其の七 『家族』①
人間という生き物は、どのような状況下であっても適応することができるという素晴らしい生き物である。
一言で言えば”慣れる”ことが出来る生き物なのだ。
愛する人間が死んだ悲しみも、
好物を食ったときの喜びも、
大好きな映画を見たときの感動も、
人を殺したときの呵責も、
いずれは慣れて――心を動かされることがなくなる。
それを残酷な機能だ、と嘆いてしまうのか。もしくは優れた機能だ、と誇りに思うのかは様々だろう。結局どのような足掻きを見せたところで、人間という生き物が本質的な部分から変化することはありえないのだから。
人間は慣れる――俺がこの事実をハッキリと認識したのは、いつのことだったか。正確に思い出すことはできないのだが、きっと日本に帰ってきてからだったと思う。
なぜいきなりこんな哲学染みたことを考えているのか。
答えは至極明快だった。
「――聞いていますか、士狼さん」
透き通った声でいる反面、どこか抑揚のない口調で、そいつは俺の名を呼ぶ。
春夏秋冬で繰り返される一年間という期間を、頑なに和服のみで過ごすという変り種。もちろん高校に通学する際には制服を着るのだろうが、なぜか俺はその光景がほとんど記憶にない。
腰まで流した夜のような黒壇の長髪と、肌理の整った滑らかな白磁の肌。
細長く伸びた眉は、極上の墨を高級な筆で一思いに引いたみたいに芸術的。二重瞼のくりっとした瞳は、しかし夫の浮気騒動で喧嘩をする両親を見てきた子供のように冷めている。
口紅の類なぞ一切使っていないにも関わらず、街中を歩く女たちよりも紅く、温かな血の通った小さな唇。
率直に言うと、そいつ――凛葉雪菜は、紛れもない美人にカテゴライズされる。整った容姿だけじゃなく、どこか触れがたい高貴さのようなものも併せ持ち、一目見ただけで箱入りのお嬢様だと思わせる。
事実、俺だって雪菜を初めて見たときは息を呑んだものだ。「え、あなたの名前って大和撫子ですよね?」と本気で聞きそうになったぐらいである、と言えばいささか褒めすぎな気もするのだが、残念ながらそれは真実なのだから仕方ない。
ぶっちゃけた話をすると、女には人並みに興味はあっても、実際に交際とか結婚に発展するのは面倒だから――と俺は思っていた。
しかし、そんな俺の考え方を粉々に破壊したと思ったら、ふたたび再生させてしまったのが凛葉雪菜という女だった。
元はと言えば、暦荘には俺のほうが先に入居していた。あのころは隣人もなく、一人寂しそうに見えて、その実は気ままな生活を送っていたような気がする。
智実のオッサンや、痴女日本代表の久織透子や、俺の天敵こと如月紫苑――時折、この三人の誰かと飲んだりするぐらいが精々の付き合いだっただろう。
だから俺の隣室に雪菜が入居してきたときは三段階でビックリした。
まずは雪菜のルックスの良さに驚き、
次に、なんで和服を着ているのかに困惑し、
最後に、自称陰陽師とか言い出す胡散臭さに辟易した。
上記で言えば、なぜ和服を着ているんだろう、という辺りまでは俺の中の肉食系男子が目覚めようとしていた。――が、美しい薔薇には棘があるように、自称陰陽師です、とか雪菜が言い出した途端に、俺の中の草食系男子が息を吹き返してしまったのだ。
あれから――二年ほどが経過したか。
当初は雪菜のことを電波塔だと思っていた俺だったが、今ではすっかりと気に入ってしまった。
あれだけ呪いの話とか、私は自称陰陽師ですだとか、意味不明な会話を繰り広げてきたにも関わらず――いやはや、やはり人間とは慣れる生き物らしいな、と俺は結論したのであった。
「――あの、士狼さん」
顎に手を添えて、雪菜を観察しながらうんうんと頷いていると、その本人は怪訝そうに眉をひそめた。
草木を含めた、ありとあらゆる生き物が寝静まった夜の街――丑三つ時。悪霊退治のため、わりと気楽なスタートを切った俺たちは、雪菜の案内に従うままに市道を歩いていた。
目が届く範囲に人影はなく、なぜか道路には深夜営業のタクシーすら走っていない。猟奇的連続殺人事件の噂が広まりつつあるこの街において、夜間に出歩くのは得策ではないと言っても、さすがにここまで無人だと空恐ろしくなる。
もしかしたら青天宮が何かしらの対策を講じているのかもしれない。緘口令を敷いたのは当然として、夜間に営業する会社にも上から圧力をかけたとか。下手な民間人に動き回られては敵わないだろうから。
まあ要するに、夜の街は俺たちの貸切状態というわけである。
「ん、ああ悪い悪い。お前に見蕩れてた」
小首を傾げていた雪菜に向けて、冗談交じりに言い放つ。
すると何を理解したのか、喉に刺さった小骨が抜けたみたいにスッキリとした顔で、雪菜は大きく頷いた。
「なるほど、確かにそれは仕方がありませんね。ところで式はどこで挙げますか?」
「いやいや、ノってくれたのは嬉しいが、さすがに話が飛びすぎだろ」
「――? ……ふむ?」
「……おい。この人は熱でもあるんだろうか、と言わんばかりの不思議そうな顔で、俺の額に手を当てるのは止めろ」
白くて細く――けれど、どこか冷たい雪菜の手を引き剥がす。
すると、雪菜はとても心外そうな顔をした。まるで初めて両親にぶたれた放蕩息子のように。
「いけませんよ士狼さん。乙女の手――その中でも、私の手に触れられている幸福を蔑ろにするとは。それはつまり、呪われても文句は言わない、という解釈でよろしいのですよね?」
「今のだけで呪われるのかよ。住みにくい世の中になったもんだな」
「藁人形、呪符、呪詛による祈祷――どれがいいですか?」
「――ちょっと待て、そういうの恐いからマジで止めてくれっ!」
どこに用意していたというのか、和服の袖から呪いのアイテムっぽいものをいくつか取り出して、俺に選べと突き出してくる様はとてつもなく薄ら寒かった。
ぜえぜえ、と荒い吐息を繰り返す俺とは対照的に、雪菜は人差し指を唇に当てて「……残念です」となぜか気落ちしていたのだった。その仕草は、呪いのアイテム選びを断られた自称陰陽師、という事実を知らない人間から見れば大層可愛らしく見えただろう。
「……まあ落ち着け雪菜。それよりも話を戻そうぜ。お前、さっき何か言ってなかったっけ?」
気付いたころ。
雪菜の手から、呪いのアイテムは幻だったかのように消えていた。……結構本気でミステリーである。
「そうですね。実はさっきから餓鬼らしき気配を感じていましたので、お知らせしようと思っていたのですが」
「本当か? だったら早く言ってくれよ。たしか――式神ってので餓鬼を探してるんだったよな?」
さきほど説明されたことを頭の中で反芻させる。
雪菜が行使する猫のカタチをした式神。それを街中に、探索機の要領で放つのだ。結果として、術者である雪菜の手足となって駆け回る式神――彼らが見た情報を離れた場所にいる雪菜も受け取ることができる。
言ってしまえば、観測兵と分隊長の関係に近い――と思う。
「そうですね、士狼さんの仰るとおりです。
餓鬼を観測したのは、ここから歩いて三十分ほどの位置にある五階建ての廃屋ですね。廃屋の規模や、内部に見られる資材からして、恐らく元々は会社であったと思われます。きっと昨今の不況のおりに潰れてしまったのでしょう」
淡々と発声される情報の羅列。
俺はそこで初めて――違和感のようなものを覚えた。
そもそも今夜の雪菜はどこかがおかしかった。明確にここが異常だ、と指摘できるわけではないが。
きっと――忌野との間に何かしらの揉め事があったのだろう。そして、それを俺に悟らせまいとして気丈に振舞っている。だから、恐らく俺が覚えた違和感は、さきほどから雪菜の態度が微妙に作り物っぽく感じたからだと思う。
「行きましょうか士狼さん。私はこう見えても、小学二年生のころには餓鬼を祓ったことがあります。ですから悪霊退治などお茶の子さいさいですよ」
返答を待つこともなく歩き始める雪菜。俺も遅れるわけにはいかないと、すぐさま後に続いた。
薄暗い夜を歩く。二人肩を並べて、音すら無い道をひたすらに辿る。今夜はすこしだけ風があって、いつもよりも肌寒い感じがした。
特に話題もなく、会話が途切れていたので、俺はどうでもいいような疑問を口にした。
「なあ雪菜」
「はい?」
呼びかける声には、一拍の間もなく答えが帰ってくる。
「お前の式神ってなんで猫なんだ?」
べつに聞くまでもないようなことだが、なんとなく気になっていた俺は、丁度いい機会だと思って質問してみた。
それは本当に気まぐれだ。意図なんてこれっぽっちもないし、そもそも解答がなくても構わない。猫が好きだからです、とか言われたとしても、俺は納得してしまうだろう。
なぜなら暦荘の階下で、雪菜が野良猫を相手に戯れている光景は珍しくないからだ。そのときの雪菜はいつも幸せそうで、あぁコイツはきっと猫が好きなんだなぁ、と俺は思っていたのだ。
しかし――どうしたことか。
「……贖罪、みたいなものかもしれません」
感情の少ない顔に珍しく色が出たかと思えば、それは――限りなく儚げだった。
自嘲するような笑みを浮かべて、雪菜は言葉を続ける。
「士狼さんは猫って好きですか?」
「……? まあ嫌いじゃないってレベルだな。どちらかと言えば犬のほうが好きだ」
「そうですか。私は――猫が嫌いかもしれません」
その言葉に対して。
反論がなかったと言えば、それはきっと嘘になってしまうだろう。
「嫌いだと? そりゃお前」
「――ああ、ごめんなさい、間違えました。私が猫を嫌いなのではなく、きっと猫が私を嫌っているのですよ」
ますます意味が分からなくなってしまった。
いま俺たちが話していたのは、猫が雪菜をどう思っているかではなく、雪菜が猫をどう思っているかだというのに。
「……よく分かんねえな。さっきはなんか贖罪とか言ってたし、お前って猫に関連する恥ずかしいエピソードでもあるのか?」
「はい、ありますよ。恥ずかしいかは分かりませんが」
「マジであるのかよ。どうせなら教えてくれよ」
「構いませんよ。簡単に説明するとですね、その昔、私が飼っていた一匹の子猫がいたんですが、その子を私が殺したんです」
「へえ、そりゃあ恥ずか――待て、なんか物騒な言葉が聞こえてきた気がするんだが、俺の聞き間違いだよな?」
「いいえ? きっと間違っていないと思いますよ、士狼さん」
あっけらかんと言い放つ。
後悔も、呵責も、慈悲も、懺悔も、悲哀も――その一切を含まない声で。
あまりにも躊躇いのない発言だったので、当初は冗談の類かと思って笑い飛ばそうとした。しかし雪菜の貌――まるで無表情の仮面を被ったみたいに動じていないそれを見て、俺は息を呑むしかなかった。
「先を急ぎましょうか、士狼さん。時間は有限ですからね」
並んで歩いていた雪菜が、俺のすこし前を往く。まるで顔を見られたくないとでも言うように。
藍色の和服に合わせたような、はんなり色の草履が何とも言えないような音を立てて、雪菜の足を運んでいく。
俺にはその気丈なはずの背中が――なぜか、どこまでも小さく見えた。きっと勘違いであって、邪推であって、深読み過ぎるであろうが、俺には雪菜が悲しそうに見えたのだ。
俺は男で、雪菜は女だ。
体格が違うのだから、当然歩幅も違ってくる。
ともすれば追いついてしまいそうだったのだが、俺はあえて雪菜のすこしだけ後ろを歩くことにした。
――そう、人間とは慣れる生き物である。
俺こと宗谷士狼は、女という生き物の機微について多少なりとも慣れているつもりだ。特に最近は、バカで泣き虫で人懐っこい吸血鬼だとか、顔の表情と耳の表情がまるで合っていない狼少女だとか、そういう扱いに困る女どもと渡り合ってきたのだ。経験値だけは豊富なのである。
だから――その女の過去に、何かしらの悲しみがありそうなときは。
何も言わず、何も聞かず、何も見ず、何も追わず。
ただ黙って側で支えてやろう――そんな気障なことを心がけているのである。
それは今回も例に漏れない。
なぜなら、俺にとって凛葉雪菜という女は――いや、あえて言葉にはすまい。
「……はあ、なんだかなー」
色々とやる瀬なくなって肩を落とす。
一人でごちる俺を、雪菜が不思議そうな顔で見ていた。
悪霊退治。ゴーストハント。お祓い。
俺はその行為を、せいぜいが小説や漫画などを初めとした、架空であり空想の産物だと思っていた。
退魔の道に関しては限りなく素人の俺だったが、そもそもで言えば幽霊の存在すら疑っていたぐらいだ。死んだ人間は何も残すことなく、ただ無に還るのが自然のルールだと考えていた。
――しかし、それはここ最近の騒動をもって変わった。否、怒涛の勢いで覆された。
俺は現在、オートマチック型の拳銃を持っている。数時間前に、ビジネスホテルの階下で忌野から手渡されたものだ。何でも青天宮は、特定の条件下において超法規的な権限を行使できるだけあって、拳銃の携行許可証さえ発行すれば重火器の類も調達できるという。
問題はここからである。
あれはホテルの階下で、俺が拳銃の具合を確かめようと弄繰り回していたときのことだ。
ちなみに――受け取った拳銃はオーソドックス代表であるベレッタM92であった。海の向こうでも、ここ日本でも、火力の面に関しての注文を抜きに、適当に鉄砲を調達してきたら大概はこのベレッタM92になる。
イタリアにあるベレッタ社が開発したこの拳銃は、数多くの功績や実績を持ち、アクション映画などを初めとしたメディアへの露出も多い。
基本的に、軽量で射撃時の反動も少ないことから女性でも扱いやすい代物だ。男であるなら、それぞれ両手に持って西部劇のガンマンを気取れるだろう。もっとも、利き手ではないほうの手の命中率は、数字にするのもバカらしくなるほど低くなるものなので、よほど訓練を積んだ人間じゃなけりゃあベレッタを用いたとしても二丁拳銃はオススメできないが。
他にも、排莢口が大きくなるため排莢不良も起こり難いという利点があるし、何より作動不良の少なさと価格の安さが群を抜いている。それはもうアメリカ軍制式にもなるわけである。
あとはベレッタ本体とは別に、9mmパラベラムが十五発装弾された予備マガジンが二本――と、ここまで確認した俺は、ふと気付いた。
なにやら雪菜が興味深そうな顔で、俺の手元を覗き込んでいることに。
「――あ」
そこで思った。
俺は当たり前のように拳銃を受け取って弄っていたのだが、宗谷士狼の過去を知らない雪菜からしてみれば、なぜ士狼さんが拳銃に対して抵抗なく触れているのか――となるはずだ。
そんなニュアンスのことを本人に聞いてみると、雪菜は和服の袖で口元を隠して、次のようなことを言った。
「士狼さんはあれですよね? 暦荘に入居する以前は、自衛隊――それも紛争地域に赴いて任務を遂行する類の方だったんですよね?」
「……どうしてそう思うんだ?」
それは、俺が拳銃を物知り顔で弄っている事実のみから推察したにしては、ややピンポイントすぎる気がした。
いちおう疑問の体を取った質問ではあったが、雪菜の声には断定に近い響きが含まれているようにも思えたのだ。
「どうして、ですか。……果たして、これを士狼さんに教えてしまっていいものか……悩みますね」
なにやら悲しそうな顔をして俺の顔を見る雪菜。
実はと言うと、この時点から相当に嫌な予感がしていた。というか雪菜が俺に絡んできたときは、その大抵がアンリアリティーなことしか起きない。
「――ズバリ聞きますけど、士狼さんは人の死というものに深く関わっていたのではありませんか?」
それは――詰問というには、あまりにも確信の色が強かったと思う。
俺は視線が鋭くなってしまうのを自覚した。
「だから雪菜、なんでそう結論したんだ?」
「……そ、それは――」
言葉にする途中で口を噤んだ雪菜は、俺の背後やら頭上やら、とにかくありとあらゆる虚空を見つめては両手を合わせて「南無阿弥陀仏ですー」と唱えていた。
最悪の予想が一つ、脳裏によぎった。
「……ま、まさか俺には幽霊が憑いてるってのか?」
雪菜に助けを求めるようにして腕を伸ばす。
すると、なぜか雪菜は音もなく後退していった。
「……大丈夫です、気のせいですよ。士狼さんには幽霊なんて憑いていませんから。……はい、そう言ったほうが士狼さんのためになりますよね」
「――おいっ! どうせなら最後の一文、俺には聞こえないように言えやボケぇ!」
真実なのか虚偽なのかは分からないが、雪菜が言うと冗談に聞こえないあたりが怖い。
「でも士狼さん、本当に大丈夫ですよ」
俺が頭を抱えて、神社か寺にお祓いでも行こうかと迷っていると、雪菜は優しげな声でそう言った。
「ああ? 根拠はなんだよ。つまんねえこと言いやがったら、俺は明日にでも寺に行くぞ」
正直な話、まるで期待などしていなかった。
――けれど。
俺は、この次に放たれた雪菜の一言を――きっと一生忘れることはないだろう。
「――ちいさな子供の霊が、士狼さんを見守るようにして憑いています。
金色の髪と色白の肌をした……恐らく外国の少女でしょう。心当たりはありますか?」
その言葉を聞いたとき。
俺は不覚にも涙が出そうになった。
「……そう、か」
呟く声が震えていることを自覚する。
体中の力が抜けていくような気がした。
「……あいつ、約束守ってるのか」
どこまで律儀であれば気が済むのだろう。俺なんかと一緒にいたって、いいことなど一つもないというのに。
まあ――あいつは、シャルロット並みにバカだったから仕方ないかもしれない。俺が人を殺すたびに、泣きながらしがみ付いてきては命の尊さを説くような、そんな意味不明なヤツだったから。
結局のところ、俺はあいつに何もしてやれなかった。
血に濡れた指を切って交わしたはずの約束、その二つのうちの一つも破ってしまった。
でも不思議だ。
雪菜からは幽霊が憑いていると指摘されたというのに、気分は悪くなるどころか、むしろ高揚さえしてくるのだから。
俺は頭をがしがしと掻きながら、何も見えない虚空に向かって、昔のようにぶっきらぼうに告げる。
「――バカが、子供が一丁前に背伸びしてんじゃねえよ」
それが届いたかどうかは分からない。……いや、むしろ聞こえていたとしても、あいつなら無視して俺の側に居座り続けそうな気もするが。
――なぜって?
だって、それが最後に交わした約束だったからである。
あれから――俺が戦場を去った日から、数年の月日が流れた。
粋がることを覚えたばかりのガキみたいに無茶苦茶やっていた俺は、いつしか大人になってしまったんだろう。それは外見や年齢的な意味でも、そして思考や精神的な意味でもだ。
ずっとずっと昔、俺を養子として引き取ってくれた人たちがいた。
家は屋敷と呼べるほど広く、庭は森なんじゃないかと勘ぐるほど広かった。あのころの俺はそれを何とも思っていなかったのだが、今になって思えば、宗谷家は上流階級の家柄だったのだろう。
父になってくれた人がいて、母になってくれた人がいて、姉になってくれた人がいた。
でも――彼らは、俺が精一杯の恩を返そうとするよりも先に……逝ってしまった。
人の優しさや温かさ――それを俺に教えてくれた”宗谷”の人たちは、俺の目の前で身体がバラバラに弾け飛んで死んだ。
守るはずだった物と、護ってくれていた者――それが同時に消えてしまったあの日から、俺はひたすらに人間を殺し続けた。
一人目を殺したときは良心の呵責があったが、二人目、三人目、そして十人目と続き、百人目を殺したころには、俺の心はすっかり殺人に慣れてしまっていた。
”白い狼”なんて余計な名で呼ばれるのにうんざりして、裏社会の連中が集う街では帽子を被って、粋がることだけが取り柄の雑兵のフリをして生きていた。そして、俺が籍を置いていた民間軍事会社から回されてくる仕事を時折請け負っては、気ままに誰かを殺す日々。
そんな、生と死でぐるぐると回る螺旋のような毎日が繰り返された先――俺はあいつに出会った。……ちなみに、あの正義の味方を気取った栗色の髪をした女のことではない。
それは革命的なきっかけだったのかもしれない。あいつの境遇が俺に似ていたから、宗谷の人たちが俺に与えてくれたモノを、今度は俺があいつに与えてやりたいと思った。
でも。
命の尊さや大切さ。それを俺に教えてくれたあいつは――この世にはいない。
もう思い出しちゃいけない記憶。それなのに、日本に帰ってきた今でも悪夢として見てしまうことがある。
硝煙と火煙で白く濁りきった夜の空。鳴り響く銃声と、金切り声に似た断末魔と、ごうごうと家が燃え盛る音と、それに付随して発生する膨大な灼熱。
そして――俺の腕の中で冷たくなっていくあいつと、それを金色の瞳で見下ろしながら嘲笑うアイツの姿。
――つまんねぇなぁ、あっけなさ過ぎて欠伸が出そうになるわ。
――なあ白い狼。それで邪魔な足枷は外れたろぉ?
――せいぜいオレ様に感謝してくれや。
あの日を思い出すたびに、あいつの血に濡れた顔と掌、そして耳障りなアイツの声が聞こえてくる。
それは俺が背負わなくちゃならない罪のようなものだと思っていた。
家族を守れなかったから、世界すべてがどうでもよくなって、誰かを延々と殺し続けた。
そして再び、俺は家族を守ってみようと決意した。誓った。約束した――――はずだったのに。
結局、この世界は不条理に溢れている。生を望む者には死を、死を望む者には生を与えるような、そんな悪戯好きの天邪鬼だ。
もしも神が実在したとしたら、そいつはどこまでも無能の役立たずだ。
多くの人間に敬われ、数千年に渡って崇められてきたくせに、本当に救いを求めてるようなヤツを無視するのだから。あげくの果てには、薄汚い欲にまみれた金持ちや権力者には何の罰も下さず放置する。
笑ってしまいたくなるような不平等。ここまで来れば悲劇を超えて喜劇だろう。
でも――まあ、いいか。
今の俺は珍しく気分がいい。これから悪霊退治なんて、いたいけな夢に憧れる子供のような行為をするのにもかかわらず、俺はひたすらに気分がいいのだ。
それは例えるなら、早朝にランニングした帰り道、紅い朝焼けを目撃したときのような爽快な気持ちだった。
「……エリカ」
何もない空間に向かって手を伸ばす。
大の男が一人、物憂げな様子で女の名を呼ぶ。それは、ともすれば変態に見えてしまいそうな図だとは思うが、まあ今だけは勘弁願いたいところである。
掴むモノなどないはずの、俺の手に。
――気のせいかもしれないが、ちいさな掌が重ねられたような気がした。
「はい? 士狼さん、なにか仰いましたか?」
饒舌しがたいほどの高揚とした気分――が、それは俺だけだろう。
突然独り言を呟いたあげく、不審な行動を取り始めた俺を不審そうに見つめながら、雪菜は小首を傾げていたのだった。
やや気恥ずかしくなってしまい、咳払いを数度繰り返して、場を仕切りなおそうとしてみる。
それが成功したかは分からないが、さきほどまでのアンニュイとした雰囲気は、いつしか消えゆく夢のように無くなっていた。
「……いや、なんでもねえよ。それよりな――」
――それから先を説明するのは無意味だろう。
凛葉雪菜という少女の中で、どうやら俺は紛争地域に派遣されたことのある元自衛隊員ということになったらしかった。別に訂正させる必要もなし、むしろ好都合な点の方が多い分、あえて指摘する間違いでもない。
とにかく、こうして俺と雪菜の悪霊退治は幕を開けて――
そして現在、夜の街を歩きに歩いた果てに、風雨に晒されて朽ち果てたような廃墟にたどり着いたのであった。
夜の街をバカ正直に歩き通して、いい加減足がぶつくさと文句を言い始めたころ、それは見つかった。
俺たちの眼前に広がっているのは、一言で言えばただの廃屋だった。
コンクリートは所々ひび割れているし、そもそも窓にはガラスすら張られていない。それらを見るだけで、言葉にはせずとも視覚から取り入れた情報として、この廃屋が放置されてから相当の月日が経っていることが分かる。
パッと見た感じでは五階建ての構造らしく、屋上付近を見るには顎を突き出して見上げてみるしかない。よく観察してみれば、建物の側面には蔦のような植物が繁殖しており、それがまた陰鬱とした雰囲気をより濃くしている。
住宅街の外れにあるからか、廃屋の周辺には侵入者防止用の金網が立っており、有刺鉄線までが設置されている。軽く観察しただけでも『私有地』や『立ち入り禁止』などが書かれた看板が数個見つかった。
しかし、所有者(本当に管理しているのかは分からないが)には残念なことに廃屋の敷地内に入るのは容易かった。近所の悪ガキどもが気ままに集会でも開いているのか、金網の一部分に大きな穴が空いていたのだ。
俺と雪菜は、瓦礫やらガラスの破片やら雑草やらをなるべく避けつつ、寂れた建物の中に入った。
もともと住宅街の外れということもあり、近所の家々の明かりや、建てられた街灯の類が少なかったのも相まって、電気が通っていない廃屋の中は幽霊屋敷みたいに暗かった。
建物内部に侵入する際に、三つの入り口を確認しておく。一つ目は、一般的に人間が出入りする正面の入り口。二つ目は、従業員が使うような小さな裏の入り口。三つ目は、緊急時に作られた避難用の出口。
それは俺の癖というか習慣みたいなものだ。開放された屋外とは違って、密閉された空間というのは危険だ。敵がどこに潜んでいるのかも分かりづらいし、銃声だって反響して、出所が不明瞭となる。だから建物に侵入する際には、予めに逃走経路を確認しておく必要がある。
だが今回のケースはそう警戒することもない。これだけ朽ち果てた廃屋だ。すべての窓からガラスが取り外されていることもあって、退避しようと思えば即座に脱出できる。
ただし、ライフラインが生きていないこともあって、電灯は点かないし足元は荒れているしと、メリットを凌駕しかねないだけのデメリットがあるのは頂けない。
戦況を判断するのは、いつだって簡単な計算を用いれば可能である。要するに、好点から悪点を引いてやればいいだけの話だ。そしてイコールで導き出された答えが、好点として残っていればいい。
例えば、民間人を巻き込んでしまう可能性が限りなく低く、逃走経路が数多く確保できている代わりに――足元が頼りなく、なにより最大の悪点として視界が頼りない、というのが今回の計算式だろう。
せめてもの救いとは言えば――窓には何も張られていないことか。おかげで廃屋の内部には豊富な量の月光が取り入れられ、なかなかに幻想的であった。
……もっとも、だからと言って視界がおぼつかない事実は変わらない。
その証拠に。
「――きゃっ」
あの自称陰陽師こと凛葉雪菜が、何やら女みたいな可愛らしい声を上げて、足元の瓦礫に躓いていた。
いくら着慣れているからといっても、和服が動きづらいという事実は不変なのである。しかも雪菜は草履を履いているので、お世辞にもアウトドアに向いた装備とは言えない。
俺たちは現在、一階から二階に上がるため、昇降口前にいた。
「……大丈夫かよ、お前」
背後を見てみると、雪菜が両手を膝について荒い吐息を繰り返していた。
「だ、大丈夫ですよ士狼さん。私はこう見えても、体育の先生から陸上部に誘われてしまうほど運動が得意なんです」
「へえ、初めて聞いたな」
「はい、初めて言いましたから。……まあ普段から運動をしていない分、体力という体力は皆無なのですが」
「運動神経だけ優れていたって意味ねえだろうが。そういえば体育の先生で思い出したが、お前ってきちんと高校に通ってるのか? お前が制服着てるところを見たことがないんだが」
「失敬ですね、もちろん毎日欠かさず通っていますよ。……むむ、そういえば私も、学校の制服を着ているときに士狼さんと会った覚えがありませんね。なんなら今度お見せしましょうか?」
「ああ、ぜひ見てみたいな。めちゃくちゃ興味深い」
正直な話――雪菜の私服姿というのはツチノコ並みに見たことがない。前に一度だけブルーメンの制服を着ていたことが例外である。その他は、春も夏も秋も冬も、暑い日も寒い日も、嵐の日も雷の日も、とにかくありとあらゆる状況を和服で過ごすのが雪菜だ。
だから、俺は純粋な興味として、雪菜が学校の制服を着ている光景を見てみたかった。
「……ふむ、これは盲点でした」
しかし何を勘違いしたのか。
雪菜はやけに真面目な顔で頷いたあと、形のいい顎に手を添えた。
「――士狼さんが制服フェチだったとは。もっと早く仰ってくれればよかったのに」
「え」
「ああ、参考までにお聞きしますけど、セーラー派ですか? ブレザー派ですか? ちなみに私の高校はブレザーなので悪しからず。どうしてもセーラーが見たいのでしたら、千鶴ちゃんにお願いしてくださいね」
確かに姫神は、学校から帰ってきてもわりと制服のままでいることが多いから、あいつの女子高がセーラー服だというのは知っている。
――が、問題はそこではない。
「おい雪菜よ。断っておくが、俺は制服なんざどうでも」
「――皆まで言わなくても大丈夫ですよ。殿方が女の子の制服姿に惹かれるというのは、すでに研究によって証明されています」
「本当か? ……たしかに言われてみれば、制服姿の姫神とかに目線がいってしまうのは」
「まあ研究云々は嘘ですが」
「……いっぺん男の恐ろしさを教えてやろうか」
「はい。どうか優しくしてくださいませ、士狼さん」
「――すいませんでした、俺が悪かったです。だから和服をはだけさせようとしないでください」
「……仕方ありませんね。士狼さんがそこまで言うのなら」
それは、相変わらずの抑揚のない口調と、普遍的な女の子らしい羞恥を持たないような真顔だった。
でもそれなりの時間を共にした俺には分かる。雪菜は感情を浮かべていないようには見えるが、その実は楽しんでいるのだと。
「はぁ、疲れる。にしてもさ、お前あんまり無闇に肌を晒そうとするなよ。露出ばっかしてたら、しまいには久織みたいになっちまうぞ」
「それもそうですね。でも士狼さん、私は無闇に肌を晒そうなどとしていません。待ち望んでいた時が来たと思ったからこそ、晒そうとした次第です」
「お前が待っていたのは、深夜の廃屋でアパートの隣人から男の恐ろしさを教えてやろうか、といわれた時だったのか……」
「困りましたね、否定できないところが歯痒いです」
「――否定しろや!」
もしかしたら雪菜には淫乱の気があるかもしれないと思った。
それはまずい。これ以上、暦荘に痴女を増やしてはいけない。ただでさえエロ中学生みたいなニノが入ったんだ。これで雪菜まで久織菌に汚染されてしまったら、俺はどうすればいいのか。
「……あの、士狼さん。何やら失礼なことを考えていませんか?」
キレイに線が入った二重瞼の瞳を半眼にして、じとーと俺を見てくる雪菜。
「気のせいだ。だから下手な勘繰りは止めろ、俺はお前のことを淫乱とか変態とかこれっぽっちも思っていない」
「いえ、私からその言葉を少なからず連想している時点で、これっぽっちは思っているじゃありませんか。
ちなみに一つ言っておくと、こう見えても私は、殿方に肌を見せたことは本当に数える程度しかありませんよ。学校の水泳授業なども男女は別でしたし、制服を着用する際には、夏であっても長袖のブラウスと黒のタイツを履くようにしていますし」
それは恐らく真実だろう。だって普段から和服を着ているからだ。
和服というのは、とにかく肌の露出が少ない服装だ。せいぜい人目につく部位と言えば、手と、首まわりと、あとは顔ぐらいだろう。
浴衣ならば髪をアップにすることでうなじとかも見えるのだが、生憎と、雪菜が髪を結っている姿は夏ぐらいにしか見たことがない。だからだと思うが、雪菜の肌は暦荘の女性陣においても一際白い。それも病弱を思わせるような青白さではなく、透き通った結晶のように眩いもち肌である。
しかし話を聞くかぎりでは、やや過剰とも言える身の固さと言えた。
確かにこのご時世、若い女ならば注意しすぎるに越したことはないだろうが。
「……まあ自分を大事にしているって意味で言えば、お前は凄いと思う。なんだ、そういうのって自主的にやってんのか?」
「いいえ、お母様の教えです。女性たる者、殿方に対して無闇に肌を晒すものではない――そう幼少のみぎりより厳しく躾けられて参りました」
「それはまた古風な母親だな。でも厳しく躾けられてきたにも関わらず、さっきのお前は無闇に肌を晒そうとしてなかったか?」
「甘いですよ士狼さん。確かに私は肌を晒そうとはしましたが、無闇にではありません。とある条件が揃った場合においてのみ、女性は肌を見せてよいのです。ちなみにそれもお聞かせしましょうか?」
「いいや、止めておく。ひたすらに嫌な予感がするし」
あらかじめ拒否っておく。
基本的に、雪菜と絡むときには後出しになったら負けだと思ったほうがいい。一度でも雪菜ワールドを展開させてしまえば俺の負けは確定するのである。
案の定、雪菜は「そうですか……」と気落ちしていた。
「まあ何にせよ、女が自分の身を大事にするのはいいことだ」
「そうですね。私も、そして妹も、末永く清らかな乙女でいようと誓い合っています」
しみじみと呟く雪菜。
――だが、俺の耳が聞き捨てならない言葉を捉えていた。
「ちょっと待ってくれ。今なんか重要な情報をサラリと言いやがったが、お前って妹がいるのか?」
「ええ、いますよ」
しれっと告白する。
雪菜の家族構成なんて聞いたこともなかったから知らなかった。だから普通に一人っ子だと思っていたのだが。
「名は凛葉白雪。まだ肉体的にも精神的にも幼い妹ですが、私とは違って情緒豊かな愛らしい子です。姉が胸を張って自慢できるような、そんな妹ですよ。機会があれば、ぜひ士狼さんにも紹介しましょうか」
「……どうでもいいが、そいつってお前の妹なんだよな?」
「はい? そうですけれど。それはもう説明しましたよね」
俺はわりと真面目に思考する。
雪菜の妹――初めは想像が出来なさそうに思えたが、よくよく考えてみればイメージはすぐについた。
恐らく白雪とやらは、とにかく和服を着ていて、とにかく髪が黒くて、とにかく肌が白くて、とにかく丁寧語で、とにかく――自称陰陽師チックな発言を繰り返すのだろう。
「……はあ、自称陰陽師がまた増えるのか」
肩を落として、ため息交じり言葉を漏らす。
「いいえ」
すると、俺のその独り言に近い発言に対し、即座に反論する声があった。
「自称陰陽師などと名乗っているのは私だけですよ。あの子に、そんな胡散臭い称号は似合いません」
「は?」
視線を上げて、薄闇のなかに浮かび上がる雪菜の顔を見る。
神秘的な月光に照らされる白肌は、普段よりもさらに透き通って見える。それは、丹念に作られた日本人形のような完璧な美しさを持つのと同時に、夜中に髪が伸びる呪いのそれのように、どこか不気味な雰囲気をも内包している気がした。
――それよりもだ。俺の間違いじゃなければ、雪菜は今自分のことを胡散臭いと言ったことになるのだが。
まさか自覚していたとは――俺がそう思って、なんと言葉をかけようか迷っていると、
「そろそろ行きましょうか。餓鬼を最上階に追い込みました」
薄く瞳を閉じて集中していたらしい雪菜が、抑揚のないわりにはよく通る声で告げた。
「追い込んだって――」
言いかけた瞬間、視界の隅っこに白く発光する物体が見えた。もしかして新型のUFOかと数秒だけ思ったが、よく見ればそれは愛らしい猫だった。つまり雪菜の式神らしい。
一度気付いてみれば、何のことはない。廃屋のあちらこちらに猫がたくさんいた。もちろんそれらは全て野良猫ではなく、ほのかに光り輝く猫のカタチをした式神だ。
さきほどから無駄話を繰り広げるだけで行動しないな、と思っていたのだが、どうやら水面下ではきちんと餓鬼を追っていたらしい。餓鬼を探知できる雪菜についていくしかない俺からしてみれば、そういうことは早く言ってほしかったのだが。
「――それにしても式神って便利だな。俺にも使えるのか?」
「無理です。士狼さんが血統的に退魔の家に生まれていたのならば別ですが、そうでないのなら――少なくとも年単位の修行が必要となるでしょう」
「だろうな、そう上手くいくとは思ってなかった」
「さらに言うなら、式神とは士狼さんが考えているほど便利なものではありません。無から有を作り出すわけではないのですから。
私の場合は、特殊な処理を施した紙や、神聖な樹木の欠片などを媒体として、それに低級の霊を憑依させてカタチを与えることで式神を顕現させます。そのストックが尽きてしまえば式神を顕現させることもできませんし、使役する際にも術者にはそれ相応の負担がかかります」
「確かにそう聞くと面倒そうだ。でもよ、使役の負担とか言ってたが、今のお前は結構な数の式神を操ってるじゃねえか」
軽く目算してみただけでも――廃屋内で目に付いた式神は数十ほどにも上るだろう。
それらを指揮しながら俺と会話しているのだとしたら、雪菜の力量は相当の域にまで達しているのではないだろうか。
「……まさかな」
もしかしたら凛葉雪菜という女は、俺の予想を遥かに上回る才女だったのかもしれない。
「さて、では行きましょうか士狼さん。とりあえずは階段を登って――ふぎゃ!」
俺の眼前を颯爽とした様子で横切って、階段に足をかけた雪菜は、なにやら足元にあった瓦礫に躓いたらしく、壁に頭をぶつけてしまった。……いや、問題はそこではない。
気のせいじゃなければ――雪菜らしからぬ奇声が聞こえたような。
「ふぎゃ?」
あまりに間の抜けた声に意識を奪われていた俺は、雪菜に大丈夫かと声をかけることさえ遅れた。
よほど強く頭を打ってしまったのだろう。雪菜は、まるでアイスクリーム頭痛が起きたときのように顔をしかめて、左手でこめかみの辺りを押さえていた。
「……おい、大丈夫か?」
コンクリートの壁に手をついて身体を支える雪菜は、じっと俯いたまま、襲いかかる痛みに耐えているらしかった。
となりまで歩み寄った俺は、下から覗き込むようにして様子を伺う。
「っ――だ、大丈夫です。これっぽっちも痛くなんてありません」
「じゃあ微妙に涙が滲んでいるように見えるのは、俺の気のせいでいいのか?」
「……士狼さんのそういう意地悪なところ、嫌いです」
平坦な口調には微かな険があった。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
それからの雪菜はと言えば、とにかく悪戦苦闘の連続だった。なんとしても一人で階段を登ってみせようとする。しかし和服であるから足が高くまで上がらないし、草履なので足元に落ちているガラスの破片も油断はできず、結果として、わたわたと慌しい様子で階段前を右往左往する。
何だかよく分からないが、意固地になってしまっているらしい。
「……あの様子だと、一階分の階段を登るだけでも相当の時間がかかりそうだな」
頑なに階段に挑み続ける雪菜の背を見つめながら、俺はちいさくため息をついた。
――まあ仕方ないか。雪菜が餓鬼を祓うっていうのなら、そのサポートをするのが俺の役目だろうし。
「おいそこのバカ。遊んでないでとっとと行くぞ」
「ちょっと士狼さん、私は遊んでなんか――っ」
あまりにも面倒だったので、俺は強攻策に出てしまうことにした。
ふらふらと頼りなく身体を揺らす雪菜を見ていると、とてもではないが大丈夫そうには見えなかったのだ。
いい加減、雪菜の危なっかしい背中を見ることにも飽きてきたので、今度は俺の背中を見せてやろうと前に出る。
「――しっかり握ってろよ」
動きやすい服装かつ運動に適した靴を履いている俺が先導してやろうと思った。
雪菜を追い抜かすときに、その白い手をぎゅっと握り締めてやる。
「……えっと、士狼さん。私の勘違いだったら申し訳ないのですが」
階段の一段上にいる俺を見上げるようにして、雪菜は視線をそらしながら訥々と呟く。
「なんだ?」
「……あのですね。士狼さんの大きな手がですね」
「だからなんだよ」
「……私の手を握っているような気がするのは……気のせいなのでしょうか」
「気のせいじゃねえよ。お前を見てると危なっかしくて放っておけなかったからな。それに俺が先導したほうがずっと早いし。ちなみに文句はあるか?」
「あっ、いえいえ、文句などあるはずがないです、けれど――」
そこで押し黙った雪菜は、空いた片方の手でしきりに髪を整えていた。薄暗いせいで顔色は見えない。
ただ――俺の勘違いじゃなければ、さきほどは冷たかったはずの雪菜の手が、ほんのりと熱を帯びてきているような気がした。
「とにかく文句は無いんだな?」
念を押すようにして問うと、しばらく考え込むようにして俯いたあと、雪菜はゆっくりとした動きで頷いた。
「じゃあ行こうぜ。夜もあまり長くないしな」
階段の奥を見つめながら一歩踏み出す。すると予想していたよりも遥かに足場が悪いことに気がついた。散乱している瓦礫や小石だけでなく、階段の段差自体が欠けたりしていたのだ。
これは危ないと思った俺は、大きな人込みを前にした親のように、雪菜のちいさな手を強く握り締めた。
「ぁ――」
背後から蚊の鳴いたような微かな音が漏れた。
俺は振り返ることなく、慎重に段差を乗り越えていきながら問う。
「どうした?」
「……いえ」
それは階段の踊り場に差し掛かったときのこと。
ちいさな小窓(窓とはいってもガラスはなく、ただ四角くコンクリートが開いているだけだが)が設置されているせいか、踊り場はやけに明るかった。廃屋内が真っ暗であるため、月光のありがたさが文字通り目に染みて分かる。
さきほどからずっと握り締めたままの雪菜の手が、やけに熱いような気がした。いくら冬がたけなわだからといっても、まだ肌寒いことに変わりはないし、汗を掻くほど運動したわけでもない。
しかしどうしたことか、雪菜の手がぽかぽかと温かい。ともすればカイロのようだと錯覚してしまいそうになるほどに。
さらに言うなら、俺が階段を上ろうと体に力を込めたとき、自然と握力も入ってしまうのだが――なぜか、雪菜は俺が強く手を握り締めるたび、怯えた子供のように指をビクっと反応させる。
それだけに留まらず、雪菜の手は必要以上に汗ばんでいるような気もした。乾燥していたせいでカサカサと触れ心地が悪かった掌が、今はピッタリと吸い付くように合わさっている。
一度様子を確認したほうがいいかと思った俺は、足を止めて振り返った。
「なあ雪菜。お前――」
続く言葉は、それを前にして飲み込むしかない。
……理由は分からないが、俺が振り向くのとほぼ同時に、雪菜は慌てて後ろを向いてしまった。ぶっちゃけた話、めちゃくちゃ挙動不審だったのだが、なぜか手だけは頑なに握り締められたままだ。
「――あの、どうかしましたか? いきなり振り返ったりすると驚いてしまうじゃないですか。凛葉雪菜、廃屋の階段にてビックリなうです」
「また意味の分からないことを言いやがって。それより会話するときは、人の目を見て話せって言われたことないか?」
「もちろんありますよ。お母様からもそう躾けられてきましたし」
「だよな。じゃあ俺の目を見て話せ」
「…………」
「どうした。いいからこっちを――」
押し問答にも飽きたので、俺は思い切って雪菜の正面に回ってやろうとした。
しかし、それは必死の抵抗に遭い失敗する。要するに、雪菜が俺の動きに合わせて、こちらに背中を向けてくるのだ。
「…………」
なんだコイツは、と俺が内心で毒づいていると、
「どうしました士狼さん。もう終わりですか?」
「――意味が分からんっ!」
なぜ挑戦者を軽くあしらうチャンピオンのごとき台詞を吐かれねばならないのか。
そろそろ堪忍袋の尾が切れそうになった俺は、少々強引な手段に走ることにした。
「てめえ、いいから――」
空いているほうの手で、雪菜の肩に手をかける。
「――こっち向けやボケぇ!」
「……え? ぁっ――」
無理やりにでも振り向かせる。さすがにこれは予想外だったのか、さほど足を踏ん張っていなかった雪菜は、あっさりとその顔を晒した。
まるで――熟れたリンゴみたいに真っ赤に染まった顔を。
元々の肌が一際色白だからか、頬に差した朱は、雪原に染み込んだ苺シロップのように透き通った美しさを持ち、そして、一目瞭然だった。
「……お前」
一度見られてしまえば隠す必要はないと思ったのか。
雪菜は、まるで虐められている子供のように押し黙ったまま、上気した頬を見つめられ続けるという行為に耐えていた。そう、耐えているだけだ。
言い訳をすることもなく、理由を告げることもなく、呪いとか意味不明なことをぼやくこともなく。
ただ――本当に恥ずかしそうに顔を俯けて、じっと俺の視線に耐えているだけ。
「どうした? 慣れない運動をして汗でもかいたのか?」
質問を投げかけたあとで、これは的外れだなと思った。
たしかに雪菜の顔は心配になってしまうほど真っ赤だったのだが、顔や首筋を見る限り、発汗をした様子はない。
案の定、しばらくすると雪菜は首を小さく横に振った。
「……だよなぁ。じゃあ熱でもあんのか?」
言ってから、これはひどく安直な連想だったと反省する。
まあでも確かめておくことは決して損ではないし――
「雪菜」
唯一の発声は、俺の目の前にいる女の名だ。
返答はなかったが、代わりに雪菜が、いきなり私の名前を呼ぶなんてどうしたんだろう、と言いたげな表情で目線を上げた。図らずもそれは上目遣いとなる。
……なるほど。それなりに昔のことだが、女の上目遣いは男の土下座と同等だと、そう俺に教えやがった栗色の女がいたのだが、その言葉の意味が今なら理解できる。
俺はすこし躊躇したあと、雪菜の額に掌を押し当てた。
「……やっぱ熱いな。それにちょっと汗ばんでる」
正直な話をすると、冷静に現状を分析したところ、一つの結論が出たのだが――それはきっと間違いだと俺は思うことにした。
「――あ、の」
「ん? どうした」
高まっていく熱。
染まっていく頬。
繋がったままの手と、新たに触れた額と掌。
――戦況、もとい一つの状況というものは、それを客観的ないし俯瞰的に見ることによって理解が早くなる。
だから俺は俺なりの答えに辿り着いていた。でも――言葉には出さない。
「……おでこから、手を……離してもらっても……いいでしょうか」
震える声で呟く。
それはどこか、懇願に似た響きがあった。今にも泣いてしまいそうな声色だったのだ。
「え? ……ああ、悪い悪い。これは軽率だったな。女性の身体は簡単に触れていいものではありませんって、お前は常々言ってるもんな」
ちょっと考えなしだったか、と自戒する。
そこまで考えて、ならば――と俺は気付いた。
「じゃあ、繋いだ手も離しちまった方がいいよな」
よくよく考えてみれば、べつに手を繋がなくとも俺が前を歩いてやるだけで雪菜は十分に歩けるはずだ。確かに手を引いてやったほうが安全には違いないが、それが絶対条件というわけではない。
雪菜は今時珍しい身持ちのしっかりした女だし、男から不用意に触れられることは慣れていないのだろう。
だから俺は握力を緩めて、繋がった手を離してしまおうとした。
はずだった。
「――ん?」
しかし。
俺が完全に力を解いたのにも関わらず、なぜか手は繋がれたままだった。どうしてか。
理由は考えるまでもなかった。片方の力が抜けたにも関わらず、それが繋がっているということは――もう片方の手が、離れたくないと力を入れているだけの話。
「……だめ……です」
ともすれば、聞き逃してしまいそうなほどの小さな声。
虐められていた子供が勇気を出して両親に助けを求めるときのような、そんな微かな音。
「……えっと……私、和服で」
「ああ、それは見れば分かる」
「……だから、その……靴じゃなくて、草履で」
隠し切れないほど上気した頬と、あちらこちらと忙しなく泳ぐ視線。
しばらくして、雪菜は意を決したように顔を上げた。
「――つまりっ! ……私一人だと、階段を上ることが難しくて。だから……その、士狼さんの……手を」
握らせてもらっても、よろしいでしょうか――と。
まるで一世一代の告白でもするような感じで、雪菜はそれを口にした。
「……はぁ」
自分でも驚くほど大きなため息が出た。
――手を繋ぐことぐらいでそこまでビクビクされては敵わない。むしろ出来ることなら、俺の方から手を繋ごうとお願いしたいぐらいだ。なぜって、こんな荒れた廃屋の中を好き勝手に歩き回られて、怪我でもされては元も子もないからだ。
危険を減らすという観点から見て、俺たちが手を繋ぐのは自然なことだった。
「……ごめん、なさい」
しかし雪菜は、俺のため息を呆れによるものだと勘違いしたのか、気落ちした様子で握力を抜いた。俺が手を繋ぐことを拒否したと思ったのだろう。
やがて、雪菜からの力のみによって繋がっていた手が離れようとする。
――が、手が解けてしまうことはなかった。
「さあ行くぞ。余計な時間を食っちまったからな」
なぜなら――今度は、俺の方から力の抜けた手を握り締めていたから。離れようとして握力が緩まった指を、離れなくていいと代弁するかのようにキツく握り締めていたから。
「――ぁ」
相変わらずの小さな、まるで呻きにも似た声が漏れる。
けれど、それは俺の勘違いじゃなければ――ちょっとだけ、嬉しそうな響きがあった気がした。
雪菜に背中を向けて、ふたたび階段を上り始める。足場が最悪なせいで、慎重にならざるを得ず、結果として歩みは亀に似たスピードになった。
「……士狼さん。ありがとう、ございます」
途切れ途切れの感謝が聞こえた。
今度はもう振り向かなかった。
「別にいいって。お前に怪我だけはさせたくないしな」
「それは――えっと、どうしてなのか聞いてもいいのでしょうか……?」
緊張感を滲ませた声。
次いで、生唾を呑み込むような気配。
――どうして私に怪我をさせたくないのか、と来たか。これは面倒な質問である。……いや、だって、わざわざ口に出して伝えるのは恥ずかしいのだ。これは俺が一方的に思っているだけで、雪菜からしてみれば、俺はただの隣人という節もあり得るわけだし。
頭の中を洗濯機みたいに余計な考えが巡ったが、しばらく思考した後、俺は勇気を出して告白してみることにした。
大事なことを伝えるべき瞬間というのは、絶対に見逃してはいけない。こういうのはタイミングが重要なのである。きっと一度逃がしてしまえば、次は随分と先になってしまうだろう。
だから、俺は意を決した。
「……簡単だよ。お前は俺にとって大事な女なんだ」
「えっ――!?」
今度は俺が恥ずかしかったので振り返りはしなかった。
じゃりじゃりと足を下ろすたびに鳴る音が、今だけは耳障りではなく、むしろもっと鳴ってくれーというような思いだった。
「なあ雪菜、お前は……俺にとって」
「し、士狼さんにとって……?」
握り合った手に力が篭る。
それは俺か、雪菜か――間違いなく両方だろう。
次の瞬間、俺はその言葉を口にした。
「――妹みたいな存在なんだっ!」
思わず大声になってしまう。
ああ、とうとう言ってしまった――そんな後悔に似た感情が胸に去来した。
――いや、今のは勇気がいる発言だった。俺が雪菜を妹のような存在だと思っていても、向こうは俺を兄のような存在だとは認識してくれていないかもしれないからだ。
もしかしたら、俺が一方的に思い込んでいるだけだったのだろうか?
その証拠に、雪菜の手がぷるぷると震えている。
それは恐らく――憤怒。
「……雪菜?」
恐る恐るといったように声を出す。
それからもしばらく雪菜は震えていたのだが、やがて「は~あっ!」と、それはそれは大きなため息が聞こえてきたと思ったら、いつしか手の震えも収まっていた。
チラリと背後を伺うと、まるでシャルロットのように頬をぷりぷりと膨らませて、大層ご立腹そうな雪菜がいた。
「そうですねー、私は妹みたいな存在ですよね。はい、私も士狼さんのことをお兄様のような方だと思っていますから、ええ」
「そうか? だったらいいんだが――お前さ、なんだか怒ってねえか?」
「いいえ? 全然怒っていませんとも。私に期待させるだけさせておいて、そのオチだけはないでしょう、なんてこれっぽっちも思っていませんよ?」
「……まあ、だったらいいんだが」
「はい、万事オッケーです。ですから、私を妹と呼んでくださったお礼と言ってはなんですが、毎晩悪夢を見てしまうような呪いなどはいかがですか、お兄様?」
「……絶対怒ってるよな、お前」
それからというもの、雪菜は嫌味を口にする際には、俺のことを”士狼さん”ではなく”お兄様”などと呼ぶようになった。
雪菜は俺と会話するときに、ほぼ必ず”士狼さん”という言葉を付け足すのだが、これからはその法則が破られてしまうかもしれない。
なんやかんやと騒ぎつつも階段を上っていく。あれだけ物静かだった雰囲気は、今や姦しいだけのものとなっていた。
――その最後、会話が途切れたのを見計らって、
「でも、妹ということは――まだ私にも可能性がありますよね」
聞こえるか聞こえないかの境目のちいさな声量で、雪菜はそんな言葉を口にした。
ぎゅっと手が握り締められる。だから俺もお返しと言わんばかりに握り返してやる。
――悪霊退治の途中などとは到底思えない、緊張感など皆無の俺たちだったが、それでいいと思うのだ。
雪菜は優秀な陰陽師らしく、餓鬼なんてお茶の子さいさいらしいし、何より――もしも雪菜に危険が及んだそのときは、俺が全力を持ってコイツを護ってやるからだ。
普段はクールで器量の良い女だが、その手はこんなにも小さい。俺が強く握り締めてやるだけで折れてしまいそうなほどに。
――そのちいさな手が、エリカの手と重なる。
今度こそは間違わない。俺が家族だと認識したやつは、それが悪党であろうとも護りきってやる。暦荘に住む仲間たちは、俺が最後に見つけた、掛け替えのない愛すべきバカどもだ。
だから、俺は前を向こう。
――決意を確かめた俺は、雪菜の手を強く握り締めた。
ともすれば、折れてしまいそうなほど、強く。
――すると返ってきたのは、抗議の声ではなく。
ただ共鳴したかのように強められた、雪菜の指の感触だけだった。