其の七 『約束』
シャルロットが目覚めたときには、すでに日は完全に落ちて、辺りは闇に包まれていた。
ここは暦荘の大家の家である。風呂に入り、食事を取ったシャルロットが眠そうにしていたので、大家――高梨沙綾が三度目の好意で床を貸したのだ。
暖かな日向の匂いがする布団から抜け出して居間に向かう。そこにはラップに包まれた一人分の食事の他に書置きがあって、「用事で出かけます、今夜は泊まっていってくださいね」と書かれていた。
「うーん、いい人ばっかだなぁ」
人懐っこい笑みを浮かべて、ありがとうございます、とシャルロットは頭を下げた。それから洗面所で顔を洗って、ありがたく食事を頂こうとしたところで――ふと気付いた。
「あれ、そういえば士狼はどこだろ。自分の部屋かな」
とりあえず、おはようと挨拶を――夜だが――しようと思ったシャルロットは家を出て、暦荘のとある一室に向かう。朝、凛葉雪菜が出てきた扉の一つ奥。205号室が士狼の部屋だった。
階段を登って、明かりが漏れた雪菜の部屋の前を恐る恐ると通り過ぎ、ようやくといった感じで士狼の部屋の前へとたどり着いた。
遠慮がちにノックする。
「士狼ー? おはよー。よかったら一緒にご飯食べない? ねえ」
そこまで言ってシャルロットは、そういえば大家さんの家には一人分の食事しか用意されてなかったな、と思い出した。……しかしそれも持ち前のお気楽さですぐに忘れた訳だが。
ノックを続けていると扉の開く音がした。あれ、と首を傾げると今度は声がする。開いた扉は自分の眼前のものではなかったのだ。
「あら吸血鬼さん、こんばんは。士狼さんに御用ですか?」
相変わらずこの暦荘に似合わない和服を来た凛葉雪菜が、若干迷惑そうな顔で立っていた。防音性に優れているとは言いがたい物件だ。きっとノックの音を煩わしく思ったのだろう。
「あ、雪菜おはよー」
手を上げて挨拶するシャルロットに、雪菜はため息を漏らした。
「おはよーって貴女どんだけですか。私はもうすぐ寝るところです」
「あはは、ごめんごめん。でさ、士狼知らない?」
「……? 部屋にいませんか?」
「うん、居ないけど。だからどうしたのかなって思って」
すると雪菜は考え込むような素振りをし、「少しだけ待っていてください」と部屋に戻っていった。シャルロットが手持ち無沙汰に月を見ていると、時間にして一分ほどしてから、また扉が開いた。
「どうやら士狼さんは、この辺りにはいないようですね」
「どうして分かるの?」
不思議に思って問うてみると、雪菜は和服の袖で口元を隠してこほんと咳払いをした。
「自称陰陽師には、式神というものがあってですね」
「え、ほんと? 凄いっ!」
「……ぷぷ――そうでしょう。お褒めいただき、ありがとうございます」
「ちょっとちょっとっ! その引っかかったとでも言いたそうな含み笑いはなによ!」
追求するシャルロットを、のらりくらりとした態度でかわす雪菜。
「――しかし、変ですね。士狼さんが今居るのは方角と距離から見て恐らく、およそ人がこのような夜に行くべき場所だとは思えません。こんな時間に一体、そういった場所に何の用があるのでしょうね」
「え……それは」
なんだろう。士狼という人間を完全に理解しているわけではないが、彼が何の意味もなくそのような場所に赴くとは考えにくい。
「あ――」
そこで初めてシャルロットは、一つの可能性に気付いた。それは本来なら決して有り得ない”もしも”だ。しかし彼女には、そんなもしもを現実にしてしまいそうな人間に心当たりがあった。
それは直感や、虫の知らせとかそういった類のものであったと思う。一つのビジョンが頭に浮かんだのだ。白い髪をした男が、何故か黒いスーツを着た者と対峙している姿。
何度も言うが、本来ならそんな光景が起こり得るはずがない。しかしそれは網膜に焼き付いてしまったかのように、いつまで経っても頭から離れることはなかった。
考え出すと止まらない。
有り得ない。
馬鹿な考えだ。
全ては杞憂なのだ。
そう信じたい。
――そのように思い浮かぶ全ての楽観しようとする気持ちが、けれど、という一言によって壊された。
「――お行きなさい。吸血鬼さん」
思考が止まる。
その名の通り、静かに降り注ぐ雪に似た透明さを含んだ声。
神から信託を受けた巫女のようでもあった。
「え、雪菜……?」
「ここに居れば結界が張ってありますから、貴女の存在が漏れることはありません。士狼さんは、どんなことがあっても必ずこの暦荘に帰ってくる。だからここで待っていればいい。……でもね、いいですか、シャルロットさん。女という生き物は、時に男を追わなければならない――そんな不憫な生き物なんですよ」
その声は淡々と話すだけの感情の薄い口調だったが、シャルロットの背中を押すには十分だった。
弾かれたように走り出す。雪菜に行ってきますとか、ありがとうとか、そういった言葉を返すのももどかしかった。アパートの二階から飛び降りて、着地すると同時にまた駆け出した。
士狼はおらず、シャルロットも居なくなり、一人になった雪菜は小さくあくびをして、
「帰りをお待ちしております、士狼さん。……ついでに、吸血鬼さん」
最後に。
夜空に君臨する三日月にそう呟いて、部屋に戻っていった。
――全てを知る自称陰陽師は、知っているが故に何もしない。
走る影が一つあった――そう思った次の瞬間には、もう一つ影があった。
響く音が一つあった――そう思った次の瞬間には、もう一度音が鳴った。
吐息の白い、撃てば響くような、そんな冬の夜。
夜の帳を切り裂く月光の下、宗谷士狼とロイは殺し合いを行っていた。
それは両者共に超人的な動きだったと肯定しよう。今この場に第三者が現れたとするならば、その者は二人の争いを『ワイヤーアクションを用いた映画の撮影』と答えるだろう。
そんな二人を挙動を見せず眺める影があった。黒いスーツに銀髪をした吸血鬼――カインである。
彼がロイと組んでいるのは相性もあるが、一重に人間のロイでは吸血鬼を探しきれないのが大きい。吸血鬼には同族を感知する力がある。感知といっても匂いや気配で漠然と感じ取る程度だが、元々吸血鬼を探す方法など無いということを踏まえれば、十分に活用できるセンサーと言えた。
吸血鬼は吸血鬼を判別できる。もちろんカインも例外ではない。……だからこそ信じられなかった。ロイと戦闘を繰り広げるあの男は、間違いなく人間のはずなのに。
持っている獲物の差――それを全く感じさせず、宗谷士狼はロイを明らかに上回る力で立ち回っていた。
直線的のようで、歪曲的とも言えるような緩急のある動き。隙を見せたかと思えばそれは誘い込みであったり、ちょっとした悪手でさえ妙手に変えてしまう。縦横無尽に駆け回るその姿はまるで孤高の狼のよう。
「――白い狼、か」
意識せずとも口から言葉が出る。
伝え聞いた話は関係ない。ただ宗谷士狼という男を見ているうちに、自然とその単語が口についたのだ。
ロイは決して弱くない。むしろ純人間として強すぎる部類に入る。
元々ロイはとある剣術の家系に生まれ、剣と共に育ってきた人間だ。成長するにつれ周りに敵う人間のいなくなった彼は、自分と対等な者のいない世界に失望した。そして吸血鬼狩りの話を聞き、カインと出会ったのだった。
そんな彼をカインも高く評価している。吸血鬼狩りの中でも多くの吸血鬼を狩り、同時に罪のない吸血鬼を見逃してやるだけの優しさも持っている。その実力は最早人間というよりは吸血鬼のそれに近い。
しかし――ロイでさえ、士狼には善戦にしかならないのだ。きっと本人は互角に争っているつもりだろうが、それは気持ちよく闘わせてもらっているの間違いだった。
――良い人間を見つけましたね、シャルロット。これなら――
そうカインが思考したときだった。
「ん……これは」
眼前の闘争に意識を集中していたせいか気付くのが遅れた。同族の気配が、この建設地に迷いなく向かってくる。
「やれやれ、面倒なことになりそうですね」
カインは肩を落とすと、重いため息をついた。
シャルロットは走り続けていた。
目的地は分かっている。雪菜に大体の方角と距離を教えてもらったからだ。あの自称陰陽師は掴み所がないけれど、このような時に嘘をつくような人間ではないことをシャルロットは理解していた。
それに彼女は吸血鬼である。まだ力の不安定な幼い彼女でも、同族の気配ぐらいなんとなくでいいなら捉えられる。その微弱にしか感じられない気配を、まるで切れそうな蜘蛛の糸を掴もうとするかのように辿り続けた。
やがて宵闇の中に浮かび上がってきたのは、人の侵入を阻むためのバリケードだ。およそ高さにして三メートルはあるだろうか。
微動だにしない背高いカベを、シャルロットは陸上競技のハードルのような気軽さで飛び越えた。所詮バリケードと言えど人間を阻むためのもの。そんなもので吸血鬼を止めることなどできはしない。
マンション建設予定の敷地に進入した彼女の耳が、鉄のぶつかり合うような音を聞いた。――もうすぐだ。再び走り出した矢先、深紅の双眸が遠くに疾走する影を捉えた。
そう。
それに集中するあまり、警戒を怠ったのだ。
「止まりなさい、シャルロット」
「!? あ、あなた――!」
シャルロットの後頭部に、何か冷たい鉄の棒のようなものが当てられた。それが闇夜に紛れる黒いサイレンサーだとは容易に想像がついた。
未だ遠いが――それでも目に見える位置で士狼が戦っている。その事実だけでも、いてもたってもいられなくなるのに。
こうして身動きすらできないとは何ともどかしいのか。
「今夜は何用でしょう。今この場において、貴女がすべきことは無いはずですが」
「ふっざけないでよっ! あなたたちが士狼にちょっかいかけてるんじゃないの!? それなのに何用でしょうとか、白を切るのにもほどがあるよ! これ以上、私を怒らせたら大変なことになるんだからっ! そろそろ燃やすよっ! ホントに燃やしちゃうんだからねっ!?」
「? ……ふむ。まさかとは思いますが、彼から何も聞いていないのですか」
「っ――何かって何よ」
「――なるほど、把握しました。確かにこれでは貴女が混乱する意味も分かります。いいですか、シャルロット」
そうしてシャルロットは事の顛末を聞いた。
昨夜が過ぎ、カインとロイに接触してきたのは士狼だということ。そして自分が血を彼女に吸わせることで吸血鬼狩りの目を逃そうとしたこと。交換条件として、ロイの満たされない戦闘意欲を士狼が相手をすることで解消していること。
――全てを聞いたシャルロットは、後頭部に銃口を当てられているにも関わらず、へなへなとその場に座り込んだ。
「ば、バカじゃないの――? なんでそこまで……っ、私のためにしてくれるの……? こんなの、きっとおかしいよ。だって私って迷惑かけてばっかりだもん。嫌われるならともかく、好かれることなんてないはずだもん」
俯いて、震える声で――自嘲するように言う。
その呟きは――どこまでも懺悔に似ていた。
「確かにそうですね。私も理解できません。貴方の言うとおり、このようなことはきっとおかしいのでしょう。しかし彼――宗谷士狼は言っていましたよ。アイツの帰る家をどうにかしてやる、と」
「――っ」
その言葉を聞いた瞬間、彼女の赤い双眸に涙が浮かんだ。
士狼の声が頭の中で聞こえる――お前泣き虫だな、と。
あれはシャルロットが士狼に初めて出会った夜のことだ。手持ちの金もなく、食料もなく、ひとりぼっちでただ血を吸う相手を探していた。
別にその夜に吸わなければいけない事もなかったけれど、あまりに寒くて、凍えそうで、息は白くて、そしてひとりぼっちで。……せめて血を吸って、誰かを側に感じたかった。
その相手として目に付いたのが宗谷士狼という人間だった。一人で真夜中に、酒に酔っている様子もなく空を見上げて無警戒に歩く男。本来なら彼の生命活動に支障をきたさない程度に血を吸って別れるはずだった。――それがどうして、こんなことになってしまったのか。
士狼にそのことを言ったのは、彼が何でも屋を仕事としていると聞いたときだ。
――私、帰るとこないんだけど、どうしたらいいかな――
それは仕事の依頼というよりは、単なる相談に近かった。親が死に、ひとりぼっちで生きていくことになった自分はどうすればいいのだろうと。別に明確な道を示して欲しかったのではない。ただ聞いて欲しかっただけだった。
シャルロットが告白して以来――仕事を引き受けたとか、こうすればいいだとかは全く聞いていなかった。だから自分の一言が士狼に届いているとは思ってなかったのだ。
カインから伝え聞いた言葉が、士狼の声となって脳裏で聞こえる。
――お前の帰る家、どうにかしてやるよ――
「っ、士狼――!」
途端、シャルロットが弾かれたように駆け出す。
あまりに刹那の出来事だった。カインは引き止める言葉をかけることも、引き金を引くこともできなかった。
「くっ、待ちなさい! そちらに行ってはいけません!」
慌ててカインが後を追う。しかし出遅れた分、距離は開きその差は埋まらない。
交差する影。その中間にシャルロットが躊躇することなく向かっていく。
――これからの結末を知るのは、きっと神の目を持ってしても不可能だろう。