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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
バレンタインデーのお話
49/87

其の一 『決戦前夜』

二話構成のバレンタインデー物です。

本編よりもやや軽めに仕上がっているのでご注意ください。



 バレンタインデー。

 それは日本の常識的に言えば、女性が親愛の情を持つ男性にチョコレートを手渡す日である。

 世界的に見た場合、この形式は非常に独自だと言わざるを得ない。もちろん外国でもバレンタインデーと呼ばれる習慣はあるが、贈与するものがチョコレートだと決まっていなかったり、女性から男性へ品物を送ると限定されていなかったり(男性から女性への場合も少なくない)など、多くの違いが見受けられる。

 日本のバレンタインデーの主な特徴とは何か。

 一つ、チョコレートにこだわる点

 一つ、女性から男性へ送る点。

 一つ、それは言外に愛情表現の機会であると認識されている点。

 地域によって細かな違いはあれど、大抵の場合において上記のポイントは重視される。

 簡単に言ってしまえば、バレンタインデーとは女の子が好意を寄せる男にチョコレートを手渡す日と定義できよう。

 男にとっても女にとっても心が弾んでしまう日本の一大イベント。本来ならば嬉し恥ずかしの微笑ましい一日のはずである。

 ――無論、それは暦荘においても例外ではない。

 迫り来る二月十四日を間近に控えたその日。

 そわそわしていたのは男ではなく、むしろ女の子連中であったそうな。




****




 まず言わせてもらおう、私は吸血鬼であると。

 自分で言うのもなんだけど、ブルーメンという喫茶店の看板娘なのだ。そうそう、最近あった話を一つ。なんだか知らないけどこの前、顔を赤くした男の人に「好きです」と言われた。なぜいきなりそんなことを言ってくるのか分からなかったけど、とりあえず「ありがとう」とだけ返すとすんごく落ち込まれた。……なんでだろう?

 さらに私が珈琲とか紅茶とかをお客さんに持っていくと、なぜかみんな顔を赤くして俯いてしまうのだ。特に――というか、それはほとんど男の人なんだけど、この現象はなんだろう。もしかして室内が少し暑いのかな? よく分からないや。

 話が逸れてしまったけど、とにかく私はブルーメンの看板娘だ。大人気商品であり、目玉商品だ。りゅうつう? ……とやらを多分しているのである。

 ――しかし。

 最近になってブルーメンにおける私の地位を脅かす存在が現れてしまった。颯爽と仕事を引き受け、瞬く間に仕事を覚えてしまい、挙句の果てに悔しいぐらいに可愛い女の子なのだ。

 それだけならまだいいのだが、頭部にピョコと生えた獣耳が、お客さんの心をあっという間に奪ってしまった。男性も女性も、そして子供からお年寄りにまで大人気。喫茶ブルーメンにおける名物と言えば、もはや彼女の獣耳だと言っても過言ではない。

 目を奪われるような赤い長髪を持ち、さすがの私も認めざるを得ないほど可愛いその女の子は、名をニノと言った。最近暦荘に住みつくことになった人狼の子で、私にとっても大事なお友達に当たる。

 大家さんの家に自分の部屋を持っているのだが、なぜか千鶴のところでゴロゴロしていることが多いらしい。そういえばたまに私の部屋に来て、意味もなくくつろいだ後に、何も言わずに去っていったりすることもある。あそこまで自由奔放な女の子は初めて見たと言ってもいい。

 本人曰く、何者にも縛られぬ誇り高き存在なのよ、みたいなことを自称していたのだが言い訳に聞こえなくもない。しかし美人は何をしても様になるというのか、気ままに生きるニノはとってもカッコイイのだ。

 閑話休題。

 その日、私はブルーメンでマスターから聞かれてしまった。

「シャルロットくん。もうすぐバレンタインデーだけど、宗谷くんには何も渡さないのかい?」

 お昼過ぎのこと、ある程度客足の落ち着いた店内にて。マスターは厨房でお皿を洗いながらそんなことを言った。

「バレンタインデー? えっ、だからどうしたんですか?」

「どうしたも何もチョコレートは渡さないの? なんなら店を閉めた後、厨房を使ってもいいよ。作り方なら僕が教えるしね」

「ええと、そういうことではなくて。バレンタインデーなのに、どうして私が渡さないといけないんですか? 士狼からお花を貰えるならまだしも」

「……? ああ――そういうことか。何かが噛み合っていないと思ったよ。シャルロットくんは、日本のバレンタインデーがどういうものなのか知らないんだね」

「日本の?」

「うん。日本では女の子が好きな男の人にチョコレートを渡すのが一般的なんだよ。だからシャルロットくんは宗谷くんにチョコを渡さないのかと聞いたんだけどね」

「――え」

 何か色々と聞き逃してはいけない情報が。

 そのあとマスターは詳細に教えてくれた。とは言っても語るほどの内容はない。日本におけるバレンタインデーの成り立ちから始まって、後は最近オススメのチョコレートとかの話だ。すごく勉強になったのでありがたい限りである。

 ……でも一つだけ隠しておかないといけないことがあった。

「あのぉ。私って別に士狼のことなんて好きじゃないんですけどー」

 恥ずかしくって顔が赤くなるのを自覚した。

 しかし自分の好意を他人に知られている状態というのはマズイ気がしたのだ。まあ端的に言えば気恥ずかしくてたまらないだけなんだけど。

「はっはー、そうなんだ。あっ、そういえばこの前の話なんだけど、宗谷くんがニノくんのことを可愛い可愛いと連呼してたよ」

「え……ウソ」

 なぜか胸の奥がチクリと痛んだ。

 士狼が私以外の女の子を褒めていた――ただそれだけのことなのに、心が張り裂けそうに痛む。……いやな女の子だよね。こんなに嫉妬してるのを士狼が知ったらなんて言うんだろう。

 ――ふと気付くと、マスターがバツの悪そうな顔をしていた。

「あーシャルロットくん。本当にすまないが、今のは冗談なんだよね」

「はい? じょうだん……ですか?」

「そうだよ。いや、君が素直じゃなかったからちょっと引っ掛けてみたというか――はっはー、恋する女の子はいいよね」

 安心すると同時に、今度は微かな怒りがこみ上げてきた。

 自然と頬が膨らんじゃうのが分かる。意地悪するマスターなんて嫌いなのだ。

「ふんっ、もういいです。よりにもよってあんなウソをつくなんて。マスターなんか――」

「お詫びとして、シャルロットくんは次の休憩時間にケーキを食べてもいいよ」

「……し、仕方ないなぁ。まあ怒るのも大人げないし、特別に許してあげてもいいですよ?」

「それはありがたい。さすがはシャルロットくんだ。可愛い女の子は、懐も広いねえ」

「えへへ、それほどでもないかなぁ」

 やっぱりマスターはとってもいい人だ。

 別にケーキを食べさせてくれるからじゃないけど、とにかく立派な人なのである。

 しばらくマスターと他愛もない話を繰り返して、私は店内に戻った。

 少し前よりも明らかにお客さんが捌けてしまっている。よほど手際のいい接客でなければこうはいかないだろう。

「――あら、シャルロット。遅かったのね」

 横合いから聞き覚えのある声がかけられた。

 振り向いた先――喫茶ブルーメンの制服をこれでもかと格好よく着こなし、腰に手を当てて、人狼の少女――ニノがそこにいた。頭部に生えた獣耳がピコピコと独立した生き物のように動いている。……ああ、触りたいなぁ。

 ――こほん。とまあこんな具合に、ニノはブルーメンのスタッフとなったのだ。少し前まで元気がなかったはずなのに、急に笑顔を振りまくようになったニノはすぐさまブルーメンの門を叩いた。いや、扉を叩いた。そしてその場でマスターに採用され、現在に至るというわけである。

 驚くほどのスピードで仕事を覚えて、すぐさま実戦投入されたニノはみんなが認めざるを得ないほどの完璧ぶりだった。しかも私には無い獣耳を存分にピクピクさせて、お客さんの心を奪っちゃったのである。

「ところで少し前からちーちゃんとせっちゃんが来てるわよ」

 店の奥まった場所を指差す。そこは観葉植物が多く、しかも構造上ほかのお客さんの視線が届かず、さらには声も聞かれにくいという絶好のくつろぎスポットであった。雪菜や千鶴はブルーメンを訪れると、何食わぬ顔でその席に腰を下ろすことが多い。

 現在、ブルーメンは非常に落ち着いている。いつも来てくれる主婦の人たちや、近所のお爺さんお婆さんはまだいらっしゃるのだが、注文も一段落したので私たちが呼ばれることは少ないだろう。

 ややヒマを持て余した形の私とニノは、雪菜と千鶴の席へと向かった。

「二人とも、来てたんならもっと早く言ってよ……ん?」

 私が歩み寄ると、二人はなにやら怪しげな雰囲気をこれでもかと醸し出していた。

「千鶴ちゃん、明日――どうします?」

「ど、どうって……やっぱり私なんかが渡しても」

「ふう、甘いですね千鶴ちゃんは。いいですか、男の人というのはギャップに弱いものらしいです。つまりですね、それを踏まえるとむしろ千鶴ちゃんにとって絶好ではないかと」

「どういうこと?」

「簡単な話です。普段は凛々しい千鶴ちゃんが、赤くなった頬で恥じらいながらチョコを渡してみてくださいよ。それも上目遣いでですよ? 想像するだけでよだれが出そうだとは思いませんか?」

「私は想像すると自殺してしまいそうだ……」

「まったく可愛いですね、千鶴ちゃんは」

「ぐはっ――! や、やめてよ雪菜ちゃんっ!」

 私はその光景を見て、思わず声をかけるのを躊躇ってしまった。

 呆然としていた私の肩をニノが叩く。早く進めと促しているのだろう。仕方なく足を進めることにした。

「おはよー、お二人さん」

 無理やり笑顔を作って挨拶をしてみた。

 瞬間、キッと音がしそうなほどの鋭い視線。

「……ふっ、吸血鬼さんじゃありませんか。ちょうどいいところに来ました。まあ座ってくださいよ」

 不気味に口端をつりあげて、雪菜がとなりの椅子を引いた。

「いや、だって私まだ仕事中だよ? 座っちゃったらサボってることになるんじゃないかなあ?」

「そう来ましたか。仕方ありませんね。少し待っていてください」

 雪菜はバカにするみたいにため息をついて、店の奥へと進んでいった。確かあっちにはまだマスターがいたはずだ。

 ……しばらくして、和服を着た女の子がなにやら満悦そうな顔をして戻ってきた。

「休憩をもらってきました。少しの間ならマスターが一人で店を回してくださるそうです」

「え」

「さすがマスターですね。乙女にとっての一大イベントをしかと理解しているようです。というわけで、遠慮なく座っちゃってください」

 椅子のシートをパンパンと叩く雪菜。どうやら私を促しているつもりらしい。……ううむ、なんて行動力。さすがにそこまでされては従わざるを得ない。私はスカートの裾を押さえながら椅子に腰掛ける。

 対してニノは千鶴が座っているソファ側に腰掛けた。

「――さて、では役者が揃いましたね。早速ですが話し合いましょうか」

「……あのう。雪菜はさっきから一体なにをしたいのかな?」

 恐る恐る手を上げて質問した私に視線が集中する。

 雪菜は呆れたように。千鶴は同情するように。ニノは興味なさそうに獣耳をピコピコさせていた。

「吸血鬼さん。今日は二月十三日ですよね」

「あーそうだね。それで?」

「――お疲れ様でした」

「いや、意味が分からないんだけど」

「でしょうね。まあこの際だからハッキリ言っておきましょうか。――吸血鬼さんは、もう女の子として終わってますよ」

「――えぇぇぇっ! ちょっとちょっとー! いきなり何よっ!」

「説明しましょうか。そして己の愚かさを自覚してください。……いいですか、先の話の続きになりますが、明日は二月十四日です。つまり――バレンタインデーなのですよ」

「あっ――!」

 言われて思い出した。

 そういえば厨房でマスターに教えてもらったじゃないか。明日――バレンタインデーについて。女性が好きな男性にチョコレートを手渡す日だと。

「な、なるほど。忘れちゃってたや」

「哀れな……」

 和服の袖で口元を隠し、雪菜はゴミを見るみたいな目をして私を一瞥した。……そこまでされちゃうようなこと、しただろうか。

「それで一つ聞いてもいいかしら。バレンタインデーってなに?」

 黙って獣耳をピコピコさせていたニノが恥らう様子もなく問うた。

「ああ、ニノは知らないのか。簡単に言うと、女性が好意を持った男性にチョコレートを渡すイベントのことを言うんだよ。それが明日なんだ」

「ふうん……なるほどね。じゃあウチ、士狼にチョコ渡そっと」

 ニノが無邪気にそう言った瞬間――明らかに空気が凍った。

「……ニノちゃん。貴女は今重大なことを口走りました。それは、ニノちゃんが士狼さんに好意を持っていると明け透けにしてしまったようなものですよ」

「うん? だから? だってウチ、士狼のこと愛しているもの」

 頬を染める様子もなく口にした瞬間――再び空気が凍った。

 私たちを順に見て、ニノは何かを察したようだった。

「ははーん、なるほどね。素直になれないロマンチック乙女どもが三人と。これはウチの一人舞台よねえ、あははははははっ!」

「……ふう、バレンタインデーを勘違いしている女の子が何を言っているんでしょうか。まさかチョコレートを渡すのが本来のバレンタインだとは思ってませんよね?」

 高笑いするニノに対し、雪菜は神妙な声で呟いた。

 軽快に揺れ動いていた獣耳がピーンと音を立てそうな勢いで反応する。

 というか私も口には出さなかったが、内心では驚いていた。だってマスターがチョコレートを渡すのが常識って言ってたんだ。まさかそれが間違っていたとでもいうのだろうか。

「なんですってっ!? もしかして本当は違ったというの? ……チっ、まずいわね。じゃあせっちゃん、教えなさいよ」

「いいでしょう。ただし――ここから先は絶対に他言しないと誓えますか?」

「分かったわ。シャルロット、ちーちゃん、それでいいわね?」

「う、うん。よく分からないけど、分かった」

「もう好きにしてくれ……」

 テーブルの中央に顔を寄せて、こそこそと本当のバレンタインデーというものを教わる私たち。

 よし、これで明日はバッチリ――っ!?

「だめだめだめっ! そ、そんなこと出来ないもんっ!」

 思わず叫んでしまった。

「……ふ、ふんっ! いいわよっ! やってやろうじゃないっ! 見てなさいよ、明日は眼にもの見せてやるんだから!」

 立ち上がって喚く私と、立ち上がって強がるニノ。

 ――だって、さすがに無理じゃないかなと思うのだ。日本の女の子はなんて過激なんだろう。まさか……チョコレートはおまけであり、本命は裸にリボンを巻いた自分自身をプレゼントするだなんて――!

「お、おい二人とも。今のは雪菜ちゃんの――」

「あー千鶴ちゃんは可愛いですねーぱないですー」

「――っ~~! や、やめてよぉっ!」

 何やら千鶴が顔を赤く染めて、身体をくねくねさせている。しかし私はそれどこではなかった。

 チョコレートはまあ今夜マスターに作り方を指南してもらい、同時にブルーメンの厨房を借りるとしてだ。……か、身体にリボンを巻いて、わ、わた、私自身を士狼にぷれ、プレゼントするなんて――

「む、無理だよ……いやいや、でもこの際だから勇気を出して――」

「ふふふふ、待ってなさいよ士狼。明日アンタをウチの磨き上げられた身体の虜にしてやるわっ!」

「雪菜ちゃん、か、可愛いとか言わないでよぉ」

「はあ、紅茶が美味しいですねー」

 そのまま意味の分からない感じに盛り上がっていた私たちの声は、どうも店内に筒抜けだったらしい。さすがに騒ぎすぎだとマスターに注意されてしまった。

 これ幸いにと仕事に復帰する私とニノであったが、雪菜と千鶴はまだまだ居座るつもりらしかった。

 とりあえずはチョコレートである。これが無くては話にならない。だから今夜ブルーメンの厨房を借りようと思う。その旨を三人にも伝えた。するとニノは受諾し、雪菜と千鶴に限ってはすでに大家さんに作り方を教えてもらう約束をしているらしい。

 それからも仕事を頑張る私たちだったが、どうしてか身が入らず些細なミスが相次ぐこととなった。原因はきっとあの一言だ。

 ――ああ、神様。私はどうしたらいいのかな――




****




 ひたすらに筋肉を苛めていた。伸縮し、収縮し、弛緩する。腕に意識を集中させて、ただ呼吸と腕にのみ意識を集中させる。

 時折体の動かし方をミスって脇腹付近を痛めてしまう。現在肋骨を数本骨折している俺は、本来ならば激しい運動は控えるべきであるのだが、どうもそう上手くはいかない。じっとしてはいられないのだ。

 ミカヤの一件以来――俺は体を鍛えなおそうと決意した。長く戦場を離れていたツケというのは、本当に重大な場面で支払いを要求してきやがるものだ。”もしも”が訪れてからでは後悔しても遅い。

 だから俺は少しずつではあるが、体を作り直そうと思っている。しばらくは折れた肋骨のせいで満足にトレーニングできないが、完治してしまえばこっちのものだ。

 とりあえずはと思って、俺はダンベルを使って腕を鍛えていた。率直に言うならば簡単な筋トレである。これなら体を動かさなくても、ただ腕を上下に動かすだけでそれなりの経験値になる。

 もうダンベルで運動を始めてからどれだけ時間が経ったか分からない。確か記憶ではまだ外は明るかったような気がするが、窓の外はどう見ても暗い。時計はちょうど俺の背中側にあるので時間が確認できない。振り返るのが億劫だったのだ。

 ――と、ふと扉をノックする音が聞こえてきた。

「……あの、士狼、いるかな?」

 やや遠慮がちの声。シャルロットだった。

 俺は普段部屋にいるときは鍵を開けているので、そのまま入室の許可を出してやった。しばらくした後、外側にいたシャルロットはノブを回して扉を開き、姿を見せた。

「勝手に入っちゃっても――あれ、何してるの?」

「見て分かんねえか? 筋トレだよ、筋トレ」

「そうなんだ。なんだか分からないけど大変そうだね」

 玄関で靴を脱いで、ひょこひょこと歩いてくる。

 なんだか興味深そうな顔をして、俺の対面に腰を下ろした。

「うわぁ、すごい汗だね」

「……そうだな」

「でも急にどうしたの? なんでいきなり――」

「ちょっと体が鈍ってるからな。それだけ」

 一心不乱にダンベルを持ち上げる。顔から滴り落ちる汗が非常に邪魔だった。さすがに数時間もぶっ続けでやっていれば冬であろうと汗をかくものだ。まあ数度だけ休憩は挟んだが。

 俺もすでに限界が近かったが、ここまで来ればどこまでいけるか挑戦してみたかった。せめて日付が変わるまでやってみせれば自慢にはなるだろうか。まあその辺のサラリーマンとかでもこれぐらいはやるよな、うん。

 やっぱり体を動かすのは悪くない。何事においても資本となるのはやはり体なんだし、こうして鍛え直しておくことは決して損にはならない。

 ――と。

 気付けばシャルロットが頬を桃色に染めて、俺を見つめていた。

「……なんだよ」

「――えっ!? べ、別になんでもないよっ?」

 視線に気付かれていないとでも思ったのか、明らかに上擦った声であった。

 それからもシャルロットは恍惚とした顔で俺を見ていた。注意してやろうかとも思ったが、悪さをしているわけでもなし、放っておくことにした。

「……ね、ねえ士狼。あの、その――汗、拭いてあげよっかっ?」

 何やら慌てふためきながら、シャルロットはそんな提案をしてきた。

「あん? まあ拭いてくれるってんなら頼む」

「分かったっ、ちょっと待っててねっ!」

「え? あっ、おい――!」

 俺の部屋のタオルを使うと思っていたのだが、シャルロットは俊敏に立ち上がって自分の部屋に向かった。

 やがて再び姿を見せたバカ吸血鬼の手には、何やら可愛らしいピンク色のタオルが握られていたのだった。




****




 ブルーメンでの仕事を終えた私とニノは、閉店作業を終えた店の厨房でチョコレートを作った。もちろんマスターに教わって、一から丹精を込めて作ったとっておきの一品である。種類は男の人に似合いそうなビターチョコレートで、形はハート型にしておいた。あえてシンプルにしてみたところが粋だと自分で思う。

 だって――本命はチョコレートじゃなく、その、私自身なんだし。まだ覚悟は決まっていないけど、やっぱり――ああ、どうしよう、どうすればいいのかさっぱり分からないんだけど。

 私は士狼の部屋から自分の部屋に戻って、小型のタンスからタオルを取り出した。なるべく女の子らしい可愛い感じのやつを選んでしまったのは、きっと無意識のうちだと思う。

「……士狼、かっこよかったなぁ」

 ぼんやりと思い浮かべる。なんて言うんだろう、とっても男の人だってっていうか。あんなに汗をかいて一生懸命で、すんごくドキドキしてしまった。それで居ても立ってもいられなくなって、思わず汗を拭こうかなんて提案してしまった。

 ……とてもではないが、平常を保って汗を拭いてあげられる自信がない。手が震えちゃったりとか、声が上擦っちゃったりとかしそうである。ああ、それよりも赤くなった顔をどうにかしないと怪しまれる。あとついでに、このうるさい心臓も鎮めておかないと何をするか分からない。

 化粧台に取り付けられた大きな鏡――映りこむ私の顔は真っ赤だった。口元はだらしなく緩んでいるし、とてもではないが吸血鬼一淑女たる私だとは思えない。

 まあでも頑張っている男の人を労うのは女の子として当然だろう。実はちょっと憧れていたりもするのだ。

 私は深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから、なるべく平常を保って士狼の部屋に向かった。

 やや古びたドアノブを掴んで回す。自分のとは違って、これが士狼の部屋に続くモノだと思うと自然と緊張した。

「士狼、お待たせ」

 後ろ手にタオルを隠しながら部屋に踏み入った。

「……お前さ。わざわざ取りに帰らなくても、タオルなら俺のやつを使えばいいだろうが」

 ダンベルを一生懸命持ち上げながら、士狼は呆れたように言った。

「あっ、そういえばそうだね。……いやいやでも待ってよ? やっぱりこういう時って、女の子は自分のタオルを使うほうが正解な気も」

「なにブツブツ言ってんだよ。突っ立ってないで座ったらどうだ」

「う、うん」

 とりあえず士狼の対面に正座してみた。

「……えへへ」

「なに笑ってんだよ、不気味だなお前」

「ちょっとちょっとー! 女の子に対してそれは酷いんじゃないかなぁ」

「うるせえバカ。気色悪いと表現しなかった辺りに俺の優しさを感じろ」

「もうっ、ほんと口が悪いなぁ」

 ほんのり拗ねてみせた私だったが、その実は少し楽しかったりする。誤解の無いように言っておくと罵られることがではない。士狼の悪口ってなんとなく安心しちゃうのだ。ずっと隣で聞いていたくなるというか。

 ……それにしても。

 やっぱり汗を流しながら頑張る士狼は格好いいなぁ。素敵と言い換えても否定はしない。なんていうか、すっごくドキドキしてしまう。別に私は何もしなくていいから、ただずっと見守っていたい。それだけで楽しいし、満足してしまう。

 ああ、顔が赤くなっていないか心配だなぁ。

「――おい、バカ吸血鬼。さっきからなに顔を真っ赤にして俺を見てんだよ」

 心の中を読まれた気がして、心臓が一際高鳴った。

「な、何のことかなっ? 私は知らないよっ?」

「ウソつけ。今だってチラチラ見てるじゃねえか」

「それはアレだよっ! ほらっ、人とお話するときはきちんと目を見ないとダメってっ」

「お前は子供か……。じゃあちゃんと俺の目を見ろよ」

「う――うん」

 見つめ合う。

 私はきちんと正座して、士狼は胡坐をかいて。

 私は両手でタオルを握り締めて、士狼は両手でダンベルを持ち上げて。

 しばらく――恐らく三十秒程度は視線が交差していたと思う。

 そろそろ我慢の限界だった。

「……ぁぅ」

 自然と顔がうつむく。

「本当にどうしたんだよ。熱でもあんのか?」

 割と本気で心配していそうに、士狼が顔を近づけてきた。

「――あわわっ、な、何でもないからちょっと離れてよぅ……」

 さすがに耐えられなくなった私は、咄嗟に背を向けることによって自己防衛した。守ったモノは主に、私のピュアな心とか初心な心臓とかだ。

 身体が驚くほどに熱い。鼓動の音がハッキリと聞こえる。全身の血液が沸騰してしまいそう。……でもなんだか嫌な感じじゃない。辛いのと楽しいのが混ざったような感覚だった。

 しばらくして落ち着いた私は、目下の目的を思い出した。きちんと折り畳んでいたはずのタオルは、握り締めすぎたせいで少しだけ皴がついていた。

「……あのね、士狼。そろそろね。あ、汗を拭こうと思うんだけど、いいかな……?」

 士狼に背を向けたまま、私は問いかけた。

「あん? ああ、まあ勝手にしてくれ」

 興味の無さそうな声。それに少しだけ安心する。だって期待されていたら逆に緊張してしまうからだ。

 私は立ち上がり、大きく迂回するようにして士狼の背後に回った。こうすれば顔も見られないし、士狼の顔も見えないし、一石二鳥なのだ。だって汗を拭くということは物理的な距離が物凄く近いということ。いわゆる、手を伸ばせば触れる距離だ。そんな近くで目が合ってしまったら、それこそ私は爆発してしまうだろう。いや、比喩じゃなく。

 士狼の背中側――私は足を崩して座った。俗に言う女の子座りというやつだ。

「……ふう」

 緊張しすぎてどうにかなってしまいそう。でも私が提案した以上はやり遂げないと失礼に当たるだろう。……そ、それにこれで士狼との精神的な距離が一歩縮まるかもしれないし。

 汗で濡れて張り付いたシャツ。うなじとか耳の裏とかにも雫が光っている。

 ふんわりと士狼の匂いがした。汗をかいているはずなのに全然不快じゃない。

 ――それにしても不思議だ。あれだけ緊張していたはずなのに、士狼の匂いを捉えた瞬間、昂ぶっていた気持ちが落ち着いてきた。まだ顔は赤いと思うけれど、これなら頑張って使命を果たせそうな気がする。

 ふと、士狼に抱き締められたときのことを思い出す。女の私とは違う厚い胸板と、力強い腕の感触。そして胸一杯に広がる士狼の匂い。……あ、ダメだ。また鼓動が早くなってきた。

「――何してんだよ。背中のほうでガサゴソやられてたら落ち着かないんだが」

「あっ、ごめんね。鬱陶しいよね、私って」

「……別にそこまで言ってねえよ。やるなら早くしてくれ」

 それっきり士狼は口を開くことはなかった。

 私は気付かれないように深呼吸してから、しっかりとタオルを握り締めた。

「じゃあ……拭いちゃうね?」

「ああ」

 返答は一言。

 まずは――首周りを拭いてあげてみた。擦ったら痛いかなと思って、押さえて叩くように、ゆっくりと汗を拭き取っていく。

「……あの、士狼。痛かったりしないかな……?」

「ああ」

 やはり返答は一言。でもさっきみたいな感じでいいんだと安心した。

「ふう、よかったぁ。……じゃあさ、えっと――次は」

 それからしばらくして、士狼の背中側の汗を全部拭き取った私は、とうとう移動せざるを得なくなってしまった。つまり士狼の正面側に回らなければ、顔とかを拭いてあげれないのだ。

 立ち上がった私は、中腰のまま士狼の真ん前に移動した。本当は横側からのほうがいいんだけれど、ダンベルを持ち上げる邪魔になったらいけないと思ったのだ。

「……えへへ」

 照れ臭くて、頬をかいて笑ってみた。

「ああ」

 すると返ってきたのは、本日三回目の気だるそうな返事だった。

「――?」

 さすがに不思議に思った。いくら筋トレとやらに集中していたとしても、さっきまでは普通に話していたわけだし。いきなり曖昧になるのはおかしいのではと。

 じぃーと士狼の顔を見る。私が部屋に入ってきたときは交差していた視線が今は違う。顔は俯き、なんだか微妙に目を逸らされているような。おまけに頬もちょっと赤い気がする。

 ……ははあ、なるほど。きっと疲れているんだ。全然目も合わせてくれないのは顔を上げるのも億劫だからで、ほっぺが赤いのも運動しているからに違いない。客観的に見れば照れてるように見えなくもないけど、士狼が私に恥らうなんてありえないのだ。

「えと、じゃあ……拭いちゃうね?」

「ああ」

 相変わらずのぶっきらぼうな返答。

 私はゆっくりと手を伸ばして、額とか頬とかを拭いていく。

「――よいしょ、よいしょ」

 黙っているのが気恥ずかしかった私は、適当に掛け声なんかを出してみた。

 喉にタオルを当てた瞬間、ちょっとビックリした。私には無い出っ張りがある。……なるほど、これが男の人に見られる喉仏というやつか。やっぱり女の子と男の人って、全然違うんだなぁ。

 ――ふと気付くと、顔が物凄く近かった。私が覗き込むようにして接近していたからだ。

「あ――」

 距離は目測でおよそ――十センチもない。

 思わず士狼の唇に目が行った。それは反射的と言い換えてもいい。人間――私は吸血鬼だけど――不思議なもので、男女が顔を近づけると自然とキスを意識してしまうものなのだ。

 視界が狭まる。瞼が睡眠を欲しているときと同じように重くなって、ゆっくりと閉じていく。

 そして私は――私から――士狼に、キスをした。

「ん――」

 本当に触れるだけの、口付けとも言えないような接吻。遠目からならば、きっとキスをしていないようにさえ見えるだろう。

「……シャルロット。お前、いま――」

 呆然としたような声。

 それで私は、自分が今とんでもないことをしてしまったと自覚した。

「――きゃあぁぁぁぁっ! い、今のは違うのっ! 本当に違うのっ! 士狼の気のせいじゃないかな? うん、きっとそうだよ!」

「いやでもお前」

「ダメっ! 何も言わないでっ! お願いだから……私を嫌わないでよぅ」

 もしかしたら士狼に嫌われたかもしれないと思うと、身体が強い寒気に晒されたように震えた。

 ダンベルを置く気配。そして士狼の手が私の肩に触れた――途端、ビクンと身体が跳ねた。

「ごご、ごめんなさいっ!」

 頭を下げてから、部屋を出ようと翻った。

「あっ、おいっ! そのタオル俺が洗濯して返――」

「気にしないでいいからっ! じゃあね、おやすみっ!」

 耳を塞ぎながら駆け出した。それが感謝であろうと罵倒であろうと、聞いてしまうのが凄く怖くて、恥ずかしかった。

 何もないところで躓きながらも部屋に帰る。扉を閉めて、鍵をかけて――ようやく安心した私は、玄関扉にもたれかかりながら、その場にしゃがみ込んだ。

「わたし……なんてことしちゃったんだろ」

 自分から――女の子からキスしちゃうなんて。大胆にも程がある。もしかしたら私って変態さんなんだろうか。

 手にはピンク色のタオルが握られている。ほのかに湿っているのは、士狼の汗が染み込んでいるからだ。

「……士狼ぉ」

 たまらなくなって、私は胸元にタオルをかき抱いた。ここにはいない――となりの部屋にいる大好きなあの人を抱きしめるように。

 布で出来たタオルからは人の温かみが感じられなかったが、その代わりに馴染みのある匂いがした。それは士狼の匂いだ。言葉では言い表せないけど、なんだかすごく安心してしまう。

「……なんで――こんなに好きなのかな」

 タオルを顔に軽く押し当てる。

 胸一杯に士狼の匂いが――って。

「――あわわっ、私ったらなんてことを……変態さんになっちゃったー!」

 思わず叫んだ。

 タオルはポイと投げる。……少しもったいないような気がしたけど仕方ない。私は周防になりたくないのだ。

 ――それより一つ忘れていた。士狼の部屋に訪ねた理由を。チョコレートは好きかとか、どんな渡し方に惹かれるのかとか、色々聞きたいことがあったはずなのに。

「……まあ、いっか」

 小賢しい真似なんて私には似合わない。正々堂々と正面からぶつかってやるんだ。

 それよりも問題はもう一つのプレゼントだろう。り、リボンも一応用意しておかなくちゃ――

「……巻き方も練習しておこう、うん」

 拳を握り締める。

 今夜はまだまだすることがありそうだった。



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