其の二 『嵐の前の静けさ』
酒の力というのはつくづく恐ろしいと俺は思う。
人間の人格をあそこまで崩壊――というと誇張かもしれないが――させてしまう点を踏まえると、どこから見ても立派な魔法だ。でもそれがまた面白くて、魅力でもある。もしも酒がバツグンに不味かったとしても、俺たちはきっと酔うためだけに酒を呷るのだろう。
その日、俺たちは大家さんの家にいた。みんなが寝静まった頃――時刻にして午後十一時過ぎであろうか。それぞれラフな格好に着替えて、晩御飯を腹に入れて。戦闘準備は万端といったところだ。
畳の敷かれたこの部屋は、いちおう居間に当たる。隅っこのほうには古いブラウン管テレビが鎮座していて、縁側に続く大きな窓には夏になると風鈴が飾られる。
高級マンションの一室のように美しくはない。しかし不思議な居心地の良さがあった。ここまで人間味の溢れる家も、そうは無い。これも全て大家さんの人柄によってだろうか。多分――この家の主があの人でなければ、また違ったと思うのだ。
酒を飲み始めて一時間ほどが経過したころ――俺の眼前には割と見慣れた光景が広がっていた。
丸テーブルを囲むようにして、俺、周防、智実のオッサン、大家さんが座っている。すでに結構な量の空き缶が転がっているのだが、俺たちの夜はこれからという雰囲気だった。まあ俺も周防も智実もアルコールには強い方だから、この程度じゃあてんで酔いもしない。
もっとも、一人だけ例外がいたりするのだが。
「さあ、山田さん。遠慮しないで飲んでくださいね~」
女神のごとく微笑みながら、悪魔のごときペースで酒を勧めるのは大家さんである。頬はアルコールによって赤く上気しており、どこか色っぽい。強めにかけられた暖房が効きすぎているせいか、薄っすらと汗も滲み、それがまた扇情的であった。
「……う、うむ。ありがとう、高梨さん」
「いえいえ、構いませんよ」
智実は胡坐をかき、差し出したコップにビールを受ける。
黒い頭髪をオールバックにし、左目付近――眉から頬の上部にかけてまで切り傷を負った男……山田智実。
まあお世辞にも堅気には見えない容姿をしているオッサンではあるが――現在に至っては、大家さん同様に顔をこれでもかと赤くして、借りてきた猫のように大人しい。ハッキリ言ってその姿は、ダンディ路線を突っ走る智実にはあまり似合わない。
――しかし俺と周防には、とうの昔から真実などお見通しだった。
「……高梨さんっ。オレは――!」
ビールを一気に呷った智実は、コップを勢いよくテーブルに叩きつける。そして大家さんの肩を掴んで、自分に向き直らせた。
「――? どうしたんですか、山田さん」
きょとん、とした無垢な瞳。首を可愛らしく傾げて、大家さんが心底分からないと疑問の声を上げた。
智実の顔が熟れたリンゴのように赤くなる。
「お、オ、オレは――」
「はい、山田さんは?」
俺たちがいるにも関わらず、何やら甘酸っぱい空気が形成されていく。しかし悲しいかな、酒の席ではこういった普段はお目にかかれない事象が楽しく、残念ながら止めようなんて気はさらさら起こらないのだ。
案の定、口元をニヤつかせた周防が顔を寄せてきた。
「……み、見ろよ宗谷っ。とうとう智実のダンナが勇気を振り絞るらしいぞっ」
小さな声で力強く発声する。耳に息が吹きかかって不快だったが、少なからず酔っているというのもあって、邪険に扱おうとは思わなかった。
「いつものことじゃねえか。まあ見てろって。どうせ智実のことだから――」
視線を移す。
智実は、大家さんの細い肩を掴んだまま静止している。向かい合う二人は、互いの容姿も相まってそれなりに絵にはなっている。
痙攣に似た震えが、オッサンの腕を襲う。どうやら緊張しているらしい――いや、違うか。あれはきっと大家さんの身体に触れていることが嬉しくて仕方ないのだ。
「――お、オレは――!」
「はい、山田さんは?」
穢れを知らない乙女のよう。大家さんは唇に指を当てて、上目遣いで智実を見つめる。真っ直ぐな視線にたじろいだ智実であったが、なけなしの勇気を振り絞ったのか、その唇がゆっくりと開き、言葉を紡ぐ。
「…………山田智実だ」
「そんなこと知ってますよぉ」
笑顔で対応する大家さんとは裏腹に、智実はガックリと肩を落としていた。
俺のとなりで周防が呆れたようにため息をついた。
「やっぱりこうなるのか。ダンナの春は遠いみたいだね」
「むしろ一生訪れないと思うぜ。どこから見ても脈はなさそうだからな」
安心と失望が入り混じったような、そんな感情が胸に去来した。
――智実が何か思惑ありげに大家さんへ詰めよるのは、暦荘では珍しくない光景だ。
実は――というほど隠れてはいないし、意外でもないような気がするのだが、山田智実という男には意中の女性がいた。ほのかな好意などというレベルではない。隙あらば婚姻届を提出してやろうというレベルである。
結論から言ってしまえば――智実は、暦荘の大家さんである高梨沙綾に想いを寄せていた。しかも、それなりに昔かららしい。ただ想いを寄せると一口に言っても、それは愛というより恋に近い。もちろん想いの強さだけは愛に達しているだろうが、どうにか気持ちを伝えようとヤキモキする様は、どこからどう見ても甘酸っぱい恋にしか見えない。
まるで波のようである。智実はたまに勇気を振り絞って気持ちを寄せていくが、大家さんという強固な砂浜を前に、戦意を喪失して返っていくのである。それを何度も繰り返すのだから、波と喩えたことも決して間違いではないだろう。
聞いた話によると――智実と大家さんは、なんと高校生のときから互いを知っていたらしい。学校の先輩と後輩という間柄だ。つまりオッサンの恋は、そのときから始まっていたということになる。
暦荘にはなかなか帰ってこないあの二人――久織透子と如月紫苑も、大家さんとは高校の同級生だという。如月のヤツ曰く『腐れ縁』とのことらしいが、ひとえにそうは見えないのが落とし穴である。きっと学生のときに何かあったに違いない。特に久織と智実を見てると、顕著にそう思う。
まったく――気の遠くなるような話である。
十年近く前のことなんざ――思い出したくもないってのに。
「いやぁ、それにしてもダンナ。また無理だったみたいじゃないか。今度この僕が、直々に女性の扱い方というのを教えてあげようかい?」
「む? ……公人よ、ひどく勘違いをしているな。オレは女性関係に困ってなどいない」
「ははは、ウソが下手だね。だってダンナってば沙綾さんのことが――」
周防が意地の悪そうな顔で、そう言った瞬間のことであった。
――智実の瞳が、獲物を狩ろうとする鷹のごとく細まる。そして懐に手を忍ばせたと思った直後、智実は白い”何か”を素早く投擲した。
「――ぇ」
放たれた白い”それ”は、吐き気がするほど正確な軌道を描き、周防の眼前を通過していった。女みたいに艶やかな茶髪がハラリと宙を舞う。
周防は呆然としたように虚空を見つめていた。どうやら数瞬前よりも視界が開けたことに感動しているらしい。
俺は”それ”が飛来した先を確認した。畳のうえに細長い正方形が突き刺さっている。まるで墓標のようでもあった。なんだと思って手にとって見ると、白い枠の中に黒い文字で『山田智実』と。……なるほど、オッサンの名刺らしい。
まとめるなら、智実はこの名刺を素早く投げることによって、周防の前髪を切断したのだ。
「……公人よ。人生はなにが起こるか分からんのだ。なあ、そうは思わないか」
「は、はい。思います思いますっ」
ロボットのように首だけを上下に反復運動させる周防。
「だろう? そして人が逝ってしまうきっかけというのも、実は本当に単純なモノなのだ。例えば、買物に行こうと外に出ただけなのに車に跳ねられたりもする。――ならば、だ。うっかり口を滑らせたお前が、どのような原因で死んでしまうのか――想像に難くないと思わんか?」
「――ひいぃぃぃぃぃっ! そ、宗谷っ! 死ぬ死ぬ! 僕を助けてくれぇぇぇっ!」
赤ん坊のように四肢で体を支えて歩き、周防は俺の背中に隠れてしまう。
きっと腰が抜けてしまったのだろう。
「さて公人よ。お前は何も理解などしていない――そうだな? ましてや、うっかり口を滑らせてしまうなどあり得ないだろう?」
背後からガタガタと周防の震えが伝わってくる。
「わ、分かったから落ち着こう! 僕に危害を加えると、全国の女性から集中砲火を受けるんだからなっ!」
「なんの脅しだよ……」
思わず呆れてしまった。
けれど智実が「ふむ、ならばいいのだがな」と呟いたところを見ると、自身の身を守るという意味では、脅しは有効らしかった。
「……ふう。まったく、智実のダンナには冗談が通じなくて困るよ。茶化すのにも命がけなんてね」
俺の背中からひょっこり出てきた周防は、額に滲んだ脂汗を拭う。
危機を去ったことを確認した途端、急に偉そうになった。
「ちぇっ、明日には床屋さんに行かなきゃならないな。なあ宗谷、どう思う?」
「大丈夫だ。なんかビックリするぐらい決まってるぞ、今のお前」
「本当か? つまり奇跡的に、前髪が格好よくカットされてしまったというわけか」
「そうそう。前髪だけおかっぱ頭みたいで笑えるぜ」
「――全然ダメじゃないかっ! 僕という人間の容姿に、笑われる要素などあってはならないんだよっ!」
「はあ、バカだな。……いいか、周防。今のお前はとんでもなく輝いてる。最高だ、最高の芸人だよ。だから自分に自信を持っていいんだ」
「っ――宗谷……。ふっ、そうか。僕は現状でも十分に輝いている――そういうことなんだな?」
「ああ。だから床屋なんぞ行かなくてもいいんだ。分かったな?」
「オーケー、任せてくれ。……ありがとう、宗谷。やっぱりお前って頼れるいいヤツだったんだな」
照れくさそうに俺の肩を叩いたあと、周防は前髪を「コイツめー」とか一人で笑いながら弄っている。正直に言えばとてつもなく不気味であったが、放っておいたほうが面白そうなので、あえて触れないことにした。
まあ次に鏡を見るそのときまで、周防は床屋さんに行こうとは思わないだろう。
「――そういえば。宗谷よ、聞いたか」
ふと。
さきほどのことで完全に酒も抜けたのか、智実が固い声でそう言った。
「なんだよ。子供が生まれそうな妊婦さんでも助けたのか?」
「む? よく知っているな。あれはもう四日ほど前になるか。元気なお子さんが生まれているといいが」
「…………」
「まあ、それは別の話だ、今は置いておけ。後でまたオレの武勇伝を聞かせてやるから安心するがいい」
智実は物憂げな顔でタバコに火をつけた。
「……最近、この街で殺人があったのを知っているか?」
告白の声は、どこか糾弾に似ていた。
「いや、初耳だ。ていうかそれマジなのか? 聞いたことすらねえぞ」
「真実だ。一週間ほど前に、街の中心からやや外れた路地裏で成人女性の死体が発見された。それも――四肢が切断された状態でな」
初めはタチの悪い冗談かと思った。
しかし智実の瞳は、胸糞悪いと言いたげに歪んでいた。
「オレなりに調べてみた。切断された断面はグチャグチャだったそうだ。これが何を指すか分かるか?」
「……刃物の類は使っていないってことか?」
「ひどく正しい。恐らくは常識を外れた力で引っ張られ――いや、引き千切られたのだろう。機械のようなモノを使用した形跡もない。しかし人体を手で引き千切るなどと、プロレスラーが二人いたとしても不可能だ。おかしいとは思わんか?」
「いや、それ以前の話だろ。どう考えてもマスコミが喜びそうなネタなのに、どうして報道すらされてねえんだよ」
「――そこだ。やはりお前はキレるな。……いいか、この殺人はどう考えても猟奇的だ。常軌を逸している。なのに何故、この街に住んでいる宗谷が事件を知らなかったのか。……理由はひどく簡単だ。ただ報道されていないからだ。どうも圧力がかけられているらしい」
きな臭くなってきた。周防も、切られた前髪からこの話に注意を移したようだった。
パン――と乾いた音。見れば、大家さんがそうだと頷いて手を合わせていた。
「そうそう、思い出しましたよ。私も最近耳にしたんですけれど、どうも人が殺されたらしいですよ」
「いや、今言ってたじゃないですか」
「ですよねぇ。もう言ってましたよね。二人も殺されたって」
きっと息を呑んだのは全員だった。
「二人――だと? 高梨さん、それは一体どういうことかな。オレが調べた話では、一週間前に一人が殺されただけのはずだったが」
「ええ、合ってますよ。そして今日から遡ること三日前にも一人……」
大家さんはその先を言いたくないと、悲しそうに目を伏せる。テレビのニュースを見て、いちいち可哀想だと落ち込むような優しい人だ。自分の街で誰かが死んだなんて話、聞きたくもないに違いない。
それでも耳に入れざるを得なかったのだ。この街で起こった危険を知ることはすなわち――俺たちを守ることに繋がるのだから。
「つまり……猟奇的連続殺人事件というわけだな。これは明らかに異常であるとオレは判断する。人殺しが起きたこともそうだが、それを住人に知らせないことが何よりもおかしいのだ。確か地方新聞の片隅に小さく載っていただけだったかな。そのようなもの、大体的に報じなければ冗談にしか見えないだろうに」
確かに。
人がなにか強力な力によって引き千切られて死んでました――繰り返すが、悪い冗談だ。
仮にこの街の人間がそれを知ったとしても、テレビ等のマスメディアで報じられていないのならば大した事件でないのでは、そう思ってしまうことだろう。
一体なにが起きているのか。好奇心と同時に、言い知れぬ不気味もあった。
「さらに話を加えるとだな。これだけの事件にも関わらず、警察にも目立った動きが見られんのだ」
「マジか? それはさすがにウソだろうが。無能どころの話じゃねえぞ」
「本当だ。警察のデータベースにハッキングして――ああいや、何でもない。とにかく警察は動いていない、という情報を確かな筋から得たのだ」
情報源はお前じゃないだろうな、というツッコミを我慢するのは一苦労であった。
「とにかく何処かがおかしい。一体なにが起きているのかは分からんが、注意するに越したことはないだろう。皆にも事を厳重に伝えておいてくれ」
「分かった。……まったく、厄介なことばっかり起きやがるな」
さすがに笑えない。『一難去ってまた一難』、この言葉を座右の銘にしようかと検討するほどに。
これも全てシャルロットと出会ってからか。日本に戻ってきてからは血を見ることもなかったのに、最近は過去を彷彿させるような出来事ばかりだ。
――まあでも、アイツに会えたことに対しての後悔だけはまるで無いのだが。
もしも事件がこれ以上繰り返されるなら、俺自身も何かしらの手を講じないといけない。シャルロットたちを傷つけるわけにもいかないし。……まあその点は心配ないか。むしろニノあたりには手伝ってもらいたいほどだ。
とにかく肝に銘じろ。
――ミカヤの時とは違う。現実から目を背けることだけは絶対にしない、と。
「――さあさあっ! 暗い話は終わりにしようじゃないかっ! ここからは、僕のピンク色の体験談を聞かせてあげようと思うんだがどうかな」
大げさな所作をもって周防は立ち上がり、俺たちを見渡した。
きっと場を盛り上げようという魂胆だろう。……なんだかんだ周防はバカだが、コイツのこういうところは嫌いじゃなかった。
「そうですねぇ。ささ、今はもっと飲みましょう。山田さん、いかがです?」
「む? ああ、それでは貰おうかな」
「了解ですよー。では――あっ、すみません、ズボンに零しちゃいましたね」
「いや構わん。自分で拭こう」
「またまた遠慮しないでくださいって。私が拭き拭きしちゃいますから。――あらら、こんなところにもお酒がかかっちゃったんですね~」
「――ま、待つのだ高梨さんっ! そこには、貴女のような清楚な方とは無縁の魔物がっ! 世にも恐ろしき魔物がぁ――!」
再び宴は繰り返されていく。
俺たちはこの夜、不安を吹き飛ばすように夜明けまで飲み続けた。途中からひょっこりと顔を見せたニノも加わり、祭りにも似た喧騒が空間を満たしていった。腹筋が痛くなるまで笑い続けるなんざ、人生でもそう経験できることじゃないだろう。
今夜みたいに、皆で騒ぐ機会があるたびに思うんだ。ああ、やっぱり暦荘ってのは俺の家なんだなぁって。
――大丈夫である。どうせ事件などすぐに解決する。きっと警察か何かの特殊部隊でも動いていて、それがあまり公にしていいものではないとかの理由から、事件が報道されていないだけだ。
楽観しているわけではないが、無駄に警戒しても損だ。だから今を精一杯楽しもう。もしかしたら、もう事件は解決していてるのかもしれないし。
――しかし。
俺たちの願望をまるで嘲笑うかのように、第三の事件は起きた。
報道などされずとも噂は広まる。人の口に戸が立てられないように、伝聞によって事実は衆知のものとなる。
これが。
あの短くて長いような、泡沫な物語の序章であった――