其の一 『帰ってきたサラリーマン』
ええと。
まず初めに断らせていただくと、私は吸血鬼だ。
太陽の光がなかったら寂しくて死んじゃうし、困ったときには十字架にだって祈ってしまう。この時点ですでに吸血鬼っぽくないような気がするけど、誰がなんと言おうと私は吸血鬼なのだ。
その証拠といってはなんだけど、赤い血はとても大好きだ。これはまあ好みが分かれるところではあるが、私としてはAB型の血が大好物である。疲れているときにAB型の血を飲むと一瞬で元気ハツラツになるほどだ。
……厳密に言えば、最近はちょっとだけ好みが変わってきたりする。私が好きで好きでたまらないのはAB型の血というよりも士狼の血だ。みんなが寝静まった夜に二人きり、ほとんど抱き合うような形で士狼から血を吸わせてもらうのは、ぶっちゃけてしまうと私の楽しみなのだ。これは士狼には絶対に内緒だけど、あの二人きりの時間がとっても大好きで幸せなのである。
そんな吸血鬼の私だが、最近は頑張ってお仕事に励んでいたりする。ブルーメンという名の喫茶店で、ウェイトレスさんをしているのだ。それも侮るなかれ、店の大人気商品だったり。……こほん、吸血鬼は血を吸うから吸血鬼なのであって、のほほんとウェイトレスさんをしていたからって、吸血鬼らしくないなんてことはない。その点は間違えないでもらいたい。
早朝のこと、わたしは部屋で身支度を整えていた。もう腰ほどにまで伸びた金色の長髪を、後ろで一つに結いつける。割と最近知ったことなんだけど、こういう髪型をポニーテールって言うらしい。
たまには髪型を変えてみてもいいかなぁと思うのだが、どうも踏ん切りがつかない。私ぐらいに髪が長ければ、結構色々とアレンジが利くと思う。ちょっと巻いてみたりとか、お団子にしてみたりとか。
今ふと気になったんだけど――士狼ってどんな髪型が好きなんだろ? 根本的な問題として、やっぱり長いほうがいいのかな? それとも短いほうが? も、もし士狼が短いほうが好きだって言うんなら……勇気を出して、髪を切ってみてもいいかな。あっ、別に他意はないけれど。
鏡で身なりを確認した私は、意気揚々と部屋を出た。もちろん本日もブルーメンで仕事である。
いつもはニノと一緒に向かうのだが、今日に限ってあの狼少女は早番だった。ちなみにブルーメンでの早番というのは、朝一のシフトに入っている従業員の一人が、鍵を預かってその日一番に店を開ける人のことを言う。それなりに仕事が出来て、かつ信頼されてなければ任せられない役目だ。
つまり――ニノはすでに、ブルーメンにおいてイッパシの戦力になっていた。仕事もそつがないし、嫉妬しちゃうぐらいに可愛いし。何よりあの獣耳は反則だろう。ニノに獣耳というのは、つまりは鬼に金棒とかと同じ意味になると思うのだ。
「うーんっ! いい天気だなぁ……寒いけど」
部屋の鍵を閉めて、太陽に向かって大きく伸びをする。深く息を吸い込むと、冷たく新鮮な空気が肺を満たし、意識がクリアになっていく。
ちょっとだけ雲はあるけど十分に快晴と言えるだろう。むしろ私としては、まったく雲がないよりも、視界の隅にチラホラと映るぐらいのほうが好きだ。だってふわふわと浮かぶ雲を見てると、なんとなく落ち着くというか、安心しちゃうのだ。
冬の青空はどこか色褪せて見える。薄い――青。透き通っているのとは違うような、どことなく寂しく感じてしまう、そんな青空。
階段をテンポよく駆け下りて、私は暦荘に行ってきますを告げて出発しようと――
「……あれ?」
思わず呆けた声を上げてしまう。
いつもどおりに出かけようとした私の視線の先――見慣れない男の人が立っている。それだけならまだしも、意味ありげに暦荘を見上げているのだ。
「――む?」
訝しげに目視する私に気付いたのか。
男の人は落ち着きを持った所作で振り向いた。気だるそうに咥えていたタバコから、細長い灰が崩れるようにして宙に散っていく。
よく街で見かけるサラリーマンのようにビシっとスーツを着こなしている。これは偏見による見方だが、スーツ自体はけっこう高額だろうという印象を受けた。……しかし私は、この男の人をただのサラリーマンだとは到底思えなかった。
深い黒色の髪はきっと社会人としては正しいのだろうけど、ではなぜ髪型をオールバックにしているのかという話になってくる。さらに左目付近――眉の辺りから、頬の上部にかけてまで大きな切り傷が刻まれている。だがそれは痛々しいというより、むしろ美しいとさえ感じた。この男の人を構成する一つのパーツとして、絶妙な具合にマッチしているのだ。
目つきはどこまでも鋭くて、まるで心の奥底まで見透かされるよう。でも不思議と怖いとは思わなかった。なぜならこの男の人は、人を敬遠させるような多くの要素と同時に、温かい包容力のようなものを持っていたからだ。
顔の作り自体は、思わずドキっとしてしまうほどに整っている。身長はとても高く、きっと士狼よりも上だろう。年の頃は……三十歳前後ほどか。青年を過ぎて、大人の落ち着いた魅力が加わっている感じだ。
一言で表すならば、とてもダンディな男の人だった。
――既視感。
私はこの人をどこかで見たことがあるような気がする。
少しだけ警戒心があった。闇で出来たような黒いスーツと帽子が脳裏をよぎる。
――もしかしたら……!
じりっと足を後退させて、私は身構えた。
「いい天気だな」
そんな私を相変わらずの鋭い目で一瞥して、男の人は暢気に呟いた。
「えっ――ああ、えっと、はい。いい天気……ですね――?」
「うむ。最近の子供は礼儀正しいな。きちんと挨拶を返すのは大切なことだ。憶えておきなさい」
タバコを指でトントンと叩いて灰を落とし、彼は薄く笑った。
まるで見守るように微笑む人だと思った。公園とかで遊んでいる子供たちを見つめる親のような――そんな笑み。
この時点で、警戒心なんて紫煙のように消え去っていた。
「――そういえばお前の名前をまだ聞いていなかったな。ぜひ教えてもらえるかな」
失念していたと首を振って、歩み寄ってくる。
「……ああ、わたしシャルロットって言います」
これまた既視感。スーツを着た人に名前を聞かれるのはこれで二度目だ。
それよりも通常、道ですれ違ったりしただけの人に名前など聞くものだろうか? この人、何者なんだろう。
「シャルロット、か。ああ、いい名前だ。とても美しい響きだ。お前によく似合っている」
思わぬ賛辞を受けて、わたしは顔が赤くなるのを自覚した。
「あ――ありがとうございます」
「礼などいらんよ。――と、すまない。これは不躾なことをした。まだこちらの名を言ってなかったな」
懐から取り出した携帯灰皿にタバコを捨てた――と思った次の瞬間、なぜかまた新たなタバコを取り出して、火をつけたあと、
「――オレは山田智実と言う。よろしくしてくれるかな、シャルロット」
男の人――智実さんは手を差し出して、礼儀正しく自己紹介した。
つられて手を伸ばす。そのまま握手したのだが、それは握り合っているとは言えず、私がすがり付いて、智実さんの大きな手が包み込んでいるという感じだった。大人と子供ぐらいの差はあったと思う。
「はあ、よろしくお願いします」
「よろしくされよう。……さて、ところでお前は今から仕事か?」
「あれ、どうして知っているんですか?」
「やはりか。驚かせて申し訳ないが、白状するならただの勘だ。仕事というのであれば精一杯頑張ってきなさい。今度オレもまた、コーヒーをご馳走になりに行こう」
ポンと優しく肩を叩かれる。
「ではな」
小さく別離の言葉を口にして、智実さんはどこかへ――ではなく、なぜか暦荘に入っていった。
「……? 大家さんか誰かの知り合いかな」
頭を傾げても当然答えは出ない。
私はなにか引っかかりを感じながらも、そろそろ時間に余裕もなくなってくると思ったので、とりあえずブルーメンに急ぐことにした。
****
智実のオッサンが帰ってきたらしい。
今回も相変わらず長い出張だったようだ。まあ何の仕事をしているかは知らないのだが、そこそこ年収は高いらしいし、一応はまっとうな職種らしいし、問題自体はこれっぽっちもない。
ちょうど智実が帰ってきたところにバッタリ会ったりので、男二人でゆっくりと腰を落ち着けようとなった。それから紆余曲折を経て、俺たちはブルーメンに向かったのだった。まあ互いの部屋でお茶を飲むのも微妙だし、かといって大家さんのところにお邪魔するのも智実的に無理だし。
そんなこんなでブルーメンに入店して、ご案内されて、窓際のボックス席に腰を下ろす。互いに一人ずつソファを占領して、まったくいい身分である。
店内にはほとんど客がいない。これはべつに閑古鳥が鳴いているわけではなく、ただあまりに早朝過ぎるからだろう。開店して十分経っていないのでは。例外として、ちらほらと朝食のサンドイッチなどを注文する、社会人らしき人間が数人見られる程度である。
「――それにしても久しぶりだな。前にオレがこの店に来たさいにも少ししか顔を合わせなかったろう」
早速タバコに火をつけて、智実が紫煙を吐き出す。
――確かに俺が最後にこのオッサンと会ったのは、ブルーメンが開店した日以来だ。出張で忙しく飛び回ってる智実も、大家さんに呼ばれては時間を作らざるを得なかったんだろう。
「オッサンも相変わらずのヘビースモーカーだな。俺が禁煙を始めたのは、お前を見てたら本当にいつか死ぬと思ったからだぜ。主に肺癌で」
「男がタバコを吸わないでどうする。この味を知らないのでは生きていたってつまらないだろうに」
低く響いてくるような、どこか聞き心地のいい声。
ところどころ意味の分からないヤツが多い暦荘の中において、この山田智実という男はけっこうな常識人だ。礼節は弁えているし、女子供にも優しい。
俺からしても智実とは話がよく合うし、二人で夜通し酒を飲んだりして盛り上がりことも多い。まあある一点を除けば、本当にいいヤツだからである。
「それにしたって吸いすぎだろうが。確か――」
「一日二箱ほどだ。前は三箱だったのだが、最近は少し金遣いが荒くてな。タバコ代にまで金を回せん」
「なるほど。オッサンが将来どんな死因で逝くかが分かったぜ」
「む? なんだと? ……さっぱり分からんな。教えてはくれないか」
「……やっぱり死ぬな」
ため息交じりに言ってやると、智実のオッサンは心底分からないと首を傾げていた。
他愛もない話をしていると通路の向こうから見知った顔がやってきた。黄金を溶かしたような金色の髪と、白磁のごとく透き通った肌。ソイツを視界に納めた途端、数瞬だけここが喫茶店であることを忘れてしまう。
トレイに珈琲二つを乗せて、金髪赤眼のバカ吸血鬼――シャルロットがやや驚いたような顔をしていた。
「士狼、お待たせ。……ていうかさ、二人とも知り合いだったの?」
俺に身を寄せ、シャルロットはちらちらと智実に視線を送っていた。
「そういえばお前は知らなかったっけ。このオッサン――智実はなにを隠そう暦荘に住んでる」
「え――」
「ブルーメンが開店したその日にも来てただろうが。まああん時は忙しかったから、一人一人の顔を覚えていなくても無理はないか。それに智実のオッサンはいつもあちこち飛び回ってるしな」
説明を聞いている間、シャルロットはひたすらに呆けた顔だった。口をだらしなく開けて、瞳は瞬きを忘れたように見開いている。だがそれでも愛嬌を感じられるのが不思議だ。
「――さて、先ほど振りだなシャルロット。オレのことは憶えているかな」
「あっ、はい。えーと、山田智実さん……ですよね?」
「ひどく正しい。いや、お前のような美しい娘に名を呼ばれるというのは、いささか照れるものだな」
「えへへ、そ、そうかなぁ?」
「愛らしいな。……ふむ、この機会だ、改めてよろしく頼もうか。しばらくは留まれる予定だからな。お前と交流する機会も少なくはないだろう」
智実はタバコを灰皿に置いて、手を差し出した。
「よろしく、シャルロット」
一見して強面の智実。しかしそんなオッサンが不意に見せる笑みは、だからこそ強烈だった。あの周防がキラースマイルと呼び、参考にしたいと称するほどである。
案の定シャルロットは頬を赤く染めて、俯きがちに手を取った。
握手が交わされる。
「よ、よろしくお願いします……」
いくらなんでも照れすぎだと思う。
「……さて、お前らもう満足しただろうが。とっとと手を離せよ」
通路の真中に突っ立っているシャルロットと、ソファに腰掛けている智実が握手をしていると、通行妨害的な意味で邪魔になると思った俺は、二人の繋がった手をチョップで切ってやった。
「痛っ――ちょっとちょっとー! いきなり何するのよー!」
「うるせえバカ。顔を赤くしてんじゃねえよ」
「顔を赤くしてなんてないもんっ! ふんっ、士狼なんてもう知らないんだからっ! バーカ、バーカっ!」
頬をこれでもかと膨らませて、シャルロットは憤懣やるかたない様子で去っていった。ぷりぷりとしたその後姿を見送っていると、遠く離れたところで振り返って舌を出してきた。思わず俺がリアクションを取ろうとする寸前――シャルロットは横合いから出てきたマスターに軽く拳骨を食わされていた。モーニングを楽しんでいた少数の客から、微笑ましそうな笑い声が上がる。
「仲がいいのだな」
――笑顔。
「あん? 別に仲が良いってほどでもねえよ。ただあいつの面倒を見るのも仕事みたいなもんだからな。手を抜くわけにも行かないってだけだ」
「そうか。しかし宗谷、これはオレの私見だが――お前はすこし前と比べてもずいぶん変わったよ」
「気のせいだろ? 変わったなんて誰にも言われてないぞ」
「久しぶりに会ったのだからな。オレには変化が顕著に映る。……例えるなら、顔つきがずっと優しくなった」
「……マジか?」
「ああ。このオレが言うのだから間違いない」
まあ――智実の洞察力はズバ抜けてるからな。過去の職業的に。
それにしても、である。
「……優しく――か」
「昔と比べるとまるで別人だ。なあ宗谷、お前が初めてオレに会ったとき、何をしたか憶えてるか?」
「さすがに思い出せねえよ」
「オレの胸倉を思い切り掴んでこう言ったんだ。――胸糞悪い目してんじゃねえ、ぶっ殺すぞバカが――とな」
「…………」
えーと。
若気の至りだな、うん。人間なら誰だって若い頃は無茶をしたがるものだろう。
「どうやら初見では嫌われていたらしいがな。反対に、オレは初見でお前を気に入ったよ。日本に戻ってきてからは、あのような好戦的な態度を取られることがなかったからな。久しぶりにワクワクした記憶がある」
まあ智実は容姿だけなら、ヤクザの若頭みたいだからな。それも頭に”伝説の”がつくような。好き好んで喧嘩を売りたがるようなバカはいないだろう。
「あとこれは個人的なことだが――お前の姿が、オレの尊敬する方によく似ていたのだ」
「……はあ、またその話かよ」
そろそろ耳が痛くなってくる。智実が唯一尊敬しているらしい”そいつ”の話。ことある毎に語りだそうとするもんだから注意が必要なのだ。
面倒だと思いつつ、俺はカップを手に取った。
適当に聞き流していればいいだろう。
「――あら、士狼じゃない。もしかしてウチに会いに来てくれたの?」
コーヒーを口に含んだのと同時。俺は名を呼ばれて顔を上げた。
――赤い長髪がふわりとなびき、視線をこれでもかと惹きつける。端正に整った顔立ちと、自信に満ちた笑み。……どうやらこいつは、本当に俺が会いに来たと思っているらしい。獣耳が嬉しそうにピコピコと動いている。
空いたトレイを脇に抱えて、ニノがそこに立っていた。
「……また面倒なのが出てきやがった」
「それを言うならシャルロットに言ってよね」
通路の奥を指差す。つられて俺もそっちを見た。
「――っ!?」
空いているボックス席に身を潜めるようにしてこちらを伺っていた金色の影が、慌てたように引っ込んだ。そのまましばらく観察していると、ソファの影からそーっと顔を出し、俺と視線が交差した瞬間にまた姿を隠す。
こちらの様子が気になるのか、シャルロットが何やらスパイの真似事をしているようだった。周囲のお客さんは呆れているのかと思いきや、微笑ましそうに見つめているだけであった。
「……何してんだアイツは」
「さあね。……あ、そういえばさっきシャルロットが士狼に嫌われてないかとか心配してたわ。もしかしたらそれが原因かもね」
「はあ? なんでだよ」
「ウチに聞かないでよ。まあ――こうすれば、すぐに来るでしょ」
言うが早いか、ニノは仕事中であるにも関わらず、俺にしなだれかかってきた。ソファに膝をついて、俺を抱きしめるような感じだ。おかげで豊満な乳房に顔が埋まって呼吸が出来ない。
「っ――ちょっとちょっとー! なにやってるのかな、ニノは。……ほ、ほらっ! 士狼が苦しそうだから早く離れてよー!」
視界が塞がれているせいでイマイチ何が起きているのかは分からないが、どうもシャルロットをおびき寄せることには成功したらしかった。ニノの体が勢いよく離れていくのは、きっと腕を引っ張られたからだろう。
「ふん、本当に子供みたいね。シャルロットはもう少しだけ大人の落ち着きを持つべきよ。でないと大好きな人に嫌われちゃうかもよ?」
「――えっ、……ほ、ホントにっ?」
「当然よ。男っていう生き物はね、誰だって大人の女が好きなの。ウチみたいなね。――ほーら、自分のと見比べてみなさいよ」
「……あぅ」
腕を組んで胸の大きさを強調するニノに対し、シャルロットは両手で胸を隠して涙目になっていた。
「……お前らなにしてんだよ。家でやれよ、そういうの」
「それもそうね。――まあ? どっちがいい身体をしてるかなんて比べるまでもないんだし?」
あははーと高笑い。どうも相当に温まっているらしい。
でも個人的な意見を言わせてもらえば、俺としてはシャルロットのほうが全体的なスタイルは優れていると思う。反対にニノは胸が大きく肉付きもいいから、雑誌のモデル顔負けの豊満さである。
――まあ、俺は何でもいいんだけど。
「宗谷、一つ聞いてもいいか。彼女は誰だ」
「この赤いほうのことか? こいつはニノっていうんだ。よろしくしてやってくれ」
自分の名が出たことを耳聡く聞きつけたニノが、腰に手を当てて振り返った。その後ろではシャルロットが一人でわめき散らしている。
「――そういえば。アンタ誰なのよ?」
「ふむ。名を聞かれてしまったな。オレは山田智実という。お前は?」
「ニノ=ヘルシング。――言っておくけど握手はしないわよ。ウチの身体に簡単に触れられると思わないでよね」
どの口が言うのだろうか。いつも俺に対してこれでもかと接触してくるのに。
智実のオッサンは失礼にも取れるニノの発言に、顔をしかめもせずに手を引っ込めた。
「愉快な女だな。しかしお前の言葉はひどく正しい。それほどの美しさならば高嶺の花であるべきだ。お前は自分の価値をよく理解しているよ」
「ふふん、分かってるじゃない」
「特に素晴らしいのはその耳だな。愛らしいことこの上ない。オレはお前と会った今日という日を一生忘れんだろう」
「……こほん。し、仕方ないわね。なんだか知らないけど気分が良くなってきたから、握手してあげることにするわ。なかなか見所があるじゃない。アンタ、えーと」
「山田智実という。よろしく頼む」
赤く染まった顔をぷいとそむけて、ニノが手を差し出す。どうやら智実を気に入ってくれたようだ。
最初はどうなることかと思ったが、無事に親交が深められたようで何よりである。
「ふん、実は話せるヤツじゃない。けっこう男前だし――まあ士狼には敵わないけどね」
「……どうでもいいから離れろ、バカ」
すりすりと身を寄せてくる狼少女。俺が振り払おうとするよりも早く、シャルロットが腕を掴んでひっぺがした。
「……なによ、シャルロット。さっきからウチの邪魔ばっかりして」
赤い髪をかき上げて、ニノが不機嫌を隠そうともせずに呟いた。
「――っ~~!」
対して、シャルロットは言葉を発さず、涙目になりながら首を横に振るだけだった。本当に子供みたいなヤツである。
「はぁ――分かったわよ。分かったから泣き止みなさいって」
「な、泣いてなんてないもん……!」
赤い瞳をさらに赤くしていたシャルロット。そんなバカ吸血鬼の細い顎を持ち上げて、ニノが優しく目を拭ってやっていた。まるで姉妹のようだ。
「――さて、ところで宗谷よ。オレの尊敬する方の話に戻るのだが――」
「まだ続ける気かよ。それよりもコイツらがいる前でその話は止めとけって」
「なんだかお邪魔みたいね。じゃあウチたちはお仕事に戻ろうかな。――あっ、その空いたカップを下げてあげる。お代わりいる?」
「頼む。オッサンもいるだろ?」
「ああ」
応答するや否や、ニノは手際よく空になったカップ二つをトレイに乗せた。その横でシャルロットは、トレイで顔を隠しながら、いまだにぐすぐすと鼻を鳴らしている。
「じゃあね」
ニノが去っていく。
「いや、それにしてもあれだけ尊敬に値する人間もそうはおらん。あの――」
最中、智実のオッサンが恍惚とした表情で呟く。
「――”白い狼”は」
その単語を言い放ったと同時。
「っ――!?」
耳のいいニノが聞きつけたのか、カップを乗せたトレイを床に落としてしまう。当然のことながら、一メートル以上の高さから落下したカップの末路は決まっている。見るも無残な破片のばら撒きとなる。
パリン――店内に響き渡る。
その瞬間だった。
「チィ――! 宗谷っ、伏せろ――!」
「え、あっ、オイ――っ」
俊敏な動作。智実が身を乗り出し、俺の頭を掴んで思い切りテーブルへとぶつける。
「くっ、このような場所で襲撃とはな――日本が治安大国だと考えていたオレは間違っていたというのかっ。いや、それよりもどこから銃撃されたのだ――」
「……お、い――ともさ、ね」
後頭部を鷲掴みにされたまま、俺はオッサンの腕をタップする。
「落ち着くのだ宗谷。まだ敵は近くにいるかもしれない。いま頭を上げるのは大層危険であると俺は判断する。安心しろ、お前の命はオレが守ってやる」
もしもこれが戦場ならどれほど心強い一言であっただろうか。しかし残念ながら、ここは日本のとある街の小さな喫茶店なのだ。客観的に見れば、智実のオッサンが乱心したとしか見えないだろう。
――しかし。
これまた残念ながら、俺には智実の行動原理が理解できてしまうのだった。
実はこの山田智実という男――サラリーマンに転職する前は、どこぞの諜報機関に所属していたらしい。どこぞと評したのには訳があって、智実は酒に酔うたびに過去の話を持ち出すのだが、なぜか毎回所属先が違うのだ。元MI6、元CIA、元FBI、元ICPO、さらには元自衛隊とか元グリーンベレーなどの発言もあったり。お前はどれだけ人生経験豊富なのかとツッコミを入れたくもなるのだが――始末が悪いことに智実は、上記のどれに所属していてもおかしくないほどの能力を持っていたりもする。
当然と言っては差し支えがあるかもしれないが、智実は怪しい特技も多く身につけていて、ピッキングなど朝飯前だし、技術を保有しているだけで警察の厄介になりそうな技能のオンパレードだ。
ここで問題となってくるのが、智実の癖だ。かつての経験を体が覚えているのか、ガラス等が割れる音を聞きつけたり、突然大きな衝撃が走った場合において、智実は反射的に身を守ろうとしてしまう。それも自衛だけならばいいのだが、近くにいる人間――おもに俺や周防――をも守護しようとするのだ。
とにかく智実という男をただのサラリーマンとして見ると痛い目にあう。能ある鷹は爪を隠す――そのことわざの体現者こそが、他ならない山田智実なのであった。
「……ふむ。どうやら脅威は去ったようだな」
俺がテーブルと不本意なキスを義務付けられてから約一分ほど。
智実はネクタイを緩めながら、俺の後頭部を掴んでいた腕をようやく弛緩させた。
「――オイ。智実さんよ」
勢いよくぶつけられたものだから、鼻が猛烈に痛い。少しだけ目が潤んでいるような気がする。
「む? どうした宗谷。それほど恐ろしかったのか。ははは、安心しろ。オレの目が黒いうちはお前たちに危害を加えさせんよ」
「……お前から危害を加えられてるじゃねえか」
新しいタバコに火をつけて、智実はさも愉快そうに笑う。
一応は俺の安全を気遣っての行動なのだから、満足に怒れもしない。まあ実際はただカップが割れただけなのだが。
「――アンタ。いま白い狼って?」
やや警戒した声
いそいそとシャルロットがカップの破片を箒で処理する傍ら――ニノが腰に手を当てて、剣呑な目つきで智実を睨んでいた。
「うん? ――まさかお前も知っているのか?」
「さあね。それよりも詳しく聞かせてもらえるかしら。アンタの尊敬しているらしい人の話を」
ニノはやたらと偉そうに歩み寄ってきたあげく、俺のとなりにドスンと腰を下ろしてしまった。権高に腕を組んで、足も組んで――さらにはなぜか俺にもたれかかってくる。
「よかろう。むしろ望むところだと言わせてもらおうか」
語り合いの場を持とうとする俺たちより少し遠く――シャルロットが一生懸命に箒を掃いていた。
口から紫煙を吐き出し、智実は物憂げな顔で口を開いた。
「あれはもう五年以上も前の話になるか。オレがとある仕事によって紛争地域にいたときのことだ」
「……さっそく怪しいわね」
「死と貧困が相次ぐ凄惨なその地で、一人の男を見たのだ。もちろんソイツはただの人間であり、特別な力など何一つとして持ってはいなかった。遠方から一目、それも一瞬見ただけだったが――それでも、オレのちっぽけな自尊心を打ち砕くには十分だった。おかげで今はこうやって会社勤めの身だよ」
まだ吸い始めたばかりにも関わらず、智実はタバコを揉み消してしまった。
――まとめると簡単な話だ。
何かしらの用によって紛争地域にいた山田智実は、そこで”白い狼”と呼ばれている男を見た。結果として、自身を上回る何かを持ったその男に敗北感を覚えた智実は、こうしてサラリーマンになってしまったというわけだ。
まあ俺にとってはなんら関係のない話であるが。
「出来ることならもう一度だけ会ってみたいな。そして話をして、共に酒を酌み交わしたいものだ。オレにとって”白い狼”は人生の目標であり、尊敬すべき偉大な男なのだ」
「……へえ」
なんとなく照れくさくなって窓の外を見る。
「ねえ士狼。あんなこと言われてるわよ」
耳元で囁くようにニノが告げる。当然おれにしか聞こえていない。
「さあ、何のことだか分かんねえな。まあオッサンが尊敬するってんなら勝手にさせておけばいいだろ」
「……ふうん。ま、ウチは何でもいいんだけどね」
獣耳をピコピコさせながらニノが立ち上がる。自分が心配したり介入したりするべき事態ではないと判断したのだろう。たかが一人の男が、どこぞの男に憧れてるらしいってだけの話だし。
「まったく――シャルロット、いつまで掃除してんのよ。とっとと仕事に戻るわよ」
「――ちょっとちょっとー! それはさすがに酷くないかな。このカップって元はと言えばニノが割ったんだよ? ふんっ、あとでマスターに言いつけてやるんだもんねー!」
「そんなことすると士狼に嫌われるわよ」
「……え、ほんとに?」
「もちろん。いい女っていうのは、秘密の一つや二つを持っているものなのよ」
「な、なるほど……」
ぐっ、と拳を握り締めたのはシャルロットである。
喫茶ブルーメンのウェイトレス二人は、そのままぶつくさと語り合いながら奥へ歩いて行き――呆れたふうなマスターに小言を言われていた。まあそりゃあ仕事中に客と遊んでれば怒られるに決まっているだろう。
「……ふむ。それにしても愉快な子供たちだな」
「お前が他人に愉快っていうなよ。俺からすれば智実のオッサンも相当に愉快だって」
「そうか? よく分からないがとりあえず礼を言っておこう」
それから俺たちは昼過ぎまでブルーメンで時間を潰していた。
――まあ、これからまた忙しくなりそうだ。
俺はダンディに煙草をくゆらせる智実を見つめながら、そんなことを考えていたのだった。