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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
第四月 【守る物、護る者】
57/87

其の五 『退魔』①

 俺はここ最近、とうとう世界の心理というものに気付いてしまった。

 論文を書いて発表すれば賞を取れるんじゃないかと思うほどだ。……まあ実際には、入賞どころか賛辞すらないだろうが。

 『二度あることは三度ある』、『一難去ってまた一難』などなど。実に素晴らしい言葉たちである。俺は、これほど的確なことわざを他に知らない。

 つまり――面倒事というのは往々にして、連続して崩れるドミノのように連鎖するのが常ということ。一難が一難を呼ぶという意味では、類が友を呼ぶと言い換えても間違いではない。

 黄昏による赤い斜陽に染まった自然公園、その真円の広場で、俺たちは人外の存在に襲われた。それは伝承に記載されている”鬼”に酷似した姿を持つ、文字通りの意味でのバケモノだ。

 赤黒い体躯、肥大化した筋肉、禍々しい二本の角、獣を思わせる唸り声、と。それは一から十まで、人間を威嚇するためだけに形成されたようなパーツだった。

 餓鬼には、俺やニノの常識――つまり物理的な攻撃が効かない。もっと正確に言えば、物理的ダメージによって弱らせることはできるが、それだけなのだ。餓鬼を倒すには存在そのものを昇華――雪菜たちは”祓う”と言っていた――しなければならない。

 それを可能とするのが退魔の力だ。人間が人間を殺すためだけに千年単位で殺人術を磨き上げてきたように、退魔家業の者たちは悪霊や妖を祓うためだけに業を編み上げてきた。

 正直な話、俺には縁遠い世界だと思っていたのだが、どうも今回の件によって関わりを持ってしまったみたいだ。

 ……幽霊とかって、あんまり好きじゃないのだが。

 しかし、うだうだと言っていられないのが現状である。とにかく文句は全て後回し、まずは事態の把握と解決に努めようと思う。

 ――餓鬼を一刀の元に葬り去った男、名を忌野いまわのというらしい。

 ハリネズミのように逆立った黒髪と、着崩した真黒の学ランが特徴的な、十代後半程度の男だ。恐らく高校生あたりだろう。だって普通に制服着てるし。まさかコスプレなんてことはないだろう。もしあの学ランがコスプレだとしたら、俺はヤツを第二の周防と呼ぶことにする。 

 どうも忌野と雪菜は古い知り合いらしかった。互いにぎこちなくも、それぞれの深い事情を理解しているような。

 俺とニノは言葉なく見守るのが精一杯だった。というよりも、会話に入ってしまっていいものか、非常に悩む空気が出ていたのである。それは一触即発のような、触れれば弾けてしまいそうな緊張感に似ていた。

 やがて話がまとまったのか、雪菜は俺たちのほうに歩み寄ってきた。

 要約すると、忌野とやらが、俺たちに詳しい事情を聞きたいとのことだった。餓鬼に襲われた経緯、他に異常なモノは見なかったか、そして――こころという少女について。

 忌野の態度があまりにもヘラヘラとしていたので、突っぱねてやりたい気持ちもあったのだが、向こうからも情報を提供してくれるという条件で、俺とニノは頷いたのだった。

 腰を落ち着けて話せる場所――模索した結果、暦荘にある大家さんの家の一室、つまりニノの部屋が選ばれた。理由としては、簡単には邪魔が入らないだろうし、家具もないので大人数を収容できるからである。

 五人でそそくさと帰路につき、俺たちはニノの自室に到着した。

 本当に空っぽ、これといって特筆することのない空虚な部屋だった。床は一面畳張りであり、縁側に続く部分には安っぽい障子が張られている。

 だが家財道具が一切無いおかげで、部屋自体の魅力が存分に伝わってくる。これぞ日本、と呼ぶべき純和風。やはり畳や障子は素晴らしいものがある。……と、頑張ってお世辞を言ってみたが、ここまでが限界だった。

 人数分の座布団を敷き、それぞれが腰を下ろす。いまだ気を失ったまま眠るこころは、部屋の隅っこのほうにタオルケットをかけて寝かせておいた。

 忌野だけが座ろうとせず、障子の近くに腕を組んで立っていた。片時も日本刀を手離したくないのか、脇に抱えるようにして持っている。

 外はすでに暗い。俺たちがこの部屋に到着したころには、すっかり日が沈んで夜になっていたのだ。

 本格的な闇がやってくるのも時間の問題だろう。


「――いやー、それにしても驚いたよ。まさか雪菜さんに会えるとはね」


 鋭い目つきで外の様子を伺っていた忌野は、しかし振り向くと同時に軽薄な仮面を被っていた。

 座布団の上に行儀よく正座した雪菜は、肩が大きく落ちるほどの深いため息をついた。

「……変わりましたね、忌野くん。まるで周防さんみたいになってます。昔は――もっと」

「もっと、なにかな? そこから先を言うのは止めようよ、雪菜さん。俺っちはさ、これからの人生を楽しく生きたいんだよーん」

「……分かりました。それに今は、過去の話について花を咲かせる場合ではありませんし」

 にはは、とガキみたいに破顔する忌野に対し、雪菜は冷めた表情で虚空を見つめていた。

「うーん、でもちょっと失敗したかなぁ。俺っちとしたことが、うかつなことしたみたいだわ」

 ニノの部屋に忙しなく視線を這わせながら大げさに言う。

「ちょっとアンタねえ。忌野だか何だか知らないけど、人の部屋をジロジロ見たあげくに失礼なこと言うの止めてくれる?」

「おっとっと、それはごめんよ。確かキミは――ニノさんだっけ? いやいや、雪菜さんもそうだが、キミも大した美人だねえ。……どうかな? 今回の一件が片付いたら、俺っちと一夜をともにしないかい? 天国に連れていってあげるよ?」

「お生憎様、予約済みよ」

「そいつは残念。ちなみに誤解のないように言っておくと、別にキミの部屋が気に入らなかったわけじゃないよ。ただ――この暦荘という場所がまずいんだ」

「――? どういうことよ」

「俺っち個人の感情としては、むしろ日本の風情を強く感じられて大好きだな。でも問題は、場所じゃなく、所有者に・・・・ある。だって、この暦荘の大家って、あの十二大家の高梨なんだろう?」

 忌野の口元は楽しげに歪んでいたが。

 その瞳が笑っていないことを、俺は知っていた。

「はあ? なによそれ」

 ニノが、結論から言いなさいと鼻を鳴らす。

「まあ簡単に言えば、高梨家はお偉いさんの家系だから迷惑はかけるなって上から言われてるんだよ。特に高梨家の現当主である光葉こうよう氏の妹、高梨沙綾といえば歴代でも随一の秀才――いや、天才と名高い才女だ。一説によれば、彼女が高梨家を継ぐという話さえあったそうだよ。まっ、なのに現在はしがないアパートの大家をしてるっていうんだから、お金持ちの考えることは分かんないよねー」

「大家さんのことは分かったけど、その十二なんちゃら……だっけ? それはどういう意味?」

「どういう意味って言われても答えに困っちゃうなぁ。十二大家じゅうにたいけとは、書いてそのままの意味で、とある十二の家柄を指し示す呼称だよ。

 九紋くもん高梨たかなし鮮遠せんえん姫楓院きふういん如月きさらぎ月夜乃つくよの朔花さくばな斑瀬まばらい碧河あおがわ高臥こうがさそざき御巫みかなぎの合わせて十二だ。俺っちのような裏家業を営む人間は、これらを括って十二大家と呼ぶのさ。まあ簡単に言えば、アホみたいな資産と、バカみたいな権力を持つ名家と思ってくれればいいよ」

「――待って、朔花ですって?」

「ははあ。朔花家は吸血鬼とも馴染みが深いから、さすがに知ってるよねー、人狼のニノさん。いや、それともライカンスロープと呼んだほうがいいのかな?」

「人狼でいいわよ。ここ日本だしね。……それよりアンタ、どうしてウチのことを」

「いや、だって可愛い耳がついてるじゃん」

「――なるほどね、確かにそれは分かっちゃってもしょうがないわね。……ねえ士狼、忌野って結構いいヤツかもしれないわよ?」

 俺に振り返って、ため息とともに呟くニノ。その表情は、まあ胡散臭いヤツだがとりあえず信じてやってもいいんじゃない、と言いたげだった。

 ――しかし俺の目は誤魔化せない。とっても嬉しそうにピコピコと動く獣耳。……まったく、少しは隠す努力をしてほしいものだ。あれは絶対に耳を褒められたから心変わりしたに違いない。

 率直に言うと、ニノは忌野に買収されたようなものだ。

「……はあ。今度また姫神のヤツに言いつけて、あの悪癖を矯正してもらおうか」

 もはやそれしか手段は残されていない気がする。

 ニノの将来のために、俺はあえて鬼になろうと思う。

「――へえ、姫神だって? あの姫楓院家の?」

「ああ?」

 なぜか反応する忌野。そこで初めて視線が交錯する。

 何だか分からないが、因縁の付け合いみたいになってしまった。

「なんだよ、てめえ」

「いんや、別に。ちょっと興味深い名前が聞こえてきたもんで。許してやってちょうだいな」

「…………」

 駄目だ、普通にムカつく。

 あの軽薄な口調もそうだが、忌野の視線に敵意に似たものが込められている気がしてならない。まるで隙あらば噛み付いてきそうな勢いだ。しかも――あのうざったらしい目つきは、俺だけにしか・・・・・・向けられていないのだから尚更だ。

 なにか恨みを買ってしまったのだろうか。……しかし思い返す限り、恨みどころか、俺と忌野は面識すらないのだから掘り返す記憶もすぐに底をついた。

 どうにも手詰まりらしい。

「忌野くん、無駄話はいいでしょう。そろそろ本題を話してくれませんか?」

 じっと正座したまま状況を傍観していた雪菜が、会話が途切れたタイミングを見計らって切り出した。

「そうだねー。まあ俺っちもあまり長居はしたくないしね。手短に説明を済ませるとしようかな」

 忌野は障子の外に視線を向けた。

「――最近この街で殺人事件が起こったことは知ってるよねえ?」

 揃って頷く。

「だよなー。どうも”軌跡処理班”の手際が悪かったようで、水面下で情報が広まっちゃってるんだよねー。おかげで今回の作戦も大規模なものになっちゃったのよ。いくら予算がかかったかなんて、俺っちごとき下っ端じゃあ計算するのも恐ろしいね。

 知ってるかい? この街はすでに青天宮によって封鎖済みなんだよ。各所には検問が置いてあるし、何より――街全体を覆う大規模な結界の準備もしてある」

「っ――忌野くん、街を結界で覆うなんて――!」

「落ち着きなよ、雪菜さん。別に今すぐ発動させようってわけじゃない。一つの街を丸ごと霊的に封鎖してしまうと、場合によっては甚大な被害が出るからね」

 雪菜はなにかに気付いたようだったが、俺と、そして恐らくニノもさっぱりだった。

 もっと噛み砕いて説明してほしいもんだ。さっきから話が分かりにくくて仕方がない。

「おい雪菜、俺たちにも分かるように教えてくれ」

「……そうですね。分かりやすく言えば、結界とは元から有る空間に独自の術式を施すことによって成立するのです。それは言い換えれば、正常な空間に対して、矛盾という名の異常を発生させる行為です。小規模な結界ならば矛盾の修正もすぐに済みますが、街一つを覆うほどのものとなると話は別です。さらに日本中を川のように流れる霊気の流れ――霊脈もせき止めてしまうことになります。つまり最悪の場合……日本という国自体に、何らかの異変が起きる可能性があります」

「雪菜さんの言うとおりさ。だから青天宮も、例の結界をすぐさま発動させようってわけじゃない。それは最悪のケースを想定しての保険だよ。

 ――さて、本題に入ろうか。ぶっちゃけて言わせてもらうと、今この街には強い妖力を持った妖がいる。カテゴリーは恐らくB、悪くてAといった所かな。それで次は、なぜそいつらが人里に下りてきたのかと――」

「待て待て、その前に説明しやがれ。カテゴリーがどうのって言ってたが、それは?」

「妖が持つ力――俗に言う妖力かな、その強さによって分類されたランク分けみたいなものさ。上がカテゴリーSまで、下がカテゴリーGまである。ちなみに、およそ百年ほど前には冠位十二階に倣って色で分類していたらしいよ。紫が最高で、黒が最低ってね。でもそれじゃあ分かりにくいだろー? だからアルファベットに直したってわけさ。そっちのほうが断然分かりやすいと思うだろ? 俺っちって英語得意なんだよねー」

 それから忌野は簡単に説明してくれた。

 基本的に青天宮が出動するのはカテゴリーE以上の妖が出現したとき。それも、確認された妖が、人を殺してしまうような悪事を働いた場合にのみ限定される。程度にもよるが、カテゴリーC以下は数人の陰陽師で祓える程度のものという。

 反対に、カテゴリーB以上になってくると大問題なのだそうだ。長い年月を生きた妖狐などが該当するらしく、一匹で大量の人間を殺せるだけの能力を持つ妖がこれに当たる。

 そして不幸中の不幸なことに、今回のケースが、その大問題なカテゴリーB以上らしい。

「でもまだ妖狐ならマシな方だぜ? もしも”鬼”が相手だったとしたら、カテゴリーA以上は確実だからね」

「そういや、さっきの餓鬼ってのは鬼じゃねえんだよな。外見的にはそれっぽかったが」

「まるで違うね。

 この際だから説明しておくと、鬼って種族は恐ろしく残酷な力を持ってる。さらに本能的な欲求も強くてね。これがどういう意味か分かるか? ……つまり気の赴くままに、食って、犯したってことさ。人間の女をね。それが原因かは分からないが、鬼は数百年前に種族そのものを鏖殺おうさつされている。鮮遠家と九紋家によってね。

 ここで面白い話があるんだよ、俺っちが爺ちゃんから聞いた話なんだけどな。鮮遠家が招聘した選りすぐりの陰陽師五百人に対し、九紋家はたったの十人だったらしいよ。それでほぼ同等の戦果を挙げたっていうんだから、あの九紋の人たちはホント怖いわー。絶対に敵には回したくないって感じだわー。まあ話が脱線したが、あんなカテゴリーDの魑魅魍魎ごときを鬼と呼ぶのは失礼に当たるぜ。

 それに現代において、鬼はもう絶滅寸前なんだよ。詳しい数は分からないが、きっと総数は100にも満たない。しかも大部分が人間と交わっちまった混血の鬼だ。だからじゃないが、純血の鬼――カテゴリーで言えばSに相当するそいつらは、もう5体も現存していないって話だ。しかも九紋家の現当主である女性――名前なんだったかな、髪が栗色だったのは覚えてるんだが、まあいいか。とにかくその人が数年以上前に純血の鬼を一体祓ったって話だ。つまりあと四体ってことだね」

 ……それにしても話がよく脱線する野郎だ。舌の長さも周防といい勝負である。

「とにかく、この街で観測された妖は鬼じゃない――と俺っちは思う。こればっかりは実際に見つけるまでは分からないね。――さて、ここで問題です。その強い妖力を持った輩は、なぜこの街に現れたのでしょうか?」

 突然ニヤニヤと口端を歪めながら、忌野がふざけた口調で問いかけてきた。

 反射的に思案する俺と、ニノと、雪菜と――いや待て。確かにニノは思考に耽っているようだが、雪菜は様子が違う。見ていられないとでも言いたげに細められた瞳。……その視線の先にあるのは――

「……なるほどな」

 ここに来て全てが繋がった。

 この街で猟奇的連続殺人事件が起きたのも、ニノが誘拐紛いにちいさな少女を連れてきたことも、俺たちが自然公園で唐突に襲われたことも。


 雪菜が見つめていた先。

 そこには、タオルケットを身体にかけられて眠る、こころの姿があった――


 俺が理解を示すと同時、忌野は大げさに手を叩いて笑った。

「大正解だよーん。あんたの想像したとおりさ」

「え? ちょっと、どういうことよ。ねえ士狼、なにか分かったの?」

 まだ気付いていないらしいニノが、俺の腕を掴んで揺さぶってくる。

 俺が答えてやろうとするよりも、雪菜のほうが数瞬早かった。

「ニノちゃん。その子ですよ。確か名は……こころちゃん、でしたか」

「……せっちゃん。それってどういう意味」

 獣耳をピンと尖らせ、睨むようにしてニノは聞き返した。

 しかし答えは変わらない。どうあっても真実を捻じ曲げることはできないのだから。

 雪菜はゆっくりと腕を持ち上げて、白い指先で、部屋の片隅を指し示した。――否、そこに眠る一人の少女を。

「――サトリの妖。強い特殊な妖力によって人間の心を読むとされる希少な妖です。基本的には温厚な種族で、青天宮も優先的に保護に回っているほどです」

「そ、それと……こころに、何の関係があるっていうの? 別に害がないなら――」

「確かにサトリ自体に害はありません。しかし彼らは”心”という不明瞭なモノを読むために、類稀な強い妖力を秘めているのです。それも――心臓に貯蔵するように。

 もっと端的に言いましょう。他の妖にとって、サトリの心臓を食らうことは、その莫大な妖力を手に入れることと同義なのです。……だからサトリは狙われる。心を読んでしまうゆえに人間からは疎まれ、芳醇な餌となることから同類である妖にも襲われるのですよ。忌野くんが追う妖とは別に、数匹の餓鬼がこの街にやってきたのもそれが原因です。これで……お分かりいただけましたか?」

 ニノは何も言わなかった。

 つまり――殺人事件が起きたのも、餓鬼が現れたのも、青天宮がやってきたのも、元を正せば全ての原因は……こころにあるということ。あのちいさな少女がこの街を訪れたからこそ、つられて他の妖もやってきたのだ。

「……こころ」

 ニノが儚く揺れる瞳で、こころを見る。

 獣耳は――顔よりも表情が色濃く出るニノの耳は、枯れた花のように縮こまっていた。

「だって……あの子、母親を探してるって言ってたのよ? ……それはどうなるのよ」

「ああ、それは事実と思うよ。きっと妖から襲われて逃げている途中に親とはぐれちゃったんだろう。大丈夫、その子の母親に関しては俺っちたちの方で捜索しよう」

 生きていればの話だが――と、忌野は小さく付け足した。

「……ふざけないでよ。なによ、それ……」

 獣耳は――見たことがないほどに、ピンと尖っていた。


「……ぅ、ん――あ……れ……?」


 そのとき、部屋の隅っこから微かな音が漏れた。

 俺たちの視線が集中する中、気を失っていたこころが目を覚ます。

 まだ寝ぼけているのか、ひっきりなしに瞼を擦っている。ふらふらと頭が揺れる様子は、見ていて心配にしかならない。少しクセのついた黒のおかっぱ頭は、しかしそれが絶妙な可愛らしさを演出していた。

 やがて、こころは自分を見つめるニノに気付く。

 そして。

 言った。


「……? お姉ちゃん。なんで……そんなに悲しそうな顔、してるの……?」




****




 まず初めに言っておこう。……私はちょっぴり怒っているのだ。

 普段は吸血鬼界における淑女代表と謳われるこの私だが、そして、おしとやかで温厚な女の子とも称されるこの私だが、怒るときは怒っちゃうのだ。本当はいちいち文句を言いたくないのだけど、あえて叱ってやろうと思う。

 率直に言うと、私はニノに対して不満があった。いや、断っておくと、別にニノのことが嫌いなのではない。むしろ大好きである。特に、頭部にピョコと生えた獣耳を見ていると、思わずお持ち帰りしたくなるほどだ。

 さて。

 なぜ私がニノに怒っているのかだけど、これには――語るも涙、聞くも涙の深い訳があった。そして恐るべきことに、悪魔のごとき狡猾さで仕組まれた罠があったのだ。

 あれは今でも鮮明に思い出すことが出来る。

 すべての原因、それは――





 その日の朝、私がベッドで眠っていると来訪者があった。

 ここ最近はブルーメンで働きっぱなしだったので、久々のまとまった連休ということもあり、私は一日中を部屋でゴロゴロしようと決めていた。さらに昨日、ニノと遊びに出かけていたので、それなりに身体が疲れていたのだ。

 ドンドン、と扉を叩く音が目覚めた――いや、目覚めさせられた私は、不機嫌になりながらも対応することにした。

 そのときの私はどうも寝ぼけていたらしく、服装はパジャマのままだった気がする。

「……だれぇ?」

 鉛のように重い瞼を擦りながら、私は扉を開けた。

 ドアの隙間から差し込む朝日によって眼が痛む。網膜に取り込む光量を制限しようと、自然と瞳を細める。

「おはよう、シャルロット。元気そうね」

 そこにはやたらと愛想のいい笑顔を浮かべたニノが立っていた。

 いま思えば、その時点で気付くべきだったのだ。普段はわりとクールな表情をしていることが多いニノが、なぜ取り繕ったように笑っていたのか。

「……ニノぉ? どうしたのー」

 睡眠を妨げられた私の声は、すこし無愛想だったと思う。

「どうしたもこうしたも無いわよ。アンタいつまで寝てるの? さっさと準備しないと仕事に遅れるわよ?」

「……んー? どういうことー?」

 眠気によって上手く回らない頭。

 それはきっと、ニノにとっては好都合だったに違いない。

「だから今日は仕事だって。ほらほら、準備して」

「……いや、私は今日お休みだって」

「違うわよ。アンタは今日仕事なの。そうよね?」

「んーん、違うよー」

 呂律が回らない口調で否定しながら、ゆっくりと首を横に振る。

 すると対抗するように、ニノも首を横に振った。

「違わないわよ、そうよね? ――さあ、ウチの言うことを今から復唱してね?」

「よく分からないけど、分かったー」

「私、シャルロットは本日もお仕事です。さあ、続けて言いなさい」

「私、シャルロットは本日もお仕事です……あのさニノ。これって一体」

「まあ黙りなさい。つぎ行くわよ。私、シャルロットは本日、ニノの代わりにシフトに入ります」

「……? 私、シャルロットは本日、ニノの代わりにシフトに入りますー。……えっと、もうこれでいい? 私、眠いんだけど」

 相変わらず頭の中はモヤがかかったように曖昧だった。

 なぜか――ニノは意地悪く笑うと、「ええ、じゃあ頼んだわよ」と言って去っていった。最後に見えた獣耳は、けっこう怪しい動きをしていた。

「……ふわぁーあ、眠いや」

 寝ぼけまなこで狼少女を見送った私は、ふらつく手足に鞭を打ち、玄関扉を閉めた。

 そしていそいそとベッドに潜り込み、毛布を身体に巻きつけて瞳を閉じる。……ああ、なんて極楽なんだろう。天国とは人間が考え出した架空の地だが、もしかしたら意外と近くにあるのかもしれない――と思った、寒い日の朝だった。

 明かりをつけていない部屋が、完全な闇に覆われていないのは、ピンク色のカーテンを透視するようにして差し込む日光のおかげだろう。『真っ暗』ではなく『薄暗い』に留まった部屋は、眠るには最適だった。

 ゆっくりと睡魔に誘われていく最中、私はさきほどの会話を反芻していた。

 一体ニノは何がしたかったんだろうか。適当に付き合ってはみたが、結局最後まで意味不明なままだった。思い返したところで得られるのは納得ではなく疑問だけ。

「……ま、いっか。私には関係ないことだし」

 むにゃむにゃ、と無意識のうちに口から音が漏れる。

 いくら考えても埒が明かなかったので、だんだんと面倒になってきた私は眠ることにした。さっきからベッドが「遊んでよー」とうるさいのだ。だからこれは仕方なく、本当に仕方なくなのだが、惰眠を貪ることに決定しちゃったのだ。

 ――さて、では改めまして。おやすみなさ――

「……待って、ちょっと待ってよっ?」

 眠りの世界に突入しようと頭を真っ白にした途端、脳裏によぎるものがあった。

 見逃していた違和感に気付いた私は、勢いよく上半身を起こした。

 ――さっきニノはなんと言っていた? ……だめだ、寝ぼけているせいか頭が回らない。でも頑張れば思い出せそうな気配もあるので、私はベッドの上で胡坐をかき、両腕を組んで唸ってみた。

「……たしか。私、シャルロットは本日も……えっと、お仕事です……だったっけ」

 これで合っている確信はないが、自信はあった。

「あと――私、シャルロットは本日、ニノの代わりにシフトに入ります、かな。……うん、なんとか思い出せたみたい、よかったよかった。じゃあスッキリしたことだし、もう一度夢の世界へ…………て、あぁっ!?」

 そこで初めて私は気付いた。

 もしかしてこれは――ニノの罠に嵌まってしまったんじゃないかと。

 念のために確認しておこうと思った私は、慌ててブルーメンに電話してみた。そして用件を告げようとするよりも早く、マスターは楽しそうな声で私に言った。「ニノくんの代わり、ご苦労様だねえ」と。

 これが今朝起こった悪夢のような罠の一部始終であった――




 そんなこんなで私は怒っていた。

 いちおう仕事中は笑顔を心掛けていたけど、内心では、帰ったらニノに文句を言ってやろうという気持ちで一杯だった。

 それにしても考えれば考えるほどに酷いと思う。だって私の休みを台無しにされたあげく、朝から夕方までの労働を強いられたのだ。働くことが嫌いなわけじゃないけど、今回は別だ。なんだかニノに踊らされたみたいで、微妙な気分になる。

 私が暦荘についた時には、すっかり日が沈んで夜になっていた。時刻にして午後七時半ほどだろうか。薄暗くなったとはいえ、時間が時間だけに、人通りはそこそこあった。時折すれ違う近所の主婦の方々に会釈などをしながら、私は大家さんの家に向かった。

 ニノの自室は、八畳程度の大きさを持った純和風の部屋だ。これは余談だけど、あの狼少女が住み着く前は、私の密かな癒しスポットだったりもした。

 怒り心頭に発しながらも、持っていた合鍵(日常的に家事を手伝っている私は鍵を預かってるのだ)を使って家にお邪魔する。電灯がついていないところを見ると、どうやら大家さんは不在らしい。 

 ……しかし不思議である。家主がいないのも関わらず、なぜか家の中からは複数人の気配がするのだから。

 色々と細かい可能性が思い浮かんだのだが、ニノをとっちめることを優先していた私は違和感を無視した。大股でずんずんと縁側に出て、そのまま道なりに歩いていくと、障子の奥から明かりが漏れていることに気付いた。

 どうもニノは部屋にいるらしかった。

「……ふふふ」

 思わず怪しい笑みがこぼれてしまう。

 今度ばかりは覚悟してもらおう。さすがの私も一発ガツンと言ってやらないと気が済まない。ニノの自由奔放さは理解していたつもりだが、いくらなんでも度が過ぎている。このままでは悪い子に育っちゃうかもしれないから、お姉さんである私が説教してあげよう。

 障子に手をかけ、すーはーと深呼吸する。

 ――これで全ての準備は整った。あとは威風堂々と登場して見せるだけだ。


「――さあ、ニノっ! 私は帰ってっ! ……きた……よ?」


 尻すぼみになる声は、同時に疑問のようでもあった。

 それも当然。

 勢いよく障子を開いた私の眼前――そこに広がる景色は、予想の斜め上などという言葉では生ぬるいほどに理解不能だったのだから。

 慌てても始まらない。冷静に考察してみよう。

 まず部屋の中にいるのはニノを含めて五人だった。士狼と、雪菜と……あとの二人はよく分からない。水玉模様の浴衣を着たちいさな女の子と、真黒の学ランを着た十代後半程度の青年。どちらもまったく見覚えがなかった。

 それだけならばいいのだが、どうも雰囲気と様子がおかしい。

 ニノが獣耳をピンと尖らせていて、士狼が顎に手を添えて思考していて、雪菜がやる瀬なさそうに瞳を伏せていて、浴衣を着た女の子が首を傾げていて、学ランを着た青年が肩を竦めていた。

 明らかに剣呑とした様相だった。少なくとも談笑していそうな気配は微塵もない。むしろ突然誰かが泣き出してもおかしくはないほどに陰鬱である。

 ――ぼんやりと状況を観察する私に、その五人の視線が突き刺さった。

 なんとなく存在そのものを否定されたような気になって、いたたまれなくなった私は退散を余儀なくされた。

「……あはは、失礼しましたー」

 愛想笑いを浮かべながら頭を下げたあと、ゆっくりと障子を閉めた。

 くるりと背を向けて、首を傾げてみる。

「どうなってるんだろ。なんか分かんないけど、空気がピリピリしてたような……」

 怖くなった私は、なぜか縁側の隅っこにしゃがみこんだ。自分でも自分の行動が分からなかったのだから、なぜか、とくっつけたのは正解だろう。

「……ぅぅ、分かんないよー」

 とても気にはなるのだが、もう一度あの空間に飛び込む勇気もなかった。まるでドラマの中に童話の登場人物が迷い込んだみたいに場違いだった。でも無視することもできそうにない。だって――大事な友達であるニノが、とても辛そうにしていたから。

 時間にして恐らく一分ほどだろうか。わたしが頭と膝を抱えて丸くなっていると、障子の開く音がした。


「――おい、バカ吸血鬼。そんなところでなにしてんだよ」


 耳に馴染みのある、ぶっきらぼうな声。

「……え?」

 振り返る。

 そこには――

「え、ってのは俺の台詞だ。そんな隅っこで丸まりやがってよ。お前の頭の中って絶対ワンダーランドだよな」

 仕方ねえなぁ、と苦笑を浮かべた宗谷士狼の姿があった。

 ……それにしても、である。

 頭の中がワンダーランドっていうのは、とても酷い悪口じゃないかと思う。

 まあ……そんなことを言われて気分が悪くならない私も、人のことは言えないのだけど。




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