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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
第四月 【守る物、護る者】
56/87

其の四 『忌野』



 ――精神が、細く、細く、どこまでも伸びていくような感覚。

 ――自分はここにいるのに、けれど、ここではない場所にいるような錯覚。

 それは正しい。

 彼女――凛葉雪菜はたしかに自室にいるのだが、その意識自体は、こことは異なった場所に向けられているのだから。

 明かりさえつけず、椅子にさえ座らず、身動きさえしない。カーペットの上に足を揃えて正座して、瞳はなにか違うモノを視ようと閉じられていた。

 窓辺からは夕焼けの朱色が差し込み、本来であれば青を基調とした配色である雪菜の部屋を、これでもかと血色に染めている。それはある種幻想的な光景ではあったが、どこか焦燥感に似た感覚をも生み出した。

 そもそも雪菜は、赤い色にあまりいい印象を持っていない。

 禁止の赤、危険の赤、失格の赤、落第の赤、激情の赤、警戒の赤、そして――血液の赤。

 別に嫌いというわけではないが、あえて大好きな色に挙げようとも思わない。むしろ学校の成績表においての赤色は、まさに悪魔のごとき本領を発揮するのだから、そういう意味では最高に疎ましい色だった。

 ――雑念が入った。もっと集中しなくては。

 雪菜はふたたび精神と意識を内ではなく外に持っていく。


 ――っ、眼が合った――


「……見つかってしまいましたね」

 ふう、とため息をついて、雪菜は瞼を開いた。長時間に渡って集中していたせいか、首筋には薄っすらと汗が滲んでいる。

 暦荘からそう遠くない距離に位置する自然公園。雪菜はとある根拠に基づき、密かに宗谷士狼たちの足取りを追っていたのだが、どうも見つかってしまったらしい。とっさに式神を解いて痕跡を消してみたが、気付かれたかどうかは――五分五分といったところだろう。

 なんて人間離れした察知力か。雪菜には絶対に気付かれない自信があったのだが、それでもなお士狼は気付いてしまった。

 ……まるで悪戯をしている子供のようだ、と雪菜は思った。

 こそこそと覗き見のような真似をしているのには事情がある。……べつに士狼とニノが、二人で出かけていることが気になるなどと口が裂けても言わない。

 ――それに、本当の懸念はまた別にある。

 雪菜はもう一度だけ式神を使役し、公園の様子を伺うことにした。

 陰陽師と名乗る者にとって、遠方にある式神と視覚を繋ぐことは容易い。場合によっては聴覚や嗅覚も可能だ。もっとも、一つ、二つと、シンクロさせる感覚を増やすたびに消耗する力の度合いも多くはなるのだが。

 つまり簡単に言うと、この場合の式神とは都合の利く偵察機のようなものだ。雪菜の式神――彼女の場合で言うと、猫のようなカタチをしたものなのだが、それが見た景色を雪菜も視ることができるのだ。

 ――夕焼け、自然、公園、広場、噴水、ベンチ、男、女、宗谷士狼、ニノ=ヘルシング、コーヒー、紅茶――

 あらゆる情報が頭に飛び込んでくる。

 ――子供、浴衣、おかっぱ頭、下駄――

「っ――あの子は……」

 思わず息を呑む。

 雪菜は式神の術式を解き、瞼を開いて、立ち上がった。

「……まさか。なぜこのような人里に」

 どうやら懸念は当たってしまったようだ。

 ――雪菜が異常を感じたのは昨夜のことである。暦荘の敷地内から、微かな妖力を感じ取ったのだ。

 当初は幽霊の類かと思った。それならば無理に祓わず、見逃してやろうと考えていたのだが――

 ニノが連れてきた子供。一見して強い妖力は感じなかったのだが、その少女には、なにか言い知れぬ違和感のようなものがあった。そもそも人間が妖力を持っている時点で――いや、一概におかしいとも言い切れないか。

 人間の中には、稀に霊力ではなく妖力を持って生まれる者もある。原因は不明だ。ただ青天宮の考えでは、妖力を持って生まれた者は、遠い先祖の中に妖がいたのではないかとの説が有力だ。

 一度人間と混じった妖の血はどんどん薄れていくのだが、隔世遺伝のように世代を超えて、妖の血が濃く出るケースもあるのだ。ただしそれは数十万人に一人程度の確率であり、頻繁に起こることではない。

 だから妖力を持った人間を見かけた場合――その多くは、妖が人間に化けているといったパターンだ。力を持った妖狐などは特に気まぐれで、絶世の美女に化けては人里に降りてきて、何人もの男を骨抜きにしたあと、また山に戻っていく――などという悪戯じみた行いをすることがある。

 しかし、今回はまた違うようだ。


 ――あの浴衣姿の少女の正体。

 強い特殊な妖力により、人の心を読むとされる妖――


「……なるほど。確かにこれなら、つられた魑魅魍魎ちみもうりょうが人里に下りてくるのも分かります」

 雪菜は身支度を整える。

 時刻は午後六時――彼女の勘が正しければ、”餓鬼”がそろそろ動き出す。

 士狼やニノではダメなのだ。餓鬼自体の能力は大した脅威ではないが、あの手の輩は、陰陽師のように退魔の力を有した者でなければ綺麗に祓えない。

 ……それにしても青天宮はなにをしているのか。正式に所属しているわけではない雪菜に連絡が来ないのは当然だが、いかんせん動きが遅い気がする。

「もしくは――もう動き出しているのでしょうか」

 呟きに答える声はない。

 それから少しして、凛葉雪菜は暦荘を出たのだった。




****




 じり、と足が下がる。

 眼前――距離にして二十メートルほどの場所には、赤黒い体躯の異形が立っている。こころ曰く、その異形の名は”餓鬼がき”。簡単に言うと、質量を持った悪霊とのことらしい。

 この街において、恐らく最も有名かつ用途の多い自然公園。春には花見、夏には花火、秋には焚き火、冬には雪合戦。若緑が豊富で、決まった遊具が少ないからこそ、季節に応じた自然の彩りにより、大人から子供までが楽しめる場所。

 つまりは、日常を象徴するようなところなんだ。その中に非日常が入り込むなんざ場違いにも程があるだろう。身の程を弁えてもらわないと困る。

 自然公園の中央には円形の広場がある。背高い木々と鬱蒼とした茂みに囲まれたスペースで、豪奢な噴水や木製のベンチも設置された、知らない人ぞバカの憩いの広場である。

 ――さて、問題はここだ。この広場に誰が訪れようと文句を言うつもりはないが、アイツ・・・はダメだ。人間じゃなくとも、バカ吸血鬼や、狼少女のように人形ひとがたをしていればまだしも、あの一ミリも正体を隠す気のない姿はなんだ。

 ここには俺たちしかいないからいいものの、一般人が現れたらどうするつもりだ。……なるほど、やはりポイントはここか。

 ――つまり、あの餓鬼には人目を避けようとするだけの知能がないのか。もしくは、そもそも人目を避ける必要がないのか。この二つに一つだろう。

 可能性が高いのは前者か。さきほどから無遠慮に殺気を飛ばしてくるところをみると、話が通じる気配もない。まるで腹を空かせた獣のようだ。……と、すると餓鬼にとっての餌がこころということか?

 さきほどこころが漏らした言葉。


 ――あたしも、妖だから――


 正直な話、今すぐにでも事情を問いただしたいところだが――後回しにせざるを得ない。

 俺もニノも、うかつに飛び込むことはせずに様子見に徹していた。人間や吸血鬼が相手ならば経験があるからいいのだが、あの餓鬼とかいうバケモノはさすがに不明瞭すぎる。情報が少なすぎて対処法が思いつかない。

 例えば、ナイフや拳銃といった物理的な攻撃は利くのだろうか? ダメージ的な効果はあると思いたいところだが、登場が登場だっただけに素直に頷けない。だって突然、どこからともなく現れたのだ。それこそ靄とか霧がカタチを成したように。

 この場合はどうすればいいのか。そのへんの寺に電話して徳の高い坊主でも連れてくればいいのか。もしくは両手を合わせて「悪霊退散っ!」とでも叫んでみるか。あるいはうろ覚えのお経でも唱えてみるか。 

 まあ……考えていても始まらないな。しかし思いつきを片っ端から試していくのも面倒だ。

「ニノ、どうするよ」

 視線は餓鬼に固定し続けたまま、俺はとなりの狼少女に問いかけた。

「そうね……倒すか、逃げるか。まあその二つに一つじゃない?」

「やっぱそうなるよな。……ところで、アイツに拳で殴ってダメージ与えられると思うか?」

「ウチなら余裕だと思うけど、士狼はどうかしら」

「ああ、俺もそう思ってた」

 さすがに素手の破壊力ならニノがダントツだろう。

 能天気に作戦会議をする俺たちを尻目に、餓鬼は警戒する素振りもなく歩み寄ってくる。

 どしん、と地震に似た音。体重にして数百キロはありそうなソイツが足を踏み出すたび、微妙に地面が振動する。鬼に似た外見も相まって、どこまでも非現実的だ。

 ――俺もガキのころなら純粋に恐怖しただろう。人間というやつは、成長するに従って理想を諦め、現実を知っていく生き物だ。

 例えば、幼い時分には幽霊が怖かった。十歳を超えたあたりから人間が怖くなり、さらに時が経つとナイフが怖くなり、銃が怖くなり、もう一度人間が怖くなって、最後には死が怖くなった。

 そしていまは――俺の知っている人間が傷つくことが何よりも怖い。

 逆に言えば、俺が傷つく分にはこれっぽっちも怖くない――

 まさにバケモノと呼ぶに相応しい外見。肌が赤黒いのは、恐らく硬質化した筋肉のせいだろう。肥大化した上半身に比べると下半身はやや小さい。……いや、それは、腰から上が強靭すぎるせいでそう錯覚して見えるだけ。実際には脚だって、成人男性のそれの数本分に値するだろう。

 胸筋や腕周りが率先して発達しているのは、きっと、殺人に特化したため。

 ――俺が身構えたまま思考していると、餓鬼が立ち止まる。

 違う標的を見つけたか、はたまた人殺しはいけないと考え直してくれたか――いや違うな。

 餓鬼は上半身を思い切り反らせると、醜悪な顔をニタリと歪ませて、天空に向かって声を張り上げた。


「――■■■■――!」


 形容すらできない喊声かんせい。思わず耳を塞いでしまうほど強烈な音の振動は、どこか獣の咆哮に似ていた。

 早い話をすると、先ほど立ち止まったのは、俺たちを殺すための予備動作。怒声による対象おれたちへの威嚇、より速く駆けるために脚の筋肉をバネのように縮小。

 つまり――俺の希望的観測は大外れ。

 餓鬼は巨大な体躯を俺たちの身長よりも低くして、撃ち出された弾丸のように疾走した。その直線上に存在するのは言うまでもなく――

「チっ――ニノ!」

 俺のかけ声よりも恐らく早く、ニノはベンチに座っていたこころの体を抱いて跳躍していた。

 それを見届けたあと、俺も大きく左方に回り込むようにして、直進してきた餓鬼を回避する。

 ――断っておくが、餓鬼は攻撃的な動作など何一つとして行っていない。腕は振り上げていないし、脚だって走るためだけに使っている。つまり、それはただ本当に直進しただけ。

 にも関わらず。

 餓鬼に衝突された木製のベンチは、面白いようにぶっ壊れた。地面に固定されていた? いや、そんなものは何の足しにもならない。ベンチを支えていた棒など割り箸のようなものだ。食事を行おうとするソイツ・・・にとって障害になど成りえない。

 数百キロ近い重量の物体が高速で体当たりしたのだ。そのエネルギーは計り知れないだろう。きっと車に轢かれたほうが、身体へのダメージ的にも、人間としての尊厳的にもマシだと思う。

 まさに人殺しのために生まれてきたようなバケモノ。要するに、アイツの体そのものが凶器であり、ぶつかるだけでもアウトということ。

 俺は噴水の傍まで移動した。この広場を時計に見立てると、ちょうど台風の目の位置だ。餓鬼が突っ込んだベンチが六の数字、そして――

「――っと、見た目どおり頭の悪いヤツね」

 先の一瞬で、三の数字の位置にあるベンチまで跳躍していたニノは、餓鬼が六のベンチを破壊したのを見届けると、俺のとなりにまで跳んできた。ちなみに、ニノにお姫様抱っこをされた状態のこころは面白いぐらい目を回していた。

「……おい、こころが死ぬぞ」

「え?」

 そこで初めて、ニノはこころが気分悪そうにしていることに気付いた。

「……きゅー」

 俺たちの視線がこころに集中する中、かろうじて動きを見せていた指先が止まり、フッと体の力が抜けた。……どうも気絶してしまったらしい。

 ニノの身体能力は常軌を逸していると言ってもいい。だから、その強力な能力を生まれ持ったニノ自身は、精神的にも神経的にも『自分はこういう動きが出来る』と把握し、慣れているから大丈夫だろう。

 しかし生憎と、こころの運動能力はお世辞にも優れているとは言えないのだ。脅威から身を護るために仕方なかったとはいえ、心身ともに何の準備もなく、自身の能力を遥かに上回る動きを強いられた。それは突然、乱暴なジェットコースターに乗せられたようなものだろう。

「……くっ、よくもこころを――!」

「えっ?」

 ばたんきゅー、という言葉が似合いそうなこころを悔しげに見つめたあと。

 ニノはなぜか、許さない、とでも言いたげに餓鬼を一瞥した。

「士狼、ちょっとこの子を預かってて」

「はあ? おい、お前なにを――」

「悪いわね、ちょっと大事な用が出来たの。……こころの、仇を……取るのよ」

「…………」

 こいつはバカか。どちらかと言えばお前のせいだろうに。

 俺は気を失ったこころを両腕で抱える。

 ――遠くでは、餓鬼が体勢を整えているところだった。やはりと言うべきか、ベンチを真っ二つに割るほどの衝突を起こしたのにも関わらず、赤黒い体躯には傷一つ見当たらない。どうも、刃物や鈍器の類は効かないと思ったほうがよさそうだ。

 餓鬼は、ちょうど真ん中から二つに折れたベンチの残骸を手に取った。それも両手に一つずつだ。それは日曜大工を思わせる間抜けな外見だったが、危険度が増したことに変わりはない。

 つまり――あのバケモノは武器を手に入れたのだ。大きさとして、小さなブラウン管テレビ程度の木の塊。人間の筋力では片手で振り回せないだろうが、餓鬼なら可能だろう。むしろ重量が足りなくてシックリこないかもしれない。

 ニノは灰色の瞳をすぅと細める。

 それは、外敵を駆除しようとする目。どんな小さな情報も見逃すまいとする目。自らを阻む危険に直面した目。そして――大事なヤツを護ってやろうとする者の目だ。

「――ふん、ウチとやるっての? いい度胸じゃない」

 赤い長髪をかき上げて、ニノは不適に笑った。

「おいニノ、お前どうするつもりだよ」

「決まってるでしょ? アイツをぶっ飛ばしてやるのよ」

 両手の指を鳴らして、獣耳をピンと尖らせる。

 俺が返す言葉は決まっていた。

「そうか。そこまで言うなら、とっとと終わらせろや」

「オッケー。……惚れても知らないからね?」

 最後にそんなバカみたいなことを呟いて、ニノは一歩前に出た。

 ――どこまでも緊張感のない会話。交わされる言葉には余裕があり、餓鬼を見つめる所作には余裕がある。警戒心なんてもんは一分前からすでに無い。

 なぜって? そんなの決まっているだろう。

 先の一撃を見て分かった。――あんなヤツ、敵と認めてやるのも勿体無い。


「――じゃあ、行こうか――!」


 言うが早いか、ニノが言葉さえ置き去りにして疾走する。俺が振り向いた時にはすでに姿はなかった。

 視界の隅に赤い長髪が映る。……なるほど、視認することも難い。あれほどの身体能力を持った動物がこの世に存在すること自体が驚きだ。獣と徒競走をしても勝てるんじゃないだろうか。

 餓鬼に向かってひたすら直進するニノ。両者の距離は十五メートルほど離れていたのだが、その長くて短いような距離を、あの狼少女は初動から数えて二秒近くの間に駆け抜けた。

 咄嗟の反応さえ間に合わない。餓鬼は自身に接近する影を捉えることで精一杯だっただろう。それも正確に姿を見たわけじゃなく、きっと残像を見るのが限界だ。

 餓鬼がベンチの残骸を振り回す。さながら台風のように。

 それは迎撃ではなく、単なる防衛だ。たとえ姿が見えなくとも、自身の周辺をことごとく攻撃していればって必然的にヒットするって寸法。ニノが餓鬼を狙う以上、必ず接近しなければならないのだから。下手な鉄砲も数を打てば当たるというやつだ。

 ――次の瞬間、餓鬼の右手にあった残骸が吹き飛ばされる。なにか強烈な衝撃がヤツの右手に襲い掛かったようだった。

 中空を木片が舞い、セラミックブロックの上にぱらぱらと降り注ぐ。それから遅れること数秒、遠くに何か重量のある物体が落下した。

 困惑したのは俺じゃなく、餓鬼だろう。手応えがあったはずなのに、吹き飛んだのはニノではなく、自身の武器だったのだから。

「……うん、あんまり鈍ってないようね」

 埃を払うように両手を叩き、ニノは薄っすらと笑った。そこで初めて、餓鬼はニノを脅威だと認識したようだった。

 ――俺も正確に把握しているわけじゃない。それでも先の一瞬になにが起こったのか、ある程度は理解しているつもりだ。むしろ客観的に見ていた傍観者の俺だったからこそ、分かることもあるだろう。

 概要はこうだ。

 ニノが躊躇いもなく餓鬼へ直進した。外敵を察してベンチの残骸を振り回した餓鬼。――そして、ニノは暴風に似たそれを目前にして、さらに加速したのだ。

 偶然にも餓鬼の右手にあった残骸がニノを捉えていた。コース、タイミング共に文句なし。そのまま突っ込めば、間違いなく撲殺された遺体の出来上がりだったのだが――

 なんと、ニノは身体をこれでもかと低くしたのち、右足で強烈な逆蹴りを放ったのだ。それも残骸を避けることなく、むしろ迎え撃つように強気で。餓鬼が肥大化した筋肉で振り回す武器と、人狼であるニノが咄嗟に放った回し蹴り。

 ――勝ったのは、当然のように後者だった。

 結果として、ベンチの残骸が吹き飛んでいくのと比例して、それを握っていた餓鬼の腕には痛烈な衝撃が走ったというわけだ。

「――士狼ー、惚れたー?」

 俺に向かって腕をブンブンと振ってくる狼少女。調子が出てきたのか、獣耳は軽快なリズムで揺れている。

 お前、余裕だな――と言おうとするより早く、餓鬼が激昂したように咆哮しながらニノに襲い掛かる。

「――うざいわね」

 繰り出される猛攻を最小限の動きで避けていく。半歩横にずれるだけ、首を引っ込めるだけ、上体をそらすだけ、小さくジャンプするだけ。それは、ニノが餓鬼の動きを完全に見切っていることを意味する。

 これが、人狼。

「身の程を――」

 大振りの一撃を屈んで回避するのと同時、ニノは餓鬼の腹部に突き刺すように蹴りを撃つ。たまらず悶絶し、その動きが鈍ったのを見計らって、今度は餓鬼の左手に握っていたベンチの残骸を蹴り飛ばした。

 直後。


「――弁えなさいよ、このバカ――!」


 その場で跳躍したニノが、餓鬼の側頭部に上段回し蹴りを叩き込んだ。

 人間では大人数人でようやっと運べるだろう巨体が、まるで玩具かなにかのように地面を転がっていく。それは一般人が見れば、間違いなく眼科に駆け込みそうな光景であった。

 はるか遠く、ピクリとも動かずに横たわった餓鬼の姿は、まるで打ち捨てられた粗大ゴミのようだった。

「ふん、狼は強いのよ。覚えておきなさい」

「…………」

 どうやら、思わず決め台詞を口走ってしまうほど温まってるらしい。

 呆れたように見つめる俺の視線に気付いたニノは得意げに歩み寄ってくる。

「ふふふ、どう? 惚れ直したかしら?」

 腰に手を当てて、自信満々に微笑むニノの頭部では、獣耳が愉悦を表すかのようにピコピコしていた。

「……いや、そもそも惚れてねえし」

「まったまたー、男が照れなくてもいいわよ。……知ってるわよ? さっきだってウチの胸、見てたんでしょう?」

 両腕を胸の下で組み、豊満な乳房を強調してくる。

「いや、悪いがお前の胸なんぞ見てるヒマなかった」

「なんですって!? ……ふ、ふん。よかったわ、……見られてなくて」

 ウソつけ、と言いそうになるのを堪える。

 ニノのことは全部お見通しなのだ。獣耳を見れば、コイツが何を考えているかなんて一目瞭然である。……ふむ、なるほど。あの不規則に揺れる動きは、恐らく動揺しているときのものだろう。

「――それにしても、やっぱりあっけなかったな。元から雑魚だとは思ってたが」

 最初、俺たちが座っていたベンチに突っ込んできたとき――あの時点から、大して脅威だと思っていなかった。

 本当に殺し合いを分かっているヤツなら、無闇やたらと接近などしない。相手の力量も分からないのに、だ。しかも警戒する素振りもなく、自身の力を過信したように強引な攻撃だった。

 確かに、暴力という意味では強かっただろう。しかし幼児が戦車に乗っても使い物にならないように、ただ腕力だけが取り柄の相手なんて畏るるに足らない。真実強敵なのは、純粋に能力の高いヤツじゃなく、どこまでも注意深いヤツなのだ。例えば、ロケットランチャーを持ってうろついている奴よりも、拳銃を持って物陰に潜んでいる奴のほうがよっぽど手強い。

「違うわね。あの餓鬼ってのが弱かったんじゃないわ。ウチが強かっただけの話よ」

「お前はアホか。決め台詞を言って余韻に浸るヒマがあるなら、こころを何とかしろ」

「あぁ、そうだったわね。……安心しなさい、こころ。アンタの仇は取ってやったわ」

「…………」

 気を失って四肢が脱力したこころをニノに預ける。両腕にちいさな体を抱いて微笑むその姿は、まるで一人の姉のようだった。

「まったく、また面倒が起きやがったよなぁ。なんだよあのバケモノは」

「そう? ――それよりも士狼。ウチ思ったんだけど、もしかしてあの餓鬼ってやつが殺人事件の犯人なんじゃない?」

「俺もそう思ってたところだ。まあでも、お前がアレをぶっ飛ばしたおかげで――っ!?」

 思わず声を失う。

 なぜだ?

 おかしい。

 そんなはずがない。

 見間違うなどありえない。

「どうしたのよ士狼。あのデカブツが――っ」

 俺の視線の先――つられて見たニノも息を呑んだ。

 なぜなら。


 ――遠くに倒れていた餓鬼の姿が。

 ――どこにも、無い。


 文字通り、影も形もない。

 どこにも――まるで初めから存在していなかったかのように、餓鬼が消えていた、

「っ――! ニノっ、後ろだ!」

 と、ニノには見えただろう。

 それは俺からじゃないと確認できない位置――つまり、ニノの背後・・・・・。そこには醜悪な口元をニタリと歪ませ、赤黒い腕を振り上げた餓鬼の姿があった。

「――くっ、この――!」

 刹那の差でそれを察知したニノが、驚異的な反射神経を用いて攻撃を回避する。それもこころを抱いたままだと言うのだから、どこまでも常識外れの身体能力である。

 俺とニノは一先ず距離を取り、やや遠方から、ゆっくりとこちらへ振り向く餓鬼を観察していた。

「なんなのよ、もうっ! なんでアイツ平気そうな顔してるわけ!? ねえ、士狼!」

 癇癪を起こしたように喚く。

「うるせえな、俺が聞きてえよ。……それにしてもアイツ――」

 明らかにおかしい。少なくとも俺は、餓鬼に対して常に意識を向けていたのに。つまり餓鬼が僅かでも動きを見せたのなら、すぐさま察知できたはずなのだ。

 だから違和感があった。俺が気付かぬうちに全ての時間が止まって、停滞した世界の中を餓鬼が動き、ニノの背後まで忍び寄った瞬間、再び時間が動き出したかのような。

 まるで――瞬間的に移動したような。

「……さて、どうするかなぁ」

 どしん、と地震に似た音を立てながら餓鬼が近づいてくる。ゆったりとした歩みは、きっと余裕の表れだ。知能の低そうなバカ面をしているわりに、俺たちが困惑していることは感じ取っているらしい。

 そして。

 ――それは、あーこれは本当に徳の高い坊主でも連れてこようかな、と俺が近所の寺に電話してやろうと思ったときのことだった。


「――無駄ですよ、士狼さん。ソレ・・に物理的な攻撃は利きません」


 ――凛とした声がした。

 まるで降り注ぐ雪を連想させるような、透明感に満ちた声が。

「……おいおい、俺を中心に世界が回っているのかと思ったじゃねえか」

 この場にいた全員の視線を惹きつける。

 黄昏に染まった自然公園。非日常を迎えた円形の広場。冬でも緑を茂らせる常緑樹。延々と水を生み出し続ける豪奢な噴水。細長く伸びる俺たちの影と、図太く伸びる餓鬼の影。

 ――そして、伸びる影はもう一つあった。

 広場の最奥。そこに、自然公園にはまるで似合わない、煌びやかな和服を纏った女が立っている。腰にまで届く黒い長髪は、夜のように。血管が見えそうなほどの白い肌は、月のように。

 その人目を惹く整った容姿は、男なら誰だって息を呑むだろう。

「面白いときに来たなぁ――陰陽師さん」

 俺が両手を合わせて拝むように言うと、そいつは秀麗な眉をひそめて、本当に失敬そうに言った。


「いやですね、士狼さん。私は陰陽師ではなく、自称陰陽師ですよ」


 言い直したせいで余計胡散臭くなった気がするが、まあ追求は後回しだ。

 豊富な若緑と、血のように赤い斜陽に彩られた真円の広場。日常的であるはずなのに非日常に陥ったその場所に、まるで散歩で訪れたかのような気軽さで。

 ――薄っすらと輝く白猫を肩に乗せた、凛葉雪菜がそこにいた。





 それは電光石火の早業だった。

 恐らく登場から数えて数秒にも満たなかっただろう。俺とニノ、そして餓鬼が、何かしらのアクションを行うよりもなお早く。雪菜は薄く瞼を閉じて、丹赤の唇をかすかに震わせる。さすがに距離が離れすぎているせいか、雪菜が何事を呟いたのかは分からなかった。

 半眼にした瞳、絶え間なく言葉を紡ぐ唇。黒い長髪が風になびき、肩に乗った白猫が愛らしい声で鳴いた――直後。

 雪菜は地面にしゃがみ込み、セラミックブロックの上にてのひらを置いた。

 ――バチッと電気が迸ったような音がする。真円の広場の周囲を、まるでドームを覆うような感じで、青白く発光する細長い糸が連なっていく。それは目で数え切れるほど少数ではなく、しかし無限と呼ぶのもおこがましい、そんな絶妙な本数だった。

 青白く光る糸は、まるで銀の鋼線のようでもある。そして、それが広場を覆いきった瞬間――キィンと甲高い音色がして、光の糸が消えていく。……いや、違う。あれは消滅したんじゃなくて、視認できなくなっただけだ。

 事実、広場周辺に意識を集中してみると、見えない壁のようなものを感じる。

「……結界、ね。あっ、なんかウチも気分が悪くなってきたかも」

 ニノが額を押さえて、ふらりと傾いだ。

 そのまま流れるような自然さで俺にもたれかかってくる。

「おい、大丈夫か?」

「うっ、ダメかも……だからこのままで、いさせて……」

 心配になって容態を聞こうとすると、代わりに、視界に飛び込んでくるものがあった。

 ……なぜだろう。体調が悪そうにするわりには、獣耳がとても元気そうにピコピコしているのだが。

「お前――仮病だな」

「――ぎくっ!」

 バカかこいつは。ぎくっ、とか口に出すヤツなんて初めて見た。

 俺たちが能天気に遊んでいるころ、雪菜はすでに次の行動に移っていた。

「……なるほど、分かりました。やはり私の予想は正しかったのですね」

 その直前、雪菜はニノを――いや、その腕に抱かれて眠っているこころを見つめて、そんなことを呟いていた。

 俺がそれを疑問に思う間もなく、事態は坂道を転がる石のように急転していた。

 餓鬼がバカでかい雄叫びを上げたあと、俺たちなど眼中にはないとでも言うように、雪菜に向かって駆け出したのだ。恐らく本能的に感じ取ったのだろう。自分を滅するだけの力を持っているのは、あの女だけだ――と。

 雪菜に加勢しようとか、助けなければとか、そういった感情は一切浮かばなかった。一瞬、俺は冷徹になってしまったのかとも思ったが、すぐに考え直して、やがて答えにたどり着く。

 きっと、俺も本能的に理解していたのだ。

 ――雪菜は大丈夫。

 ――むしろ一人のほうがいい。

 ――余計な横槍を入れると、逆に邪魔になってしまう、と。

 あいつの凛と佇む姿を見ていると、俺はついつい笑顔さえ浮かべてしまう。なんて安心感と安定感だろう。かつて雪菜は、自分が陰陽師だと明かしたときに嫌悪されないか不安だと言ったが、それは絶対に杞憂だ。

 だって、あんなに格好いいんだ。容姿だけでも美人だとは思っていたが、今の雪菜は楽しそうに笑ってる時の次ぐらいに、綺麗だと思う。

「――ごめんなさい、元々のあなたに罪はないのでしょうけど」

 肉薄する餓鬼を前にして、雪菜は丁寧な所作でペコリと頭を下げた。

 そして顔を上げると、寂しそうな笑みを浮かべ、素早く何事かを呟いた。それが合図だったのか、雪菜の背後から無数の白猫が這い出てきて、各々が愛らしく鳴くと、撃ち出された弾丸のように飛び出していった。

 ――あれが雪菜の式神。

 餓鬼は、向かってくる式神を確認しても速度を落とさなかった。きっと高を括っているんだろう。あんな小さな小動物紛いのモノなぞ脅威に値しないと。むしろ全て迎撃してやるのだ、と。

 しかし。

 それはどうやら傲慢が過ぎたようだ。

 餓鬼の赤黒い体躯と、雪菜の白い式神がぶつかった途端――熾烈な音を立てて青白い電流が走り、触れた箇所が硫酸でもかけられたかのように溶けていく。原理は分からないが、効果抜群だろうということは理解できた。

「――すぐに終わります。怖くなんてありませんよ」

 体をもがれた激痛と、未知からくる驚愕により、体を震わせる餓鬼を見据えて――雪菜が儚げに言った。

 そこで初めて。餓鬼が迫りくる死に恐怖し、じりと足を下げた。それは一歩、二歩と後退する距離を増やしていき、最終的には臆面もなく背を向けて、ただ逃走するためだけに駆け出した。雪菜から離れたいがために。

「っ――往生際の悪い子ですね」

 小さく舌を打って、式神に『追え』と告げる。

 そして。

 ――ソイツ・・・が現れたのは、そんな時だった。


「あーあ、なんだか面倒なことになってるじゃーん」


 飄々とした口調と、やる気のなさそうな声。

 俺が出所を探ろうとした瞬間――ヒュン、と空気を切り裂くような音がした。それは俺にとっても馴染みのある劈きだった。長柄の武器を素早く振るったときに発生する独特の音色である。

 赤い飛沫が中空を舞う。

 あれ、噴水の色が変わったか? と勘違いしてしまうほど勢いのある出血。餓鬼の体躯、上半身と下半身の間、ちょうど腰辺りを境にして巨体が切り離されていく。

 地面に突き立った餓鬼の脚とは別に、筋肉が発達しきった上半身が地面にバタンと落ちて――消滅していく。

 それは明らかな斬撃だった。音も、衝撃も、切られた餓鬼を見ても、日本刀かなにかで切断したようにしか見えない。

 ……しかし、問題はそこからだ。だれが切った・・・・・・? どうやって切った・・・・・・・・? だって雪菜から逃げ出した餓鬼の近辺には、人間どころか小動物一匹すら見当たらないというのに。

 以上を踏まえて、俺が思いついた一つの可能性は――斬撃が飛んだ・・・・・・、としか予想がつけられない。


「まさか、今のは――大禍時おおまがとき……?」


 雪菜が大きく瞳を見開いて、呆然としたように呟いた。

 ――大禍時? それとも逢魔刻か? 確かに現在は、その逢魔刻というやつに違いないが、餓鬼を切断したのとどう関係があるというのか。

 静寂に満ちた空間に、誰かの足音が残響した。それは少しずつ大きくなっていき――

「さてさて、あの餓鬼と戦闘してたのはどこの陰陽師さんだ? 青天宮の人間じゃあないよな、報告なんて受けてないし」

 やがて姿を見せる。

 ハリネズミのように逆立った黒髪と、やや幼さを残した顔立ち。長く着用しているからか、ところどころに傷のついた真黒の学ランは、校則を舐めているとしか思えないほどに着崩されている。年の頃は雪菜たちと同じぐらいだろうか、服装から見ても高校生が妥当だろう。

 俺の予想通り、その男の手には長柄の代物が握られていた。刀身だけでも三尺はありそうな長大な日本刀だ。鞘には、不可思議な紋様が刻まれた白い札がこれでもかと貼りつくされており、本来は黒いだろうそれが白色になっていた。

 ――あの刀、危険だ。

 俺がそう思考したときのこと。

「すいませーん、青天宮の者で――――っ!?」

 軽薄な態度を終始見せていた男が止まる。

 その視線の先にいるのは――雪菜。


「雪菜さん……」

「……忌野いまわのくん」


 互いの姿を認めたあと、雪菜と男――忌野と呼ばれた――の二人は、それぞれ同じような反応を見せた。

 一言では形容しがたいような表情。困惑とか、嫌悪とか、好意とか、苦手とか、親愛とか、そういった感情をごちゃ混ぜにしたみたいな顔だった。

 再会できたのか、それとも――再会してしまった・・・・・・のか。

 寡黙にして見つめあう二人を、さらに見つめていた俺は、ふと思った。


 ――あぁ、また変なヤツが出てきたなぁ、と。



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