其の二 『バレンタインデーは終わらない』
その日、俺が部屋にいると朝っぱらから来訪者があった。
呼び鈴を鳴らすことなく、ただ扉をドンドンと鳴らして開けろとアピールする。不審に思って声をかけてみたが、返答はなかった。
二分ぐらい放っておいたが引き下がる気配がなかったので、俺は仕方なく扉を開けてやることにした。
「うるせえな、誰だよ」
自然と声は尖ったものになる。
開けた隙間から差し込む日光に思わず目を細めた。
「やあ宗谷、いい天気だな!」
そこには太陽に応援されるようにして佇む人影があった。
キューティクルが豊富そうな茶髪と、それなりに整った顔立ち。機嫌良さそうに微笑んでいるものだから、真白い歯がキランと輝いて見えた。なぜかは知らないが、やたらとテンションが高そうにピースをしている。
周防だった。
「……薬は止めとけよ、んじゃ」
さすがにコイツは危ないと思って、念のために忠告をしておいた。なぜって朝っぱらから意味もなく機嫌がいいのだ。それだけじゃなく問題は、周防が男である俺の部屋を訪ねてきたという点だ。
冗談ではなく恐ろしくなった俺は、なるべく視線を合わさないようにと努めながら扉を閉めようと――
「待ってくれ! とにかく落ち着くんだ我が同志よ。まずは僕を部屋に入れてくれ、少し話をしようじゃないか」
「ごめんなさい、本当に勘弁してください」
「おいおいおいおい! お前どんだけ僕を嫌ってるんだよっ!」
「今まですいませんでした」
「いや、まだ続けるのかよっ! 何でもいいから僕を部屋に入れてくれよ。大事な話があるんだ」
「俺は別にお前のこと好きじゃねえから」
「告白ちゃうわっ! おい宗谷っ! この華麗なる美男子、周防公人に無様なツッコミなどさせないでくれ。全国の女の子が自殺しかねない」
「よし、ニュースをチェックするか」
「って、まだ自殺してないよっ! なんだよその報道されるのが時間の問題みたいな」
「あ、もうお前帰っていいぞ」
「飽きるなっ! ……まったく、相変わらず僕を敬うことを知らない男だな。あんまり妬まないで欲しいもんだね」
「じゃあな」
「ああ、ウソウソっ! とにかく部屋に入れてくれぇ!」
俺が思い切り扉を閉めようとすると、隙間に体をねじ込んで阻止してくる。そのあまりの必死さに恐怖を覚えたが、ここまで食い下がってくることに興味もあった。もしかしたら本当に大事な話ではないかと。
正直な感想を言わせてもらえば真剣に帰ってほしかったのだが、周防の熱意に押されて、部屋に上げてやることにした。
座布団の上に胡坐をかいて、周防は満足そうに頷いた。
「ふう、やっと入れたよ。……それにしても相変わらず殺風景な部屋だね。僕を見習うといいよ。おい宗谷、とにかくお茶を淹れてくれ。喉が渇いた」
「急に態度がでかくなったな。ま、仕方ねえから何か淹れてやるよ。水でいいか?」
「水? 氷水か?」
「残念ながら氷は入っていないが、カルキがたっぷり入ってるぜ」
「それ水道水じゃないかっ! もっと気の利いたモノ出してくれよっ!」
「分かった分かった。まったく、うるせえヤツだな。早く死なないかな」
「めっちゃ聞こえてるぞっ! 独り言ならもっと小声で言ってくれっ!」
とまあ周防があまりにもうるさかったので、俺はきちんとお茶を淹れてやった。
湯飲みを二つ置いたテーブルを挟んで、俺と周防は向かい合った。
「……うん、まあ合格にしてあげるよ。なんとか飲めるレベルだね」
「凄い偉そうだな、お前」
「当然だろう? 僕ってカッコいいよな?」
「そうだな」
「宗谷より僕のほうが二万倍カッコいいよな?」
「そうだな」
「暦荘の女の子たちはみんな僕にメロメロだよな?」
「そうだな」
「つまり僕は尊敬されてしかるべきだよな?」
「そうだな」
「シャルロットちゃんって僕のことが好きだよな?」
「はあ? なに言ってんだお前バカじゃねえか? 次に同じようなこと言ったらぶっ殺すぞ」
「チッ、そのままのノリで同意してくれるかと思っていたのに。つまらないぜ、宗谷」
「そりゃお前よりは面白くないって。それで次は何を見せてくれるんだ?」
「僕は芸人じゃないわっ! そっちの面白さじゃないに決まってるだろ」
「はーあ、こいつも一発屋か」
「まだ引っ張んのかよっ!」
優雅にお茶を啜る俺の対面。周防は何やら気疲れしたように息を乱していた。
「……くっ、神様は僕に全てを与えたはずなのに。なぜこうも宗谷には手玉に取られてしまうんだっ?」
「なあ、ぶぶ漬け食う?」
「京都風に帰れと言わないでくれっ!」
「あー、今のは面白くないツッコミだったな。そのまま過ぎた。三十点だ」
「本当か? これはもう少し精進が必要だな。個人的には頭の回転を速くしたいんだが――って違うわっ! ノリツッコミさせるなよっ!」
「うわっ、本当につまんねえ……」
「――待て待てっ! そんなに哀れそうな目で僕を見るなっ! 本当の僕はもっと面白いんだよっ! だから見捨てないでくれっ! 次こそはもっと面白いことを言ってみせるよ!」
「今朝、俺の部屋に気持ち悪い物体が来訪してきました。さてそれは?」
「むむむ、僕を試しているつもりだな。いいだろう、受けて立とうじゃないか。それは」
「へえ。『むむむ、僕を試しているつもりだな。いいだろう。引き受けて立とうじゃないか。それは』が来訪してきたのか。新しいな。でも面白くないから減点だな」
「バカヤローっ! そんな『むむむ、僕を試しているつもりだな。いいだろう。引き受けて立とうじゃないか。それは』なんて名称のヤツがこの世にいるわけないだろうっ! ていうかツッコミづらいなオイっ!」
「なんの用だ?」
「――さらりと戻すなっ! 戸惑っちゃうだろっ!」
やや枯れた声。理由は分からないが、周防はひたすらに疲れているようだった。
「……ふう、とにかく一度落ち着こうじゃないか。僕はこんな益体もない話をするために来たんじゃないんだ」
ずずっとお茶を飲む。
「まったく、鬱陶しいな。とっとと用件言えや」
「ちょっとちょっとー! そんなこと言わないでよぉ!」
「…………」
「ははは、どうだい? ご存知の通り、シャルロットちゃんの真似さ。個人的には結構似てると」
「殺すぞてめえ」
「ひいぃぃぃぃぃっ! じょ、冗談だよ宗谷っ! だからそんなに怒らないでくれよ」
「イライラさせんな。んで、本当に何の用があって来たんだよ。お前が意味もなく俺の部屋に来るわけねえよな」
キラン――
なぜか周防の瞳が光ったような気がした。
「……ふふふ。よくぞ聞いてくれたと言っておこうじゃないか。ところで宗谷、一つ質問だ。今日は何月だい?」
「あん? まあ二月だな」
「よし、じゃあ日付は?」
「十四日だ。だからどうしたんだよ。結論から言え」
「よろしいっ! つまりだね、宗谷。今日は待ちに待ったバレンタインデーというわけだよっ! ふははははっ! どうだ、テンションが上がってこないかいっ!?」
「あっ、そういえばそんなイベントがあったな」
「ひひひ、聞いたかい奥さん? となりの家の宗谷さんったら、あまりにチョコを貰えなさすぎてバレンタインデーを忘れていたらしいぜ?」
「今のお前は相当に気持ち悪かったぞ」
「はっ! 言うに事欠いて気持ち悪いだって? 愚かなり宗谷めっ! よりにもよってだ、まさか僕にもっとも似合わない言葉をチョイスしてしまうとは、君も語彙が足りない男だね」
「シャルロットが二日に一回ぐらいお前を気持ち悪いって言ってるぞ」
「ぐはっ! な、なんてリアルな数字なんだ……!」
胸を押さえて蹲った周防は、やがて平常を取り戻そうとするかのようにお茶を飲んだ。
「ぷはー。うん、美味しいな」
「はいはいありがとう。それで、話の続きをとっとと言え。バレンタインデーだからどうしたっていうんだ」
「あれれ? 宗谷ったらあそこまで言って分からなかったとでも? 全くもって理解の遅い男だねー? 仕方ないから教えてあげるとするか。つまりだよ、バレンタインデーということは女の子からチョコレートを貰えるというわけじゃないか。もっと具体的に言えば、暦荘の女の子たちからもチョコレートを貰えるってわけだぜ?」
「へー」
「シャルロットちゃん、ニノちゃん、雪菜ちゃん、大家さん……あとついでに姫神もだ。みんなルックスは素晴らしいものがあるからね。そんな彼女らからチョコレートを貰えるっていうのは、これはもう暦荘に住む男の特権と言わざるを得ないだろう? ……あ、ちなみに透子さんと紫苑さんからはいらないや」
「良かったな。せいぜい頑張ってくれよ」
「応援ありがとうっ! ふっ、僕なんて今日のためだけに、一年間チョコレートを食べなかったという徹底振りだ。いやぁ、楽しみだなぁ。美少女の手作りチョコレートは。いいか、手作りだぜ? 手作り。あの小さく白い手で一生懸命、僕のためだけに作ってくれたんだぜ? たはっ、参っちゃうな」
「なんかそこまで言われると本当に応援したくなってきたな。後で誰から何個チョコレートを貰ったか教えてくれよ」
「望むところさ。僕の勘では恐らく――とうとう雪菜ちゃんあたりが裸にチョコを塗りつけて、周防さん食べてくださいまし……とか言うと思うんだよっ! どう、そんな気がしないかい?」
「まだ隕石が落ちてくるほうがありえるだろ」
「おまけにニノちゃんと姫神がだよ? あの巨乳と貧乳の肢体を思う存分に絡ませながら、やはりチョコを塗りつけて、食べてね……と催促してくると思うんだよっ! 僕って未来予知能力があるのかな?」
「病院行ってこい」
「さらには沙綾さんかなぁ? おっぱい界の大革命と呼ばれたあの超巨乳っ! その輝く谷間に液状となったチョコを貯めて、僕に迫ってくるんだよぉ~! ふひょほほほほほほっ!」
「チっ、ツッコミが間に合わねえ」
「極めつけはシャルロットちゃんさっ! 男なら誰もが生唾を飲んでしまうような、蟲惑的な白い身体――」
「ぶっ殺すぞてめえっ!」
「ひいぃぃぃぃっ! きゅ、急にどうしたんだよっ!? そんなに怒鳴らないでもいいじゃないかっ」
「てめえが癇に障るようなことを言うからだ。次からはせいぜい言葉に気をつけるんだな」
「分かったよ。もう真実は口にしないって。まあ、今日の夜頃になれば自ずと答えは分かってしまうんだし? いやぁ、小学校二年生のときの授業参観で自分が調べてきた四字熟語を発表するっていうのがあったんだけどさ。それで”酒池肉林”を声高らかに謳ったんだが、その夢がようやく叶いそうだよ」
「……マジかよ。凄い子供だったんだな、お前って」
「まあね。保健体育限定で神童と呼ばれたね。小学校三年生のときに子供の作り方を教室で叫んだら『そんなことあるわけないじゃんっ!』と、一週間ぐらい友達の接し方が冷たくなったけど、それは恐らく僕の才能に嫉妬してたんだろうね」
「今思ったんだが、お前って実は結構凄いヤツだよな」
「だろ? 宗谷はバカで女にモテない可哀想なヤツだが、僕の凄さを分かっている点だけは評価できるね。仕方ないから、今日僕が貰ったチョコを少しだけ分けてあげると約束しようじゃないか」
「マジか? それはちょっと嬉しいな。なんだかんだ言って、周防っていいヤツだよな」
「いいのさ。僕が悪いんだ。世界中の男が生まれる際の”美”という成分は、全て僕に寄せ集められてしまっているんだからね。宗谷がモテないのだって元を正せば僕のせいなんだ。……くっ、すまないっ! 今改めて考えてみると申し訳なさで一杯になってしまったっ!」
「気にすんなって。とにかく今日一日頑張ってくれよ。あとで何個チョコ貰えたか教えてくれ」
「ううっ、宗谷! お前ってやつは最高だなっ! 任せてくれ、絶対に教えに来るよっ! 僕ほどのレベルになっちゃうと、女の子側の気持ちにすら気を配るようになるからね。完璧だよ」
「へえ、どういうことだ?」
「よくぞ聞いてくれた。つまりだね? 女の子は僕にチョコを渡したいんだが、やっぱり恥ずかしさが先に来るわけだよ。そして結局は羞恥に負けて渡せなくなってしまうわけだ。でないと毎年、僕に数十億個のチョコが届かない説明にはならないからね」
「…………」
「そこで考えたんだ。女の子が渡しやすいように、僕の方からも何かしらの手助けをしてやれないかって。つまり今日一日、暦荘の前に立っておこうと思うんだ。そうすることによって皆が僕を探す手間を省けるだろう? さらに僕から声をかけることによって、同時にきっかけも作ってあげられるわけだよっ! これはノーベル賞ものだろ?」
「それを本当に実行するなら俺は尊敬するな。この理不尽なぐらいに寒い中、一日中突っ立ってるってわけだろ? そうそうできることじゃないと思う。ていうか全国の学者さんに謝れ」
なにやらテンションの上がっている周防が不気味に笑いながら立ち上がった。そういえば厚着してるなぁと思っていたのだが、その意味がようやく分かった。
「――じゃあね、宗谷。健闘を祈っててくれ。僕もせいぜい、キミがチョコの一つぐらい貰えるようにと祈っておくよ」
「分かった分かった。まあ頑張ってくれ」
「……ああっ!」
最後にとてつもなく輝く笑顔を浮かべながら、周防はスキップに近い足取りで部屋を出て行った。
あれだけ張り切っている周防はさすがに珍しい。腹部の傷がある程度は治癒してきたとは言え、まだ安静にしていなければならないレベルだろうに。まるで痛みを忘れているのではと疑うほどだ。
まあ俺は今日一日のんびりすることにしようか。
たまには部屋を掃除するのも悪くないかもしれない。窓とかも雑巾で拭いたりして――なんか考えてみると楽しくなってきた。早速実行しよう。
周防が出て行ってから、恐らく三十分は経っていないだろう。それは俺が掃除に勤しんでいるときの事であった。
――コンコン、と。
やけに控えめなノックの音が室内に届く。少なくとも周防ではありえないだろう。
「……だれだ?」
俺は不審に思いながらも玄関に向かう。
――時刻はおよそ、午前十一時ほどだった。
****
暦荘の階下。
見晴らしのいいポジションに一人の男が立っていた。
「ふふふ、来た来た」
彼の名は周防公人。暦荘一〇一号室の住人である。
冬だということを踏まえても、公人は少々厚着しすぎていると言えよう。それはまるで、今日一日をこの寒空の下で過ごすという覚悟を表しているかのようだ。
公人が宗谷士狼の部屋を去ってから、およそ二十五分ほどであろうか。とうとう”一人目”が現れたのは。
「……なんだ、周防じゃないか」
肩程度で揃えられた黒髪と、凛々しいという表現がピッタリの力強い瞳。後ろ手になにやら紙袋を持ったその人物は、名を姫神千鶴といった。
「よう、姫神。寒そうだねえ、頬が真っ赤だぜ。そんなに急いでどこに行くんだい? キミの目的地はここだろう?」
「……? 私の目的地はここじゃないぞ。それにどこからどう見てもお前のほうが寒そうなんだが」
「まあね。すでに数十分はここにいるからね」
「よく分からないが酔狂なことするんだな。まあ風邪は引かないようにしたほうがいいよ。じゃあ私は行くから」
話はこれで終わりだと言って、公人の眼前を横切ろうとする。
瞬間、公人が慌てたように千鶴の進路を塞いだ。
「――待ってくれっ! ど、どうしたんだいっ? 姫神はどこに行くつもりなんだ。……ふっ、あのさぁ……照れなくてもいいんだぜ?」
「……大丈夫か? 悩みがあるなら後で聞いてあげるから、そこを退いてくれ。周防に用なんてないんだ」
「嘘――だろ」
「本当だ。それじゃ」
短く言い切った千鶴は、やや寒そうに階段を上がっていく。
公人は両手を地面について項垂れた。
「……なん、だって……どういうことだ? 政府の陰謀か? どこぞの研究所が女性のホルモンバランスを崩すようなウイルスを開発したのか? もしくは宇宙人が何かしらの電波を持って地球上の女性を操っているとでも言うのか? ――そうだ、そうに違いないっ! でなければ論理的に説明がつかないしね」
勝手に落ち込み、勝手に立ち直った公人は、勝手な論理を展開し、勝手に納得したのだった。
「さあて、気を取り直して――待つとしようかな」
口笛を吹きながら暢気に佇む公人。
願わくば。
彼に幸せが訪れることを望む。
****
一つ聞きたい。
この状況はなんだろう。
先ほど――およそ十分ぐらい前のことか。俺が掃除をしていると新たな来訪者があったのだ。とりあえず周防ではないだろうし、誰かなと思って対応してみると――姫神だった。
いつもの自信に満ちた顔はどこへ行ったのか、姫神はおろおろしながら部屋に上げてくれと言ってきた。例えるなら、雪菜に可愛いと言われたときに良く似ている。
掃除道具を端に寄せて、座布団を渡し、二人分のお茶を淹れて、俺は姫神の対面に腰を下ろした。
「それで、一体どうしたんだ?」
「……宗谷。今日は何の日だ?」
「バレンタインデーだな」
「…………」
俺が答えてやると、姫神は顔を赤くした。さすがに寒さのせいだとは言い訳できないほど真っ赤である。
思考することしばらく。俺は一つの答えに辿り着いた。だってこいつ紙袋みたいなのを持ってきてるし。あれに何が入ってるのかなんて想像に難くないだろう。
「ああ、なるほど。お前もしかして俺にチョコレートをくれたりするのか?」
きっかけを作ってやろうと思った善意からの一言だったのだが、予想に反し、姫神は心底困ったようにあたふたし始めた。
「――ち、違うんだこれは。本当は渡したくなかったんだ。あっ、そうだ雪菜ちゃんに説得されて仕方なくなんだ。とにかく、えーと――あっ、そうだ義理チョコなんだよ、これ!」
やたらと俊敏な動作で、紙袋に手を突っ込んだ姫神は、中から丁寧に包装された長方形の物体を取り出した。きっとあの中にチョコレートが入っているんだろう。
「ん? そりゃそうだろ。義理チョコだってのは初めから分かってるから、そんなに緊張すんなよ。本命かと思っちまうだろうが。――まあ、ありがとよ」
差し出された物体を両手で受け取って、きちんとお礼を言っておく。
正直バレンタインデーには全く興味なかったが、やっぱりこうやってチョコを貰ってみると嬉しいものだ。例えそれが義理チョコであっても。
「……うん。そうだ。義理だ。義理だ。義理だ」
「そんなに言われなくても分かってるって」
「――うわーんっ! 宗谷のバカバカバカーっ!」
にこやかに頷いてみた瞬間、姫神は癇癪を起こした子供みたいに部屋を飛び出していった。
「……え?」
恐らくもっとも疑問に思ったのはこの俺だろう。
まあしかし姫神ぐらいの年齢は多感なものだし、情緒豊かで非常によろしいのではなかろうか。きっとバレンタインデーということで浮かれていたに違いない。これから本命の人間にも渡しに行くんだろう。
独りになった俺は、貰ったチョコレートを食べてみることにした。
包装をなるべく綺麗に剥がしてやると、中からはシンプルな形状のチョコレートが出現した。率直な意見を言わせてもらうなら、見た目は板チョコに近い。この飾り気の無さが、なんとなく姫神らしいと思った。
まず一口。
「……これは――美味い」
市販のチョコとは似ても似つかない味。その道の職人が俺のために作ったと錯覚してしまいそう。きっと大家さん辺りが、姫神に作り方を教えたんだろう。
あまりの美味さから、俺は瞬く間にチョコレートを食い切ってしまった。義理チョコにまで手を抜かないとはさすが姫神。律儀な女である。
糖分を補給した俺は掃除に取り組んだ。途中までやったからには最後までやり遂げたい。まだ一日は始まったばかりだし、これからが――
――コンコン、と。
姫神の来訪から十分と経っていないはずなのに、再び来訪者があった。
そろそろ嫌な予感がしながらも俺は玄関に向かう。
――時刻は午前十一時半ほどだった。
****
「まだだ――戦いはこれからなんだ。ふふふ、鼻血が出ないようにしなくちゃいけないね」
暦荘の眼前。
怪しげな笑みを浮かべ、周防公人は性懲りも無く佇んでいた。すでに顔は寒さによって真っ赤に染まっている。彼の部屋は、実は目の前にあったりするのだが、それでいて尚も外に居続けるあたりがさすがといったところか。公人の言葉を借りれば、これも作戦の内なのだから。
ちなみにさきほどのことであるが、姫神千鶴がわんわん泣き喚きながら階段を下りてきたと思ったら、公人など道端の石とでも言うかのように突き飛ばして、暦荘から走り去っていってしまった。
まったくもって謎である。公人からして、二階にはチョコレートを渡すべき人間など誰も居ないのに。
「ははは、まあ姫神には乙女らしさなど欠片もないからな。男みたいなヤツだし。ひょっとしたら、シャルロットちゃん辺りにチョコレートを渡しに行ってフラレたのかもしれないなぁ。ルックスだけは一級品な分もったいないよ。ま、胸はないけどね。はははははははっ!」
「そうですね。ですがそこがまた可愛いところでもあります」
「おっ、新鮮な意見が出たね。まあ僕もちょっとぐらいはそう思ったりしちゃうことも――うおぉぉぉっ! せ、雪菜ちゃんっ!」
本当に、いつの間にか。
公人のとなりには和服を着た少女――凛葉雪菜が、さも当たり前のように立っていた。
「こんにちは、周防さん。このようなところで奇遇ですね」
ペコリと頭を下げる。それだけの所作のはずなのに、気品が漂うあたりに育ちの良さが感じられる。
「奇遇? いやいや違うね。いいかい、こういうのをね……運命――と呼ぶんだよ……?」
「では」
「――待ったっ! ちょっと待とうじゃないかっ! ……ふふ、そんなに照れなくてもいいんだよ?」
「では」
「――分かった分かったっ! とにかく待ってくれよ雪菜ちゃん。少し話でもしようじゃないか」
「話……ですか? ふむ、一体どのような」
腕を掴まれて前進を阻止された雪菜は怪訝そうな顔で振り返った。その手には、やはり小さな紙袋が握られていた。当然それを公人が見逃すはずはない。
「まあとにかく。キミって可愛いよね」
「はあ、ありがとうございます」
「いやいや気にしないでくれ。ちなみに僕って格好いいよね?」
「はあ、確かに世間一般的にはやや優れた方のルックスではないかと」
「なるほどね。やっぱり思ったとおりだ。……ねえ雪菜ちゃん。僕のことが好きなんだろう……?」
「いえ全く」
「……あれ、おかしいな。予定では今日あたりに、雪菜ちゃんがありったけの想いを僕にぶつけるはずだったんだが」
一人でぶつぶつと呟く公人を見て、雪菜は腑に落ちたと手を叩いた。
「了解しました。つまり周防さんはあれですね、罵られたいんですよね?」
「――え」
「そうであるなら早く仰ってくれたらいいのに」
「――え、えっ?」
「この発情犬が」
「――止めてくれぇぇぇっ! 僕は正常でいたいんだぁ!」
「この変態。私を見て興奮しないでください。気持ち悪いです」
「――ぐおおぉぉぉぉっ! で、でもちょっとだけ気持ちいいっ!」
「……え?」
「ん?」
公人の漏らした一言に、雪菜は和服の袖で口元を隠した。
「あ、あの、すいません。冗談のつもりだったんですが――っ、失礼します」
じりじりと後退ったあと、雪菜は絹のような黒髪を振り乱しながら走り去っていった。というよりも階段を駆け上がっていった。
「待つんだ雪菜ちゃんっ! そっちには宗谷の部屋しかないぞぉ! ――はっ! ま、まさか君までシャルロットちゃんにチョコレートを渡すというのかっ!? やめろぉぉぉぉっ! 禁断の扉を開くなぁぁぁっ!」
地面に四つん這いながら、公人は手を伸ばした。二階に続く階段の奥――凛葉雪菜に向かって。
しばらくして静寂が戻った暦荘前。公人の耳がバタンと無機質な音を捉えた。それも二階から。まるで誰かが部屋に入ったとでも言うように。
「……もしかして雪菜ちゃんって宗谷にチョコを――ぷっ、はははっ! なーんてね、そんなことありえるわけないよな」
やがて公人はその可能性に辿り着いたのだが、持ち前の自信によってすぐさま掻き消した。
「雪菜ちゃんもきっと恥ずかしかったんだなぁ。普段はクールな雪菜ちゃんが恥じらいながらチョコを――たはっ、キタねこれは」
公人が一人で楽しそうに盛り上がっているのと同時。
二階のとある部屋では、一組の男女が向かい合っている最中であった。
****
姫神から義理チョコを貰ってから、およそ十五分も経っていないだろう。
俺が気を取り直して掃除に勤しんでいると、再び来訪者があったのだった。きちんと呼び鈴を鳴らして、さらには丁寧なノックを二度ほどしたその人物は、何を隠そう自称陰陽師である雪菜だった。
飽きもせずに和服を着込み、俺の顔が映りこむんじゃないだろうかと思うほどに艶のある黒髪を腰まで伸ばしている。その染みやくすみのない白い肌は、見慣れた俺であっても気を抜いたら惹かれてしまう。まあ黙っていれば美人だからな、雪菜は。黙っていれば。
本日三度目のお茶を俺が淹れている最中、雪菜は珍しく緊張した様子で座していた。渡してやった座布団の上に正座して、時折落ち着きなさそうに髪を整えたりしている。悪く言えば挙動不審だった。
テーブルに熱いお茶の入った湯飲みを置いて、俺は向かい合うようにして座った。
「それで、何の用だよ。意味もなく俺のところに来るほど暇じゃないだろ」
「……えーとですね。あの、ですからね」
「なんだよ」
相当に固くなっている様子だった。
しばらく口ごもっていた雪菜は、やがて名案を思いついたと言わんばかりに顔を輝かせた。
「――そうだ、とにかく呪いの話をしましょう」
「……は?」
「実はですね、昨日テレビで見たんですけど」
「いやいやっ、情報の発信源はテレビかよ。自称陰陽師とか言うんだったら、もっと実体験に基づいた話をしろよ」
「分かりました。あれは私がまだ本当に幼かったころの話なんですけど」
「――あんのかよっ! 待て待てっ、やっぱり言うなっ! なんだかとてつもなくヤバい予感がする」
「はあ、まあ士狼さんがそう仰るのなら。……残念です。せっかく楽しいお話になると思ったのに」
「呪いのお話を楽しいと言う時点で、お前は女として終わってるよ」
ため息をつき、何気なくそう言った瞬間であった。
「……え、あの――」
和服の袖で口元を隠し、黒曜石のような瞳をこれでもかと揺らす。
「ん? ああ、悪い悪い。言い過ぎたみたいだな」
「……士狼さんって……私みたいな女の子は、嫌いですか……?」
「いいや、別に嫌いじゃない。むしろ一緒にいて楽しい分、好きに決まってんだろうが」
今日は厄日なのか。
なぜ俺がこんな気恥ずかしい台詞を言わなければならない。
「――ほ、本当ですかっ?」
身を乗り出した雪菜は、こっちが逆に照れてしまうほどの綺麗な笑みを浮かべた。いつもはあまり顔に感情を出さないもんだから、たまに見る雪菜の笑顔は強烈なのだ。
「本当だよ。だから落ち着け」
手を振って座れとジェスチャーする。
「あ――えっと、ごめんなさい。私としたことが、ちょっと取り乱してしまったようです」
「別にいいけど。まあとにかく呪いの話は置いておこう。それよりもどうせだったらお前のことを聞かせてくれよ」
「えっ、それって――」
雪菜は何やら頬を赤くさせて、あっち向いてこっち向いてと落ち着きを無くす。
「これって結構マジメな話になるんだが――お前って陰陽師なんだろ? そのことについて詳しく聞いておきたくてな」
人生は何が起こるか分からないんだ。この間の件もある。身内の不確定要素はなるべく排除しておきたかった。
それに――純粋に雪菜のことをもっと知っておきたかったというのもある。やっぱり暦荘の仲間だから。
「……はい、なんなりとお聞きください」
「あれ、お前なんかショック受けてる?」
「ショックなんか受けてませんっ!」
頬を膨らませて、ぷいっと顔を逸らす。雪菜にしては珍しい反応だ。どちらかと言えばシャルロットに近い。
「――? ならいいけどさ。それでいきなりだが、陰陽師ってなんだ?」
「陰陽師は陰陽師です。しかし私は自称陰陽師です」
「何一つとして明らかになってないだろ……」
呆れたように言った直後、雪菜は気を取り直したように咳払いをした。
「……まあ――現代において、陰陽師と呼ばれる者が表舞台に立つことはまずありません。世間一般的には、悪霊や妖などの存在って信じられていませんからね。従ってそれを相手とする陰陽師――いや、退魔家業の者も実在を信じられてはいません。過去においてはまた別でしたが、近代ではせいぜい映画や小説等の媒体を通してでしか目に触れる機会はないでしょう」
「でもお前は陰陽師なんだろ? じゃあやっぱ確実に存在はするんだよな」
「はい。元々は私の生まれた家系――凛葉家がその道でしたからね。むしろ私の家が退魔でなかったら、どの家が退魔だというレベルです」
「代々に渡ってということか。でもお前の家がいくら凄くてもやっぱり限界はあるんじゃないか?」
「まあそうですね。だから私たちのような霊的家系を取りまとめる組織があります。――名を青天宮。日本政府からも公認を受けるれっきとした機関の一つです」
「なんだかまた雲の上の話が出てきたな」
「ちなみに青天宮を実質仕切っているのは、凛葉の宗家に当たる鮮遠家です」
「――て、お前の親戚かよっ!」
思わずツッコンでしまった。話の重さと俺たちのノリがまるで合っていないような気がする。
長々と話し終えた雪菜は、湯飲みを両手で持ってお茶を啜った。無駄に上品である。
「……それで。お前は何しに来たんだ」
途端、雪菜の身体が不意をつかれたように跳ねた。
「あっ、もしかしてお前もチョコレートを渡しに来てくれたのか?」
「……えーとですね」
もじもじ。
顔を真っ赤にさせて、雪菜はやたらと出し惜しむ。
「――? なんでそんな照れてんだよ。義理チョコだろ?」
「……そ、それは」
「うん? 義理チョコじゃないのか?」
テーブルに乗っけた肘。やや斜めに突き出した腕の先――掌に顎を乗せて、俺は何も言わずに待った。
じぃーと雪菜の眼を見る。おろおろとする雪菜は視線を彷徨わせながら、時折俺の方を見ては、眼が合った瞬間にしまったという顔をして逸らす。これは良く言ったとしても挙動不審だ。
「――ぎ」
「ぎ?」
「……義理、です。……はい、義理チョコ……ですよ」
やたらと肩を落として、雪菜はそんなことを言った。
差し出される正方形の物体。もちろん綺麗に包装されている。義理にしてはやや気合が入っているが、まあ最近の女子はこれぐらいするのだろう。
「……じゃあ士狼さん。味わって食べてくださいね。――さよならっ」
「え? あっ、おい雪菜っ!」
項垂れながら立ち上がったかと思うと、雪菜は顔を両手で隠しながら走り去って行った。
伸ばした手が空を切る。開いた扉から明るい光が差し込んだと思った瞬間、扉が閉まって見えなくなった。
「……今日は厄日か」
意味が分からないことが多すぎる。
まるで一夜寝て起きたら別世界にいたような気分だ。
しばらく呆然としていた俺は、手の中にある義理チョコを思い出して食べてみることにした。
包装を破くと出てきたのは、手作り感が溢れる白い箱だった。被せるように蓋がかかっており、それを取り外すと、中にはチョコレートクッキーのようなものが入っていた。一口サイズではあるが、数がそれなりにあって、物足りないということはない。
「あいつって義理にも手を抜かないんだなぁ」
感心しつつも、俺はありがたくチョコを頂いた。もちろん美味かった。姫神とはまた違った、細部まで技巧を凝らしたような一品だった。
さらに糖分を補給した俺は、今度こそはと掃除に取り組んだ。
さすがに偶然は続かないのか。それからは何事もなく、俺は夕方頃まで時間を忘れたように掃除していた。
そして。
夜を迎えたのだった。
****
「……おかしい。何かが明らかにおかしいぞ」
言い知れぬ違和感を覚えて、周防公人は震える声で呟いた。
あれだけ高かった太陽は、いまや地平線の向こうへ消えてしまった。それと同時に空は黒く染まり始め、気付いたときには夜になっていた。
すでにどれだけ待ち惚けているか思い出せない。短針の針を数えた場合、少なくとも片手の指では足りないだろう。
相当に厚着しているはずなのに、公人の体は氷のように冷たくなっている。さっき一度だけ近くの自販機にホットの紅茶を買いに行ったきり、公人は何も口にしていない。”何も”なのだから、当然チョコレートなど一欠片も食べていないことになる。
「政府の陰謀だ……世界中の男が一揆を起こしたんだ……」
せめて何かしらの対象に怨みつらみを述べ続けていないと精神が崩壊してしまいそうだった。
脳裏に一つの約束がよぎる。
あれは確か、宗谷士狼の言葉だったか。
――後で誰から何個チョコレートを貰ったか教えてくれよ――
笑顔で交わしたあの誓いは――もう果たせないのだろうか。
「……いやっ! 僕はまだ諦めないっ! 彼女たちが勇気を出してくれるのを待ち続けるぞぉ!」
月に向かって吼えた。
現状を踏まえたとしても、公人にとって自分がチョコを貰えないのは、暦荘の女子が恥ずかしがっているからということになっていた。それだけは恐らく断固変わることはないだろう。
本来ならばもっともチョコレートを渡してくれそうな高梨沙綾は、早朝から家を空けていた。そうでなければ、沙綾はとっくに公人へ声をかけていただろう。もちろん、バカなことは止めておきなさい、と静止の声を。
闘う気力は折れ。
高ぶる心は萎え。
握った拳は震え。
そして、体は凍傷に至っても不思議に思わないほどに冷たいのだから。
「勇気をっ! 彼女たちに勇気を与えてあげてくれぇ!」
月に向かって叫ぶ。
それが功を成したのか。
「――どうしたのよ、周防。そんなところで寒そうにして」
背後から待ち望んでいた女子の声がした。
「……お、おおっ!」
公人が振り向いた先――赤い長髪を風になびかせ、獣耳を寒そうに縮こまらせて――人狼の少女、ニノ=ヘルシングがそこにいた。
なにやらサイズが合っていなさそうな大きなコートに身を包んでいる。しかも足には靴でなく、裸足にサンダルを履いていた。
「……えっと。ニノちゃんのほうが寒そうだね。それどうしたの?」
「うん? ああ、これね。ちょっと準備に戸惑ってね。リボンって巻くのが難しくって」
「リボン? ……はっ、そうかっ! 僕へ渡すチョコレートを包む包装のことだな。少しでも可愛らしくデザインしようと奮闘していたに違いない。まったく、ニノちゃんはちょっと不器用だけどそこがまた可愛いんだよな」
「じゃあね」
「――えっ!? 待ってくれぇ! 行かないでくれっ! お願いだから僕を一人にしないでくれぇぇぇっ!」
手を上げて歩み去ろうとするニノの足にしがみつく公人。コートの端からは何故か白い足が覗いている。どうやらズボンではなくスカートを履いているんだな、と公人は思った。つまり生足に触れているわけだった。
滑々とした白い足は、男なら誰もが虜なってしまうだろう。事実、触れている公人は未曾有の興奮に包まれていた。
「ちょ、ちょっとアンタ何してんのよっ! くすぐったいじゃない、とっとと離れなさいよっ!」
「――分かったから、蹴らないで、くれ――!」
頭をサンダルで踏みつけられながらの抗議。やがて公人は立ち上がった。
ニノは呼吸を乱しながら、剣呑とした目つきで睨む。
「まったく、気軽にウチに触れないでよね。それに今はちょっとマズイのよ」
獣耳は警戒を表すようにピーンと尖っていた。
「マズイだって? どうしてだい? ……そういえば何かコートの下がだぼついているね。あまり厚着をしていないのかい?」
「う――そ、そうよ。だから寒いの。というわけでウチは行くから。じゃあね」
「……え」
「なによ、捨てられた子犬みたいな顔をして」
「あ、あの――僕に、この絶世の美男子たる周防公人に、例のブツは――」
「知らないわよ。さよなら」
「――ちょっとっ! 待ってくれニノちゃんっ! ニノちゃーんっ!」
地面に四つんばいになりながら、公人は階段の向こう――ニノが駆け上がって行った先に手を伸ばす。
しかし応答はなかった。
「……は、はは――今日は……厄日かい? そうだよな、宗谷」
乾いた笑い。
奇遇にもその頃、宗谷士狼も公人と同じく、本日が厄日であると実感していたんだそうな。
****
俺はこの日、本日四度目のお茶を淹れていた。
昼頃に雪菜が訪ねてきて以来、誰も来る気配がなかったので、今日はもう偶然は続かないんだなと思っていたのだが――どうして。
さきほど大きなコートに身を包んだニノが俺の部屋に来た。裸足にサンダルという寒そうな出で立ちだったので、とりあえず部屋に上げてやったわけだ。
勧めた座布団に座る気配もなく、ニノはキョロキョロと周囲を見渡していた。
「……ねえ、士狼。となりって確かシャルロットとせっちゃんなのよね」
テーブルに湯飲みを置いた俺に視線を向けることなく、ニノがおもむろに呟いた。
「ああ。それがどうかしたのか?」
「……このアパートって防音性が薄いのよね。……初めてのときって、どのぐらい声を出しちゃうものなのかしら。耳を触られたりしたら、さすがに喘ぎを我慢出来ないかもしれないわね」
「――? おい、なに一人でぶつぶつ言ってんだよ」
「いえ、こっちのことだから気にしないで。ところで一つ聞いていいかしら?」
「なんだよ」
「士狼って巨乳派? 貧乳派?」
「はあ? いきなりなに言ってんだ。バカかお前」
「お願いっ! 参考までに聞きたいの。教えて」
両手を合わせて、拝むように頼まれる。多分一般人が神社でお祈りするときよりも真剣なお願いだった。
「まあ――そりゃあ大きい方がいいんじゃねえ?」
お茶を啜りながら答える。
……やっぱり厄日だな、うん。
「本当っ? あははっ、これはやっぱりウチの時代ね。身体の相性もバッチリってことかな」
「さっきから何が言いたいんだよ。ていうかお前、何しに来たんだ? もう夜だし、用件があるならまた明日にしろよ」
「違うわ、夜だからこそ来たのよ。実はウチから士狼にとっておきのプレゼントがあってね」
――またかよ。
内心ではため息をつきたい気持ちで一杯だったが我慢した。きっとニノは好意で俺にチョコを渡そうとしてくれてるんであって、邪険にするのは間違っている。
「じゃあはい、これ、チョコレート」
「え――あ、ああ。分かった。サンキュ」
どうせ姫神や雪菜のときみたいに時間がかかると思っていた引き渡しは、思いの他あっさりと済んだ。まるでチョコレートを渡すのがついでだとでも言うように。
ニノが早く食べてと促してくるもんだから、俺は慌ててチョコを食いきる羽目となってしまった。マスターに師事したらしく、味自体はとても洗練されていて美味しかった。……ただし。その最中、ニノの獣耳が貧乏揺すりのごとく揺れていた。俺には分かる。あれはきっと、早く食べ終わらないかな、と思っていたのだ。
なぜこれほどまで俺を急かすのか。自分が作ったらしいチョコレートを相手に食べてほしい気持ちは分かるが、それにしても少しおかしい気がする。
「……うん、食べ終わったわね」
「ああ。それにしてもお茶とチョコは絶対合わないと思った」
見事に味を殺しあう両者である。
口の中が甘みでドロドロして気持ち悪い。さすがに十分な量のあるチョコを一日三度も食えばこうもなる。甘いものが嫌いだなんて格好をつけるつもりはないが、ああいうのはたまに食うから上手いと思うのだ。
「……さあて。準備は――整ったわね」
蟲惑的な笑み。
唇を指でなぞって、ぺろりと舐める。不覚にもドキっとした。
呆然とする俺を横目で流し見て、ニノはなぜか――部屋の電気を消してしまった。
不意におとずれる暗闇に眼が慣れておらず、俺は窓から差し込む月光をたよりにニノの姿を追った。
「――おいニノっ! てめえなに、を――――」
紡ぐべき言葉は、それを前にして飲み込むしかなかった。
窓辺に立ち、月明かりを受けるニノはどこまでも幻想的だった。赤い長髪に、人にはありえない獣耳。濡れた唇からは時折、蛇のように赤い舌が覗く。
それだけならよかった。怒鳴ることもできた。しかしニノは、部屋に入っても頑なに脱がなかったコートの前を開いていたのだ。
「……どう?」
確かめるような一言。
率直に言うならばコートの下、見えたのは――圧倒的な肌色だった。つまり……ニノは、なんと裸体にコートを纏っていただけだったのだ。
しかも体中には色とりどりのリボンが巻かれている。それがちょうど、たわわに実った乳房の先端などの肝心な部位を覆い隠し、余計に卑猥となっている。
布切れの音――ニノが最後の砦であるコートを脱ぎ捨てたのだ。身体にリボンを巻いているものの、それは下着や水着よりも表面積が小さく、見慣れていない分扇情的だった。
この現状は、俺にとって人生でもっとも戸惑った瞬間にさえ数えられるだろう。身に覚えがなさすぎる。あまりに唐突過ぎて対処法が思いつかない。
そんな俺を見つめながら、ニノはゆっくりと足を進める。ぺタリと場にそぐわぬ音。裸足で、服など何も着ないで、赤い長髪のその女は歩み寄ってくる。
「どうしたのよ。声さえ出ない?」
まるで魔女のようであった。もしかしたら俺は魔法をかけられていて、それゆえに体が動かないのではと考えてしまうほど。
接近する。
ニノの人差し指が俺の胸に触れて、なぞるように下降する。
「ねえ――好きにして……いいのよ?」
次の瞬間には、ニノは俺の胸元に顔を埋めていた。
花のような匂いがする。女特有の甘い匂いは、この状況下では理性を崩しかねないほどに強烈だった。
「士狼にはね、チョコレートなんて子供っぽいものじゃなくて――ウチの身体をあげる」
囁く。
「何でもしてあげるし、何でもしていいわ。別にいますぐ好きになってなんて言わない。ウチはただ士狼に抱いてほしいだけよ。なんなら性欲の捌け口にしてもらってもいいの」
「おまえ――自分でなに言ってるか……分かってんのか」
「もちろんよ。ウチの身体を好きに使ってって言ってるの」
「バカか。そんなこと出来るわけねえだろうが」
「ふうん……もしかして士狼ったら、怖いんだ?」
「んだとっ――」
「あはっ、そうなんだ。女から誘ってるのに怖いんだ? なにを気兼ねしてるのかしら。ねえ、本当に好きにしていいのよ? 士狼の欲望をぜんぶウチにぶつけてよ」
思わず挑発に乗りそうになる。
でも――すぐさま冷静になった。
滑るように言葉を発するニノの身体――どこまでも男を狂わせようとする蟲惑的なその肢体が……かすかに震えていたから。無理をしていることが丸分かりだったから。
なぜここまでして俺に抱かれようとするのか。よほどの強い想いがあったんだろう。さすがの俺でも――分かる。
しかしニノを抱くことなどできない。心も確かめ合わずに身体だけ触れ合わせるなど、許されるわけがない。
だが俺が静止の言葉を投げかけたところで、どれだけの効果があるだろう。少なくとも何か言われたぐらいで止まるなら、ニノはここまでしていないはずだ。
「……ああ、分かったよ――っ!」
「え、っ――!」
俺が選んだ方法は、思い切り怖がらせる――だった。
細い腰をかき抱いて、足を払うようにして身体を倒す。床にニノの身体を仰向けに寝かせて、その上に覆いかぶさるようにして俺は跨った。身体を巻いていたリボンが緩み、肌色の面積が大きくなる。
その際に、平均的な女性とは比べ物にならないボリュームを誇る乳房が揺れた。ほんのり色づいた桜色の先端が垣間見える。
「――あのさニノ。お前あんまり度が過ぎるようなら――マジで犯すぞ」
なるべくドスの利いた低い声で言ってみた。
ニノは顔をこれでもかと赤くさせて、俺から視線を逸らす。相変わらず身体は細かに震えていた。
「……いいわよ」
「あ?」
思わず聞き返してしまう。正直な話、いまの俺はめちゃくちゃ強気を装っているが内心では、なんだこの状況はと葛藤していた。
花開くように、小さく赤い唇が動く。
「だから――犯してよ」
「……っ」
まだ分かっていないのか。この狼少女は。
仕方ないので俺は次のフェイズに移行しようと思った。要するにもっと怖がらせようとしたのだが――刹那、部屋に差し込む光量が増した。
ばたん、と間抜けな音。それはきっと玄関扉が開かれるときのものだ。俺はいつも部屋にいるときは鍵を開けっ放しにしているので――ってそう言えば、こういう事態になるのなら鍵を閉めておけばよかった。
「――――え」
玄関の方から、蚊の鳴くような声。
開いた扉の隙間から月光が差し込んでいる。蒼白い光に照らされた金色の髪はとても綺麗で、零れ落ちる砂金のようだった。
驚愕に彩られた真紅の双眸。遠目からでもその細い身体が震えているのが分かる。
――裸のニノを押し倒す俺を信じられないような眼で見つめて、金髪赤眼の吸血鬼――シャルロットがそこにいた。
「おいっ……これは――違うんだよ」
すぐさま立ち上がる。ニノも状況を察したらしく、床に広がっていたコートを引き寄せて羽織っていた。
「……なにが……ちがう、の」
震える声。
「だからな。これはニノの悪乗りなんだよ。別に俺たちはまだ何も――」
「……まだ? ……あはっ、そうだったんだ……わたし……バカ、みたい」
ガタガタと震えるシャルロットはどこまでも悲壮だった。
これで話は終わりだと身を翻す。
「待てよ! シャルロットっ!」
駆け出して捕まえようとする。
――次の瞬間。
「――うわーんっ! 士狼のバカバカバカーっ! やっぱり士狼は変態さんだったんだぁぁぁっ!」
子供のように泣き喚きながら、シャルロットはどこかに走り去って行った。
緊張感など皆無であった。
「……はあ。どこまで行ってもバカ吸血鬼だな。あいつは」
肩を落としてため息をつく俺の傍ら、ニノがコートに袖を通して立っていた。
「ふん、泣きたいのはウチのほうよ。ここまでしたのにね。士狼ったらぜんっぜん欲情しないんだから。自信無くすにもほどがあるわよ」
大げさにかぶりを振って、ニノは玄関へと向かう。
「なんだか大変そうだしウチは帰るわ。気分が盛り下がっちゃったしね。――じゃあね士狼。アフターケアは任せたわねー」
「――ちょ、おいバカっ! 頼むから待ってくれっ! 俺一人で弁解してもまったく説得力ないじゃねえかっ!」
「あはは、それはウチを抱かなかった罰よ。……まったく、こんないい女を抱き損ねるなんてね。男の恥よ、アンタ」
最後にそんな台詞だけを残して、ニノは立ち去っていった。これでもかというほどの最高な厄介事を押し付けて。
一人になった俺はとりあえず電気をつけて思案する。
――バレンタインデーは、まだまだ終わりそうになかった。
****
「……ぐす」
必死になって嗚咽を飲み込む。寒さも相まって鼻水が全然止まらない。
私はあれから独り、暦荘の屋根の上に避難していた。自分の部屋に戻る気にはなれず、かといって街をぶらつくにも遅い時間だ。結論として、私は何をしていいか分からず、逃げ込むように屋根に上ったのだった。
この場所ならよほどのことがない限り、暦荘の住人は気付かない。それに視界いっぱいに夜空が見えるし、星や月だって輝いている。退避場所としてはなかなかロマンチックだろうと思う。……寒すぎることを除けば、だけど。
――あれは今日の午後三時ぐらいのことだろうか。無事にチョコを渡せたらしい雪菜から色々と話を聞いたのだ。その際に、どうやってリボンを巻いたのか、と聞いたら鼻で笑われた。「あれれ、もしかして本当に信じちゃってたんですか? そんなの吸血鬼さんぐらいですよ」とか言われた。……さすがに酷すぎるんじゃないかと。
だから気兼ねなくチョコレートだけを渡そうとしていたんだけど――勇気が出なかった。今日は一日中部屋で、ずっと予行演習をしていたのだ。どうせなら可愛く渡したいし、途中で台詞を噛んだりしたらカッコわるいし。
結局そのまま夜まで悶え続けた私は、日が変わってしまう前になんとかチョコレートを渡そうと決意した。なるべくオシャレな服を選んで、ついでに下着もちょこっと大人っぽいやつを選んだりしてみた。いや、だって……もしもってことがあるかもしれないし。
準備を整えた私は、意気揚々と部屋を飛びだした。たしか士狼は部屋にいるとき鍵をかけていないと、私は憶えていたので、サプライズみたいな感じで部屋に踏み入ったんだけど。
そこで見たのは――裸にリボンだけを巻きつけたニノを、士狼が押し倒しているという光景だった。
雪菜は嘘つきだ。私よりもニノのほうが信じちゃってるじゃないか。というか実行しちゃってるじゃないか。……しかも、士狼に襲いかかられてるし――
「あぁ……羨まし――はっ!」
無意識のうちに吐き出した言葉を飲み込む。
それでは私自身も、士狼に押し倒されたいと思っていることになるじゃないか。違う、断じて違う。吸血鬼一淑女と呼ばれるこの私は、そんな変態さんなんかじゃありえないのだ。
あまりに屋根の上が寒すぎるものだから、少しでも体温を逃がさないようにと、身体を丸めてみる。三角座りをして、立てた膝の間に顔を埋めた。
さっきから手がかじかんで大変だ。ポケットにでも突っ込んで暖めたいところだが、今はそれも無理だった。なぜって――手の中にはいまだチョコレートが握られているから。丁寧に包装しているものだから体積が大きくて服には入らない。地面にも置きたくないし、結果として手で持ち続けるしかなかった。
恐らく――あと少しで日が変わる。だからチョコレートはもう士狼に渡せない。
せっかく作ったのに。失敗した回数は二桁にのぼるだろうし、かかった時間も相当だった。でもその分、味はマスターのお墨付きで、きっと士狼も美味しいって言ってくれたはず。
――そう。はずだった。
「……ぐすっ、ぅぅ……士狼の、バーカ」
膝のあいだに顔を埋めながら、私は何度も言葉を紡いだ。
「士狼のバーカ。バーカっ、バーカっ! ……でも――大好きなんだよぅ」
涙がこぼれる。
――わたし、何やってるんだろう。
こんな寒い夜に、一人で屋根にのぼって、延々と落ち込んでる。きっと――こんな女の子なんて、士狼は好きになってくれない。士狼はニノみたいな女の子がタイプなんだ。私よりもずっとずっと……その、胸が大きいし。
「……それなら初めから、私にキスなんてしないでよぉ……」
忘れられなくなっちゃうじゃないか。
もっともっとって望んでしまうじゃないか。
もしかしたらって――――期待しちゃうじゃないか。
「ふんっ、士狼の……えっと、タコっ!」
「どちらかと言えばお前のほうが赤いけどな」
「――えっ?」
届くことを期待していなかった悪口に対して、返す声があった。
顔を上げてみる。幻聴かもしれないと思ったけど、確かめずにはいられなかった。どうせ士狼はいまごろニノとにゃんにゃんしてるはずだって――
「よう、バカ吸血鬼」
白い髪。
派手さはあまりないけど、よく見ると整った顔立ちをしている。普段のやる気が無さそうなときはまだしも、真剣なときの士狼は反則だと思うぐらいにカッコいい。きっと今までたくさん女の子を泣かせてきたんだろう。特に私とか、私とか、あと私とか。
――心臓が痛いぐらいに跳ねた。とても驚いたし、何より嬉しかった。
「……ふんだっ! あっち行ってよ。士狼なんてもう知らないもんっ」
でも私は怒っているのだ。士狼から謝ってくるまで許してあげないし、事情を説明してくれなきゃ絶対にイヤなのだ。
……本当は分かっている。士狼は一時の感情とか、性欲だけで女の子を抱いたりしないってことは。だからニノを押し倒していたのは、何かの弾みに違いないって理解しているつもりだ。
――しかし、私が受けたショックは本物だった。あのときは目の前が真っ暗になって、死んでしまおうかとさえ考えたほどだ。
簡単に許してなんてあげないんだから。
「……悪い。とにかく事情を説明するから。まあ俺も大して分かってないんだが」
私のとなりに腰を下ろして、士狼はことの顛末を語り始めた。真実はほとんど私の予想通りで、雪菜のウソを知らない分、むしろ士狼のほうが困惑しているようだった。
必死に弁解する士狼を見ているうちに、機嫌を損ねている自分自身が恥ずかしく思えてきた。だって本当ならば、士狼がだれと何をしても私は関係ないはずなのだ。もしかしたら私みたいなのを恋人気取りとか言うんだろうか。
そこまで考えてしまうと、逆に申し訳なくなってきた。
「――みたいな感じだ。分かってくれたか?」
「……うん。士狼はちっとも悪くないってことだよね」
曖昧に切り返しながら、私はチョコレートを士狼から死角になる位置に移した。いまさらバレンタインなんて騒ぐ気力がなかったからだ。
「――おい。お前それって――」
しかし目敏い士狼は、チョコレートに気付いてしまったようだった。
「あっ、これは……」
「もしかして――さっき部屋に来たのは、それを俺に渡そうとしてたからか?」
「っ――」
想いを見透かされたような気がして、思わず息を呑んだ。
ここまで来たら誤魔化すのも野暮だ。
頷くしか、なかった。
「……そっか」
優しく笑う。
その笑顔に私が見蕩れている僅かな間のことだった。士狼は素早く手を動かして、私からチョコレートを奪っていった。
「――ちょっとちょっとー! 勝手に――」
「……うん、美味いよ」
呆然とする私をよそに、士狼は淀みのない動作で包装を取り除いて、チョコレートにかぶりついた。最近では逆に珍しいかもしれないシンプルなハート型。……そのハートが私の想いだって言外に伝えているつもりだった。
「ほんと美味い」
「……バカぁ」
分かってる。一度美味しいって言ってくれたら十分なのに。
士狼はハートにかぶりつくたびに、いちいち笑って――
「お前が作ったんだろ? このチョコレートさ、めちゃくちゃ美味い。俺が今まで食ってきた中でもダントツに美味い」
「う、ウソだよっ。そこまで絶賛されるほど上手にできてないもんっ。材料だってブルーメンにあったやつだし、作り方だってマスターに」
「――バカ。お前が作ったんだろ? それだけで何よりも美味いよ」
「……ぅぅ、バカぁ……!」
抑えきれない涙が、雫となって頬を伝う。これじゃあ泣き虫と言われても仕方ないや。
士狼が大きく腕を伸ばして、私の肩に手をのせる。そのままなにも言わずに抱き寄せられる。
「よかった。もしかしたらお前からチョコ貰えないんじゃないかって思ってたんだ」
「――ぁぅ……、っ――ふんっ! ――そ、そんなの義理チョコなんだからっ!」
「分かってるって。なんでもいいんだ」
――お前から貰えるなら、と。
士狼はよく分からないことを呟いた。
「今日は本当に厄日だった。意味が分からないことばっかり起きやがるし。……まあでも――今はちょっとだけ、バレンタインデーも悪くないかなって思う」
「え? なんで?」
「さあな。どうでもいいじゃん――」
士狼に肩を抱き寄せられながら夜空を見上げる。
――まあとにかく、これはこれで最高だと思う。チョコレートを渡せたし、なにより――こうして士狼と二人っきりになれたわけだし。やっぱり士狼は私よりも大きくて、落ち着く匂いがして、とってもカッコいいのだ。
「……えへへ」
「なに笑ってんだよ、バカ吸血鬼」
「べっつにー? ただ――幸せだなぁって」
「……? 仕方ない、あとで病院連れて行くか」
「――ちょっとちょっとー! わたし別におかしくなってないもんっ!」
「チ、うるせえヤツだな。そんなに怒鳴るなよ。今日は――せっかくのバレンタインデーなんだからよ」
それを士狼が言うか、と思ったがあえて口には出さなかった。
――こうして私たちのバレンタイデーは終わりを迎えることとなった。
色々と無視できない問題もあったような気がするが、結果だけを見れば上々じゃないかなぁと思う。
それから。
凍えるような寒さの中にも関わらず。
私と士狼は、日付が変わるそのときまで、二人して屋根の上で寄り添っていた――とさ。
****
さてさて。
こうしてバレンタインデーは無事に終わることとなったわけだが。
一人、お忘れではなかろうか。
「……悪夢だ。これは海外の先進国が秘密裏に開発していた新薬がばら撒かれたんだ……ははは」
そう――周防公人である。
あれからも頑なにチョコレートを待ち望んでいた彼に、幸せが訪れることなどなかった。
暦荘の屋根に――士狼とシャルロットが寄り添うことも知らず。
顔は赤くなるのを超えて青くなり、体はひっきりなしに震えを訴え、鼻水は地面にたれ落ちるほどに流れ、そもそも瞳からは生気すら無くしている。
「……チョコレートを貰ったら――実家の家族に電話しようかな。久しぶりだし、最近顔も見せに行ってないし。……あはは、そう考えたら楽しくなってきたよ」
届かない明日を夢見て。
周防公人の闘いはまだまだ終わらない――
「……す、周防」
――はずだった。
「あれぇ? とうとう幻聴さえ聞こえてきちゃったかぁ。ははは、なんか姫神の声がしたような気がするけど。そんなわけないよなー」
ふらつく体。
地面に生えるようにして起立していた足が――ついに限界を迎えて、膝から崩れるようにして倒れこむ。
「――周防、しっかりしろ!」
その瞬間。
公人は何者かに体を支えられた。その衝撃が彼を現実に引き戻すこととなる。
「……あれ。僕はいったいなにを――って、姫神……?」
しっかりと自分の足で立った公人は、背後にいた姫神千鶴に気付いた。
「なにか用かい? 僕はずっとここに立ってなくちゃいけないんだ」
公人本人は気付いていなかったが、彼の中ではすでに目的が入れ替わっていた。つまり『チョコレートを貰う』ではなく、『暦荘の前に立ち続ける』に。
問いかけられても千鶴は反応しなかった。ただ両手を背中に回して、なにやらもじもじしている。
「……か、勘違いするなよ。これは――」
差し出す。
丁寧に包装された物体。
それはどこからどう見てもバレンタインデー用のチョコレートだった。
「……ひめ、がみ……? こ、こ、これはまさか伝説の――!」
公人の声に嗚咽が混じる。
両手でチョコレートを受け取った彼は、期待に満ちた眼差しで千鶴を見た。
「――ち、違うっ! それは義理チョコだっ! お前、この間わたしを助けてくれただろ? そのお礼だよ。――だ、だから勘違いするなよ!」
「うぅ……ひめがみぃぃぃっ! お前ってヤツはぁぁぁっ!」
「ちょっとっ! 抱きつくなっ! っ――うわっ、どこ触ってるんだっ! 止めろ、この変態っ!」
「――バレンタインデーはぁっ! 最高だぁぁぁっ!」
冬の夜空に響き渡る絶叫。
こうして周防公人は、無事にチョコレートを貰うことが出来ましたとさ。
ちなみに今回のオチとして。
翌日になって、公人は暦荘の女子たちから無事に義理チョコを貰うことになった。バレンタインデーが終わってしまってからの贈り物であったが、それでもなお彼が喜んだのは言うまでもない。