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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
第四月 【守る物、護る者】
70/87

其の十一 『刹那』②



 ――ぴちゃん。

 刹那、水が弾けるような音がした。

「は――ぁ」

 悩ましげな吐息が漏れる。どう足掻いても男には捻り出せないような、女性特有の色気ある吐息が。

 ぴちゃん、ぴちゃん――水が剥き出しのコンクリートを叩くたびに、そんな小気味よい音が響く。恐らく、どこか水漏れでもしているのだろう。ただし音自体は空間に反響するような形で聞こえてくるため、出所を探るのは難しそうだった。

「ん――」

 今度は、すこし不機嫌そうな吐息。

 水滴が落ちるたびに彼女の瞼がぴくりと動く。覚醒が近いのか、呼吸の間隔が短くなっていくのが分かる。

「……あの、目が……覚めましたか……?」

 その声がきっかけ。

 まるでパズルにおける最後のピースがあてはまったかのような自然さで、彼女――凛葉雪菜は現実に引き戻された。

 綺麗に線の入った二重瞼の瞳が、薄っすらと開く。それは睡眠していた者が起きる様子に似ていた。というよりも、ほとんどそれで正解だろう。唯一違うのは、雪菜は眠っていたのではなく、意識を奪われていたという点だ。

「……あれ、ここは――?」

 雪菜にしては間の抜けた声。きっと覚醒したばかりで意識がハッキリしていないのだろう。言ってしまえば、寝惚けているのだ。

 パチパチと黒曜石のような瞳を瞬かせて周囲を確認する。……が、どうも薄暗い。おかげで一寸先が闇の状態だ。

 だから目を細めて暗闇の奥を注視してみた。すると、無機質なコンクリートや資材などが浮かび上がってくる。どうやら工場とか倉庫とか、とにかくそういった系統の場所らしかった。

 大きさ――工場の面積は、かなり広い。薄暗いせいで正確には測れないが、つまり一目で見当がつけられない程度には広いのだ。恐らく長方形型の構造だろう。天井までの高さはそれなりにあった。

 わりと高い位置にある窓は、闇を映したような黒色だった。いや、事実闇を映しているのだろう。どうやら時刻としては深夜に相当するらしい。だって、雪菜のお腹も空いているからである。

 普段はあまり使われていないのか、微妙に空気が埃っぽい。まあ換気を気にするほど人間が出入りしていないのだろう。

 うわー人間を監禁するには最高の場所ですねー、と雪菜は思った。実に面白い冗談である。

 さて、なぜ自分はこんな場所にいるのか――という疑問をひとまず置いておこう。そういうのは後で考えればいい。だから、とりあえずお家に帰ろうか、と雪菜は立ち上がろうとして――

「――?」

 足が動かないことに気がついた。いや、動かないのではない。ただ両足首のあたりを紐のようなもので縛られているせいで、身体を起こそうとするだけの動きが取れないのだ。

 しかも追い討ちをかけるように、手も動かせなかった。だから躍起になって暴れてみると、がちゃがちゃと金属が戯れるような音がする。おまけに手首のあたりには冷たい感触。まさか――と疑うまでもなく、それは手錠だった。

 雪菜の両手は、背中に回されるような形で固定されていた。それだけに留まらず、手の指に至っては完全に封じられている。どうやら拳を握った上にガムテープか何かをグルグル巻きにされているらしい。

 ここまでを自覚して、ようやく雪菜は現状に危機感を覚えた。

 だって、これはどう考えても普通じゃない。明らかに悪意ある拘束だ。例えるなら、まるで雪菜を意図的に監禁しようとしているような。

「……えと……あたしの、声……聞こえてますか……?」

 線の低い声がした。

 とても遠慮しがちな、けれど可愛らしい声が。

 そういえば――と雪菜は視線を動かした。寝惚けているせいでうっかりとしていたのだが、雪菜は目覚める直前にもこの声を聞いた覚えがあった。

 冷たいコンクリートの上に身体を横たえているため、上下左右を満足に確認することはできないが、それでも声の主はすぐに見つかった。

 なぜなら、その少女は雪菜のすぐとなりにいたからだ。

 おかっぱ頭に切りそろえられた黒檀の髪と、水玉模様の入った古めかしい浴衣と、赤と黒の鼻緒が特徴的な下駄と。なぜ今まで気付かなかったのか、と自分を責めたくなるほどに、その少女は目立つ容貌をしていた。今時珍しい時代錯誤な格好である。

 雪菜は、その少女に見覚えがあった。むしろ忘れるわけがない。それだけ現代において、サトリの妖は希少なのだから。

 名は――こころ、だったか。確かニノによく懐いていて、生まれたての雛のように彼女の後ろをチョコチョコとついて回っていたような記憶がある。

 だからか、雪菜自身は、ほとんどこころと会話したことがない。

「ご、ごめんなさい……です」

 雪菜がじっと見つめていると、こころは萎縮したように頭を下げた。

 もちろん意味が分からない。

「……? どうして謝るのでしょうか」

「それは……ごめんなさい」

 追求すると、なぜか再び謝罪されてしまう。

 怪訝な顔をする雪菜とは対照的に、こころは申し訳無さそうに視線を泳がせるだけだった。小さな両手を胸の前で遊ばせる様子は、とても自信が無さそうに見える。

 実は、雪菜も内心では半分パニックに陥っていたのだが――慌てているこころを見ているうちに、なんだか落ち着いてきてしまった。

 私がしっかりしないとダメですね、と冷静になる雪菜だった。幼いころから妹の面倒を見てきたせいか、年下の女の子の相手は慣れていたりするのだ。

「よく意味が分かりませんが――とにかく謝らなくて結構ですよ」

「……で、でも」

「貴女は、なにかいけないことをしましたか?」

「……してない、と思う。……あっ……思い、ます」

「では、頭を下げる必要もありませんね。いいですか、こころちゃん。理由もなく口にする”ごめんなさい”は、かえって相手に失礼になるものです」

 雪菜がそう言うと、こころはきょとんとした顔で首を傾げた。

 しばらく逡巡するような間が続く。こころは、チラチラと雪菜に視線を送っていた。恐らく信用に値する人物かどうか見定めているのだろう。

 ――こころはサトリの妖ではあるが、雪菜の心だけは例外的に読むことが出来ない。なぜなら、干渉する前に弾かれてしまうからだ。それだけ雪菜が無意識のうちに身に纏っている霊力は強力なのだ。

 そういう理由があって、こころは雪菜のことを少し警戒しているのだろう。いつもは一目で人間の良し悪しが分かってしまうゆえに、心があまり読めない雪菜という相手は、こころにとって非常にやりづらいのだ――

 不安そうに身を縮こまらせるサトリの少女。その様子は、こころの可愛らしい容姿も相まって、どこまでも見る者の庇護欲をかきたてる。

 頭を撫でてあげたいなぁ――そう雪菜は思った。それは無意識のうちに漏れた心の声だった。

 だからだろう。

「……はい。……分かり、ました」

 はにかむように笑って、こころは頷いたのだった。雪菜の想いが、ほんのちょっとだけでも届いたらしい。

 ようやく笑みを浮かべたこころを見て、雪菜も嬉しくなった。やっぱり子供には笑顔が一番似合う。というより、生き物は泣いているよりも笑っているほうがいいのだ。絶対に。

 それからも二人は、自己紹介に似た会話をした。

 厳重とも、そして過剰とも言える拘束をされている雪菜とは違い、こころは自由に動き回れるようだった。雪菜が見たところ、こころは手足を縛られることもなければ、ロープか何かで逃げられないようにと繋がれているわけでもない。

 しかし、こころは何らかの要因によって背中を痛めているらしく、満足に立ち歩くことは難しいらしい。まあ仮に五体満足だったとしても、こころは同年代の人間と比べても非力なのだから、雪菜の手足を封じている戒めを解くことは適わなかっただろう。

 つまり、こころは無力だった。いちおうは手足を自由に動かせるのに、それでも雪菜を助けることができない。

 もしかすると――こころが先ほど雪菜に謝罪していたのは、それが理由だったのかもしれない。

 よくよく見れば、こころの指先が擦り剥けたように赤くなっている。きっと雪菜が意識を失っている間にも、どうにか助けようとしてくれていたのだろう。そして無理だったからこそ、こころは開口一番に謝ったのだ。力が及ばず、ごめんなさい――と。

 雪菜の視線に気付いたこころは、慌てたように両手を背中に隠した。

「……その……これは」

 まるで悪戯を指摘されたかのような態度。雪菜のほうにチラチラと視線をよこしながら、お、怒られないかな……? といった不安そうな顔で小さくなっている。

 なんというか――微笑ましくて、可愛らしかった。

 大体の人間ならば、私は何とか貴方を助けようとしたんですよ? だから私は悪くないんですよ? といったような顔をして、それと分かるように相手に赤くなった指先を見せるものだ。つまり言外の言い訳である。

 けれど、こころという少女は違った。とても純粋だった。むしろ”優しい”を超えて”愚か”というレベルにまで達していそうなほどに。

 だが困ったことに――雪菜は、その”愚か”が嫌いではなかった。

「……いい子ですね、こころちゃんは」

「えっ――あっ」

 雪菜の言葉が予想外だったのだろう。こころは戸惑っているらしかった。

 うぅ……と怯える姿には、どこか小動物のような愛らしさがあった。なんだか無性に頭を撫でてやりたくなってくる。まあ雪菜の手足は封じられているので、それも適わないのだが。

「……その、あたし……いい子、ですか?」

「はい。とっても、いい子です。どこぞのクソ吸血鬼さんとかに見習わせてあげたいぐらいですよ」

「……? は、はあ」

 しみじみと呟く雪菜を見て、こころは曖昧に頷いた。うん、やっぱり素直ないい子である。

 雪菜は、なんだか機嫌が良くなってきた。お気に入りの和服は汚れているし、自慢の黒髪は乱れているし、いっぱい汗をかいた後で気持ち悪いし、手足は縛られて痛いし、と。

 まさに泣きたくなるような現状ではあるが、それでもこころを見ていると楽しくなってくるのだ。

「――むむ?」

 そこまで考えた雪菜は、あれれ? なにか大切なことを見落としているような? と首を傾げた。

 和服が汚れている、黒髪が乱れている、汗をかいている、手足が縛られている――というのが現状の雪菜である。うむ、もう一度繰り返すが、これこそが現状の雪菜なのだ。

 ……はて、どうしてでしょう?

 そう雪菜は思った

「……あのですね、こころちゃん。つかぬことをお伺いしてもよろしいでしょうか」

 それは暢気な声だったと思う。

「つかぬこと……? は、はいっ。……あたしで、よければっ」

 こころは両拳をぎゅっと握り締めて、天敵に立ち向かうハムスターのような顔をした。それは一体どんな顔だ、と言われようと、事実そういう顔をしていたのだから仕方ない。

「えーと、それでは好意に甘えさせていただきますが――こころちゃん、なぜ私は縛られているのでしょうか。ひょっとすると、とんだ変態さんに捕まってしまったのでしょうか。もしかして周防さんの仕業だったりするのでしょうか。……むぅ、なんだか口にしてみると真実味を帯びてきましたね。とうとう周防さんも道を踏み外してしまいましたか。それにしても、どうして私なんでしょう。なんだかんだと周防さんは仰っていますが、じつは千鶴ちゃんのことが好きなのでは、と推察していたのですけれど」

「わっ――そ、そんないっぺんには……」

「むむ、これは失礼しました。私としたことが、少しばかり取り乱してしまったようですね。

 では順番にお聞きましょう。さきほどから姿が見えませんが、周防さんはどちらに? もしかして、すでに警察のほうへ出頭なさっているとか……?」

「……んーと、……す、周防という人は、よく知らないですけど……たぶん、それは違うと思います……です」

 雪菜の中では、もはや周防公人こそが真犯人だと断定されている。なんというか、あー周防さんやっちゃいましたねー、という感じである。

 こころは、予備知識すら与えられない難問にも一生懸命に受け答えしていた。その顔には、えっと、そもそも周防って誰ですか? という疑問が浮かんでいる。

「はい? 周防さんが犯人ではない、と? ……とすると、一体どなたが――はっ! ま、まさか、こころちゃんはすでに周防さんの毒牙にかかっている、という可能性が無きにしも非ずなのでは……? つまりこころちゃんは、凛葉雪菜が周防公人を怪しんだら嘘をつけ、と命令されていたのではないでしょうか。

 いや、これは驚きました。周防さんは、女性を監禁する趣味があっただけではなく、まさか幼女を好む性癖もあったとは。ぱない。ぱないです。ぱなすぎます――!」

「お、落ち着いてくださいっ。……たぶん、それは、違うと思います」

「ふむ、どうやら私の推理に穴があったみたいですね。申し訳ないです。

 ところで、こころちゃん。ひょっとして私は、周防さんに食べられてしまうのでしょうか。このような倉庫をフィールドに選んだあたりにも、周防さんのアブノーマルさが漂っていますし」

「だ、だから……それは、違うと思い――」

「――弱りましたね。どのように断れば周防さんを傷つけずに済むか――いや、もしかすると無理やり行為を強要してくるやもしれません。まったくっ、どんだけですか、周防さんは」

 憤懣やるかたない様子で瞳を細める雪菜。

 対してこころは、会話のスピードについていけないようで「……あわわっ」と、口を酸欠の金魚のようにパクパクと動かしていた。

 それから雪菜の暴走は一分ほど続いた。逆に言うと、一分しか続かなかった。

 というのも、とうとうこころがシビレを切らしたからである。

「――落ち着いて、くださいっ! ……えと、凛葉さんは、とても大きな間違いをしています! ……です!」

 両手をパタパタと振りながら、こころは腹の底から声を出すようにして叫んだ。しかし”叫んだ”とは言っても、普段の話し声が小さいこころだ、それでようやく”ちょっと声が大きい人”ぐらいのレベルに到達である。

 だが、雪菜の心には届いたようだ。

「……あの、こころちゃん? 私、落ち着きますから、落ち着いてください」

 そう諭してやると、こころは、ふかーっ! と天敵を前にした小動物のように威嚇してきた。どうやら、まだ怒っているらしい。でも可愛いだけなので、あまり反省した気分にはならない。

 だが怒ったこころを見ているうちに、雪菜の心も落ち着いてきた。断っておくと、雪菜は平常を失っていたのではない。ただ寝惚けているだけである。

 明らかに拗ねていますよーといった感じのこころだったが、雪菜が落ち着きを取り戻したらしいことを知ると、やや満足げに頷いた。

「ふぅ……よかった、です」

 こころは、胸を撫で下ろしたあと深く息を吐いた。

「……どうやら困らせてしまったようですね。ごめんなさい、こころちゃん」

 雪菜は、体の局所を縛られて床に寝かされている状態――もっと分かりやすく言うと芋虫のような状態にも関わらず、頑張って頭をペコリと下げた。それに伴って、うるしよりも艶を持った黒髪がさらりと流れる。

 やっぱり動きにくいですね――と雪菜は改めて思った。

 そして、なぜ私は縛られちゃっているんでしょう――とも同時に思った。

「……あのですね、こころちゃん。初心に返って、もう一度だけ質問させていただいてもよろしいですか?」

「は、はい。……どこからでも、どうぞ」

「ありがとうございます。では遠慮なくお聞きしますが――どうして私は、このように縛られた挙句、こんな人気のない工場などに放置されているのでしょうか」

「……覚えて、ないんですか……?」

 なぜか。

 こころは、とても悲しそうな顔をした。

 いや、その表現は正しくない。あれは悲しそうというよりも、まるで雪菜を哀れんでいるかのような顔だ。

 違和感があった。

 あのような表情を向けられる覚えなど、雪菜にはない。

 それよりも気になるのは、こころが口にした『覚えてないんですか?』というワードである。この言葉から導き出される予想は、雪菜は現状を把握するだけの知識を持っていないのではなく、ただ忘れているだけという結論に達する。

 つまり――雪菜は、何か重大なモノを見落としている?

 そう前提としてみたが、まるで見当違いというわけではなさそうだ。

 雪菜は物憂げな顔で思考する――確かに、現状に至るまでの記憶がすっぽりと抜け落ちている。ここ数時間以内にあったはずの出来事が、完全に思い出せないのだ。

 もちろん大体の事情は理解している。

 例えば、街で猟奇的連続殺人事件が起きたこと、それが餓鬼という魑魅魍魎によって引き起こされたこと、サトリの妖が人里に下りてきたこと、青天宮が出動したこと、士狼と悪霊退治をしたこと、士狼に足の怪我を見てもらったこと、士狼に素足を見せてしまったこと、士狼の背中におんぶされたこと――などなど。

「……むむ」

 瞳を閉じて過去を想う――すると、なぜか脳裏によぎるのは、その大半が士狼のことだった。

 そういえば、あのときは緊急事態ということで雪菜も気にならなかったが、いま思うと恥ずかしいことをしたものだ。これまで男性に素肌を晒したことなど、きっと父親ぐらいにしかない。だから雪菜にとって素足を見せるのは、普通の女性がお腹や背中を見せることに相当するぐらい恥ずかしいのである。

 ふと気付いたころには、雪菜の身体は明らかに熱くなっていた。自責の念に駆られたというか、若気の至りを突きつけられた気分というか、まあそんな感じである。

「あの……凛葉さん。……顔が……赤い、です」

 薄闇の中であっても、雪菜の肌は元々が色白なので、頬が朱に染まったかどうかは一目瞭然なのだ。

「いえ、それは気のせいです。私はですね、ちょっと暑いだけですよ。いやー本当に困ったものですねー地球さんは。二酸化炭素に負けてしまうなんて、ちょっと信じがたいですよ。なんと言いますか――地球温暖化、まじぱないって感じです」

「……えと、……こ、コメントに困りますっ」

「これは失礼しました。また話が脱線してしまったようですね。では、一度落ち着きましょうか。はい、いっせーのーで、で深呼吸をしましょう」

「……凛葉さん、……つかみどころが、ないです」

「そうでしょうね。私、自称陰陽師ですから」

「えっ――じ、じしょう……? …………あやしい、です」

「あまり褒めないでください。照れます」

 アイスクリーム頭痛を堪えるような顔のこころとは対照的に、雪菜は平然とした顔で、相変わらずの淡々とした抑揚のない口調で、そんなことを言ってのけた。

 むー、と顔をしかめるこころを、雪菜は芋虫のような体勢で見つめていた。まあ手首を繋がれ、指を封じられ、足首を縛られているのだから仕方ないのだが。

 それでも不本意だった。

 だって雪菜は、いちおう年頃の乙女なのである。だから清潔がいいし、可愛いものが好きだし、オシャレにも(和服の種類にも)気を遣っている。異性の目だって気になる。少なくとも、今の状態を男性に見せるわけにはいかない。見せたくない。

 だから根本的な問題を知っておく必要がある。

 雪菜は、ここ数時間以内の記憶がない。ゆえに現状を理解するだけの知識もまた、ないのである。だから、なぜ自分が拘束されているのかが分からない。

 要するに――雪菜が意識を失っている間、意識があったこころという少女に話を聞くのが、一番手っ取り早いということ。 

「――こころちゃん。そろそろ真面目な話をしましょう」

 もぞもぞと和服に包まれた身体をくねらせながら、雪菜は真剣な声色でそう言った。

「……あたし、ずっと、真面目でした。……凛葉さんと違って……あたしは」

「ええと――もしかしてこころちゃん、拗ねてます?」

 いいえ、と首を振るこころ。

 でも頬が微かに膨らんでいるような気がするのは――きっと見間違いじゃないだろう。

 雪菜は、こほんと咳払いをした。

「では、こころちゃん。早速ですが、お聞きしたいことがあります。今度は単刀直入に伺いましょう」

「……どうぞ」

 明らかに信用されていないような目を向けられているが、雪菜は気にせず続けることにした。

 すぅ、と深く息を吸い込む。すると新鮮な空気が肺を満たし、脳内がクリアになる。

「――こころちゃん。どうして私は、このような場所で拘束されているのでしょうか」

 やはり最終的な疑問と言えば、これしかない。

 さきほどから脳裏に疑問の答えらしきものがちらついているのだが――どうしても、その答えを掴み取ることが出来ない。何かを思い出そうとすると、思考に靄がかかったみたいに上手くいかない。

 しかし、この倉庫で目覚めたばかりの時と比べると、幾分か過去を思い出せそうな気もする。このペースでいくと、もう少し頭がハッキリしてくれば完全に思い出せるだろう。

 だが雪菜はしばらく糖分を摂っていないし、身体もほとんど動かせない。だから脳が上手く回らないし、全身に血だって巡らない。

 結論として――こころに答えを教えてもらうのが一番早い。

「……やっぱり……覚えて、ないんですね」

「どうでしょう。覚えていない、というよりは、思い出せないと言ったほうが近いかもしれません。薄っすらとでしたら、記憶に残っています。とにかく痛かった――ような気がします」

 やはり。

 こころは、とても悲しそうな顔をした。

 まるで――今にも消えてしまいそうな表情。

 どこまでも沈痛な面持ち。

 やがて、その小さな唇が震えるようにして言葉が紡がれた。

「凛葉さんは、……さらわれたんです」

「……はい?」

 きょとん、と首をかしげる雪菜。

 さらわれた?

 一体だれが?

 もしかして、私が――?

「……えと、分かりやすく言うと……囚われの、お姫様……ということです」

「はあ。分かりやすい説明、どうもありがとうございます」

 雪菜が呆けた顔をしていたので、さらわれたという言葉の意味を理解していないと思ったのだろう。こころは、数少ないボキャブラリーの中から、最も現状に合った例えを選んでくれた――らしい。

 もちろん思い当たる節もある。

 だって、捕虜や人質もびっくりするほど厳重に拘束されているのだ。雪菜だって分かっていたはず。これには明らかな悪意がある、と。

「――こころちゃん、お願いがあります」

 でも、どうしても頭がハッキリとしてくれない。

 だから雪菜は、少々強引な手段に出ることにした。

「……お願い、ですか……? ……あたしに、出来ることなら」

 幸いにも、こころは頷いてくれた。

 その心意気を無駄には出来ない。ここは胸を張って、自信満々にお願いするべきだろう。

「ありがとうございます。

 ――それでは、こころちゃん。どうか私の額にデコピンをしてください」

「はいっ…………はい?」

「理由は聞かないでください。ちなみに私は、わりと真剣ですのであしからず」

 意味が分からない、と首を傾げていたこころだったが、雪菜の瞳が冗談を言っていないと看破したのだろう。とりあえず了承してくれた。

 雪菜とて痛いのは嫌いである。しかし、今は手段を選んでいられない。寝惚けた頭を覚醒させるには、痛みを与えてやるのが手っ取り早いのだ。

「じゃ、じゃあ……いきますっ」

「はい。どこからでも構いません。私を、こころちゃんの好きなようにしてください」

 とか立派な言葉を口にしているものの、雪菜の瞳はぎゅっと閉じられていた。しかも眉間に皺まで寄っている。それは、どこからどう見ても恐がっていた。

 こころは躊躇いを隠せない様子だったが、やがて覚悟を決めたらしい。雪菜の前髪を梳くようにして広げて額をあらわにさせると、その場所へ向けて、中指を勢いよく叩きつけた。

 パチン――と乾いた音が鳴る。

 こころは非力だが、それでも痛いデコピンをするぐらいは可能だった。

「痛っ――くはありませんからね。いやーそれにしても、こころちゃんの痛いは、なかなか指ですねー。少々侮っていましたよ」

「わわっ――り、凛葉さんっ、落ち着いてくださいっ、……バレバレですっ」

「失敬ですね、私は落ち着いています。こころちゃんのおかげで頭もスッキリしましたし。あとは――」

 雪菜は思わず口を閉じた。

 こころも、どうしたのかと追求してくるようなことはなかった。

 二人は固まっていた。

 なぜって――薄闇の中に、優しい月光が入り込んできたから。

 つまり倉庫の入り口が開かれたのだ。

 もっと分かりやすく言うと、雪菜とこころではない――第三者が現れたということ。

 そして、それが正義の味方でないことはすぐに分かった。むしろ悪の親玉だと雪菜は思った。相手の容姿は、月明かりが逆光になっているせいでシルエットしか見えないのだが、それでも理解してしまった。

 不気味な――妖気。

 濃密ではなく、ひたすらに鋭い――妖気。

 雪菜は、この気配に覚えがあった。

 頭ではなく、身体が覚えていた。

 その瞬間――雪菜は、全てを思い出した。欠けていた記憶を補完した。

 まるで走馬灯のように、風景と情景が脳裏を駆け巡っていく――衝撃と爆発に見舞われたビジネスホテル、濃密な血の臭い、倒れて動かない人の手、誰かの叫び声、北条という名の青年、そして――強い妖力を持った妖の男。

 金色の髪と、潰された目と、切り落とされた耳と、血の滲んだ包帯と、刻まれた服と。そんな満身創痍な体で平然と笑みを浮かべる――妖。

 なぜ、これほど大事なことを忘れていたのか――と雪菜は自分を責めた。

 しかし思い返してみれば雪菜は、自分がどのようにして意識を奪われ、ここまで運ばれ、そして縛られたかが分からない。この男と対面したときの記憶はあるが、それからどうなったのかが思い出せない。

 未知の本質とは、すなわち恐怖。

 自由の本質が不安であることと、少しだけ似ている。

 雪菜は息を呑み、瞳を細めた。

 そのとなりで、こころは両腕で自分の身体を抱きながら震えていた。


「――ただいま。

 いや、すこし遅くなってしまったな。レディを待たせるなんて、私も礼儀がなっていない」


 雪菜が警戒心をあらわにしているのは知っているはずなのに、その男――九鬼は、紳士的な声でそんな暢気なことを言った。

 やがて倉庫の入り口が静かに閉じられて、柔らかな月光が遮断される。結果として、倉庫内は暗闇に支配されてしまった。この薄暗さには慣れていたはずだったのに、一度外の明かりを見てしまうと、不思議と心細さが増す。

「貴方は――!」

 雪菜は怒りを隠そうともしなかった。身体は拘束され、あまつさえ地面に転がされているのに、それでも気丈に顔を上げた。

「恐いな、せっかくの美人が台無しだよ、凛葉。まあ君の気持ちも分かるがね。そのような体勢と状態を女性が好むわけがない」

「……言いますね。私を拘束した張本人が」

「ふむ、これは痛いところを突かれたな。困ったね、ああ困ったよ。でも落ち着いてくれないかな。まずは怒りを収めようじゃないか、これでは話もできない」

 負傷した体を庇うように、重い足取りで九鬼は歩く。その動きを、雪菜は目で追っていた。

 しばらくして――どこから取り出してきたのかは分からないが、九鬼は古びたパイプ椅子を雪菜たちから離れた位置に置いて、その上に腰を降ろした。

「……この妖気。まさか、鬼ですか?」

 瞳を閉じて霊感を働かせていた雪菜は、ある種の勘からそのような結論に達した。

 ほう、と感嘆するように九鬼は息を漏らす。

「さすがだな、凛葉の少女よ。恐るべき霊的知覚能力と言うべきかな。忌野家の子や、北条の少年でさえ、私の正体には気付かなかったのに」

「っ――忌野くんと北条さんに、いったい何をしたのですか……?」

「さあ。ただ忌野家の子は分からないが、北条の少年は殺していないよ。こう見えても約束は守る妖なんだよ、私はね」

 ひとまず雪菜は安心した。

 九鬼が北条を殺していないというのなら、もう二人は大丈夫である。忌野のほうは、生死を確認する必要もない。だって、あの人が簡単に死ぬわけなんて、絶対にないのだから。

「……それにしても、君は随分と中途半端なんだな」

 椅子に座りながら、傷に巻かれている包帯を新しいものに替えながら、九鬼は呆れたように言う。

「中途半端――?」

「ああ、文字通りの意味だよ。だから聞き返さなくてもいい。

 初めて君を知覚したとき、そして今も同様だが――およそ人間には有り得ない莫大な霊力を持っているなぁ、と感心したものだよ。畏怖したとさえ言っていい。いくら凛葉の人間だからと言っても、ここまで来ると人に許された領域を超えているんじゃないか、と神様に文句を言いたくなる。

 ――だからこそ、惜しい。確かに君は、強い霊力を持っている。きっと時代が時代なら歴史にさえ名を残しただろう。けれど、その霊力を扱うすべだけは致命的に下手だ。これはね、宝の持ち腐れどころの話じゃないよ。

 馬鹿みたいに強い霊力を持っているくせに、それを上手く扱うことができない――ほら見ろ、中途半端だろう」

 指摘されたのは――事実だった。

 凛葉雪菜という少女は、類稀なる霊的な素養を持って生まれた。生まれたのだが、それだけだった。

 もちろん基礎的な訓練は実家で受けてきたし、幼いころから退魔関連の知識だって叩き込まれてきた。だが、それだけだった。

 要するに、雪菜が習ってきたのは基本ですらない――ただの基礎だけ。

 それは当然と言える。だって雪菜は、まだ女子高生なのだ。だから青天宮に所属していないし、高校に通うようになってからは凛葉の実家に帰ったこともない。ならば応用的な訓練など、受けていなくて当然。いや、受けていないのが自然。

 もちろん雪菜は、そこらの陰陽師よりは圧倒的に強い力を持つ。けれど――それはイコールで、そこらの陰陽師よりも腕が立つという意味ではない。むしろ陰陽師としての腕ならば、雪菜は一流の人間と比べると、未熟な部類に入るだろう。

 それでも雪菜が実戦で立ち回れるのは――生まれ持った莫大な霊力のおかげ。言ってしまえば、力技である。

 一流の陰陽師は――少ない霊力を効率よく使用して、消費した霊力に見合った術を発動させる。

 対して、雪菜は――莫大な霊力を惜しげもなく使用して、どのような術も無理やり発動させる。

 量より質か。

 質より量か。

 ――否、雪菜はそのどちらも持っている。持っているからこそ、一流の陰陽師よりも力だけならば強いのだ。

 ただし、それは効率という面で見れば最悪だ。また咄嗟の融通も利かず、応用も効かない。しかし術の方法さえ知っていれば、それがどれほど難解で困難な術であったとしても発動してしまえるのだから、ある意味では始末が悪い。

 雪菜とて自覚はしていた。自分の腕が未熟だと。

 それでも、誰かを守るだけの力はあった。

 誰かを守るだけの力が中途半端にあったからこそ、本格的な訓練は受けていなかった。もっとも、本格的な訓練を受ける必要など、今の雪菜にはまだない。だって青天宮に所属していない平凡な女子高生の身で、妖や悪霊と対峙すること自体が、そもそもおかしいのだから。

 雪菜は、常人を遥かに凌ぐ能力を持って生まれた。

 ――だからこそ、誰かを守ることが出来たし、自身を危険にも晒してきた。

 その結果が、今このときである。

「まあ無理はないと思うし、それが間違っているとも言わないがね。そもそも凛葉の人間が最前線に出ることは稀だからな。だから君は、これ以上に霊能力を高める必要はないはずだ。

 君を中途半端と称したことは――そうだな、素直に謝罪しようか。清らかな乙女に告げていい言葉ではなかったな」

「……貴方は、一体何が目的なのですか」

 雪菜は戸惑っていた。

 九鬼という妖が、あまりにも紳士的で、あまりにも悪意がなくて、あまりにも――人間臭かったから。

「ふうむ、これは難しい質問だな。なにが目的か、と聞かれると答えに窮する。……そうだな、少し語らせてもらおうか」

 体全身の傷をあらかた応急処置した九鬼は、顎をさすりながら、そんなことを言う。

 雪菜は、沈黙によって肯定を示した。

 こころは、震える身体を必死に抑えながら蹲っていた。

「私の目的はね、凛葉。本当にちっぽけなものなんだよ。復讐とでも言えばいいのかな。とにかく陰陽師が憎くて、退魔に関連する輩が憎くて、それらを生み出した人間という生き物が大嫌いだったよ。そして、私の体内にヒトの血が流れているという事実にも苛立った。まあ、それも母の血と思えば何とか我慢できたんだがな。

 あれは、どれぐらい昔かな。明治ぐらいだったかな。とにかく私の家族が君たちに殺された時期だよ。いや、あの頃の私は酷かった。手当たり次第に人間を食い散らかして、鬼の力を制御するすべを学んで、日本内部の闇と言われる裏社会の情勢についてを知り、青天宮という組織を研究した。ほとんど睡眠を取った記憶もないよ。それだけ君たちを憎んでいたんだな、当時の私は。

 しかし、どうしたことかな。今の私は、それほど君たちを憎んでいない。というよりも、憎むことが出来ない。言ってしまえば、蝋燭みたいなものかな。憎悪という炎を灯された瞬間は勢いよく燃えるが、やがて蝋燭が尽きたとき、残っているのは燃えていたという事実のみ。つまり、今の私に残っているものは、君たちを憎んでいたという事実のみなんだよ。ゆえに感情の面では、君たちを憎んでいないんだ。憎むことができないんだ。

 だからと言って勘違いするなよ。私が君たちに復讐してやろうという気持ちだけは絶対に変わらない。そのために凛葉、君を連れてきたのだからな」

「……話は分かりました。貴方は、私を」

 殺すつもりなのでしょう――と雪菜は続ける。

 降り注ぐ雪のような透明感を持った声。それが震えていなかったと言えば、きっと嘘になる。

 当然のことだが、雪菜は死ぬのが恐い。

 殺されるのが恐い。

 もうみんなと会えないのが恐い。

 シャルロットと、千鶴と、ニノと、沙綾と、公人と、智実と――久織透子と、如月紫苑と――そして宗谷士狼と。

 大切で、温かくて、幸せで――そんな、かけがえのない生活をやっと見つけたのだ。

 かつて独りだった自分は、己の殻に閉じこもっていた自分は、泣きたくても泣けなかった自分は、もういないのだ。そんな自分じゃなくても、もういいのだ。

 なのに――殺されるのか。

 あの陽だまりのような日々には、ずっと笑いが絶えない暦荘という家には、帰ることが出来ないのか。

 ……でも、いいかな、と雪菜は思った。

 覚悟はしていた。

 人知れずみんなを守ろうと決意したときから、いつかこんな日が来るのではないかと予想していた。

 だから。

 死に対する後悔はあっても――恐怖はない、はず。

 命乞いなんてしない。

 陰陽道の名門である凛葉家に生まれた人間として、最後まで足掻いてやる。そして死んでやるのだ。

 ――そうして、雪菜は覚悟を決めたのだった。


「ふむ、どうやら君は勘違いしているな。

 最初に誤解を解いておこうか、凛葉。私はね、君を殺すつもりなんて微塵もないよ」


 しかし。

 返ってきた言葉は、あまりに予想外すぎるものだった。

「……殺すつもりなど、ない?」

「ああ。何度でも言うが、殺すつもりなんてないよ。

 どうして――とでも言いたげな顔だな。いや、もちろん私も迷ったよ。どうやって君たち一族に報復してやろうかってね。だが皆殺しなんて、あまりにも呆気なさすぎるだろう? 死とは一瞬だ。全員を殺してしまっては、それを後悔し、憎悪する者がいなくなる。逆に、一人だけ――例えば君だけ殺したとしても、その悲しみは当代で終わるだろう。やはり一瞬だ。

 だからね、私は考えたんだよ。ずっと考えてきたんだよ。どのようにして君たち一族を苦しめてやろうかと。そして、ようやく思いついたわけだ」

 パンと両手を叩き、九鬼は立ち上がった。そして、ゆっくりとした足取りで歩き出す。

 こつん、こつん――と、薄暗い倉庫内に足音が残響する。それを、雪菜は複雑な心境で聞いていた。

「――ま、待って、ください……!」

 そのときだった。

 恐怖でガタガタと震えた――けれど強い意志を持った声が、九鬼の歩みを遮った。

「何の真似だ、サトリ」

 剣呑とした問い。

 それもそのはず。

 九鬼の進行方向上には、ここから先には行かせないとでも言うように、小さな両手を目一杯横に広げて佇立する――こころがいたから。

「……や、約束が、違います。……あ、あた……あたしが、あたしがっ……あなたの、言うことを聞けば、この人は……た、助けてくれるってっ」

 その声は、きっとブリザードに曝される人間よりも、なお震えていたと思う。

 薄闇の中、雪菜の位置からでも、こころの身体が恐怖に支配されていることが分かる。今にも倒れてしまいそうだ。

「約束か。ああ、確かにそうだったな。安心したまえ、私は約束を守る妖なんだ。凛葉の命は助けてやるし、手足をもいだり、その他重要な器官を潰したり、ということもしない」

「……本当、ですか……?」

「鬼という種族に誓おう。だから、そこを退いてはくれないかな」

「……この人を、助けてくれると、いうなら……どうして、近づく必要が……あるんですか?」

「凛葉に近づかなければ駄目だからだ。彼女の命は間違いなく助けてやるが、その前に少しだけ用があってね。

 それにな。私が君たちを殺そうが殺すまいが、もう私は終わりなんだよ。この街には、すでに青天宮の本隊がやって来ている。いや、これは油断していたよ。あまりにも青天宮の動きが円滑だと思って調べてみると、どうやら【如月】の人間が中継に立っていたらしい。

 ともかく、あと数時間もしないうちに私は殺されるだろうな。思い切って逃げてやってもいいが、それも面倒だ。というよりも、逃げる時間が惜しいのだよ」

 言うが早いか。

 九鬼は、流れるような動きで、こころの背後を取った。

 そして、うなじの辺りを掴むと――そこから青白い電流を迸らせた。一瞬だけ、倉庫内は電灯を用いたときよりも遥かに明るくなった。

「――こころちゃん!」

 雪菜は、身体を傾がせる少女の名を呼ぶことしか出来なかった。

 だが、こころが地面に倒れこむ前に、それを九鬼が支える。

「安心しろ。別に殺してなどいない。ただ、ちょっと邪魔だったからな。意識を奪っただけだ」

 それは真実だろう。

 こころは気を失っているらしいものの、耳を澄ましてみれば微かな呼吸音が聞こえてくる。

 九鬼は、こころを丁寧な所作をもって地面に寝かせた。

「子供はいいな。実に無邪気だ。人間も、妖も、吸血鬼も、人狼も――きっと子供のときだけは、みんな尊いのだろう。だからこそ、これからの行為を見せるわけにはいかない。

 ……サトリの少女よ。我らが妖の同胞にして、心を視る者よ。もう一度、母親に出会えるといいな」

 規則正しい呼吸をするこころの寝顔に向けて、九鬼は優しげな声で、そんなことを言った。

「――さて、では本題に移るとしようか、凛葉の少女よ」

 ゆらり、と幽鬼のごとき様相で九鬼は、雪菜に近づく。

 当然のことだが、拘束されている雪菜は逃げることが出来ない。むしろ身じろぎすることさえ至難。

 身体全身に嫌な汗をかく。それは緊張からか、恐怖からか。きっとどちらでもあるだろうし、どちらでもないだろう。

 やがて九鬼は雪菜に近づくと――あろうことか、その和服に包まれた身体の上にのしかかった。

 分かりやすく言えば、雪菜は押し倒されたような体勢だった。

「きゃっ――!」

 普段の雪菜からは想像もつかない可愛らしい声が漏れる。

 それは女性的な悲鳴だった。意図してのものではなく、自然のうちに喉から発声された声。

 要するに、今の雪菜には取り繕うだけの余裕がないのだろう。  

 艶のある黒髪が床に広がる様子は、ひたすらに壮観だった。闇の中に浮かび上がる白磁の肌は、きっと男性ならば誰だって生唾を飲み込む。そこらの女など比べものにならないほど整った顔立ちは、神にでも愛された証拠か。

 和服に隠された身体は、平均的な女性よりも発育が良い。ゆったりとした和服の上からでも分かるほどに膨らんだ胸も、女性的な曲線を描く体つきも、くびれた腰も、白く細長い足も。

 ただ美しいだけではなく、一種独特の雰囲気を併せ持ち、それがまた凛葉雪菜という少女のルックスを整えていた。仮に、雪菜と同等の容姿の少女がいたとしても、その少女は雪菜よりも美しくないだろう。

 九鬼は、雪菜の頬に手を添える。

「――言い忘れていたが、私の母は霊的家系の生まれでね。だが鬼の血を引く父と結ばれるため、退魔の業を捨てたんだ。ロマンチックだろう?」

「それが――」

「慌てるな、本題はここからだ。

 お前が知っているかどうか分からないが、基本的に青天宮では鬼と――いや、妖と交わった人間は殺されても文句は言えない。まあ近代になるにつれて、その傾向は弱くなっているようだがな。

 だが――交わるだけではなく、子を宿したらどうだ? 鬼は、温厚で無害なサトリとは違い、種族そのものを鏖殺されてしまうほどに危険視されている。ならば、鬼の子を宿したのなら、その女はどうなると思う?」

 ドクン――心臓が跳ねる。

 最悪の予想が――脳裏によぎる。

 九鬼は、雪菜のことを殺さないと言った。また、重要な器官を傷つけないとも言った。そして絶対とも言った。

 けれど、少しだけ用があると言う。

 ……その用とは、一体なんだ?

「青天宮の連中が来るまで――まあ二時間もかからないだろう。だがそれだけあれば、十分に種付けできる」

「――え?」

 あまりにも絶望的な一言によって、雪菜の思考が停止した。

 この男は、いま何と言った――?

「聞こえなかったのか? ならば、もっとハッキリと言ってやろう。今から私は、お前に私の子を孕んでもらおうと思っているんだが」

 相変わらずの紳士的な声で、真摯的に、けれど最悪の未来を告げる。

 それは雪菜にとって――ある意味では、死よりも辛いこと。

 身体を陵辱されてしまうぐらいなら、いっそのこと殺されたほうが何倍もマシだった。

「なあに、安心していい。たっぷり二時間も交わり続ければ、きっと子を宿せる」

 それからも九鬼はなにかを言っていたようだったが、雪菜の耳には入ってこなかった。

 交わるだの、子を孕んでもらうだの――そんな遠まわしの言葉を使ってはいるが、その行為の本質だけは変わらない。

 愛のない性交など、あっていいわけがない。

 大好きな人以外との行為など、古風な家柄に生まれて躾けられてきた雪菜にとって、絶対に考えられないことだ。


「――凛葉よ。私は、お前と交わろうと思う。

 そして鬼の子を宿したまま【凛葉】に帰れ。果たして、妖と関係を持った君が殺されるのか、もしくは出産を許されるのかは分からない。だが、どちらに転んでも【凛葉】に禍根を残すことが出来る。鬼の血を入れてやることができる。

 痛快だ、ああ痛快だな。お前の父親は、愛する娘を手にかけるのか、それとも我が子可愛さに青天宮から必死に隠すのか。それを見届けられないことだけが無念だがね。まあ確認するまでもないか。私の母親の末路を鑑みれば、自ずと結果は一つしか残らないだろうからな」


 恐らく――もう九鬼は死んでもいいと思っているのだろう。

 ただし、自分の代わりとなるものは残していく。憎悪の連鎖は続いていく。

 両親を殺された九鬼は陰陽師を恨み、

 娘を陵辱された父親は鬼を恨む――そうやって負は、螺旋のように永遠に続いていく。

 九鬼は、和服の肩口あたりを掴んだ。そして強引に引っ張る。

「やめ、て――くださいっ!」

 雪菜が身をよじったおかげで、かろうじて胸元が露出することは避けられたが、それでも白い鎖骨が顔を見せていた。

 腕を繋がれ、指を封じられ、足を縛られ――そんな雪菜は、霊能力を行使できない。口が回れば簡易的な術は発動できるが、それにも高い集中力が必要になってくるため頼れない。

 第一、祝詞だけで編んだ術式が、この鬼に通用するとも思えなかった。

「予想以上に動けるようだな、これは骨が折れそうだ。本来ならば君が気を失っている間に事を済ませるのが一番だったんだが、それではあまりにも味気なさ過ぎると思ってな」

「っ――だれ、か……!」

 最後の悪あがきをしながら、雪菜は必死に助けを求めた。

 でも、だれに?

 この倉庫内には九鬼と雪菜しかいないし、こころは気を失っている。

 だったら、雪菜は誰に助けを求めたというのか。

 ――そんなの、決まっている。


「――士狼……さん!」


 そして、その人の名前を口にした。

 たったそれだけのことで、雪菜の胸には安堵が広がったような気がした。

 宗谷士狼という名前は、字面も響きも、どちらも好きだ。深夜に勉強しているとき、ノートの片隅に書いたりしたこともある。もちろん、すぐに消しゴムで痕跡を消したのだけれど。

 ――だから、きっと雪菜の淡い想いが奇跡を起こしたのだろう。

 少なくとも、雪菜はそう思った。もしも奇跡でなく偶然ならば、神様を小一時間は説教してやりたくなる。それほど雪菜には運命的なタイミングに思えた。

 閉ざされていた倉庫の入り口がゆっくりと開く。

 ――それによって九鬼の動きが止まる。

 全き闇の中を一筋の月光が切り裂いていく。

 ――それによって雪菜の身が守られる。



 やがて。

 ――そうして、その者は現れた。 

 


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