其の十二 『守護』②
あれは、雪菜たちを拉致した妖を退治して、みんな揃って仲良く倉庫の外に出たときのことだ。
黎明を前にした瑠璃色の夜空の下――俺たちを出迎えたのは青天宮の連中だった。
色々とうざったらしい事情聴取等はあったものの、青天宮や妖の存在を知った貴様らをただで帰すわけにはいかないぞー、というようなことはなかった。
それもこれも雪菜の存在が大きい。難しい顔をした偉そうなヤツが出てくるたびに、雪菜が「あ、私って実は凛葉ですー」とか挨拶すると、そのたびに事態は丸く収まるのだった。
倉庫の周辺は、夜明け前ということもあって人気がなく閑散としていた。
ただし、青天宮の連中が簡易的なテントやら、意味不明な装備を積んだ車やらを駐車させていたので、べつに物静かというわけでもなかった。
安っぽい紙コップに、これまた安っぽいコーヒーなどを淹れてもらい、俺たちは一時の休息を楽しんでいた――ときのこと。
まるで計ったようなタイミングで俺の携帯が電話を着信してしまったので、仕方なく応答することになった。
正直に告白させてもらうなら、面倒だなぁ、と思った。
だって、どうせあいつからの電話に決まってるし。
みんなから離れた俺は、地平線の向こうから上りつつある太陽を見つめながら電話に出た。
『死ね』
それこそが、あいつ――如月紫苑という女の第一声だった。
なんて幸先の悪いことか。
「……用がないなら切っていいか? もう色々と疲れてんだよ」
『まあ待て。わたしだって用もなく電話をかけたわけじゃない。死ね、というのは場を和ませるジョークだ。それぐらい理解しろ、カス』
やばい。
俺は何も悪くないはずなのに、なぜか罪悪感が湧いてきた。
ここまで一方的かつ絶対的に罵倒されると、もう俺が悪いような気がしてくる。
『それにしても――どうやら上手くいったみたいじゃないか、色々と』
電話越しに聞こえてきたのは、すこし満足そうな声だった。
「まあな。ちなみにおまえから借りた車は、きちんと天寿を全うしたから安心してくれ」
『別にいいよ。それで雪菜らを助けることができたのなら僥倖だ。これで【鮮遠】も少しの間は黙っていてくれるだろう』
ライターの着火音と、深い呼吸の気配がした。恐らく、如月がタバコでもつけたんだろう。
それから俺たちは様々な情報を交換した。俺を罵倒したのはついでで、本命はこっちだったらしい。当たり前だが。
『ところで――おまえ、ミカヤって男は知ってる?』
欠伸を噛み殺しながら話を聞いていた矢先、何の前置きもなしに如月が言った。アイツの名前を口にした。
禍々しい金色の瞳と、他人を嘲笑うかのような言動。
つい最近は紳士にスーツを着てやがったが、海の向こうでは軍服を纏っていた。
出会ったときからいけ好かない男だとは思っていたが、その本性は、俺が想像していたよりも遥かに外道。
むしろアイツの本性を見抜けなかったからこそ――俺は大切な人を失った。
それにミカヤと一緒にいた――巨大な狼に変身する女も忘れちゃいけない。ヤツらは、人間じゃあ相手にならない本物の化物だった。
あの栗色の長髪をした女の助けがなかったら、俺はあのとき死んでいたと思う。
「……おい如月。てめえ、どうしてアイツを知ってる」
だが俺が気に食わなかったのは、如月の口からミカヤの名が出たことだ。
非常に不本意だが、如月紫苑という女も俺の大切な仲間だ。だから、なんというか。平穏の中に非日常を持ち込まれた気分というか。とにかく暦荘に住む仲間の口から、ミカヤの名を聞きたくなかったんだ。
『それはわたしの台詞だよ。ミカヤという男を知ってるかどうかだけ答えろ』
「……知ってるよ。一応な」
このままでは話が進まないと思った俺は、仕方なく肯定することにした。
『ふうん――そうか。おまえ知ってるのか』
「おい。その思わせぶりな口調は止めろや。おまえこそアイツを知ってんのか?」
『知ってるもなにもあのミカヤという男は、世界中の政府や軍事機関に、極秘裏にとは言え手配書が回ってるほどの悪党だよ。しかも懸かっている懸賞金は桁外れ。自家用機が買いたいなら、ミカヤを殺せば買えるだろうよ。
十二大家も――日本の主だった勢力もミカヤを目の敵にしているぐらいだ。日本の歴史を紐解いてみると、あの男がいらんちょっかいを出していましたー、なんて史実が埋もれてるぐらいだからね。しかもナチス・ドイツの裏でもミカヤたちの暗躍があったらしい。まったくもってふざけたヤツさ』
なるほど、とりあえず言いたいことは山ほどあるものの、アイツがふざけた野郎だという点だけは同意だ。それにシャルロットを泣かせやがった、という事実も忘れてはいけない。
如月が”ミカヤたち”と複数形で言ったように、あの金色の瞳をした男は、決して単独で動いているわけじゃない。俺が知る限りでも最低二人以上の仲間がいる。
なぜ俺が、そんな情報を知っているのか。
――答えは簡単。
およそ数年前に、オレ様たちの仲間にならねえか、とかバカみたいな誘い文句で、本人様から直々に勧誘されたからである。もちろん鉛玉で返答してやったが。
しかし、どうして如月はミカヤの名を口にしたのだろう。
そう質問してみると、予想外の答えが返ってきた。
『今回の事件を調べてみると、おかしな点がいくつも見つかったんだ。わたしが金を出してるホテルが爆破されたのは、まあ百歩譲って許してやるとしてもだ。じゃあその爆弾はどこから仕入れてきたのか、という話になってくる。このご時世、金さえ積めば爆弾なんぞ大学生でも手に入るが、その大金を妖風情が持っていたとも考えづらい。つまり、あの鬼に爆弾を渡した第三者がいるはずなんだよ。その観点から探ってみた結果――」
「――ミカヤの野郎に行き着いたってわけか」
そうそう、と適当に相槌を打つ如月。
『あのミカヤという男は、どうやら吸血鬼狩りの連中にも恨まれてるそうじゃないか。吸血鬼や人狼に関しては【朔花】が詳しいからね、わたしが直々に電話して話を聞いてやったよ』
「電話かよ。せめて直接会って話せや」
大事な話を電話で済ませるとか――まあ便利だし、時間が削減できるのも魅力だが、いかんせん素直に納得もできない。なんか雰囲気が台無しというか。まあ、そんな些細なことを気にしている場合ではないのだが。
『とにかく気をつけろよ。非常にうざいことだが、まだミカヤは日本にいる。どこでなにをしてるのかは知らんが、見つけ次第ぶち殺す。問答無用で【九紋】の連中を動かしてやろう』
それからも俺たちは、ミカヤの件も含めた様々な情報を交換していった。
やはり如月は頭がキレるだけあって、話自体もスムーズに進んでいく。一を聞いて十を知るという言葉があるが、如月の場合は、一を聞くまえに十を知っているような感じだ。
朝焼けの空。
瑠璃色に染まった世界。
シャルロットに手を差し伸べた夜と同じような黎明。
なんとなく懐かしい気分になりながらも俺は、
「それで――おまえって今なにしてんだ?」
全てを話し終えたあと、興味本位でそう聞いていた。
こいつ――如月紫苑は、元から暦荘に滞在していることが少ない女だ。むしろ暦荘にいないほうが当たり前と言ってもいい。
それでも今回の不在は、ちょっと長すぎるような気がした。仕事が忙しいから、というのが一番の理由だろうが、だからといって一年以上も帰ってこないのは異常に思える。
『……そうだな、ちょうどいい機会だし、おまえにも聞いておこうか。いや、おまえだからこそ聞いておいたほうがいいのかもしれん』
しばらくして。
如月は神妙な声で、そんなことを言った。
「は? 俺が聞いてんのに、なんで逆に聞かれなくちゃいけないんだ?」
『黙れ蛆虫。誰に意見してると思ってる。立場を弁えろよ駄犬』
そして封殺される俺。
もはや精神的に殺される一歩手前だった。
蛆虫とか駄犬とか、ちょっと言い過ぎじゃないかと思う。
かといって反論して口論に持ち込んだとしても、どうせ俺が言い負かされるのは目に見えている。
口が上手い女というのは、非常に厄介なものなのだ。
そんな俺の葛藤を歯牙にも掛けず、如月は続けた。
『実は――とある女を捜していてな。それの捜索に時間がかかっている。いわゆる行方不明者とは少し違うが、まあ似たようなものかな』
だからこそ如月は、暦荘に帰ってくる時間がないらしい。
『警察に任せるのも無駄――というより、無能な国家の狗が何匹集まろうが、あの女を見つけることはできん。きっと世界中の人間が血眼になって捜索しても、あれは逃げ延びるだろうよ。だからこそ、わたしも方々に手を尽くして情報を集めている。まあ結果は芳しくないがね』
おまえ全国の警察官に謝れよ――そう言おうとしたが止めておいた。どうせ訂正はしないだろうし。
まあ俺は如月と違って、ちゃんと警察官を敬っているのだが。公僕とか国家の狗とか、そんなことは口が裂けても言わないのだ。俺は紳士なのだ。礼儀正しい男なのだ。
「なに、おまえって幻想でも追い求めてんの? 世界中の人間が協力すりゃ、どんな天才的な犯罪者や怪盗だってさすがに見つかるだろ」
『まったくもって同意だな。しかし、あの女だけは別だ。あれは生まれつき、文字通りの意味で万能だった。もちろん、かくれんぼだってお手の物さ』
「へえ、なんか昔からの知り合いみたいな言い草だな」
『ああ。わたしの古い友人の妹に当たる女だ』
「ふーん。まあ知り合いが行方知れずになれば心配もするか。ちなみに、そいつの特徴は? 見かけたら教えてやるよ」
このとき。
わりと適当な気持ちで、俺はそう言ったのだが。
『――茶色がかった長髪の女だ。本人は栗色だと言い張っているが、そう大差もあるまい。たぶん日本だろうが海の向こうだろうが、洒落っ気を優先した流行のコートとかを着ているよ』
その如月の言葉によって、かつて出会った一人の女を思い出した。
――ねえねえ、キミの名前は?
――田中太郎だ。
――いや、それって絶対に偽名でしょ? 本名を教えてよ。
――疑ってんじゃねえよ。おまえ、日本に住む田中太郎さんに謝って来い。問答無用で偽名だと思っちゃ可哀想だろうが。んで、てめえの名前は?
――山田花子よ。
――いや、それって絶対に偽名じゃねえか。本名を教えろ。
――はいダウトー! キミこそ日本に住んでる山田花子さんに謝るべきだよね。あーあ、やんなっちゃうなぁ。
そんな緊張感のないやりとりもしたっけ。
「……そいつの名前は?」
しかし。
どうしても、その女の名前だけが出てこない。顔も、性格も、話した内容も、能力も――その全てを思い出せるはずなのに、その全てを忘れていないはずなのに、なぜか名前だけが思い出せない。
まるで――暗示か催眠術でもかけられたかのように。
必死に記憶を探る俺を見兼ねたようなタイミングで、如月は答えを言った。
あの女の名を、口にした。
『――九紋京香。それが名だよ。聞き覚えはないか、宗谷の』
如月は、普段は呼ぶことが少ない俺の名をわざわざ呼んだ。
しかし俺は、その質問に対して上手く答えることができなかった。
栗色の長髪の女。
俺がかつて戦場で出会った女。
普段はバカみたいに掴みどころのない女。
殺し合いになると途端に冷徹になる女。
超人的な身体能力を持った女。
卓越した殺人能力を持った女。
神懸かり的な強運を持った女。
正義の味方を気取っていた女。
兄貴と妹のことが大好きな女。
俺よりもずっと年下だった女。
それが――九紋京香。
あの栗色の髪をした女か。
どのような理由があったのかは分からないが、なぜかアイツは俺に協力してくれた。
そして俺が戦場を去る日、たしかアイツは――京香は言ったんだ。
――ごめん、わたしの名前を士狼に覚えていられると都合が悪いの。だから忘れて。ううん、忘れさせてあげるよ。
それから何があったのか――よく覚えていない。
ただ京香が何かをしたのは間違いない。
あのときの俺は、大切な人を守れなかった己の無力を責めるのに精一杯で、他のことに気を回す余裕がなかった。ゆえに別離の瞬間の記憶は曖昧だ。
それから逃げ帰るようにして日本に戻ってきた。
思えば――あれから随分と遠くに来たもんだ。
「……そうか、京香か」
多分俺は、アイツの名を忘れていたことさえ忘れていた。いや、忘れさせられていたのか。まあどっちでもいいが。
『もしかして――知っているのか?』
如月にしては珍しい――どこか逸るような声。つまり、それだけ九紋京香という女を捜しているんだろう。
だから教えてやりたいと思った。おまえが探している女は、海の向こうで白い髪をした男と一緒に、吸血鬼やら金色の瞳をした男やら狼に変身する女やらと戦ってましたよー、と。
知っている人間が行方不明になる――その苦しみと悲しみは、想像に難くないから。
「……いや」
けれど。
「そんな女は知らねえな」
俺は満を持して否定することにした。
だって、アイツは人目を忍ぶ言動が目立ったし。身内に追われているようなことも言ってたし。ついでに、日本を守るんだー、とかバカみたいなことも言ってたし。
やがて如月は、しばらく何かを吟味するように沈黙したあと、
『――そうか、分かった』
感情の読めない平坦とした声で、静かにそう言ったのだった。
「悪いな、力になれなくて」
『気にしなくてもいい。元からわたしは、おまえが何かの役に立つはずだ、などという愚かな考えは抱いていないからね。その点は安心してくれてもいい』
「…………」
『じゃあ、もう電話を切るぞ。お前たちの後のことは、すべて青天宮の連中に任せていればいい。わたしの方からも話を通してあるし、まあ大丈夫だろう。たぶん』
「そのたぶんってのが気になるが、とりあえず分かったと言っておく」
『ああ。じゃあな役立たず』
最後にそんな言葉を残して、如月は電話を切った。如月紫苑という女は、最後まで如月紫苑のままだった。
ふう、と肺の中の酸素を入れ替えながら、俺は空を見上げる。夜明け前のそれは、どこまでも美しい瑠璃色。
――ああ、そうだ。
こうして俺は生きていく。
あの栗色の髪をした女の名を思い出したとしても、変わらずに生きていく。
だって、もうアイツと会うことはないだろうから。
宗谷士狼と九紋京香の道は、数年前を最後にして別れてしまったんだ。
「……あーあ、やんなっちまうなぁ」
呟いて、ふと思った。
そういえば――この言葉って、アイツの口癖だったよなぁって。
****
その日の早朝、凛葉雪菜は自然公園にいた。
まだ日が昇って間もない時間。そこかしこの家では、会社員や学生たちが出かける準備をしていることだろう。だから外には、あまり人がいなかった。
冷たい夜から一変したばかりの朝は、気温もさほど上がっていない。その証拠に、吐息は凍てついたように白かった。
しかし雪菜は、その寒い朝がなんとなく好きだった。
なぜなら冷たい空気によって意識が引き締まるような気がするし、なにより人の活動が活発化していない時間帯は、他人の目がないから落ち着けるのだ。
この街の中央あたりに位置する自然公園は、およそ公園という名が似つかわしくないほど広大である。
子供が遊べるような広場は多々あるものの、目に見える遊具はない。むしろ冬でも緑を茂らせる常緑樹を中心とした自然が、公園の面積の大部分を占めることを考えると、子供よりは大人が一時の休息を得るための場所とも言える。
事実、春になると満開の桜が咲き乱れたりもするし、それを目的とした花見客も集まってくる。もちろん暦荘の住人たちも、毎年恒例のように花見に参加していたりする。
しかし上記のような理由があったとしても、それが雪菜の外出に繋がるとも思えない。
現在の時刻は、およそ午前七時ごろ。つまり雪菜は、大体その一時間前には起床していたことになる。乙女の朝は、色々と大変なので時間がかかるのだ。
ならば――どうして雪菜は、わざわざ早起きして、一人で公園内を歩いているのだろうか。ちなみに言っておくと、雪菜には早朝のランニングだとか散歩だとかの趣味はない。もちろん服装も和服なので、突然走りたくなったから早起きしてみた、というオチもない。
本音を言わせてもらうのなら雪菜だって、もう少し寝ていたかったー、とか思っていたりするのだ。
要するに、雪菜が自然公園にいるのは彼女の本意ではない。
……少しだけ過去のことに想いを馳せる。
自分が早起きした理由。
外出した理由。
自然公園にいる理由。
それらは全て、雪菜がとある人物によって呼び出されたからに他ならない。
――どうして彼は、わざわざ私を呼び出したのでしょうか……?
はっきり言って謎だった。ずっと晴れない疑問だった。
ただ歩いているだけでは手持ち無沙汰だったので、ちょうどいい時間潰しだと思って、雪菜は自分が呼び出された理由を考察してみる。
それによって雪菜は、自然と物憂げな表情になる。長いまつげが二重瞼の瞳に影を落とし、紅く薄い唇から溜息が漏れる様子には、なんとも言えない艶やかさがあった。
だからだろう。
「くぅ~! なんだなんだっ、その色っぽい顔はっ! もしかして俺っちを誘ってるってのか!? 雪菜さんは、自分が無意識のうちに罪を犯していることに気付いたほうがいいぜ!?」
俯きがちになりながら歩いていた雪菜に、そんな軽快な声が投げかけられたのは。
「……は、はあ。……ええと、謝罪したほうがよかったりしますか……?」
「いんや、別にいらな――待て待て、ここはあえて雪菜さんの罪を責め立てることによって弱みを握り、げっへっへーと思わず下品な笑みが漏れてしまうような行為を強要するのが得策じゃないか……? おおっ、やっぱり俺っちという男は天才だったのか!」
「お疲れ様でした」
「待てぇい! なぜ帰ろうとするんだ、雪菜さん!」
「いえ、だって面倒くさいですし」
「――がはっ! な、なんて飾り気のない真っ直ぐな言葉なんだ……!」
やがて、わざとらしく頭を抱える男。
街の中央に位置する自然公園。その自然に溢れた公園の中心には、円形に切り取られた噴水広場がある。ちょうど時計と同じような形だ。ベンチだって十二個ある。
そのベンチのうちの一つに腰掛けていたのは、真黒の学ランに身を包んだ少年だった。ハリネズミのようにツンツンと尖がった黒髪と、やや幼さを残した顔立ち。年齢は雪菜と同じぐらいだろう。
まだ学生の身分でありながら青天宮に属している彼は――名を忌野と言った。
忌野は、額に包帯を巻いていたり、頬に絆創膏らしきものを張っていたりと、目に見えて分かる負傷をしていた。妖との戦闘において負った傷だろう。常人ならば入院は免れなかっただろうが、忌野という少年は、生憎と常人ではなかった。
それから広場をゆっくりと観察してみた。
すると――やたらと鳩が集まっていることに気付く。もしかすると、誰か親切な人間が餌でもやっていたのだろうか。鳩に餌をやるのは禁止されているはずだが、そのルールを全ての人間が律儀に守ってくれるはずもない。
ベンチの脇には、細長い棒状の袋が立てかけられてあった。雪菜は剣術には明るくないのだが、それでもあれが竹刀袋とか、とにかくそういう類のものだということは分かる。
つまり、あの中には忌野家に伝わる妖刀が収められているのだろう。
「それで――忌野くん。こんな朝早くに私を呼び出したのは、どのような理由があってのことでしょう」
「まあまあ、そう急ぎなさんなよ。やっと面倒事が片付いて、ゆっくりと話せる時間が出来たんだしさー。ちょっとぐらい世間話を交えてもいいんじゃない? というわけで雪菜さん、ここに座りなよ」
ぽんぽん、と自分が座っているベンチの空きスペースを叩く忌野。
やや怪訝に思ったものの、いちおうは幼馴染の関係でもあるのだし、雪菜は忌野のとなりに腰を下ろすことにした。
二人並んでベンチに腰掛ける。
眼前には、豪奢な噴水と、空いた十一のベンチと、そして広場を埋め尽くさんばかりに集まった白い鳩の群れがあった。
その光景は、ここ最近雪菜と忌野が関わっていた事件と比べると、驚くほど平和であり、のどかだった。
「いやぁ、それにしても悪かったね、雪菜さん。わざわざ早起きさせちゃったみたいでさー」
「まったくです――と言いたいところですが、我慢しましょう。忌野くんは、なにか大事な話があって、私を呼び出したのでしょうし」
「うーん、まあ大事な話かどうかは分かんないけどさ。少なくとも無意味な話じゃないことだけは確かだよ。それに」
忌野は、となりに座っている雪菜に振り向いて、
「せっかく雪菜さんと会えたんだから――もっと話をしたいって思うじゃん」
にはは、と子供のような笑みを浮かべながら、そんなことを言った。
予想外の言葉によって、雪菜は驚きに目を丸くした。
「……忌野くんは、私と話していて楽しいですか?」
「いんや、楽しくはないね。ただ幸せなだけだよ」
「ええと――女性を口説く練習がしたいのでしたら、他の方を当たったほうがいいのでは」
「女性を口説く練習って――もうっ、ひっどいなー雪菜さんは。その言い方じゃあ、まるで俺っちが遊び人みたいになるじゃんかよー」
駄々を捏ねる子供のように喚く。
かつての忌野は、どちらかと言えば冷静沈着でクールな性格だった。あまり冗談は言わないし、剣術の訓練には意欲的だったし、それにストイックだった。
しかし、どうしたことだろう。今の忌野には、その面影は微塵も見られない。
少なくとも雪菜は、そう感じていた。
その印象は、言葉を交わすたびに強くなっていった。雪菜と忌野が最後に話したのは、およそ四年前である。その頃と比べると、現在の忌野はずいぶんと話しやすい。
一体どのような心境の変化があったのか。
雪菜の知らない四年の月日――それが忌野に何をもたらしたのか。
美しい水を生み出す噴水と、広場で戯れる無数の鳩を見つめながら、そう雪菜は考えていた。
それから二人は、特に中身があるわけでもない話題を何度も繰り返した。いま通っている高校はどうだとか、最近テレビの番組ではこれが面白いとか、英語の勉強についていけなくて困ったとか。本当に益体のない話ばかりを。
当初は軽く緊張していた雪菜だったが、今となっては身体の力も抜けてリラックスしていた。
だから。
きっと忌野は、そのタイミングを見計らっていたのだろう。
――ねえ、雪菜さんには好きな男とかっているのかな?
本当に、突然に。
まるで明日の夕飯を聞くような気軽さで、忌野はそう問いかけた。
「――す、好きな男の人、ですか?」
普段の雪菜はとても落ち着いた口調なのだが、このときばかりは冷静さを欠いても仕方ないと言えよう。
内心の動揺を悟られたくなかった雪菜は、忌野から素早く顔を背けて、広場を我が物顔で歩き回る鳩たちを見つめた。
「そうそう、好きな人だよ。雪菜さんも年頃の女の子なんだから、そりゃあ気になる人ぐらいいるよね」
詰問する口調は、しかし穏やかなもの。
まるで仲良しの男女が、冗談交じりで互いの気になる異性を聞きあうような、そんな微笑ましい光景。
「……べつに、いないです。私には気になる男性なんて、いないです」
「ふーん、それにしては動揺してるような気がするんだけどなー」
意地の悪そうな笑みを浮かべて、忌野は雪菜の顔を覗き込むようにした。
「それに――ほっぺたもちょっとだけ赤いし? いやいや、雪菜さんって肌がすっごく白いから、変化が分かりやすいんだよねー」
「……私、意地悪な人なんて嫌いです」
ぷいっ、と顔を背ける雪菜。
そして忌野から視線を外したまま、仕返しと言わんばかりに続ける。
「そういう忌野くんこそ、気になる女性とか――」
「――いないね」
遮るようにして、忌野は口を開き、
「でも――愛してる女の子は、いるよ」
どこか訂正するような響きを持って、そんな言葉を紡いだ。
ここで呆然としたのは、間違いなく雪菜のほうである。彼女が予想していた返答としては、俺に好きな女の子なんているわけないじゃん、という類のもの。つまり、否定するか曖昧にするかのどちらかだと思っていたのだ。
自分が想っている異性を他人に知られるのは、基本的に恥ずかしいものだ。だから雪菜も否定したし、それは忌野だって同様だと思っていた。
しかし、現実と予想は食い違っていた。
「それが誰なのか――気になる?」
首を傾げながらの、優しげな微笑み。
「まあ――気にならないと言えば、嘘になりますね。いちおう忌野くんは幼馴染ですし」
「じゃあ、教えてあげようか?」
「それが差し支えないのであれば」
広場に集まった白い鳩の群れを見つめながら、雪菜はちょっとだけワクワクしながら頷いた。
「よーし、じゃあ雪菜さんがそこまで言うなら教えてあげるよ。というわけで、こっちに来て」
何を思ったのか、忌野は雪菜の手を引っ張って、やがて噴水の前まで移動した。
二人の周囲は、白い鳩によって埋め尽くされている。このあたりの人間は、よく餌をくれるのだろう。雪菜たちが近づいても逃げ回る様子はない。
豪奢な噴水と、鳩の群れに視線を交互にやったあと、雪菜は訝しげな様子で問うた。
「あの、忌野くん。鳩さんに囲まれちゃってますけど、大丈夫ですか?」
「もちろんさ。そんなの雪菜さんが気にするまでもないから」
雪菜と向かい合うようにして立った忌野の手には、一振りの刀が――妖刀”大禍時”が握られていた。
「そんじゃあ早速だけど、俺っちこと忌野くんの、愛しの女性をお教えしちゃおうかなー。聞く準備はいいか、雪菜さん!」
「はあ、まあ何の準備が必要なのかは分かりませんが、とりあえずよろしいのではないかと」
「けっこうけっこう。というわけで――雪菜さん」
なにかを溜めるように言葉を区切る。
やがて、忌野から笑みが消える。その真剣すぎる表情に気圧された雪菜は、知らずのうちに一歩後退していた。
「――いや、凛葉雪菜さん――」
あえての訂正には、どのような意味があったのか。
それを雪菜が疑問に思うよりもさらに早く。
――ヒュン、と空気を切り裂くような音がした。
月光をも反射する白刃が舞う。大禍時の刀身が外気に晒される。
忌野が、人間の目ではまず追えない速度で抜刀し、そして横薙ぎに一閃したのだ。
その刃が切ったのは、空気だけだった。
ただし、二人の周辺には無数の鳩がいた。その鳩らは、忌野が突然振り払った刃に驚き、慌てて地を離れて空を飛ぼうとする。
鳥が羽ばたくときに聞こえる独特の音がして。
そして雪菜の視界は、白い鳩によって埋め尽くされた。
――瞬間。
「――雪菜さん。俺は、世界中の誰よりも君のことが好きだ。生涯を通して守りたいと思える女性も君だけだ。愛している、という言葉を送るのも君だけだ。
だから、雪菜さん。どうか俺と、結婚を前提に交際してもらえないだろうか」
そんな愛の告白が、聞こえた。
雪菜の耳にハッキリと、聞こえた。
それと同時に、雪菜の腕が取られる。
手の甲には温かい感触。
地面に騎士のごとく片膝をついた忌野が、雪菜の手に口付けをしたのだ。
まさしく一瞬の早業。
忌野が大禍時を一閃したのと同時に、地を走っていた鳩たちが大空へと舞った。それにより雪菜の視界が奪われて、虚を突かれるような形となった彼女の手を取り、やがて愛の言葉を紡いだのだ。
つまり忌野が切りたかったのは、空気などではなく。
――凛葉雪菜という少女の心こそを、切りたかったのだろう。
「どうか――俺というちっぽけな人間の想いを、聞き届けてはもらえないだろうか」
跪いたまま、忌野は視線だけを上に――雪菜に向けた。
「……え、あ、その」
しかし即座に返答できるはずもない。
むしろ現状を把握するだけの余裕すら、雪菜にはない。
忌野だって年頃の男子。だから彼に意中の女性がいるぐらいは当然だと思っていた。けれど、それがまさか自分だと思っていなかった雪菜は、あまりに突然の告白によって、頭の中を真っ白にされてしまった。
「俺では、駄目かな。きっと誰よりも雪菜さんを幸せにしてみせる。愛し続けてみせる。絶対に守りきってみせる。だから、俺の想いを受け入れてはくれないか」
「――そ、そんなの、絶対に嘘ですっ」
「本当だよ。命を懸けよう」
「もうっ、怒りますよ、忌野くんっ!」
「いいよ、君になら怒られても。そして――これから毎日、俺を叱ってくれたら、もっと嬉しいな」
はにかむように忌野は言う。
その表情を見て、この告白はどうやら真剣なものらしい、と雪菜は理解した。
「俺はね、雪菜さん。本当に、絶対に、君を愛してるつもりだよ。だから一生を賭けて、雪菜さんを守っていきたいと思ってる。もちろん君だけじゃなくて――君の子も」
君の子も守っていきたい――その意味を理解した雪菜は、思わず頬を赤く染めた。
初心な反応だと思われても仕方ないが、それでも白い肌に朱が差すのは止められなかった。
「……わ、私は……駄目です」
「なにが駄目なのかな? 雪菜さんは、べつに好きな男とかいないんだろ? さっきそう言ってたじゃないか」
「あれは……違います」
「どう違うんだ?」
「っ…………ます」
「ごめん、聞こえなかった。もう一度言ってもらえるかな」
「――だから、います! 私には、大好きな人がいます! いるったらいるんです! 反論は認めないです! だからあの人の、士狼さんのお嫁さんになりたいんです――!」
両拳を握りながら、子供のように声を出す雪菜。
それを見た忌野は、苦笑して立ち上がった。
「分かったから落ち着いてよ、雪菜さん」
「失敬ですね、私は落ち着いていますよ、忌野くん。お嫁さんですよ、お嫁さん。もうちょっとぐらい、私のことを気にかけてくれても、とか思いますよね。しかも私のことを妹みたいな存在だ、なんて言っちゃうんですよ。……むむ、いま思い返すと、あれは失礼な発言だったような気がします。というか失礼ですっ! あぁ、もうっ、どんだけですか、士狼さんは!」
頬を膨らませながら、ひたすらに愚痴をこぼす。
その様子を忌野は、悲しげ――ではなく、嬉しそうに見つめていた。
「……いい顔をするようになったね。四年前の雪菜さんとは、似ても似つかない顔だ。まるで俺たちが初めて出会ったときの――そう、歳も思い出せないぐらいの小さな頃を思い出すよ」
二人が初めて顔を合わせたのは、まだ物心がつくかつかないかの頃。
幼い時分の雪菜は、今とは違って愛らしい笑顔が特徴的な、本当によく笑う女の子だった。とても感情豊かであり、どちらかと言えばクールだった忌野をよく引っ張りまわして困らせたりもしていた。
しかし、ある時を境にして雪菜は心を閉ざしてしまう。
それを救える立場にいたのにも関わらず――救おうとしなかったのが忌野。
当時の雪菜を助けるということは、自分が退魔の人間であるとバラしてしまうようなもの。それは効率的ではないと考えた忌野は、愛する人間を捨ててまで、大勢の人間を救う道を選び――そして後悔した。
そのときを最後にして、二人は離れ離れになった。
だから忌野が最後に見たのは、どんな楽しいことがあっても笑わず、どんな悲しいことがあっても泣かないような――そういう人形染みた雪菜だった。
それゆえに現在の雪菜を見て、忌野は嬉しく思った。
幼少期と比べるとほとんど笑わないが、それでも氷のように表情を動かさないわけじゃない。
今の雪菜は、ときおり口元を綻ばせたり、頬を膨らませたりする。
その稀に見せる感情が――とても可愛らしい。
無表情の雪菜だって、息を呑むような美人なのだ。
だったら、その雪菜が浮かべる笑顔は――男にとっては劇薬と同じだろう。
「――分かったよ、雪菜さん。もう分かったから」
「いいえ、忌野くんは分かっていないです。いいですか、士狼さんという人は、とにかく馬鹿なんですよ。愚かなんですよ。鈍感なんですよ。人の想いに気付いているはずなのに、それを汲んでくれないんですよ」
「でも、好きなんだろ?」
「…………こほん。黙秘権の行使とか、ありだったりしますか?」
「お好きなように」
あまりに雪菜が微笑ましくて、忌野は笑いを抑え切れなかった。
「――忌野くん、いま笑いましたよね?」
「ううん、べつに笑ってないよー。俺っちが雪菜さんを笑うなんてこと、あるわけないじゃん」
「……なんでしょう。すこし馬鹿にされている感じがして軽くイラっとしますが、まあ忌野くんですし、仕方ないから許して差し上げます」
「おっ、つまり雪菜さんにとって俺っちは特別ってこと?」
「はい。特別ですよ」
そして雪菜は、
「だって忌野くんは――私の幼馴染であり、大事な友達ですから」
自分の想いを隠すことなく、ハッキリと答えを返した。
雪菜にとっての忌野は、想いを寄せる相手でも、一生を添い遂げる相手でも、愛を育み子を育てるような相手でもなく。
ただの友達だと。
されど友達だと。
そういう意味を持った――特別。
「……そっか」
忌野は、一瞬だけ寂しそうな顔をしたあと、大げさに頭を抱えた。
「――ぐはぁっ! ふ、フラれちまったよー! フラれちまっただー! オラもう生きていけねえだー!」
「ちょっと忌野くん、それってどこの田舎者ですか。今時そんなコテコテの口調をした方なんていませんよ。たぶん」
「うるさい! ふんっ、雪菜さんなんて、とっとと向こうに行っちまえ! べ、べつに雪菜さんのことなんて、これっぽっちも好きじゃないんだからなっ!」
「ステレオタイプにこだわりでもあるんですか、忌野くんは。まあ、そこまで言うなら向こうに行きますけど。実を言うと私、さっきから眠いんです」
欠伸を噛み殺したからか、雪菜の瞳にはじんわりと涙が滲んでいた。
「あー、向こうに行きたきゃ行けばいいさ! もう雪菜さんなんて知らないもんねー! ジュース買うときに小銭が十円足りなくて、仕方なく千円を使わざるを得ないような状況になったとしても、俺っちは絶対に十円をあげたりしないもんねー!」
それはちょっとだけ困る――そう言おうとした雪菜だったが、止めておいた。
「じゃあ私、帰りますから」
そうして忌野に背を向ける。
「ああ、勝手にしなよ! 雪菜さんなんて、ただの友達なんだからなっ!」
その言葉を受けて、雪菜は歩き出した。
だって長居は無用だから。
これ以上、きっと彼は我慢できないだろうから。
緑に囲まれた自然公園を歩く最中、雪菜の背中に声が投げかけられた。
「――雪菜さんっ! 俺は、ずっと君を待ってるから! いつまでも、雪菜さんだけを想ってるからっ!」
その真っ直ぐな愛の言葉に、公園内をランニングしていた若い男性が驚いていたりもしたが、雪菜は無視して歩き続けた。
きっと忌野と結ばれれば、幸せになれると思う。彼は優秀な人間だし、その実は真面目だし、なにより雪菜のことを本当に愛している。だから忌野と結ばれるのは悪いことじゃない。
それでも――雪菜には、ずっと一緒に歩いていきたい男性がいた。
だから、その想いに結果が出るまでは、他の男性になんて興味が出るはずもないのだ。
とりあえず目先の目標としては、自分の得意な料理をあの人に振舞ってあげて、家庭的な女性という魅力を存分にアピールすることである。そして、あわよくばノックアウトも狙うのだ。
そうして雪菜は、忌野を広場に残したまま、一人で暦荘への帰路についたのだった。
一人残された忌野は、雪菜が立ち去ったことを確認すると、ごろんとベンチに寝転がった。
「……あーあ、やっぱ俺じゃあ駄目だったか」
右腕で双眸を覆っているせいで、忌野の瞳は確認できないが、それでも口元が微かに笑っていることだけは分かる。
さきほどまでは雪菜だけではなく、白い鳩の群れもいたのだが、今は違う。忌野一人。孤独だった。
「……くそ。寒いな」
鼻水が止まらない。だから鼻を鳴らす。
寒さによって頬は赤く染まる。
それらは寒さによって引き起こされた生理現象だ。
ああ、そうだ。
忌野は寒いのだ。本当に寒いのだ。
だから、これは寒いだけなのだ。
「――痛ぇよ、ちくしょう」
左手で心臓のあたりを抑えながら、忌野は搾り出すようにして言った。
学ランの右腕部分――ちょうど手首から肘にかけてまでの部分には、なんだかよく分からないが、水分のようなものが染み込んで行く。
それは延々に、永遠に。
ここで忌野の名誉を守るために一つだけ言わせてもらうのならば。
べつに彼は、泣いているわけじゃない。
――ただ、寒いだけなのだ。