其の八 『九鬼』
忌野家は、青天宮に属する霊的家系の中でも異端視される。
それは思想や実力という観点から見た話ではない。結論から言ってしまえば、発端や歴史――そういった要素が異端だったのだろう。
元々――およそ遡れるだけ遡って八百年近く昔――忌野家は、退魔の素養をまったく持たない一族であった。しかし農民や武士であったわけでもない。なぜなら忌野家は、とある古流剣術を伝えるためだけの一族だったからだ。
確かに剣術のための道場はあったし、現在においてもそれはある。しかし、なぜか門下生がいた記録だけはいくら探しても見つからない。そして勿論のことだが、現在においても門下生は一人たりとも居なかった。
当然である。
彼らが伝えていたのは人を斬るための剣ではなく、妖を斬るための剣なのだから。
妖という不明瞭な輩を相手にするという性質上、門下生など入ってくるわけがないし、また入れるつもりもなかった。門外不出でもいいし、一子相伝と呼ばれても否定はしない。事実、その剣術を体得する人間が限られていたのは確かだからだ。
忌野家に伝わる剣術は、己が一族の者にのみ伝承されていく業。荒い原石を加工していくように、何代にも渡って業を研鑽し、一つの道を極め続けてきた。やがて辿り着いた境地にあったのは、最早人を切るためにあらず、妖を斬るためだけに研ぎ澄まされた刃だった。
退魔の力を持たず。
退魔の道に生きる。
たかが人間だろうと馬鹿にしてはいけない。小さな塵とて、一つ一つを積み重ねればいずれは大きな山となるように。忌野の一族が研ぎ澄ました刃も、つまりはそういうことなのだ。
人の身でありながら、妖を斬る一族がいる――その話を聞きつけた青天宮が、彼らと接触を試みるのは自然だった。
ささいな紆余曲折はあったものの、結果として忌野家は、退魔組織である青天宮の一角を担うことになった。
人の道が交われば、人の血だって交わっていく。時が流れていく中で、忌野家が退魔の血を取り入れていくことは自明の理。
――そして近代の話。
忌野家は、妖を斬るために考案された古流剣術と、妖を祓うために研鑽された陰陽道と、この二つを組み合わせた独自の退魔法で知られる家系となった。
日本全国から蒐集された妖刀の類をあそこまで自由に操れるのは、恐らく青天宮の中でも忌野の人間をおいて他に居ないだろう。
歴史を紐解いてみると、これまで忌野家に託されてきた妖刀は数知れず。炎を纏う刀、雷を切った刀、刀身がない刀――まさしく枚挙に暇がない。
その中でも一際有名なのが、斬撃を飛ばす刀、または妖気を纏う刀のことだろう。三尺近い刀身を持ち、紫色の陽炎を放ち、鞘には溢れる妖力を留めるための退魔札が所狭しと貼られている。
世にも奇妙な刀。
青天宮の人間は、その刀に畏怖と畏敬を込めて、こう呼ぶ。
妖刀”大禍時”と。
忌野が強い磁場の乱れを観測したのは、夜の街に繰り出してから一時間後のことだった。
陰陽師を始めとした退魔家業の人間は、その九割以上が、悪霊や妖といった異端の探知に長けている。それは俗に言う”霊感”だ。
霊的な異変を感じたり、人間以外の異端を感知する能力――そうした定義こそが、青天宮における霊感。この能力が優れていればいるほど広範囲の索敵が可能になるし、さらに吸血鬼や人狼といった、人間と比較的似通った生き物の正体を看破することもできる。
ちなみに忌野の霊感は、同業者の中においては下の方だ。およそ中の下といったところだろう。その日の調子によって多少の上下はあるが、絶好調のときでせいぜい数百メートル内の妖力を感じたりするのが関の山か。
しかし妖を退治する上において、忌野のそれは必要最低限なレベルをクリアしている。だから霊感が弱いとは言っても、悲観することはない。
もっとも――忌野にとって、霊感などどうでもいいのだが。
「……近いな」
手に持った電子機器を慣れた手つきで弄る姿は、とてもではないが日本古来から続く由緒正しい退魔の姿とは思えない。事実、数百年ほど前では考えられない光景である。技術の進歩に伴い、退魔の在り方もゆっくりと変わっていったということだ。
小型のPDAのような形状のそれは、青天宮の技術開発局と呼ばれる部署が作ったものだ。半径五十メートルの範囲の磁場を観測するための携帯装置。これさえあれば、霊感に頼らずとも簡単に敵を発見できる。
――まあ、こんな真似などせずとも、相手の位置はとうの昔に分かっているのだが。
宗谷士狼たちがホテルにいた時から、とある地点に強烈な磁場の乱れを観測していた。どうやら奴さんは逃げる気も隠れる気もないらしいなぁ、と忌野は感心したものだ。
目標である妖を見つけておきながらも、それを士狼たちに言わなかったのは、万が一にも邪魔をされたくないからだった。雪菜ならば自力で妖を追えるだろうが、そうはさせないために士狼とペアを組ませた。あの男なら、きっと雪菜が危険に向かおうとするのを止めてくれるだろうから。
「宗谷士狼……ねえ。噂に聞いていた”白い狼”とは随分と違うけど」
手元を素早く操作してPDAの電源を落としたあと、それをポケットに仕舞い込む。
白い札が貼りつくされた妖刀を肩に担ぐようにして持ち、口笛などを吹きながら、機嫌よさそうに独り言を漏らす。
「まさか――あの無差別テロで全滅したはずの宗谷さんちの生き残りが、こんな街であんな風に暮らしているなんてね。【九紋】の人たちが知ったら何て言うんだろうなぁ」
世界中の裏社会に点在する殺し屋、暗殺者、殺人鬼――そんな非合法と血潮に手を染めた家系、または一族というのは、いつの時代にだって必ずいる。なぜなら、誰かを殺して欲しい、という願望を持つ人間がいなくなることはないからだ。
十二大家の一つである九紋家は、そういう殺しをする一族の中において絶対のトップに君臨し続ける家系だ。言ってしまえば、長い歴史を誇る日本の裏舞台を、鮮遠家と並んで支えている家柄なのだ。
ただし九紋家が表に出ることは滅多に無い。だから彼らに接触を取ろうとする者は、九紋の分家筋――宗谷家を通さなければならなかった。
宗谷家自体は殺しの依頼を受けることはなく、代々の当主は、基本的に表の世界で真っ当な職に就いていた。そして時が来れば、九紋家に連絡を取り次ぐのである。
表の宗谷と、裏の九紋。
二つの顔は表裏一体であり、絶妙なバランスで上手くやっていた。
――しかし、それも十年近く前までのこと。かつてのテロで宗谷家は全滅し、当主とその妻、そして長女と養子の子供が死んだ。ただし養子の子は、死体が確認されたわけではなく、むしろ遺体が見つからないからこそ死亡とされていた。
「……まあ、いっか」
どうせ今更だ。宗谷の生き残りがいたとしても、九紋の人間はどうもしないだろう。
――実際のところ、忌野はこの街に来る以前から、士狼や雪菜がいることを知っていた。
今から遡ること一ヶ月半近く前、この街で原因不明の膨大なエネルギーが観測されたからである。当然、青天宮としては見過ごすわけには行かず、早急に対処しようとした。しかし【朔花】が直々に、ここは自分たちに任せてくれ、と言ってきたのだ。
あの吸血鬼の血を持つ【朔花】が出張ってきたということは、つまり吸血鬼や人狼絡みの事件だったということ。それらの管轄は彼の家のものなので、そうと分かれば青天宮がうかつに手を出していい問題ではない。
案ずるよりも産むが易し――やがて、事態は間もなく収束を迎えた。後になって調べてみると、なんと一体の吸血鬼が原因だと言う。これは情報を集めておくに越したことはない、と青天宮は、この街全体の調査を開始した。
その結果――あの”白い狼”や、通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の娘や、かの”ヘルシング”の末裔が、これまた驚きのことだが一つのアパートで暮らしていることが分かったのだ。
おまけにアパートの管理人が、十二大家の【高梨】の人間だったというのだから、当初は巧妙に仕組まれた冗談なんじゃないか、などと囁かれたものだ。
元より裏社会の勢力図や情勢に詳しい忌野は、この街を訪れることが決まった際、そういった情報を全て頭に叩き込んでいた。だから雪菜がいることも当然知っていた。
……しかし。
なぜかは分からないが、忌野は、自分が雪菜と出会ってしまう未来を予想さえしていなかった。
それはきっと――もう彼女とは未来永劫、道が交わることはないと諦観していたからだろう。
「……雪菜さん」
夜空を見上げて呟く。
きっと今頃は士狼さんとイチャイチャしてんだろうなー、なんて思いながら。
そろそろ思考が纏まりを無くしてきたので、忌野は自分の頬をばちんと叩き、気合を入れなおした。冷たい空気を肺に取り入れて冷静さを取り戻したあと、目的地に向かって歩き出す。
辿り着いたのは、やや都心から外れた位置にある街会社だった。規模も業績も中小の域を出ないが、ここ最近は右肩上がりに調子を伸ばしているらしく、おかげで妖の位置を特定する際にはいい目印になった。
深夜なので営業はしておらず、戸締りも厳重だった。しかし人目が無いからこそ、非合法な手段を使った侵入も容易かった。具体的に言うと、窓の一部分を丸く切り取って、そこから手を入れて鍵を外すという方法。音もなくガラスを割るぐらい、ちょっとした知識があれば子供だって可能だ。
突入の準備が整ったことを確認したあとは、この付近一帯に『魔封じ』の結界を張った。時間にして二、三分といったところか。腕のいい陰陽師ならば十秒足らずで結界を編むという事実を踏まえると、忌野の結界の腕前はやや悪いと言わざるを得ない。
まるで忍者のような身のこなし。するりと抜けるようにして、少しだけ開けた窓から中に入る。闇に溶け込むような真黒の学ランの恩恵もあり、忌野の姿は本当に視えない。
建物内に侵入すると、ひやりとした空気に気付く。
悪霊や妖が現れると磁場がひどく乱れて、空気中の分子と分子の結合が不安定となり、結果として空気が膨張して気温がいくらか下がってしまう。だから、人が幽霊と遭遇すると背筋が震えるような錯覚をする――というような話は真実なのである。
電灯が点いていないから視界は薄暗いのだが、足元をほのかに照らすだけの非常灯が壁の下付近に等間隔で設置されているので、闇に戸惑うことなく歩くだけの余裕はある。
周辺に意識を巡らせて、大胆不敵かつ細心注意を払いながら先を急ぐ。どうも屋上あたりが怪しい。
エレベーターは稼動していたのだが、何となく使う気にはなれず、その横にあった階段を行くことにした。
ふと、エレベーターホールにあった鏡に気付く。
そこに映っているのは、まだ高校生らしいあどけなさを残した男だった。ハリネズミのように逆立った黒髪と、普遍的な学校の制服として指定されている真黒の学ラン。左手には、妖力を抑える退魔札が所狭しと貼られた刀を持っている。
ちなみに忌野の着ている学ランは、見た目こそ普通なのだが、実はちょっとした仕掛けがある。最新の防弾繊維で編みこまれた代物で、拳銃の9mm弾程度なら受け止めてくれるし、防炎や対衝撃にも優れた一品なのだ。ただし、その分のお値段は張るのだが。
「おっ、今日の俺っちはちょっとキマってるねー」
鏡に向かい、ツンツンとした髪を指先で弄る。
「――ねえ、アンタもそう思うだろ?」
次の瞬間。
忌野は、振り向きざまに居合のごとく刃を一閃する。ヒュン、と空気を切り裂くような音がして、紫色の陽炎を纏った白刃が翻った。
すると――薄闇の奥。闇に紛れるようにして潜んでいた一匹の餓鬼、その赤黒い体躯がちょうど半分に断ち切られて、痙攣したあと光の粒子へと還っていく。
「駄目だよ、そんなのじゃあ。敵を背後から襲おうとするのは賢いけどさ。いくら俺っちの目が届いていないからと言っても、人間社会には鏡っていう便利なもんがあるんだから。それに映っちゃったら世話ないよね。もしかすると、俺っちが張った結界に焦っちゃったのかな?」
キンと鍔鳴り。
細長い刀身が鞘に仕舞われたと同時、”大禍時”から溢れていた禍々しい気配が鳴りを潜める。
「それじゃあね」
忌野が、ばいばーい、と手を振った先。
餓鬼の姿は、この闇の中から完全に消えていた。
「……これで、残るは――」
カテゴリーB以上とされる妖のみ、のはずだ。
忌野の計算では、この街に現存する餓鬼はもういない。というよりも、さきほどの一体が最後だったと思う。万が一まだ残っていたとしても、雪菜やニノたちが片付けてくれるだろう。
とりあえずは順調といったところか。
しかし事がスムーズに運びすぎるのも良くない。一つの作戦があまりにも思い通りにいってしまうときは、その大抵が罠だと考えたほうがいい。美味い話には裏があるように。
慎重に階段を上っていく。足を踏み出すたび、薄闇の中にこつんと小気味よい音が残響する。
そうして歩き、上階まで辿り着く。最上階のフロアには目ぼしいものがなかった。やはり上か、と確信した忌野は、他の部分と比べるとやや廃れた感じのある屋上への階段に足をかけた。普段はあまり利用されていないのだろう。掃除が行き届いている様子ではなかった。
――しかし、扉は開いていた。どこから見ても閉鎖されていそうなのに、なぜか扉は開いていたのだ。
錆び付いた蝶番を軋ませて、忌野は外に出た。
まず視界に入ったのは夜空と月だった。次に見えたのは、丁寧な舗装が一切されておらず、剥き出しのコンクリートで覆われている屋上だった。かろうじて落下防止用の金網が建てられていたが、大人が数人がかりで体当たりすれば壊れてしまいそうなほどにボロボロである。
そして、最後に見えたのは。
金髪を風に遊ばせながら夜空を見上げる、一人の男の背中だった。
「こんばんはー」
わざと強めに扉を閉めて、忌野は飄々とした調子で挨拶をする。とりあえずは出方を伺うつもりだ。
すると、その男はゆっくりと振り向いた。
「はい、こんばんは」
柔和な笑顔を浮かべながら、男は礼儀正しく頭を下げる。一見すると紳士に見えた。
二人は十数メートルほどの距離を開けて対峙する。
「君は、青天宮の人間かな? もしかして私を追ってきたのかい?」
「へえ、分かってるなら話は早いなぁ。そうそう、俺っちはアンタを殺しに来たの。だから、とっとと死んでくれないかなー」
「はっはっは、いきなり失礼なことを言うね。もしも私が人間だったらどうするんだい?」
「ありえない。アンタからは強い妖力を感じるんだよ、だから誤魔化すのは止めてくれよ。それで正体は何? どうせ妖狐あたりだろ?」
「ふむ、単刀直入だな。だが話が早く済むのは悪くない。質問の答えだが、人間たちは、私たちのことを”鬼”と呼ぶよ」
「……冗談だろ?」
「本当だよ。その証拠に、こうして君のことを待っていたじゃないか」
怪訝に瞳を細める忌野の対面――男は右手で顔を覆って、奥歯をギチギチと噛み鳴らしながら、呪詛を唱えるようにして恨み声を出す。
「一つ聞きたいのだが――君は【鮮遠】の血を引く人間ではないかな」
「……いんや、違うね」
「そうか、ハズレか。せっかくあのサトリの少女を餌にして、君たちを呼んだというのに」
男は語る。自分の本来の目的はサトリや、それに吸い寄せられて集まる魑魅魍魎などではなく、退魔家業の人間そのものであると。
つまりは私怨らしい。かつて鬼という種族を滅ぼした鮮遠家。その血を引く人間を探している、と男は言う。
忌野の脳裏によぎったものは、凛葉雪菜の姿だった。もしも彼女の存在が知られたとするならば、この男はどうするのだろう。……やはり殺すのか。
「アンタ、名前は?」
「一応は”九鬼”と名乗らせてもらっているが」
名を聞いても、男――九鬼はこちらの名前を聞いてこない。興味がまるで無いのだろう。忌野としても、とりあえず聞いてみただけで特に意味はなかった。
何にせよ、九鬼を放っておくという選択肢だけは無い。それは大禍時を継承するという試験の失敗を意味するし、何より――雪菜を危険に晒してしまうかもしれない。
忌野は腰を落として、刀の柄に手をかけた。
「まあ何でもいいか。俺っちは青天宮の人間としての務めを果たすだけさ」
「よろしい。どうやら君は【鮮遠】と関係がないようだし、一思いに殺してしまうとしよう」
暢気に言葉などを交わす。しかし二人の間には強い殺意が迸っていた。
今にも刀を抜き放とうとする忌野とは対照的に、九鬼は無防備に突っ立っているだけ。
立場も、容姿も、能力も、種族も、構えも、何もかもが違っている二人に共通しているのは一つ。
それは決意。
絶対に敵を殺してやる、という意思。
――次の瞬間、屋上にあった二つの影が駆け出した。
忌野は、刹那の間に抜刀を開始する。前傾姿勢を保ちつつ、右手に握った大禍時を振りぬく。
紫の陽炎が立ち昇る白刃。それは妖刀”大禍時”が貯蔵してきた妖気だ。方向性がない”妖気”に、”斬撃”という指向性を与えることで、遠距離にいる敵にだって攻撃できる。
その自由性は非常に高い。斬撃を飛ばすだけでなく、斬撃自体の威力を高めたり、場合によっては妖気を用いて光の屈折率を変化させて、刀身を限りなく透明に近くもできる。
そして今回のケースにおいて、忌野は刀身を不可視にすることを選んだ。もちろん刃が視えなくなったとしても、それは錯覚である。透明になったような気がするだけで、実際にはそこにあるのだから。
しかし――高速で振りぬかれる刃というのは、ただでさえ視認が利かない。ならば、そこに加わる不可視が擬似的なものだったとしても、相対する者にとっては透明と同じだろう。
九鬼は、一直線に駆ける。武器も持たず、ただ腕を振り上げるだけ。
――次の瞬間、屋上にあった二つの影が交差した。
対峙していた二人が走り出してから、恐らく三秒と経っていない。互いの位置を入れ替えるようにして、忌野と九鬼は背中を向け合ったまま静止していた。
「……ぐっ!」
苦悶の声は――忌野。
大禍時をコンクリートに突き立てて、杖の代わりにする。そうしなければ身体が倒れてしまうから。
おかしい、と忌野は思った。俺は致命的な一撃など食らっていないはずなのに、と。事実、九鬼が薙ぎ払うようにして振るった腕は、脇腹を掠っただけだった。
にも関わらず、身体は強烈な電流を流されたように痺れている。
「っ――電流……?」
まさか――あの九鬼という男は、雷を操るとでも言うのか。
確かに、鬼と呼ばれる種族は強力な異能を持つことで知られる。その中でもメジャーなのが雷だろう。日本の絵画で描かれる雷神だって、姿形は鬼を踏襲したものだ。
「……なるほど、君は相当な使い手のようだな」
背後から、相変わらずの落ち着いた声が聞こえる。
忌野は首だけを振り返らせて、肩越しに九鬼を見た。
「その若さで大したものだ。おかげで右目が潰れてしまったよ。痛いね、ああ痛い。とても痛いよ。やっぱりアレかな、君たちのような退魔と呼ばれる輩は、私たちとは絶対に相容れないんだな」
九鬼の右目は、一筋のラインが通ったように斜めに切り裂かれていて、ドクドクと赤い血液を垂れ流していた。どこからどう見ても眼球が裂かれてしまっている。
ここで空恐ろしいのは、一生ものの負傷をしたにも関わらず、九鬼がまるで痛がる様子もなく淡々としていること。
「その刀には見覚えがあるな。……ははあ、もしかして君は忌野っていう名前じゃないかな? そうだろう? いや、私は多分、君のお爺さん辺りと決闘したことがあるよ。馬鹿みたいに強かったのをよく覚えている」
色々と反論したいことはあったが、口が上手く回らない。まだ身体に痺れが残っているからだ。
恐らく――大禍時が無ければ、忌野は先ほどの一撃で死んでしまっていただろう。妖力を無尽蔵かつ無差別に吸収して貯蔵する大禍時は、攻撃だけではなく、防御にだって使えるのだ。
「……この試験、まるで割に合わねえよ、爺ちゃん」
そろそろ痺れが取れてきた。
――なにがカテゴリーBだ、と愚痴りたい気分。あれはどこからどう見てもカテゴリーAには達しているだろう。十中八九、人間との混血の鬼。それも人間の血の方が濃いはず。だからきっと鬼としては下位に属する。
本来、カテゴリーA以上の妖と交戦する際には、少なくとも忌野のような近距離型の戦闘員が二人以上、雪菜のような遠距離方の陰陽師が三人以上、さらに結界師と呼ばれる防護や支援に特化した人間が一人以上、というのが青天宮の推奨するメンバー構成だ。
結論から言うと、忌野一人で戦うには分が悪すぎるということ。
ただし上記の構成は、あくまで『安全かつ確実に対象を祓うため』の可能性を高くするためのものだ。つまり危険は増してしまうが、忌野一人きりでも立ち回れないことはない。
「――ああ、そうだ、忘れてしまうところだったよ。一つ聞いておきたいことがあるんだが、いいかい?」
九鬼は、何かを思い出したかのように両手をポンと叩いた。
「聞いておきたいことだと? 俺の好きな女のタイプとかでいいか?」
「それも興味はあるが、今は置いておこうじゃないか。私が聞きたいのは、この街に【鮮遠】の血を引く人間がいるのか、ということなんだがね」
「……さあな。どうしても聞きたけりゃあ、俺を叩きのめしてから聞けよ」
「そうしよう」
警戒心を顕わにする忌野。
それを満足そうに見た九鬼は――いきなり上半身の服を脱ぎ出した。
「……チ」
これが”鬼”の血を引く者でなければ、単なる露出狂だと疑ったところだが。
「では、そろそろ本格的に殺し合いを始めるとしようか、人間の少年」
言い終わるのが早いか、九鬼の身体が変質を始めた。
肌色だった上半身が赤黒くなっていき、肥大化していく。ボコボコ、と筋肉が脈打ちながら変化して、人間らしき姿から、人間以外の姿へと変わっていく。頭部には二本の角が生え揃い、口からは鋭い犬歯が伸びる。
それは一見すると餓鬼に似ていた。しかし溢れる妖力は比べ物にならない。なぜなら、忌野の眼前に立っている者こそが、古来から恐れられてきた本物の”鬼”なのだから。
青天宮では、いま九鬼が行ったような変化を”鬼化”すると称する。通常時は人間に化けている鬼は、戦闘時にのみ本来の姿を解き放つ。こうなった鬼は、本能に忠実な行動を取るようになり、理性を無視した非道な残虐性を見せる。まさしく殺しに特化した姿。
じり、と足を後退させる忌野を見て。
鬼化した九鬼は、頭部に生えた二本の角の間に、バチバチと電流を迸らせた。
「……”雷切”でも借りてくればよかったな」
かつて雷神を斬ったあの刀さえあれば、今宵の戦闘は忌野の勝利に終わっていただろう。確かに大禍時は強力な妖刀なのだが、雷を操る敵に対しては”雷切”が絶大な効果を発揮する。
しかし嘆いていても始まらない。
「――さあ、準備はいいかね少年」
しゃがれて、くぐもった声で九鬼は言う。
「ああ、俺はお前を殺すよ」
「いや、私が貴様を殺すよ」
「やってみろよ」
「やってみよう」
互いに宣言して、足を一歩前へ。
次の瞬間から起こった戦いは、きっと退魔と妖が激突したに相応しい争いだった。
どちらが勝ったのか、どちらが負けたのか。
その結果が出るのは、もうしばらく先のこと。少なくとも忌野は、どちらが勝ったのかを覚えていない。
それから一時間半後。
勝敗を知ったのは、忌野本人ではなく。
――ビジネスホテルの玄関前で、満身創痍の状態で倒れている忌野を見つけた、青天宮の人間だった。
****
さて、面倒なことになった。
俺が雪菜をおんぶしながらホテルに帰ると、絶妙なタイミングで鉢合わせたシャルロットが何故だか拗ねやがるし、ニノは呆れながらも一人で獣耳をピコピコさせてやがるし、こころは俺たちを見つけるとちょこちょこと走り寄ってきて、何も言わずにしがみついてくるしと。
しかし、それは面倒なだけであって、問題ではない。
俺たちが真に憂うべきは、忌野のことだろう。
事情はよく分からないが、とりあえず聞いた話によると、さきほどホテルの階下でボロボロになった忌野が発見されたらしい。妖と交戦したあと、傷ついた体に鞭を打って、なんとか自力で帰還した矢先に力尽きた――というのが青天宮の見解だ。
命に別状はないらしく、数日経てば意識も回復するとのことだった。そして最大の懸念である妖についてだが――これは忌野が倒してしまったのか、それとも命からがら逃げ帰ってきたのか、本人が眠ってしまっている以上はどちらか分からない。
とりあえずは一度、見舞っておいて損はない。
しかし。
「駄目だ。いくら君たちが忌野氏の招き入れた客人だとしても、この先に機密がある以上、通すことはできない」
忌野が治療のために寝かされているというホテルの一室。俺と雪菜は、その目前で見知らぬ人間に足止めをされていた。いわゆる見張り役だろう。
パッと見た感じは、二十歳前後であろう男だ。大学のキャンパス内を歩いていても浮かない程度には垢抜けていて、青天宮という組織の中にいても不思議に思わない程度には隙がない。さりげない所作などから見ても、何らかの武術を学んでいることが分かる。
さっきから「通してください」と雪菜が言って、「駄目だ」と男が首を振る――という押し問答を五分ぐらい繰り返している。
それは、組織に組み込まれた人間としては正しい態度だったが、俺たちにとっては非常に面倒くさい対応だった。
「……弱りました。これでは時間の浪費ですね」
雪菜はこれみよがしにため息をついた。
「何度言われようと駄目なものは駄目だ。自分は与えられた仕事をきっちりとこなしてみせるのだ。……ただでさえ、二週間前に減給もののミスを犯してしまったというのに。おかげで夕飯のおかずが一品減ったというのに」
「最後のほう愚痴になってんなオイ」
「――はっ! いや、今のは忘れてくれ。自分がどうかしてたのだ。
とにかくだ。そちらのお嬢さん方を通すわけには行かない。忌野氏とどういった関係にあるのかは知らないが、面会ならば日を改めてくれ」
頭をぶんぶんと振ったあと、男は両手を後ろで組んで、扉の前で仁王立ちした。
「……ふむ、仕方ありませんね。こういった手は、あまり好きではないのですが」
「どんな手を使われようと、自分はここから退く気はないからな」
「それはご苦労様です。時に、あなたのお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「北条だ。青天宮の”軌跡処理班”に配属されて二年目になる。ちなみに第一希望は”退魔斑”だったが、修行不足と見なされて第三班に回されてしまった。好物は味噌汁と焼き魚で、誕生日は六月六日。女性のタイプは、清楚で料理が得意な女性。現在、彼女募集中だ」
何やら聞かれてもいないことまで語り始める男――もとい北条くん。
俺は、もしやコイツってノリがいい奴なんじゃないか? と思い始めていた。裏社会に生きる人間として冷静に振舞いながらも、ところどころ無駄な人間味を臭わせる様は、不覚にも好感を抱かせる。
ちなみに北条くんに聞いた話によると、青天宮には主な実働部隊が三つ存在するらしい。
一つ、妖などの物理的に存在する異端を排除することに特化した”退魔斑”。またの名を、第一班。忌野がこれに当たる。
一つ、悪霊などの形ないモノを祓うことに特化した”除霊班”。またの名を、第二班。
一つ、上記二つの班が任務中に遺した痕跡などを消す”軌跡処理班”。またの名を、第三班。北条くんがこれに当たる。
別にどの部隊が優れているとかは無いらしいが、やはり一班には実力のある人間が配属されるという。つまり活躍したり、格好をつけたりしたい若い男にとっては、一班に回されることは誇りであり憧れなんだろう。
時々愚痴をこぼしながらも、北条くんは自らのプロフィールを語り終えた。
「了解致しました。何やら不必要な情報まで教えて頂いた気がしますが、そこは置いておきましょう。それにしても、なるほど、北条家の方でしたか」
「む? そちらのお嬢さん、何故だか自分のことを知っているような口ぶりだな」
「はい。北条家の当主――恐らくはあなたの父君に当たる方でしょうが、私がまだ幼かった頃に何度かお会いした記憶があります。優しく頭を撫でて頂きましたし」
しみじみと呟く雪菜を見て、北条くんは怪訝に眉をひそめた。
「……君は、一体」
「ああ、ごめんなさい。まだ名乗っていませんでしたね。私、凛葉雪菜と申します」
両手を前で組み、丁寧に頭を下げて、雪菜は【凛葉】の部分をかなり強調して言った。
すると――北条くんは「えっ!?」と、それはそれは飛び上がらんばかりに驚愕した。実に面白いポーズで固まっている。
「凛葉だと!? ――ああいや、凛葉ですと!? ひ、ひえー!」
体をぶるぶると震わせて、冷や汗などをかきつつ、さらには分かりやすい驚きの声まで披露した北条くん。やはり憎めない男である。
「はい、すっごく凛葉です」
「――あ、あわわわ」
「ですから、通していただけませんか? それとも、やっぱり駄目なんでしょうか? 何度言われようと駄目なものは駄目らしいですし。ねえ士狼さん?」
ここで俺に振るのか――と思ったのだが、まあ便乗してやることにした。そのほうが話が早く済みそうだし。
「そうだなぁ。お前は凛葉雪菜だが、駄目なものは駄目らしいし」
「はい、とても残念ですよね。……あぁ、何だか私、唐突にお父様の声が聞きたくなってきました。近況報告も兼ねて、久しぶりにお電話しましょうか。ええ、近況報告も兼ねて」
言うまでもないが、”近況報告”という言葉には強いアクセントがつけられていた。
北条くんは、たっぷり十秒は沈黙すると、途端に嘘臭い笑みを浮かべた。俗に言う営業スマイル、または愛想笑いというやつだ。
「……あははは、なんだか自分、喉が渇いてきてしまったなぁ。しかも深刻なレベルの渇きだ。これは今すぐにでもジュースを飲まないと死んでしまいかねないなぁ」
頭を掻きながら、北条君はちょっとずつ移動を開始する。塞がれていた忌野の部屋への道が、開かれていく。
「北条さん、お仕事はいいのですか?」
「あー、何のことかな? 自分はちょっと水分補給をしに行くだけで、べつに仕事を放棄するわけじゃないが?」
「安心してください。このことは誰にも言いませんから。つまり北条さんはこれ以上、減給されることもありません」
「――本当かっ!? つまり、もう夕飯のおかずが減ることは!?」
「ありませんよ」
雪菜が頷きながらそう言うと、北条くんは満足そうに笑いながら、長く伸びる廊下を「ひゃっほー!」と両手を上げて走り去って行った。やはり憎めない男だった。
「それにしても雪菜。お前の家って、すげえんだな。めちゃくちゃ恐れられてたじゃねえか」
「いえ、あれはさすがに恐れすぎです。私としても、ここまで上手くいくとは思っていませんでした。つまり北条さんの思い込みが激しかったというか、被害妄想が強いというか、まあそんなところでしょう」
北条くんが走り去って行った廊下の先をしばらく見つめたあと、俺たちは部屋に入った。雪菜は足首を捻挫しているので、俺の肩に掴まらせてやり、即席の杖代わりになってあげた。
ようやっと入室できたそこは、質素なシングルベッドが一つあるだけの小さな部屋だった。お決まりのようにユニットバスがあり、小さなクローゼット、開かないようにされた小窓、申し訳程度に置かれた冷蔵庫とテレビ。
そして、部屋の中でも一番目立つ白いベッドの上には――忌野が寝かされていた。学ランではなく、病人服を着ている。右腕には点滴の針が刺さっており、今なお薬剤を投与し続けている。
ざっと見た感じだと呼吸は安定しているようだし、大きな外傷もない。今にも目覚めそうだった。
「……忌野くん」
俺の肩に掴まっていた雪菜が、どこか悲しそうに呟いた。当然、反応は帰ってこない。
部屋の隅にあった丸椅子を引き寄せて、そこに雪菜を座らせる。やはり捻挫の度合いは軽いと言っても、無理をさせるべきではない。
「とりあえず安心しました。これなら本当に大丈夫そうですね」
ほっと息を漏らして、雪菜は笑った。
「それにしても――忌野くんは勝ったのでしょうか、負けたのでしょうか。士狼さんはどう思います?」
ベッドの脇に立てかけてあった日本刀を見つめていた俺は、声をかけられて、忌野を一瞥した。
――確かに大きな傷跡はない。しかし頬や首筋、そしてぶらんと垂れた腕には微かな火傷を負っている。もしかすると敵は、炎を操ったのだろうか。
「どうって言われてもな。ただ、俺にはソイツが簡単に負けるとは思えねえな」
「……私もそう思います。忌野くんが何かに失敗する姿なんて、見たことがないのに」
「そうか。確かに忌野はいけ好かない野郎だが、腕の立つヤツだってことは俺にも分かる。
ところで雪菜、一つ聞きたいんだが――忌野が着ていた服って、どうだったんだ?」
「はい? 服……ですか? 恐らく、そこに収納されていると思いますが」
雪菜が指差したのは、壁をくりぬく様にしてスペースを設けられたクローゼットだった。俺は早速、中を見ることにする。
ハンガーにかかっていたのは見覚えのある真黒の学ランだった。軽く触れてみた感じからして、素材は一般的な学ランに使われるポリエステルではなく、何か特別な加工を施した特殊繊維であることが分かる。裏社会では、そう珍しくない代物だ。
「……妙だな」
注意深く見ても、学ランには火炎を浴びたような損傷が見られない。仮に防炎の効果があったとしても、普通なら何かしらのダメージがあってもいいのに。
「――ん?」
がさごそと学ランを調べていると、ズボンのポケットに何かが入っていることに気付いた。手がかりになるかもしれないと思って取り出してみると、それは小型のPDAと、最新機種らしき携帯電話だった。要するに無駄骨である。
どうやら、忌野が着ていた衣服から得られる情報はないらしい――そう結論した俺は、気まぐれに二つ折りの携帯を開いて、
「……これは」
なぜか――電源が入らないことに気付いた。
携帯だけじゃない。PDAのほうも、どう弄っても電源が入る様子はなかった。
「あの、士狼さん?」
背中にかけられたのは、訝しんだような雪菜の声だった。
「――ああ、何でもねえよ。ちょっと考え事してただけだ」
学ランをハンガーにかけなおし、クローゼットを閉めたあと、俺は取り繕うようにして切り返した――が、頭の中は違うことを考えていた。
――忌野の肌に火傷のような痕が見られるのにも関わらず、着ていた衣服は一切焼けていない。さらに電子機器が軒並みイカてしまっている。ここから導き出される結論は――
それから俺たちは、忌野の容態を確かめたあと部屋を出た。雪菜の足を本格的に治療してやるためだ。
結局のところ、分かったことは多くない。しかし収穫はゼロじゃなかったので、良しとしておこう。
退室する際に、ちょうど戻ってきた北条くんに「人生はこれからだぜ」とアドバイスをしてから、俺たちはその場を去った。
それが起こったのは、青天宮が作戦本部を置くとあるビジネスホテルの廊下だった。
俺が思案に耽りながらぼんやりと歩いていると、向かい側からシャルロットが歩いてきた。それだけならばいいのだが、なぜか大股で、これみよがしに頬を膨らませて、親の仇でも見るような目で俺を見ている。
面倒くさいので引き返そうと思ったのだが、それよりも先にシャルロットが口を開く方が早かった。
「これはこれは、奇遇だね。まさかこんなところで、雪菜をいやらしくおんぶしていた士狼さんに出会えるなんて」
まるで、彼氏が待ち合わせに遅刻してきたのを怒る彼女のような言い草だった。常にそっぽを向いていて、似合わないくせに腕を組んで、右足のつま先はやたらと早い貧乏ゆすりをしている。
「……俺は勘違いをしてた」
忌野のこと、妖のこと、こころのこと、これからのこと――そんな不確定な要素について思考していた俺は、この時を持って、一つの真実に気付いてしまった。
「勘違い? ……あっ、もしかして私の凄さに気付いたとか?」
「いや、それだけは未来永劫ありえない」
ゆっくりと首を振って否定すると、シャルロットは両手を上げて「ちょっとちょっとー!」と喚きだした。相変わらず子供っぽいというか。
「実はな、俺はお前のことをバカなんじゃないかと思ってたんだけどな。それは違うってことに気付いた」
「こ、これはもしかして褒められる前兆……?」
拳を握り締めて、なにやら勘違いをし始めるバカ吸血鬼が一匹。
「まあ俺の見る目がなかったということだな。お前を”バカ”なんて呼んで、本当に悪かったと思う」
「いやぁ、べつにいいよ? それよりほら、早く早く。続きを言ってよ」
「ああ。とりあえずお前は”バカ”じゃなく――」
「バカじゃなく? ……て、天才とかかな?」
きらきらと瞳を輝かせて、わくわくと両腕を動かすシャルロット。
俺は、その期待に満ちた笑顔を粉砕してやるべく、新たに気付いた真実を告げる。
「――お前は”バカ”じゃなくて、”超バカ”だったんだな」
言うまでもないことだが。
シャルロットの赤い瞳から輝きが消えるのに、恐らく三秒もかからなかった。
このホテルには現在あまり人がいないらしく、騒音や喧騒の類はほとんど無い。だから耳を澄ませれば、耳鳴りが聞こえてきそうなほどに静かなのだ。きっと蚊が飛ぶ音ですら気付けてしまうぐらいに。
だから、シャルロットの喚きはとにかく目立った。
「ちょっとちょっとー! それはさすがに酷いってー! たしかに私が、人よりちょーっとだけ失敗が多いのは認めるけど、べつにバカじゃないもん!」
「うるせえな。とっとと巣に帰れ、超バカ」
「カッチーン。もう怒った。謝っても許さないんだから、覚悟してよ? 今の士狼の一言で、私の中に封印されていた才能が目覚めちゃったっぽいよ」
「ふーん。なら教えとくが、ブルーメンから南に十分ぐらい歩いたところにな」
「――? いきなり、なに?」
「心の病院があるから行ってこい。んじゃ」
もう話すことはないと、俺はシャルロットに背を向けた。
「――いや、ちょっと待ってってばー!」
すると、なぜか慌てて背中にしがみついてくる。まるで砂袋が入ったリュックサックを背負ったみたいな体感。
とりあえず数メートルほどは無視して歩いていたのだが、シャルロットが足を引きずられながらも「ま、負けないぃ~!」とか言って断固しがみついてきたので、とうとう俺は諦めた。というか折れてやった。
「……はあ。相変わらずだな、お前」
コイツと一緒にいると、色々と悩んでいたことが全部バカらしくなってくる。
シャルロットは俺の背中から離れて、一仕事を頑張ったあとみたいに額を袖で拭っていた。
「だってだよ? 士狼ってば、私のことを超バカとか言うんだもん。それって、さすがに酷くないかな?」
「お前が意味不明すぎるのが悪い。さっきから拗ねてるのは何でだ?」
「ふんっ、自分の胸に聞いてみたらいいじゃない。雪菜をいやらしくおんぶしてたくせに」
「……それが原因かよ」
どうもシャルロットには、俺が変態チックな笑顔を浮かべながら、雪菜をおぶっていたように見えたらしい。そんな周防じゃあるまいし、と否定したいところだったが、ちょっとだけ思い当たる節があるだけにそうも出来ない。だって、たゆんたゆんだったのが悪いのだ。
しかし俺に悪意がなかったのは本当である。仮に、雪菜が一人でも歩けるようだったら、俺はおんぶなどしていなかった。
あらぬ誤解を解くために、俺は事情を噛み砕いて説明した。おもに雪菜が足を怪我した前後から、ホテルに帰ってくるまでの経緯を。
「……まあ、それならいいんだけど」
俺の言葉をすべて飲み込んだシャルロットは、しばらく考え込んだあと、納得していなさそうな顔で頷いた。
「分かってくれたならいいけどよ。雪菜はもちろんのこと、俺にもやましい気持ちなんてなかったからな」
「…………嘘だよ、だって、あのときの雪菜の顔は」
「は? もっと大きい声で話せよ、バカ吸血鬼」
「――う、うるさいなぁ! 乙女の独り言を聞かないでよー!」
ポカポカと俺を叩いてくるシャルロット。やはり子供みたいだった。
それから俺たちは、互いに知らない情報を交換し合った。餓鬼を退治したこと、スーパーマーケットを滅茶苦茶にしてしまったこと、ニノの獣耳が可愛くて柔らかかったこと、ホテルに帰ってくるとこころに避けられたこと、現在ニノとこころは一緒にベッドで眠っていること――などなど。
ところどころ雑談が入ったり、要らない情報が飛び交ったような気もしたが、大体の事情は飲み込めた。
現在の状況を整理すると、こうである。
青天宮は、カテゴリーB以上と推定される妖の調査を続行。痕跡が見られないようなら祓われたと見なし、痕跡が見つかった場合は総力を上げて殲滅に乗り出す。ただし後者を選択するとなると、すこし時間がかかってしまうらしい。この街を物理的・霊的に封鎖していることや、公的機関、各社報道局などに対して規制を行っているため、人手が圧倒的に足りていないのだそうだ。
また、忌野が目覚めるのを待つというのも一つある。アイツから話を聞くのが一番手っ取り早いからだ。
要するに――俺たちは警戒態勢を維持したまま待機、ということ。昼間に出歩くのは構わないが、夜間の外出は禁止。そして外出する際には、最低でも二人以上で行動し、何らかの連絡手段を確保していることが条件。
「――ということだ、分かったか?」
俺としては、かなり分かりやすく説明したつもりだった。
「……う、うん。バッチリ分かったよ?」
「本当だな? 命を賭けれるか?」
「……えへへ」
照れくさそうに頬を掻き、誤魔化しの笑みを浮かべるシャルロット。
――あー、これは絶対に理解していないから、あとでニノにも直接話しておこう。俺はそう思った。
「毎度のごとく思うんだが、お前ってマジでバカだよな」
シャルロットはとにかくバカ――これだけは絶対に譲れない一線である。理解力の低さや語彙の乏しさなどなど。きっと暦荘に住む全員が、シャルロットのことをある程度はバカだと思っているに違いない。
まあ――そこがコイツの魅力でもある、とは口が裂けても本人には言わない。
「あー! またバカって言ったー! 士狼がバカって言ったー!」
「うるせえな、分かったから大声出すなよ、バカ」
「またまたバカって言ったー! ……ぅぅ、なんか最近、私の扱いが酷くないかな? けっこう頑張ってるのに」
しょぼーん。
そんな表現がぴったり似合うような感じで落ち込む。
「っ――こ、こうなったら。力ずくで士狼を……!」
右手に小さな炎を携えて、シャルロットが牙を剥く。
――このとき、俺の脳裏によぎるものがあった。あれは数時間前のこと。深夜の廃屋で、雪菜の頭を撫でてやると、それはそれは気持ちよさそうにしていたのを思い出した。つまり女という生き物は、もしかすると頭を撫でられるのに弱いんじゃないかと。
「もう後悔しても遅いんだからね!」
うりゃーと好戦的な笑みを浮かべて立ち向かってくるシャルロット――その頭の上に。
俺は、ぽんと手を置いて撫でてやった。
「……ふにゃ」
その瞬間、シャルロットに起こった変化は、きっと手品師もびっくりの早変わりだった。
頭を撫でられた途端に、あれだけ憤っていたシャルロットは、まるでご主人様に褒められる子犬のように和んでしまったのだ。
本人の口から漏れた言葉より、この和んでいる状態を”ふにゃ状態”と命名してやろう。
「おーよしよし。ほら、お手」
「――わん!」
俺が掌を差し出すと、即座に乗せられるのは白い小さな手。
それは、お前には吸血鬼としての尊厳など微塵もないのか、と言いたくなるような図だった。いや、だってまさか本当にお手をするとは思わないだろう。
「……こいつの将来が心配だ」
わりと本気でそう思う。
例えば、街を歩いているときに怪しいオジサンから声をかけられても、条件次第ではホイホイと付いて行きそうな気がするのだ。お金あげるよとか、美味しいものをご馳走しようとか。
俺は説教してやろうと決心して、シャルロットの頭から手を離した。
「――はっ!? わ、私はいま何を……?」
すると、シャルロットは夢から覚めたような顔をして、周囲をきょろきょろと見渡した。
しばらくして眼が合う。
「ひょっとして――士狼の仕業じゃないよね? まさか士狼ってば、催眠術をマスターしてたとかいうオチがあるの?」
「おまえ新しすぎるだろ……」
ここまで愉快な女も、そうはいないだろう。そろそろ珍獣の域にまで達してしまいそうである。
「――もう騙されないんだからっ! 今度こそ士狼をこてんぱんに……!」
二度、シャルロットの右手に小さな炎が灯る。それは美しい青色だった。要するに、とても温度が高いということ。もっと砕けて言うと、相当にご立腹らしいということ。
金色のポニーテールを揺らしながら、シャルロットが襲い掛かってくる。
まあ面倒臭かったので、もう一度頭を撫でてやった。
「……ふにゃ」
右手に伝わってくるのは、さらさらとした髪の感触。
視界に入ってくるのは、やはりご主人様に褒められる子犬のように和んだ表情だった。瞳を極楽と言わんばかりに細めて、唇をだらしくなく半開きにして、そこからたまに出る涎をじゅるりと吸い戻して、ずっと「ふにゃー」とか「ほへー」とか言っている。
率直に言うと、とてもバカだった。
「マジで吸血鬼には見えねえな、こいつ。ほら、お手」
「――わんわんっ!」
差し出した左手には、数瞬の間もなくシャルロットの手が重ねられた。そして瞳を輝かせて俺を見つめてくるのである。ちなみにその視線には「褒めて褒めて~」という意思が込められている。
「おーよしよし。さすがシャルロット、バカだなー。お前ほどのバカは珍しいぞ」
「――わん!」
貶したつもりだったのだが、なぜか喜ばれてしまった。尻尾があったら振っていそうである。
とりあえずシャルロットの頭から手を離してみた。
「――はっ!? 私は一体なにを……? ぅぅ……士狼ってば、もう許さないんだからー!」
とりあえずシャルロットの頭を撫でてみた。
「……ふにゃ」
とりあえずシャルロットの頭から手を離してみた。
「――はっ!? もしかして、また催眠術!? ちょっとちょっとー! 士狼――!」
とりあえずシャルロットの頭を撫でてみた。
「……ふにゃ」
すると、この世の楽園にでも出張に行っているような顔をして、途端に大人しくなる。その表情はなんていうか……そう、バカ可愛いだ。”寝惚けた女”と”幼児”を足して2で割ったような感じ。
「ほんと――こいつだけは放っておけねえなぁ」
シャルロットの頭を乱暴に撫で回しながら、俺は苦笑した。
強く頭を揺さぶってしまったのがきっかけだったのか、シャルロットにまともな意識が戻ったようだった。
「――? あれ、士狼……? なんで私の頭を撫でてるの? ていうか、女の子の頭はもっと優しく撫でてあげないとダメだよ。仕方ないから、私が色々とレクチャーしてあげる」
人懐っこい笑みを浮かべながら、俺の手を取って「いい? こうだよ、こう。こうだからね? こう……クイってやるの。分かった?」と楽しそうに言う。しかし言葉の大半が、おまえ絶対に俺に分からせる気がねえだろ、と言いたくなるぐらい理解不能だった。
まあ――そういうところが、シャルロットの魅力でもあるんだが。
そんなことを思ってしまう俺は、やっぱり甘いのだろうか。キザな野郎なのか。
「――士狼! 士狼ってばー!」
えへへ、と眩い笑顔をこぼしつつ、バカ吸血鬼はとても幸せそうだ。
昔の俺ならば、きっと考えられなかった光景。
今の俺ならば、きっと当たり前になった光景。
――これも”慣れ”というやつか。もしくは”変化”というのか。
とにかく一つだけ確かなことがある。
それは。
「――ったく。やっぱりお前って、バカな吸血鬼だよな」