私はただ、九紋の小娘をぶち殺したいがために日本へ来たのだから」
「勇ましいことだねえ。でも残念ながら、あの女の行方はオレ様にも分かんねえよ」
「分からないって――じゃあどうして私を呼んだの? 九紋の小娘を見つけたら連絡して、と言っておいたでしょう。それ以外で呼ばないでよ。飛行機代、ちゃんと返しなさいよね」
「まあ落ち着けや。粗大ゴミを捨てちまったせいで、手が足りてねえのよ。協力しろ」
「……先に死ぬ?」
「遠慮するわ。てめえとは闘り合いたくねえし」
不満げに頬を膨らませるアリシアと、金色の瞳を愉しげに歪めるミカヤ。
「……まあ、いいわ。どうせ暇を持て余していたところだったし」
重いため息をつくアリシアは、いかにも胃を痛めているように見えた。いや、実際に痛いのだろう。ミカヤと一緒にいることは、すなわちストレスを蓄積するのと同義だからだ。
「さっすがアル坊、話が分かんじゃねえか。んじゃあ、まあ――行きますか」
帽子を深く被りなおして、ミカヤが立ち上がる。
「行くって、どこに?」
「決めていません――と昨日までのボクなら言ったでしょうが、今は違います。実はですねぇ――」
掴みどころのない茫洋とした笑みを浮かべながら、ミカヤは悪戯小僧のような口ぶりだった。
どうせ《白い狼》と、通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の娘には、しばらく手が出せないのだ。ならば時が満ちるまで、愉しく遊ぶのがよろしかろう。
目的はない――という無計画で無軌道な方針こそが、ミカヤの目的。
とりあえず今は、水面下で情報収集に徹するのが先決だろう。
「はぁ……またあなたに振り回されるのね。そろそろ胃に穴が空きそうだわ」
椅子から腰を上げたアリシアは、白髪を鬱陶しそうにかき上げたあと、恨めしそうな目でミカヤを見つめた。
「まあまあ、そう文句は言わないでくださいよ。観光とでも思えば悪くないでしょう?」
「どうかしら。……ちなみに聞くけれど、殺人は有り?」
「そうですね、一つの街につき三人までならば許可しましょう。それ以上は、どこぞのロリで老けた方に気付かれる可能性があるので駄目です」
「……まあ、それが妥当でしょうね。私としても、キルヒアイゼンの当主様とは相見えたくないし」
「さすがアリシアですねぇ。あのロリババア――じゃなくて、ストーカー紛いのお年寄りに追い回されているボクの気苦労をご理解いただけているようだ」
ミカヤは、気だるそうにデニムのポケットに手を突っ込みながら。
アリシアは、それに付き添うように歩き出しながら。
オープンテラスの片隅から、その二人が消えたことに気付いた者は誰もいなかった。ただ無人になった二つのテーブルの上に、亀裂の入ったコーヒーカップなどが並んでいるだけである。
そうして。
ミカヤとアリシア・アーレンスは、日本の地で動き出したのだった。