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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
幕間の話
48/87

其の二 『狼少女の決意』


 姫神千鶴はその日、学校の用事でやや遅い時刻に帰宅した。

 彼女が通っているのは都内でも有名なお嬢様学校であった。それが学校という名の教育機関である以上、この時期になると必然的に、在学生は一つの行事に追われることとなる。

 つまり最上級生の卒業に伴う式の下準備である。

 千鶴も例外ではなく、ここ最近は日が沈んでから家に帰ることが多かった。

 暦荘にまで辿り着くと、郵便受けに隠すように仕込んである鍵を探した。それなりに昔からの習慣ではある。持ち歩くよりも落とす心配がない分確実だし、郵便受け自体は暦荘の敷地内にあるのだから、盗まれる心配もまあ無い。大家である高梨沙綾が常時目を光らせているからだ。

 それに一見しただけでは鍵が隠されているとは分からないようにしてある。外に走りに行くことも多い千鶴としては、その際に鍵は邪魔になったりもするので、やはりこうして郵便受けに仕込んでおくことが多かった。

 しかしこの日は少しだけ様子が違った。

 ――鍵が、無い。

 自分の部屋を見ると明かりはついていなかった。かつて雪菜がサプライズとして、千鶴が不在のときに上がり込んでいたこともあったが、それとも違う気がする。

 千鶴はドアノブを握って、ゆっくりと回してみる――と、抵抗もなく扉は開いた。

 蝶番が軋む音。

 部屋の鍵が開いていた、というのは何とも不気味だと千鶴は思った。今朝家を出るときは間違いなく鍵を閉めたのだ。

 警戒しつつも自室に足を踏み入れた。……暗くてよく分からない。とりあえずは電気を点けようと考え、千鶴はカベに取り付けられたボタンを押して――

「……はあ」

 思わずため息が出た。

 気を張っていた自分が馬鹿らしくなって肩を落とす。

 何故だかは分からないが、ベッドがこんもりと盛り上がっているのだ。それだけでは留まらず、毛布が生きているかのように上下運動を繰り返している。きっと布団に包まった人間が呼吸をしていたらあんな感じだろうなと、千鶴は思った。

 さらに耳を澄ませてみれば、何やら寝息らしきものも聞こえる。泥棒にしては些か暢気すぎるだろう。

 テーブルの上には銀色の鍵が鎮座している。これで千鶴が今朝に、鍵を閉めた記憶は間違いではなかったという証明になった。

 つまり――この毛布に包まって眠っている人間(それも郵便受けに鍵が仕込んであると知っている)が、千鶴が不在にも関わらず何かしらの用件があって、部屋に上がり込み、あまつさえ千鶴のベッドで眠っている――ということになる。

 状況の把握に努めようとしてみたが、中々に意味が分からず、千鶴は頭を抱えた。

 これが凛葉雪菜ならばどうだろう。

 ……いや、雪菜ならば悪びれもなく、勝手にお茶を淹れて勝手にお茶を飲み、帰ってきた千鶴へ向けて「おかえりなさい、千鶴ちゃんも飲みますか?」と言いそうである。

 ではシャルロットはどうだろう。

 ……そこまで考えて千鶴は違うと首を振った。何気に――と言ったら失礼ではあるが、彼女はああ見えても礼儀正しい。無闇に他人の部屋に上がり込んだりはしない子である。雪菜に誑かされていたりなどしなければ、という補足がついてくるが。

 考えていても仕方がないと思い、千鶴は忍び足でベッドに近づき、ゆっくりと毛布を捲くってみた。

「……くう、くう」

 途端、鮮明に聞こえる寝息。

 そしてピョコピョコと何かが動いた。

 獣耳だった。

「……ふう、最近疲れてるみたいだ」

 とりあえず何かの間違いだと思って、毛布を元に戻し、目頭を揉んでみた。

「私もまだまだ修行が足りないな。幻覚を見てしまうとは」

 そうだ、これは恐らく幻なのだ――そう千鶴は自身に言い聞かせた。

 なぜか聴覚にも、そして触覚にも訴えかけてくる幻覚ではあるが、とにかく姫神千鶴からして”これ”は幻覚という扱いに認定された。

 そろそろ頭もハッキリしてきた頃だろうと思い、千鶴はもう一度毛布を捲くってみた。

「……う、ん」

 電灯が眩いのか。

 頭部についた獣耳がむずがゆそうに跳ねた。

「――む」

 千鶴の眉間に皴が寄る。

 それも当然。なぜか彼女のベッドには、猫のようにこれでもかと身体を丸めて――人狼の少女、ニノがすやすやと眠っていたのだから。

「ぁ、ん――眩し――」

 獣耳がピクピクと動いていた。だが目を覚ます気配はない。

 千鶴としては驚愕というよりも、むしろ呆れ返っていた。そして事情を問いただしてもみたかったが――残念ながら、今の千鶴はそれどころではなかった。

「……うわぁ」

 乙女チックな声を上げて、千鶴はベッドに腰を下ろした。

 そのまま何をするでもなく、ただ見守るようにニノを観察する。

 言ってしまえば――丸まって眠るニノは、ひたすらに可愛かったのだ。叩き起こすことなど、どう自身に葛藤しても出来ないほどに。

 スラリとした細身に程よく肉付きの良い身体は、きっと女性ならば誰もが羨望し、自身を蔑んでしまうだろう。服の上からでも豊満な乳房が目に見えて分かり、現在は自身の身体に圧迫されて形を変えていた。扇状に広がる赤い長髪はどこまでも目を惹きつけて止まず、そして何より――ピコピコと動く獣耳が、千鶴からしてみれば可愛すぎて死んでしまいそうだった。

 それを一目見てしまった者は、誰もが心を掴まれるに違いない。普段は凛々しく、周囲からも頼られてばかりの千鶴だが、彼女は女の子なのだ。可愛いものは基本的に好きだし、並々ならぬ興味もある。

 自身に女の子らしい――つまり『可愛い』という要素が皆無だと考えている千鶴にとって、逆にその『可愛い』を持った相手は羨ましいことこの上ないのだった。

「さ、触ってみても……いいかな」

 ドキドキと高鳴る心臓。

 どうしても獣耳に触ってみたかった。姫神千鶴という人間の三大欲求に、『ニノの耳を触りたい欲』が追加された瞬間だった。

 本能からの指示には抗えず、千鶴は人差し指で恐る恐る触れてみた。

 ――ピクっ。

「っ――!?」

 指の先端が触れた瞬間、獣耳が警戒するように尖った。

 しかしその反応ですらも、千鶴にしてみれば可愛くて仕方がなかったのだが。

「くっ――! なんて誘惑だっ。これほどまでに私が駆り立てられるなんて――!」

 ……ピクピク。

「落ち着け、落ち着くんだ姫神千鶴。そろそろニノを起こして――」

 ……ピク。

「――! ぅぅ……!」

 千鶴が起こしてしまおうと言葉にした瞬間、獣耳が頼りなさそうに揺れた。まるで「起こさないでー」とか、「もう少し寝かせてー」とでも言うように千鶴には見えたのだった。

「し、仕方がないな。もう少しだけ寝かせてあげようか。……でもまあ、私のベッドで寝ているわけだし……ちょ、ちょっとぐらいなら耳に触ってもいい、かな?」

 自己に言い聞かせるようにそう言って、千鶴は再び人差し指で、獣耳を突付いてみた。

 ――ピクっ。

 こそばゆそうに耳が揺れた。

「――っ、ダメだ!」

 千鶴が胸を抑えて蹲る。

「か、可愛すぎて死にそうだ……!」

 ペットを愛でる感覚――と言えば些かの御幣はあるが、それに近い感情ではあった。人並みには動物好きであったが、これまでペットを飼ったことのない千鶴にとって、現在のニノは悪魔の囁きに似た誘惑があった。

 やがて人差し指で触れるだけでは飽き足らず、とうとう掌で包み込むようにして触れてみた。優しく、傷つけないようにしながら、揉み解すように獣耳を弄る。

「ん、っ――」

 ニノがくすぐったそうに声を上げた。

 そのとき、千鶴はひたすらに感動していた。

「……可愛いなぁ」

 揉み揉み。

 ――ピクピクっ。

 揉みん揉みん。

 ――ピクっ、ピクっ。

 揉み。

 ――ピク。

「生きていてよかったなぁ」

 千鶴が刺激した分だけ、耳は仕返しをするかのように跳ねた。とまあ、やはりその動きですらも可愛くて仕方がなかったのだが。

 ちなみにニノ自身はずっとむずがゆそうであった。時折瞼や鼻が獣耳と同調するように痙攣している。それなりに覚醒は近いようであったが、ある種の幸福に浸っている千鶴には関係なかった。

「……うーん」

 ニノの瞼が薄っすらと開く。

「いいなぁ、可愛いなぁ」

 ――が、千鶴はそれに気付いていなかった。

 とうとう目を覚ましてしまった狼少女は、自分の耳が誰かに触れられていることをすぐさま理解した。

 白く細長い指が、自慢の耳を慈しむように揉んでいる。くすぐったいような、気持ちいいような、そんな感覚。ちょうどいい温度のお湯の中にいつまでも浸かっているみたいだった。

 ニノは少しだけ過去に想いを寄せた。

 いつか――優しく綺麗だった母が、ニノの赤い髪を梳きながら耳を撫でてくれたこと。人狼の女性にとって、獣耳は本当に大切なモノだ。自分が愛した異性にしか触れさせないし、同姓にだって意味もなく触れることを許したりはしない。

 故に本来ならば、すぐさま千鶴に注意を呼びかけて中断させただろう。ニノにとっては、乳房や性器を何の断りもなしに弄られている感覚に近かったからだ。

 ――しかし。

「なんでこんなに可愛いんだろうなぁ」

 千鶴があんなに幸せそうな顔をしているのだ。自分の耳を触ってあれだけ嬉しそうにしてくれているのである。

 とてもではないが、怒ったりする気になどなれるわけがなかった。

「……ふん」

 複雑な気分である。

 それでもニノの顔は照れたように赤くなっていたし、口元はニヤけたように緩んでいるし、耳に至っては活気付いたかのようにピクピクと揺れていた。

 ――仕方ないから、もうちょっだけ触らせてあげよっかな。

 横目に千鶴を見た後に、ニノは瞼を閉じた。別に他意なんてないけれど寝たふりをしようと思ったのだ。

 それからしばらく経っても千鶴の手が止まることはなかった。

 ――けれど、同時にニノの寝たふりが終わることもなかったのである。





「なぜ私の部屋に勝手に入ったんだ。というよりも寝ていたんだ。説明してもらうぞ、ニノ」

 あれから約三十分ほどが経過した。

 姫神千鶴があまりにもさわさわと耳を弄るので、ニノはくすぐったさの余りに声を上げてしまったのだ。そしてやや気まずい雰囲気の中、おはようと挨拶を交わして現状に至るというわけである。

 千鶴にしても無断で獣耳を触っていたこともあって、完全に上位に立って怒ることが出来なかった。本来ならば正座をさせて強気に問い詰めたかったところだが、今回ばかりはちょっと無理そうである。ニノもニノで特に反省している様子も無く、相変わらずベッドの上でごろごろしていた。

「聞いているのか? ……猫みたいだな、お前は」

「ふん、ウチは猫じゃなくて狼よ。そこは間違わないで」

「……そんなベッドで寝転びながら言われても気を付けようという気にならないんだが」

「人狼は誇り高いのよ。意味もなく媚びたりしないんだから。大体アンタこそ、ウチの耳を断りもなく触ってきたくせに」

 ベッドに身体をうつ伏せに寝かせ、両手で肘をついて顎を支える。両足はバタ足をするかのようにゆっくりと中空を上下しており、頭部についた獣耳がピコピコと揺れていた。

 それまでやや強気気味だった千鶴が声を詰まらせる。

「う――し、仕方ないじゃないか。そんなに可愛いのが悪いんだ」

「むむ、確かにそれは仕方ないわね。そう言われたら納得するしかないのが悔しいわ」

 うんうん、と含蓄ありそうに頷くのはニノである。

「だろ? とりあえず勝手に触ってしまったのは謝るよ。もう二度としないから」

「……こほん。ま、まあたまになら? 本当にたまになら……触らせてあげないこともないわよ? あっ、ウチの気が向いたときかつ、本当にたまになんだからね」

「いいのか?」

「本当は触らせたくないんだけどね。さっきみたいに優しく耳を触れられてると、マッサージされているみたいに気持ちいいだなんて絶対に言わないけれど、とにかくウチが許したときなら触ってもいいということにしてあげるわ」

 ふん、と鼻を鳴らしてニノがそっぽを向く。

 なんとなく微笑ましくて千鶴は苦笑した。

「そうか、ありがとう」

「……お礼なんていらないわよ、別に」

 微笑む千鶴に対して、ニノは照れくさそうに顔を赤らめた。

「――それで、どうして私の部屋にいたのか聞いてもいいか? しかもなんでベッドで寝ていたんだ」

「…………」

「ニノ。一応言っておくが、私は怒っているわけじゃない。確かにまるで怒りがないと言えば嘘になるが、それはどちらかと言えば疑問に近いんだ。もう一度聞くが、なんで私の部屋に断りもなく入ったんだ?」

「……さあ。どうしてでしょうね」

 意味ありげに灰色の瞳を細めて、ニノはため息をついた。

「最近色々と考えることがあってね。それで何かのヒントになるかと思って、ふらふらっと士狼に会いに来てみたら部屋にいなかったから、仕方なくアンタの部屋に――」

「その時点で何かおかしいと思わないか? どうして私の部屋なんだ」

「どうしてって、それは――」

 自然と頭に浮かんだからだ。なんとなく千鶴に会いたくなってしまって、それで部屋を訪ねたのだ。しかしタイミング悪く不在だったので、千鶴が郵便受けに鍵を隠していたことを思い出して、悪いと思いつつも無断で部屋に上がってしまった。

 明確な理由を問われればニノは首を傾げるしかない。今まで自分と同い年ぐらいの女の子とほとんど交流がなかったから、接する距離がいまいち分からなかったのかもしれない。勝手に部屋に上がるのが駄目だとか、それぐらいなら皆やっていることだとか、その辺りの判断がつかなかった。

 ――もっとも、それらは全て後付の理由だろう。

 ニノは頭でどうこう考えるよりも以前に、ただ本能に従うままに千鶴に会いに来たのだから。

 あの一本気で真っ直ぐな瞳を思い出して。

 まったく飾っていない誠実そうな人柄が頭をよぎって。

 ――ニノ本人は気付いていないことだが、彼女は心底迷っていた。フランシスカから提案された吸血鬼狩りに属する等の話について、いくら一人で考えても答えは出ないから、誰かに頼ってみたかったのだ。それも無意識のうちに、である。

 要するに、ニノは千鶴に喝を入れて欲しかったのだろう。

「……まあ、いいか。部屋に上がりこんだのは一先ず置いておこう。代わりにどうしてベッドで寝ていたか聞いてもいいか?」

「ああ、それはただ単に眠かったからよ。アンタのベッドってとてもいい匂いがするのね。すっごく安心出来たわ」

「いい匂い? ……なんだろう、それ」

「自覚ないの? ――どれどれ」

 ベッドから身体を起こして、ニノは大きく身を乗り出した。そして千鶴の首筋にまで顔を接近させる。

「……うん、アンタ自身の匂いみたいね。なにか香水とかの類は使ってるの?」

「いいや、私ってそういうの似合わないから。シャンプーとかボディーソープも市販の安物だし」

「へえ……くんくん」

「も、もういいだろっ」

「あっ、そうね。とってもいい匂いだったからつい」

 悪びれもなくそう言って、ニノはベッドに腰掛けた。

「それで、元気にしてるのアンタ」

「つい最近、私の部屋でお茶を飲んだばかりじゃないか。あれから特に変わっていないよ」

「……ふうん」

「そういうニノはちょっと元気がなさそうだね。私でよければ話を聞くけど」

「別にいいわよ。アンタに言ったって解決する問題じゃないし」

「確かに、私がニノの抱えているモノをどうこう出来るわけじゃないだろう。それでも――放ってはおけないんだ」

 その言葉に反応するように獣耳が尖る。

 まるでイラつきを代弁するかのようだった。

「分かったようなことを言うのね。ねえ、ウチはアンタのことが嫌いじゃないわ。それどころかわりかし気に入ってる。……でもね、そうやって分かったように言われるのは我慢ならない。ウチって同情とか大嫌いなのよね」

 口調こそ平坦だったが、ニノをよく知る者ならばすぐさま理解しただろう。彼女は今、機嫌を損ねているのだと。

 それほど長い時間を共有したわけではない千鶴であったが、なぜかそのイラつきが手に取るように分かった。

 だが気付いていても尚、言葉を続けた。

「……宗谷から全部聞いたよ。ニノのこと」

「――――っ」

 ギリと奥歯をかみ締めて、ニノが立ち上がった。

「こんな盗み聞きするような真似をしたのは謝る。でも――どうしても放っておけなかったんだ」

「……ぜんぶ、聞いたんだ」

「ああ」

 ニノはしばらく項垂れていたが、やがて赤い髪をかきあげて自嘲気味な笑みを浮かべた。

「あははっ、そう? ぜんぶ聞いちゃったんだ? ウチにパパとママがいないのも、これまで多くの人間や吸血鬼を殺してきたのも――聞いちゃったんだよねえ? 一つ聞いてもいいかな、姫神千鶴。それってさあ――同情?」

「っ、違う。私は」

「――聞きたくないわよっ! さっきから人の良いことばっかり言ってるけど、内心では軽蔑してるんでしょ!? そうよね、こんな気味の悪い女なんて、本当なら部屋にも上がってほしくないわよね?」

 何よりも感情を示す獣耳は。

 どこまでも悲しそうに――

「そうよ、これまでいっぱい殺してきたもの。ええ言い訳なんかしないわ。自分が生きるために、罪のない者にさえ罰を無理やり見出した。そんな女に生きる価値なんてあると思う?」

「落ち着いてくれっ。私はそんなつもりで言ったんじゃないっ」

「よく言うわね。人間風情が。今まで平穏に生きてきたアンタには絶対に分からないわ。だからこそ相容れない。アンタにしてみればウチはただの人殺しなんだから。ねえ、怖い? 怖いわよね? ウチがその気になればアンタなんて一秒とかからず殺せるわ。そんな女と一緒にいることに一片の恐怖もないと誓えるの?」

 一度言葉を吐き出すともう無理だった。

 思っていることも、思ってもいないことも、延々と口をついた。

 それはきっと誤魔化しだったのだ。自分が今まで多くの人間や吸血鬼を殺してきたという事実を知られてしまったからには、きっと元通りにはなれないから。さきほどのように、自慢の耳をニヤけながら触れさせる者と、可愛いと幸せそうに微笑みながら触れる者には、絶対に戻れないから。

 最中、ニノはぼんやりと思った。

 ――ああ、これで絶対この子にも嫌われちゃったなぁ……と。

「もういいでしょ? 正直に言いなさいよ。お前なんか軽蔑したって。早く部屋から出て行けって。安心して、別にアンタは悪くないわよ。本当のことを言ってるだけなんだから。だから思ってることを言えばいいのよ、このバケモノって――っ」

 瞬間。

 ニノの頬に衝撃が走った。

 それは――どこまでも真っ直ぐで、手加減などこれっぽっちも知らないような――平手だった。

「痛っ――いきなり何すんのよっ!」

 怒鳴った。

 反射的に頭が真っ白になった。

「……もう、いいんだ」

 ニノの剣幕を物ともせず、千鶴は小さな声で呟いた。

「お前は気付いていないかもしれないが――ニノ。さっきからずっと、辛そうだ。」

「――え?」

 大きく瞳が見開かれる。

 姫神千鶴のどこまでも凛々しく真っ直ぐな瞳――そこに映った自分の姿を見て、ニノは息を呑んだ。……おかしいなと。なんでこんなに顔を赤くしているのかと。それだけならばまだいい。

 なぜ――灰色の瞳からは、これほどまでに涙が零れそうなのか。

「お前は一つ勘違いをしているようだから言っておくけど――私はね、ニノのことが羨ましいんだよ」

「っ、それこそウソよ……だってウチに誰かから好かれる要素なんてないもの」

「可愛いじゃないか。その耳」

「――っ」

「ちょっと不器用なところも、女の子らしくて好きだな」

「――ぅぅ」

「確かにニノは今まで、私の知らないところで悪いことを沢山してきたのかもしれない。……正直に言えば、まったく怖くないといえばやっぱりウソになる。でもそれはきっと、ニノの人となりを知った人間ならば誰だって怖くなくなるって言うよ」

 雨が――降っている。

 そんな言い訳が通じない。だってここは部屋の中だから。誤魔化すことなどこれっぽっちも出来やしない。

「ぁ、ぅっ――っ」

「だから――我慢しなくていいんだ」

 優しく抱きしめられる。

 千鶴の細く、けれど適度に筋肉のついた心地のいい腕が、ニノの頭を優しく掻き抱いた。

 ――それがきっかけであり。

 ――限界でもあったのだ。

「――ぅっ……ごめ、ごめん、ぅぅ、ごめ――っ!」

 まるで子供のよう。

 そして優しい母のよう。

 姫神千鶴の胸に抱きしめられるようにして、ニノはひたすらに嗚咽を噛み殺した。しかし溢れ出る懺悔の言葉がそれさえも許してくれない。

 結果として。

 ただ謝罪を繰り返しながら、泣きじゃくるしかなかった。

「――ごめんなさい……ぅっ、ごめ、ん――っ、なさ、い……!」

 その懺悔はきっと千鶴にはではなく。

 今まで自分が奪ってきた多くの尊い命に捧げるもの。

 そして、自分の幸せを願って逝ってしまった両親に対してのもの。

 ――殺しに疑問など持っていなかったはずだった。それを生業として生きてきたはずだった。けれど暦荘の住人と出会い、いつしか、それは本当に正しかったのかと、無意識のうちに自問するようになった。

 本当は怖かった。

 誰かを殺してきたことを知られたら、みんな離れていくのではないかと。

 そしてそんな自分に生きていく価値があるのかと。

 善悪の危うい拮抗は、暦荘という一つの善と触れ合った瞬間から瓦解した。あの陽だまりのような笑顔を浮かべる者達を見ているうちに、ニノは思ったのだ。もしかするならば、自分は今までとんでもないことをしてきたのではないか――と。

 ここ数日、それは少しずつニノの心を圧迫していた。

 全ての苦悩の根源、それは――今まで多くの命を奪ってきたという事実。

 善悪の観念がなかった人狼の少女は、温かい善を知ってしまったが故に、これまでの自身の行いが悪だと知ってしまった。それがつまりは途方もない足枷となって、ニノを迷わせる原因となっていたのだ。

 もっとも。

 一人の真っ直ぐな女の子によって、その迷いを振り切ることが出来たわけだが。

「――ぁ、の……っ、ウチぃ……ごめ、っ、ごめん、なさ、いっ――ずっと、ぅぅっ、いっぱい、っ、殺し、て――っ!」

 千鶴の胸にすがり付いて、ひたすらに謝罪を繰り返した。

 恥も外聞もなく、きっと可愛くなんてこれっぽっちもないだろうが、それでも頭を下げ続けた。

 不器用なニノなりに誠意を込めた。

 誇り高いニノなりに言葉を選んだ。

 全てはただ、自分が今まで奪ってきた尊い命と、大好きな両親のために。

「――ぅ、ぁぁ……! ごめんなさい――ごめ、ぅっ、なさい……! ごめ――ん、ウチぃ……!」

「ニノが悪いと思ったなら謝ったらいいんだ。私はその必要があるとは言わないし、止めようとも思わない。でも……泣きたいときには泣けばいいよ」

 優しく背中をさすってやりながら、千鶴はその夜、いつまでもニノに付き添い続けた。

 溢れ出る涙を拭うこともせず、泣き止めと慰めることもない。

 それはただ、傍にいるだけ。

 ――しかし今まで真に支えてくれる者のいなかったニノにとって、何よりも必要な行為。

 ごめんなさい、今まで多くの命を奪ってきてごめんなさい、パパとママの想いを知らないでごめんなさい、ずっとずっと、本当にごめんなさい。

 言いたいことは集約すると一つだけ。

 ――ごめんなさい。

 けれどその一言にいくつもの意味があった。そして、何よりも込められた想いがあった。

 押し殺しても尚響き渡る泣き声は、きっとニノにとっての産声なのだろう。温かい腕と胸に抱きしめられながら、駄々をこねる赤子のように泣き続けた。

 この夜、人狼の少女は、人間の少女によって一つの罪を祓われた。


 懺悔を繰り返し。

 誇り高き血を受け継いだ少女、ニノ=ヘルシングは一つの決意を固めた。

 何も世界を救うとか、皆を幸せにするとか、大それたことを言うつもりはないけれど。

 人間の少女がしてくれたように、自分も誰かを守りたいと願った。

 罪を犯した自分でも――否、罪を犯しているからこそ、誰かを守ろうと決心した。

 その夜の姫神千鶴のように、誰かの心を暖かくしてやりたいと――





 途方もなく広がった黒い夜の帳。相も変わらず夜空には、黒い画用紙に穴を空けたかのように満月があった。

 日が沈んだ自然公園はどこまでも閑散としており、お世辞にも心を癒すとは言えない。豊富な若緑も鑑賞する人間がいなければ張り合いがないのか、どこか退屈そうに木の葉を風に揺らしていた。

 白銀の吸血鬼――フランシスカ・ルナ・キルヒアイゼンは一つの予感があって、いつかのベンチに腰掛けていた。小さな身体でやや懸命そうに足を組み、真摯に月を望む姿は、知らぬ者が見れば非現実的であると言わざるを得ない。あるいは幽霊の類かと目を疑ってしまうだろう。

 そもそも普遍的な人間ですら、目を凝らして彼女を見れば己とは違う存在であると気付くに違いない。生まれ持った圧倒的なカリスマと、一個大隊ですら単体で葬り去る強大な力。吸血鬼であることを踏まえても、それは些か常識を馬鹿にした能力だ。

「……やはり来たか」

 鈴振るような抑揚のない声は、けれど彼女を知る者が聞けば分かってしまうだろう。その端々に滲み出るのは、嬉々とした感情だと。

 フランシスカの視線の先。

 丸々とした満月の下には、人狼の少女――ニノ=ヘルシングが悠然と佇んでいた。

「こんばんわ、合法ロリちゃん」

「うむ。それにしても良い夜じゃのう」

「確かにね。悪くないわ」

 適当に挨拶を済まして、ニノはベンチに腰掛ける。

 二人並んで、いつかと同じように月を見上げた。

「……それで、ワシの考えているとおりでよいのか?」

「さあね。アンタが何を考えているのかは分からないけれど、ウチがするべきことは決まってるから」

「だろうよ。――それで、答えは?」

 問われて、一拍置く。

 様々な想いが胸に去来する。しかしそれも一瞬のこと、すぐさまニノはフランシスカに向き直って、言った。

「――ウチを吸血鬼狩りに入れて。ニノ個人としても、ヘルシング一族最後の者としても、そう願うわ」

 恐らく下げる必要のない頭を下げて、ニノ=ヘルシングは一つの決意を示した。

 赤い長髪が垂れて風にそよぐ。

「やはりか。うむ、ヘルシングの娘よ。おぬしなら必ずそう言うと思っておったよ」

 機嫌の良さそうに弾んだ声。

「――あい分かった。ニノ=ヘルシングよ。今このときよりおぬしを『吸血鬼狩り』に属する人狼として扱おう。それでよいか?」

「ええ。異存はないわ」

「恐らく……吸血鬼狩りに属する唯一人の人狼として、おぬしは白い眼で見られるやも知れん。こればかりはすぐにどうこうできる問題ではないのでな。ヘルシングの娘よ、それでもおぬしは――」

「もしも”ヘルシング”がそんな目で見られるというのなら、それこそがウチの罪よ。それぐらいでみんなを守れるというのなら、ウチは喜んで罰を受ける。そう決意したの」

「……よい瞳じゃ。遠い昔――”ヘルシング”と手を取り合ったときのことを思い出すわい」

 感慨深げに頷く。

「これで話は終わりよ。吸血鬼狩りのニノ=ヘルシングが、この街に留まり、悠久の時を生きる吸血鬼を守護します。それでいいかしら?」

「うむ。キルヒアイゼン今代当主、フランシスカ・ルナ・キルヒアイゼンが許可しよう。”あの方”のご息女を守ってやってくれ」

「言われるまでもないわよ。……ふふ、それにしてもウチがシャルロットを殺すのではなく守る日が来るなんてね。これほどの皮肉も珍しいんじゃないかな。ご先祖様が知ったらなんて言うかしら」

 手を差し伸べる。握手が交わされる。

 吸血鬼と、人狼と。

 この日、キルヒアイゼンとヘルシングは、再び手を取り合ったのだった。





 それはニノがとある報告をしようと暦荘へ向かっている途中の出来事であった。

 正午ごろであろうか、まばらに人が見える市道を歩いていると、向かいから何人かで連れ立った女子が歩いてきた。学校の制服に身を包み、何やら談笑しているではないか。とまあそれだけならば良かったのだが、ふと聞き捨てのならない会話が耳に飛び込んできたのだ。

「やっぱりさぁ、友達ならあだ名で呼び合うべきだよね」

 ピクっ――!

 ニノの獣耳が敏感に反応した。

「うん。下の名前で呼ばれるのも好きだけど、あたしはともちんって呼ばれる方が好きかなぁ」

 ピクピクっ。

 女子高生たちはニノから見て十メートル以上向こうではあったが、聴覚にも優れた人狼には当たり前のように聞こえていたのだった。

 正直な話、彼女らの一人がともちん等と呼ばれていることには全く興味がなかったが、その一つ前に交わされた言葉がニノの心を捕らえて離さなかった。

 ――やっぱりさぁ、友達なら――

「あはは、まあともちんはともちんだからね。――あっ」

 距離が埋まってしまい、ニノはともちん含む女子高生たちとすれ違った。偶然にも目が合った一人の女子が、なにやら驚いたような声を上げて口元を押さえた。

 本来ならばやや失礼な行為ではあったが、現在のニノは思考することに忙しく、残念ながらそれどころではなかった。

 ――あだ名で呼び合うべきだよね――

「……ふうん。友達ってそういうものなんだ」

 今まで同い年の女の子ですら身近にいなかったので、いまいち常識とされていることが分からない。もしかすると相手と親しくなった場合、あだ名で呼ばなければ逆に失礼に当たるのではないかとニノは思った。

 そんなニノの背後では、女子高生らが面白い具合に盛り上がっているところだった。

「――ねえねえ、見たっ? 今の女の子、すっごく可愛かったよねっ?」

 基本的に褒められることが好きなニノではあるが、現在の彼女はやはりそれどころではなかった。

 謎の女子高生達はこの日、一人の狼少女にやや間違ったきらいのする常識を植えつけてしまったのだった。





 ニノが暦荘に着いたころには、すでにある意味で心は決まっていたと言ってもいい。

 もはや勝手知ったる場所である。ニノはどこに報告するべきかを迷ったあと、暦荘ではなくその真隣にある大家――高梨沙綾の家に向かった。

 ベルを鳴らして少し待つと、妙に間延びした感のある女性の声が聞こえてきた。対応したのは当然の如く高梨沙綾である。

 ――ここだけの話ではあるが、ニノはこの高梨沙綾という女性に対して特別な感情を抱いていた。なんというか、照れくさいのだ。それで少し他人行儀になってしまうのだが別に嫌いというわけじゃない。むしろその逆だった。

 容姿もどことなく面影があるが、何よりあの優しげな雰囲気が――ニノの母親にそっくりだった。初めて彼女を見たときは驚きのあまり心臓が止まりそうになったほどだ。それからは幾度となく沙綾と話してみたいと思ったものだが、やはり照れくさくて無理であった。

 そんなこんな内心で葛藤しつつ居間に案内されると、そこには二人、見知った姿があった。

 煌びやかな和服に身を包み、気品溢れる所作でお茶を飲んでいる女子がまず一人。夜のように黒い長髪と月のような白い肌を持ち、ニノでさえ認めざるを得ないほどの整った顔立ちをしている。もう少し感情豊かにすればより魅力的に見えるだろうに、表情はいつも冷めたように同じだった。

 彼女は名を凛葉雪菜と言い、暦荘における二〇四号室の住人である。

 雪菜とは反対に、ジーパンにパーカーといったカジュアルな服装に身を包む女子が一人。肩程度で長さを整えられた黒髪と、ほんの少しだけ日に焼けた肌。容姿に関してはほとんど手入れを行っていない印象を受けるが、しかしながら彼女も雪菜に負けず劣らずの優れたルックスである。きっと年頃の乙女らしく化粧等で身だしなみを整えれば、間違いなく大化けするであろうというのがニノの印象である。

 彼女は名を姫神千鶴と言い、暦荘における一〇五号室の住人である。そして同時に、少し大げさな言い方をすれば――ニノにとっては真実ではあるが――恩人でもあった。

 とりあえずはと温かいお茶を淹れられる。すぐさま口に運んでしまいたかったが、少し前に熱いお茶の恐怖を存分に理解していたニノは、慎重に息を吹きかけてから口に含んだ。

 もちろん火傷はしなかった。

「それで今日はどうしたんだ、ニノ」

 落ち着いたタイミングを見計らって、千鶴が切り出した。

「まあ色々とあってね。それよりちーちゃん・・・・・、この前はありがとうね」

「…………」

 機嫌よさそうに獣耳を動かしながらお茶を飲むニノの他、雪菜と千鶴が固まった。

「……なあ、誰だそれは。幽霊でも見えてるのか」

「待ってください千鶴ちゃん。冗談でも言っていいことと悪いことがあります、訂正してください、幽霊などこの部屋にはいないと。さあ訂正を、さあっ」

「――わ、分かったから落ち着いてくれ。うん、この部屋には幽霊なんていないよ」

「ふう、分かればいいのです。別に幽霊など怖くはないんですが、やっぱり千鶴ちゃんが怖がってしまいますからね。友を想ってのことです」

「えっ、私って幽霊ダメだったのかっ?」

「……? 何を言ってるんですか、千鶴ちゃんは」

「そんなに不思議そうな顔を見ないでくれ……」

「――ふうん。ちーちゃんとせっちゃんって仲がいいのね」

「…………」

 やはり機嫌よさそうに獣耳を動かしながら二人のやり取りを見守っていたニノの一言に、主に雪菜と千鶴が固まった。

「うん? どうしたのよ、二人とも」

 ふう、と小さなため息。

「……千鶴ちゃん、あとは任せました」

「私が聞かないといけないのっ?」

「いえ、私には少し高度過ぎてですね。ここはやはり千鶴ちゃんでなくてはいけないかと思いまして」

「ちょっと意味が分からないけど、どうせ避けては通れない問題だし。だったら一思いに聞いてしまったほうが――」

 雪菜と千鶴がぼそぼそと小声で作戦会議を行っていたときであった。

 それまではニコニコと微笑を浮かべながらお茶を飲んでいた沙綾が、パンと手を叩いた。

「ははあ、ニノちゃんったら二人にあだ名をつけてあげたのねぇ」

「う――ま、まあだって常識だし? ウチだってそれぐらい知ってるもの」

「偉いわねぇ、ニノちゃん。よしよし」

 ゆるくウェーブした薄茶色の長髪と、優しげに細められた瞳。細部こそ違うものの、それはどこかニノが愛した人に似ていた。

 何を思い立ったかは知らないが、沙綾がゆっくりと手を伸ばして、ニノの頭を慈しむように撫でた。獣耳が驚いたように尖ったあと、やがて居心地よさそうにピコピコと揺れた。

「ねえ、ママ――あ、いや、その、大家さん」

「あらあら、ママでもいいですよぉ~」

「ぅぅ……えっと」

 頬は真っ赤に上気していた。恐らくは照れで。

 相変わらずニノは沙綾には弱いらしかった。口を開けばドモってしまうし、上手く抵抗することさえも出来はしない。ただ流されるようにして、頭を撫でられているのみだった。

「ところでニノ、さっきのは一体なんなんだ?」

 雪菜と作戦会議を終えた千鶴が意を決して問いかけた。

「うん? ……どれのこと?」

「あれに決まってるだろう。ほら、ちーちゃんとかせっちゃんとか」

 ピコピコ。

 どうだと言わんばかりに獣耳が軽快に動く。

「ふふん、よくぞ聞いてくれたっていうやつよ。どう、中々のネーミングセンスでしょう? 本当はもう少し捻った感じにしようかと思ったんだけど、あえてシンプルにしたところが」

「――いや、私たちが聞きたいのはそういうことではなくてだな。なぜいきなりあだ名で呼び始めたかってことなんだが……」

「それは簡単よ。だって人間って友達になったらあだ名をつけるのが当たり前――こほん、言い間違えたわ。今のは忘れてちょうだい」

「…………」

「別にちーちゃんとせっちゃんのことを友達と思っているなんて間違っても言わないけど、ウチの天才的なネーミングセンスによって命名されたことをとりあえず喜ぶべきよ」

「…………」

「どうしたの? ははん、なるほどね。感動して声も出ないんでしょう? まったくしょうがないわね」

「……千鶴ちゃん。これは吸血鬼さんに匹敵する強敵が出現したと、私は今確信しました――が、同時に弱点も見抜きましたけどね」

「なんですってっ? ウチに弱点があって、あまつさえそれを見抜いてしまうですってっ!?」

「うわーどこかの誰かっぽい反応ですねー」

「それで、ウチの弱点ってなによ?」

「ふむ。どこが弱点とは言いませんが――その耳とても可愛らしいですね。ぱないです」

 和服の袖で口元を隠し、大げさにそう言ってみせる。

 するとやや警戒した顔つきをしていたニノが、途端に顔を綻ばせた。

 当然、獣耳が歓喜を示すかのように動きを早くする。

「そ、そう? 別に全然嬉しくなんてないけれど、いいところに目をつけたとだけは言っておくわ」

「これほど素晴らしい耳は見たことがありませんね。ワールド・オブ・ザ・グッドイヤーの称号を授けましょう」

「――やはりウチは間違っていなかったわ。せっちゃんは、やはりせっちゃんと呼ぶだけの価値と魅力を持った女の子よ」

 雪菜の手のひらを握り締めて、ニノはうんうんと頷いた。

「それは光栄ですね。ありがとうございます」

 ここにもう一つの友情が改めて確立された。

「前々からせっちゃんには目を付けていたのよね。なんとなく話していて気持ちがいいし、それにウチって可愛い女の子は大好きなのよね」

 話し上手であり、世渡り上手でもある凛葉雪菜は、ニノを初めて見たときから乙女の勘のようなものを感じた。シャルロットと出会ったときと少し似ている。つまりで言うと恋的な危機感を抱いたのだ。

 それ以来雪菜は、シャルロットの時と趣向を変えて心優しく接してみた。まあ鞭は試してみたから、今度の敵には飴を与えてみたわけだ。

 ――すると効果は、予想を一週半ぐらい超えて、なんと友達になってしまった。

「……まあ、これからよろしくお願いします」

 ペコリと頭を下げる。雪菜にしては珍しく赤い頬で。

 彼女にとって友人とは何より大切なものだ。なんだかんだと毒を吐いたりすることもある雪菜であるが、基本的に身内となる者は命を代えても守ろうとする女の子だ。友人が増えることには何ら異存はない。

 ニノと雪菜がいい雰囲気を形成しているころ、千鶴は頭を抱えていた。自身に女の子らしい可愛さなど皆無と考えているような彼女は、”ちーちゃん”というあだ名で呼ばれることが気恥ずかしかったのだ。

 しかし……どうもニノはあだ名で呼ぶことを当たり前だと思っている節がある。全く羞恥心や抵抗が見られないし、むしろ今まであだ名で呼んでなくてごめんなさい、とさえ言いたげに見えるのだ。

 ――これは受け入れるしかないか。

 千鶴はお茶を飲みながら、ぼんやりと思った。

「――それで、ニノは何の用件があって来たんだ?」

「ああ、そういえば言うの忘れていたわね。ウチね、この街に住み着くことにあったから挨拶しとこうと思ってね」

 ……このとき。

 会話を交わすニノと千鶴の影で、暦荘の大家――高梨沙綾が神妙な顔をしていることに誰も気付いていなかった。

「本当か? それは嬉しいな。これでニノの耳がいつでも触れる」

「う――ふ、ふんっ。言っておくけど、ちーちゃんには触らせてあげないんだからね」

「……そう、か」

「あ、ああいやっ――こほん。し、仕方ないわね。あまりにもちーちゃんが可哀想だから、ちょっとぐらいなら触らせてあげるわよ。約束したしね」

 ピコピコ。

 呆れたように言い放つニノの頭部で、獣耳が機嫌よさそうに揺れている。

「ありがとう、ニノ」

 輝くような笑顔。

 ニノの顔にこれといった感情は浮かんでいなかったが、やはり獣耳だけは嬉しそうにピコピコしていた。

「それでニノちゃんはどこに住まわれるつもりですか?」

 雪菜が尋ねる。

 その影で、沙綾の瞳が見間違えでは済まされないほど明らかに光った。

「ああ、ウチは街外れのホテルに」

「――若い女の子が一人で暮らしてはいけませんっ!」

 抗議の一言は怒声に似ていた。

 テーブルをバンと叩いて、高梨沙綾が立ち上がった。

「……え、えっと」

 困惑するニノに沙綾は歩み寄って――

「若い女の子が一人で暮らしてはいけませんっ!」

 同じことをもう一度だけ言ってから、どこにも逃がさないとでも言うように強く抱きしめた。

 獣耳がピーンと尖る。

「わ、わわっ――ちーちゃん、せっちゃん、これどうすればいいのよっ!?」

 手足をばたつかせて助けを求めるのだが――

「……やはり大家さんの淹れるお茶は美味しいですね。実家でもこれほどのものはそう飲んだことがありません」

「前に一度淹れ方を教えてもらったんだけど、私ではどうしても無理だったよ。やっぱり口頭では伝えられないコツみたいなものがあるのかな」

 沙綾が一度ああいう風に言い出したら、どうせ聞かないことを知っている二人は、暢気にお茶について議論していたのだった。

 雪菜と千鶴には既視感があった。あーそういえば少し前に、金髪赤眼きんぱつせきがんの少女のときも似たようなことあったなーと。

 人生とは往々にして思い通りにはいかないものである。それが仕事か、人間関係か、恋愛か、とにかく一つには定義出来ないのだけれど、決して思い通りにはいってくれないのである。

 ――今回の場合は。

 人狼の少女は、どうやら自分の思い通りに住居を決めることが出来なさそうだった。

 本当なら断るのが一番だった。過去を振り切ったニノであったが、やはり自信を持って胸を張れるわけでもない。それはきっとニノがこれから長い時間をかけて上を向いていくべきことであり、今すぐにというわけには行かないのだ。

 だから暦荘の住人とは一線を画すべきではあるのだが――

「――若い女の子が一人で暮らしてはいけませんっ!」

「あぅ……」

 駄々をこねるように、断固拒否する女性がいるのだ。

 沙綾にきつく抱きしめられながら、ニノは思わず眠ってしまいそうになる安心感に捉われていた。

 暖かな日向の匂いがする。優しくかき抱く両手と、ふくよかな乳房。……まるでいつか、大好きで優しかった母に甘えた日を思い出す。

 頭部についた獣耳が、歓喜とも緊張とも嫌悪とも違うような、これまで見せたことのない動きをした。

 ――それはきっと。

 かつて母にのみ見せていた、親愛の感情を示すような、そんな優しい動き――



 偉大なる血を受け継ぐ少女、ニノ=ヘルシング。

 一つの決意を固めた彼女が、暦荘に暮らすようになるのも時間の問題であったという。




****




 自分の部屋を出ると、すでに辺りはこれでもかと静けさに包まれていた。

 それも当然である。なぜなら現在の時刻はすでに夜中の十一時を過ぎているのだから。お早い家庭ならば眠っていても、まあおかしくはない。

 ちょっと近所の自販機で飲み物でも買おうと思っていたのだが、外が寒すぎて躊躇してしまう。どうしようかとバカみたいに暦荘を見上げる。シャルロット以外の部屋はまだ明かりがついていた。

 まあアイツは最近仕事を頑張っているみたいだし、仕方ないだろう。それでなくても日が変わりそうな時間になると、いつも眠そうに目を擦ってるヤツだ。

 ぼんやりとしていると、ふと人の気配を感じた。

 大家さんの家から誰かが出てくる。暗闇に目を凝らしてみると、ゆるくウェーブした薄茶色の長髪と、遠目でも分かる豊かな乳房、そしてなにやら光る物体が二つ見えた。

「こんばんわ~、宗谷さん」

 朝露のように邪気のない透き通った微笑。

 右手には牛乳瓶、左手にも牛乳瓶を持って、我らが大家さんがそこにいた。

「よかったらこれ、いかがです?」

 予想はしていたのだが、やはりと言うべきか、片方の牛乳を俺に差し出してくる。

「ああ、じゃあいただきます」

 断る理由がなかったので遠慮なくいただいた。

 二人していい年をした大人が、わざわざ冬の寒空の下、なぜか本格的な瓶の牛乳を黙って飲んでいる。

 うん、シュールである。

「……ちょっと聞こうかと思ってたんですけど、どうしてニノをここに住まわせようと思ったんです?」

 あれから一番ビックリしたのは俺だと思う。

 昨日の夜、俺の元にフランシスカとカインが訪れた。そこで耳にしたのだ。吸血鬼狩りの者がこの街に留まりますと。まあそれだけならば良かったのだが、次に放たれた言葉は、ちなみにそれはニノです、だったもんだから始末が悪い。まあもっと始末が悪いのは、俺がうっかり漏らした入居記念パーティーという言葉にフランシスカが目を輝かせたことか。あそこまで期待に満ちた眼差しを向けられては、アイツらを誘ってしまうしか無かったというのが現状である。

 両者の間に何があったのか、どのような契約がなされたのかは、当事者ではない俺には分からない。それは機会があれば誰かが語るだろうし、もしかしたらもう語られた後かもしれないのだ。

 とにかくあの不器用な狼少女が新たなスタートラインに立てたことだけは分かったのだから良しとしようか。結局俺は何も出来なかったし、するつもりもなかった。今更こんなことを言っても言い訳と取られるかもれないが、ニノならきっと大丈夫だと確信していたのだから。

 だって、あんな風に子供とサッカーをしてるような女なんだ。思えばあの時から俺はすでに、ニノの未来を無意識のうちに思い描いていたのかもしれない。

 しかしなんだかんだ我慢できなかったんだろう。俺は何も手出ししないつもりだったのだが、一つだけ口を出してしまった。

 姫神が俺の部屋に訪ねてきて、そして尋ねてきたのだ。やけに真面目な顔をして、ニノについて知っていることを全て教えてくれと。

 本当ならば本人から聞けとあしらうのが正しいとは思う。でもあんなに真っ直ぐな瞳で聞いてくるもんだから断ることも出来なかった。だって漠然と理解したんだ。もしかして姫神なら――ニノの迷いを振り切らせてくれるかもしれないと。

 ――とまあ、あんまり言葉が過ぎると俺は何様だっていう話になるのだが。

 だから結論だけを言わせてもらえば、俺が気付いたときすでに、ニノは暦荘の住人へと相成っていた。

 大家さんの家の客間――結構部屋は余っているのだ――の一つを間借りする形である。畳と障子が見える和風の部屋で、もう必要最低限の家具などは揃えられている。

 俺は割と軽い気持ちで聞いたのだが、帰ってきた言葉は軽くなかった。

「帰る家がないのは、それだけで寂しいものですから」

「……? 大家さん?」

 いつもの少し間延びした声とはまるで違う、どこか気品が感じられる口調。

 一瞬別人かとさえ錯覚する。

「私はこの場所――暦荘を守っていきたい。孤独に生きる人たちにとって、せめてもの光になってあげたい。それがきっと――高梨に生まれた私の宿命でしょうから」

 思わず息を呑む。

 人を強く惹きつける。まるで暗示をかけるように――

「――さぁて、寒いですしそろそろ上がりましょうか。あっ、そういえば先日高いお酒を頂いたんですよ~。宗谷さん、よかったら今からどうです?」

 次に俺が瞬いたときには、全ては元通りとなっていた。

 あの強く心の奥底を見透かすような口調も。

 吸い込まれそうになる暗示じみた魅力も。

 大家さんは手でクイっと酒を飲む仕草をして、笑った。

「……そうですね。久しぶりに飲もうかな」

 なんとなく追求する気にはなれず、俺は笑みを返すことによって提案を受諾した。

 二人してバカみたいに牛乳を飲んでいた俺たちは、寒気から逃げ出すように大家さんの家に入った。


 ちなみにその夜のことである。

 相変わらず酔っ払うと人に絡みまくってくる大家さんを見て、やっぱりアレは絶対に気のせいだったんだな、と確信することになったのだった。





****




 さて。

 この小さな物語はこれで一応の完結を迎えたこととなる。

 吸血鬼狩りに属する人狼ニノ=ヘルシング。

 彼女は自身が犯してきた多くの罪を自覚し、懺悔した。そして悲観することなく、誰かを守ることによって罪を償い、前を向こうとしたのだ。


 もう一度だけ言わせてもらおう。


 これは人を傷つけることでしか生きられなかった少女が。

 持ち前の不器用さで、なんとか人を守りたいと願った、そんな決意の物語である。

 

 ――願わくば、いつの日か。

 狼と吸血鬼が、どこかの二人のように、手を取り合う日が訪れますように――



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