其の五 『退魔』②
あれから状況は大きく動いた。
どれだけ大きいのかと言うと、とりあえずしばらくは平穏な日常とお別れだなーと思うほどである。
その『しばらく』が、具体的にどれほどの期間を示すのかは分からない。
夢のように一瞬であるのか。
悪夢のように永劫であるのか。
それは終わってみれば刹那のものに感じるだろうが、生憎と夢というやつは、見ているときはとんでもなく長く感じるのだから注意が必要である。
ただ一つ言えることは、俺たちが頑張れば頑張る分だけ早期決着がつくということだ。そういう意味では、まるで学校のテストみたいである。
せいぜい努力が報われることを祈るとしよう。
――率直に言おう。なんと、俺たちは悪霊退治をすることになったのだ。それも肌寒い冬に、というのだからいささか的外れだ。
現代に蔓延る異端。
日本においての怪奇。
悪霊や妖と呼ばれる存在。
そういった人外の輩の退治を専門とした組織――雪菜は、それを青天宮と呼んだ。
歴史を遡ること一千年。古くは鎌倉以前から、日本の霊的守護を担ってきた退魔組織だそうで、現代においても正式に機能しているらしい。
今回の事例――妖による猟奇的連続殺人事件が起きた件――を素早く嗅ぎつけた青天宮は、この街を秘密裏に封鎖し、情報を隠蔽し、大規模な結界を用意させ、事態の解決役として多くの人間を送り込んだ。
その一人が忌野だ。とは言っても、何かしらの意味があって、実働部隊はヤツ一人だけらしいが。
ちなみに俺たちはというと、事情を知った民間協力者として、事態の究明と調和に一役買うことになった。もちろん自分たちから志願したのである。
――理由? そんなの簡単だ。こころが可哀想だからに決まっているだろう、なんとかしてやると約束したのだ。それに……こほん、俺は女子供には優しい格好のいいヤツなのである。
忌野はけっこう迷惑そうな顔をしていたのだが、雪菜の助言もあり、結果として了承されたのだった。
主なメンバーは、俺と、ニノと、雪菜と、シャルロットと、忌野――この五人である。
なぜ関係のないシャルロットが入り込んでいるのかと言うと、まあ本人が無理やり割り込んできたのだから仕方ない。
あのとき――俺たちがニノの部屋で論議していると、あまりに空気が読めていない愚かなバカが、障子をぴしゃーんと開け放ったのだ。なんだコイツは、とみんなの視線が集中する中、とうとう空気を読むことに成功したらしいシャルロットは、気まずそうな顔で立ち去っていった。
気になって後を追いかけてみると、縁側の端っこのほうで丸まるバカ吸血鬼を発見したのである。
相手が俺一人だということに強気になったのか、シャルロットは遠慮のない口調で事情を聞いてきた。連続する疑問に答えてやると、今度は深紅の瞳を揺らして「そんなの可哀想だよっ! 私も手伝うもんっ!」と、正義に燃え出したのだから始末が悪い。
――しまった、余計なことを言っちまった、と後悔しても後の祭りだった。
あれは少しだけ前のこと、シャルロットに連続殺人事件の概要を教えてやったら泣きそうになっていたので、まさか積極的になるというのは予想外だったのだ。
俺としては、この際だからとことん怖がらせて家で大人しくさせよう――との考えから包み隠さず事情を教えてやったのだが、どうにも逆効果らしかった。こころが母親を探している、という事実にひどく心を打たれたようだった。
……たしかにシャルロットは、家族を大事にする人間とか、ひとりぼっちのヤツとか、そういった傾向にある者に対して自分を重ねる節がある。それを忘れていた俺がうかつだった、としか言いようがない。
――結論として、シャルロットは悪霊退治メンバーの一人に加わることになったのである。
ここでは拠点として不十分だ、との判断から、俺たちは暦荘から移動することになった。
そもそも忌野――いや、青天宮の人間たちが、すでに作戦本部を築いているらしい。それは街の片隅にある小さなビジネスホテルそのもので、資金源はかの日本三大財閥の一つである如月家が出しているという。
ホテルの外装はお世辞にも綺麗だとは言えなかったが、それはある種のカモフラージュらしく、内部の機能はありとあらゆる面で整っていた。
このホテルは元々、政府直属の組織など――今回の事例で言うと青天宮だが、それらをサポートすることを目的に建てられた。異常がない平穏な日常では格安のビジネスホテルとして、そして時を迎えると怪しい人間がうごめく魔境となるのである。忌野から聞いた話によると、このような感じのホテルが各街に一つずつはあるらしい。
映画に出てくるような真黒のスーツを着た人間や、陰陽師っぽい衣装を着た人間たちとすれ違いながら、俺たちはホテルの最上階に案内された。やはりと言うべきか、忌野以外にも青天宮の人間は動いているようだったが、それほど多くの人数は動員されていないようだった。おかげでホテルはとてもがらんどうな印象を受ける。
エレベーターで十階近くの高さまで昇り、ところどころボロくなった廊下をぞろぞろと歩いた先、一つの部屋にたどり着いた。
その部屋を見た感想としては――狭かった。訂正させてもらうなら、部屋自体の面積は広大である。恐らく十畳を軽く超えるだろう。
……しかし、壁際にはパソコンを初めとした機械類が所狭しと並んでいるのである。それも際奥には、一昔前のコンピューターのような巨大な装置があった。
他にはシングルのベッドが並ぶようにして三つ。さらに小さなテレビや、クローゼット、あとはユニットバスがある。大きく街を見下ろせるような設計の窓には、カーテンがかかっていなかった。
呆然とした様子で部屋を眺める俺たち。
「――ああ、これのことかなー?」
バカでかい機械を指し示しながら、忌野は振り返った。
「この機械はさ、悪霊や妖を見つけるためのものだよ」
やや自信満々に言い放つその姿に、俺は不平を隠しきれなかった。
なぜなら、陰陽師と名乗るからには不可思議な力で索敵すると思っていたのだ。言ってしまえば自身がレーダーのように。
霊感があると自称する人間でさえ幽霊を視ることができるのだから、その道を専門とする陰陽師ならば、手に取るように妖を発見できそうなものだ。
俺がそんなニュアンスのことを言うと、忌野は静かに頷いた。
「そうねー、まああんたの言うとおりだと思うよ。それに事実、俺っちたちは自力で妖を見つけることもできるさ。でもそれだと効率が悪いんだよね。
現代の科学が発達するにつれて、悪霊や妖といったブラックボックスの解明も出来つつある。もちろん完全には無理だけど、少なからず真実は得たんだよ。その一つが、『悪霊や妖が出現する場所は、ひどく磁場が乱れる』ということさ。原因は不明だ。ただこれを利用しない手はないだろう? 街全体を監視し、磁場が異常な数値を示す場所にむかえば、そこには敵がいるってことなんだから。索敵する分の労力を機械で代用できるならお安いもんだ。電気代の心配さえしていればいいんだから。
余談だが、自分は霊感がある……とか嘯いてる人って結構いるよねえ? ああいうのって大抵は勘違いなんだよ。実際は幽霊が視えているんじゃなくて、磁場の乱れにすごく敏感なだけなんだ。まあ結果として、そこには悪霊とか妖がいるってことなんだから間違ってはいないんだけどね」
――そういえば。
俺が自然公園で餓鬼とはじめて対峙したとき、心臓がチクリと痛んだような感覚があったのだが、もしかするとそれが磁場の乱れだったのだろうか。ていうか磁場が乱れたら心臓が痛くなるのか?
その手の知識がない俺にはどうも判別がつかなかった。
「ただ面倒なことがあってさー。俺っちが餓鬼を数匹退治して回ったせいか、残りのヤツらがなかなか姿を見せてくんないんだよねー。本来、餓鬼と呼ばれるアイツにそんな知能はないはずなんだがね。……どうも、青天宮がこの街に来る以前に殺された五人の人間、その魂を食らったらしいな。おかげで知能――いや、本能が発達しやがって、俺っちたち青天宮から上手く逃げ回ってやがるんだ」
じゃあどうすればいいのか、と俺が問うと、忌野はニヤリと口端を歪めた。
「――決まってるじゃんか。俯瞰して見つけられないなら、脚で回ってみるしかないだろー? そのためだけに、あんたらの協力を了承したんだから。
具体的な方針としては、二人一組のペアになって街中を探索するのさ。自身を中心として、半径五十メートルほどの範囲の磁場を測定する装置がある。形状としては小型のPDAのようなものなんだが、これをペアに一つずつ渡そう。各々がそれを持ち、街中を歩き回って、餓鬼を見つけ次第各個撃破してくれ。
ちなみに青天宮の調べでは、餓鬼はあと二、三体とのことだ。正直な話、餓鬼ってのは正攻法で戦えば雑魚だから、あんたたちでも十分だろう。あとで倒し方を教えてあげるよ。
ああ、それと最後に。もしも餓鬼とは違う妖を見つけたら、絶対に手を出すなよ? そいつは俺っちの獲物だ。今回の件は、もともと俺っちが実家から課せられた試験でもあるんだよね。だから青天宮における実働部隊も俺っち一人ってわけ。もちろん失敗するようなことがあったら、控えているほかの陰陽師が退治してくれるだろうしね。なにより――あの凛葉家の雪菜さんもいることだしねー」
にはは、と子供のように笑う忌野の瞳は――笑っていなかった。
****
……いきなりだけど、私は今すんごくショックを受けていた。
この世に生を受け、数えること約百年。楽しいことや、辛いことや、怒ってしまうことや、泣いてしまうことや、それはもう色々とあった。自分で言うのもなんだけど、一言では語りつくせぬほどに波乱万丈の日々だったのだ。
すこし人生を振り返ってみたが、やはり、さっき私が受けたショックはいまだかつて無いものだった。
「……あはは」
思わず苦笑してしまう。
頭を撫でてあげようと差し出した手が、触るなっ! と言わんばかりに弾かれたから。
――安っぽいビジネスホテル。その一室を自由に使ってよいとのことで、私とニノとこころちゃんの三人で、とある部屋を陣取っていた。
現在の時刻は午後十時である。本格的な作戦開始は日が変わってからだそうで、それまでの二時間が空いた私たちは、とりあえず休息を取っておくことにしたのだ。
そんなこんなでホテルの一室で落ち着こうとした矢先、そういえばまだこころちゃんにきちんと挨拶してなかったなーと思った私は、名乗ると同時に頭を撫でてあげようとしたのだが――
なぜか。
こころちゃんは涙目になって私の手を払ったあとに、ニノの背後に隠れてしまったのだ。
その直前――視線は、確かに怯えていた。
「……ねえニノ。私ってさ、なにか怖がられるようなことしたっけ」
私が、泣こうかな……と落ち込み始めていたころ、ニノはこころちゃんを姉のようにあやしていた。
……いいなー。私も頭を撫でてあげたいなぁ。抱きしめてうりうりってしたいなぁ。そう出来たら、とっても気持ちいいだろうなぁ。
「そうね、やっぱり顔じゃない? こころって面食いなのよね」
「……絶対ウソだよね、それって。結構マジメな話をしてるんだけど」
「そう? じゃあ聞いてあげる。ねえ、こころ。シャルロットのことが嫌いなの?」
問われたこころちゃんは、不思議な動きをした。
首を縦に振る……と思うと、今度は横に振ろうとして……と、次の瞬間にはふたたび頭を縦に――みたいな、なんとも形容しがたい動作であった。
初めは私に遠慮して頷かないのかとも思ったが、どうも違うらしかった。
「……まあ、いいや。それでニノ、私たちはどうすればいいの?」
「簡単な話よ。要するに、ウチとシャルロット、士狼とせっちゃん、そして忌野の三組に別れて行動。組み合わせに若干の不満が残るんだけど、そこはまあいいわ。各ペアには一つずつPDAが渡されて、それを頼りに行動。そして肝心の餓鬼を倒す方法だけど――これよ」
言って、ニノは何やらお札みたいなものを取り出した。
「……なにそれ?」
「見て分からないの? 札よ、札。なんでも青天宮お抱えの陰陽師が作成したとかいう結界符らしくて、これを張るだけで周囲五十メートル――ちょうどPDAの探索範囲内と同じね。その空間に簡易的な結界を張ることができるらしいわ。その結界の中じゃないと、餓鬼は祓えないって話よ」
「……ふーん」
「ねえシャルロット。アンタ絶対分かってないでしょう」
「わ、分かってるもんっ」
「はい嘘。どうせ、『ニノが理解しているんだから、私は分かったようなフリをしつつ、面倒なことは全部任せてればいいや』、ってところかしら?」
……す、鋭い。
恐るべし狼少女であった。
だって――言い訳をさせてもらうなら、私に頭脳労働は似合わないと思うのだ。それに私がしたいのは小難しく思考することじゃなく、母親を探していると言う、あのちいさな少女の手助けをすることなのだから。
一つ断らせていただくと、私は吸血鬼だ。人の血を糧にする人外の存在だ。夜目は利くし、運動だって得意だし、念じたモノはあっという間に燃やして灰に出来るし(そのあと無性に血を吸いたくなるけど)、そこらの人間よりは遥かに腕が立つと思う。
だからではないけど、もしも私がちょこっと手を貸すことで誰かが笑ってくれるなら、協力なんて惜しまない。
もっと端的に理由を言うなら――可哀想じゃないか。
「っ――あ、あの……!」
私がぼんやりと考えていると、なんとこころちゃんの方から声をかけてきた。
「え、なに?」
もしかして出て行けとか言われるのだろうか。
そんなネガティブなことを考えていた私にかけられた言葉は、予想外のものだった。
「……あ、ありがとう……ございます」
こころちゃんは頬を染めて、ぺこりと頭を下げてくる。その小動物じみた所作は、思わず頭を撫で撫でしてあげたくなるほどの可愛らしさだった。まさに殺人級である。
私は気分がよくなって、今度こそは大丈夫だろうと、もう一度だけ近づいて――
「――ぅっ! こ、来ないで……!」
当たり前のように拒否されたのであった。
――いや、どうやら前途は多難のようである。こころちゃんに嫌われる理由がこれっぽっちもないので対処のしようがないのだ。まだ全力で嫌ってくれるのならば割り切れるのだが、時々勇気を出して声をかけようとしてくるもんだから、ちょっとだけ期待とか希望を持ってしまう。
母親を探しているというサトリの少女。一見は人間に見えるのに、その実は人形をしているだけの異端。
それは。
吸血鬼や、人狼とまったくの同じ。
日常生活ではそれなりに上手くいっていても、正体がバレた途端に追われるかもしれない危険性を抱えている。結局のところ――人外が人並みの幸せを掴むのは難しいかもしれない。
でも、私はもう家を見つけた。
家族と呼べるだけの優しい人たちと――そして、大好きな男性も。
だから私は幸せな方だ。吸血鬼らしくない、と指を差されても構わない。だって吸血鬼は血を吸うからこそ吸血鬼なのである。時々こっそりと士狼から血を分けてもらっている私は、立派に吸血鬼と名乗れるのではなかろうか。
しかし、こころちゃんは別だ。
頼れる人はなく、私たちのように身を護るだけの力も無く、慕った母親とさえはぐれてしまい、さらには悪い奴らから追われている可哀想な女の子なんだ。
そう考えたら、出来る範囲で手伝ってあげたいじゃないか。士狼から事情を聞かされたときは一瞬躊躇ってしまったけど、私が吸血鬼という種族である以上は、指を咥えて待っていたくない。
だってさ、私ってこう見えても実は強いんだもん。……なんて言ってみたりして。
とにかく私はこころちゃんを助ける。悪いヤツらなんて一発で星にしてみせるのだ。たまには大人のお姉さんらしい頼れるところを、士狼たちに存分に見せつけてやるのである。
「――ちょっとシャルロット。さっきから一人でニヤニヤしてどうしたのよ」
「えっ、別になんでもないよっ?」
慌てて口元を引き締める。いけないいけない、これではまた子供扱いされてしまう。
しかしどうにも顔が元通りにならなかったので、私は一度廊下に出て頭を冷やしてくることにした。いわゆる、ちょっと外の空気を吸ってくるねー、というやつだ。
「どこ行くのよ? 探検とか言わないでよね」
くるりと背を向けた私に、ニノの訝しげな声がかけられた。
「ちょっとちょっとっ、さすがにそこまで子供じゃないよっ! 私はほら、ちょっと外の空気を吸ってくるだけだもん」
「そう。迷子にはならないでね。探すの面倒だから」
堪忍袋の緒が切れそうになった。
なるべく怒りを大げさに表現しようと、擬音を声に出す。
「ぷちっ」
「トマト」
すかさずカウンターを入れられてしまった。
負けた――そう思考する私を他所に、こころちゃんが楽しそうに笑っていた。……そっか、そんなに私の負けが嬉しいのか。
もう言い残すことはないと、足早に退室することにした。
「――あ、あのっ。……どんまい、です……」
ノブに手をかけた瞬間、何やら気遣ってくれたフシのある声が聞こえた。
もしかして、とうとう気を許してくれたのかも――と気分を良くした私は、頭を撫で撫でさせてくれるかな? と思い、振り返った。
「ぅっ……こ、来ないでっ……!」
しかし現実は悲しかった。否、悲しすぎた。
私が近寄ると同時に、こころちゃんはニノの背中に隠れてしまった。そして顔を半分だけ覗かせてて、ちらちらと様子を伺ってくるのである。その仕草は天敵に怯える小動物みたいで可愛らしかったのだが、でも現状を省みると天敵は私なんだなーとの結論に至り、ショックを受けるハメになった。
「……ニノ、後は任せたから」
ふらふらー、と左右に蛇行しながら退室する。その際ニノが「迷子になったらとりあえず大声を出すのよ?」と冗談げに言ったのだが、言い返す気力もなかった。
部屋から出るとき、肩越しにこころちゃんを一瞥した。じっと私の様子を観察しているのは、きっと警戒しているからだろう。
このままでは埒が明かないので、私はさっさと廊下に出ることにしたのであった。
――あぁ。
こころちゃんの頭、撫で撫でしてあげたいのになぁ。
****
巨大かつ複雑な機械がひしめき合うホテルの一室。シングルのベッドが三つ、クローゼットが一つ、広く街を見下ろせる窓が一面。どうもこの部屋だけが特別に作られているような気がする。それは広さの観点からも、立地という意味でも、文字通りの特別な部屋だった。
忌野からはすでに現状に対する説明をしてもらったのだが、概要を簡単にまとめると次のような感じだった。
――まず俺たちは、基本的にこのホテルを拠点として動くこと。
次に、俺たちの仕事は餓鬼を退治して回ることのみ。ちなみに、一組につき一体程度で十分とのことだった。
餓鬼以外の妖――つまりカテゴリーB以上とされるソイツは、忌野が担当するとのこと。なんでも今回の任務は、忌野が実家から命じられた試験のようなものらしく、本来ならば俺たちが手伝おうとすること自体がよろしくないらしい。
そして、こころは青天宮が責任を持って守護するとのこと。というよりも俺たちが夜の街を闊歩している間、このホテルで大人しくしているだけなのだが――
皆が退室していったあとも、俺はこの部屋に留まっていた。ただ雪菜だけが、去り際に意味ありげな視線を俺に送っていた気がする。
「それで、何の用かなー? 俺っちはこう見えても忙しいんだよねえ」
パソコンのキーボードを素早くタイピングしながら、忌野はこちらに振り向くことなく言った。
「用ってほどのことでもねえよ。ただ色々と聞いておきたいことがあってな」
「ふむん? なにかな」
回転式の椅子をキイキイ鳴らしながら、忌野が楽しげな笑みを浮かべて振り向いた。
――しかし、つりあがる口端とは裏腹に、その瞳はこれっぽっちも笑っていない。
なんとなく気が悪くなったが、大人の男として平静を保つことにした。
「お前ら青天宮ってのは、悪霊とか妖を退治するのが専門なんだろ? それなのに、こころを保護するっておかしくねえか?」
「なるほどね、言いたいことは分かるよ。でもあんたはちょっと偏見が強いね。――いいか、妖って連中はなにも全部が悪いヤツじゃないんだよ。人との共存を謳った妖だって大勢いるんだ。歴史を紐解いてみても、妖のおかげで救われた人間だって少なくない。その中でも”サトリ”といえば、心を読んじまうことを除けば人間となんら変わらない種族なんだよ。保護して当然だろう?」
ニヤニヤと語る忌野を、俺は注意深く観察した。
……よし、どうやら嘘は言っていないようだ。こころの件に関してはすべて真実らしい。こいつの場合、放っておけば”語る”んじゃなくて”騙り”そうだからな。
「そうか、ならいいんだけどよ。
じゃあ次に聞くが、お前の言ってた実家の試験ってなんだ? 今回の件だって、青天宮とかいう組織を全力で動員すればすぐにでも片がつくんじゃねえか? にも関わらず、お前は頑なに一人で妖を倒そうとしてるよな。……つまり、そんなに試験ってのが大事なのか?」
「ふーむ、さっきから上手いとこばかり突くねー。確かに全部あんたの言うとおりだよ。実際、今回の件は俺っちのワガママとか要望が強く出てしまってる。忌野家のほうからも直々に要請が出てるようだしね。俺っち一人にやらせてみろ、って。そしてもっと正確に期して言うなら――これが原因さ」
忌野はすぐ側に立てかけていた日本刀を手に取った。
細長い刃は、きっと刀身だけでも三尺はあるだろう。とある剣豪が所持していたとされる通称”物干し竿”と同程度の長さか。鞘には白い札が所狭しと貼りつくされており、柄の部分意外はすべてが真白になっている。
その刀を見た途端――俺は、危険だ、と直感した。
「――妖刀”大禍時”。元々は、青天宮が一千年をかけて日本全国から蒐集した曰く付きの霊具の一つさ。もっとも、現在は忌野家に預けられ、代々と受け継ぐ家宝のようなものになってる。この大禍時を継承するってことは、忌野家の家督を継ぐってのと同意なんだ。
ここまで言えば予想はついたかな? ぶっちゃけた話をすると、今回の件は、俺っちが大禍時を継承するに値するかを見るための試験ってことなのさ」
なるほど、色々と合点がいった。
特に一番しっくり来たのが、あの大禍時とかいう物騒な銘の刀だ。いつか雪菜が自然公園の広場で呟いたその名は、忌野家が持つ日本刀――いや、この場合は妖刀と呼んだほうがいいのか? ……とにかく、アレを指していたってわけだ。
でも――まだ納得のいかないことがある。
「忌野。その刀のことは分かったんだけどよ。それと、お前が斬撃を飛ばしたってことに何か関係はあるのか?」
あのとき。
真円の広場には忌野の姿などなかったはずなのに、餓鬼は一刀両断されて消滅した。つまり俺の予想が正しければ――忌野は斬撃を飛ばしたのだ。言葉にするとバカみたいな事象だが、それ以外に可能性が見当たらないのだから仕方ないだろう。
忌野は、ヒュウ、と感嘆の意を示すように口笛を吹く。
「いい勘してるねー。そのとおりだよ、確かに俺っちは斬撃を飛ばした。――いや、その表現は正しくないな。俺っちが、じゃなくて、それはひとえに大禍時の力なんだから。
妖刀”大禍時”。こいつには祓った妖の妖力を刀身に吸収し、貯蔵する、という一風変わった性質があってね。それも無尽蔵に、妖を祓えば祓った分だけ溜め込んでいく。その結果、大禍時の刃には常に紫色の陽炎が発生しているように見える。それは刀身から漏れ出した妖気なんだ。その状態の大禍時を振るうことにより、方向性のない妖気に『斬撃』という指向性を与えて飛ばすわけだ。
つまり、正確には斬撃を飛ばしているんじゃなくて、斬撃の形をした妖気を飛ばすってわけよ。分かったー?」
「……いや、論理的には分かったけどよ。本当にそんなこと出来るのかよ」
「モチのロンさ。それを得意とするのが忌野家の人間だからね」
にはは、と子供のように破顔し、忌野は俺にピースを向けてきた。
……色々と釈然しないこともあったが、まあ大体の話は終わった。これ以上の会話は無駄だろう。そう判断した俺は、早々に立ち去ることにした。
それに――やはり気分のいいものではない。
「あれれ、もう帰っちゃうのー? 今の俺っちなら、聞かれたことなら何でも答えるぜ? 例えば、そうだな。ちっちゃい頃の雪菜さんのエピソードとか興味ないかい?」
……ちょっと興味があった。
俺は立ち止まって振り返る。忌野は楽しげに口端を歪め、そして瞳は――
「そういえばまだ聞いてなかったな。お前って雪菜とどんな関係なんだ?」
「許婚」
質問から一拍の間も置かず。
忌野はこちらの反応を楽しむかのように言い放った。
「――ぷっ、はははっ! なーんてね。冗談に決まってるじゃんよー、そんな怖い顔すんなよー。本当のことを言うと、単なる幼馴染ってやつさ。家同士に交流があってね、そういった理由で雪菜さんとも親しくさせてもらってたってわけ。大体、俺っちごときが凛葉家のお嬢様と結ばれるわけにゃいかんでしょ」
「そっか、じゃあいいや。あばよ」
いいように弄ばれている気がした俺は、イライラが最高潮に達して、さっさと退室することにした。
雪菜と忌野の関係――幼馴染だということは聞けたわけだし。
「あっれー、怒っちゃったー? 俺っちってば、何か気に障るようなこといったかなー?」
道化のような口調と、軽薄な声。
俺はため息をついて、もう一度だけ振り返った。
「――お前、うざいんだよ。頭の悪そうな真似しやがって。手の内を隠すヤツなんざ誰が好くか。それは俺をナメてるつもりか?」
忌野の瞳が細くなる。
ニヤニヤと歪んでいた口元が真一文字に結ばれた。
「……ふーん、いちいち鋭いとこばっか突いてくるなぁ。でもどうよ? 俺の猫かぶり、見事だったろう?」
子供のような笑顔ではなく、それは冷笑だった。
――この忌野という男は油断ならない。さきほどまでの軽薄な態度と口調は、すべて偽物だ。自分の手の内はこれっぽっちも曝け出さず、逆に、相手の心理や性格を探ってくる。無邪気な悪戯小僧のように笑いながらも、その瞳はいつも冷静に周囲を観察していた。
忌野の本性は、どこまでも頭のキレる奴だ。
こういうヤツは嫌いじゃないが、俺自身が踊らされるのは気に食わない。
「ふん、知るか。まあせいぜい頑張ってくれよ。お前が大禍時とかいう刀を継承するってことは、イコールで、こころに対する危険が無くなったってことなんだからよ」
「言われるまでもない。俺は俺の目的のためだけに行動するよ。……まっ、あのサトリの女の子も守ってやるけどさー。だって可愛いじゃんよー」
にはは、と子供のような笑みを貼り付けて、忌野は言った。
これでもう話すべきことはない。俺は背中越しに手を振って退室した。
――その最後。
「……雪菜さんを、守ってやってくれよな」
今までの軽薄な口調とも、冷徹に真実を見据える声とも違う。
真摯に祈るような声が、聞こえてきた気がした。
****
「……雪菜さんを、守ってやってくれよな」
忌野は、去りゆく宗谷士狼の背中にそんな言葉をかけていた。
それは意図してのものではなく、思わず漏れた本心だった。自分では――否、自分だけは、あの凛葉雪菜という少女を護ってやる資格などないから。本来であれば持ちえたはずの資格は、数年前の事件をきっかけに永久に無くしてしまったから。
士狼が退室したあと、広い部屋に一人きりになった忌野は、回転椅子に深く体を預けた。
「なんでかなー。……ねえ、雪菜さん。なんで今頃になって俺の前に現れるんだよ。せっかく忘れようとしていたのに」
呟かれる独り言は虚空に消えていく。
――第一、もう出会ってはいけないはずだった。出会わないことが最善であり、最良であるはずだった。数年前に、誰よりも雪菜を苦しめたのは他ならぬ――自分だったから。
「でもよかったよな。あんなに楽しそうな雪菜さんは子供のころ以来だ。誰かいい人が見つかったんだろうね。……んー、やっぱりあの白い髪の男なのかなー」
凛葉雪菜という少女は、本来はとても感情豊かで愛らしい人物だった。
誰よりも喜び、誰よりも怒り、誰よりも悲しみ、誰よりも楽しむ。忌野は、あれほど美しい女性をほかに知らない。
しかし、いつからだろう。雪菜が頑なに感情を閉ざしてしまったのは。
……いや、考えるまでもない。自然公園で見たとき、雪菜は猫のカタチをした式神を行使していた。雪菜ほどの能力を持った陰陽師ならば、さらに高位の式神を操れるだろうに。
「やっぱり――まだ引きずってるんだね」
恐らく雪菜は、いまだ猫という動物に対して贖罪しようとしているのだろう。別にアレは彼女のせいじゃないというのに。強い力を持ってしまった陰陽師ならば当然であり、何より、雪菜は誰かに疎まれようとも必死に陰陽師であり続けたのだから。それだけだったのだから。
そのとき、遠慮がちにノックがされた。
「んー? だれかなー?」
忌野が回転椅子に腰掛けたまま問うと、失礼します、と声がして人影が見えた。
入室してきたのは和服を着た長い黒髪の少女だった。和を強くイメージさせる容姿は、精巧に作られた日本人形を連想させる。夜のような黒髪と、月のような白肌は、きっと雪菜の中に半分だけ流れる鮮遠家の血の影響だろう。
雪菜は部屋の中央まで歩み寄る。
忌野とすこし距離を置くような感じだった。
「……こんにちは、忌野くん」
ぺこりと頭を下げる様子は、どこか弱々しく見えた。
「なんだ、雪菜さんか。ていうかさ、もう夜なんだから、こんにちはじゃなくて、こんばんはだろう?」
「……そうでしたね。ごめんなさい、忌野くん」
「別にいいけどさー」
回転椅子を楽しげにクルクルと回す忌野に対し、雪菜は所在なさそうに視線を彷徨わせていた。
「それで、何の用かな? ……あっ、まさか俺っちに抱かれに来たとか? ひゃー! 雪菜さんってば清楚な見た目に反してエッチなんだねー。でもそこがまたイイっ! って感じだね」
「……はい」
気の抜けたように返事をする。
「……あのさ、雪菜さん。俺っちの話聞いてた?」
「――えっ? あの……ごめんなさい。もう一度言っていただけますか?」
「はあ、もういいよ」
同じネタをもう一度しろ、と言われた芸人の気分だった。
「……ごめんなさい」
忌野が呆れたようにかぶりを振ったのを見て、雪菜はふたたび頭を下げた。腰まで伸びた絹のような黒髪がぶらんと垂れる。
「別にいいって、だから謝らないでよ雪菜さん。俺っちたち、幼馴染じゃんよー」
「幼馴染――ですか。……それを言うなら、どうしてあのとき」
悲しげに唇を噛む雪菜。
それを見て、忌野は心臓を鷲掴みにされたような痛みを感じた。雪菜にあんな顔をさせてしまっているのは、他ならない自分が原因だと――そう分かっていたから。
「……すまない。俺が謝罪したところで君は笑ってくれないだろうが、それでも――ごめん」
椅子から立ち上がり、軽薄な態度を潜め、腰を直角よりもさらに曲げて、頭を下げる。
その突然の行動は、雪菜を慌てさせるだけだった。
「そんな――! 頭を上げてください、忌野くん。……貴方が気に病むことではありませんから」
「……君がそう言うなら、俺は頭を上げよう。でもこれだけは言わせてくれ。俺が四年前に言ったあの言葉は――今でも変わっていないよ」
「っ――」
雪菜は微かに頬を赤くして俯いた。
言葉が途切れた部屋には、機械のファンの低音だけが木霊していた。
「さーてっ! 気を取り直そっか、雪菜さん。俺っちに何の用があって来たのかなー?」
再び回転椅子に腰掛けて、忌野は子供のように笑った。
それを見た雪菜が、ほっと安心したように一息をつく。場の空気を明るくしようと大げさに言ったのが功を奏したようだった。
「……いえ、用というほどのことではありませんよ。ただ忌野くんは青天宮に出向しているのだな、と思いまして」
「まあ家が家だからねー。それに給料も悪くないし、休みだって安定……はしてないが、少なくはないしね。なにより忌野家に生まれた以上は、退魔に生きるのが努めってやつさ。それより俺っちは雪菜さんに聞きたいね。凛葉家を離れて、君はこれからどうするつもりなんだい?」
その問いに、雪菜は言葉を詰まらせた。
「陰陽道本家であり、十二大家の一つとまで数えられる鮮遠家。その本流から唯一派生した分家が、凛葉家だ。陰陽師の能力を左右するのは、結局のところ才能でも鍛錬でもなく、血の濃さ――つまり生まれだ。おまけに雪菜さんの母君は、鮮遠家直系の方だよね。そんな、血筋にも、才能にも、容姿にも、頭脳にも恵まれた君だ。俺っちなんて高が知れてるが、雪菜さんがその気になればもっと多くの人間を救える。陰陽師としての素質で言えば、君は青天宮でも随一だろう。にも関わらず、雪菜さんは自身の生まれを忘れようとするかのように、この街で平凡と暮らしている。
――それとも何かな? まだ年端もいかない、白雪ちゃんに凛葉家の家督を背負わせる気なのかな?」
「……白雪は、幼いながらも自分の考えを持った子です。私などいなくても大丈夫でしょう」
「果たしてそうかなー? 俺っちは一ヶ月ほど前にも白雪ちゃんに会ったが、ずっと聞いてくるんだよ。『お姉さまはどこにいるんですか? 白雪がいい子にしていたら、お姉さまは帰ってきてくれるのですか?』ってね」
「そう、ですか」
悲しげに瞳を伏せる雪菜を見て、忌野は正直なところ――嬉しかった。
あの美しい少女を問責したことが、ではない。ただ雪菜が表情を表に出していることそのものが喜ばしかったのだ。
二人が最後に会ったのは、今から数えて数年以上前のことになる。そのときの雪菜は容姿もそうだが、感情をまったく顔に浮かべず、文字通り人形のようだった。しかし忌野は、雪菜が心の中でいつも泣いていたのを知っていた。
――知っていたのに、何も出来なかった。いや、何もしようとしなかったのだ。
だから忌野は嬉しかった。かつての雪菜なら、今のように辛そうな表情を浮かべることもなかっただろうから。
「……変わったね、雪菜さん」
口から出た声は、自分でも驚くほどに優しいものだった。
「忌野くんこそ、変わりましたよ」
返ってきた言葉は、真実驚いているようだった。決して無表情などではなく、決して淡々となどしていない。まあそれも昔に比べればの話で、人よりは抑揚のない口調には違いないのだが。
「いやいや、雪菜さんのほうが変わったって」
「いえ、絶対に忌野くんのほうが変わりましたよ」
「それだけは認められないねー。雪菜さんなんてびっくりするぐらい変わったから」
「そうですか? 参考までに聞きますが、どのあたりが」
「うん。びっくりするぐらい、綺麗になったよ」
「な――」
躊躇いもなく紡がれた賛辞の言葉。
雪菜の頭が真っ白であるだろう内に、忌野は追い討ちをかけるように続ける。冷静になる間を与えないつもりだ。
「もしかして、あの白い髪の男のおかげなのかな?」
椅子から立ち上がり、困惑を浮かべる雪菜に向けて、ゆっくりと歩み寄っていく。
「――し、士狼さんのことですか?」
「そうそう、その士狼さん。君が変わったのも、全部あいつのおかげなのかなーと思ってさ」
なおも接近する忌野を前にして、雪菜は一歩、二歩と脚を下げていき、やがて逃げ場を失う。部屋の壁に行き当たってしまったのだ。
「今は士狼さんのことなど関係ないでしょう……?」
「関係あるね。いちおう聞いておくけど雪菜さん、まさかあいつに惚れてないよねえ?」
「……私は、士狼さんのことなんて」
背中を壁にくっつけたまま、雪菜は上気した頬を隠すように俯いた。
――それを見て、心の中に負の感情が湧きあがってくる。
「じゃあさー、なんでほっぺたを真っ赤にしてるのかな? 好きじゃないんだったら冷静に否定できるはずだよねー?」
「っ――」
「雪菜さんが勘違いしないように教えておいてあげるよ。いいかい、男って生き物はさ、醜くて愚かなんだよ。別に愛していなくても異性を抱けてしまうんだ。だから、もしも雪菜さんがあいつに優しくされたとしても、それは親愛じゃないかもしんないよ。士狼さんの考えは多分こうだ。凛葉雪菜という女は、世間知らずで箱入り娘のお嬢様だから、ちょっと甘くしていればすぐに股を開くかもしれない――てね」
壁際に追い詰められた雪菜を前に、忌野は唇を歪ませた。それは――嘲笑。
そこで初めて、雪菜は頬を怒りによって赤くした。
「……忌野くん。訂正してください。貴方が何を言おうと構いませんが、先の発言だとは聞き捨てなりません」
身体を震わせながら静かに告げる。
顔を俯かせているせいで、長い前髪が双眸を覆い隠し、表情が伺えなかった。
「何度でも言おう。雪菜さん、君はただ利用されてるだけだよ。もっと正確に言うなら……そうだね。例えば、もしも雪菜さんが醜悪なルックスだったとしたら、きっと声すらかけられていなかったろう」
「違いますっ! 士狼さんは――」
「あぁ、ひょっとしてあれかな? もしかして雪菜さんってば、もうあの男に身体を許しちゃったとか? なるほどねえ、だからそこまで庇えるんだねー。いやぁ、手の早い男は――」
言葉はそこで止まった。
否、止めざるを得なかった。
ニヤニヤと笑いながら問い詰める忌野の頬――そこに向けて、強烈な平手打ちが放たれたから。
「……私はいいです。でも、士狼さんに暴言を吐くことだけは、たとえ忌野くんであっても許しません」
憤怒をビンタという形で発散したからか、雪菜の呼吸はひどく乱れていた。
忌野は叩かれた頬を押さえて、なおも続けて言う。
「ふーん、やっぱり。そこまで怒るってことはもう抱かれちゃってるんだねー」
「っ、忌野くん――!」
冷静を欠いた雪菜の行動は、生まれたての幼児のように安直だった。ただもう一度、巻き戻されたビデオテープのようにビンタを打つだけ。同じ利き手で、同じ軌道で、同じ力で、同じタイミングで。
だから、それを阻止するのは容易かった。まさに赤子の手を捻るように。
「駄目だよ雪菜さん。いくら怒っても暴力に訴えちゃあ。……この場合ってさぁ、先に手を上げたのは雪菜さんなんだから、何をされても文句は言えないよねえ?」
振るった右手を、忌野の左手によって掴まれた雪菜は、咄嗟にもう片方の手――つまり左手で彼の頬を打とうとする。
しかしいくら優秀な陰陽師といっても、雪菜は非力な女性なのだ。それも相対するのは幼少のおりから剣術を学んできた忌野だ。
高速で薙がれる竹刀すら視認して受け止める忌野にとって、雪菜の平手など止まってさえ見える。
「あーあ、酷いことするね。凛葉家のお嬢様が男に手を上げるなんて。母君が聞いたら泣くよー? お転婆に育っちゃったー、ってね」
「忌野く――痛っ」
雪菜の細い両手首を片手で鷲掴みにし、その頭の上で固定する。万歳に似た格好だからか、締まりのない和服の袖が肩口まで垂れ下がって、白い二の腕が見えた。
この場で自由な腕は、忌野の左手のみだった。
「……もし、あの男に抱かれてしまうぐらいなら」
いっそ俺が――と、言葉を続ける。
忌野は、雪菜の美しい黒髪を撫でていく。
「今更だけど、さっきまでのは冗談だ。凛葉家のお嬢様である君がそんなに尻軽なわけないよね。……でも、だからこそ、一度抱かれた男には生涯尽くそうと思うんじゃないかい
?」
「……な、なにを」
耳のあたりから胸元までの髪を撫でたあと、今度は露出した二の腕に触れる。
「――っ、やめて、ください……!」
「そういえばさー、二の腕の柔らかさと、女性の胸の柔らかさって同じぐらいらしいよ。つまりこれって、間接的に雪菜さんの胸に触れてるってわけだよねー」
両腕を固定されているせいで、雪菜に許された反抗といえば、顔を背けてしまうか、否定の言葉を持つぐらいだ。
小鹿のようにぷるぷると震える身体は、きっと異性から触れられる感覚に慣れていないからだろう。よく見れば雪菜の腕が粟立っている。どうにも嫌われているらしい、と忌野は内心で自嘲した。
やがて、雪菜の顎に手を添える。
不安と恐怖に揺れる瞳は、男にとっては扇情的なだけだった。
「雪菜さん。四年前に俺が言ったこと――覚えてるか」
「…………」
「忘れていてもいい。君が思い出せないのなら――俺が」
思い出させてやる、と続けて顔を近づけていく。
――そして、唇が交差する瞬間、忌野は動きを止めた。止めざるを、えなかった。
「っ――!」
瞳を見開いて、現実をしっかりと受け止めようとする。……それも当然。
なぜなら――雪菜の瞳からは透明の雫がこぼれていたから。堪えようとしていたのだろうが、それでも抑えきれず、決壊したように涙を流していたから。
確かに雪菜が感情を発露させていることは嬉しかった。それが喜怒哀楽のどの感情でも構わない。ただ昔のように――持ち主からも存在を忘れられたような、そんな人形のような姿でなければ何でもよかったのだ。
でも違うだろう、と忌野は思った。
こんなの絶対に間違っている、と忌野は考えた。
なぜ自分が――あのときと同じように、雪菜を泣かせているのだ――と我に返ったのだ。
少なくとも自分が見たかったのは、悲しみの涙ではなく、喜びの笑顔ではなかったのか――
「……ごめん」
雪菜を解放して、背を向けたあとにそう呟く。
言葉の途切れた部屋には、機械のファンが唸る音と、雪菜の荒い吐息――そして微かな嗚咽だけがあった。
「ごめん。ごめん。ごめん」
沈黙がイヤで何度も謝罪した。
黙っていると責められている気がして。
雪菜の泣き声が、嫌いだ、と告げてくるような気がして。
「……いえ、だいじょうぶ、です」
和服の袖で幾度も瞳をぬぐいながら雪菜は言う。……許そうと、してくる。
――それがイヤだった。まだ罵ってくれたほうが百倍マシだったのだ。そうじゃないと、泣いている雪菜と釣り合いが取れない。だから、ここで優しくされると果てしなく惨めなのに。
「……ちょっと頭を冷やしてくるよ」
いたたまれなくなった忌野は、大禍時を引っつかみ、足早に部屋を出ようとする。その際に、雪菜の真横を通り過ぎるのは必然だった。
すれ違う間際――見たくもないのに、見えてしまう。
震える唇、
濡れた瞳、
微かな嗚咽、
赤くなった頬と、そこに罪の烙印のように刻まれた涙の筋――
不謹慎なことだが、忌野は、雪菜の泣き顔を見て抱きしめたい衝動にかられた。それほどまでに雪菜が泣いている姿は愛らしく、儚く、そして美しいものだったから。ここで問題があるとすれば、今の自分にだけは彼女を抱きしめる資格がないことだろう。
「――ごめんな、雪菜さん。やっぱり……俺が君のとなりに立つのは、相応しくないみたいだ」
最後に聞こえるか聞こえないか程度の小さな声でそう告げて、忌野は部屋を出た。扉を完全に閉め切ってしまうまで――雪菜の嗚咽が、耳から離れることはなかった。
「ふう――――、ん?」
廊下に出た忌野は、一人の男を見つけた。
壁に背中を預けて、腕を組み、まるで自分を待ち構えていたようにこちらを見る――白い髪の男を。
その男――宗谷士狼は、忌野をみとめると脚に力を込めて垂直に立つ。そして歩み寄ってきた。
「よう、なんか辛気臭い顔してるな。忌野」
まるで旧友と再会したように気さくだった。
忌野は内心を探られているような気になって眉を潜める。さきほど士狼と会話していたときは自分が有利に立っていると思っていたのだが、今は、逆にこちらが観察されているような気分だった。
「……べつに何でもないって。さって、俺っちはちょっくら外の空気を吸ってくるわー。あんたも自由に行動してくれていいけど、指定時間には遅れないでねー」
大禍時を脇に抱え、忌野は学ランのポケットに手を突っ込みながら、士狼とすれ違うようにして歩いていく。
視界から白い髪が見えなくなった瞬間――背後から剣呑とした声がかけられた。
「忌野さんよ。お前が何をしようが俺は構わない。むしろ応援するぐらいだ。とっととこの街にいる妖を倒してくれってな。
――でもよ、これだけは覚えとけクソガキ。俺の大切な家族を傷つけることだけは絶対に許さねえ。雪菜をもう一度泣かせてみろ。冗談抜きでぶっ殺してやるからな」
すべてを見透かされているような気がして、忌野は息を呑んだ。
「……何を言ってるのか分かんないね。どうして雪菜さんが泣いてるって思ったのかな?」
意思とは無関係に脚が止まる。
忌野は振り返ることなく、誰もいない廊下の先を見つめていた。
「隠すなよ。バレバレだって。お前と雪菜が単なる仲良しこよしじゃないってことは、ちょっと見れば誰でも分かるだろ。しかも俺が部屋を出て行ったタイミングを見計らって、雪菜がお前んとこに行ったんだ。この時点で明らかに楽しい話じゃない。つまりそれは、他人には聞かせられない話って可能性が高いからな。そうだな、例えば……青天宮とかいう組織のことか、もしくは俺の知らないお前らの過去のことか。さすがに話題自体を特定はできねえが、大方そんなところだろ」
淡々と放たれる言葉の羅列。
――いい勘してるねえ、と忌野は心の中で呟いた。
「探偵ごっこが好きなんだねー、あんたは。でもだからといってさ、雪菜さんが泣いてたって理由にはならないんじゃない?」
「理由だと? ……お前は周防以下の芸人だな。冗談がつまらなさすぎる。――忌野、おまえ鏡で自分の顔を見たか? 季節外れの紅葉が咲いてるぞ」
指摘されるが早いか、頬に手を当ててみる。
いまだに痺れるような痛みを持ったそれは、雪菜に平手を打たれたからだ。あまりに遠慮なく叩かれたからか、なかなか治まってくれない。
きっといい感じで赤くなっているのだろう。
「廊下にいても聞こえてきたぜ、誰かさんがビンタされる音が。もしお前が雪菜に手を上げたんだとしたら地獄を見せてやろうと思ってたんだが、さすがに女に手を上げるほど落ちぶれてはいないみたいだな。その点は安心した」
「そりゃあどーも。俺っちって、こう見えてもフェミニストなのよ。だから――」
「――女が泣いてたら、泣き顔を見てしまわないようにと部屋を出る、か?」
やりづらい男だ――忌野は舌を打つ。
その間の沈黙を肯定と取ったのか、士狼はなおも続けた。
「お前が先に部屋から出てきた時点で確信したよ。もし雪菜が泣いてねえんだったら、いま俺と話していたのはお前じゃなく、あいつだったはずだ。雪菜は自分の弱みを進んで見せたがるような女じゃないからな。とすると、涙が止まるまでは独りになろうとするだろう。そんなヤツが人とすれ違う可能性のある廊下になんざ出るわけがない。
ついでに言えば、その部屋には妖の討伐作戦に必要な情報がたんまり詰まってるんだろ? さっきまで熱心にパソコン弄ってたみたいだしな。……なのに、だ。数時間後に大事な試験とやらに挑もうとしてるお前が、わざわざ部屋を出たんだ。要するに、雪菜の代わりにてめえが部屋から出てきたことこそが、何よりの証拠だよ」
「……なるほどねえ」
「正解だろ?」
「……さあね。そう思うなら自分で確かめてくればいいだろー? あんたには――そうするだけの資格があるんだからさ」
これでもう話すことはない。
雪菜が泣いている――という確信を得た士狼が何をしようと忌野には一切関係のないことである。
例えば、あの朝露のような涙を拭ってやっても、泣き止めと強く抱きしめても、最悪その場でベッドインしても――それを雪菜が望むのであれば、忌野には止める権利などないのだ。
呆れるほどの昔、まだ男と女の違いが身体に現れるよりもずっと昔から、誰よりも雪菜を見てきたからこそ分かる。彼女の想いが誰に向いているのか、それがどれほど強固な想いなのか。分かりたくなくても、分かってしまうのだ。
今だけは、あのサトリの少女の気持ちが理解できる。
誰かの心が読めてしまうというのは、なんて便利で、なんて爽快で、そして――なんて残酷なのだろうか。
「じゃあねー。餓鬼の相手はあんたに任せたよ。雪菜さんもいることだし、死んじゃうことはないよねー。扱えるかは知んないけど、拳銃の携行許可証をもぎとってきたから、オートマチックのならあるよ。――だから、ねえ士狼さん? 雪菜さんを……守ってくれよ」
背中越しに、ばいばーい、と手を振って、忌野は廊下を歩いていく。
――なるほど。なんとなくだが、雪菜があの男に好意を持っている理由が分かった気がする。
悔しげに唇を噛みながらも、しかし忌野は認めたのだ。
優しさと鋭さと強さの三拍子を兼ね揃えた、童話に登場するヒーローみたいな男。
去り際、忌野はふと思い出した。
――そういえば雪菜さんって、昔から土壇場で助けに来てくれる王子様とかが大好きだったよなー、と。
そして来る午前零時。
各々の胸に去来する感情など関係ない。時間は待ってなどくれないのだ。
彼らはそれぞれ二人一組となって別行動を取り、夜の街を闊歩することになった。
一組目――ニノとシャルロットの、人狼と吸血鬼ペア。
二組目――宗谷士狼と凛葉雪菜の、傭兵と陰陽師ペア。
三組目――これは例外的に忌野のみ。ただし大禍時を所有していることを踏まえれば、独りで十分だと言えよう。
あえて宣言しよう。
――ここに、泡沫な夜の悪霊退治が幕を開けたのだった。