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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
幕間の話
78/87

其の二 『狼少女の本音』




 その日の夜。

 すでに太陽は沈んでしまい、あたりはすっかりと暗くなっていた。しかし完全な暗闇というわけじゃない。自然公園の中には、等間隔に設置された街灯が無数にあるし、何より天空には夜気を切り裂くような光を放つ月が出ている。

 俺とニノが腰掛けているのは、子供達が遊んでいた広場から少しだけ離れた場所にあるベンチだった。周囲には都合よく大木が生えていたりして、わりと目立たない位置にある。昼間ならともかく夜間ともなると人から忘れ去られそうな、そんなベンチ。

 周囲に人の姿は見られないものの、まったくの静寂でもなかった。遠くのほうからは車の走行音やクラクションが響いてくるし、たまに犬の鳴き声とかも聞こえる。

 この自然公園は、散歩やランニングのコースとしても優れている。地面はセラミックブロックによって舗装されているし、豊富な緑が目を楽しませてもくれるし、何より敷地面積が広大だ。ゆえにこの時間、公園内を犬などを連れて散策する人間も少なくないのだ。そういった連中のおかげで、公園は全き沈黙に落ちることを免れていた。

 とりあえずは暖を取ったほうがいいなと思い、汗をかいたことによって寒そうにするニノに温かい缶コーヒーを買ってやった。もちろん本人は素っ気無くお礼を言うだけだった。もちろん獣耳は嬉しそうにピコピコ動いていた。まったくもって、素直じゃない狼少女である。

 昼間はあれだけ暖かかったのだが、さすがに夜間ともなると油断できないらしく、それなりに着込んでいる俺でも肌寒さを感じるほどであった。気温が低いというよりは、風が冷たいと言ったほうが正解。

 今日のニノは、ぴっちりとした黒のシャツと、七分丈の白のパンツという服装だ。全体的にタイトな容貌であり、身体のラインが如実に浮かび上がっている。

 確かに、それはファッション面で見れば、ニノの抜群に優れたプロポーションを強調するという意味でアリだろう。

 しかし様式美と機能美は、女性のファッションにおいて共存することは少ない。

 女という生き物は、夏場でも日焼けしたくないという理由で長袖を着たりするし、冬場であってもスカートを穿いたりして足を出す。その美を追求する志は、純粋に凄いと思う。

 ニノの服装は、男の俺から見ても見事だ。運動に適している上に、見た目だって上品。真珠のように眩い肌も、下品になりすぎない程度に露出していて、健康的な美しさを醸し出している。運動に臨む女性の服装としては、およそ最高だろう。

 だが適度に露出していて、そして動きやすいということは――寒いということでもあるのだ。

 事実、ニノは寒そうに身体を震わせていた。

 彼女の首には白いタオルが巻かれている。マフラー代わりのつもりだろう。ちなみにこのタオルは、ニノが持参していたものだ。

 俺たちは二人、ベンチに腰掛けながら熱い缶コーヒーを啜っていた。


「ところで士狼。いい加減、その……大事な話ってのを聞かせて欲しいんだけど」


 均整の取れた肢体を丸くしながらニノが言った。

 背中を丸めているのは、やはり寒いからか。そういえば獣耳さんも縮こまってる感じだし。

「ああ、分かった。……その前に、ほら」

 これでは落ち着いて話も出来ないだろうと思った俺は、自分が着ていた厚手の上着を脱いで、ニノに羽織らせてやった。

 いくらプロポーションが優れているからと言っても、ニノの身長は平均的な女性のそれである。つまり体格だって、男の俺から見ると、やっぱり小さいのである。

 俺にぴったりだった上着も、ニノにしてみればブカブカだった。

 まあ服が大きすぎるおかげで、ニノの身体を寒気から守ってやることが出来ると考えれば悪くない。

「……ありがと」

 聞こえるか否かの小さな呟き。

 ニノは俺から視線を外しながら、どこか気恥ずかしそうに足を組んでいた。獣耳は、ちょっとだけ元気が出たと代弁するように揺れ動いていた。

「べつにいいって。それより寒くないか?」

「大丈夫よ。まあ正直に言うと、さっきまでは寒かったんだけど」

 羽織った上着の下から腕を出し、俺の上着を大事そうに撫でながら、ニノは続けた。

「今は、とても温かいし」

「そっか。ならよかった」

 二人して顔を見合わせて笑う。

「……ねえ士狼。なんだか懐かしいと思わない?」

「懐かしい?」

 特に懐旧の情をかきたてられなかったので、怪訝に思った俺は問い返してみた。

 すると、なぜか獣耳が怒ったようにピンと尖ってしまった。

「もしかして忘れたの?」

 ニノは俺の顔を覗き込みながら、手に持っている缶コーヒーを軽く振った。

「ああ、もしかして俺たちが初めて会ったときのことか?」

 そうよ、とニノは不機嫌そうに頷いた。

 そういえば――俺とニノが最初に出会ったのも、この自然公園だった。子供に混じってサッカーをするニノが気になって、なんとなく話してみたいと思ったのが始まりだったっけ。

 あのときも今と同じように、ベンチに並んで腰掛けながら、温かい缶コーヒーを飲んでいた。

 当時は互いの名も知らなかったし、距離感だって掴めなかった。

 でも。

 今ベンチに並んで座っている俺たちの距離は――物理的にも、精神的にも――あのときよりずっと近い。

 もう俺とニノは他人じゃない。暦荘という一つの家に住む仲間だ。

「そりゃ憶えてるよ。むしろ忘れるわけがない」

「本当に?」

「ああ」

 それは嘘じゃない。

 自分のことを人間じゃない、とか言い出すいたいけな少女Bとして強く印象に残っている。

「あのときは想像もつかなかったよな。まさか俺たちがこんな関係になるなんて」

「そうね。まさか相思相愛になるなんて、思いも寄らなかった」

「……おいニノ。勝手に捏造すんじゃねえよ」

「ふっ、それはどうかしら。捏造かどうかは――分からないわよ?」

「分かるわ! おまえが相手にしてんのは、どこの誰だよ!?」

「そんなの士狼に決まってるじゃない。大丈夫?」

 きょとん、と首を傾げるニノ。

 なんだか俺一人がバカに仕立て上げられてしまったみたいでイヤだった。

 というか、俺はこんな無駄話をするためにニノを引き止めたんじゃないんだ。

 時間の浪費は、基本的にマイナスの結果しか招かない。ゆえに時間を有効に使うことこそが、プラスの結果を引き寄せることに繋がる。

 例えば、この現場――夜の自然公園でニノと二人っきり――を暦荘の連中に見られてみろ。間違いなく周防あたりが先導して、アホみたいな事情聴取が始まるに決まってる。そんなマイナスの事態だけは避けたい。

 つまり手っ取り早く必要な話を済ませて、暦荘へと帰るのが吉。

 それに――ニノは人狼だが、同時に女でもある。身体を冷やすのはよくないだろう。なるべく早く話を切り上げたほうがいいと俺は思う。

 しばらく世間話を交わしたあと、適当な話題が尽きたタイミングを見計らう。

 一瞬の静寂を狙い、新たな話題を滑り込ませた。

「なあニノ。そろそろ大事な話、してもいいか?」

 ピョコっ、と獣耳が跳ねる。

 ……前々から思っていたが、俺の言葉に反応して獣耳が動くと、実はちょっと嬉しかったりする。なんと言うか、猫に呼びかけてみたら近寄ってきてくれたみたいな感じ。人間という生き物は、誰だって自分の行動にリアクションを返してくれると嬉しいものなのだ。

「っ――ちょっと待ってっ、ちょっと待ってね?」

 ニノは後ろを向き、すーはーと深呼吸を繰り返した。

「……もういいか?」

「うん、オッケーよ。いつでもどうぞ。あっ、でも無理やりとかは止めてね? まあ初めてが野外――ぐらいは許してもいいけど、せめてシャワーは浴びたいから」

「思春期に突入したばかりの中学生みたいな思考だな……」

「自分に正直って言ってよね。それより、もう心の準備は出来たから」

 いつでもいいわよ、とニノは続けた。

「まあ、じゃあそろそろ――」

 真面目な話になると予感していた俺は、まずは形からだなと思い、しっかりと座りなおそうと腰を上げた。そして、深くベンチに座りなおして足を組む――つもりだった。

 しかし、ニノは何を勘違いしたのか。

「――や、やっぱり、ちょっと待って――!」

 顔を真っ赤にして、両腕で自分の体をかき抱いて、俺から距離を取ってしまった。

 まさか襲われるとでも思ったんだろうか?

「……おまえ何してんの?」

「何って――さすがにシャワーぐらいは浴びたいなぁ、なんて思ったりしたんだけど。ダメ?」

「ダメもなにも、そもそも俺はおまえに何かをするつもりはねえよ」

 ため息混じりに言ってやると、ニノは安心したような落胆したような、とにかく複雑そうな顔をした。

「えっ? じゃあ士狼は何がしたいわけ?」

「普通に話がしたいだけに決まってるだろうが。それ以上でも以下でもねえよ」

「……ふん、まあそんなの初めから分かってたけどね」

「嘘つけや!」

 急に不遜な態度になったニノは、足と腕を組んでベンチに深く腰掛けた。

 あれだけ元気に跳ね回っていた獣耳は、いまや寒さに震えるウサギのごとく丸まっている。ちょっと可哀想であった。

「それで用件は?」

「いきなり素っ気無くなったな、おまえ」

 そりゃあね、とニノは唇を尖らせながら呟く。

「……まあいいか。ところでニノ、もう一度確認しておきたいんだが、べつに姫神のことを嫌ってるわけじゃないんだよな?」

「またその話? 昼間も答えたと思うけど、ちーちゃんを嫌ってるわけじゃないわ。むしろ感謝してるぐらい」

「だよな。それはおまえら二人を見てれば分かるんだが」

 とにかく、これで姫神の懸念は気のせいだと分かった。まあ元より心配はしてなかったけど。だってニノが意味もなく他人を嫌ったりするはずないし。

「じゃあニノ――こんなことを俺が聞くのもおかしいと思うが、どうして姫神の部屋に遊びに行ってやらないんだ? あいつ、寂しがってたぜ」

 その瞬間、あれだけ丸まっていた獣耳がピョコと起立した。

「そ、そう? ちーちゃん、寂しがってた?」

「ああ、めちゃくちゃ悲しそうだった。あんな姫神は久しぶりに見たよ」

 例えるなら、行方不明になったペットを探す女の子、って感じか。もちろん、それはニノである。

「……ふーん、そうなんだ。ちーちゃん、寂しがってたんだ」

 気がなさそうに呟くニノだが、その獣耳は嬉しそうに揺れている。

「まあ――そこまで言うなら、近いうちに遊びに行ってあげてもいいかな」

「そうしてやってくれ」

「オッケー。じゃあ、これで話は終わりよね? それが大事な話だったんでしょ?」

「――いいや、ここからが大事な話だ」

 腰を上げかけたニノを制する。

 どこか帰りたそうにするニノは、もしかしたら無意識のうちに悟ったのかもしれなかった。これから展開する話は、あまり自分にとっていいものではない、と。

「……なによ士狼。これ以上、まだ何かあるっていうの? あっ、もしかして今から夜の街に遊びに行こうとか、そういう誘い? それだったら――」

「――おまえさ」

 遮った。

「まだこころのこと――引きずってんのか?」

 果たして、息を飲んだのは誰だったか。

 空気が凍ったような錯覚。それは張り詰めた緊張か、もしくは単純に寒気のせいか。きっとどちらでもあるだろうし、どちらでもないだろう。

 横目にニノを観察する。

 腰まで流した赤い長髪――それは肩や胸元まで広がっていた。その長さに比例するように、ニノの前髪もそれなりに長い。だからニノが俯けば、ちょうど瞳は隠れてしまう。

 目とは、最も感情を訴えかける部位である。目が見えないと、相手が浮かべている感情の大部分が掴めない。だから口元を隠すよりも、目元を隠したほうが変装という意味では利口だ。事実、ヨーロッパなどで開かれる仮面舞踏会などでは、簡単な変装道具として目元を隠すドミノマスクを用いる。

 よく見れば。

 ニノは何かに耐えるように唇を噛んでいた。

「……そうね、引きずってない、と言えば嘘になるかも」

 ふう、と深く呼気を吐き出しながら、ニノは前髪をかき上げた。

「あの子とせっかく仲良くなれたのに、ってね。エゴだとしても、そう考えちゃうこともあるわ。

 それに、ウチは一人っ子だったから、妹とか弟に憧れたこともあった。だからこころと一緒にいると、本当の妹が出来たみたいで嬉しかったの。もちろん口には出さないけどね」

 妹や弟に憧れていた――そうニノは言う。

 もしかすると、それが子供好きの原因の一つなのかもしれない。

「口には出さないって――めっちゃ口に出してるじゃねえか」

「ううん、士狼になら聞かれてもいい。だって、士狼には隠し事ができないみたいだしね。いつもウチの考えてること見破ってくるし。もしかして心とか読めたりする?」

「そうだな。生憎と心は読めないが、耳なら見ることが出来る」

「……? 耳を見ることが出来るって、そんなの当たり前――はっ!? こ、この変態っ!」

 新たな電波でも受信したのか、慌てて立ち上がったニノは、中身の残ったコーヒー缶をベンチに置いたあと、両手で自分の耳を隠してしまった。

 それはどこか、パンツを見られないようにとスカートを押さえる女子高生に似ていた。

「はあ? 突然どうしたんだよ」

「しらばっくれてもダメよ! 士狼って女に興味なさそうな顔してるくせに、人の耳をジロジロ視姦して……見損なったわ!」

「…………」

「前にも言ったと思うけど、人狼の女の子にとってこの耳は命と同じぐらい大切なのよ? 人間の女性は、胸の大きさやお尻の形がステイタスになるけど、人狼の女の子は、そこに耳の形やツヤ、そして触り心地なんかが加わってくるわけ。分かる?」

 本当に突然のことではあるが、獣耳講座が始まってしまったようだ。

 心なしか活き活きとした顔で、ニノは言う。

「だから人狼の女性の耳をジロジロ見るのは、この上なくいやらしいことなの。ブラウスの隙間から胸を見ようとするとか、ミニスカートの隙を狙って下着を見ようとするとか、露出した素足に触れようとするとか、そういうレベルのいやらしさよ。だから、いくら士狼と言えども、許可もなくウチの耳を見たり触ったりすることは許さないわ」

「ふーん、じゃあ許可を取ったらいいってことか? 例えば俺が、おまえの耳をずっと見てていいか、とか、おまえの耳に触りたいんだけど、とか言ったらどうなるんだ?」

 純粋な好奇心から聞いてみたのだが、どうしてかニノの頬に朱が差した。

「……ねえ士狼」

 急にしおらしくなったニノは、両手を豊満な胸に添えながら、上目遣いで俺を見た。

 おかしい。

 一体どうしたってんだ、こいつは。

「……さっき士狼が言ってくれた言葉――実はウチのパパが、ママに向けたプロポーズの言葉と、まったく同じなんだけど……」

「…………」

 なんだこれ。

 ひょっとして新手のトラップなのか。

 どうして先の言葉がプロポーズになるんだ? 人狼と人間の価値観には、やっぱり多少のズレがあるんだろうか?

 そう言えば、つい最近雪菜に「おまえの手料理を毎日食いたい」って言ったら、それをプロポーズだと誤解しやがったよな、あいつ。

 つまり人間にとっての手料理が、人狼にとっての獣耳だと置き換えたとすると。

 おまえの耳をずっと見ていたい――という何の意味もなさそうな台詞は、遠まわしのプロポーズになってしまうのではないか。うわー、人狼さんマジぱないなー。

 ……駄目だ、落ち着け宗谷士狼。なに雪菜みたいなこと言ってんだよ、おまえは。あいつに影響されちまったらジエンドじゃないか。

「あぁ、そういう意味で言ったんじゃないから」

「……そうよね。うん、それは分かってる。ごめん」

 調子が狂う。

 普段のニノならば、紛らわしい、とか文句を言いそうなものなのに。どうして、こんなにしおらしいんだ。

 頬を薄紅に染めて、ずっと俺の足元あたりを見ながら所在なさげに佇む姿は、どこまでも弱々しくて守ってやりたくなる。

 ニノ=ヘルシングという少女は、基本的に他者に弱みを見せようとしない。それどころか誰かの世話を焼いたり、お姉ちゃん風を吹かしたりするのが大好きな女だ。だからニノは、いつも強気だし、自信に満ち溢れているのである。

 しかし、どうしたことか。

 今のニノは――まるで『強がり』という仮面を外したみたいに、ありのままの姿だ。恋する女の子みたいな顔。狼の名を冠する種族であるのに、その佇まいは強風によって脅かされる白百合のように頼りない。

 沈黙が続く。

 探り合うような、それでいて照れくさい空気が流れる。

 死語を承知で言わせてもらうなら――甘々な空気ってやつだ。

 普段は気の強いニノだからこそ、たおやかな姿を不意に見せられると、どうしていいか分からなくなる。

「なあニノ。おまえの耳、どうせなら近くで見せてくれよ」

 ベンチに座っている俺とは対照的に、ニノは両手で獣耳を隠しながら気恥ずかしそうに佇立している。

「……まあ、士狼がどうしても見たいって言うなら、やぶさかでもないけど」

「どうしても見たい。他の誰でもなく、おまえの耳が見たいんだ」

 こんな口説き文句を口にした男は、きっと世界でも俺一人だけだろう。まあ口説いてはいないが。

 ニノはしばらく躊躇っていたようだったが、やがて意を決したのか、両手を頭頂部から退けた。すると獣耳さんがピョコと姿を見せた。恐らくは緊張しているのだろう。心なしかピンと尖っている気がする。

「……言っとくけど、これは仕方なくなんだからね? 士狼がどうしても見たいっていうから、仕方なく近くで見せてあげるだけなんだからね?」

 ニノは唇を尖らせながら、早口でそんなことを言った。

「はいはい、勘違いはしねえよ」

「そうよ。べつに士狼だからこそお願いを聞いてあげるとか、もっと士狼に耳を見てほしいなぁとか、また士狼に耳を触られたいなぁとか、これっぽっちも思ってないんだからね」

「…………」

 ……リアクションに困る!

 とか何とか考えている間に、ニノは不安が滲み出たような頼りない足取りで移動した。それは大いに構わないのだが、ニノの臀部が着弾した場所は――何を隠そう俺の膝の間だった。だから他人事じゃない。

 ニノが強引に割り込んできたことにより、俺は足を大股に開くこととなった。そして、その大きく空いたスペースに狼少女は腰を下ろしたのである。

 いつかと同じだ。

 俺が初めてニノの耳を触ったときも、今と似たような体勢だった。わざと背中を向けるような体勢。ちょうど互いの顔が見えない体勢。……もしかすると、これはニノなりの照れ隠しなのかもしれない。

 もう一度言うが、ニノが座っているのは俺の膝の間だ。だから物理的な距離がとてつもなく近い。ほとんど密着している、と言っても過言じゃない。この光景を暦荘の連中に見られてしまったら、どんな冷やかしを受けるか分からない。

 ニノが身じろぎするたびに、言葉では言い表せないような甘い匂いがする。シャンプーとリンスと汗と、そしてニノ自身の匂いが混じったような芳香。思わず吸気を多くしてしまう。

 プロポーションこそ抜群だが、ニノの体格は平均の域を出ない。だから男の俺と比べると、どうしてもニノは小さく映ってしまう。このまま背後から強く抱きしめれば、壊れてしまうんじゃないかと思うほどに。

 しかし――予想通りだ。

 ニノに耳の話題を振れば、いずれこういう体勢になると思っていた。

 互いの顔が見えない――いや、ニノの顔が見えなくなる体勢に。

「さあ、これならちゃんと耳が見えるでしょ? 士狼の好きなだけ見たらいいじゃない」

「ありがとうな、ニノ。じゃあ遠慮なく見るよ」

 そう宣言すると、同時に獣耳がピンと尖った。

「……ふん。虜になっても知らないからね」

 ほとんど捨て台詞みたいだった。

 ニノは腕を組み、背筋を真っ直ぐに伸ばしている。それは、どっしりと構えている、と言えば聞こえはいいが、その実は緊張に身体を固くしているだけのような気がした。

 俺たちは暦荘という一つの家で暮らしているが、ニノの獣耳をじっくりと鑑賞できる機会というのはあまりない。だから、こういうチャンスは貴重なのだ。

 俺の視線を意識しているのか、やたらと獣耳がピコピコしている。

 ……それにしても、見れば見るほど不思議に思うな。一体どういう原理で動いているんだ。ひょっとしてあれかな、犬の尻尾とかと同じ仕組みだったりして。よし、今度大家さんに聞いてみよう。あの人は、犬や猫についても詳しいからな。よく餌とかあげてるし。

「……ねえ士狼。触ったり、しないの?」

 ずっと獣耳を観察していると、ニノが訥々(とつとつ)と呟いた。

「触ってもいいのか?」

「そんなのダメに決まってるでしょ。……で、でもまあ? なんだか士狼がウチの耳を触りたそうな顔してるし、どうしてもって言うなら触らせてあげてもいいわよ?」

「うーん、まあ触りたいのは山々だが、おまえに嫌々触らせてもらっても意味ねえし。止めとくわ」

 その瞬間のこと。

 俺の眼前でピコピコと楽しそうに揺れていた獣耳が、しょぼん、と音を立てそうな勢いで垂れ下がってしまった。

「いや――やっぱ触らせてもらおっかなぁ」

 その瞬間のこと。

 赤い髪に埋もれるぐらいペタンと倒れていた獣耳が、ピョコっ、と軽快な音を立てて起立した。

「でも無理やりってのは俺の趣味じゃないし、止めとこうかなぁ」

 その瞬間のこと。

 存在をアピールするようにピコピコと左右に揺れていた獣耳が、しょぼん、と哀愁を漂わせながら垂れ下がってしまった。

 ……やばい。

 なんだこれ、めちゃくちゃ面白い。

 未知の生物を相手にしているような感覚――というのも失礼な話だが、違うと言い切れないあたりが油断のならない獣耳さんである。

「……触らないの?」

 ニノが肩越しに俺を見る。

「触っていいのか?」

「ダメよ、そんなの絶対にダメ。人狼の女の子が、自分の耳を異性に触らせるってことは、その異性のことを愛してると見て間違いないの。だから、ウチの耳を簡単に触るのは許さないわ」

「じゃあ触るかどうか聞くなよ……」

 発言が矛盾しまくりじゃねえか。対処に困るわ。

「でもね士狼。人狼の女の子には、たまにどうしても耳を触ってもらいたくなる時があるのよ」

「へえ、そうなのか」

「そして偶然にも、そのどうしても耳を触って欲しい時が、なんと今この瞬間だったりするわけ」

「――嘘つけや! そんな都合のいい種族があってたまるか!」

 ニノは背中を向けたまま、小さく舌打ちをした。見破られたか、とでも言いたげに。

 これまでの暴力に満ちた時間からは考えられないような、楽しくて安らぐ時間。俺とニノは、獣耳を触るか触らないか――そんな取り留めのない会話を飽きることなく続けていた。きっとはたから見る俺たちは、たぶん友達以上には見えると思う。なにせ俺がニノを後ろから抱きしめるような体勢なんだし。

 すでに夜は深く、もう20時は回っている。公園内からも、少しずつではあるが人の気配が減ってきた。

 周囲は閑散とし、ひたすらに物静かだ。しかし今は、その静寂が心地よかった。

「……なあ、ニノ」

 ここには俺たちしかいない。

 広場で遊んでいた子供たちは家に帰り、犬の散歩やランニングをしていた連中も姿を見ない。

 だから、そろそろいいだろうと思った。

「なによ。もう耳を触りたいとか言っても、触らせてあげないんだからね」

 獣耳をピンと尖らせるニノは、どうやらご機嫌斜めのようだった。ちょっとからかい過ぎたらしい。

「そうか。そりゃあ残念だ」

「……本当に残念だと思う? やっぱりニノの耳が触りたかったーって、士狼は思うのね?」

「まあ思わないでもないな。だって、おまえの耳って宇宙一可愛いし」

「――さすが士狼ね。どこぞのへっぽこ吸血鬼とは大違い。まあウチの耳って、可愛いとか綺麗とか美しいとかツヤがあるとか形がいいとか、そんな次元を遥かに超えて、最早”高貴・・”ってレベルにまで――――」

 自慢げに語っていたニノは、そこで唐突に言葉を止めた。

「……おい?」

 怪訝に思って声をかけてみるも、ニノは返答をよこさずに黙っているだけだった。

 俺の位置だとニノの背中しか見えず、その表情は伺えない。

 一体どうしたってんだ――とは思わない。

 だって獣耳が、とても悲しそうに垂れ下がっていたから。

 あの悲痛な動きには見覚えがある。それも、つい最近見た。

 夕焼け。逢魔刻。暦荘の階下。忌野に手を引かれるこころ。そして、それを見送るニノの獣耳が――ちょうど今と同じような動きをしていた。

「……こころ」

 小さな――本当に小さな、蚊の鳴くような声で、ニノは一人の少女を呼んだ。

 もしかすると、さっきの言葉が――


 ――まあウチの耳って、可愛いとか綺麗とか美しいとかツヤがあるとか形がいいとか、そんな次元を遥かに超えて、最早”高貴”ってレベルにまで――


 ニノには、俺たちの誰よりもこころとの思い出があった。

 こころが暦荘を去るまで、二人は一緒に寝ていたぐらいだ。当然、俺の知らない会話も数多く交わされただろう。とすると、先の言葉が、ニノにとってこころとの過去を思い出すきっかけだったのかもしれない。

「なあ、ニノ」

 この狼少女が高貴と言ったなら、俺は好機だと言おう。

 翔太の想いを――無駄にしちゃいけない。

「悲しいよな。大好きなやつと別れちまったら、悲しいよな」

 ニノは何も言わなかった。

 ただ背を向けて、俯きがちに足元を見ているだけ。

「俺にはさ、おまえの気持ちが分かるんだよ」

 なぜなら俺も、二度に渡って体験してきたからだ。親しい人間との別れを。

 一つの家族を失い、絶望して、一つの家族を見つけて、また絶望した――そして最後に、もう一度だけ家族を見つけた。それが暦荘の連中だ。

 ニノも同様――こいつは両親を失い、妹のように可愛がっていたこころとも別れた。

 かつてニノは、他人から同情されるのが大嫌いだと言った。自分の痛みは自分にしか分からないのに、どうして分かったようなことを言われなければならないんだと。

 しかし今の俺ならば、ニノの痛みを理解できる。

 ――同情してやることが出来るのだ。

「おまえはさ、いい女だよ。いつだって自分じゃなくて、周りの人間のことを考えてる。その証拠に、なんだかんだ言ってシャルロットを可愛がってるし、癖の強い姫神や雪菜とだって上手くやれてる。それは協調性がなけりゃ出来ないことだ」

「…………」

「近所に住む子供たちにだって懐かれてるよな。翔太も言ってたぜ、みんなニノ姉ちゃんのことが大好きだって。つまり、おまえは誰からも好かれてるってわけだ。まさしく”お姉ちゃん”って感じだよ。でもその代わり、おまえは一人で何でも抱え込んじまう。……だからよ」

 俺は、言った。

「俺ぐらいには――甘えてもいいんだ。愚痴を言いたくなったら言えばいいし、泣きたくなったら泣きついてくれればいいし、壁にぶち当たったら相談してくれればいい。いつだって手を貸してやるから」

「……反則よ」

 と。

「……そんなの、殺し文句じゃない」

 表情は伺えないが――なんとなくニノが笑ったような気がした。

 次の瞬間、ニノが全身の力を一気に抜いた。真っ直ぐに伸びていた背筋は丸くなり、支える力のなくなった身体は後ろに倒れようとする。元々ニノが座っていたのは、俺の股の間。

 つまり必然的に、俺たちは密着することになってしまった。

 心地よい重みが両手の中にある。本能的に抱きしめたくなってしまったが、べつに恋人同士でもないし止めておいた。

「ウチ――士狼のことが好きよ」

「……知ってるよ」

 むしろ気付かないほうがおかしい。

 いつだってニノは、不器用ながら、それでいて積極的に好意をアピールしてきてくれたから。

「そう――士狼のことが好きなの。愛してるって言ってもいいぐらい。でもね、なにも初めから士狼が好きだったわけじゃないのよね」

 俺にもたれかかりながら、ニノは続けた。

「最初に出会ったときから、この人なんか違うなぁ、とは思ってた。でもそれだけなの。べつに一目惚れしたわけじゃなかったしね。ミカヤの件で命を救われたときも、暦荘に住むことが決まったときも、まだ士狼が好きってわけじゃなかった。もちろん最初から気にはなってたし、暦荘でパーティを開いたときには、もうほとんど好きになってたけどね。

 でもね、そのときはまだ引き返せる想いだった。士狼に告白して、そしてフラれたら、思いっきり泣いたあとに、よしまた次の運命の出会いを待とうかなって立ち直れる程度には、弱くて小さな想いだったわ。

 それが、いつからか――暇さえあれば士狼を目で追ってる自分がいて、士狼が見ている前では無駄に可愛らしい格好をする自分がいて、士狼が他の女の子と話しているだけで悲しくなる自分がいることに気付いた。そして、ずっとずっと士狼と一緒にいたい、この人と結ばれたい、この人の子供を生みたい――そう考えるようになってたんだ。

 士狼は女に優しいからね。もしかすると、その優しさに引っかかっちゃっただけの勘違い女なのかもしれないけど、それでも士狼のことが大好きになった。日常で見せるさりげない気遣いとか、シャルロットのことをバカにしてるように見えて可愛がってるところとか、ぶつくさと文句を言いながらも困ってる人を助けてあげるところとか。士狼って、見てて飽きないのよね。……ううん、好きだからこそ、見てて飽きないのかな」

 長々と喋り終えたニノは、ふう、と深く息を吐いた。

「……そっか」

 それだけしか言えなかった。

 それだけしか言えない自分が――もどかしかった。

 俺だってニノが好きだ。しかし、それは家族へ向ける愛情であって、男が女に抱く愛情じゃない。もちろん今後、その愛情が変化することもあるだろうが、少なくとも今は違う。

 半端な気持ちのまま相手の想いを受け入れるのは――残酷だ。

 俺が曖昧な返事をしたせいか、獣耳が少しだけ元気を無くした。

「……士狼は優しいと思うわ。今日だって、ウチを慰めてくれようとしたし。でも生憎と、もうこころのことは引きずってないの」

「本当か? だっておまえ、この間――」

 言いかけて口を噤む。

 ニノが泣いていた――この事実は、絶対に切っちゃいけないカードだ。俺が口を滑らすことは、イコールで翔太が告げ口をしたという事実に繋がるから。

「うん、泣いてたわよ。こころと離れ離れになったことが寂しくて。気付けばベンチに座って、一人で涙なんか流してた」

 俺は驚いた。

 他者に弱みを見せようとしないニノが――まさか自分から”泣いていた”と告白するとは思わなかったから。

「本音を言うと、ついさっき――ちょうど十分ぐらい前までは、こころのことを引きずってたかな。でも吹っ切れた。どうしてだと思う?」

 肩越しに視線を向けてくる狼少女は、俺に見えるように瑞々しい唇を笑みの形にした。

「さあ、俺には分かんねえな」

「――だって士狼が言ってくれたんじゃない。俺に甘えてもいい、って。……あれ、完全に殺し文句よ」

 白磁のような肌を薄っすらと上気させて、ニノは妖艶に微笑んだ。それは男ならば一発で骨抜きにされてしまいそうなほど魅力的で、同時に、男の情欲を勢いよく燃え立たせそうなほど蟲惑的だった。

 ニノが身体を強く寄せてくる。それによって、柔らかな女の肌や、女性特有の甘い匂いが、より感じられるようになった。

「悪いけど――もう火が着いちゃったみたい。なんだか熱くなってきちゃった」

 ニノは身体を横向きにして、わざとらしく胸を押し付けてくる。

「……抱いてほしいな」

 そう言って、俺の胸元に顔を埋める。

「抱いてって――おまえ、自分がなに言ってるか分かってんのか?」

「当たり前よ。ただ身体を抱きしめ合うだけじゃなくて、もっと特別なことをしようって言ってるのよ」

「はぁ……前々から思ってたが、おまえって思春期の中学生みたいな思考回路だよな」

 もはや怒りさえ沸いてくる。もっと自分の身体を大切にすればいいのに。

「それに、おまえ経験ないだろう。だから初めてぐらい――」

「――これは冗談じゃないの。ウチは本気よ」

 見上げてくるニノの瞳は――確かに真剣そのものだった。

「士狼が知っての通り、ウチはまだ男の人をこれっぽっちも知らないわ。だからこそ、初体験は大好きな人とロマンチックに――そう夢見ることもある。こう見えても、女の子だしね」

「だったら、軽率なこと言うなよ。両親から貰った大切な身体だろうが」

「正論ね――もしもウチが一般人の女の子だったら、だけど」

 どこか儚げな声で、ニノは続ける。

「死と暴力が隣り合わせの裏社会――そこに身を置く以上、どんなに優れた能力を持っていたとしても、必ず危険は付きまとうわ。もしかしたら捕虜にされちゃうかもしれないし、最悪殺されることだってあるでしょう。……ねえ士狼、捕虜が女だった場合、どんな扱いを受けるか知ってる?」

「……まあな」

 かつて俺が海の向こうにいた頃にも、似たようなことがあった。

 捕虜にされた女の末路は――悲惨だ。正規兵に捕まるならともかく、武装した麻薬密売組織やら傭兵崩れのならず者に捕まった場合、言葉にするのも躊躇われるぐらい残酷な扱いを受けることになる。それがニノほど美しい少女だったのなら、殊更酷い扱いを受けるだろう。

 確かにジュネーブ条約によって、捕虜の人権は保障されている。が、捕虜として保護されるには正規の軍人か、それに準じた地位を持つことが前提。つまりニノが捕虜にされても、ほぼ間違いなく人権は保障されない。

「だから――せめて初めては士狼に貰ってほしいの。この先なにがあるか分からないしね。ただ、後悔だけはしたくないから」

 そう呟いて。

 ニノは瞳を閉じながら――ゆっくりと顔を寄せてくる。

「恋人にしてくれなくてもいい。でも、今晩だけ――愛して」

 すでに唇と唇の距離は数センチしかなかった。

 夢見るように目を瞑って――赤くなった頬を隠そうともせず。

 ニノの顔立ちは、間近で見ても粗を感じさせなかった。肌は透けるように白く、唇は艶があって瑞々しく輝いている。眉は見事な弓形を描いており、目は綺麗に線の入った切れ長気味の二重瞼。そして、その美しい瞳に憂いを湛えようとするかのように、漆黒の睫毛が陰を落としている。

 人形のように整った顔――という比喩が思い浮かんだ。もしも命を吹き込まれ、豊かな感情に目覚めた人形が存在するのなら、それこそがニノに違いない。そんなバカみたいなことを考えてしまうぐらい、この狼少女は美しかった。

 それに加えて、なんとも反則なことに、ニノは顔だけじゃなくて身体も恵まれている。どんな服を着ても隠し切ることの出来ない豊満な乳房は、およそ無駄な贅肉が見受けられない細い腰のせいで、余計に大きく見えた。細長くも適度に筋肉のついた足は、きっと女性の理想だろう。全体的に細身、それでいて肉付きがいいという矛盾を乗り越えた身体。

 特筆すべきは――やはり頭部に生えた獣耳か。夕日のように鮮烈な紅に染まった髪にアクセントを加えるようにして、それはピョコと生えている。ニノは大人っぽい容姿で、蟲惑的な顔立ちをしている。だからこそ、可愛らしい小動物のようにピコピコと動く獣耳は、一種のギャップを生んで微笑ましく映る。

 ニノ=ヘルシングという少女は、きっと暦荘の少女達の中でも、ときびり男受けがいいだろう。シャルロットはやや子供っぽさが残っているし、雪菜は和服を着ているせいか気品がありすぎて近寄りがたいし、姫神はいつだって無駄な威圧感を放ってやがるし。

 それらを踏まえた上で現実を見よう。

 俺の腕の中にいて、そして身体を委ねようとしている女は――何を隠そうニノ=ヘルシングなのだ。

 大抵の男ならば、この状況を喜んで受け入れると思う。むしろ恋人になりたいのは男の方で、一夜限りでもいいから相手をしてほしい、そうニノに願うはずだ。

 もちろん、それは。

「――分かった、抱いてやるよ」

 この俺だって例外じゃない。

「え? ――きゃあ!」

 不意をつかれたからだろう、ニノの口からは何とも可愛らしい悲鳴が漏れた。

 俺はニノの腰に腕を回したあと、その身体を一気に持ち上げて、ベンチの上に寝かせた――否、ニノを押し倒した。

 俺が積極的に行動するとは予想外だったのか、ニノは驚きに目を丸くし、緊張に身体を固くし、微かな恐怖に身を震わせている。

 幸いなことに、俺たちが座っているベンチは人目につきにくい位置にある。それに夜も深くなってきたせいか、周辺からは人の気配が完全に消えていた。

「えっ、あっ――士狼っ!?」

「黙れよ、ニノ。人が来ても知らねえぞ」

 耳元で囁くように言うと、小さな身体がビクと震えた。

「これが望みだったんだろ? だったら、もう覚悟は出来てるよな?」

「そ、それは、そうだけど……」

 意地悪く笑いかけてみる。するとニノは、かあ、と頬を赤らめながら視線を逸らした。

 さっきから、ひっきりなしに獣耳が揺れ動いている。それは緊張と恐怖を表しているのかもしれない。

 俺に組み敷かれるような体勢――つまりベンチに寝そべっているのにも関わらず、グラビア雑誌でもまずお目にかかれない豊かな胸は、重力の法則に逆らうように綺麗な形を保っている。

 触れ合った手足からは、ニノの体温と、肌の柔らかさが直接伝わってくる。

 物理的な距離が近すぎるせいか、頭がクラクラするようないい匂いが胸いっぱいに広がっていった。

「……でもね士狼、べつに、いやってわけじゃないんだけど……ここって外だから、人に見られるかもしれないし。それに運動したあとなのに、まだシャワーとかも浴びてないし……」

「関係ねえよ。誰かに見られても構わないし、それにシャワーなんか浴びたらもったいねえだろ」

「……も、もったいないって」

 ニノは、茹蛸のように顔を真っ赤にさせた。

 普段は強がって大人ぶる狼少女も、今となっては一人の女でしかなかった。

「それじゃあニノ――心の準備は出来たか?」

 あえてキザな台詞を選ぶ。男と女が繋がる前に交わす言葉は、多少臭すぎるぐらいで丁度いい。

 自分からお願いしてきたくせに、どうやら覚悟が定まらないらしいニノだったが、生憎と夜は短いのだ、これ以上待っていられない。

「――ちょっと、待って! ホントにちょっとでいいからっ!」

「待たない。もう考えるのは止めよう――いや、違うな。もうつまんねえことを考えられなくしてやるよ、ニノ」

「やっ――士狼ぉ……!」

「俺が、おまえを」

 少しずつ、ゆっくりと顔を近づけていく。

「――大人の女にしてやる」

 唇と唇のあいだに距離は、ほとんど残っていない。

 ニノは薄紅色に上気した頬を隠すように、そして俺から逃れるように、僅かだけ顔を背けた。その背けた角度が数センチのみだったのは――まだ初めての一歩を踏み出す勇気が持てないのだけど、それでも俺に抱かれるのは嫌じゃない――という本心の表れだろう。

 男とは違って、女の初体験には痛みが付きまとう。だからニノが恐れるのも無理はない。

 事実、ニノは未知の何かに耐えるように強く瞼を閉じていた。それはいささか力の入りすぎだったが、キスする女の顔としては最高だ。下手に慣れているよりも、少しぐらい初々しさが残っているほうが男としては興奮するのだ。まあ、ニノの初々しさは”少しぐらい”というレベルではなかったが。

 あれほど類稀な身体能力を持つニノが、人を凌駕する人狼たるニノが――今は、赤ん坊のように小さくなっている。俺の下で、その男好きする身体を震わせて。

 いくらニノが強いとは言っても、こいつは一人の女なのだと――そう見せ付けられているような気がして、自然と興奮が増してくる。

 紅くて瑞々しい唇も、その身体と合わせて微かに震えていた。

 でも躊躇わない。

 躊躇うことはない。

 俺は、ニノの顔に向けて――口付けをしようと唇を近づけていった。

 そして次の瞬間には。


「――なーんてな、驚いたろ」


 俺は茶化すように笑いながら、ニノの身体を開放していた。

「……え?」

 呆けた声。

 ゆっくりと上半身を起こしたニノの視線の先には、すでにベンチに腰掛けた俺がいる。

「バーカ。なにその気になってんだよ。野外で淫行に耽るわけにもいかねえだろ」

「…………」

 ニノは呆然としたまま、自分の前髪を掻き分けて額に触れた。まるで名残を確かめるように。丁度そこは、先ほど俺がキスしてやった箇所だった。

 ――そう、当たり前のことなのだが、俺はニノの唇には一切触れなかった。ただその代わり、ニノの額に口付けしたのだ。

「いい女を自称するなら、自分の身体を簡単に差し出すような真似はするな。それは自分の価値を下げるだけのバカな行為だ」

「……そう。やっぱり、抱いてくれないのね」

 どこか寂しそうに微笑み、ニノはベンチに座り直した。

 結局、俺たちは初めと同じように――二人並んでベンチに腰掛けながら、夜空を見上げる羽目になった。

 よほどショックだったのか、ニノはほとんど無表情のまま月を見上げる。その頭頂部では、獣耳が元気を無くしたと言わんばかりに垂れ下がっていた。

「――勘違いすんなよ、ニノ」

 深く息を吐き出したあと、俺は言った。

「俺がおまえを抱かなかったのは、なにもおまえに女としての魅力がないからじゃない。むしろ、おまえは男にとっちゃご馳走みたいな女だ。現に俺は、据え膳を食わなかった自分を恥じてる」

「……じゃあ、どうして抱いてくれなかったのよ。士狼の好きにしてくれて、よかったのに。何でも、好きなだけ、してあげたのに」

 両腕で自分の身体を抱きしめたニノは、もはや涙を堪えているようにさえ見えた。

 でも。

 これは仕方ないんだ。

「おまえ言ったよな?

 裏社会に生きる以上、今後どうなるか分からない。もしも敵に囚われたら、そして女に生まれたことを後悔するような仕打ちをされたらって。だから初めては、俺にもらってほしいって――そう言ったよな」

「そうよ、言ったわ。……士狼こそ、それが分かっているなら、どうして」

「――分かってるからこそ、だよ。

 いいか、ニノ。おまえは今後、誰にも囚われねえし、誰にも泣かされねえし、誰にも女としての尊厳を傷つけられることはない。だって――」

 不自然に言葉を区切った俺を、どうしたんだろうと不思議そうな目をしてニノが見てくる。

 夜空を見上げていた俺は、なるべく優しげな笑みを浮かべながら振り向いた。

「――俺が、おまえを守ってやるから」

 正直な話、この台詞はキマったな、と俺は内心で思っていた。

 しかしどうしたことか、ニノは幽霊でも目撃したかのように目を見開き、彫像のように固まったまま俺を見つめているだけだった。ドラマのワンシーンを一時停止にすれば、ちょうどこんな絵が出来上がるだろう。

 それから時間にして、恐らく一分はそのままだった。逆に言うと、一分後には変化があったのだ。

 ニノの真珠めいた白肌が、頬の部分から薄っすらと赤くなったと思うと、それが伝染するように顔全体に広がっていった。果ては耳、首、胸元までが紅潮していく。

「…………格好良い」

 ボソ、と囁きに似た声量でニノが口火を切った。

 活気を取り戻したのか、獣耳がピョコと起立したかと思うと、その存在を自己主張するかのごとくピコピコと左右に揺れ始める。

「やっぱり――士狼がいいな」

 そんな曖昧な言葉を口にして、狼少女が腕を絡めてくる。それも、自分の胸をわざと押し付けるようにして。

「おい、どうでもいいが腕を放せ。暑苦しいだろうが」

「ごめんなさい。でも、今は離れたくない気分なのよ。ダメかしら」

「ダメだ。ダメだが――まあ……今だけならいっか」

 ありがと、と呟くニノ。

 二人並んでベンチに腰掛けながら、恋人同士みたいに腕を絡めて身体を密着させながら――バカみたいに夜空を見上げる。まあ、これぐらいなら恋人じゃなくてもやるだろう。

「ねえ士狼」

「なんだ」

「……好きよ」

 俺が返す言葉は、決まっていた。

「ああ、俺も好きだぜ」

 もちろん、それは男から女に向けての愛情ではなく。

 暦荘に住む住人としての、家族としての愛情だ。

 ニノも、俺が口にした言葉の真意に気付いている。間違いなく気付いている。しかし、気付いているのだろうけど、ニノは嬉しそうに微笑んだ。

「――それでもいい。士狼に好きだって言ってもらえるだけで、もう」

 そう言って、さらに身体を密着させてくる。冷たい夜気も、今となっては形無しだ。だって、触れ合っている俺たちは、こんなにも温かいんだから。

 俺は。

 ニノは。

 それから何も言わずに、ただ黙って夜空を見ていた。その黒い画用紙染みた夜天に浮かぶ星を数えて、月を観察して、そしてひらすらに夜を唄う。

 どうやら俺がしたことは、余計なお世話だったらしい。ニノ=ヘルシングという少女は、俺の助けが無くても、一人で歩いていけるような強い女だった。その証拠に、あれだけ引きずっていたこころのことは、この夜を持って吹っ切った。またいつか会えるのだから、と。

 ニノは、俺のおかげで吹っ切れたと言う。でもそれは違うのだ。

 だって俺は、偶然にもきっかけを与えてやることが出来ただけで、心の整理をつけたのはニノ自身なんだから――





 これで、顔の表情と耳の表情がまるで合っていない狼少女にまつわる物語は終わりだ。

 色々と愉快な問題があったり、周防が喜びそうな紆余曲折があったような気もするが、まあ事実は小説よりも奇なりと言うし、そのへんはご勘弁願いたいところである。

 また後日談として――これは姫神から聞いた話だが――その夜、姫神がベッドで寝ていると、なんだか寝苦しいことに気付いたらしい。なんだなんだと思って目覚めた姫神は、いつの間にか、自分のとなりでニノが眠っていることを知った。

 不法侵入された挙句、勝手にベッドに潜り込まれた姫神は怒った――と予想した人は大間違い。

 なにせあの融通の利かない格闘娘は、猫のように丸くなって眠るニノを認めると、人知れず目元を和らげながら、ニノと抱き合うようにして再び眠りについたというのだから。

 まったくもって人生は何が起こるか分からない――が、それだけに面白いのも、また事実。

 ただ一つだけ胸を張って宣言できることがある。

 それは。

 やっぱりニノの獣耳って、この世のものとは思えないほど触り心地がいいなぁ、ということだ。

 ……べつに、あれからニノに頼んで獣耳を触らせてもらったとか言わないのだ。とっても柔らかかったとか言わないのだ。もう大満足とか、いっそ死んでもいいと思ったとか、そんな世迷言は間違っても言わないのである。

 だってさ。

 家族を大切にするのが男ってもんだし、女を護ってやるのも男の務めだろ?

 つまり俺たちは、男って生き物に生まれた時点で、簡単に死んじゃいけない――という一種の呪いを帯びているわけだ。命を育むのが女なら、命を護ってやるのが男なのだから。

 あの夜、俺はニノに獣耳を触らせてもらったのだが、だからといって、あーもう死んでもいいなー、とか愚かなことは口が裂けても言わない。

 当然だろう。

 俺が死んじまったら、誰がニノを守ってやるんだよ。

 ……なんちゃって。



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