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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
第四月 【守る物、護る者】
62/87

其の七 『家族』②

 朝の空気と、夜の空気というものは、厳密に言うと同じものではないと思う。

 日が出ている間は、多くの人間が活動する。つまり、それは交通量が劇的に増えるということであり、都会の空気には大量の排気ガスが混じってしまうのだ。

 それに比べて、日が沈み、さらに人が寝静まった深夜の空気は違う。まるで田舎のそれのようだ――とは褒めすぎだろうが、少なくとも濁ってはいない。なぜなら排気ガスが無いからだ。

 だから――夜の空気が美味しいとか、澄んでいるとか、新鮮な味があるとか、そういう錯覚を起こすことがあるのだとしたら、それは間違いではない。

 しかし朝に比べて、夜は何となく忌避すべきものだ――そんなイメージが多くの人にはあると思う。

 例えば、子供の頃から幽霊は夜中に出没するものだと教えられてきたし、日が沈むと人気が無くなってくるので悪い人間には絶好の時間だし、そんなマイナスな思考が積み重なった結果、夜は恐いものだという印象が強くなってしまう。

 けれど現実でアンケートを取ってみると、恐らく、意外と夜のほうが好きだという人間も多いんじゃないだろうか。

 静かで、暗くて、自分一人の時間が持てて、そしてどことなく大人の時間のような気もして。

 確かに、朝は明るくて人気も多くて喧騒も強いのだが、だからこそ落ち着かないというのも、また事実である。

 自分が抱えている罪、後ろめたいこと、恥ずかしい過去、秘密にしておきたいこと――そういった内面で隠しているはずの何かが、なんとなく露呈してしまうんじゃないか――そんな不安を、朝は与えることもある。

 加えて告白させてもらうなら、俺こと宗谷士狼は、『夜のほうが大好き派』だ。明確な理由は無い。あえて言うなら、明るいところよりも暗いところのほうが落ち着くからである。

 だから『夜のほうが大好き派』の人間を、この世に一人でも多く増やしていきたいと思っているのだ。

 

「――というわけで雪菜せつな、お前は今日から『夜のほうが大好き派』だ」


 思い立ったが吉日、という言葉があることを思い出した俺は、とりあえず身近な人間から毒牙にかけていくことにした。

「はい? 夜のほうが大好き派……ですか?」

「そうだ。いきなりだが、お前は朝と夜のどっちが好きだ?」

「はあ、質問の意図がビックリするぐらい分かりませんが、とりあえず夜のほうが好きですけど」

「なるほどな。やっぱり意外と夜が好きってヤツは多いんだな」

「……あの、士狼さんがスッキリなさっているところ恐縮ですが、生憎と、私の脳内は現在モヤモヤの嵐です」

「気にすんな。お前は悪くない」

 自分で言い出したことだが、そろそろこの話題も面倒になってきた俺は、雪菜の頭にぽんと手を乗せた。白状させてもらうなら、それで誤魔化すつもりであった。

 すると何がどう功を成したのかは不明だが、雪菜は猫のように瞳を細めて「ぱないですー」と気持ちよさそうに息を吐いた。

 それにしても――前々から思っていたことだが、雪菜の髪は本当にサラサラだ。まるで俺の顔が映りこみそうなほどの艶やかさを持った黒髪。昨今の女性は髪を脱色するのが主流となっているが、雪菜を見ていると、そんな必要は無いのではという思いが強くなる。

 女にとって髪は命である――そんな言葉が認められているわけだが、正直に言うと俺は、女がそこまでして髪に気を遣う意味がイマイチ分からなかった。

 しかし雪菜を見ていると、その考えは自然と変わってくる。純粋な気持ちで、あぁ女の髪って綺麗だなぁ、と感心するのだ。

 姫神だって髪は黒いのだが、あいつの場合は紫外線を多く浴びているせいか、やや色素が抜けて茶色がかっている。無論それが悪いわけじゃないが、やっぱり日焼けを意識的に避けている分、純度という意味では雪菜のほうが上だろう。

 日本古来の美しさ、とでも言おうか。

 シャルロットやニノとはまた違った趣が、凛葉雪菜という女にはあるような気がした。

「……ぽ」

 じーと見つめていると、なぜか頬を染められてしまった。

「なんだどうした。何もないところで照れんなよ」

「いえ、この間テレビでこのようなシーンを見ましたので真似をしてみた次第です」

「相変わらずテレビ見てんのな」

 凛葉雪菜という女は、大和撫子のような外見とは裏腹に、テレビという実に現代チックな代物が好きだったりする。

 暦荘は防音性に優れているとは言えず、みんなが寝静まる深夜とかになると、隣室の物音が聞こえてきたりもするのだが――わりと雪菜の部屋からは、バラエティ的な笑い声が漏れてくるのだ。

 ちなみにシャルロットの部屋からは、「きゃー!?」に代表されるような、何かを失敗したらしき声が度々聞こえてきたり。

「違います士狼さんは勘違いをしています。べつに私はテレビなど好きではありません。私が好きなのは、茶道と、舞踊と、お料理と、お掃除と、あとは殿方に尽くすこと全般のみです」

「……なんだ、その女房を対象にする会社の面接で多用されそうなフレーズは」

「ええと……士狼さんは、いま私が言ったようなこと、嫌いですか?」

「どっちでもいいな。でも料理とか出来る女は悪くないんじゃねえ?」

「……ま、真ですか?」

「ああ、真だ。どうでもいいが奇妙な言い回しだな」

「お気になさらず。……ふむ、それより士狼さん。なぜか私は今、唐突に肉じゃがが作りたくなりました」

「何か危ないもんキメてんのかと疑うぐらいに唐突だな」

「失敬ですね――と言いたいところですが、我慢しておきましょう。……こほん、ちなみに味見役を募集中です、とか言ってみたりします」

「ふーん、周防あたりにでも頼んだらどうだ? あいつなら炭化したような飯でも、お前やシャルロットが作れば喜んで食うと思うぜ」

 欠伸をかみ殺しながら提案してやると、雪菜は何故だか面白くなさそうに唇を尖らせた。

「……味見役、募集中なうです」

「周防が気に入らないなら智実にでも言え。あいつの舌を満足させられるなら大したもんだ」

「――士狼さん、わざとですか?」

「わざとだ。ていうか距離が近い、俺が悪かったから離れろバカ」

 ずいっと身体を寄せて、犯人に詰問する刑事のように真実を突きつけてくる雪菜。

 別に雪菜の料理を味見してやってもよかったのだが、何となくからかってみたくなった俺は、あえて惚けたフリをした。

「そういえば肉じゃがで思い出したが、お前の料理の腕前は板前顔負けだって姫神が言ってたんだが、マジか?」

「それはまさしく過言というやつですよ、士狼さん。せいぜい言って人並みレベルだと思います。自分のお弁当を自分で用意するような、お料理にちょっと興味を持ち始めた女子高生程度の腕前ではないでしょうか。ただ、一応はお母様から仕込まれてはいますので、それなりには美味しい物をお出しできるかと」

 どうも謙遜しているようだが、姫神曰く、雪菜の腕前は嫉妬を超えて崇拝してしまう領域だという。

 レパートリーは和食に限られているらしいが、下手に洋食や中華に手を出していない分、一つの道のみを追求し続けたような奥深い味を持つらしい。

 およそ半年ほど前に、姫神は暦荘の自室――要するにしがないアパートの一室で、宮廷料理のような食事を振舞われたという。まるで怪談のようにそれを語る姫神は、実に印象的だったのを覚えている。

 そんなエピソードを持つぐらいなのだから、雪菜は本人が言うよりも腕が立つのだろう。

「……まあ、そこまで言うなら一度ぐらいは食わせてくれよ。お前の料理」

 引き下がる気配がなかったので、そう妥協してみた。

 すると、雪菜にしては大変珍しい花のような笑みを浮かべる。

「――はい! 楽しみにしていてくださいね、士狼さん」

 両拳を握り締めて、わくわくが止まらないとでも言いたげな様子だった。

 たかが料理を作るだの食わすだのでそこまで喜ばれるとは。なんだか、子供に十円ガムを買ってやって必要以上に感謝された親の気分だ。

 ――そうこう実のない話を繰り返すことしばらく。ゆっくりとしたスピードで階段を上っていた俺たちは、五階へと続く階段の踊り場に立っていた。

 ちなみに繋いでいた手は、とうの昔に離していた。なぜなら荒野のように荒れていた一階付近とは別に、それより上の階層はあまり荒れておらず、和服に草履という出で立ちでも十分に歩き回ることが出来たからだ。

 だから本当ならば、二階に上った時点で俺たちは手を離すべきだった。しかし雪菜の「あの、士狼さん。……ええと、手を繋ぐという行為はですね、人間にとって非常に重要なことでして、本来ならば――」という前置きで始まった小難しい演説により、なし崩し的に継続されてしまい、結果として四階に着くまでの間、俺たちは手を繋ぐこととなった。

 それも今では綺麗さっぱり離れているのだが。

 ちなみにその際にも、雪菜はぶつくさと小難しいことを演説なさり、最終的には渋々といったように手を離した。ついでに言うならその直後、雪菜が薄い笑みを浮かべながら、自分の手を撫でていたことが印象的だった。

 俺たちが暢気に雑談をしているのには訳があった。

 簡潔に説明するのなら、いま雪菜は結界を張っている。この五階建ての廃屋を囲むようにして、『魔封じ』と呼ばれる類のそれを展開しているらしい。

 結界とは、その効果が千差万別ならば、編み方だって千差万別。

 例えば――任意の空間を、結界の基点となる札や石を使って四方から囲い、発動するもの。このような下準備が必要なタイプの結界は持続力などに優れ、非常に強力だという。

 反対に――雪菜が今、俺と会話しながら編んでいる結界は、土地の霊脈にちょこっと干渉するだけで完成する簡易的なものだ。上記のそれと比べると下準備が要らない分、効果や持続時間は遥かに劣るのだが。

 まあ、一長一短ということだろう。自分が所持する武器を状況に合わせて有効に使いこなしてこそ優秀だ。

「……はい。術式、完了しました」

 その声と同時。

 きぃんと甲高い音が響いたと思ったら、次の瞬間には電撃が迸るような音がして――最終的には、また静かな夜に戻った。

 よほど強力な結界でなければ、結界の内と外を区切る境界線を視ることは出来ないらしい。ガラスの嵌まっていない窓から覗く景観には何もないところを見ると、今回の結界はさほど強力ではないようだ。

「結構早かったな。もっと時間がかかると思ってたが」

「いえ、これでも遅い方です。しかし結界を張ることよりも大切なことがありましたので、そちらを優先させておりました」

「大切なこと――?」

 雪菜が結界を張る以外にしていたのと言えば……俺と会話していたことぐらいしか記憶にない。でもそれは違うと思うので、きっと式神を操ったりで忙しかったのだろう。

「行きましょうか士狼さん。私たちが餓鬼を祓っている間、忌野くんが妖を退治してくれるでしょう。つまり早ければ今夜にも決着はつきます。要するに、士狼さんに肉じゃがを食べてもらえるというわけですね」

「そう上手く事が運べばいいけどな。どうも俺には嫌な予感がする。……ていうか雪菜、そんなに俺に肉じゃがを食わすことが大事か」

「心配しすぎですよ、士狼さん。肉じゃがは私にとって一番の得意料理なんです」

「いや、嫌な予感っていうのは、そっちの心配じゃ――まあ、いっか」

 先ほどから無駄に気合が入っているのは、どうやら餓鬼を祓うためではなく、俺に肉じゃがを食わすためらしい。

 仮にも荒事の直前だ。余計な気を回すことは得策ではないと思う。だから料理の件はひとまず忘れておけ、と雪菜に言ってやると「たとえ士狼さんのお願いでも、それだけは聞けません」などと呟いて、ぷいっと顔を逸らしてしまった。

 いくら言っても、何度顔を覗き込んでも、雪菜はその度にぷいっぷいっと音が出そうなほど軽快なリズムで、俺から顔を逸らし続けた。やがて俺が根負けすると、雪菜は満足そうに頷いたのだった。

 緊張感のないやり取りを繰り返しながら、俺たちは五階に足を踏み入れた。

 仄昏い廊下を俺・雪菜と前後に並んで歩きながら、しばらくして目的の部屋に辿り着いた。

 やや錆びたドアノブを回して、俺たちが踏み入ったのは、恐らく会議とかに使われていた場所だろう。この建物の中ではわりと広大なスペースを誇り、壁際には大きな窓がある。ただし、かつては存在したであろう机やボード等はすでに片付けられており、部屋の内部はがらんどうだった。

 ――そして、その空虚な空間の最奥。

 忘れたくても忘れられない赤黒い体躯――餓鬼の姿があった。

 人間の限界を超えた巨漢、肥大化した筋肉、頭部に生えた二本の角、野獣のごとき唸り声。

 それは誰がどう見ても異端であり、異常な存在だった。


「――苦しくはありませんよ、元来の姿に戻るだけですから」


 俺の背後から声が聞こえたと思ったら、雪菜の背中が目の前にあった。

 儚げに諭すような雪菜を前にして、餓鬼は一歩も動かない。否、一歩も動けない。

 なぜなら、餓鬼の周囲――というよりも、この部屋の至るところに白く発光する猫がいたからだ。微妙に透けた半透明の体躯を持つ猫――のカタチをした雪菜の式神。

 それらは数にして数十にも上り、雪菜の命令を待つようにして餓鬼を取り囲んでいる。本来は気ままでマイペースなはずの猫が、一切鳴かず、示し合わせたようにして餓鬼を凝視している。

 正直に言うのなら、それはちょっと不気味に思えた。

「――本来の貴方に罪はありませんが、現在の貴方には罪があります」

 雪菜が腕を上げる。和服の袖がぶらんと垂れた。

 反対に、餓鬼は怯えたように後退あとずさる。きっと本能が理解しているのだろう。自分ではどう足掻いたところで、この女には勝てないのだと。そしてその訴えは間違っていない。

「――さようなら、来世に幸福を」

 唄うように宣言して。

 雪菜は、腕をゆっくりと下ろしたのだった。





****





 雪菜は浮き足立っていた。

 それは気を抜けば、口元がニヤけてしまいそうになるほどに。

 普段の凛葉雪菜という少女は、基本的にはあまり笑わない。もちろん感情が存在しないわけではないが、それでも”表情”という形にして表に出すことは稀だ。だから雪菜が嬉しさのあまりに笑みを漏らすなどと、暦荘の面々が知ったら間違いなく驚くだろう。

 ――しかし、それも仕方がないじゃないか、と雪菜は自分を説得する。

 なぜなら、宗谷士狼と一つの約束を取り付けてしまったからだ。それは自分が作った手料理を、士狼に振舞うというもの。

 そんな些細なことで、よくもそこまで喜べるものだ、と言われては反論できない。けれど、この約束は雪菜にとっては人生を左右しかねないほどに重要だった。

 まず手料理というのだから、おそらく二人きりになるだろう。しかもキッチンを使用する関係上、場所は雪菜の部屋か、士狼の部屋になることは確実だ。これをはしゃがずにして、一体なにをはしゃげと言うのか。

 普段は自称陰陽師と名乗り、しかしその実は、退魔の名門である凛葉家に生を受けた者――それが雪菜だ。でも、どのような注釈や真実があったとしても、彼女が年頃の乙女であることに変わりはないのだ。

 高校生にもなれば身体も相応に成長して、男性の気に召すだけのものになるし、一通りの恋愛作法や、さらには愛し合う男女が互いを求める行為まで分かるようになる。

 つまり――雪菜はもう十分に一人の”女”なのだ。その気になれば結婚だって出来る年齢だし、大好きな男性との間に子供だって産むことが出来る。

 それらを踏まえると、雪菜は成人していないからといっても、少なくとも子供ではない。背伸びなどはあんまり好きじゃないが、自分は大人なのだ、という考えが多くを占めるようになる。

 ……しかし、士狼はいつだって雪菜を見ることはなかった。というよりも、対等の相手として認識されていないような。まるで大人が子供の相手をするかのように接せられるのだ。

 普段から何気なく好意を示したりしているが、士狼は気付かない。――いや、もしかしたら気付いた上で、あえて気付かないフリをしているのかもしれない。

 とにかく納得のいかないことは多々あるが、いまの雪菜にとって、その全てがどうでもよかった。

 だって、士狼に料理を作ってあげる約束をしたからだ。それも自分が母から教えてもらった中でも、得意中の得意であると自負する肉じゃがを。これはもしかしたら一世一代のチャンス到来なのでは、と逸る心が抑えられなかった。


「――さようなら、来世に幸福を」


 待機していた五十三匹の式神に命を下すようにして、雪菜は腕をゆっくりと下ろした。

 その末路は実に呆気ないものである。強面などという表現が逃げ出すほどに狂気染みた外観の餓鬼は、しかし式神を前にして、軟弱という言葉がピッタリ似合うほどに無力だった。

 一応は抵抗らしきものを見せたものの、その赤黒い体躯は、雪菜の式神によって少しずつ祓われていく。猫のカタチをした式神が餓鬼にぶつかる度、青白い雷光に似た輝きが発せられ、薄暗い部屋に明滅する。その一つ一つの輝きが、餓鬼にとってのダメージだった。

 人間の魂魄が怨念を強めて質量を持っただけの低級な妖が、凛葉の名を冠する陰陽師に勝てるわけがない。しかも雪菜は、あの鮮遠家せんえんけの血を半分とはいえ受け継いでいるのだから。

 雪菜の母は、旧名を鮮遠せんえん耶宵やよいと言って、鮮遠家の現当主の妹に当たる女性だ。鮮遠家はいわゆる女系一族であり、女が家督を継ぐのは珍しくない。事実、鮮遠家の今代当主は女性――つまり耶宵の姉だった。

 敬愛する姉が家督を継ぐのを見届けた後、耶宵は幼少の頃から幼馴染の関係であり、同時に恋仲だった凛葉家の子息の元に嫁ぎ、数年後に女子を産んだ。

 それこそが、他でもない雪菜だった。

 陰陽師を代表とした退魔の人間は、その大部分が、そういう家柄に生まれたからこそ退魔に生きている。……なぜか。理由は簡単で、退魔の力には血統が大きく関係してくるからだ。

 陰陽道本家であり、青天宮の頂点に立つ鮮遠家。その本流から派生した唯一の家系、凛葉家。それら二つの血を引く雪菜は、間違いなく計り知れない才能を持っている。

 だから、たかが餓鬼程度にてこずるのはありえない。それ相応の準備をすれば、単身で”鬼”にさえ挑むことができるだろうから。

 雪菜は、少しずつ祓われていく餓鬼を見つめていた。――が、その意識の大部分は全く別のことを考えていた。

 ――士狼に料理を振舞うのは、自分の部屋か、彼の部屋か、どちらにしよう? 最近部屋を掃除したばかりだが、やっぱり帰ったら、もう一度掃除をしたほうがいいかもしれない。あとは肝心の肉じゃがだが、これは材料だって厳選したいし、味付けだって士狼好みにしてあげたいし――

 延々と繰り返される思考。

 雪菜は、悪霊退治という荒事を行いながらも、それが終わった後のことばかり考えていた。

 ここで一つ断っておくと、別にそれが悪いわけではない。事実、すでに餓鬼はほとんどカタチを無くしており、光の粒子となって天に上っていく最中だった。だから彼女たちの仕事は終わったのだ、あっけなく。

 ――しかし、誤算は確実にあった。士狼との約束にばかり気を取られて、目先の仕事のみ・・に全意識を奪われていた雪菜は、この廃屋にいる餓鬼が一匹だけだと勘違い・・・した。

 要するに。

 このとき雪菜は。

 間違いなく。

 気を抜いていたのだろう。

 ――突然、雪菜の真横にあったコンクリートの壁が破壊された。別にトラックがぶつかったわけでも、建物が急に倒壊を始めたわけでもない。ただし、勝手に崩れ去ったわけでもない。

 舞い散るコンクリートの破片。それを、目に入っては敵わないと反射的に腕を上げて防いだ。

 しかし問題は終わらない。

 コンクリートの壁を破壊した原因――廃屋に潜んでいた、もう一匹の餓鬼。

 赤黒い体躯の異形が、是非を問う間もなく雪菜に襲い掛かる。その速度は正に疾風迅雷。これといった技術も歩法も使われていない接近ではあったが、強靭な筋肉が、未熟な面のことごとくを補う。

 一匹目の餓鬼を祓うことに二割、士狼に食事を振舞うことに八割の意識を割いていた雪菜は、二匹目の餓鬼に全く気付いていなかった。それは本来ならば有り得ないことだ。事実、廃屋に追い詰めたのは一匹だけだった、それは間違いない。

 恐らく――雪菜が結界を張ったのに反応して、この場に駆けつけてきたのだろう。元々は人間である餓鬼は、その性格や性質も様々で、中には仲間意識が強い者も存在する。しかし、そんな善人気取りの餓鬼は恐ろしく稀だ。

 ゆえに、これは不運。

 絶対の不運。

 間違いなく――この瞬間、この世界で最もツイてないのは雪菜だった。

 いくら優秀な陰陽師とは言っても、雪菜の運動能力は一般人の域を出ない。忌野のように青天宮に出向し、幼少のころから身体を鍛える特殊な訓練を積んでいるのなら別である。だが雪菜は、日常では運動不足の女子高生なのだ。

 だから間に合わない。

 回避が、間に合わない。

 肉薄する異形の存在を前にして、雪菜は強く瞳を瞑った。それは――諦め。

 視界が瞼によって遮られ、一切の暗闇となる。その分だけ聴覚が冴え渡り、餓鬼の咆哮が耳を劈いた。ここまで貪欲に死を知らせてくる人間の機能というのは、なんとも残酷だなぁ、と雪菜は暢気に思った。


「――雪菜!」


 高められた聴覚により、雪菜はその叫びを強く聞いた。

 何か声を出して応えようとするよりも先――腰のあたりを、誰かの腕が力強く掻き抱いてきた。その突然の抱擁に似た行為は、目を瞑ったままの雪菜を死の危険から瞬く間に救った。

 わりと豊満な身体をしていることもあり、雪菜の体重は軽い方ではない。しかも和服を着ているのだ。いくら大の男だからと言っても、気軽に抱きかかえて、あまつさえ高速で肉薄してくる餓鬼の攻撃を回避できるなど――

「――雪菜、大丈夫か?」

「え――?」

 強く瞳を閉じていた雪菜は、耳元で優しく名を呼ばれた。それは聞き慣れた声で、慕っている人の声で、これからもずっと聞いていたい人の声。

 恐る恐る瞼を開いていく。完全なる暗闇だった視界が、やや暗闇の視界へと移り変わる。

 そこにあったのは、がらんどうの会議室、壁際に設置された多くの窓、散らばるコンクリート片、破壊された壁、目標を見失って狼狽する餓鬼、そして――

「気を抜いてんじゃねえよ、バカ」

 安心したように笑みを浮かべる、宗谷士狼の姿。

 士狼は、雪菜の腰に腕を回して抱くようにしていた。そのせいで距離が近い。とてつもなく近い。具体的に言うのなら、二人の顔の距離は五センチもなかった。

「怪我はないか?」

「――えっ? あっ、そ、の――」

 顔がポンっと音を立てる勢いで赤くなる。それも頬だけではなく、耳や、果ては首までもが朱に染まった。

 今まで――これほど近距離で士狼の顔を見たことがなかった。シャルロットやニノとは違い、気軽に身体を触れ合わせるようなスキンシップを取れない自分は、いつだって離れた距離から上品に会話するだけだった。

 でも、今回は違う。

「――わ、わたっ、わたしっ、わたしはっ――」

 舌を何度も噛んでしまって言葉にならない。

 あまりの緊張により、呼吸さえ上手くすることが出来ない。

 心臓が爆発しそうなぐらいに脈動していて、全身に巡っていく熱い血液がハッキリと分かる。

 それだけに留まらず、さきほどまで使役していたはずの式神が消えている。なぜなら、目の前にいる士狼のことだけに意識を十割使っているので、その他のことに回す意識など初めから存在しない。

 身体が熱い。燃えてしまいそうなほど、という比喩が今なら共感できる。

 だって、それは現在における自分の身体のことだから。

「心配すんな。お前は俺が守ってやるから」

 緊張によって身体を震わせ、心臓の鼓動を速くして、体中を赤く染めて、呂律が回っていない雪菜を、餓鬼に対して恐怖していると思ったのか。

 士狼は、雪菜の頭をポンと叩いて、そう言った。

「……は、はい」

 それだけ、かろうじて口にすることが出来た。

 頭の中はモヤがかかったみたいに曖昧で、夢の中にいるようだった。

「じゃあ俺は」

 腰に回されていた士狼の腕が離れていく。

 触れ合っていた愛しい温もりが消えていくのが、ひどく恋しかった。

 こんな時なのにも関わらず、雪菜は、それが泣きそうなほど名残惜しく感じた。


「――あのクソガキをぶっ飛ばしてくるからよ」


 拳銃を構えながら宣言する士狼を見て。

 雪菜は、心臓を鷲掴みにされるような痛みを覚えた。べつに胸に怪我などしていないはずなのに、持病の類など持っていないはずなのに、ひどく心臓が痛かった。

 ともすれば、張り裂けてしまいそうなほどに。




****

 



 間もなく戦闘は始まった。

 俺を視界に入れた瞬間、餓鬼は喊声かんせいを上げながら疾走してくる。

 それは驚異的な脚力だ。人間でないからこそ、人間以上の力を持っている。そもそもで言えば、異端は異端同士で争うのが普通であり、人間対異端というのは分が悪いことが前提のはず。

 だが。

 俺を誰だと思ってやがる。

 自分を殺せるだけの力を持った存在を、俗に”敵”と呼称するのなら――あの餓鬼と呼ばれる存在は、俺にとっての敵には値しない。

 ハンマーに似た豪腕が振るわれる。 

 その動き方、足の運び方や利き腕、それに軸足なども一切無視して動いている点から見て、餓鬼には武道を始めとした戦闘技能が備わっていない。ただ自身のポテンシャル――つまり身体能力のみを武器としているんだ。

 戦闘能力というのは、つまるところ掛け算だと俺は思っている。

 それは、運動能力と戦闘技能の掛け算。これら二つの数値が高ければ高いほど、結果として出た答えつよさも高くなる。

 その観点から見て、餓鬼は身体能力こそ優れているものの、掛けるはずの戦闘技能が全くのゼロだ。大人の頭脳を持った子供と、幼児の頭脳を持った大人では、誰がどう見ても前者のほうが強力だ。

 俺は餓鬼の攻撃を紙一重で避ける。ギリギリでなくては回避できなかったのではない。自分の最小で、相手の全力をいなすことなど基本中の基本だ。

 必殺の一撃を空振った餓鬼は、激昂したように乱撃を繰り出してくる。それは腕を振り回すだけの単純なものだった。

 ――動いているところ。

 ――動いていないところ。

 見極めろ。

 ――呼吸をしているとき。

 ――呼吸をしていきないとき。

 見極めろ。

 ――多く狙ってくる箇所。

 ――あまり狙ってこない箇所。

 見極める。

 ――活点と死点を視る。この経験さえ積めば、相手の数秒先の動きでさえ何となく視えてくる。

 ――だから冷静に視る。視続ける。戦闘において自己を一つの武器として扱い、相手を打ち抜くべき的として見なし、ただ相手の全てを――

 

 見極めた――――!


「――っらぁ!」

 餓鬼が大振りの一撃を外した隙を突く。

 相手の重心が真横に流れたのを見て、それに上乗せする形で、横合いから回し蹴りを撃つ。すると大した力を入れていないにも関わらず、餓鬼の体は面白いように吹き飛んだ。

 コンクリートの壁に餓鬼が激突すると、建物全体が揺れたかのような衝撃があった。体重にして数百キロはありそうな物体の運動エネルギーは計り知れないということだろう。

 ほとんどダメージを負っていなさそうな餓鬼は、体を即座に起こそうとした。


「――が、残念」


 赤黒い胸元を思い切り踏みつけて、その動きを封じる。

 そして構えた拳銃の銃口を、餓鬼の額に当てる。一握りの躊躇も慈悲もない。

「消えろ」

 俺のその声は、連続する発砲音によって掻き消された。脳天に向けて放ったのは計十五発の弾丸。いくら火力の低いベレッタで、相手は頑丈な餓鬼だといっても、この近距離から強烈な鉛玉を脳みそに食らわされては堪らないらしい。

 強烈なマズルフラッシュが網膜を焼く。屋外ならばともかく、暗闇においてのマズルフラッシュは瞳が痛むほどの明るさ――まさしく光の爆発だ。

 赤い血液が微かに噴き出し、餓鬼の体が痙攣したと思った直後――俺の足がドンっと地面を踏んだ。赤黒い体躯が光の粒子となって消えていったので、それを踏みつけていた足が、自然とその下にある地面を踏んだのだ。

 すこしの間だけ残心し、周囲に気を巡らせ、危険が取り除かれたかどうかを確認する。いくら雪菜の探知に絶対の信頼を置いていたとはいえ、もう一匹の餓鬼を見逃していたんだ。今度はもう油断も妥協も手加減もしない。

 ……よし、どうやらこの廃屋に、俺たちの脅威になるような存在はいないらしい。

 拳銃を仕舞い、深呼吸をした俺は、今となっては懐かしい硝煙の臭いに気付いた。日本に帰ってきてからは縁が切れたはずの臭い。鼻をすんと鳴らして、もう一度だけそれを肺に取り込む。すると、不思議と心が落ち着いた。

 ――こうして、俺たちの悪霊退治は一応の完結を見ることになったのだった。





 餓鬼を祓ったあと、俺は、床に尻餅をついたまま呆然としている雪菜に気付いた。

「怪我とかしてないか、雪菜?」

 ゆっくりと歩み寄って、手を差し伸べる。

「――あっ、はい。大丈夫だと思います」

 まるで夢から覚めたかのように気付いた雪菜は、慌てたように俺の手を掴んだ。握り締めた小さな手は、やはり微かな熱を帯びているような気がする。

 足腰に力を入れて、大きく腕を引っ張ってやると、その反動で雪菜は立ち上がった。

「――痛っ」

 しかし何が原因か。

 雪菜は眉間に皴を寄せるようにして顔をしかめると、ふらりと身体を傾がせて、俺に寄りかかってきた。その際の体の崩れ方からして、これは足に何かしらの負傷をしていると確信した。

 俺の胸にしがみ付くようにして震える雪菜は、まるで痛みの波に耐えているかのようだった。

「お前――どこか痛めたのか?」

「っ――は、い。どうやら……足を痛めてしまったみたいで」

 よりにもよって足を負傷するとは――怪我をするのもツイていないが、部位もまたツイていない。

 でもまあ、後はホテルに帰還するだけ、というのが不幸中の幸いだろう。餓鬼を祓い終わった今ならば、ゆっくりと治療も出来る。

 応急処置は早いほうがいいので、この場で簡単な検査をしておくことにした。打撲、裂傷、捻挫、骨折――そういうメジャーな怪我の処置ならば、俺はそれなりの心得がある。

 餓鬼が破壊した廃屋の壁。そして地面に散らばるコンクリートの塊――その中でも一際大きい瓦礫の上に、俺が着ていた上着を敷いて雪菜に座らせる。ちなみに雪菜は、俺の服を尻で踏むのに抵抗があったらしく当初は遠慮していた。やがて強引な説得の末、渋々といったように了承した雪菜は、申し訳なさそうに腰掛ける。

 要するに、コンクリートの塊を即席の椅子代わりとした。

「――草履、脱がすぞ?」

 雪菜の足元にしゃがみ込んだ俺は、一言確認してから、はんなり色の草履に手をかけた。

「――いや、あのっ、待ってくださいっ。……自分で、脱ぎますから」

「分かった。足に負担をかけないように、ゆっくりとな」

 この緊急時に何が恥ずかしいというのか。雪菜は照れくさそうにしながら、本当にゆっくりとしたスピードで草履を脱いだ。つまり、早急に草履を脱ぐことが出来ないほどの痛みがあるということか。

「……士狼さん。あまり見ないでください」

「は?」

「……その、えっと……恥ずかしい、ですから」

 顔を俯けて、とても言いにくいそうに、そんなことを呟く。

 よく見ると、草履の次には足袋たびを脱ごうとしているらしい。……なるほど、あの下は素足となるわけだし、年頃の女なら相応の羞恥心を持つのかもしれない。

 遅れて気を利かせて、視線を窓の外へ向けた。綺麗な青白い光が見える。俺たちが腰を下ろしている場所は、ちょうど月光がよく当たるようだ。

 静寂を切り裂くようにして、微かな布擦れの音と、雪菜の息遣いが聞こえる。

「士狼さん……もういいですよ」

 名を呼ばれて振り返る。

 ――本当に正直に告白させてもらうなら。俺はこの時、不覚にも心臓が高鳴るのを感じた。

 その光景を一言で表現するのは難しい。天使のようだ、というのは大げさだし、ただの人間にも見えない。だから――それは、凛葉雪菜という女である、とだけ表すのが正解。

 瓦礫に腰掛けた雪菜の足元には、脱ぎ終わった草履と足袋があった。しかし、俺が目を奪われたのはそこではない。

 白い膝小僧あたりまで捲られた和服の裾。そして惜しみなく晒された――雪菜の素足。

 それは、まるで雪を固めたように真っ白だった。痣やくすみの類は一切見られず、ちいさな切り傷一つとして存在しない。普段から気を遣っているのが一目で分かる。

 あまり運動をしていない、というわりには、程よく筋肉のついたふくらはぎ。そこから下に視線を辿っていくと、長さが整った五本の指が見える。今時の女のようにマニキュアを塗布しておらず、爪は赤ん坊のように薄っすらとしたピンク色だった。

 ――思わず生唾を飲み込んでしまった俺だが、それは男として当然の反応だったに違いない。

 本人が豪語するだけあって、雪菜は素肌を晒すことが極端に少ない。暦荘の隣室に住む俺をもってしても、肩や腹はもちろんのこと、二の腕や、膝や、果てにはふくらはぎすら見たことがないほどだ。

 日常ではずっと隠されていた雪菜の素足。日焼けなどこれっぽっちもしておらず、雪原の白兎よりもなお白い。

 なぜか意味不明なぐらいドキドキしてしまった俺だった。

「……士狼さん、あの……そんなに見つめられると、恥ずかしい、です……」

 蚊の鳴くような声で、雪菜は相変わらずの赤い顔で呟いた。

「――あ、ああ、悪い悪い。ちょっと気が抜けてた」

 ぶんぶんと頭を振って意識を保とうとする。

 俺は、今から雪菜の怪我を診てやるのだ。にも関わらず、晒された生足に見とれてましたー、などと誰が認めてやるものか。

「じゃあ診るぞ。痛かったら言ってくれ」

 雪菜が頷いたのを確認してから、俺はすこしだけ躊躇ったあと、とうとう足に触れた。どこかひんやりとしている雪菜の足は、肌がとても滑らかで、指が吸い付くかのようだ。

 両方の足を見比べてみる。恐らくは足首の捻挫だろうな、と予想はしていたのだが、果たしてそれは正解だった。ちなみに雪菜が痛いと訴えていたのは右足である。

 細い足首ではあったが、左足のそれと比べると、やはり腫れて炎症を起こしてしまっている。

 俺は手にした雪菜の足首を色々な角度に曲げて、負傷箇所を入念に調べていった。

「痛くねえか?」

「っ――大丈夫、です」

 時折ビクっと身体を震わせるのは、やはり痛いからだろう。しかし耐えられないレベルではなさそうだ。

「なるほどな。軽い捻挫みたいだ。完治には数日かかると思うが、患部をすぐに氷か何かで冷やしてやれば腫れも引く。上手くいけば明日には歩けるようになるだろ」

「……ありがとう、ございます」

 心ここにあらず、といった様子の雪菜。その顔は、なんだかこそばゆそうだった。

 ――そういえば、さきほどまでは驚くほど白かった雪菜の足だが、よく見てみると薄っすらと赤みを帯びているような気がする。それに何だか温かい。触れたばかりの時はひんやりとしていたのだが、今はポカポカしている。

「お前、大丈夫なのか? 辛かったら我慢せずに言えよ?」

 もしかしたら痛みのあまり体温が上昇しているのではないか――そんな予想が浮かんだ。

「……いえ、本当に大丈夫ですから」

「無理はすんなよ。それにお前、汗かいてるじゃねえか」

 ストーブが恋しい程度には肌寒い夜だ。じっとしているだけで発汗することはありえないと言っていい。なのに、雪菜は薄っすらと汗をかいているし、頬だって真っ赤だし、呼吸だって一回一回の間隔が短い。

「――あのっ、もういいでしょうかっ?」

 訝しげに見つめていると、雪菜は挙動不審な様子でそう言った。

 俺が了承すると同時、わたわたと慌しげに足袋を履いて、草履を履く。

「なんか怪しいな、お前」

「…………だって士狼さんに足を見られるの、恥ずかしいですし……」

 ごにょごにょと口篭もる。

 おかげで何を言っているのかさっぱり分からない。

「あん? なんだって?」

「――えっ、もしかして聞こえちゃいましたか?」

「聞こえなかったから聞いたんだよ」

「そうですか。よかったですー」

 胸を撫で下ろす雪菜だが、俺のほうはよろしくない。

「隠してないで言えよ。俺は何かを言いかけて途中で止められるのが一番イヤなんだよ」

「甘いですよ士狼さん。女という生き物は、秘密を持っていたほうが綺麗になるものです」

「……何の番組で言ってたんだ、それ?」

「五日ぐらい前に見たドラマの女優さんが言っていました」

「やっぱりか……」

「それにですね、士狼さんだってですね、すこしぐらいはですね。……その、私の足に見蕩れていたーとか、あったりしませんか?」

 内心ではギクっとした。けれど、もちろん表面には出さない。

 俺はさも興味無さそうな顔をした。

「はあ? 寝言は寝てから言え。お前には、いかんせん大人の色気が足りないんだよ。まあ、まだまだちんまいクソガキってことだな」

「……ちょっとぐらい…………意識してくださっても、いいではありませんか」

 またしても雪菜はごにょごにょと口籠る。おかげで言葉が聞き取れない。

 ただし今度は気恥ずかしそうではなく、やたらと唇を尖らせていて、いかにも機嫌を損ねていますよーという感じだった。

「――あれ、そういえば」

 なにかを思い出したかのような顔をして、雪菜はポンと手を叩いた。

「どうした? 毎週欠かさず見ている番組の録画でも忘れたのか?」

「いえ、それも勿論ありますが」

「冗談のつもりで言ったんだが、まさか本当にあんのかよ……」

「――それよりも士狼さん。”ちんまいクソガキ”って言葉、なんだか懐かしいとは思いません?」

 紅い唇を緩ませて、遊園地に連れて行ってやると約束してもらった子供みたいな顔をする。

 しかし――そのような表情を浮かべる理由が、俺には今ひとつ分からなかった。

「懐かしい? 何のことだ?」

 意味が分からなかった俺は、からかうことが目的ではなく、ただ純粋な疑問から小首をかしげるハメになった。

 すると、なぜか雪菜は小さく頬を膨らませた。

「……士狼さん、薄情者です」

「待て待て、マジで意味が分からねえんだよ」

「そうですよね、士狼さんは覚えてなんていませんよね。

 どうせ私は”めちゃくちゃ面白い顔”をしていますし、”ワガママな女”ですし、”顔の筋肉が固まって”ますし、挙句の果てには”ねちっこいヤツ”ですものね」

「バカかお前、唐突に自虐すんなよ」

「自虐じゃありません。士狼さんが私に言ったんですよ?」

「マジで? ちなみにいつ言ったんだ?」

 記憶をいくら漁っても、雪菜にそんな悪口を言った覚えはない。

「はぁ……本当に覚えてないんですね、士狼さんは」

 大きく肩を落とし、深いため息をつく。

「――昔のお話ですよ。まだ私と士狼さんが会ったばかりの頃です。……ここまで言っても、思い出しませんか?」

 上目遣いでそう言う雪菜の瞳は、なんとなく悲しそうだった。

 それを見て思う。こいつ本当に変わったなぁって。昔の雪菜は、今よりもちょっとだけ顔が幼くて、胸だって小さくて、表情だって変わらなくて、本当にちんまいクソガキみたいで――

「――あっ、思い出した」

 突然、走馬灯のように記憶が駆け巡った。

 暦荘の渡り廊下で、俺たちの部屋の前で。――確かに俺は、”ちんまいクソガキ”とか、”ワガママな女”とか、とにかくそういう系統の発言をしまくったような気がする。

 脳裏にて再生されるのは、すこし色褪せたせいか、モノクロのような光景だった。


 ――凛葉雪菜です、よろしくお願いします。


 そんな言葉が、出会いの第一声だった。

 あの頃の雪菜は本当に生意気で、人生を悟ったようなツラをしていることが多かった。よく俺にもつっかかってきたし、文句だって言ってきた。だから正直な話、あんまり良好な仲ではなかったと思う。

 でも、気付いた頃には今のような関係になっていた。友人でもなく、兄妹でもなく、恋人でもなく、ただの隣人でもなく、とにかく一言では言い表せない関係に。

 昔の雪菜は、本当にビックリするぐらい可愛げがなかった。根暗なんて言葉が裸足で逃げ出すぐらいに。

 しかし長い時間を一緒に過ごしていくうちに、少しずつ雪菜は変わっていった。よく怒るようになって、よく悲しむようになって、よく拗ねるようになって、よく笑うようになったのだ。

 その変化を見ていくうちに俺の考え方も変わっていった。

 ――こいつ、結構可愛いところあるんだなぁ、と。

 よくよく考えてみれば、あれからもう二年が経つのか。あまり実感が沸かない。まるで昨日のようだ、とはさすがに言いすぎだろうが。

「――思い出していただけたんですかっ?」

 ぱあぁ、と輝くような笑顔を浮かべる雪菜は、やはり昔とは違う。

「ああ、奇跡的に思い出した。ところどころ忘れちゃいるが、それでも覚えてる」

「よかったですー」

 パチパチと手を叩いて、心底嬉しそうな顔をする。

「それにしてもお前、よく覚えてるよなぁ。さすがにどんな言葉を言ったのかまでは思い出せねえよ」

「当然ですよ。私、士狼さんから言われた言葉は、一言一句違わず覚えてますから」

「なんで?」

「いえ、いつか呪ってやろうと思いまして、恨みの原動力となる『悪口』を記憶していた次第です」

「――そ、それは現在進行形か? 俺を呪ってもいいことなんてないぞっ?」

「士狼さん、お疲れ様でした」

「なにがだっ!?」

「絶対に忘れませんから」

「だから、なにがだっ!?」

「……ぷぷ」

「笑いを噛み殺すな! ついでに言っておくが、呪うなら周防を呪え!」

 雪菜に呪われないためならば、とりあえず周防辺りなら差し出しても惜しくはない。

「周防さんですか? ……嫌です、藁人形が可哀想ではありませんか。士狼さんも、すこしは藁人形の気持ちになってあげてください」

「――言葉が見つからねー!」

 あまりにも不憫すぎる周防公人であった。次、アイツと会ったときはジュースでも奢ってやろう――そう決めた俺は間違っていないだろう。

 それからも俺たちは、すぐにホテルへ帰ればいいものを、なぜか無駄な雑談に時間を費やしていた。

 そろそろ帰ろうか――この一言が中々出てこない。もうちょっとだけいいかとか、まだ夜明けまでには結構な時間があるしとか、引き伸ばしの言い訳をしている自分がいた。

 深夜の廃屋は、お世辞にも綺麗な場所とは言えず、暖房だって全く効いていない。だから居心地としては悪い部類に入る。

 にも関わらず、雪菜はとても楽しそうだった。普段はたまにしか見せない笑顔を惜しげもなく連発し、「士狼さん、士狼さん」と何度も俺の名を呼んでくる。

 やっぱり雪菜と一緒にいると心地いい。自分を作らないで済むというか、自然のままでいられるというか。一緒に過ごした二年という期間が、この何とも言えない雰囲気を形成する装置となっている。

「――士狼さん、実はですね」

 昔の雪菜からは考えられないような――柔らかな笑み。

 それを見て嬉しくなる俺は、やはりお兄様の資格があるのだろうか。

 そんなバカみたいなことを考えながら、俺は雪菜の他愛もない話を聞いていたのだった。




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