表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
第四月 【守る物、護る者】
68/87

其の十 『迂闊』③

 それは最高の幸運だったのか、もしくは絶対の不運だったのか。

 青天宮における三つの実働部隊の一つである”軌跡処理班”に所属する男――北条は、自分が直面している現状を鑑みた結果、そんなことを思った。

 ――軌跡処理班は、退魔班や除霊班とは一線を画した部隊だ。前線に出ることはなく、ただひたすらに事件の事後処理に徹する。裏に位置する青天宮の中でも、さらに裏で仕事をするのが軌跡処理班の人間だった。

 もちろん、三つの実働部隊に優劣はない。

 青天宮という組織を正しく機能させるには、”退魔”か”除霊”か”軌跡処理”の一つでも欠けると駄目なのだ。これは不変の事実。

 しかし、現場で働く人間にとっては別だ。

 退魔の家に生まれた者は、その大部分が、幼少のころから厳しい訓練を積まされる。血に宿った素養を引き出してやるためだ。言ってしまえば、才能を開花させるということ。もしくは原石を磨くと言い換えても間違いではない。

 もちろん、それは北条も例外ではなかった。敬愛する姉と、優秀な兄と。その二人と比べると、北条自身の才能はそれほどでもなかったが、だからこそ人一倍に努力をしてきた。

 みんなを救うだけの力が自分にあるなどと過信はしていなかったが、せめて困っている人を何とか笑顔にしてあげることぐらいは、北条にも出来るつもりだった。

 高校を卒業するのと同時に、北条は青天宮に入った。元から就職や進学をするつもりはなかった。むしろ、青天宮で働くことこそが北条の幼いころからの夢だったのだ。

 日本の表舞台には立たない青天宮だが、それでも普通の会社と同じように新人の研修がある。数ヶ月に渡って行われるそれで、新人たちの顔合わせ、一般的な体術や武道の訓練、霊的な能力の強さ、そして個々の人格や優秀さまでもが判定される。

 その研修で出たデータを元にして、新人たちの配属先が決定されることとなる。

 もちろん各々の希望もある程度は反映されるが、全ての意見がまかり通るわけではない。仮に、新人の行きたい部隊を自由に選ばせてやるとなったら、退魔班か除霊班に人が集中するに違いないから。

 結果として――北条は、軌跡処理班に配属されることとなった。

 ややこしい理由はない。ただ、その年の新人には北条よりも実戦能力に優れた者が多かった。さらに北条自身、霊的な素質は平凡なものの、頭脳に長けておりデスクワークに真価を発揮すると、研修を担当した教官に判断されたのだ。

 実は、三つの実働部隊のうち最も重要とされるのが軌跡処理班。そして北条のような人材は、上の人間からすれば是非とも欲しい人材だった。

 退魔班から、軌跡処理班へ。

 軌跡処理班から、退魔班へ。

 初期に配属された部隊から、数年の月日を経て移籍する者も少なくない。特に退魔班は人材不足が嘆かれている上に、毎年少なからず死傷者を出している。人気はあれど、やはり自分には過ぎた仕事だと判断して(または嫁を貰う、子が生まれる、といった理由で保身を第一に考えて)、比較的安全な軌跡処理班へ移る者も多いのだ。

 だから、北条にもチャンスはあるはずだった。これからより一層修行に励み、上司に能力を認めてもらい、退魔班への推薦状を書いてもらう――などが最も現実的だろうか。

 やはり退魔の家系に生まれた者は、そのほとんどが幼少から厳しい訓練を積まされてきただけあって、実際に霊能力を行使して人々の役に立ちたいと思うものだ。

 軌跡処理班では、デスクワークや書類整理が仕事の大半を占めているせいで、霊能力を使う機会があまりない。せいぜいが式神を連絡手段に使うぐらいだろうか。それも昨今の通信機器の発達により、あまり例を見なくなったのだが。

 今回の一件――サトリの妖が人里に下りてきたために魑魅魍魎が寄ってきた一件――の数ヶ月前に、北条は一般人に式神を使っているところを目撃されるという減給もののミスを犯してしまっていた。

 それは、退魔班への移籍を密かに狙っている北条にとっては、まさしく痛恨だ。さらに追い討ちをかけるように、晩御飯のおかずさえも一品減ってしまった。食欲旺盛な歳若い男性にとって、夕飯の量が減るのはわりとキツイものがある。

 けれど、北条は諦めていなかった。減給されようと、晩御飯が減ろうと、上司から先のミスのことをいつまでも話のネタにされようと、決して諦めてはいなかったのだ。

 いつだって熱意が空回りしてきた北条だが、どんなに嫌なことがあったとしても絶対に下を向かないのが自分の長所だと分かっていた。

 だからではないが、今回の猟奇的連続殺人が端を発した事件において、北条は多大な戦果を上げてやろうと心に決めていた。与えられた仕事は文句も言わずこなして、人一倍に活躍してみせようと。

 もしも自分の目の前に標的である妖が現れたのだとしたら、そのときは有無を言わずに祓ってやろう――そう北条は思っていた。それが己の霊能力を上司に誇示する手っ取り早い方法だからだ。

 ……ああ、そう。

 絶対に、自分は活躍してやるのだ――と北条は意気込んでいた。

 それこそが、退魔の家に生まれた者の努めであり、本来の生き方。

 ゆえに、どんな危機的な状況だろうと、それは歓迎すべきもののはずなのだ。危機とはすなわち現状を打破するチャンスでもある。

 例えば、誰も倒せない強大な敵が現れたという”危機”を、偶然でもいいから北条が倒してしまえば、それは大きな”チャンス”となるだろうから――

 北条は、勤務時間の間に設けられた休憩時間の途中にトイレに寄っていた。

 元はといえば、休憩時間帯が同じだった同僚たちと食堂で遅い夕飯を摂っていたのだが、食後のコーヒーを飲んでいるあたりで急に催してしまったのだ。

 だから同僚たちに一言断ったあと、北条はトイレに向かった。

 用を足すこと自体はすぐ済んだのだが、北条にはすこし考えたいことがあって、個室の便座に座ったまま腕を組んでうーんと思考していた。

 ――脳裏に浮かぶのは、和服を着た一人の少女だった。

 かの凛葉家の息女だと名乗った少女。冷静になってみると、それは虚言だったのではとも思ったのだが、事情を知る上司に聞いたところによると、どうも真実らしい。

 青天宮を一つの会社だと単純に考えると、鮮遠家は社長であり、凛葉家は副社長に相当する。そして北条家は、課長といったところか。

 なぜこのような場所に凛葉の人間がいるのだろうか。【鮮遠】や【凛葉】クラスの家柄になってくると、現場に出てくるのは、まあそうそうない。

 何より北条が恐れたのは、凛葉家という新人から見れば天上人にも近い人間に、悪印象を持たれてしまったのではということ。それは出世……ではなく、退魔班への移籍を狙っている北条にとっては痛手かもしれないのだ。

 ――やってしまった……。

 そう便座に腰掛けて、頭を抱えながら北条はため息をついた。

 ――でも……とても綺麗な女の子だったなぁ……。

 同時に、そのようにも思った。

 和風な家柄に育ったせいか、北条は大和撫子タイプの女性が好みだった。黒髪色白で、和服を着ていて、清楚で、つつましく、おしとやかで、料理が上手そうな女性が。

 偶然か運命かは分からないが、あの凛葉家の少女は、北条にとって自分の理想が具現化してしまったのでは――と真剣に思い悩んでしまうほどだった。なんというか、これまで漠然と脳裏に思い描いてきた将来の結婚相手の顔が、あの少女とピッタリと一致するというか。

 ――とうとう自分の時代がきたか……。

 口元をニヤリと歪めながら、そのときの北条は、やや浮かれていた。これは早速アプローチをかけてみるしかないだろう、とも愚考していた次第である。

 そうと決まれば話も早い。

 北条はトイレの便座から立ち上がると、自身に気合を入れるかのように声を出した。

「――よーしっ! がんばれ、自分! 燃えるんだ、自分よ!」

 両拳を天に掲げて、北条は高笑いをしながら、そんなことを叫んだ。


 ――それと同時に襲ってきたのが、地震のような衝撃と、鼓膜を突き破るかのような爆発音だった。


 まるで重力の法則が乱れてしまったかのように足元がおぼつかない。まるで一瞬のうちに夢の中へ潜り込んでしまったかのように体が頼りない。

 動き回ることなど出来ず、壁に手をついて倒れまいとするのが精一杯だった。大きな爆発のあとには、小さな爆発が連続して起きているらしく、いまだ衝撃と破壊音は続いている。

 そのせいか、建物自体がぐらぐらと揺れているような錯覚――いや、それはきっと錯覚ではなく現実だろう。

 このビジネスホテルは見た目よりも頑丈に作られているのだが、だからといって不安が完全に無くなるわけじゃない。もしかしたらホテルが倒壊して、自分の体が潰されてしまうんじゃないか――そんな予想さえ浮かぶ。

 けれど、逃げ出すことは出来ない。そもそも体を立たせていることで限界なのだから、足を前に出すだけの余裕なんて初めからないのだ。

 時々、電灯がバチと弾けるような音がして、視界が薄暗くなる。その数秒後には電気が復活して、またその数秒後には電灯が消える。そんな明滅を何度繰り返したか分からなくなったころ、とうとう視界が完全な暗闇になった。

 なおも続く揺れの中、北条は息を呑んだ。

 ――と、その直後に電気が復活する。恐らく予備電源に切り替わったのだろう。

 頭の中は未曾有のパニック状態だったが、身の回りに起こった事実をきちんと分析するだけの冷静さはギリギリ残っていた。北条も特殊訓練を受けてきた裏社会の人間である。いちおう修羅場と呼べるだけの危機的状況に遭遇して乗り切った経験もある。だから、そのあたりの一般人とは訳が違う。

 地震に似た揺れ。

 小規模な爆発。

 誰かが叫ぶような声と、慌しい気配。

 その場にあるのは、そんな不協和音にも似た噛み合わないものばかり。

 ここで北条が思ったのは、事態の究明や保身などではなく、一人の少女のことだった。

 宗谷士狼やシャルロット、そしてニノがホテルにいないことは分かっている。彼らは、いなくなったというサトリの少女を探しに出ているからだ。

 けれど、凛葉雪菜だけは別だった。どうやら彼女は足を捻挫しているらしく、満足に歩き回ることが出来ないらしい。だから大人しくホテルで待機しているようなのだ。

 つまり、あの凛葉家の少女は、この揺れと爆発が相次ぐ地獄のような中に一人でいるのだ。

 いくら強い霊力を持っているといっても、彼女はか弱い女の子。しかも足を負傷しているということは、今の北条のように足を踏ん張らせて体を支えることさえも出来ていないだろう。

 心配だった。雪菜が凛葉家の人間だとか、好みの女性だとか、そんなことはまったくの関係無しに心配だった。

 元々困っている人や弱っている人は放っておけない北条だ。それは誰かを助けたいというよりも、困っている誰かを見捨てる自分が我慢ならない、といったほうが正しい。

 青天宮に所属する人間は、例外なく訓練を積んでいるから大丈夫だろう。

 しかし、凛葉雪菜は別だった。彼女は高い素養を持ってはいるようなのだが、専門的な訓練は何一つとして積んでいないはずなのだ。

 いくら凛葉家の人間と言えども、雪菜という少女はまだ高校生。基礎的な霊能力の訓練は受けているだろうが、それでも現場での動き方は知らないはず。

 だから北条は心配でならなかったのだ、雪菜のことが。

 ――そうこうしているうちに、いつしか揺れは止んでいた。爆発音もしない。いちおうは電気系統も安定しているようで、蛍光灯の類は、爆発の衝撃で割られているものを除けば比較的無事だった。

 トイレの個室にいた北条は、ロックしていた扉を開いて外に出た。清潔に掃除が行き届いた男性用トイレは、危険がなさそうという意味では大丈夫だったが、ところどころの壁に亀裂が走っている。さらに手洗い場付近の鏡が割れており、排水溝のあたりに銀色の欠片が散乱していた。

 これは復旧が大変そうだな、と北条は思った。軌跡処理班に所属しているせいか、後始末には敏感なのだ、色々と。

 外に出てみると、やはり一目で異変に気付く。

 まず男性用トイレの内部と同様に、ホテルの壁には筋に似た亀裂が入っている。他にも、飾られていた観葉植物が元にあった位置よりも数メートルほど離れた場所に倒れていたり、自動販売機コーナーに至っては、その自動販売機自体がドミノのように倒れていたりもした。

 明らかに異常だった。

 しかし、北条が真に不気味に思ったのは。


 ――誰の気配もしないのだ。

 

 本当に誰の気配もしない。北条がトイレの個室にいたときは、遠くから叫び声に似た喧騒が聞こえてきたものなのだが。

 あるいは、もうみんな避難してしまったのだろうか。先に起こったのが爆発であろうと地震であろうと、それらが発生した現場から逃げなくてはいけないという事実は変わらない。

 いくら訓練を積んだ人間であろうと、建物一つを破壊してしまうような災害や兵器には単独で立ち向かえないものだ。だから、この場合に生きる訓練とは、学生の時分にもあった避難訓練ぐらいだろう。もっとも、学生の頃は遊び半分でやっていたものだが。

 けれど、実際に大きな火事や地震にあってみると、その認識は改められることとなる。

 ……どうしようもないのだ、本当に。

 一晩で森林を焼き尽くす火事も、一瞬のうちに街を破壊する地震も、避けようのない速度で降り注ぐ落雷も。いくら対策を積もうと、結局は無意味。だから本当の意味での対策とは、災害に遭遇したときにどうするかではなく、そもそも災害にどうやって遭遇しないか、というのが正解。

 当然のことながら、北条もこうした危機的状況のマニュアルは頭と体に叩き込んでいる。

 まずは焦らないというのが一つ。

 そして独断での行動はしないというのが一つ。 

 あと、出来れば対応力のある上司という立場にある人間から指示をもらうのが一番だ。

 脳内で緊急時のマニュアルを反芻した北条は、とりあえず同僚たちと夕食を摂っていた食堂に向かってみることにした。仲間はもう避難してしまっているかもしれないが、それならそれで安心できる。そのときは自分も避難すればいいだけの話なのだし。

 そうと決まれば行動は早い方がいい。

 耳鳴りがしそうなほどに静まり返った廊下を北条は歩く。それは慎重というよりは臆病に近い足取りだったが、勇敢と無謀を履き違えた愚かな気概を発揮されるよりはマシだ。

 ……それにしてもおかしい。人間の気配がしないだけではなく、こういった場合に出動するであろう緊急車両の音もしない。具体的には、警察や消防隊などだ。

 いくら青天宮が圧力をかけているとはいえ、さすがにホテルが爆発したという事態まで静観させっぱなしにするわけにはいかない。それは国家権力の威信にも関わるし、第一こういった野次馬の集まりそうな場合において警察は優秀なのだ。

 つまり――本来ならば、人間の声がそこかしこから聞こえて、ホテルの外ではサイレンが鳴り響いてなくてはいけない。

 しかしどうしたことか。

 爆発に見舞われたであろうビジネスホテルは、完全なる静寂に包まれていた。それがまた北条の意識を変な方向に持っていこうとする。さきほどの出来事は夢じゃないかとか。もちろん夢じゃないとは分かっているのだが。

 やや腰が引けた姿勢で歩いていくと、しばらくして食堂にたどり着いた。ホテル二階の半分ほどの面積を使って作られたそこは、普段はバイキング形式で食事を楽しむ場所だ。

 けれど――今となっては、美味い食事の影など一切ない。

 ただあるのは、まるで宮廷料理のような鮮やかさで並べられた――同僚たちの遺体だけだった。

「……なんだ、これは」

 恐怖も驚愕もない。

 目の前の現実を受け入れようとするのが難しすぎて、本来ならば付随するはずの感情が湧きあがってこない。

「――お、おいっ。……宮本? 畑中? ……返事をしてくれ、頼むから。

 なあ、みんな自分を騙してバカにしているんだろう? そうですよね、井戸川さん? もう拗ねたりしませんから、いつもみたいに自分が減給されたときのミスを話のネタにしてくださいよ、ねえ、お願いですから、だれ、か――だれか返事をして」

 北条は歩いていく。足を踏み入れることさえ躊躇われるような、そんな地獄と化した食堂に。

 壁にかかった観賞用の絵は地に落ちて、電灯は半分以上が割れていて、観葉植物は植木鉢ごとひっくり返っていて、テーブルは例外なく壊れていて、安っぽいマグカップは中身だったコーヒーごとぶちまけられていて。

 そして何より、人が何人も倒れていた。

 それは全て、北条の知り合いであり、仲間だった。

 つい十分ほど前までは談笑していたはずの大切なヤツらだった。

 ――彼らと北条は、一体なにが違っていたというのだろう?

 それは果たして、最高の幸運だったのか?

 または正反対に、絶対の不運だったのか?

 偶然にもトイレに行っていた北条は生き残ってしまい。

 食堂で北条の帰りを待っていた同僚は、例外なく死んでいた。

 ――否、死んでいたのではない。

 それは、どこからどう見ても――殺されていた。

 食堂にて冷たい体を横たえる同僚たちは、明らかに人為的な外的損傷を受けたために生命活動が停止している。犯人が誰かまでは分からないが、とにかく敵がいることだけは確かだった。

 すると。

 北条がトイレで体を支えていたときに聞こえてきた叫び声に似た喧騒は――同僚たちの断末魔だったのか。

「うっ――!」

 想像してしまうと、もう駄目だった。

 北条は、その場にうずくまって胃の中のものをひたすらに吐き出した。まだ消化しきれていない肉が喉を通り、床に垂れ落ちるのを見て、なんとなく勿体無いなと北条は思った。


「――大丈夫か、きみ」


 気遣うような声が聞こえるのと、北条の背中を誰かが擦るのは同時だった。

 それによって、不安でいっぱいだった胸中に安堵が広がる。まるで暗闇の中に一筋の光が差したかのように。文字通り死地となったこの食堂において――自分は一人ではないんだ、誰か力を合わせることができる人がいるんだ――という一種の連帯感が生まれた。

 ほとんど泣きそうになっていた北条は、ようやく笑みを浮かべることができた。

「あ、ああ……! 自分は、大丈夫だ……!」

 何度も何度も頷いた。

 背後にて自分の背中をさすってくれている誰かに泣き顔を見られたくはなかったから、まだ振り向くことはしなかった。北条は服の袖で双眸を拭いに拭って、水分を全て繊維に吸収させた。

 ――よし、もう本当に大丈夫だ……!

 心の中で自分に喝を入れた北条は、力強く頷いて立ち上がった。

「……ふむ、どうやら生き残りがいたようだな」

 すると、後ろから紳士的な声が聞こえてきた。このパニックにならざるを得ないような状況においても冷静な声色は、北条にとって尊敬にさえ値した。精神的な強さというのは、肉体的な強さよりも鍛えにくいからだ。

「ああ……自分は奇跡的に生き残ったらしい」

 やや覇気を取り戻した北条は、そろそろ後ろの彼と対面しようと振り向くことにした。

「そちらの方は――」

 なるべく頼もしそうな笑顔を作って、北条は背後を見た。

「ぇ――?」

 結果は、口から漏れた間抜けな疑問を聞けば分かるだろう。

 北条が見たものは、とにかく異常だらけだった。体全身を血に濡らした金髪の男が、悠然とした様子で佇んでいる。右目には血の滲んだ包帯を巻き、左耳は完全に切り落とされており、着ているシャツは血による斑模様ができており、さらに肋骨でも折れたのか、わき腹のあたりを片手で押さえている。

 ここで第一に思いついたのは、金髪の男が大怪我をしているのではないか、というものだった。

「――だ、大丈夫か!? いったいなにがあったというんだ!?」

 男に一歩近づいた北条は、しかしなにを処置すればいいのかも分からず、ただ心配することぐらいしかできない。

 そんな北条とは反対に、男は柔らかな笑みを浮かべていた。

「いや、私は大丈夫だ。心配しなくてもいい」

「――そういうわけにはいかないっ! 自分はともかく、あなたは今にも死んでしまいそうではないかっ! 放っておけるわけがないだろう!」

「そうか。君は優しいんだな、ああ優しいね。そういう人間は、ずるくて卑怯なヤツとは違い、本当の意味で強いものだ。この腐った世の中において、今の君のような人間は不利なんだろうが、それでも君みたいな人間がいるからこそ、やっぱり人間社会は回るんだろうな」

「――? あなたは、なにを言って」

「だからこそ残念だよ。ここにまた一人、死ぬべき人間よりも死ななくていい人間が、死んでしまうのだから」

 その言葉が合図だった。

 金髪の男が、北条の体にそっと手を当てる。すると青白い雷光が迸り、やや薄暗くなった食堂内を明滅させた。それによって生まれた強烈な電流は、無防備に立ち尽くしていた北条に直撃した。

「――がぁぁぁぁぁっ!」

 スタンガンを押し当てられたとしても、これほどの苦痛は生まれないだろう。

 本来ならば意識だけではなく、心臓さえも止まっていただろう一撃。

 けれど、不幸中の幸いにも北条が着ていた服は、青天宮が特別に作らせた対衝撃や耐火・耐電にも優れた一品だった。それが、かろうじて北条の命を繋ぎとめていた。

 自分の体から立ち上る煙を見て、北条は漫画みたいだなと暢気なことを思いながら、地面に倒れこんだ。

「ん? ……まだ生きているのか。君たち退魔の輩は、本当にしぶといみたいだな。あの忌野家の子といい、ゴキブリみたいな生命力だと思うよ」

 俯けに倒れた北条のうなじを、男は掴んで持ち上げる。それなりには体格に恵まれている北条を、いとも容易く持ち上げる筋力は、どこからどう見ても人間のそれとは思えなかった。

 体は指一本動かせず、声さえも満足に出せない――それが北条の現状だった。

 だから、何故と是非を問うことも出来ない。

「さて、ちょうどいい機会だし、君には質問をしようか。さすがにこの広いホテルの中から一人の人間を探し出すのは骨が折れる」

 金髪の男は、北条の喉仏のあたりを掴むようにした。そして宙に浮かせるようにして持ち上げる。

 ただでさえ痺れて声が出せないのに、万力のような力で喉を締め上げられる北条は、もはや呼吸さえも満足に出来なかった。しかし死ぬ気で酸素を求めれば肺に取り込めるレベル。それはきっと、男が絶妙な加減で力を緩めているからだろう。

 ここにきて――それは絶望的に遅い察知だったが――北条は、男の正体を看破していた。

 この金髪の男は――妖。

「まずは……そうだな。君の名前を聞こうかな」

「っ――ぁ、っ――――!」

「どうしたんだい? 声が出せるだけの余裕は与えているつもりだが。それとも、答えたくないのかな?」

 北条は数瞬だけ躊躇した。

 同僚たちを殺したであろう妖に、自分の名を明かしてもいいのかと。

 しかし、その躊躇はすぐに無くなった。

 殺されてしまうかもしれない――という恐怖の前に、北条は屈したのだ。

 目の前に標的である妖が現れたら、そのときは自分が退治してやろう――そう意気込んでいたのは他でもない北条だ。軌跡処理班から退魔班へ移籍するためには、上司に霊能力の強さを誇示するのが手っ取り早いから。

 しかし、それは自惚れだった。勘違いだった。夢物語だった。

 北条には確かな自信があったのに。平凡ながらも積み上げてきたものがあったのに。

 だが――そんなちっぽけなモノは、眼前に迫った”死”という絶対的な恐怖の前に崩れ去った。

 自分の命を他者に握られている感覚というのは、まさしく心臓を鷲掴みにされているかのような気持ち悪さがある。

 このときになってようやく。

 北条は、思い上がりが過ぎていたことを痛感した。

「――ほう、じょ、う――」

 だから力を振り絞って、北条は名を言った。

 死にたくはなかったから。殺されたくはなかったから。

 すこしでも時間を稼いで、助けが来るのを待つか、もしくは相手の隙を伺おう――なんて言い訳を自分にしながら。

「ほう――じょう――だ……っ」

 蚊が鳴くよりも小さな声で、もう一度だけ名乗る。もしかしたら男に聞こえていなかったかもしれない、と思ったゆえだ。でも、これで北条の名はきちんと伝わっただろう。

 けれど。

 男は、まるで幽霊を見たかのように怪訝な顔をするだけだった。名を教えろ、という要求にしっかり応えたというのに。

 驚愕に見開かれる瞳とは裏腹に、男の口元は徐々に歪んでいった。

 それは、どこまでも狂気的な笑みだったと思う。

「……ほう、じょう? まさか貴様、いま【北条】と名乗ったのか……?」

 その問いに、北条は頷くだけで返した。

「……く、くく、あ、はは、は、は、は――あはははははははははははっ!」

 響き渡る哄笑。

 右手で北条の喉を掴んで持ち上げ、左手で自身の顔を覆いながら、男は狂ったように笑い出した。

「――これは何たる偶然だ!? それとも必然か!? あるいは運命というやつか!? まさか【北条】の人間に会えるだなんてなぁ!」

 よほど可笑しかったのか、男の左目には涙が滲んでいた。

 周囲は台風が通っていったみたいに滅茶苦茶で、さらに人間の死体が片手の指では足りない数だけ転がっているというのに、そんなのは関係ないとでも言うように男は笑っていた。まるで取り憑かれたように。

 ここで困惑したのは、当然のことながら北条のほうだった。

「……な、にが――」

 おかしい、と言いたかったのだが、そこまで言葉にするだけの余裕はなかった。

 しかし男は気付く。

「ん? ――ああ、そういえば君は知らないのか。これは惜しいな。どうせなら君にも、この感動を味わって欲しかったのに」

 ひとしきり笑って満足したのか。

 男はもう声を出して笑うことはなく、ただ口端を不気味に歪めているだけだった。

「……それにしても、いまさら【北条】なんて歯牙にもかけていなかったのだがな。しかし、こうして対面してみると違う。気を抜くと感傷に浸ってしまいそうだよ、北条くん」

「――? ……どう、し――て……」

「気になるか? だが”知らぬが仏”という言葉を作り出したのは人間ではなかったかな? だから、君は知らないほうがいい。知らないほうが幸せなことも世の中にはあるものだよ、少年」

 煙に巻かれているように思った北条は、なんとか事情を聞き出そうとした。やけに気になったからだ。

 でも、二の句は継げなかった。

 なぜなら――男の狂気的な笑みの中に、ほんの一瞬だけ寂しそうな表情が浮かんだから。

「君は人間で、私は妖だ。だから絶対に相容れない。いまとなっては、それがすこしだけ惜しく思うよ。せめて今夜とは違う出会い方をしていたのなら、世間話ぐらいは出来たかもしれないのにな」

 男はそう言って、北条の首を絞める手に力を込めた。万力に似た五本の指が皮膚に食い込み、とうとう出血さえした。けれど、まだ窒息はしていないし、骨も折れていないのだから僥倖と言えるだろう。

 しかし、それも時間の問題。

 北条は生きているのではなく、生かされている状態なのだから。

「さて、そろそろ本題に戻そうか、北条くん。このホテルには、とびっきり強い霊力を持った人間がいるはずだ。心当たりぐらいはあるだろう? どうか教えてはくれないかな。私の問いに答えてくれるのなら、せめて命ぐらいは助けてあげよう」

 強い霊力を持った人間――その言葉を聞いた北条は、脳裏に一人の少女を思い描いた。

 十二大家の一つである【鮮遠せんえん】。

 その本流から派生した分家筋の【凛葉りんは】。

 青天宮の中でも、この二つの家系は霊的な素養という意味で飛び抜けている。かの大陰陽師である安部氏でさえ、源流を辿れば【鮮遠】に行き着くとまで言われるほどに。

 だから北条は、漠然とだが理解した。

 この男が探しているのは、凛葉雪菜だと。

「っ――、ぁっ――ぃ!」

「聞こえないな。あまり私の手を煩わせないでくれ。問い返すのも辛いんだ」

 体中に傷を負っている男は、涼しげな顔をしているものの、やはり相応の痛みはあるらしかった。

 それにしても酷い話だ。

 首を絞められている北条は呼吸をするのだって至難なのだから、言葉を発するだけの余裕など元々ない。それなのに男は、もっと大きな声で喋れと言う。

 そのうち脳に酸素が行き渡らなくなってきて、次第に思考がぼんやりとしてくる。

 両目には、感情とは無関係に生理的な要因で涙が滲んでくる。

 口端からは、嚥下することができない唾液が垂れてくる。

 それは、どこからどうみても絶体絶命な男の顔だ。必死すぎて、もはや滑稽でさえある。なにも知らない小さな子供が今の北条を見れば、きっと指を差して笑うだろう。

 事実、北条には何の力もない。

 強烈な電流によって体が痺れているので、抵抗することはできない。

 それなりに頭が回り、言い訳が上手いと上司に褒められたことはあったが、首を絞められている状況で普段どおりの発声をするのは厳しい。

 だから、何もできない。

 ちっぽけなプライドが邪魔をして、無様に命乞いをすることさえ出来やしない。

 でも――それでいいのだ、と北条は思う。

 自分が口を閉ざし続けることで、一人の少女が助かるかもしれないんだ。だったら、悩む必要なんてない。こんな大した取り柄のない男の命と、あの花のように可憐な少女の命だったら、どっちが大切かなんて考えるまでもない。

「――っ! げ――ぅっ、――ろ……っ!」

 そうだ。

 考えるまでもないんだ。

 だから――余力を振り絞って、叫べ……!

「……に、げろ……逃げ、ろぉ――――!」

 静寂に彩られた食堂に、北条の怒声に似た声が響き渡った。

 否、それは真実、怒りの声だった。

 自分の首を絞めている男に対しての怒り? いや、違う。

 同僚を無残に殺されてしまったことへの怒り? いや、違う。

 抵抗の一つも出来ない自分に対しての怒り? いや、違う。

 そんなのは、どうでもいい。

 北条が唯一つ、怒ったのは――この場に姿を見せてしまった彼女・・への、怒り。


「っ――北条さん……!」


 それは小さな声量にも関わらず、まるで鈴のように空間に木霊した。

 彼女は、普段は抑揚のない淡々とした口調のはずなのに、このときばかりは焦りを隠せない様子。

 荒い息遣いが聞こえる。よほど慌てていたのか、それとも捻挫している足を庇いながら四苦八苦して走ってきたからか、彼女は体力を消耗しているようだった。

 長い黒髪は額や首筋に張り付いており、白磁のような肌には珠の汗がいくつも浮かんでいる。

 煌びやかな和服は、その面影を感じさせないほど薄汚れていた。きっと先の爆発に彼女も巻き込まれたのだろう。足を負傷している彼女は、上手く体を支えることが出来ず、何度も転んだに違いない。

 あれほど清楚で美しかった少女は、いまや哀れに思うほど汚れてしまっている。

 けれど、黒曜石のような瞳には強い意志が宿っていた。

 北条と彼女の視線が交錯する。

 ――自分のことはいいから、君は逃げてくれ……!

 心の中でそう叫んだのは、どちらだったか。

 ――大丈夫です。あなたは私が守りますから。

 心の中でそう諭したのは、どちらだったか。

「……ふむ、これは僥倖といったところかな。まさか、わざわざ出向いてくれるとは。探す手間が省けたというものだよ」

 金髪の男が、勝ち名乗りを上げるように言った。

 もはや北条のことなど眼中にないとでもいうのか、男の視線は、和服を着た少女に固定されている。

「――? 君は……鮮遠家の人間? いや、違うか? ……だが似ている、とても似ている。とすると、もしかして【鮮遠】の血を引いているのかな」

「どうでしょう。よく真夜まやちゃんとは姉妹のようだ、と言われますが」

 暢気に会話などをしながら、少女は北条に向けてアイコンタクトをした。

 大丈夫ですか? お怪我はありませんか? と。

 しかし北条は、ただ叫ぶだけだった。

「――逃げろ、逃げ、て、逃げて、くれ……っ! 凛葉さん――!」

 その訴えには、果たしてどれほどの効果があったのか。

 和服を着た黒髪色白の少女――凛葉雪菜は、何の応答もせず。

 対して北条の言葉を聞いた男――いや妖は、醜悪に口元を歪めながら、ケタケタと微笑わらった。

 男は、言った。

「みーつけた」





 その爆発は、凛葉雪菜にとって致命的だったと言ってもいい。

 足を捻挫して満足に動けない雪菜は、宗谷士狼に足手まといになると指摘された。それは事実だ。誰かの肩を借りないと歩くことでさえ難しいのだから、だったら雪菜はホテルで大人しくしているのが一番だろう。

 雪菜という少女は、もともと頭の回転が速く、とても物分りがいい。だから士狼に言われるまでもなく、自分が足手まといにしかならないと理解していた。

 妖や悪霊と戦闘するだけというのなら、まだ雪菜は役に立てたはず。

 しかし、ホテルに帰ってこないこころを探すためには地を駆ける足が必要なのだ。シャルロットやニノは超人的な身体能力を持っているし、それは士狼だって同様だ。

 とすると、雪菜が足を負傷していなかったと仮定しても、やはり足手まといだと言われたかもしれない。

 この上なく歯痒かった。ただホテルでじっとしていなくちゃならないことが。

 だから雪菜は悶々としながら、自分専用に宛がわれたホテルの一室で待機していた。清潔かつ質素な白いベッドに腰を下ろして、足をぶらぶらとさせながら天井を見上げて溜息をついたり。

 そうこうしているうちに、雪菜は思った。

 ――そうだ、式神を使えばいいじゃないか、と。

 なぜ今まで考え付かなかったんだろう、と数分前の自分を責めたい気持ちになる。式神を使役すれば、雪菜自身はホテルにいながら、この街のどこかにいるであろうこころを捜索できる。

 どうも士狼から足手まといと言われたことがよほどショックだったらしい、と雪菜は自己分析した。しょぼん、と落ち込むことに精一杯で、ならば次にどう行動すればいいか、という考えに至らなかった。

 けれど、これで大丈夫。式神を使役すれば士狼の役に立てるし、足を使って探すよりも遥かに効率がいいはず。いわゆる人海戦術というやつだ。もっとも、人ではなく猫なのだが。

 さてさて、それでは準備を――と雪菜がベッドから立ち上がったとき、それは起こった。

 爆発だった。

 地震にも似ていた。

 連続する小規模の爆発がビジネスホテルをぐらぐらと揺らす。それはもちろん、雪菜がいる部屋も例外ではない。

 まるで洗濯機のようだ――と雪菜は思った。部屋中にあるものが次々と壊れ、移動し、軋み、割れて、潰れていく。

 暴力的な破壊音が鼓膜を突き刺して、雪菜は思わず両耳を押さえた。どうやら爆発源の一つが、雪菜がいる部屋の近くらしい。だから衝撃も音も半端ではなかった。

 手で耳を塞いで音を防いだのはいいが、すると今度は体を支えるものがなくなる。ただでさえ片足が不自由な状態。だから雪菜は、どこかに掴まって衝撃をやり過ごすべきだった。

 けれど、雪菜の選択は間違っているとは一概に言い切れない。

 これは耳を守るか、それとも体を支えるか、という二択問題。というより、雪菜が耳を押さえたのはほとんど反射だったのだから、彼女を責めるのは間違いだろう。人間なら、誰だってそうする。

 雪菜は足をもつれさせながら床に倒れこんだ。それは格好悪い姿だったと思う。はたから見れば、きっと情けないのだろう。

 だが、そんな身だしなみを気にする余裕などなかった。一体なにが起こっているのか、という混乱が邪魔をして雪菜に思考をさせなかった。

 まるで床そのものが脈動しているかのような衝撃に雪菜は翻弄された。立ち上がろうとして、転んだ。捻挫している足が気になったが、アドレナリンが分泌しているのか、不思議と痛いとは感じなかった。

 しばらくして、雪菜は寝転んだまま頭を抱えているのが最善だと判断した。それは正解である。和服は運動に適していないし、片足も満足に機能しないので、無理して立ち上がろうとするよりも床に伏せているほうが賢明なのだ。

 ただし、床に身体を寝かせることは、イコールで安全という意味ではなかった。

 部屋自体が乱暴に揺らされているのだ。だから雪菜の身体もそれに呼応して、上下左右にごろごろと転がった。その過程で体全身をベッドの足やらにぶつけてしまい、軽度の打撲を受ける。和服だって汚れた。

 その爆発と揺れは、きっと全体から見れば僅かな時間だった。そもそも爆発とは一瞬で始まり、一瞬で終わるものだ。それは今回も例に漏れない。ただ雪菜は被害者側だったから、体感的に長く感じただけだろう。悪夢というのは、いつだって終わりが見えないものだ。

 気付けば、ホテルを襲っていた衝撃は消えていた。爆発音は止み、部屋を洗濯機によってかき回していたような揺れも無くなっていた。

 ただし荒れに荒れた部屋と、体中をぶつけてしまった雪菜は、元通りにはならない。

 雪菜は痛みを我慢しながら身体を起こす。意外と、と言えば御幣があるかもしれないが、雪菜の身体は無事だった。

 ――いったい、なにが……?

 ふらつく頭を押さえながらも思考を開始する。

 と、そこで雪菜は気付いた。

 ――結界が……消えている?

 正式に青天宮に所属しているわけではない雪菜は、当然のことながらビジネスホテルに張ってある結界について特に説明を受けていない。

 しかし優秀な陰陽師である雪菜は、一目見ただけで理解していた。展開している結界の数、種類、規模、強度などを。

 ”霊感”とは、異端の正体を看破したり、霊的なものを感じることができる能力を指す。そして雪菜の霊感は、現代に生きる陰陽師の中でも指折りつきだった。シャルロットを一瞬で吸血鬼と見抜いた雪菜にとって、ホテルに張っている結界を見破ることなど造作もなかった。

 ここで雪菜は思った。

 先の爆発は、結界の基点を破壊するためだろう――と。

 なぜなら、と語るほどの必要はない。あえて言うとするなら、爆発が起こったわりには被害が小さすぎることが一つ。それに、爆発が発生すると同時に結界が消えたことが一つ。これらは偶然として結び付けるには、あまりにも出来すぎた必然だ。

 だが犯人の狙いが分からない。このビジネスホテルに爆弾を仕掛けた理由はなんだ?

 青天宮に恨みを持つ人間の仕業か? 

 それとも退魔を取り纏める【鮮遠】か、このビジネスホテルに資金を提供している【如月】、これら両家に対する牽制?

 少なくとも妖ではないだろうな、と雪菜は思った。妖が近代兵器を使ったという話など聞いたことがない。それに拳銃とかならともかく、爆弾を扱うには相応の知識が必要なはず。知識とは、すなわち学ぶのが前提。妖が人間から何かを学ぶなど、ありえない。

 なにがなんだか分からなかったが、とにかく外の様子を伺ってみようと思った雪菜は、部屋を出ることにした。足を引きずりながら、ところどころ痛む身体をいたわりながら。

 廊下に出ると、やはり異常な事態だと気付く。人の気配がしないのだ、あれほどの爆発と衝撃だったのにも関わらず。

 ――あれは……?

 それは雪菜が廊下を歩いていたときのことだ。その部分の廊下は壁一面がガラス張りとなっており、外の様子が伺えるようになっている。

 遠い夜の街並み。その遥か遠くの道路に、雪菜はサイレンを光らせながら走る緊急車両を見た。まだ距離が遠すぎるせいか、サイレンの音は聞こえないのだが、それでも彼らが目指しているのはこのホテルであり、そして到着までそう時間はかからないだろうことが分かる。

 どうやら青天宮による圧力にも限界があったらしい。……いや、もしかしたら青天宮から警察や消防署に出動を命じたのかもしれない。

 ホテルが爆撃されたのは、どこからどう見ても衆目の事実。ならばいまさら隠すことは不可能だ。よって、ここは隠蔽するのではなく、騒動を鎮火させることに全力を注ぐべきだろう。警察は、そういう意味では非常に優秀だ。

 けれど、青天宮が手を回したにしては早すぎるような気がする。基本的に青天宮は頭が固い組織。これほど柔軟かつ早急な対応は、雪菜が知る限りでは珍しい。

 ひょっとすると、警察や消防署を動かした第三者がいるのかもしれない。国家権力をいとも容易く操れるような、そんな卓越した頭脳を持った何者かが。

 ――まあ、考えるのは後回しだ。

 雪菜は、力ない足取りで階段を下りていく。彼女がいたのは八階だった。よって、一階まで歩き続けるのは至難。まあエレベーターは使えないのだから仕方ない。

 その最中、雪菜は見たくもないものを見る羽目になった。

 それは――人間の遺体。

 断っておくと、なにも直接遺体を見たわけじゃない。ただ五階の休憩所には人の血が撒き散らされていて、さらに壁一面に張られた窓が割られていた。戦闘があったのは明らかだろう。そして、あれだけの血液が床や壁や天井に塗りたくられているのだから、そこに何があるのかは考えるまでもない。

 強烈な血の匂い――はしなかった。窓が派手に割られているからだ。もしかすると誰かがあそこから落ちたのだろうか。

 そんなことを考えながら、雪菜は誰かの遺体と出会わないようにしながら一階に向かう。少しでも血が見えた場所は迂回して。

 これが普通の女子高生ならば気が狂っていたかもしれない。腰が抜けて前へ進むことも出来なくなっていただろう。それぐらい今のビジネスホテルは地獄染みている。

 しかし雪菜は、一般家庭ではなく、裏にあるべき退魔の家系に生まれた。だから、そういう知識を教えられ、そういう教育を施され、そういう耐性を身体に仕込まれてきた。

 さらに雪菜は幼いころから人知れず妖を祓ってきた身だ。公式記録には残っていなくとも、カタチあるものを退治してきたという事実は変わらない。

 要するに、そういった非日常と非常識に満ちた雪菜の生まれと育ちが、皮肉にもこういう状況の耐性を作っている。

 ――もっとも、だからと言って雪菜も大丈夫というわけじゃない。むしろ吐き気を堪えるので精一杯だ。トラウマになりそうなレベルである。

 でも足を止めるわけにはいかない。このホテルから一刻も早く出ることが先決だし、それに救助を求めている誰かがいるかもしれない。

 しばらく階段を下りて、ようやく三階まで辿り着く。

 相変わらず人気はない。ほんの十分ほど前の雪菜は、爆発音によって耳鳴りがしていたが、今は静寂によって耳鳴りがしていた。

 だが耳を澄ましてみると、どこか遠くからサイレンの音が聞こえる。どうやらパトカーや消防車が現場に到着するのは間近らしい。

「……それにしても、今回の一件がお父様のお耳に入ると大変なことになりそうです……」

 わざと声に出したのは、きっと自分を元気付けるため。

 雪菜の父は、厳格そうな態度を装っているのだが、その実は相当な親馬鹿だった。だから雪菜の身が危険に晒されるようなことがあれば、是非も問わずに連れ戻すだろう。

「……とは言ったものの、きっと青天宮のほうから凛葉に何かしらの連絡がいくでしょうし、これは面倒なことに――ん?」

 家族の顔を脳裏に浮かべて苦笑していた雪菜は、そこでようやく違和感に気付いた。

 というよりも、なにか叫び声のようなものを聞いたのだ。

 それはビジネスホテルの二階にある食堂あたりから聞こえたような気がする――とまで考えた雪菜は、自分の鈍感さに腹が立った。

「これは――妖気……!?」

 思わず息を飲む。この気配は、間違いなく妖のもの。

 なぜ今まで気がつかなかったのか――と雪菜を責めるのは酷というものだろう。この半ば死地と化したホテルで正気を保ち、そして足の痛みを押し殺しながらも気丈に歩いているのだから、それだけで雪菜は限界だった。

 自分の面倒を見るのですら満足には出来ない状況なのに、吐き気をこらえるので精一杯なのに、遠く離れた場所にいる妖にまで気を回せ――というのは無理がある。

 とはいっても、ホテルの八階から三階まで下りてきた雪菜は、ようやく妖の存在に気付いた。それも誰かの悲鳴をきっかけにして。

 こうしちゃいられない、と雪菜は走り出す。捻挫している足を庇うように、無事なほうの足に重心を傾けて、それはもう不器用な走り方で。

 痛みを堪えながらする運動は、雪菜の身体に珠のような汗を浮かばせた。本来はあまり汗をかかない体質なのだが、このときばかりは例外だった。

 転がるようにして階段を下りて、人の声が聞こえてきた方向へと向かう。

 そこは、元々は食堂として調えられた場所だった。ホテルにある施設の中で最も広大なスペースを誇り、そして昼夜問わず賑わうところだ。

 雪菜が記憶している限り、このホテルの食堂は小奇麗で清潔感があった。目を引くような装飾の類はなかったが、白を基調とした配色で、壁には目を楽しませる鑑賞画がかかっており、随所には目を休ませる観葉植物が置いてある――はずだった。

 爆発による衝撃に見舞われ、そして人間の亡骸が見受けられるその食堂は、もはや地獄。


「っ――北条さん……!」


 激しい運動をしたせいか、肺が貪欲に酸素を求めてくる。

 しかし、それでも雪菜は叫んだ。長い間水分を摂っていないせいか喉が痛かったけれど、彼の名を呼ばずにはいられなかった。

 青天宮における三つの実働部隊の一つである”軌跡処理班”に所属する男――北条。仕事が出来そうな風貌をしているくせに、どこか抜けていて、なのに憎めない人。

 ほんの僅かな時間しか話したことはなかったが、それでも雪菜は北条が嫌いではなかった。

 事実――先ほどから北条は、妖に喉を掴まれ持ち上げられているのにも関わらず、雪菜に向けて何度か「逃げろ」と言ってくれた。自分の命よりも他人の命を優先できる男性は、雪菜にとって非常に好印象である。

 だから、絶対に助けてみせる。

 雪菜が凛葉家の人間であることを知ると、その妖は狂気的な笑みを浮かべた。

 そして、ケタケタと哂いながら言う。

「見ーつけた」





 金髪の男――九鬼は、やはり自分はツイている、と確信さぜるを得なかった。

 飛んで火にいる夏の虫とは、まさにこのことだろう。探しに探していた【鮮遠】の血を引く人間を、ようやく見つけることが出来た。しかも向こうから姿を見せてくれるとは。

 もはや北条のことなど眼中にはなかったが、それでも九鬼は彼から手を離さなかった。相変わらず命を握ったままである。

 当然だ。

「――動くな、凛葉」

 狂気的な笑顔はなりを潜めて、代わりに冷徹な声が凛葉雪菜を牽制した。

 北条の首を絞める指の力が強まる。破かれた皮膚からは赤い血液を垂れ流している。ここまで来ると、窒息させるというレベルを超えて、首の骨をへし折ってしまいそうだった。

 事実、九鬼が右手にほんのちょっと力を込めれば北条の首は折れるだろう。

 そして、そうなるかそうならないかは、九鬼ではなく雪菜の行動によって決まる。

「……人質のつもり――」

「がっ――ぁっ、あぁあ―――っ!」

 雪菜が苦々しい顔で放った言葉は、北条の叫びによって掻き消された。

 何のことはない。

 ただ、九鬼が握力を強めただけだ。しかしそれは万力のごとく北条の咽頭を潰そうとする。

「――凛葉。貴様は私の指示があるまで、絶対に声を出すな。口を開くことも禁ずる。同時に、目や指も動かしてはいけない。このうちの一つでも破られた場合……そうだな、ここに一人の人間が散ることになるだろう」

 雪菜は反論したい様子だったが、必死の思いで堪えたらしかった。

 それを確認した九鬼は、指の力を緩めた。同時、北条が赤い血を混ぜた咳を繰り返す。

「……よろしい。君が余計な真似をしなければ、この男の命だけは保障すると誓おう」

 九鬼は、数十年をかけて陰陽師について研究してきた。それはほとんどが徒労に終わったが、中には役に立つ知識もあった。

 まず陰陽師は、神木の欠片などの媒体がなければ式神を括れないし、退魔札を手に持てなければ術を行使できない。よって、それらを持つ”指”を封じる。

 さらに”口”を封じることによって、祝詞を紡いだり、簡易的な術を発動させるために必要な”言霊”を禁止させる。

 最後に”目”を封じたのは、陰陽師の中には視線の動きだけで相手に暗示をかける、という技術を持った者もいるからだ。

 ――指、口、目。これらを封じられただけで、陰陽師は羽をもがれた鳥同然となる。それは単純だが、だからこそ確実な手。

 元来、青天宮では人質にとられた人間は見捨てるのが是とされている。つまり、この場合の北条は、もう死んだものと扱われる。そういう様々な取り決めが書かれた誓約書に、北条はサインしている。

 しかし、雪菜は青天宮の人間じゃない。だからこそ九鬼の提案――いや、命令は効果を持った。

「よし、今から私の質問に答えてもらおうか。君の名前は?」

 優位を確認した九鬼は、柔らかな声で問う。

 雪菜は、やや逡巡してから答えた。

「……凛葉、雪菜」

「なるほど。やはり凛葉の人間か。では君の両親のどちらかに、【鮮遠】の人間はいるか?」

「……はい、います」

「名は?」

「……耶宵、です」

「ふむ、そうだろうな。彼女ぐらいしか君の母親になりえる人間はいない」

 ここにきて九鬼は、事態が自分の思うとおりに進んでいる――いや、進みすぎていることを確信した。

 念願だった【凛葉】の人間とは対面した。……とすると、もうあのサトリの少女は用済みになるか。

「……食うか」

 凛葉雪菜を手中に収めたと考えると、もうサトリの少女に利用価値はない。もともと雪菜のような人間を手に入れるために、サトリを使おうと思っていたのだから。

 どうも九鬼はダメージを負いすぎている。死んでも別に構わないが、ここまで来れば簡単には死ねない。莫大な妖力が蓄えられているというサトリの心臓を食らって、体の傷を癒すのも選択肢の一つだろう。

 ――と、九鬼が思考していると、不意にサイレンの音が聞こえてきた。

「これは――まさか警察か?」

 驚きがなかった、といえば嘘になる。

 九鬼の計算でも、このホテルに向けて警察や消防隊が出動する、というのはあった。青天宮は国家権力の介入を嫌う傾向にあるのだが、それは時と場合による。民間施設が爆破されたという事態になってまで、警察に傍観を義務付けたりはしないだろう。

 しかし、いくらなんでも早すぎる。まるで事前に察知していたかのような迅速さだ。

 嫌な予感がした。……動いているのは青天宮だけではないのか?

「……あまり時間がないのは確かなようだ」

 あと幾許もしない間に、ホテルの周囲を警察が取り囲むだろう。別に警察など脅威ではないし、人間の敷いた包囲網など容易く突破できるが、姿を見られるのは得策じゃない。

 よって、九鬼は退散することにした。

 もちろん目当てのモノ・・を持って。

「――凛葉よ、あと五歩だけ進め」

 九鬼がそう言うと、雪菜は怪訝な顔をしながら足を前に出した。そのまま左側に重心が偏った奇妙な歩き方で、九鬼が指定した五歩分の距離を埋める。

「いい子だな。思わず目頭が熱くなるよ」

 その言葉と同時、九鬼の左手が青白く明滅した。それは強烈な威力を持った電流だった。スタンガンなど比べ物にならない、正真正銘本物の雷。

 空気中を走る雷は、見るものを虜にするほど美しかった。幻想的でさえある。思わず見蕩れてしまうのも無理はない。ただし、その雷が一人の少女に向けて放たれたものでなければ。

 バチバチ、と小気味よい音がする。

 九鬼が放った雷は、目にも止まらぬ速さで雪菜へと接近し、そして直撃した。

「――り、凛葉さんっ――!」

 北条は叫んだ。叫ぶことが出来た。

 なぜなら、彼の体は宙に投げ出されていたからだ。九鬼は、もう北条を用無しだと判断して、まるでゴミを捨てるような適当さで彼を放り投げていた。

 その身に雷を受けた雪菜は、声をあげることもなく倒れこんだ。

 野球のボールのように飛ばされた北条は、食堂の壁にぶち当たったあと、重力の法則に従って床に落ちた。

 そして九鬼は、意識を失った雪菜の身体を肩に担ぐ。

「――ではな、北条の少年。せいぜい残された余生を謳歌したまえ」

 それは血に濡れた体と、少女を誘拐しようとする様からは想像できないほどの紳士的な声だった。

 雪菜が連れ去られるのを北条は止めようとしなかった。――否、止めようと出来なかった。なぜなら北条も、咽頭を圧迫し続けられていた痛みと、壁に衝突して背中を強打した痛みにより、意識を失っていたからだ。

 さて――と呟いて、九鬼は余韻もなく走り出す。あまり時間に余裕はないからだ。

 サイレンが鳴り響く中。

 九鬼の行方を追える者は、誰もいなかった。


 




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ