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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
第四月 【守る物、護る者】
54/87

其の二 『数奇』


 ――あのっ……に、肉まんをくださいっ――

 それが出会いの第一声だった。


 ニノは軽快に進めていた足を止める。名を呼ばれていない以上、先の声が自分に対してのものだとは確定できないが――しかし周辺で肉まんを食べていたのは、何を隠そうニノだけだったのだから仕方ない。

 なんだなんだと思ってキョロキョロと見渡してみた。眼につく限り、肉まんを欲していそうな人間は誰もいない。……もしかしたら気のせいだったのだろうか。

 人間よりも遥かに聴力の優れた人狼ではあるが、まあ誰にだって間違いはある。空きっ腹に肉まんというコンボは、思わず幻聴を耳にしてしまうほどの威力を持っていたのだ。そういうことにしておこう。

「……に、肉まんくださいっ」

 あれ、また幻聴が聞こえるおかしいな――ニノは思った。

「……おかしくなんてないですっ」

「え――?」

 違和感。

 何がおかしいかと明確には表せないが、ニノは微妙な――例えるなら、歯の間に何かが詰まっているような気持ち悪さを覚えた。

 自然と俯く。すると視線も下がって――ようやく声の主を見つけることが出来たのだった。

「……もしかして、肉まん欲しいって言ったのアンタ?」

 答えはなく、声の主はこくんと頷くことによって応えた。

 ニノの眼前に立っていたのは、ちいさな少女だった。恐らく十歳前後だろう。顔立ちが幼ければ、体だって未成熟であり、身長だってかなり低い。

 やや薄汚れた水玉模様の浴衣に身を包み、黒い髪をこじんまりとしたおかっぱ頭にしている。良く言えば温室育ちのお嬢様みたいだったが、悪く言えば座敷童子にも見えた。

 感情の薄い顔――というよりも、引っ込み思案のようだった。表情が無いのではなく喜怒哀楽を表に出すことが苦手なのだろう。両手をつねに胸の前で遊ばせているからか、とてもオドオドしているようにも見える。他者との間に壁を作りたがっているというか。

 きっと笑えば可愛いのだろうけど――なんだか勿体無いような気がした。

「……えっと。肉まん……欲しいんだっけ?」

「はい……」

 まだ一口しか食べていないのに――いや、でも一口だけでも食べられたんだから僥倖なのだろうか。この際だからもう一度コンビニで新しい肉まんを――

「あ……大丈夫です。半分個に……してもらえば……」

「そう? ……じゃあ、まああげるわよ」

 ぶっきらぼうに言うと、少女は花のように笑った。

 ――なんだ、やっぱり可愛いじゃない。

 戸惑い続けていたニノであったが、少女の笑顔を見て、つられたように微笑んだ。


 ――さて。

 どうしてこんなことになったのだろうか。

 道端を歩いていると、見ず知らずの幼い女の子から肉まんを求められる。……うーむ、新手の物語としてもいまいち締まらない。

 本当にどうなっているのだろう。

 確か今日は、シャルロットと楽しく出かけていたはずなのに――




****




 まず一つ、とっても重大な事実をお教えしちゃおうと思う。

 実はここだけの話だけど私――シャルロットは、吸血鬼なのだ。それもただの吸血鬼じゃなくて、とある喫茶店で大人気商品とまで呼ばれるほどの美少女だったりする。えっへん。

 そんな私は本日、久しぶりに仕事が休みだったものだから、大事な友達であるニノと遊びに出かける予定だった。当然ニノも休日である。偶然にも二人のシフトが重なって空いていたのだ。

 待ち合わせ時刻は午前十時。別に異性とのデートでもないから、捻りもなく暦荘の前が集合場所だった。私が雪菜や千鶴と遊びに出かけるときも、まあ大体が今日と同じような感じだ。

 とりあえず九時ぐらいに目覚めた私は――女の子は準備に時間がかかるのだ――五分ぐらい毛布に包まって睡魔と格闘したあと、本格的に起床することにした。

 アクビを何度も噛み殺しながら、顔を洗って、髪を梳かして、洋服を選んで、髪を後ろで一つに結って――最後に、子犬のネックレスをつける。

 てきぱきと用意を進めていくと、なんと予想以上に時間が余ってしまった。具体的に言えばあと十五分はヒマである。

 ……まあ家でぼんやりしていても仕方がないし。ちょっと早いけど、暦荘の前でニノを待とう。

 そんなわけで、私は誰もいない部屋にいってきますを呟いて出発することにした。まだ肌寒い冬さんに対して文句を言いながらも、軽快に階段を駆け下りていく。

 ちなみに、わたしの部屋は暦荘二階の一番端である206号室だ。だから階段までは一番遠いのだが――まあ位置的には悪くない、位置的には。具体的に何がとは言わないけれど。

「……先に来てるわけないよね」

 暦荘の前には、当然のように誰もいなかった。まだ待ち合わせ時間には早いから仕方ないんだけど――きっとニノが来るのは、十時をちょっと過ぎたころに違いない。

 ニノは時間にルーズというか、基本的には自由な女の子というか。本人曰く「狼は誇り高いのよ、何者にも縛られないのよ」みたいな言い訳をしていた。ていうかこの前リボンで縛られてたのに。

「……ん?」

 ふと足元にくすぐったさを感じた。

 なんだと思って、視線を下に向けてみた。

「あっ、猫だ。……この人懐っこさ――もしかしていつかの?」

 私のブーツに頬を摺り寄せるようにして、白い体毛の子猫がそこにいた。ひっきりなしに鳴き声を上げて、さっきからずっとごろごろ言ってる。

 私はその庇護欲をかきたてる愛らしい容姿に惹かれて、膝を曲げてしゃがみこんだ。

「おはよう、猫ちゃん」

 とりあえず挨拶してみると、猫は人語を理解しているかのように小さく鳴いた。

「……可愛いなぁ。えっと、撫でてもいい?」

 さすがに返答はなかったが、その代わり私をじっと見つめる瞳が「構わん」と言っているような気がした。だから遠慮なく触れてみることにする。

 ――たしか猫は……首筋あたりを撫でられるのが気持ちいいんだっけ? 犬なら分かるんだけど、猫とは道端ですれ違う程度の付き合いしかないから分からないなぁ――

 うろ覚えの知識をフル稼働して、私は恐る恐る指を伸ばす。

 首元をマッサージしてみたり、指でなぞるようにして触れてみたり。すると効果があったのかは分からないが、白い子猫は気持ちよさそうに声を上げた。

「本当に人懐っこいなぁ。……大丈夫かな? あんまり人懐っこそうにしてるとダメだよ? 悪い人に連れ去られちゃうかもしれないからね」

 うりうり。

 ――ごろごろ

 うりうり。

 ――ごろごろ。

「……えへへ」

 これは可愛い。

 私がアクションを起こした分だけリアクションしてくれるのだ。思わず笑みが浮かんでくる。


「――ちょっとシャルロット、何してんのよ。そんな人懐っこそうに笑っちゃって」


 不意に背後から聞きなれた声がした。振り向いて確認せずとも分かる。

 これは――

「いいからいいから、ニノもこっちに来てみなよ」

 右腕を背中側に持っていって、ちょいちょいと手招きする。

 呆れたようにため息をつく気配がしたが、問題ない。きっとニノもこの猫を見たら夢中になってしまうと思うのだ。

「……猫じゃない。この子がどうしたのかしら」

 私のとなりに腰を下ろし、ニノは肩にかかった赤い長髪をやや鬱陶しそうに振り払う。

「いやいや、感想はそれだけ? この子とっても可愛いよね?」

「まあまあね。もしもこの猫が望むなら、三十秒間だけ撫でてやってもいいわよ」

「……なんだか偉そうだね。まあとにかく、ニノの好きにしてみたらいいんじゃないかな」

「分かったわ。あーあ、ウチが触れることでこの猫が自信を無くさなければいいんだけどね」

 どんな理屈だ、とも思ったが口には出さなかった。

 白い子猫は突然現れたばかりのニノにも好意的な様子だった。うりうりと弄られるたびに気持ちよさそうに鳴いている。

「……ふん、仕方ないからあと三分ほど撫でてあげてもいいわよ?」

「誰に言ってるのかな、それ」

 確かに――ニノの表情は台詞とピッタリのしかめっ面ではあったが。

 なんでだろう。

 さっきから頭部についた獣耳が、犬のしっぽみたいにピコピコと上下左右に動いているんだけど。

「……ねえ、もう三分経ったよ?」

「うるさいわね。まだ三十秒しか経ってないわよ。ちょっと黙ってて」

「…………」

「ふう、それにしてもこの猫ったら全然可愛くないわね。……あれ、でもなかなか耳の形がいいわね。ツヤもあるし、手触りだって――」

 急に真剣な顔になったかと思うと、ニノはぶつぶつと独り言を呟きながら、猫の耳に注目し始めた。

 ――と、思ったら今度は、自分の耳を触って何かを確かめている。もしかして勝負とかしているつもりなんだろうか。

 ニノの奇行を見ていると、なんだか私まで猫の耳が可愛く思えてきた。

「確かに、耳がとっても可愛いね」

 ピクッ――

 気のせいかもしれないけど、ニノの耳が大きく震えたような。

「……こほん。ねえシャルロット。今なんて言ったの?」

「え? いや、だから耳が可愛いって」

「ふ――ふふ、そうかなぁ? そんなに――」

「だよね。この猫の耳・・・って、とっても可愛いよね」

「……え」

 ぎぎぎ、と音がしそうなぎこちなさでニノは振り向いた。

 ――瞬間、身体がぶると震える。……うーん、なんだか冷たい殺気を感じたような……。

「……シャルロット。女って生き物はね、やっぱり見る眼を養わなきゃいけないと思うのよ。分かる?」

「はあ、まあ分かるけど。それよりさ、いきなりどうしたの?」

「まだ分からない? 本当にバカねアンタ。……だから、アレよ。えっと――こほん、とにかく見る眼を養うのよ。いい?」

「――? うーん、そこまで言うなら努力してみるけど」

「それでいいのよ。じゃあ早速だけど、身の回りのモノを褒めてみなさい」

 ニノは腕を組んで権高に命令する。

 正直な話、もしかしたらニノはまだ眠いんじゃないかと思ったけど――仕方が無いから乗ってあげることにした。私のほうが年齢的にはお姉さんだからである。えっへん。

 私は子猫のカラダを撫でながら言う。

「ねえニノ。この猫の耳って可愛いよね」

「……ふう。やっぱりウチが期待しすぎていたみたいね。これじゃあ士狼に嫌われるのもそう遠くないかなー」

「えっ――」

「あーあ、可哀想なシャルロット。見る眼のない女の未来なんて決まっているのにね。ほんと勿体無いわよ、せっかくチャンスをあげたっていうのに」

「えっ、え――?」

「今までよく頑張ったわね。もういいのよ? 巣に帰っても」

「っ――ちょっとちょっとっ! 巣ってなによ巣って! さっきから黙って聞いて、い……れば……?」

 少し頭にきて、猫からニノに視線を移したと同時――閃くものがあった。というか気付いてしまったのだ。

 なぜか――ニノの獣耳が元気なさそうにしおれている。しかし時折、寂しそうにピクピクと動くのである。きっと勘違いだろうけど、私にはその動きが「猫の耳じゃなくて、わたしを褒めてよー」と言っているように思えたのだ。

 じぃーとニノを見つめてみる。

「……な、なによ。やるってのっ?」

「別にやんないよ……。それよりさ、ニノ」

「だから何なのよ。用件があるならさっさと言ってよね。この見る目ゼロのへっぽこ吸血鬼がっ」

 へっぽこ吸血鬼……さすがに酷すぎじゃないだろうか

 まあでも反論するのも不毛だし。ここは私が落ち着きを持った淑女であるという証明として、じっと耐えれば丸く収まるのだ。

「ふん、どうしたのよ。珍しく静かじゃない。それとも――」

「――前から思ってたんだけどさ。ニノの耳って、とっても可愛いよね」

「――ウチも前から思ってたのよ。実はシャルロットはとんでもない天才じゃないかって」

 興奮から頬を紅潮させたニノは、私の手をがしっと掴んだ。加えて、顔を思い切り近づけてくるものだからちょっとだけ怖かった。

 さっきまで元気がなかった獣耳は、どうして活気を取り戻したらしかった。まるで犬のしっぽを連想させるような歓喜の動き。それだけ私の言葉が嬉しかったんだろう。

「天才だなんてことないよ。だってニノってさ、誰から見てもすんごく可愛いもん。顔も、スタイルも、性格も、そしてあと――耳も。時々嫉妬しちゃうぐらいに」

「……そうかしら? そこまで言われると照れるわね。でもシャルロットだって美人じゃない? ウチだって時折――本当にたまにだけど、嫉妬っぽい感情を持っちゃことがあるわ」

「いやいや、ニノのほうが」

「なに言ってんのよ、シャルロットだって――」

 見合わせた顔。

 交錯する視線。

 不自然なまでに近い距離。

 互いを暖めあうように握り合った手。

「――あはっ」

「ぷ――くく」

 堪えきれず吹き出したのは――きっと同時だった。

「あはははははっ――!」

 暦荘の前で狂ったように笑みをこぼす。そんな私たちを、猫が不思議そうに一瞥した。

 結局のところ――なんだかんだ言ったって――うん。


 やっぱり私は、ニノのことが大好きなんだなぁ。


 愛する人をずっと昔に失って。

 この世界で――上手くやっていけないや、と人知れず泣きそうになった夜があって。

 ……まあ、なんでもいいか。

 過去も未来も関係ない。私たちが唯一どうにか足掻けるのは、現在いまだけなんだから。

「そろそろ行こっか、ニノ」

 促すように声をかけて、立ち上がる。

 手はまだ繋いだままだった。

「そうね。シャルロットがお腹空いてそうな顔してるし」

 獣耳をピコピコと機嫌よさそうに揺らしながら、ニノも立ち上がった。

 手はまだ繋いだままだった。

「いや、私はそんなにだけど。……まったく、お腹ぺこぺこなら早く言えばいいのに」

「うるさいわね。こちとら朝から何も食べていないのよ。つまり何かを食べたくなるのは自然の摂理ってことなの、分かる?」

「はいはい。早く――あっ」

 行こう――と言葉を繋げようとした矢先。

 白い子猫が「にゃっ」と小さく鳴いて、私たちの目の前から走り去っていった。

 手はまだ繋いだままだった。

「……行っちゃったね」

「ふん、猫ってのはどうもね。撫でられさえすれば後はどうでもいいの? って言いたくなるわね」

「それはさすがにないよ……」

 ぶつくさと不満を漏らすニノだったが――さて、どうしたことでしょう。なぜか頭部についた獣耳が軽快に揺れているんですけど。

 素直じゃないその姿に、私は思わず苦笑してしまう。するとニノはムッとしたような顔をして、私に『狼はいかに素晴らしいのか』を教師みたいなに語るのだった。発言の中に”耳”という言葉が多々あるところを見ると、とにかくさっきの猫よりも自分の方が可愛い耳をしていると言いたいらしかった。

 そこそこに聞き流し、そこそこに同意して。

 私たちは色褪せた青空の下――歩き出す。


 ――手はまだ繋いだままだった。





 さてさて。

 それから私たちは適当に街をぶらつくことにした。いや、適当って言うと計画性がないように聞こえるけど――まあ事実、無計画だったのだから間違ってはいない。

 元々行きたい場所があったわけじゃないし、何かこれがしたいってのも無かったんだ。うん、だから本当に無計画。

 でもそれで正解だと思うのだ。だって私は――少なくとも私は――何処かで何かをすることが目的じゃなくて、ただニノと一緒という事実が大切だったんだから。

 ……まあ。

 そんなことを口にするのは照れくさくって、とてもではないが言葉に出来ないけど。面と向かって大好きと伝えるのは、たとえ同姓であっても勇気が必要だ。己の抱く感情を伝える――そこには必ず、拒絶されるかもしれないという心配が付きまとう。

 もっとも、なんだかんだ言ってニノは私のことを好いてくれている気がする。決して自惚れとか過言とか、そんなつもりはないけれど。

 ただ……なんとなく伝わってくるのだ。

 温かい感情というか――ぐちぐちと文句は言いながらも、内心ではそれなりに楽しんでいるんじゃないかって。私とお喋りしたり、そりゃあ時には口論にだってなるけど、それも含めてだ。

 他人を見下すような発言とか、ちょっと自信家なところとか。実は最近ようやく気付いたことなんだけど、それって不器用なニノなりのコミュニケーション手段だと思う。

 多分、私が困っていたりしたら迷いもせずに助けてくれるんじゃないだろうか。そして、そんなヒーローみたいなニノにお礼を言うと、あの狼少女はきっとこんな感じで照れるのだ。「……ふん、本当に世話が焼けるわね、シャルロットって」と。もちろん頬をちょっぴり赤くして、獣耳がピコピコと揺れるお約束オプションも忘れてはいけない。


「――ちょっと待ってなさい。喉、渇いたでしょ」


 それは朝食兼昼食を駅前のファーストフード店で済ませて、やはり無計画にウィンドウショッピングをしたあと、突然ニノが運動がしたくなったとか言い出したのが始まりだった。

 目に付いたバッティングセンターにお邪魔し、当たり前だがバッティングをすることになったのである。

 それなりにお洒落をした女の子が二人いて――御飯を食べるのは普通、店を冷やかしていくのもまあ普通だろう。ここまではいい。……ううむ、なんでバッティングなのか。

 店内に入ったあとも、私たちはびっくりするぐらい浮いていた。大抵は若い男の人の集団とか、たまにカップルとかがいたりするぐらいで、間違っても女の子二人連れだけは見かけなかった。

 居心地が悪そうにする私を見て、ニノはきょとんとした顔だった。どうも羞恥心の類は持っていないらしい。

 なぜかすれ違う男の人がみんな口笛を鳴らしたりするし、時折指を差されたりもした。……まあしかし。これは偶然だろうけど、そんなときは決まってニノが男性の視線を遮るように、私の前に立ち塞がってくれたのだ。

 お金を払って打席に立つ。

 花も恥らう美少女が二人。お前らの細腕でバットを触れるのか、と内心で呆れていそうな視線の中。

 ……まあ当たり前のように、ホームラン級のヒットを連発するものだから余計に目立った。いや、だって――150キロを打つのって凄く簡単なんだもん。もっと速いのってないのかな?

 ――みたいな感じである。

 得意げな顔でバットを握っていた数多の男性。彼らの自尊心を粉々に打ち砕いてしまった私たちは、そそくさと店内を出た。そしてしばらく歩き、ニノがぽんと手を叩いて放った一言が先のアレである。

 素直な優しさに驚いてしまった私は、思わずニノの額と自分の額をくっつけたりした。……当然、怒られちゃったわけだが。

 近くには自販機の類がなかったので、なんとニノが――あのニノが、である――わざわざ飲み物を買いに行ってくれたのだ。それは現在進行形だ。だから今、私は駅前で一人ポツンと佇んでいる。

 あの狼少女の意外な行動には理由があるっぽい。どうも私をバッティングセンターに誘ったことをちょっぴり反省しているらしい。結構強引だったし、当初は私もぶーたれていたし。まあ終わってみればストレス解消じゃないけど、すっきりしたんで結果オーライといったところだが。

 ……それにしても遅いなぁ、ニノ。どうしたんだろ? 


「――ちょっといいかな?」


 私に声がかけられたのは、そんなときだった。  

「え――?」

 名を呼ばれていないし、駅前の雑多な中での発言だったので、本来であれば私に対しての言葉かどうかは不明だが――なんとなく声の指向性がこちらに向けられているような気がしたのだ。

 振り返ってみる。

 背後には、流行っていそうな服装に身を包んだ男の人がいた。それも一人じゃなくて三人も。計算しているのか、もしくは偶然か――上手く私の退路を絶つような位置取りで立っている。

 ……やだなぁ、こういうの。

 軽薄な男の人って苦手だ。愛想よく微笑んではいるが、胸とか足ばっかり見てくるし。少し無遠慮すぎると思う。女の子は意外と視線に敏感ってこと知らないのかな。……いや違うか。きっと理解した上で、私に意識させるためにあえて見やってるんだ。

 いつもこうだ、イヤになってくる。

「――ねえ、キミ何してるの? さっきから見てたんだけど、ずっとここに立ってるよね」

 三人のうち、真ん中に位置するリーダー格っぽい人が話しかけてくる。

 ここは適当にやり過ごすのが吉だろう。

「あぁ……えっと。友達を待ってるの」

「待ち合わせってこと? ちなみにそれってさ、男?」

「ううん、女の子だけど――」

 答えると同時――彼らは口端を歪めた。

 視線でアイコンタクトを取って何やら頷いたあと、ずいっと一歩踏み込んでくる。物理的な距離が近くなって、私のなかの不快指数は上昇しっ放しだった。

「――じゃあさ、その子が来たらどっか遊びに行かない?」

「あのね、どうして私なの? 他にもいっぱい女の子いるよね。別に私じゃなくてもいいと思うんだけど」

「面白いことを言うね。キミを一度見ちゃったら他の女の子に声なんてかけれないって。――アレじゃないの? 海外でモデルとかやってたりしない?」

 ……バカみたいだ。

 私にお世辞は通じない。むしろ心無い上辺だけの言葉にイライラは最高潮に達してしまいそうである。

 身体を舐めまわすような視線に吐き気さえ覚える。せっかくの盛り上がっていた気分が台無しだ。バッティングによって発散したストレスが、私のなかで再び溜まっていくようだった。

「……はあ。あのね――」

 一発ガツンと言ってやろう――そう奮い立ったときのことだった。


「――何してんのよ、アンタたち」


 聞きなれた――けれど普段よりも幾分か鋭い声がした。

 まるで男の人たちから私を守るようにして間に割り込む影があった。鮮烈な赤い長髪はこれでもかと人目を惹き、ちょっと怒った顔はなまじ美人な分だけ怖かった。

 三人の男性の視線から私を護るようにして。

 ――なぜか缶コーヒーを二つ手に持った、ニノがそこに立っていた。




****




「――あーあ、今思えばなんでウチがこんなことを……」

 息が詰まりそうな人込みの中をすり抜けるようにして歩きながら、ニノ=ヘルシングはぶつくさと悪態をついていた。

 唯我独尊という言葉を体現したように自由なニノだが、その実は強い思いやりの心も持っている。ただ素直になれないだけで――ああいや、素直になれない度合いが高すぎるのが問題だったりするけれど。

 今回もその不器用さが原因だ。

 久しぶりに運動がしたくなったからバッティングセンターに向かい、気の済むまで体を動かしたのはいいが、満足して冷静になってみれば、シャルロットを強引に誘ったことに罪悪感を覚えたのだ。

 まったく――どうにも締まらない。ちょっとしたご機嫌取りのような真似をしてしまうなど。

 しかし後悔するほどでもない。反省ぐらいでピッタリだろう。今度からはもっとスマートに立ち回って見せればいいだけの話。

「……ふふ」

 薄っすらと笑う。

 シャルロットと出かけている事実にも苦笑ものだったが、何より――まさかあの自分が。生まれたときから誰かを殺すことを義務だと認識してきた自分が、普遍的な女子と変わらぬ生活を送っている――改めて思うと不思議で仕方ないのだ。

 ニノの獣耳が軽快に揺れる。

 それは表面には出さないが、強い愉悦を感じている証だった。

 やがて適当な自販機でジュースを買う。数ある清涼飲料水を差し置いて選んだのは、なんと味気ない缶コーヒーだった。そのチョイスが間違っているとまでは言わないが、年頃の乙女が好んで飲むにはいささか渋いだろう。事実、ニノはどちらかと言えば紅茶派だった。

 それは無意識下での行動。

 なぜ缶コーヒーを選んだのか――あえては語るまい。言葉にした途端に色褪せてしまうモノもきっとあるから。

「ふう、ウチも丸くなった――――うん?」

 灰色の瞳がすぅと細められて、獣耳が警戒を示すようにピンと尖る。

 遠く――待ち惚けているだろうと予想していたシャルロットを見つけたのはいいが、どうも余計な連中までついてきたようだ。

「……まったく、世話が焼けるわね」

 足早だったペースを落とし、面倒だなぁとかぶりを振った。

 それにしても――男という生き物はどうしてああも愚かでみっともないのか。もちろん全ての男性がそうだとは言わない。しかし軽薄でナンパな人間が多すぎると思うのだ。

 街を歩いただけで、いちいち声をかけられてはたまったもんじゃない。言い方は悪いが、ハエに集られているような気分にさえなる。

 シャルロットを取り囲むようにして長広舌を振るう男たち――その背後から忍び寄り。

 彼らの間をわざとすり抜けるようにして登場したニノは、困った顔で対応していたシャルロットを背中に隠した。


「――何してんのよ、アンタたち」


 剣呑とした目つきで睨んでやる。

 シャルロットに声をかけた三人の男は――まあ、それなりにはマシな容姿をしていた。髪だって薄っすらと茶色に染めたぐらいでそこまで派手じゃないし、服装も一見して普通だが細部には各々のこだわりが感じられる。雰囲気も明るくさっぱりとしていて、きっと女性受けがいいのだろうなと思わせる。

 もっとも、だからと言ってニノが心を許すはずも無い。むしろ明け透けな下衆のほうが気兼ねなく追い払えるぶんマシだったろう。

 男たちは、突然現れたあげく喧嘩上等といった態度を見せるニノに呆気に取られていた。でもしばらく――時間にして十秒ほど――つまり状況を把握するだけの余裕を持つと、呆けていた顔を、愛想いい笑みに変えた。

 ――じろじろと這い回る蛇のような視線。それこそ足の爪先から頭のてっぺんまでを観察される。

 点数をつけられているような気分だった。

「……びっくりした。お友達まですっげえ美人じゃん」

 吐き出された言葉は、軽妙な語り口に比べて真実感心しているように思えた。

「あっ、ニノ――」

「アンタは黙ってなさい。話が長くなりそうだから。……まったく、ちょっと眼を離しただけなのにね。危なっかしくて一人にできないわね」

 妹の面倒を見る姉のように呟いて、ニノは男たちに向き直った。

「――それでさアンタたち。男三人が寄って集って一人の女を囲む――ねえ、これって恥だとは思わない?」

「いきなりキツイこと言うね。でも気が強い女の子って好きだよ」

「そ、ありがと。でもウチは軽薄な男が大嫌いなのよ」

 一触即発の空気が形成されていく中。ニノの獣耳がこれでもかと針のごとく尖っている。

 それを認めた男が感嘆の意として口笛を鳴らした。

「ねえねえ、その耳ってコスプレか何か?」

「はあ? いきなり何言ってんのよ。とっととウチたちの前から――」

「いやだってメチャクチャ可愛いからさ、その耳」

「…………そ、そう?」

 男が放った言葉に、ニノの居丈高だった態度が一変する。

 合わせて、獣耳がピクっと反応した。

「……ニ~ノぉ?」

 間延びした声。それは言外に咎めの意味を持っていた。

 うっ、と思わず息を飲む。

 ニノが振り返ってみると、シャルロットは赤い瞳を半眼にしていた。

「わ、分かってるわよっ。ちょっと懐柔されそうなフリをして、油断したところをガツンと――」

「じぃー」

「……はいはい、悪かったわよ。もう気を抜かないから」

 いまだ追求するような視線を向けてくるシャルロットに反省の意を示し、ニノは前髪をかき上げた。

 男たちに向き直ってみると、彼らは一様に気抜けたような顔をしていた。

 ――ニノは気付いていない。自分が髪をかき上げた仕草に、男たちが見蕩れていたなどと。

「とまあ、そういうわけよ。じゃあね」

 あっさりとした発言。

 ニノはシャルロットの手を取ると、そのまま歩き出した。

「あっ、おい――!」

 放心していた男が思わず声を荒げる。

 ――それに少しだけイラっとした。

「……ねえ、いい加減にしてくれない?」

 振り返りざまに一睨み。

「っ――!?」

 男たちは三者三様に驚愕し、体を震わせた。

 ――ニノの視線に込められた強い敵意を感じ取って。

「ふん……シャルロット、行きましょ」

「う、うん」

 奇跡的に見つけた極上の美人――どうにか近づきになりたかった男は、静止の声をかけようとした。乱暴な手段に訴えかけてまで手に入れたいとは考えていなかったが、それでも簡単に見逃してしまえるほど感心が薄いわけでもなかった。

 ――しかしもう遅い。

 人ごみに紛れるようにして、ニノとシャルロットはその場を離れてしまったからだ。

 金髪赤眼の少女に言い寄った三人の男は、互いの顔を見合わせてガックリと肩を落としたのだった。

「……それにしてもアンタって本当に鈍いわね。もっと自分でどうにか出来なかったの?」

 込み合った駅前の雑踏。

 自分のやや後方にいるシャルロットに向けて問う。

「うーん、なんかさ。ああいう人たちってどうすればいいのか分かんなくて」

「適当にあしらうだけじゃない。ちょっと強く言ってやるぐらいでいいのよ。仮に襲われたって問題ないんだから」

 しょせんは人間の男である。

 いくら粋がろうが、吸血鬼と人狼を相手取ることなど出来やしないのだ。

「ニノはかっこいいなぁ。颯爽と現れて、ヒーローみたいに助けてくれるんだもんね」

「あれだけでヒーローになれるなら特撮モノは廃れてるわよ。それにアンタは」

「――でもさ」

 遮るように言う。

 シャルロットは人懐っこい笑顔を浮かべて、ニノの手を取った。

「――私が困っていたらね、そのときはニノが助けてくれるんでしょ?」

 えへへ、と照れくさそうに笑う。

 しかし、もっと照れくさそうだったのはニノであった。

「……ふん、本当に世話が焼けるわね、シャルロットって」

 飾り気のない純粋すぎる信頼。思わず視線を逸らして、ぶっきらぼうに応えてしまう。

 ――だが。

 もちろん頬をちょっぴり赤くして、獣耳がピコピコと揺れるお約束オプションも忘れていない。


 ――悠久の血を受け継いだ吸血鬼と。

 ――偉大な勇名を姓に持つ人狼と。


 誰かが夢を見た――狼と吸血鬼が手を取りあう光景が、そこにはあった。





 ――とまあ。

 そんなこんなで現在に至るわけだ。

 夕方近くまで適当に羽を伸ばしていた。意味もなくデパートに入ったりとか、本屋で立ち読みをしたりだとか。振り返ってみれば、本当に非効率的な時間だったと思う。

 もっとも――ちっとも後悔はしていないのだが。

 頃合だと帰宅することになった二人は、途中までは一緒だった。しかしシャルロットが「ちょっとブルーメンに用があるんだ」と言ったのをきっかけにして別行動を取ることになった。

 夕日に溶けるようにして駆けていく後姿を見送ったニノは、帰りに立ち寄ったコンビニで肉まんを買ったのだった。理由? それはもちろん小腹が空いていたからに決まっている。

 家に帰るまで律儀に待つ必要はない。むしろ、こういうものは歩きながら食べたほうが美味しいだろう。まあ年頃の女の子としてクレープとかならともかく、肉まんはどうかと考えなくもないが。

 熟れた鬼灯に似た夕焼けのなか、ニノはさっそく袋から肉まんを取り出し、あーんと口を開けてかぶりついた。もともと肉まんを数えるほどしか食べたことがなかったからか、飽きもまったく感じず、美味しく味わうことが出来た。

 寒さで縮こまっていた獣耳が、咀嚼しようと顎を動かすたび、それと連動するようにピコピコと動く。きっとニノを深く知る者ならば、彼女がいまどれだけ機嫌が良いのか分かるだろう。

 そして。

 ――例の一言がかけられたのは、ニノが満を持して二口目にいこうとしていたときだった。

 蚊の鳴くような、か細い声。人狼であるニノをもってしてもハッキリと聞くことは出来なかった。


「あのっ……に、肉まんをくださいっ」


 見ず知らずの他人にかける第一声としては図々しいが――その実、これほど勇気を振り絞った一言もない。

 ニノと少女が出会ったのは偶然だったのか、必然だったのか。それとも運命とか、そういういい加減な類か。正直どれでもないような気がするし、かといってその邂逅に意味がないとも思えなかった。

 人間は好きでも嫌いでもないが、少なくとも子供は可愛げがあると感じているニノは、自分用に買った肉まんを少女に分けてやることにした。

 それは同情だったのかもしれない。少女は水玉模様の浴衣を着ていたのだが、長く着古しているのか薄汚れていた。生気が薄れた顔からは、あまり食事を摂っていないのだろうと予想させる。贔屓目に見ても、マトモな生活をしているようには見えなかったのだ。

 だから肉まん一つ、恵んでやるぐらいなら構わない。街角の募金と同じだ。すこしの小銭と引き換えに、自己満足が得られるなら安いものではないか――――と、普通の人間なら思ったことだろう。

 しかし残念ながら、ニノにそのような打算的な考え方などなかった。

 小難しいなど一切関係なしで、ただ目の前にお腹を空かせたらしい少女がいたから、自分が持っていた肉まんを分けてあげる。それだけだ。可哀想とか同情とかとはまったく違う。

 つまり、自分が少女に肉まんを分けてあげたいと思った――それだけである。


「味わって食べなさいよ? それすっごく美味しいんだからね」


 人目の多い市道から離れて、二人は自然公園に立ち寄っていた。ここならベンチや水道もあるし、自販機もあるからだ。

 冬でも緑を生い茂らせた常緑樹、耳を澄ませば遠くからは子供の喧騒が聞こえ、さらに聴力に優れたニノならば公園中央に位置する噴水の音まで聞こえる。とてものどかだった。やや肌寒いことを除けば、絶好の癒しスポットである。

 ベンチに並んで腰掛けたニノと少女は、半分に分けた肉まんをそれぞれ頬張っていた。途中でホットの紅茶も買っておいたが、二人揃って蓋を開けずカイロ代わりとして使用している。

 コンビニで売っている肉まんは、ただでさえ十分とは言えない量だ。加えて従来の半分なのだから、ニノが瞬く間に食べ終わってしまうのも無理はない。

「……聞いてる?」

 反応のない少女を訝しんで、ニノは油のついた指をぺロリと舐めながら問う。

「っ――は、はい……」

 びくっと体を跳ねさせて、少女が上目遣いに言葉を返す。

 慌てて食べていたのか、口周りは汚れていた。ちいさな口で一生懸命に食す様子は、どこか小動物に似た愛らしさがある。食べようとするスピードで言えば少女のほうが格段に早かったのだが、残念ながら努力だけではどうにもならなかったらしく、一口に飲み込める量の差によって勝利はニノのものとなった。それも当然、二人の体は文字通り、大人と子供ほど違うのだから。

 端的に言えば――食べ終わったニノに対し、いまだ少女は半分にした肉まんのさらに半分を残していた。

「そう、それならいいけどね」

「…………」

「なによ、ウチの顔になにかついてる?」

「あっ――見てたの……き、気付いて……いたんですか?」

「まあね。人間とは出来が違うの」

「……です……よね」

 基本的には無口な子らしく、紡ぐ言葉はどこかたどたどしい。

 それに――少し気になることがあった。

 少女は自分から肉まんを欲したわりには、あまり食が進んでいるようには見えなかったのだ。幼い年齢や未発達な体のことを加味しても、さすがにあの小さな肉まんで胃袋が満たされるわけがない。

 つまり、この少女はもともと腹を空かしていなかった――?

 ……ならば何故ニノに声をかけたのか。少なくとも、見知らぬ子供から無条件に慕われる覚えはない。

「まあ、いっか」

 べつに解き明かすべき謎ではないし。考えるだけ思考の無駄遣いだ。

 すべての疑問を投げ出すようにして、ニノはベンチの背もたれに深く身体を預けて、頭の後ろで両手を組んだ。

「ところでさ、アンタ名前は?」

「……えっ、あ、あたしですか……?」

「当たり前よ。アンタの他に誰もいないでしょ」

「は、はい……」

「それにいつまでも”アンタ”じゃ味気ないしね。

 ……名前ってね、両親から貰った大切なモノじゃない。だからなるべく尊重することにしてるのよ」

 愛する父と母を思い浮かべる。

 そしてそれは、ニノが物憂げな顔でそう言った瞬間のことであった。

「……っ、痛っ――なんて……こど――く――っ」

 唐突に、少女が頭を抑えて身体をくの字に曲げたのだ。

「――? ちょっとっ、どうしたのよ?」

「いえ……なんでも――っ、ぅっ――だ、大丈夫です……」

「そんなに歯を食いしばってるくせに強がっても説得力ないわよ。頭、痛いんでしょ? なんなら――」

「――こころ」

 ニノの言葉を遮るようにして、少女がぽつりと呟いた。

「え? ……こころ?」

 いきなり何を言い出すのかと思えば……なんだろう?

 意味としては”心”なのだろうか。それとも他になにか知らない意味があるとか。

「……あの、名前です、あたしの。……こころ、と言います」

 首を傾げて思考していたニノは、なるほどと納得した。

 ふと見ると少女――ではなくこころは、さきほどの苦しみがウソであったかのように正常だった。相変わらずおどおどとしている部分を除けばだが。

 もしかして、軽い頭痛持ちなのだろうか。……気にはなったが、無闇やたらと質問するのも失礼に当たるかもしれないと思った。踏み込んで欲しくない領域というのは誰にだって存在するのだ。先のこころの様子からして、あまり関心を持ってほしくなさそうだったし。

 ――結論として。

 こころが話そうとするまでは詮索しないことにした。

「あぁ、名前だったのね。こころ――か。可愛い名前じゃない、ウチには負けるけどね」

「は、はあ……えっと、じゃ、じゃあ」

「ウチの名前? ……そういえばまだ教えてなかったっけ。偉そうなこと言っちゃったわりには、先に名乗らせて悪かったわね」

 忙しくなく視線を彷徨わせるこころに対し、ニノは灰色の瞳を優しく細めた。

「――ニノよ、ニノ=ヘルシング。好きに呼んでくれて構わないわ。よろしくね、こころ」

「あっ、はいっ。……よろしく……お願いします」

 わざわざ椅子から立ち上がって頭を下げてくる。

「そんなに畏まらなくていいわよ。別に敬語じゃなくてもいいし」

「……分かりました」

「ぜんぜん分かってないじゃない……」

「――す、すみません」

「ほらまた言った。すみませんじゃなくて、ごめんでいいのよ。年下の子供から敬語を使われるのって苦手なの」

 優しく諭すように声をかける。

 敬語が苦手と伝えることによって、きっかけを作ってあげたつもりだった。

 ――しばらくして、何故かこころは頬を染めて笑った。本当に――嬉しそうに。

 それはどこか、夢見る表情に似ていた。

「……うん。あ、ありがとう…………お、お姉ちゃん」

 よし、これでひとまずは話しやすく――あれ?

 気のせいかもしれないが、何やら聞きなれない言葉で呼ばれたような。

「ねえ、こころ。いまなんて言ったの?」

「――あ、その――」

 ずいっと身体を寄せて問うと、こころは恥ずかしそうに俯いた。

 次いで、搾り出すように呟く。

「……お、お姉ちゃんって――」

「…………」

 ニノは体が熱くなるのを自覚した。

 心臓が跳ねて、首筋から順に熱くなっていき、頬はもちろんのこと耳まで熱を持つ。あまりに予想外すぎたのだから仕方がない

 ……まさかお姉ちゃんと呼ばれるとは。よく自然公園で近所の子供とサッカーをすることはあるが、その際にも皆からはニノと呼び捨てにされているのだ。

 だから耐性が出来ていなかったというか、不意打ちすぎたというか。……いや、この際だからもっとハッキリ言えば――

 ちょっぴり、嬉しかったりもしたのだろう。

「……だ、だめだった……?」

 顔を赤くしたニノを怒っていると勘違いしたのか、こころの声は震えていた。

 獣耳がピコピコと軽快に揺れだす。

「――ふ、ふん。別にだめじゃないわよ。好きに呼んでいいって言ったのはウチだしね。……お、お姉ちゃんって呼ぶのを特別に許可してあげるわ」

「っ――ほんとにっ?」

 こころは珍しく強気な様子だった。

「安心しなさい、ウチに二言はないわ。前言撤回なんて言葉を辞書に載せた覚えはないから」

「ありがとうっ、お姉ちゃん!」

「ぅ――まあ……子供のお願いを聞くのも、いい女の条件だしね」

 ぷいっと赤くなった頬をそらす。

 それからことある毎に、こころはお姉ちゃんと呼んできた。会話の合間にも、それこそ口癖のように挟んでくるものだから、いちいち顔を赤らめさせられたものだ。

 もしかすると、こころは姉が欲しかったのだろうか。容姿は小動物のように愛らしいが、いかんせん内気な少女だ。満足に友人がいるとも思えなかった。

 ならば、頼れる”姉”のような存在を求めてしまうのは自然かもしれない。そしてその相手として選ばれたのが――

 黄昏を迎えた街。

 陽だまりに似た温かさを持つ自然公園。

 自分に向けて、楽しげに話しかけてくる少女を見てニノは自然と頬が緩んだ。相変わらず気を抜けば噛んでしまうような、ぎこちない語り口ではあったが、それでも出会ったときに比べればマシにはなっていた。


 ――あの……お姉ちゃん――

 を呼ばれる。


 これは口にこそ出さなかったことだが。

 もしも、こころがニノを姉のような存在だと慕い始めていたとして。

 同時に、ニノもこころを妹のような存在だと親愛を持ち始めていた。

 まだ互いに名前だけしか知らず、積み重なった疑問も解消されず、踏み込むべき距離感さえ曖昧ではあったものの。

 ――それは、はたから見れば立派に姉妹のように見えた。


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