其の六 『退治』②
深夜のスーパーマーケットは驚くほどに不気味だった。
街中とは違い、月光が届かない分、余計に闇が濃い。さらに大きな棚や、陳列された商品が目隠しとなり、空間の隅々にまで目が届かない。
これでは物陰に何者かが潜んでいたとしても察知に遅れるだろう。
ニノは店の中心部に到着すると同時に、忌野から受け取った結界符を床に貼り付けた。すると物理的な変化は目で確認できなかったが、なにか空間に対して圧迫感のようなものが加わった気配が感じられる。
その圧迫感が、術者によって千差万別する結界の特徴の一つだ。よほど強力な結界でない限りは、空間と空間の仕切りを視認することはできない。しかし、何かが変わったかな? 程度の変化は一般人でも感じ取れる。
よく神社や寺に参拝した際に、厳かな雰囲気や重苦しい空気を感じることがあるのだが、その大部分は”結界”という技術によるものであると言える。古くから神様を奉ってきた神聖な地には、大なり小なり結界が張られている。
それは青天宮のように退魔の力をもつ者が意図的に張ったのか、または神主が決まりに則って敷地を整えているうちに偶然に張られたのか――まあ大部分は前者だろう。
閑話休題。
忌野の説明によると餓鬼とは、質量を持った状態と、質量を持たない状態、その二つを自由に行き来できるという。
つまりは固体と気体の関係に近い。ただし、気体となっているときは霊感のない人間には見えない、そして温度差に関わりなく変化できる――という二つの注意書きがついてくるが。
低級の妖なのにも関わらず面倒だとされる点がそれだ。物理的にダメージを与えても、気体となって逃げられてはトドメを刺せないのだから。
さて、そこで効果を発揮するのが先に張った結界である。
簡単に言えば、この結界には『餓鬼を固体のまま封じ続ける』という性能がある。要するに、気体化して逃がさないようにするのだ。もっと端的に言えば、結界内ならば餓鬼を物理的に倒せるのである。
基本的に陰陽師と呼ばれる者たちが悪霊や妖と交戦する際には、こういった『魔封じ』の結界を張るらしい。それも時代が進むに合わせて退魔の技術も進歩し、今では結界符一枚で簡易的なそれを発動できるまでに至った。
もっとも、その道の専門ではないニノが張ったこの結界は、長時間は持たない上に、展開する規模もかなり小さいのだが。
結界とは、古来から退魔だけでなく儀式や茶道にさえ用いられてきた。要はそれだけ汎用性に富んでいるということである。祝詞や護符で張るのもよし、塩を正しく撒いて張るのもよし、炭や水晶を使うのもよし、と。そんな簡単なことでも小規模な結界は成る。
言ってしまえば小さな結界ならば、現代人も知らず知らずのうちに作り上げているのだ。もちろん専門的な知識を用いらなければ効果は微々たるものだが。
青天宮の人間が主に使うのは――『魔封じ』、『人払い』、『不可視』、『防音』、『防護』などだろうか。メジャーどころには違いないが、王道ゆえに使用する機会が多いのもまた事実。
稀に、空間と空間を断絶させるレベルの結界を編めるだけの陰陽師もいるが、現代日本においては文字通り希少だろう。少なくともニノは、『隔絶』の結界を展開できる陰陽師など聞いたことがない。
「……やっぱりいるわね」
暗闇の最果てにまで意識を行き渡らせながら、ニノは小さな声で呟いた。
「うん。……どこだろう?」
返答するシャルロットの声も小さい。というよりも、やや怯えて自然と小声になってしまっている感じだろう。
ハンガーにかけられた衣服や、吊るされた看板や、気取ったポーズで固まるマネキンや、その反対側の棚に並べられた大小様々な液晶テレビの合間――リノリウムで出来た通路を二人は歩いていた。
はっきり言って視界は最悪である。さらに餓鬼が立てた物音があったとしても、天井や壁などに反響して、正確な出所が分からなくなってしまうだろう。密閉された空間というのはどこまでも厄介である。
深夜のスーパーマーケットは、戦場としては最悪だと言わざるを得なかった。
あの獣のような餓鬼は、本能によって自身の性能を最大限に生かせる戦場を選択したのだろう。
「そういえばさ、店を壊しちゃったら私たちが弁償しないといけないのかな?」
やや場違いな質問を受けて、そういえば説明していなかったな、とニノは思った。
「大丈夫よ。もしもウチたちが大暴れしても、隠蔽工作その他諸々は青天宮が引き受けてくれるらしいわ。それ専門の事後処理班みたいなのがあるんですって」
「ふーん、それならよかったね」
人懐っこい笑顔を浮かべてシャルロットは、安心した、と頷いた。
「余計な気を回すのも後にしなさい。油断すると痛い目見るわよ」
「大丈夫だよ、だってニノが護ってくれるんでしょ?」
「……ふん。まあ気が向いたらね。気が向いたら助けてあげるわ。……気が向いたらだからね?」
そっぽを向いてぶっきらぼうに言うと、シャルロットはやはり人懐っこく笑った。
それからしばらく並んで歩いていると、不意にシャルロットが声を上げた。
「あっ、いいこと思いついた。店の中が暗いんだったらさ、何か火が灯せそうなモノでも見繕って、松明代わりにすればいいんじゃないかな? 今なら私、頑張っちゃうよ?」
どうだこの名案は、と言わんばかりの満足げな顔だった。
確かに――ニノもそれを考えなかったわけではない。むしろ二度ほど思案はしたのだ。そして、メリットよりもデメリットが勝ると判断して提案はしなかった。
「無理よ。……そうね、例えばあたりにある衣服を棒状のモノに巻きつけて炎を灯せば、ひとまずの光源は確保できるでしょう。でもそれだと距離にして……多分、十メートル程度までしか効果はないと思う。障害物や目隠しの多い店内において、松明とはその程度のメリットにしかならない。
逆に、餓鬼からしてみれば暗闇の中に『火炎』という目印が出来てしまうことになる。それはウチたちの居場所を教えてるようなものよ。デメリットのほうが大きい以上、松明を作ることは得策じゃないわ。分かった?」
「……な、なるほど」
曖昧に頷くシャルロットを見て、ニノは、今の説明の半分程度しか理解していないなコイツ、と内心で呆れた。
場合によっては松明を罠として使えるかもしれないが、それは確実ではないし、具体的なトラップとしての機能方法が思い浮かない以上、やはり手としては封印するべきだ。
「まあ悲観することもないわよ。これだけ店内が暗いんだから、向こうだってウチらの正確な居場所は分からないはずよ。だからシャルロットがいる分、こっちのほうが有利ってことね」
「言われてみればそうだね。……よーし、とうとう私の本気を見せるときが来たみたいだね」
拳を握り締めて、深紅の双眸を見開き、シャルロットは周囲をキョロキョロと見渡す。
「せいぜい頑張ってちょうだい。すべてはアンタに懸かってるんだからね」
――と、言いつつ、実はあんまり期待していないことは口が裂けても言わないのだが。
黒闇と静寂の二つのみで形作られた店内を慎重に探っていく。敵はどこに潜んでいるか分からない。もしかしたら今このときも、自分たちに対して狙いを定めているかもしれない。
吸血鬼であるシャルロットは相当の夜目が利くだろうが、人狼であるニノにはその手の冴えがない。確かに人間よりは視力に優れた分暗闇を見通せるだろうが、吸血鬼ほど優れていないのも事実だ。
結果として、ニノは視覚というよりも、第六感に近いもので餓鬼を探していた。目では見ず、耳でも聞かず――培ってきた経験と、生まれ持った鋭敏な感覚により、暗闇を解析する。
――陳列棚、衣服、マネキン、看板、消火器、床、天井。
ありとあらゆる情報が頭に飛び込んでくる。
ほんの些細な見落としが命取りになる。眼だけに頼ることができない以上、五感すべてをフルに稼動させて状況を把握する。
時には指で触れ、時には耳を澄まし、時には匂いを確かめ、時には目で見て、時には――いや、さすがに舌で舐めて確認する必要性だけはなかったが。
――ガラス、家電、テレビ、掃除機、チェアー。
わりと節操のない品揃えだが、この街に住んでいる人間にとっては、ありがたいことに変わりはない。
そして、意外と言うべきか、やはりというべきか――餓鬼の痕跡はまるで見当たらなかった。まあ簡単に足取りを追わせるほどの間抜けならば、張り合いがなさ過ぎるというのものだが。
「……うん?」
それは一階へ続くエスカレーター付近でのことだった。当然、電気が供給されていない深夜に稼動はしていない。まあ問題はエスカレーターではなく。
鏡のように磨き上げられたリノリウムの床――そこに何か、ちいさな血溜まりのようなものがある――気がした。
「ねえニノ、あれ見てよ。なんか汚れてるよ?」
自分の後ろを、生まれたての雛のようにくっついて歩いていたシャルロットが、その血痕を指差して前に出た。
――ニノが、その警戒心の無さを咎めようとするよりも早く。
――餓鬼が、シャルロットに襲い掛かる方が数瞬速かった。
「バカ――ちょっとは警戒しろってのよ!」
まるで蜘蛛のように天井に張り付いていた餓鬼が、鋭い犬歯と滴る涎が目立つ口元を大きく開いて落下してくる。
その真下にいるのは、床の血痕に気を取られているシャルロットだった。
「へ?」
間の抜けた声を上げて振り返るシャルロットは、真上の餓鬼に気付いていない。
――本来ならば、それは到底間に合わない絶望的な間合いだった。いくらシャルロットが吸血鬼だといっても、一秒という刹那の間に、餓鬼の攻撃を察知して回避するだけの能力はない。
だから、それはニノの仕事だった。
人狼であるニノが駆け出すだけで、人間では叩いてもビクともしないはずの床に亀裂が入る。あまりに強い脚力は、ただ走るだけでも人間が作り出した英知を破壊する。
突然のように動いたニノを呆然と見つめるシャルロット。その頭上には――餓鬼。
ここで誤算があったのは、きっと両方だっただろう。餓鬼は確実に獲物を仕留めうるタイミングだったはずだし、ニノは無傷のままシャルロットを救出できるはずだった。
しかし――結果として、餓鬼は対象を見失い。
そして――代償として、ニノは左腕に鋭い裂傷を負った。
「ぐっ――!」
シャルロットを押し倒すような形で危険から護ったニノは、落下してくる餓鬼と直前で交差し、腕を鋭い爪で切り裂かれた。
ニノの考えでは、完璧に攻撃を避けたうえで彼女を護ってやれるはずだった。ただ唯一の誤算は――この濃密な闇のせい。おかげで手元の動きや、相手の位置確認にわずかな誤差が生じた。
「ニノ……? あれ、なんか血が出てるよっ!? だいじょう――」
「っ、黙りなさい。それより餓鬼は……?」
蹲って腕の傷を抑えながら、ニノは冷静に問うた。
ぬるりとした血がリノリウムの床に垂れ落ちて、二つ目の血痕を作った。
「餓鬼? ……えっと、そんなのいないよ?」
「……素早いヤツね。大方それだけが取り柄なんでしょうけど」
襲撃に失敗したと見るや否や、すぐさま陳列された商品の陰に隠れてしまったのだろう。つまり振り出しに戻ったわけだ。
もっとも――女の柔肌に傷をつけられたのだ。そう考えると若干向こうが先制したと思って間違いない。
「いい? アンタの頭でも理解できるように教えてあげるから、一度で理解してね」
大きめの衣服で三方を囲まれた、身を隠すのには最適なスペース。そこに息を潜めたあと、二十秒ほどの時間で、ニノは先ほど起こった事実を端的に説明する。
すべてを聞き終えたシャルロットは、しゅんと身体を縮こまらせた。
「……ごめんなさい、私がドジなせいで、ニノが」
「気にしないで。でも二度目は勘弁してね。それと、瞳ってのは五感の中でも最大の武器よ。アンタは夜目が利いてそれを存分に生かせるんだから、常に周囲に気を配っておくこと。分かった?」
「う、うん。でもニノ、その……大丈夫なの? 腕から血がいっぱい出てるけど」
「こんなの掠り傷よ。ウチなら二、三日で完治すると思う。だから心配しないで」
それは事実だった。
人狼である自分なら、この程度の傷など悲観するにも値しない。人間とは比べ物にならない身体能力に加え、並外れた生命力と回復力を持つのだから。
だが――この夜に限っては、戦闘能力が幾分落ちたというのも事実だった。
立ち上がったニノは、ハンガーにかかった衣服を盾のようにして、やたらと熱心に店内を見渡すシャルロットに気付く。……正直な話、あんまり期待していないのだが、頑張ってくれる分には文句は言わない。
「私に任せてね、ニノ。汚名を挽回してみせるよ」
えへへ、と人懐っこく笑う吸血鬼が一人。
「汚名を挽回って……返上の間違いでしょうが」
呆れたように呟くニノを見て、シャルロットはきょとんと首を傾げた。
どうやら理解していないらし――
「――ニノっ! 後ろ!」
背後を指差された瞬間、咄嗟の判断で横に飛ぶ。
――すると、どこからか疾走してきた餓鬼が、ニノが直前まで立っていた場所に跳んできた。その衝撃で床が破壊され、破かれた衣服が宙を舞い、つたない衝撃が伝わってくる。
「くっ、この――!」
反撃に出ようと身構えた直後、餓鬼がふたたび闇に身を隠していく。
それはニノから見れば相当に厄介でうざったらしかったのだが、客観的に見れば上手いヒットアンドアウェイだと言えた。
「大丈夫だった、ニノ?」
駆け寄ってきたシャルロットは心細そうな顔をしていた。
――なるほど、どうやらさきほど首を傾げていたのは、話を理解していなかったからではなく、ニノの背後に餓鬼らしき飛影を見たかららしい。
「ふいー、大丈夫そうでよかったよ。でもさでもさ、今ので私も汚名挽回だよね」
「…………」
前言撤回。
どうやらシャルロットには知性の欠片もないらしいと、ニノはため息をつく羽目になった。
やがて気を取り直して、あたりを注意深く探る。二度も失態を演じたのだ。いくら条件が悪いとは言っても、これ以上あんな低級な異端に手こずるわけにはいかない。
そんな様では――ヘルシングの名が泣く。
「……それにしても」
意識の大部分は索敵に回しながら、ニノは頭の片隅で思考していた。引っかかることがあったからだ。
これだけ濃密な暗闇の中――なぜ餓鬼は、あれほど正確に自分達の位置が掴めるのか。しかも二度もだ。
店内に侵入してから最初にヤツが襲い掛かってきたのは、エスカレーター付近でのことだ。まるでニノたちの様子や歩くルートを知り尽くしていて、その上で『血痕』という罠を床に張り、自身は天井に張り付いて蜘蛛のように餌がかかるのを待っていた。
二度目は、とりあえず落ち着いてシャルロットに状況を説明しようと、衣料品コーナーに潜んでいたときのことだ。慎重に身を忍ばせ、かさばる衣服を隠れ蓑にしていたのにも関わらず、あっさりと居場所がバレてしまった。
それを偶然と片付けるにはいささか納得がいかない。もしも自分たちが何かしらのミスを犯していて、それによって位置を特定されているのだとしたら笑えないからだ。
暗闇の中、顎に手を当てて思考を続ける。
いくつかの可能性が思い浮かんだが、そのどれもが違う気がする。例えば、あの餓鬼がニノよりも遥かに夜目が利くと仮定しても、それならばシャルロットだって負けていないのだ。
第一、優れた視覚を有していたとしても、これだけ障害物に溢れた店内ならば、その恩恵も半減されること請け合いのはず。
つまり――何か、視覚以外の感覚を使っているとか?
その線で考えると、第一に候補として挙がるのが聴覚か。店内に忍び込んでから、小声とはいえ言葉を交わしていたのだ。聞きつけられても何ら不思議はない。
だがどうもシックリと来ない。どう見ても当てはまりそうなパズルのピースが、実際に埋めようとすると微妙にサイズが合っていないような違和感。
結局のところ、考えていても仕方がない、という答えに帰結するのか。しかし答えを突き止めないと現状は変わりそうにない。
――餓鬼を退治するはずの自分たちが、
――反対に追い詰められているという事実が。
このスーパーマーケットは、あの獣じみた餓鬼にとって絶好の狩場なのだろう。
単純な能力では遥かに劣る、と判断して、この場所に逃げ込んだ――否、ニノたちを迎え撃とうとした。
「――どうしようかな」
傷口を押さえながら、ニノは進退窮まって肩を落とした。ついでに獣耳もペタンと倒れる。
別に完全に手詰まりなわけではない。本当にその気になれば、今すぐにでも餓鬼を燻りだすことが出来るのだ。例えば――
「ねえシャルロット。この際だから、もう店ごと燃やす?」
餓鬼にとって絶好の狩場であるスーパーマーケットそのものを消滅させたり。
まあ、さすがに進んで推奨したい手ではないのだが。
「――だ、だだだ、ダメだよそんなのっ! 明日から近所の主婦さんたちのお買物が大変になるもん!」
「冗談よ。それは奥の手だから」
「よかったぁ――て、ダメじゃない! 言っとくけど、私は絶対に協力しないからね」
頬をぷりぷりと膨らませて、シャルロットは顔を背けた。
――その瞬間。
闇の中に、爛と輝く獣の目が見えた。
「言ったそばから……! 注意を逸らすな――!」
怒声が響き渡る。
シャルロットが深紅の双眸を閉じたのを見計らって、物陰から餓鬼が姿を現した。恐らく思考した上での行動ではなく、本能で獲物の隙を伺っているのだろう。それほど高速な動きと反応だった。
二度、間抜けな声を上げる吸血鬼を抱きかかえ、ニノは餓鬼の攻撃範囲から離脱した。
中空にアーチを描くようにして跳ぶ最中、四肢で駆ける餓鬼が、また失敗した、と言わんばかりの横柄な態度で姿を消していくのが見えた。
それにしても平行線である。
いくら深夜のスーパーマーケットが餓鬼にとって絶好の戦場だとは言っても、むざむざ殺されてしまうほど向こうに有利というわけではない。元々の能力差が圧倒的に開いているからだ。
しかし、自分たちが劣勢に立たされていることに変わりはない。
餓鬼はいつでも好きなタイミングで襲撃できるのに対し、
ニノたちは襲ってくる餓鬼の攻撃を回避するのに専念するしかない。
餓鬼が潜伏から攻撃に転ずる一瞬の機をついて、カウンターの形で反撃する――というのは有効そうに見えて、その実は不可能だ。
暗闇によって翻弄される自分たちは、結局のところ餓鬼が姿を見せてくれるのを待つしかない。それはつまり後手に回らざるを得ないということ。そもそもで言えば、びっくり箱のように現れる餓鬼から逃れているだけでも賞賛されるべきであって、そこからさらに反撃しろ、というのはナンセンスだ。
身を隠すことに意味があるとは思えないが、とりあえず家電コーナーの物陰に移動した。
「……なにか言うことはある? シャルロット」
「えっと――ニノって、とてもいい匂いがするよね? ……とか?」
「…………」
「あぅ……ごめんなさい」
ペコリと頭を下げるシャルロット。
「……まあ、別にいいけどね。でも次に失態を犯したら、士狼に嫌われちゃうと思いなさい」
「っ――!? が、頑張るっ!」
むん、と気合を入れる。
その様子を見て、この喝の入れ方ならば大丈夫だろう、とニノは思った。……しかし、日本には『二度あることは三度ある』などという諺もある。少なくとも、あと一回は何かしらの失敗を犯すと見ておこう。
それにしてもシャルロットは暢気である。
このような状況下で、いい匂いがするね、などと関係のないことを――――
「……匂い?」
待てよ、と口元を覆って思考する。
――その可能性は考慮していなかった。視覚ではなく、聴覚でもない。だとすると、残された索敵に使える感覚とはなんだ?
仮に――餓鬼が、ニノたちの匂いを目印にして襲ってくるのだとしたら? 獣のごとき発達を遂げているのなら、嗅覚が並外れていたとしても不思議ではない。
「可能性としては、無くもないか」
言葉にしてみると、なにやら真実味が帯びてくるような気がした。
「え? 可能性ってなにが? ――――ニノ、後ろ!」
「っ――今度は役に立ってくれたじゃない!」
感覚だけを頼りに跳んだ。次いで、シャルロットもその場から離れていく。
意識を集中させながら振り返る。――ゆったりとした時間、まるでスローモーションの世界にいるような錯覚。
ニノは離脱のための跳躍により宙にいる間、ソレを見た。
物陰から飛び出してきた餓鬼が、すんすんと鼻を鳴らしている光景を。
「――やっぱり、ね」
華麗に着地したころ、やはり餓鬼は闇の中に姿を消していた。
「ニノ! 大丈夫だった?」
やや誇らしそうな顔をしたシャルロットが駆け寄ってくる。役に立てたことが嬉しかったのだろう。
……なんだか、ご主人様に褒められるようにと頑張る子犬のようだな、とニノは思った。もしも彼女に尻尾がついていたとしたら、それはもう猛烈な勢いで振られていたことだろう。
まったく、感情に合わせて身体の部位が動く生き物とは、なんてポーカーフェイスを弁えていないやつだ、とニノは呆れた。
「ねえ、シャルロット」
抑揚のない口調で名を呼ぶ。
「なにかな? あっ、もしかしてさっきのダメだった……? 私も、もう少し早く気付けたらよかったんだけど」
勝手に答えを予想し、勝手に落ち込んだシャルロットは、俯いてイジイジと人差し指を突き合せていた。項垂れると同時に、豪奢な金色の髪がサラリと揺れる。
ニノは頭を優しく撫でてやった。
「――でかしたわ、シャルロット。アンタがいてよかった」
獣耳をピコピコと動かしながら微笑んでやる。
すると、シャルロットは恐る恐ると顔を上げ、自分が褒められたことを認識したようだった。
「い、いやぁ……それほどでもないよ?」
人懐っこい笑顔を浮かべる。
その眩しい笑みを見つめながら、ニノは次の行動を考えていた。
人生なにが役に立つか分からない――それは実に的を射ている言葉だ。
ニノは、スーパーマーケットに置いてある品物の中で、強烈な臭いを発するような物を探した。品揃えだけは豊富な店だ。探せば何かしらのアイテムが見つかるだろう。
――しかし、やはり人生は何が起こるか分からない。
意外と言えば御幣があるような気がするが、とにかく店内には餓鬼に対して使えそうなものがなかったのである。医薬品コーナーならば色々と効果が期待できそうな代物があると思ったが、薬品について詳しくないニノだ、うかつに手を出すのは危険だと考えて止めておいた。
ニノが考えた作戦は――餓鬼が嗅覚で獲物を探すなら、その鼻を麻痺させてやろう――という単純明快なものだった。
獣並みの嗅覚であるならば、ニノたちが『くさい』と感じる程度の臭いが、餓鬼にとってどれほど刺激的なのか、考えるまでもない。
少なくとも鼻を潰してやれば、夜目が利くシャルロットがいる分、こちらが有利になるだろう。さらに上手くいけば意識すらも奪えるかもしれない。
ここで問題となってくるのが、どうやって強烈な臭気を発生させるか、という点だ。
初めは、香水のような類の芳香剤ではどうだ、と考えた。……しかしイマイチ頼りない感じが拭えない。探せばもっと有効なものがあるのではないかと思うのだ。
そうして思考すること数分。
――ニノの脳裏に閃くものがあった。
あれはいつかの夜、姫神千鶴ことちーちゃんの部屋でテレビを見ていたときのことだ。
粉末消火器と強化液消火器、この二つを併用することによって、とあるガスが発生することを思い出したのだ。
その番組を見たときから、一度ぐらいは試してみたいと考えていた。消火器を使う機会なんて、こんな状況でなければ二度と訪れないだろうし、ちょうどいいかもしれない。
幸いにもスーパーマーケットに侵入したときから、消火器を何個か見ている。あれらをかき集めれば――あるいは。
「……なんだか楽しくなってきたわね」
獣耳をピコピコと動かしながら不敵に笑う。
「え、どうしたの? なにかあった?」
もう一度褒められてみせるもんっ! とでも言わんばかりに張り切っていたシャルロットが振り向く。
ニノは周辺を注意深く探り、近くに餓鬼がいないことを確認してから歩き出した。
「よし。シャルロット、ちょっと一緒に来て」
「へ? 一体なにが――て、ちょっと待ってよ、独りにしないでってばー!」
餓鬼を探すのではなく、ひとまず身を隠しながら行動する。
その際に、売り物であった香水の瓶を何個も引っつかみ、手当たり次第に撒き散らしておいた。『におい』という概念上での煙幕になると思ったからである。
しかし、ただ単純に撒いて歩くのでは位置を教えているようなものなので、遠くに香水の瓶を投げることによって、その衝撃で破壊させて中身を漏らしたりもした。
これだけ大きなスーパーマーケットだ。消火器は両手の指では足りないほどの数があった。それらを厳選して選んでいき、最終的にはお目当てのモノを見つけることができた。
つまり、粉末消火器と強化液消火器の二つである。
何やら悩んだあとに閃いたような顔をして「分かったっ! これを武器にするんだね。私、頑張っちゃうんだから」と消火器で素振りをするシャルロットをとりあえず一発殴っておき、考案した作戦を告げる。
もっとも――作戦と呼ぶほど大それたことをするわけじゃないし、本当に効果があるかも分からない。何しろテレビで面白可笑しく放映していた現象なのだから、そのときは大げさに言っていただけかもしれない。
だから、本来ならば期待することは間違っている。
しかし、失敗したところで目立ったリスクはないのだ。だったら試してみるだけの価値はあるだろう。どのみち夜は長いのだし、失敗すればまた別の方法を試せばいい。
まだ若い身の上ではあるが、ニノは数多くの修羅場を潜ってきた歴戦の兵だ。
これまで培ってきた経験が言っている。
諦めるな。――切るべき手札が尽きたとしても諦めず、
否定するな。――思いついた作戦は幼稚であっても否定せず、
耐えろ。――どのような逆境であってもひたすらに耐えて、
受け入れろ。――その状況がどれほど現実離れしていても受け入れて、
考えろ。――そして、それら全てを希望に変えるために考える。
生き延びるために必要なのは、柔軟な思考と、対応力のある身体だ。それら二つを十分に兼ね揃えているニノは、不可能を可能にする女――と言えば過言のような気もするが、生憎と本筋では間違っていないのがポイントである。
このような状況下にも関わらずだが。
――ぶっちゃけてしまうと、ニノは今宵の戦闘を大いに楽しんでいた。
元々身体を動かすのが好きというのもあるが、なんと言うか、やっぱりヘルシングの血が騒ぐとでもいうのだろうか。とにかく楽しみにしていたドラマが始まったときのような、そんな言い知れぬ高揚感があるのだ。
理由もなく誰かを傷つけない。
今度は自分が誰かを護ってみせる。
それら二つを存分に満たしたのが今の状況だ。
人の怨霊が元となった、低位の悪霊でも低級の妖でもある餓鬼。それを祓ってやるのは、現世に囚われた想いを昇華させるという意味では人助けだし、そもそも誰かを護るためという理由もある。
だから、自信を持って前を向こう。
「――いい? 今からウチが言うことをしっかりと記憶してね」
赤い筒――消火器の使用方法や、適当なタイミングなどを説明する。
すると、シャルロットは「ほえ?」と小鳥のように首を傾げた。
「……そんな簡単なことでいいの?」
なにやら消火器を持って格闘戦でも挑むつむりだったらしい彼女は、拍子抜けしたようだった。
気持ちは分からないでもない。なにしろ――ただ、消火器を噴射するだけなのだから。
「その通りよ。勘違いしているかもしれないから言っておくけど、作戦っていうのは複雑であればあるほど優れているわけじゃないわ。綿密に練りこまれていて、かつ明快なものこそ頭のいい作戦よ」
「……えっと、ニノが考えたことって、別に綿密に練りこまれてはいないような――」
「なにか言ったかしら?」
「いや、何も言ってないよ?」
下手な口笛を吹きながら誤魔化す。
「まあいいわ。とにかくウチから一つ言っておくわね。――肩の力を抜け、それだけよ。シャルロットの場合、能力面はともかく精神面がちょっと弱いからね。変に恐がって実力を出せなくなったら困るし」
「あはっ、それなら大丈夫だよ。だってニノと一緒だもん」
人懐っこい笑顔に、ニノはつられて頬が緩むのを自覚した。
まったく、この子は自分がついてなくちゃダメなんだなぁ――なんて、熟練の姉のような思考を持って。
その異形はひどく戸惑っていた。
赤黒い体躯、肉食獣を思わせる研ぎ澄まされたフォルム、ペタペタと床に這う四肢、柔軟でいて強靭な筋肉、暗闇に浮かび上がる爛とした瞳。
人形であることさえ放棄したその者は、俗に『餓鬼』と呼称される質量を持った悪霊である。
今回の交戦――商店街の脇道で、なにやら強力なハンターに目をつけられてしまったのが始まりだった。しかし本能の訴えに従って即座に逃亡を選び、相手が追ってくることを想定して深夜のスーパーマーケットに逃げ込んだ。
果たして――それは文句のつけようがないほど正解だった。
動物の肉と魂をこれでもかと食らった結果、その餓鬼は他の個体とはまったく違った成長を遂げていた。
発達に発達を重ねた五感――中でも、嗅覚は圧倒的とも言える進化を見せている。絶対の暗闇において、容易く獲物を捉えることができるほどに。
だから餓鬼にとって、暗闇と障害物に満たされた空間は絶好の戦場だった。女の肉体が放つ甘い香りは、彼方にいたとしても嗅ぎ分けられるからだ。
しかし、どうしたことだろう。
ほんの十分ほど前から、あれだけ濃密に香っていた女どもの匂いがしないのだ。いや、その表現は正しくない。正確に期して言うなら、さきほどから店内に何やら薬品のような臭いが充満している。それが女たちの匂いを上手く隠していた。
恐らくは振りまかれた香水だろう。人間同士であっても、過度につけられた香水は、ある種の毒となって鼻腔を襲うのだ。
ならば――並外れた嗅覚を持つこの餓鬼にとって、どれほどの障害になるのかは考えるまでもない。さらに密閉された店内というのも相まって、なかなか香水の臭いが消えてくれない。
だが悲観することはない。
獣に近い発達を遂げた嗅覚は、霧のように撒かれた香水の中からでも獲物を探せる。もちろん手間や負担はかかるが、やってやれないことはないのだ。
――なぜなら、ここは餓鬼にとって最高の狩場で。
――追い詰められるべきは、あの美しい女どもなのだから。
黒闇の中に赤黒い体躯を隠しながら、ヒタヒタと四肢で這って移動する。それは密林において迷彩服を着用する兵士のごとき隠密さだった。
しばらく――どれほどの時間を徘徊と索敵に費やしたのだろうか。
肉食獣に似たフォルムを持つ餓鬼は、ソレを見つけて口元を凄惨に歪ませた。鋭く伸びた犬歯が覗き、口端からは妙に粘り気を持った唾液が垂れ落ち、床に小さな溜まりを作った。
ようやく――見つけた。
あまりの興奮に、口内からは止め処なく唾液が溢れてくる。それは腹を空かした人間が、ご馳走を前にしたときの反応と全くの同じだろう。
吐き気がするほど濃密な匂いの中、餓鬼は香水が充満する空間において、二人の少女を見つけた。
相変わらずこちらに気付いている様子はない。むしろ二人して背を向けていて、襲って下さいと言わんばかりの無防備さだ。
「――ヒ――ヒ――ヒ」
小さく漏れるのは濁った哂い。
餓鬼は手頃な物陰に潜み、じっと獲物を伺う。……やはり美しい。まるで輝かんばかりの美貌である。どうも人間ではないらしいし、それがあの美しさに繋がっているのかもしれない。
さて、準備は整った。
四肢の筋肉をバネのように収縮させる。それは一息に体を弾けさせるための予備動作。
自己を、穿つための弾丸に見立てる。弾は込めたし、安全装置などとうの昔に解除したし、あとはトリガー引いて、弾丸を打ち出すだけだ。
――間際、二人の少女が、なにやら赤い筒のようなものを持っているのが目に付いた。しかし大して注意することでもないだろうと思って、餓鬼は物陰から疾走した。
それは獣の体に恥じない――否、もはや動物というよりは一発の弾丸に近かった。
やがて――餓鬼の鋭い牙と爪が、女たちの脚を切り裂こうと迫る。
逃げられては面倒だ。だからまずは手足を切り落としてやろうと思った。自由に動き回るだけの四肢を失うことは、獲物にとって希望を失うことと同義。
だから餓鬼は一切の躊躇もなく、紅と黄金の少女に向けて――
「――シャルロット!」
「うん、いっくよー!」
掛け声があった。
それを餓鬼は大した脅威だとは認識しなかった。見たところ、女たちは餓鬼の襲撃には勘付いていても、その位置までは把握できていないようだったからだ。
――肉薄する。
驚異的な速度で、絶妙なタイミングで、最高の出力で。
獣染みた体躯をどこまでも奔らせ、ただ獲物を狩ろうとする一心で距離を詰めていく。
そして、一切の明かりを通さない黒闇の中。
鋭い牙と、研ぎ澄まされた爪が翻って――
――直後。
黒いだけだった視界が、なにやら真白の粉塵によって塗りつぶされ。
女の甘い体臭のみを道しるべとしていた鼻腔が、強烈な臭気によって攻撃されたのだった。
****
それは作戦としては単純明快すぎたと思う。
いや、むしろ作戦と銘打ってしまってもいいのかなーと悩んでしまうほどに安直だった。
私がニノから指示されたのは、『タイミングを合わせて消火器を噴射しろ』という、なんだかよく分からないアクションのみだった。
本当に意味が分からない。そもそも私は吸血鬼界を代表する淑女であり、消火器を使ったことなぞ無いのだ。だから色々と不安が残る――いや、むしろ不安しか残らない。
兎にも角にも、私がするべきことは終わったのだ。
さっきニノから掛け声があったので、訳も分からないまま周囲に向けて消火器を噴射した。それはもう一切の手加減をせず、ホースの水を花壇に向けて撒き散らすぐらいの勢いで。……実はちょっと楽しかったのは内緒だよ?
あれだけ黒かった視界は――果たして、吹雪いているのかと錯覚させるほど白く染め上げられた。
それだけならば良かったのだが、問題は視覚ではなく、嗅覚にあった。
「ぅぅ――く、くちゃい」
鼻を摘みながら泣き言のように呟いた。
私たちが狙いもつけずにぶちまけた白い粉末と強化液。その二つが――これはちょっと申し訳ないことだけど――周辺の衣服やら家電やらに降りかかり、新品であったはずのそれを中古品よりも尚汚していった。
――しかし、効果はそれだけに留まらなかったのだ。
私は当初、消火器を使って煙幕でも張るのかなと思っていた。というか普通はそれぐらいしか思いつかないだろう。……だから、これは私がバカなんじゃなくて、ニノが無駄に物知りだったのが悪いのである。
二つの消火器から放たれるソレは、意図せず中空でぶつかって混ざり合い――結果として、一つの化学反応を起こした。
それは――ひどく鼻を突く異臭だった。
小難しい話は分からないのだが、ニノ曰く「強化液に含まれる強アルカリが、加圧式のリン酸アンモニウムと反応して、刺激臭のあるアンモニアガスが生まれるのよ。……多分ね? そうだったと思うわ。だから、えっと――文句ならテレビ局に言ってね?」みたいなことを言っていたのだが……うーむ。
残念ながら私にはよく分からない。
一つ断っておくと、別に私がバカだからというオチはない。……そんなオチだけは無いはずである。
「……ニノー? 私はバカじゃないよねー?」
となりにいるはずの狼少女に向けて、私は鼻を摘みながら向き直った。
「――よしっ、ビンゴぉ!」
しかしアンモニアの臭いに不快感を示す私とは違い、ニノはやたらと気分よさそうにパチンと指を鳴らしていた。獣耳がとても景気よさそうに動いている。
……もしかして、ニノは臭いフェチの側面があるのだろうか。勇気を出して聞いてみたい気もするが、なにやら怒られちゃいそうな未来のビジョンが垣間見えたので、あえて黙っておいた。
それにしても――これだけの臭いの中、ああも喜ぶことができるとは。
「……ニノ=ヘルシング。恐るべし」
今この瞬間をもって、私の中でニノの株が上がったのだった。
「ちょっと、そこのバカ吸血鬼。なにボサっとしてんのよ」
腰に手を当て、挙句の果てにはため息をつくという、やや権高な態度だった。
けれど、私には一つだけ許せないことというか、譲りたくはないことがあった。
「――ちょっとちょっとー! 誰がバカ吸血鬼よー!」
そう。
この悪口だけはどうしても言われたくなかったのだ
「うん? どうして怒るのよ。いつも士狼が口癖のように言ってるじゃない。なんでウチのときだけ過剰に反応するの?」
「……そ、それは」
口ごもってしまう。
反論しようとは思ったのだが、その内容があまりにもバカバカしい気がして、なかなか言葉にすることができない。
渋る私を怪訝に見つめていたニノは、しばらくして「ははーん」と意地悪そうに笑った。
「ねえシャルロット? もしかしてアンタ――士狼以外には、バカ吸血鬼って呼ばせたくないんでしょう?」
「――っ~~!」
想いの全てを見透かされたような気がして、私は頬が熱くなるのを自覚した。
「やっぱり。まったく、子供みたいな女よねアンタは。男からバカって罵られる特別に、なんの意味があるっていうのかしら」
「……う、うるさいなぁ! 私は気に入ってるんだから、放っておいてよ。……バカ吸血鬼って呼ばれるの、好きだもん」
頬を膨らませて抗議する。
こうなったら徹底抗戦だ。ニノが引き下がってくれるまで、私のほうからは一歩も引いてあげないのである。
だってバカ吸血鬼って、なんとなく親愛が篭ってる感じがして、呼ばれると自然と頬が緩んでしまうというか。……あれ? いま思ったんだけど、これって変態さんの証なのだろうか? なんか罵られて喜ぶ人がいるって、周防から聞いたことがあるんだけど。
「……はあ、分かったわよ。もう言わないから機嫌直しなさいよ、へっぽこ吸血鬼」
「へっぽこ――!? あっ、うん。それなら大丈夫だよ」
「大丈夫なのかよ……」
なにやら肩を落として、さらには獣耳をペタンと倒す。
まるでボケを拾ってもらえなかった芸人さんのようであった。
「――それより、アレを何とかしましょうか」
気だるげに持ち直したニノは、遠くに体を横たえている――餓鬼を指差した。
赤黒い体躯は消火器の粉末によって白く塗りたくられており、四肢はまるで電気を流されたかのようにビクビクと痙攣し、横に大きく開いた口元からは涎を垂らて、そして――とても苦しそうに呻いていた。
それを見た私は、なんだか可哀想だと思ってしまった。
「鼻が利きすぎるってのも困ったものよね。ウチたちでさえ堪らなく臭いんだから、あの餓鬼にとっては……あー、考えたくもないわ」
犬みたいに身体をぶるぶると震わせたあと、ニノはゆったりとした足取りで餓鬼に向かって歩いていく。
餓鬼は、意識は失っていないようだったが、体を動かすだけの余力が残っているようにも見えなかった。いや、体力が尽きたというよりも、強烈な麻酔薬を脳に直接打ち込まれたみたいな様子だ。
「ねえニノ。えっと……どうするの?」
自分でも分かっているはずの答えをあえて聞いたのは、きっと――私が臆病だから。
「決まってるでしょう。祓ってあげるのよ、餓鬼を」
ニノは、”殺す”という言葉を使わずに、”祓う”という言葉を使った。
それは誰かを傷つけようとする人からは絶対に出ない言葉だろう。死してなお現世に囚われて、あんな醜い姿となってしまった人間の魂――それを、ニノは救ってあげようとしているんだ。
でも、やっぱり私は情けない吸血鬼だ。
どんなカタチであっても、動いている者の活動を停止させてしまうことが恐かった。
「――さて、と。じゃあシャルロット。外で待ってなさい」
私に振り返ることもなく、ニノは淡々とした口調で言った。
「え?」
「聞こえなかった? 臆病なアンタがいたら邪魔だって言ってんのよ。だから先に外に出てなさい」
冷たく突き放すような声。
――でも私は気付いていた。それがニノなりの優しさだってことを。
「……分かった」
そうだ、すぐに気付いてしまったのだ。
「物分りが良くてよかったわ。じゃあまた後で――」
「――私も残るよ。ニノだけに辛い仕事を任せられないもん」
だからこそ、私はニノと共に歩もうと思う。
これからの長い時間を共有していくだろう――この大事な友達と。
「はあ? アンタってとうとうバカなの? 我侭なら後でいくらでも聞いてあげるから、ここはウチに任せなさいな」
「ありがとう。……でもさ、我侭を聞いてくれるっていうんなら、私は今こそ我侭を言っちゃうよ」
そう宣言した後、意識を強く集中させる。ニノが何かぶつくさと文句を言っているような気がしたけど、面倒なので無視しちゃうことにした。
――イメージするものは燃え盛る風景。ごうごうと、めらめらと、ひたすらに赤い紅蓮が渦巻く光景。私がこのチカラを使うときに脳裏によぎるのは、いつだってそんなシーンばっかりだ。
だから、もしかしたら――その灼熱の業火に塗り潰された世界こそが、シャルロットという女の子にとっての原初の風景かもしれなかった。
「っ――シャルロット、あんた」
咎めるような声。
それを鼓膜が拾うのと同時、私の右手からは紅蓮の炎が噴きだした。まるで宇宙に輝く太陽のように、店内が明るくなる。
「……私に任せてよ」
燃え盛る焔を握り締めたまま、私は一歩だけ前に出る。
それを阻止するように、ニノが立っていた。
「……本気なの? シャルロット。別に反対するわけじゃないけど、どうせならウチに任せたほうが」
「ううん、違うよ。だって私さ、この餓鬼さんに対して怒ってるんだもん。ニノは知らないかもだけど、私は犬とか猫が大好きなの。だから――」
そこから先は言葉にならなかった。
そこから先に、もう言葉はなかった。
黙って道を開けてくれたニノに礼を言って、私は痙攣する餓鬼さんのすぐ側に立った。
「……苦しいよね。辛いよね。でも大丈夫だよ。もうすぐお家に帰れるからね」
右手を振りかぶる。
さらに強く念じる――と、私の手から吹き出していた火炎が、まるで蛇のように餓鬼さんに巻きついていく。
「――ごめんね」
それは本当に呆気なく終わった。
私が予想していたはずの、肉が爆ぜる音も、脂が燃える臭いも、痛いと呻くはずの声も――何もなかった。
まるでオーラを纏うような自然さで火炎に包まれた餓鬼は、あれだけ痙攣していたのが嘘のように静かになり、その赤黒い体躯をゆっくりと透明にしていった。
魂の昇華。いわゆる成仏。
悪霊や妖といった輩に対し、もしかしたら炎という概念は相性がよかったのかもしれない。そう勘ぐってしまうほど、それは呆気ない葬儀だったのだ。
やがて、餓鬼の体が光の粒子となって天に昇っていくのが見えた。あの肉食獣のような姿からは想像もつかない、本当に綺麗な煌きで。
そして、ボーッとそれを見つめる私の耳に。
――ありがとう、と。
聞こえるはずのない誰かの声が聞こえたような気がした。
私がキョロキョロと周囲を見渡しても、当然そこには不思議そうな顔をしたニノしかいない。
「……まあ、いっか」
なんとなく、本当になんとなくだが。
――とにかくもう、何でもいいような気がしたのだった。
やがて全てを終えた後のこと。
冷静になってみると、店内は戦争でも起こったんじゃないかと勘繰るほどに荒れていた。何とか後片付けをしたい気持ちもあったのだが、事後処理は青天宮が担ってくれるという言葉を信じ、私たちはスーパーマーケットを去った。
現在の時刻は午前三時前だ。女の子として夜更かしはあんまり褒められたことではないけれど、まあ今回は特別なのだ。
とりあえず餓鬼を一匹退治する――というノルマは果たしたわけだが、もうしばらくだけ夜の街を回ってみるつもりだった。そして異常がなければ、こころちゃんが待つホテルに帰還しようと思うのだ。
やや肌寒い夜に二人並んで歩いている最中、ニノがぽつりと呟いた。
「……ねえシャルロット。アンタのその発火能力のことだけど」
「え? それがどうかしたの?」
生まれたときから呼吸するのと同じような感覚で使えた炎。
ただし、あとで血を吸いたくなってしまうのが珠に瑕だ。……だめだ、考え出した途端、なにやら士狼の血が吸いたくなっちゃった。
「さっき思ったんだけどね。アンタの炎って、とっても優しい気がするのよ」
「――? どういうこと?」
はて、と首を傾げる私を見つめる視線。
それはとても優しげだった。
「なんて言えばいいのかな。……そうね、例えば――フェニックスっていう伝説の鳥がいるでしょう?」
「ああ、うん。さすがにそれぐらいは知ってるよ? あのとにかく凄い鳥だよね?」
「……なんだか本当に分かっているのかが不安になる台詞だったけど、まあいいわ。
とにかくフェニックスっていうのはね、その別名を不死鳥っていうの。死ぬ間際になると自ら炎の中に飛び込み、そして灰の中から幼鳥として生まれてくる。つまり炎っていうのは、生死を司る重要なファクターなのよ」
「はあ、それがどうかしたの?」
「だから――アンタがさっき祓ってあげた餓鬼は、きっと性懲りもなく生まれ変わって、今度は幸せな人生を歩むはずよって言いたかったのよ」
まるで決め台詞のようにニノは言う。
しかし、と私は思う。
「……ニノ、なんだか恥ずかしいこと言ってる」
ボソと呟いてやると、ニノは頬を程よく上気させた。
「う、うるさいわねぇ! ウチだって好きで言ってんじゃないわよ! ……まったく、人がせっかく」
「――あはっ、分かってるって。さっきのは冗談だよ。ニノは私が落ち込んでるんじゃないかと思って、慰めようとしてくれたんだよね?」
「……そ、そうよ」
ぷいっと顔を逸らす。
しかし、顔よりも表情が色濃く出る獣耳は隠せていない。……なにやら怪しく揺れる不規則な動き。どうも本気で照れてるらしい。
「ニノってば可愛いなぁ、もう~!」
我慢しようと思ったが、どうも無理だったみたいである。
これでもかと感極まった私は、そっぽを向いたままのニノに抱きついた。そして赤くなった頬と、私の頬をキスするように合わせてスリスリする。
「――ちょ、ちょっと止めなさいよっ! 人間社会ではこういうのを痴漢と呼ぶのよ!?」
じたばたと暴れられるが、私は負けなかった。
「残念だったね、それは人間社会での法律とか言葉だからね、そんなの私には通じないよ? だって吸血鬼だもん」
「はあ!? 屁理屈捏ねるのも大概にしなさいよ、このへっぽこ吸血鬼! 大体それを言うならねえ、ウチだって人狼だってのよー!」
夜の街に響き渡る怒声と嬌声。
……でも、ぷりぷりと怒っているはずのニノの声が、どこか楽しそうだったのは――きっと間違いじゃないだろう。
こうして、私たちの悪霊退治は幕を閉じた。
決してハッピーエンドとは言えない結末だとは思う。私は胸を張ってそれを言えない。
それでも――
決してバッドエンドじゃなかったんだから、全てを良しとしようと思う。
……さてさて。
相変わらず私はニノの身体にしつこく抱きついていた。だって、ニノの身体ってビックリするぐらい柔らかくて、触ってて気持ちいいのだ。
本当に申し訳ないとは思うが、私の本能が「もっと触れ~」と命じてくるのだから仕方がない。
まあでもいいか。
だってさ。
――ニノの獣耳が、なぜかとっても楽しそうにピコピコと動いていたんだから。