其の三 『餓鬼』
人生、おかしなことはあるものだ――とニノはつくづく思う。
いや、それ以前の話なのだが、そもそも人狼である自分が果たして『人生』という言葉を用いてもいいのだろうか。人間がこの世で生きた時間や経験――それらを『人生』だと称するなら、ニノの身に起こった出来事を嘆く際に、あーあなんだこの人生は――と愚痴るのはおかしい気がする。
ニノは人狼なのだから、つまり――狼生? ……字面だけで見るのなら人生よりも格好いいが、どうも違和感が拭えない。
やはりここは大人しく『人生』という言葉を拝借するべきなのだろう。
――さて、少し振り返ってみよう。
人狼と呼ばれる、吸血鬼殺しの種族が存在するのはご存知だろうか。吸血鬼がヴァンパイアとも呼称されるように、欧州のあたりでは人狼もライカンスロープと言い換えられたりもするが、まあそれは時と場合、もしくは土地と言語による差異だ。呼び方が異なるだけで、根本的には同じなのだから、そこを追求するのは時間の無駄だろう。
つまり何が言いたいのか。
要するに、人狼とは誇り高い存在なのだ。何者にも縛られぬ気高き孤高なのだ。自分がこうしようと思ったことは、誰が止めようと実行してやるのだ。文句なんて後になっても聞いてやらないのだ。
ニノは己が決意した道を信じている。これまでの茫洋な人生とはまったく異なる、現在の自身が歩むべき道。誰かを殺すことでしか生きてこなかった自分が、初めて誰かを護りたいと思った――そんな道だ。
善を知って、
悪を知った。
しかし偉そうに語ったところで、善悪の優劣など株価よりも多く変動する曖昧な基準だ。
戦争する二つの国だってそうだ。例えばA国に住む人間は自国こそが正義だと信じるし、逆にB国に住む人間はA国こそが悪だと疑わない。
つまり――何が善でどれが悪などと定義することは不可能であり、ナンセンスだ。己が信じる道こそが善であり、己が憎むべき道こそが悪。そういった六十億近い個々人の意識の集合が、現代における善悪の基準となっている。
なんて自分勝手。しかしそれで世界は正しく回るのだから、本筋は間違っていない。
それらを踏まえた上で、ニノ=ヘルシングにおける善悪の定義はこうだった。
――誰かに笑っていてほしい、誰かを護ってみたい、誰かの心を温かくしてやりたい――これが善。
――誰かを泣かせてしまう、誰かを理由もなく傷つける、誰かの心を悪意で冷たくする――これが悪。
実に分かりやすい。
もっと簡単に言えばニノの理想は――正義の味方、つまりヒーローのような存在なのだろう。
今回の事例もその延長線上だ。
肉まんを欲してきた少女――名をこころと言う。
純黒の髪をおかっぱ頭にして、水玉模様の浴衣を纏っている。まだ幼いながらも顔の造詣は優れていて、将来はきっと美人になるだろう。十歳ほどの外見年齢も相まって、その姿はどこか小動物に似た愛らしさがある。
つねに俯きがちで、視線も一箇所に留まることは少ない。胸の前ではいつだって両手が踊っていて、イジイジしていてオドオドしている。それは何かに怯えているようにも見えたし、何かに縋ろうとしているようにも見えた。
――とまあ、そんな庇護欲をくすぐる少女だったのだ。だからこれは仕方なかったし、むしろ賞賛されるべき行為なのだ。
「……いい? あんまり声を出しちゃダメだからね」
鼻の頭に人差し指を添えて、ニノは静かにとジェスチャーした。
「――っ、――!」
発声することすなわち死とでも思ったのか、こころは両手で口元を押さえて、首が千切れんばかりに頷いた。
静かな闇――水を打ったように静まった敷地の中を、ニノとこころは忍び足で歩いていた。その二人のありさまは、軍隊の行進に似る優れた連携だったし、泥棒の逃亡を思わせる怪しさもあった。
暦荘の敷地内――すでに時刻は午後九時過ぎに近い。周囲はどっぷりと暗闇に飲まれてはいたが、まだ夜も始まったばかりだけに、そこかしこで人の気配が感じられる。
あれから――ニノがこころに肉まんを求められ、自然公園で互いを語り、名乗りあったあとのこと。赤い夕日が地平線の彼方に飲まれたのをきっかけに、二人は解散しようとしたのだ。
だが人生とは往々にして思い通りにはいかないものである。ニノが高梨沙綾に部屋を貸し与えられたのもしかり、どう足掻いても回避できない事象は必ず存在する。
それは、じゃあね、とニノが立ち去ろうとした瞬間のことであった。こころは無言で、ニノの服の裾を握ったのだ。
怪訝に振り返るニノが見たもの――それは瞳に涙を溜めて俯く、こころの姿であった。
きっかけは、それだけ。
自分の腰より少し上程度の背丈しかない少女が、消えてしまいそうな心細さで呟いたのだ。――独りにしないで、置いていかないで、と。
数秒後、ニノは反射に似た俊敏さでこう応えた。
――そ? 分かったわ――と。
驚いたのは、突然ワガママを言われたニノではなく、その無理難題をあっさりと了承されたこころの方であった。きょとんとした顔で、自身の要望が受け入れられたことを何度もかみ締めたあと、こころは下手な笑顔で笑ったのだった。
しかし、こころという少女はどうも訳ありらしい。そもそも幼い子供が、日常的に浴衣を着るものだろうか? もしも特別なイベントがあって浴衣を着用していたのだと仮定しても、あそこまで薄汚れているのは異常だ。それなりに高額な浴衣ならば大切に扱うのが筋だろうに。
どこぞのお嬢様の家出か――いや違う。
人間よりも第六感が優れた人狼であるニノは無意識に感じ取っていたのだ。
――こころは、きっとただの人間ではないと。
そして同時にこうも思う。
――ふーん、だから?
いま重要なのは、ただ一つだけ。こころが寂しそうに、独りにしないでと呟いた事実のみ。
そういった経緯や葛藤があって、こころを自分の家に連れて行くことにしたのだ。本来であれば、この時間になると姫神千鶴の部屋に向かうものだが今夜ばかりは中止だ。
暦荘の大家である高梨沙綾の自宅――その客間の一つこそが、ニノの部屋だった。
「……よし、誰もいないわね」
物陰から暦荘の様子をこっそりと伺う。慎重を期すニノの獣耳は、レーダーのように先端がピコピコと動いていた。
別に見つかっても問題はなさそうだが、面倒な説明はしたくなかった。一般的に考えて、いくら独りはイヤだと嘆く少女がいたとしても、それを何の躊躇いもなく家へ連れ帰るのは型破りだと言わざるをえないのだ。
だから今回の事例は、ニノが他人よりもちょっとだけ自由で、ちょっとだけ常識に疎かったのが始まりだろう。
「こっちよ。ついてきて」
「あっ……う、うん」
自信満々に忍び足をするニノの背後。
こころは、いいのかな? なんだかいけないことをしてるんじゃないかな? という顔をしていた。
――ニノが間借りしている客間は、今時珍しい全面が畳張りで、さらには安っぽい障子がある純和風の部屋だった。
高梨沙綾の家にはL字型の縁側がある。縁側が庭と面しているところには居間があって、そこから通路を直角に曲がり、道なりに辿っていった先の裏庭と呼ぶべき小さなスペースに面したところ――つまり少し奥まった場所に一つの客間がある。それがニノの自室だった。
その構造上、裏に回るようにして歩いていけば、玄関からではなくとも進入できる。……いや、むしろニノからしてみればこちらが玄関だった。なぜって縁側から上がったほうが遥かに近いからだ。
やがて沙綾の自宅をこれでもかと回りこみ、小さな裏庭に辿りつき、靴を脱いで縁側に上がる。ここまで来れば誰かに見つかる心配はないだろう。
「あぁ、靴はそこに置いておけばいいから。……って、あれ?」
ふと疑問の声が上げてしまう。
なにやら見慣れない履物をこころが履いていたからだ。形状は……例えるならサンダルに近い。しかし見た目は安っぽいどころか高級感に溢れている。
それは漆塗りで黒と赤の色彩が特徴的だった。
「これは……下駄って、いうの」
「ゲタ? ……ふーん、なんか綺麗ね」
現代日本において、日常的に下駄を履く人間は稀だ。だからニノは気付かなかったし、そもそも知識もなかった。あっ、なんか見たことあるな――ぐらいである。
さっきから、からん、と妙な足音を立てていると思っていたが、どうも下駄とやらが原因らしい。
「まあいいわ。とにかく下駄はそこに置いといて。一応ちょっとだけ端っこのほうに」
「……う、うん」
しばらくして部屋に上がる。
「――はい、ここがウチの部屋よ」
音もなく障子をずらして、開けた景色は思わず息を呑むほどに――何もなかった。
「……なにも……ない」
「ぅ――し、仕方ないじゃない。まだ住み始めたばかりなんだから。でも布団はあるし、寝る分には困らないわよ」
自室を指摘されて初めて考えたことだが――もしかして自分は、この部屋にいる時間よりも、千鶴の部屋にいる時間のほうが長いのではないか。
いちめん畳張りの部屋は、広さにして八畳ほどもある。なんでも、この家の客間の中ではとびっきりらしい。はっきり言って無駄な大きさだ。これで家具の類があれば気にはならなかっただろうが、見事なほどに何もない空間はとてもがらんどうだ。
こころと共に自室へ上がったあと、とりあえず押し入れから座布団――あってよかった――を引っ張り出す。
その上に、ニノは胡坐をかき、こころは正座をした。
今夜はあまりにも月光が美しく、まるで透き通るような夜だったので、あえて電気はつけなかった。そのほうがなんとなく雰囲気が出る気がしたからだ。
「ふう、とにかくこんなところね」
「……? どんなところ……?」
「うるさいわね、こんなところと言えばこんなところよ。察しが悪いといい女にはなれないんだからね、覚えておきなさい」
「うん……覚える。……さ、察しがいいと……お姉ちゃんみたいに、なれるの……?」
「ウチみたいに? どうしてそう思うの?」
問うと、こころは俯きがちの顔を赤くさせた。
「……だって、お姉ちゃん……と、とっても綺麗だから」
「ふふん、まあね。……こほん。でもこころ、もっと他に褒めるべきところがあると思わない?」
ピコピコ。
人差し指を立てて、ある種の教師みたいに振舞うニノの頭部――まるで自己主張するように動くものがあった。
「……その、耳」
ピクっ――!
こころがそう口にした瞬間、獣耳が『待ってましたっ!』と言わんばかりに跳ねた。
「ずっと……思ってたんだけど。……ぇと、お姉ちゃんの耳、とっても……可愛い」
「――そうかなぁ? うふふ、そうかなぁ?」
ピコピコ。
無邪気な子供のようにはしゃぐ。
「いや、やっぱりこころは見る眼あるわよ。ウチの魅力に一目で気付くなんて、どこぞのへっぽこ吸血鬼とは大違いね」
大きく腕を伸ばし、こころの頭を撫でてやる。
目立った反論や抵抗はなかったが、頬を染めて微かに微笑んでいるところを見ると、頭を撫でられるのは嫌いではないようだ。
――それにしても。
やっぱり、こころとの距離が縮まるたびに疑問が強くなっていく。なぜ自分に声をかけたのか、さらには躊躇いもなく――むしろ望んでいたとばかりに家まで着いてきた。
こころを疑うわけではないが、やはり少なからず違和感がある。
極めつけは、最近この街で起こっている猟奇的連続殺人事件だ。ニノはそれを宗谷士狼から聞いたのだが、特に注意を払ってなどいなかった。むしろ自分の元に犯人が現れてくれれば、そのまま撃退して事件を解決できるのになーと思っていたほどである。
しかし、それは人狼であるニノの考えであり感覚だ。
もしも自分がこころの両親ならば、絶対に彼女を一人にはさせない。まだ身体的に完成しているとは言えない少女だ。襲われた場合、逃げ切ることも難しいだろう。
率直に言えば、こころが独りだったことが異常なのだ。少なくともニノが普段サッカーをする子供たちだって、ここ最近は、両親の眼が厳しくなったとか、あまり家から出してもらえないとか愚痴をこぼしていたのに。
やっぱり……なにか訳アリと見て間違いない。まさかこころが殺人事件の犯人だった、というオチだけは無いだろうけど、関連がまったく無さそうだとも思えなかった。
もちろんそれは、ニノの勘に過ぎなかったが。
「――うん?」
ぼんやりと思考しながらこころの頭を撫でてやっていたニノは、そこで気付いた。
なぜか――さきほどまで頬を染めて微笑んでいたはずのこころが、どこまでも辛そうに、そして寂しそうに顔をゆがめていることを。
「どうしたのよ。なにかあった?」
覗きこむようにして問うと、こころは顔を背けてしまった。
……意味が分からない。別に機嫌を損ねるようなことはしていないはずだ。ただ現状を省みて、一つ可能性があるとすれば……頭を撫ですぎたとか? それぐらいしか思い浮かばない。
「ううん……違うよ。……頭を撫でられる、のは……好きだから」
こころは顔を上げて、ぽつりと呟いた。
「そう? ならいいけど」――違和感。
「……お母さんも……よく、撫でてくれるから……」
「――そう、なんだ」
思わず、強い親近感を覚えた。
こころが母に頭を撫でてもらっていたのと同じように。
ニノだって母が髪を梳いてくれたり、耳を撫でたりしてくれたから。
――そこまで考えて、ブンブンとかぶりを振った。これ以上は思い出しちゃいけないから。というよりも、もしかしたら不意に泣いてしまうかもしれないからだ。
「――さて、と。……どうしようかしら。そういえば、こころって泊まっていくんだっけ? それでいい?」
「え、あぁ……うん。……でも、いいの?」
「どうして? 別にアンタさえ嫌じゃないんだったら構わないわよ」
あっけらかんと言い放つ。
元よりこころを泊まらせるつもりで連れてきたのだから不備はない。生憎と布団は一つしかないが、まあ女の子同士なのだし、一緒に眠ればいいだろう。
「……ありがとう、お姉ちゃん」
こころは頬を染めて、ぎこちなく笑った。
積み重なった疑問は何一つとして解消されていないが――それでも良かった。知っているのは互いの名だけ。……実にロマンチックである。
――とりあえず今夜はこころを泊めるとして……明日はどうしようかな。……とにかく一度、士狼に相談してみるのが正解かな? シャルロットが前に、士狼は何でも屋さんで、困っている人は絶対に助けてくれるとか言ってたし。……うん、そうね。明日になったら士狼に会いに行こう――
そうと決まれば話は早い。
時計を見ると短針は十の文字を指していて、障子の外を覗けばそれなりに闇は濃くなっている。
わりと不規則な生活をしているニノはあまり眠くなかったのだが、まだ幼いこころを気遣い、そろそろ眠っておくことにした。
「じゃあちょっと早いけど寝ようか」
会話が途切れたころを見計らって提案する。こころは反対せず、ただ首を小さく縦に動かした。
押入れから取り出したのは、けっこう高級な布団だ。シングルよりも少し大きめで、頑張れば大人二人でも寝転べる。値段と比例するようにかなりの厚みがあって、冬であっても時々暑いと感じることがあるほどだ。
もっとも、ニノが自室で眠る際にきちんと布団を敷くことは珍しい。基本的には、部屋に帰ってくるとそのまま畳の上で丸くなって眠ることが多いのだ。
そういった場合は、朝になると必ずタオルケットが身体にかけられている。ちなみに、犯人は沙綾であるとニノは睨んでいる。というか彼女以外に考えられないだろう。
手際よく布団を敷いていく。部屋の中央にぽつんと広がるそれは、どことなくシュールだった。
こころの浴衣は少し汚れていたので脱ぐように指示しておいた。そしてニノの部屋着を適当に貸し与えた。余談だが、だぼついたTシャツを纏うこころは、狂気的なまでに可愛らしかった。
先にニノが布団に入り、掛け布団を持ち上げて、自分のとなりをポンポンと叩く。
こころは微かな躊躇いを見せたあと、恐る恐るといった様子で布団に潜った。
「アンタはまだまだ子供なんだからね。いっぱい寝て、いっぱい大きくなりなさいよ」
布団に合わせたサイズの枕――ニノとこころならギリギリ頭を寝かされられる枕の端っこ同士に、互いに向かい合うようにして寝転ぶ。
「……たくさん寝たら……お姉ちゃんみたいに、大きくなれるかな……」
「それはそうよ。ウチだって別に身長が高いわけじゃないしね。大人になればこれぐらいは当然よ」
ニノの身長はおよそ160センチメートルほどだ。ちょうど平均ぐらいだろう。
つまり羨ましがられるのは筋違いのはずなのだが――
「……あの、……そうじゃなくて」
「うん? じゃあなに?」
「……お胸」
あぁ、なるほど――とニノは納得した。
こころの乳房は年齢にぴったりのなだらかなものだ。まな板とか洗濯板とか、そういった悪口が存分に効果を発揮するだろう。
それを踏まえると、確かに羨望される覚えはあるのだ。
「……まあ、さすがに胸のことまでは保証できないけどね」
当然のことだが、こころだって十代後半には立派に成長しているだろう。身長は伸びるし、乳房も膨らむし、顔立ちだって大人っぽくなるし、身体は女性的な曲線を描くはずだ。
――しかし残念ながら、女性の胸というのは非常に個人差が出やがる代物である。こればかりは遺伝子望みというか、胸のみぞ知るというか、とにかく色々と頑張るしかないのだ。
「……お姉ちゃんって……その、どのぐらいあるの……?」
「そうねぇ、うーん……アルファベッドで上から六番目ぐらいかな」
「それって――えっと……すごいの?」
「さあ、どうかしら。こころはどう思う?」
「……すごい……と思う」
「じゃあそれで正解。うん、ウチは凄いのよ」
獣耳をピコピコと動かしながら、ニノは無邪気に微笑んで見せた。つられて、こころも小さく笑った。
――それからは早いものだった。適当に他愛もない話を繰り返すこと十分足らず。あれだけ大人の女をアピールしていたニノは、しかし布団に入ると条件反射のように瞼が重くなり、大した時間をかけずに眠ってしまった。
そして、意識が途切れる間際。
こころが不意に浮かべた――とても寂しそうな顔が、気になった。
「……お姉ちゃん? あの……寝ちゃった……?」
小さく問いかける声。
こころは、瞼を閉じて規則的に呼吸する女性――ニノ=ヘルシングを前にして、まったく身動きが取れなかった。
――それも当然。
ニノは睡眠に入ると同時に、こころを強く抱きしめたのだから。さながら抱き枕のようである。まるで極楽とでも言わんばかりに口元を歪め、獣耳を呼気に合わせてピクリ、ピクリと動かしている。
さきほどまでは格好いい淑女のような様子だったのに、眠った途端に子供のような無邪気さだ。もしかしたら今のニノが本当であり、普段は少し無理をしているのではないか――と、こころは思った。
「……寝ちゃったんだ」
呟く声には諦めの色があった。
両腕で後頭部を抱かれているせいで、豊満な乳房に顔が埋まって少しだけ呼吸がしづらい。ぼよんぼよんと弾むそれは、羨望を超えて尊敬さえしてしまう。自分もいつか――と、夢にも似た憧れを抱くのだ。
「いい人……だよね」
何も聞かずに自分を側に置いてくれた。さらに、生き物にとって睡眠時はもっとも無防備となるはずなのに、まるで警戒する素振りもなく、こんこんと眠り続けている。
よほど信頼されているのか、ただのお人好しなのか――あるいは両方か。
「……狼の種族。お姉ちゃんも……人間じゃないんだよね」
過去に聞いたことがある。
人外、異端、人でなし、アウトサイダー、人道を外れたモノ――それらはつまり、人間とは異なる存在を指す言葉だ。
日本において分かりやすく言えば、妖だろう。そして妖の頂点に立つとされるのが”鬼”だ。……もっとも、現代において鬼は絶滅寸前だ。こころが母に聞いた話によると、鬼は、およそ数百年前にとある二つの家柄によって掃討されたらしい。
しかし――それは日本内での話であり、海外で異端と言えば主に”吸血鬼”を指す。
高い身体能力を持ち、超能力や魔法に似た異能を有する種族。個体としての優秀さで言えば、人間など足元にも及ばないだろう。もしも数の優劣がなければ、地球上を支配していたのは吸血鬼だったかもしれない。
――そう、かもしれないだ。
べつに吸血鬼は繁殖力に劣るわけではない。ならば、それでも個体数が増えないのはなぜか。気の遠くなるような長い寿命を持つのに、人間のように次から次へと死んでいくわけでもないのに。
――答えは簡単。
吸血鬼には絶対の天敵がいたのだ。人間が食料として動物を狩るように一方的ではなく、互いが互いに必殺となりうる牙を持つような存在が。
それが人狼。
人間や吸血鬼だけでなく、数多くの異端者からも恐れられる孤高の種族である。
「お姉ちゃんが……そうなんだよね」
聞かなくても、教えられなくても、通じ合っていなくても――分かる。否、分かってしまう。どうしても分かってしまうのだ。
なぜなら、それがこころの――
「……でも、聞いてたのと……違う。……とっても……温かい――」
ニノの背中に腕を回し、こころは満足そうな笑みを浮かべた。
――やっぱり、あたしは間違ってなかった――と。
分かってしまう他人の心。
覗けてしまう相手の心。
知りたくもないのに気付けてしまう誰かの――こころ。
「……お姉ちゃんが知ったら……どう思うんだろ。……もしも、あたしが……」
さっきお姉ちゃんが心配していた、殺人事件の原因だとしたら――と、続く言葉を飲み込む。
――明日になったらどうなるのだろう。……いや、本当は分かっている。こころの事を相談するのだ。ニノが大好きな男性に、何でも屋を営んでいるという人に。
「……おやすみ」
本当は出て行くのが一番だ。ニノを巻き込んではいけないということも理解している。
でも――どうしても無理だ。この温かい人から離れたくない。
こころは就寝の挨拶をして瞼を閉じた。
最後に漏らした、おやすみという言葉は。
――どこか、懺悔に似ていた。
****
さて、一体なにが起こったのか。
現状を理解する上で、俺には何か決定的なものが足りない。例えるなら、数学において『次の数字を計算してください』と指示されたのに、肝心の問題が提示されていない状態に近い。するべきことは分かっているのに、どうしようもないのだ。
始めに断っておくと、俺は怒っているわけじゃない。まあどちらかと言えば困惑だろう。
「――ねえ士狼、そんなに眉間に皴を寄せてちゃ男前が台無しよ?」
どの口が言うのだろうか、この狼少女め。
「……世辞なんざいらん。とにかく全部説明しろ。なんだお前、誘拐でもしてきたのか?」
申し訳無さそうな顔で苦笑しているニノの手前――俺は両腕を組み、権高な態度で問いかける。いや、事実、俺はとても偉そうだった。
「誘拐って……はあ。士狼が普段から、ウチのことをどう思ってるかが分かった気がするわ」
「それはよかった。じゃあ俺の言いたいことは分かったろ?」
「ええ、ウチのことが大好きってことよね?」
「帰る」
「――ああっ、冗談に決まってるじゃない! もう言わないから、ひとまず落ち着きましょう? ね?」
「……なんで俺がガキみたいに諭されなくちゃダメなんだ。まずはお前が落ち着いて状況を話せよ、バカ」
家に帰ろうと立ち上がると、ニノが腕を掴んで引き止めてきたので、仕方なくもう一度だけ腰を落ち着けることにした。
「はぁ、びっくりさせないでよね。ウチはともかく、この子が怖がってるじゃない――」
なぜ俺が呆れられるかは分からなかったが、とりあえず追及は後回しにした。
ニノは、となりに座っている少女の肩をぽんと叩く。やや怯えたような眼で俺を見ていたソイツは、ニノの手が身体に触れた途端、安心したように口元を綻ばせた。
――さてさて、ニノが現状に至るまでの経緯を話す前に、なぜこのようなことになったのかを語ろう。
あれは今日の昼頃だったか。俺が部屋で『周防はなぜああなのか』という永遠の命題と向かい合っていたときのことだ。ノックをすることもなく進入する――俺は自室にいるとき鍵をかけない――何者かの姿があった。
当然それはニノであったが、どうも様子がおかしかった。普段のニノは無駄な自信に満ち溢れているのだが、そのときばかりは悪戯を行う子供のように身体を丸めていたのである。
やたらと周囲を見渡し、獣耳をピンと尖らせ、さらには忍び足で俺の元へやってきたニノは、一言こう言った――仕事の依頼よ、と。
スパイ映画にでも影響されたのか、新手のエージェントごっこか、とにかく理解に苦しんだものだ。そして無断で部屋に上がってきたことに文句を言ってやろうとした瞬間――俺はその子供を見つけたのだ。
物陰から顔だけを覗かせ、こっそりとした様子で俺を見つめる少女。水玉模様の浴衣、漆塗りの下駄、黒檀のような髪はこじんまりとしたおかっぱ頭。お嬢様と称されそうな出で立ちだったが、俺はと言えば、とうとう暦荘に幽霊でも現れたのかと心底驚いた。
とにかくここでは拙いからと、連行されるようにして外へ連れ出された俺は、駅前近くにある喫茶店に入ったのだった。
なぜブルーメンに行かなかったのか――答えはひどく簡単だった。どうもニノは、本日のシフトをシャルロットと代わってもらったらしく、客として訪問するのが気まずいとのこと。
つまり要約すると――これといった説明もなく、俺はこの名も知らぬ喫茶店に連れてこられたのだ。不機嫌になるのが自然だろう。
あと、これは直感なのだが、どうも厄介事の気配がする。弱々しい瞳で俺を見据える少女――名をこころと言うらしいが、とにかくニノが見知らぬ子供を引き連れている時点で怪しい。
ブルーメンとは異なった趣向の喫茶店。駅前に陣取るだけあって大型だ。店の前には広場があって、そのスペースの一角にもオープンテラスとして客席が設置されている。注文すれば席まで運んできてくれるという優れものだ。
俺たちが座ってるのは、そのオープンテラスだった。真白の丸っこいテーブルと、安っぽさを隠し切れない白妙の椅子。頭上には無駄に大きな日傘があって、夏にはさぞかし活躍することだろう。
ロケーションとしては悪くない。むしろ気分が高揚するほどだ。
……しかし、ぶっちゃけると寒い。耐えられないこともないが、そもそも、なぜ耐えねばならないのか。事実、オープンテラスに座っている客はゼロではないものの、賑わっているとも言えなかった。俺としては店内でよかったのに、ニノが『目立つから』という理由でオープンテラスを選択したのだ。
目立つ――それはきっと、こころが着る水玉模様の浴衣が原因だろう。
喫茶店に訪れてから早一時間が経つ。俺とニノは話を進めることもなく、うだうだと押し問答を繰り返していたわけである。すでにコーヒーは三杯目に突入し、店を出るまで一体いくつのカップを空にするか見物だった――
「――で、説明してくれるんだろうな」
とにかく事情を聞かないことには始まらない。
ニノは妖艶な笑みを浮かべた。
「そうねえ……まあ白状すると――ウチと士狼の子供かな?」
「帰る」
「――なんていうのは冗談よ」
「……あのなぁ、いい加減に話してくれねえ? 仕事頼みたいんじゃなかったのか? ていうかお前、誰からそれを聞いたんだよ」
「シャルロットよ。なんでも、困ったときは士狼に頼めば万事解決、とのことらしいけど」
「……あのバカ吸血鬼が。帰ったらオシオキだな」
つまり、この厄介事の原因はシャルロットだということだ。あとで頬を風船のごとく膨らませるぐらい罵ってやらねばなるまい。
「とまあ、そういうわけでお仕事を頼みたいわけ。分かる?」
「分かるかボケ。とにかく全部説明してから言いやがれ」
思わず剣呑とした目つきになってしまう。
こころと眼が合う。すると、そのちいさな身体をびくんと震わせ、瞳に涙を浮かべながらニノにしがみついた。
「ちょっと士狼、こころが怖がってるじゃない。脅かすのは止めて」
「別に脅かしてねえよ。……そうだよな、ガキ」
「ひっ――!」
仕方ないから機嫌を取ってやろうと無理やり微笑んで見せると、こころは声を失ったようだった。
「どうも俺には子守の才能がないらしいな……。ちょっとショックだぜ」
「それは悲観しすぎでしょ。――ほら、こころも必要以上に驚いちゃダメよ。士狼は女子供にだけは優しいからね」
一瞬、反論してやろうかと思ったが止めておいた。
女子供には優しい男――まさかそのように見られていたとは。なんだか格好いいヤツみたいで少し気に入ったのだ。
「まあ何でもいいか。それよりニノ、そろそろマジで説明してくれ。なんとかしてやるにしても今のままじゃ無理だ」
「……そうよね。まあウチだって説明したいのは山々なんだけど――正直に告白すると、ウチもあんまり分かってないのよね」
「はあ? どういうことだ?」
「簡単に説明すると、ウチは昨日の夕方頃にこころと出会ったのよ。それでこころが帰りたくないって言うから暦荘に連れて行って、一緒に寝て、起きたら朝になってたから士狼に相談しに行ったわけ。分かる?」
「……経緯は分かったが、事情がまったく分からねえ。なんでお前はその――こころでいいんだっけか。こころを連れて帰ったんだ? 親御さんは?」
「知らないわ」
「…………」
「ここで仕事を依頼するわ。ウチたちがどうすればいいのか教えて」
「…………」
マジか。
これは現実なのか、と一瞬気が遠くなった。
ニノがシャルロットとは違うベクトルで馬鹿だということは知っていたが……まさか。
「お前さ、それって誘拐とかじゃねえの?」
「失敬ね、ちがうわよ。そうよね、こころ」
こころは首をぶんぶんと縦に振る。
……どうも誘拐犯に脅された子供にしか見えないのだが。
「それで――俺はどうすればいいんだ?」
「だからさっき言ったじゃない。どうにかして」
「…………」
「うん? どうしたのよ、そんなに大口を開けて。なにかおかしなこと言ったかしら?」
――駄目だ、何から話していいものか分からない。
ニノの奴、俺のことを魔法使いとでも勘違いしているんじゃないだろうか。いや、例えその誤認が事実であり、俺が真実魔法使いであったとしても現状を解決するなど不可能に違いない。
まあ現実的な解決策を打ち出すとすれば、警察に連絡するのが一番か。ニノが誘拐犯――じゃない、迷子になっている子供を保護しました、と。
「なあ、こころ。お前の親御さんとかは?」
「――えっ、あ、あの……」
俺に声をかけられただけで、こころは身体を大きく震わせる。
「心配すんな、別に取って食ったりはしないから」
「……はい。その……ごめんなさい」
「謝らなくてもいい。その代わり教えてくれ。お前の両親は何をしてるんだ?」
「……両親……。っ――お母さん……!」
母の名を呟くのと同時。
なぜか――こころはその場で泣き出してしまった。
俺も泣きたくなった。
「――こころ? どうしたのよ、一体。なにか言えないことでもあるの?」
もしかすると、言えないことではなく、言いたくないことではないのか。
例えば、こころの母親はもう――他界しているとか。
「っ――違い、ますっ! 絶対に、お母さんは……生きて……っ、生きてますっ!」
最悪の可能性を思いついた瞬間のこと。
こころは涙に濡れた顔を上げて、珍しく強気な様子で反論した。
「あ、ああ。悪かった。……だから泣き止んでくれよ。な?」
「……は、い」
ニノから手渡されたティッシュで鼻をずぴーとかんだあと、こころは「泣いてしまってごめんなさい」に近いニュアンスのことを言った。基本的には礼儀正しい子らしく、常に何かに怯えているような様子を除けば良家のお嬢様に見える。
「……実は」
俺が思考していると、こころはぽつりと呟いた。
「……お母さんと……はぐれてしまったんです。だから、あたし……ずっと、ずっと探してて、それで……」
「はぐれた? ほかに家族はいないのか? 警察に連絡は?」
「いえ、……お母さんしかいません。――それと、警察にだけは……絶対に、連絡しないでください」
「理由を聞いてもいいのか?」
そこから先、こころが口を開くことはなかった。
――だが二つだけ分かったことがある。
それは、こころが母親を探しているということ。
そして――こころとの出会いを含めた一連の出来事は、きっと簡単には解決してくれないだろうということ。
「……まったく、面倒な話を持ってきやがる」
「ご、ごめんなさい……」
しゅん、とこころが小さくなる。
「――でもまあ、最近身体を動かしてなかったからな。たまには仕事すんのも悪くねえだろ」
「ねえ士狼、それってもしかして……?」
期待に満ちた眼差し。というよりも、初めから俺が仕事を引き受けると確信していた瞳だ。
――なんてバカな女なのか。だからいつも脳内がピンク色に染まっているんだ。この狼少女は。
でも――
「まあ、俺って女子供には優しいんだよ」
自分なりに格好をつけて言ってみる。
「――なんとかしてやるよ、こころ。……なんとかな」
俺がそう言うと、こころは頬を染めて笑った。
――とにかく面倒な仕事を引き受けてしまったようだ。依頼人はニノとこころ、仕事内容は『なんとかしてくれ』で、警察の類は頼っちゃダメと。……まとめてみると、ずいぶんと無理難題を押し付けられたものだと思う。
真面目な話をすると、可哀想じゃないか。こころと名乗る少女――あんなちいさな身体をした子供が、母親を探して泣いている姿なんて見たくない。だから俺に出来ることがあるなら手伝ってやりたい。
――まあ。
これから何をすればいいか、皆目検討がつかないことに変わりはないのだが。
それからしばらく。
時間の流れというのは意識していないと本当に早いものだ。時計を見つめて過ぎる十分と、運動をして過ぎる十分が同じだとは到底思えない。まるで化かされたような気分にさえなる。
喫茶店のオープンテラスにいた俺たちは、黄昏が訪れると同時に店を出た。ちなみに俺が飲んだコーヒーは十杯以上にも上った。あまりに考えることが多すぎたものだから、ついつい煙草感覚でがぶ飲みしてしまったのだ。
日が沈んでくると、さすがにオープンテラスは人気が無くなる。真白の空席が寂しそうに並んでいるのを見ると、とてもではないが居座り続けることができなかった。あんなところで注目されるのは勘弁願いたいのだ。
清算を済ませて俺たちが向かったのは街一番の自然公園である。暦荘に戻るのはちょっと気が引けたし、かといって他に優れた溜まり場もなかったので、必然的にココになってしまった。
ホットの缶コーヒーが二つと、甘いミルクティーが一つ。自販機で当面凌ぎのエネルギーを調達した俺は、ニノとこころが待つベンチへと向かった。
「――っ、なんだ?」
その道中――茂みの中に、見覚えのあるモノを見つけた俺は思わず立ち止まってしまう。
丁寧に舗装されたセラミックブロックの上。夕日に作り出された俺の影が細長く伸びていた。
「……気のせい、か?」
目を瞬かせてみる。
俺の勘違いでなければ、茂みの向こうに猫のようなモノがいて、じっとこちらを見ていたような。
街が朱色に染まり始めた今の時間、お世辞にしか視界が優れていると言えず、物陰に潜むものを見逃してもおかしくはない。なのに、なぜ俺がその猫に気付いたのか。――答えは簡単。そいつが薄っすらと光り輝いていたからだ。
あれは確か――ついこの間のことだ。俺の部屋で雪菜が編み出したという式神。通常の猫とはやや異なるフォルムで、微妙に透けた半透明の体躯と、神秘的な輝きを放つ白い体毛の子猫――それに酷似していたような気がする。
確かめてみたいところだが、肝心の猫がどこにもいないのでは話にならない。あまりにも痕跡が見当たらないので、もしかしたら俺の勘違いだったのかもしれないとさえ思う。
……考えていても始まらない。今はニノとこころの元へ急ぐとしよう。
俺は火傷しそうなほど熱い缶をてのひらの上で転がしながら歩き出す。
――ベンチへ向かう途中に見かけた、公園に突き刺さるようにして設置された大時計。
――時刻は5時45分を指していた。
しばらく歩いていくと、開けた景色が目に付いた。
円形の広場である。病的なまでの正確さで切り取られた真円のスペースには、中央に豪奢な噴水が建てられており、今もなお水を吐き出し続けている。背高い木々が周囲を取り囲み、鬱蒼とした茂みがその周囲をさらに囲んでいる。
豊富な若緑が目立つ広場だが、そこかしこには人の手による装飾が施されており、自然と人工の絶妙なバランスだ。
この円形の場所には、等間隔で配置されている木製のベンチがある。上空から見れば時計に近いだろう。数もぴったり十二だ。一から十二までの数字が並ぶように、ベンチも並んでいる。
その数字にして六のベンチに、二人の姿があった。
「――ほらよ。優しい俺からのおごりだ」
二つの缶を放り投げる。
ニノには缶コーヒーを、こころには紅茶を。
「わっ、――っ!」
どうやら運動神経には恵まれていないらしく、こころは一度受け取ったはずの缶をてのひらから落としてしまった。
――しかし缶が地面に落ちることはない。
「まったく――しっかりしなさいよね」
驚異的な反射神経と反応速度。
先の状況で、人間ならば自分の分を受け取ることで精一杯だっただろうが、ニノはさらにこころの缶をも中空で拾い上げた。
――それを見て思う。やはりニノの身体能力は驚異的だと。
もしも真正面からぶつかり合えば、現役のころの俺だったとしても殺されてしまうかもしれない。それほどまでに人間と人狼の差は大きい。
だが言い訳をさせていただくなら、別に勝機がないわけじゃない。
定義すると、何の障害物もないまったいらな空間かつ、素手で闘りあった場合はニノが勝つだろう。
反対に、街中や森の中みたいな空間かつ、何かしらの武器を使っていいのなら俺が勝つ。
……もっとも、たとえ前者のパターンだとしても簡単に負けるつもりはない。まあこればかりは実際に闘りあってみないと分からないか。今度一度、身体を鍛える目的でニノと組み手とかしてみるか――?
なんにせよ、いま考えることではないな。
「ちょっと士狼、女の子にはもっと優しく接するものよ」
はい、とこころに缶を手渡す姿は、微妙に不機嫌そうだった。
「今日の昼頃からお前に付き合ってやってる時点で、俺の優しさは天井知らずだと思うぜ」
「……もう、士狼ったら。付き合ってるなんて……」
「帰る」
「――冗談よ、冗談。……まったく、そんなにウチと付き合ってるって思われたくないんだ……」
一人でぶつぶつと文句を言いながら、ニノは蓋を開けてコーヒーを飲んだ。
つられて俺もプルトップを開く。
さらにつられたこころも、仲間外れになっちゃいけない! とでも言うような慌しさでプルを――
「……ぅっ――! ……開か、ない……」
非力すぎるせいか、なんと缶の蓋を開けられなかった。
まあ子供の握力では仕方ないか。つまり、そう悲観することでもないのだ。
しかし、簡単にプルを開けた俺たちと自分を比べてしまっているのか、こころは瞳に涙を浮かべていた。
「……しょうがねえな。ほら、貸してみろ」
「え? あっ――」
問答無用で缶を奪い取ると、俺は数秒のうちに蓋を開き、こころの手元に返してやる。
「それで飲めるだろ?」
自分なりに格好いいつもりの笑顔を浮かべてみた。
「……はい。ありがとう……ございます」
こころが頬を染めて顔を綻ばせる。
とても自然な笑み。一見して根暗なヤツかと思ったが――
「いいな、お前そのままずっと笑ってろよ。そっちのほうが可愛いぞ」
「――っ! っ、――っ!」
タコのように顔を真っ赤にさせて首をぶんぶんと振る。あまりに勢いが強かったものだから頭が飛んでいくんじゃないかと心配した。
どうも異性からの褒め言葉には慣れていないようだ。
「……やっぱり。フランシスカのときからもしかして、とは思ってたけど――なんて盲点なのかしら」
そんな俺たちを、ニノは探偵のような物言いと仕草で見つめていた。
――広場から遠く、灯台のように背高い大時計。
――時刻は5時55分を指していた。
それからしばらくは、取り留めのない世間話に興じていた。
中身のない会話――恐らく明日にはその大半を忘れているだろう。
しかしそれでもいいのだ。俺と、ニノと、こころと。この三人の間で飛び交う言葉は、意味がないからこそ意味があった。事実、俺たちの距離は出会ったときよりもずっと近くなっていた。
当初は俺に怯えていたこころだが、今となってはぎこちないながらも会話が成立している。こいつって笑わないんじゃないか? と思ってしまうほどに無表情だったのに、俺とニノが繰り広げるバカ話に、時折小さく笑いをこぼすのだ。
――それが嬉しかった。
やっぱり女は笑っている顔が一番可愛いと思う。だから、こころも笑ってなきゃウソだと思うのだ。落ち込んでる顔とか、泣いてる顔なんて絶対に見たくない。もし俺が少し頑張るぐらいで誰かが笑ってくれるなら、ちょっと骨を折るぐらいは構わないだろう。
……まあ、実際に骨を折られてはたまらないのだが。この間も肋骨三本イッちまったし。
「――士狼」
コーヒーを飲み終わるのと、名を呼ばれるのはほとんど同時だった。
氷のように冷たい声。ニノは注意深く周囲を見渡していた。
「ああ? 一体なんだって――っ」
続く言葉を呑み込む。
――喧騒が、無い。
人間による声や物音だけじゃなく、動物の気配も、草木がざわつく音さえ――いや、風すらも止んでいる。
停滞してしまった世界があるとすれば、それはまさしくこの広場だろう。ただし噴水だけは止まることなく水を生み出し続けている。さっきまでは大して気にならなかった水滴の弾ける音が、妙に大きく聞こえた。
「……おかしいわね」
「ああ」
じり、と足を後退させて俺たちは距離を埋めていく。何があっても即座に対処できるように、こころを背中で護るように。
「――――来る」
不意に。
ベンチに腰掛けているこころが、眼前を見据えながら呟いた。
”来る”とはどういう意味か、問いただそうとした瞬間――それは来た。
――時刻は6時を指していた。
それは別名――逢魔時。
俺ははじめ幻覚を見ているのかと思った。
広場の一部――ちょうど俺たちの眼前の空間が、陽炎のように揺らいだのだ。
心臓がチクリと痛む。……なんだ、これは? 身体的には大した異常じゃないが、この周辺の――例えるなら、磁場が狂ってしまったかのような錯覚を覚える。
「あれは……なに?」
ニノが瞳を細める。獣耳は警戒したようにピンと尖っていた。
赤い斜陽に照らされた空間が揺らぎに揺らぎ、まるで異世界とでも繋がるのではと危惧するほど揺らいだ先――気付けば、なにか異形の物体が立っていた。
赤黒い体躯は人間とは思えないほど巨大で、硬質化した筋肉は鎧のようにナイフの刃程度なら跳ね返すだろう。頭には角のようなものが二本生え揃っていて、時折口から漏れる唸り声は、贔屓目に見ても人間のそれとは思えない。
異形は、俺たちの姿を認めると迷うことなく向かってくる。どすん、と現実離れした足音。ソイツは歩くだけでもバケモノ染みていた。
――それにしても、こいつはなんだ? 吸血鬼でもなく、人狼でもない。少なくとも俺はこんなヤツを知らない。
「……? コイツ――」
微妙な違和感に気付き、俺は眉をひそめた。
いきなり魔法のように現れ、殺人鬼のごとく俺たちに殺意を迸らせるわりに――なぜか、一度として視線が合わない。本来であれば、獲物から視線を逸らすなど正気の沙汰ではないのに。
ニノを一瞥すらせず、俺に至っては眼中にすら無い様子。
――つまりは消去法。
もしかして、コイツの狙いは――!
「っ――ニノ!」
警戒を促す。
しかしニノも素人じゃない。俺に言われるまでもなく、すでに戦闘態勢に入っている。
「……それにしても、コイツなんなの? 日本でよく聞く……えーと、なんだっけ――ああそう、鬼とかいうやつ?」
「――ううん、ちがうよ」
静かな声で否定する。
眼前に敵が迫っているにも関わらず、俺とニノはこころのほうへ振り向いた。
「――あれは……”餓鬼”。死したヒト……その成れの果て。強欲な死者。鬼モドキ。質量を持った悪霊。……アレが”鬼”なわけないよ。……本当の鬼は、もっともっと残酷だから」
悲しげに、しかし淡々と発声するこころ。
「……お前――なんでそんなことを知ってる?」
再び異形――ではなく、餓鬼に向き直った俺の背中。
こころの声がかけられた。
「――あたしも――妖だから」
噛むこともなく、たどたどしくもないその告白は。
――どこか、懺悔に似ていた。