其の十二 『一緒』②
それは言ってしまうなら、もはや異世界と融合してしまったのではないかと錯覚するような、そんな常識外れの混沌とした光景だった。
俺が見慣れた暦荘とは、一回りの二回りも違っている。煌びやかな飾りでそこら中がこれでもかと彩られているし、庭には大きな垂れ幕があって『シャルロットちゃん、ニノちゃん! ようこそ、暦荘へ!』と極太のマジックで書かれている。
大家さんの家の居間、テーブルの上には所狭しと料理が並べられている。それだけでは飽き足らず、庭には大きなブルーシートを敷き、そこにも大量のパーティーメニューがあった。立食形式のパーティに用いられるような、簡単に手で摘めるような、から揚げやポテト等である。
現在の時刻はおよそ午後七時。立案者の周防によると時間の許す限り――それこそ日が変わっても、夜が明けても、騒ぎたいヤツは存分に騒げばいいとのことらしい。
俺としては美味い酒が飲めれば全然構わないので、今回のパーティーもまあ歓迎してやってもいいのだが、さすがに少々騒ぎすぎではなかろうか。
メンバーはというと、暦荘に残っている住人全てと、そして一部は黒いスーツの人で構成されている。
――とりあえず、そうこう言っているうちにパーティーの始まりである。
「……ふふふ、とうとうこの時がやって来たよ! みんなぁっ! 盛り上がってるかい!? この僕、周防公人が開会の挨拶をしようじゃないか! これは将来、確実に自慢になるんでありがたく聞くんだよっ!」
さりげなく用意してあった台に上って、周防の野郎がメガホンで声を張り上げた。
周防の腹部の傷は出血自体は酷かったものの、身体における重要な器官や組織の損傷は免れたらしく、安静にさえしていれば日常生活に支障はない。もちろん本来ならば入院しているのが普通である。しかし周防はこのパーティーのためと、ナースさんにちょっかいを出してしまったために、堂々と退院したのであった。
「はっはー! 拍手はいらないよ、女性諸君っ! 君たちの気持ちは全て僕に伝わっているからね。まったく、抱かれたいならそう言えばいいんだよ?」
ちなみに誰一人として拍手などしていないし、女性陣はそれぞれ楽しそうに雑談しているだけであった。
「――こほん。とまあ真実はこれぐらいにして、だ。そろそろ本題に入ろうか。それでは――シャルロットちゃん、ニノちゃんっ! 前に出てきてくれたまえっ!」
大げさにポーズを取って、周防は両方の手でビシっと指差した。その先にいるのは当然、シャルロットとニノである。
雪菜たちと女の子らしく盛り上がっていた二人は、突然名前を呼ばれたことに体を跳ねさせて、周防に向き直った。
「ビックリしたなぁ。なになに、どうしたの? 私になにか用かな」
シャルロットがスキップに近い足取りで、周防の元へと向かう。
ちなみにこのバカ吸血鬼は、さきほど――およそ小一時間ほど前――に入居記念パーティーのことを知ったのだが、そのときの喜びようったらなかった。相当にはしゃぎ回った挙句、時間が経過した今を持ってしてもテンションは高い。
「そんなに声張り上げなくても聞こえてるんだから、いちいち大声で名前呼ばないでよね。ウチの耳は、人間とは出来が違うんだから」
ニノが肩を竦めながら、同じく周防の元へと向かう。
ちなみにこの狼少女は、シャルロットと共に暦荘に帰ってきて、そして同時に入居記念パーティーのことを知ったのだが、特に喜びはしなかった。表現させてもらうなら、「仕方ないわね、祝われてやってもいいわ」みたいな顔をして受諾したのである。……もっとも、頭部の獣耳がピコピコー! と激しく揺れていたのは、絶対に見間違いなどではない。
高台に上った周防の足元――並んだシャルロットとニノに、みんなの視線が集中する。
「さあさあ皆さんっ! 紹介しようじゃないか! この金色の髪と深紅の瞳をした女の子こそが、天使シャルロットちゃんだぁ! そしてぇ! この赤い長髪と灰色の瞳をした女の子が、女神ニノちゃーん! どうだい、美しいだろう!? 彼女ら二人こそが、僕の恋人なのさぁ!」
「ちょっとちょっとー! 私は別に周防なんてどうでもいいもんっ!」
「冗談も存在だけにしてよね。ウチは他の男なんてどうでもいいもの」
「とほほ、冷たいなぁ二人とも。――でもだよ? なんか最近さ、そうやってあしらわれるのがさぁ……楽しいっていうか、気持ちいいんだよね!」
「…………」
そこらで雑談していた声すらも止まる。
「――な、なーんてねっ! それこそ冗談に決まってるじゃないかイヤだなぁ! さ、そろそろいいかな。話の長い人は嫌われるっていうのは、小学校の時に校長先生からたっぷりと教わったからね。では……今日は存分に楽しんでいってくれよぉ! ひゃっほー!」
周防が台から飛び降りる。
別に拍手が起こることもなく、みんな自然なノリでパーティーに入っていった。俺という個人の意見から言わせてもらえば、誰も周防の言うことをあんまり聞いていないような気がした。
それでもへこむことなく、周防は俺の元へとやってきた。笑顔である。
「よっ、宗谷。楽しんでいるかい?」
とてつもなく綺麗な笑顔を浮かべている。男に対してこれほどまでに爽やかな周防は、これまで見たことないと言ってもいい。
「いや、まだ始まったばっかじゃん。まあ酒でも飲んでりゃあこれからイヤでも盛り上がるだろ」
「だよねぇ。そうだよな!」
「それよりもお前、雪菜と姫神を見張っておけよ。あいつらに酒を飲ますのは時間の無駄だと、俺は大晦日の夜に悟ったんだよ。シャルロットとニノに関しては俺が目を光らせておく」
「オッケー、分かったよ。……それよりもさぁ、宗谷。一つ聞いてもいいかい?」
俺の肩に手を乗せて、周防は顔を近づけてきた。
そして他の人間には見えないように顔を強張らせて、言った。
「――なんかヤクザがいるように見えるのは、僕の気のせいということでいいのか?」
恐る恐るといった所作で、周防は庭の隅に陣取った方たちに目を向ける。
長身に理想的な体格をした男二人と、見た目幼い少女が一人。坊主頭をした男はあろうことか日本刀を脇に置いており、銀髪の男に限っては懐に入れていては邪魔なのか知らないが、拳銃をシートの上に置いている。
彼らは黒いスーツを着ていて、明らかに堅気とはかけ離れた雰囲気を纏っている。加えてその二人に臆することなく接する小さな女の子が、非現実感をより一層強めている。
「……ああ、まあ気のせいじゃねえ? アイツら別にヤクザじゃないし」
「そ、そんなこと言われてもまるで信用できないんですけど。だって日本刀持ってるし、拳銃も置いてあるんだぜ? あれはどう説明するんだよ」
「精巧に作られた模型とモデルガンだ」
「――絶対にウソだっ! 僕は誤魔化されないんだからなっ!」
顔を赤くして、必死に現実と戦う周防。
次の瞬間、剣呑とした声がかけられた。
「……おい、そこの小僧ぉ」
ドスの利いた声。
日本刀を携えたロイが、胡坐をかいてお猪口を傾けながら、周防を一瞥した。
名指しされた周防が電気を流されたかのように飛び上がり、教科書に載せてもらいたいほどに美しい気を付けをした。
「――は、はひぃ! ……あ、あのぉ。小僧って僕のことでしょうかぁ? 違いますよねぇ? こちらの白い髪をした人のことですよねぇ? ですよねぇ。へっへっへ、じゃあ僕はこれで」
「てめえに決まってんだろうが小僧。さっきから俺らのこと、女々しくチラチラと盗み見やがってよぉ。言いたいことがあんなら、もっと堂々と言ったらどうだ? ――それに言葉には気を付けろよ。お前のとなりに立ってる野郎は、小僧だなんて呼んでいい男じゃねえんだよ」
やっぱり手放していては落ち着かないのか、ロイは日本刀を左手で持って弄んでいる。右手には日本酒の入ったお猪口。見た感じとしては、普通にそっちの人みたいである。
ちなみにカインとフランシスカはと言うと、何やら騒がしい様子であった。子供のように目を輝かせたフランシスカが「アレは何じゃっ!?」と指差して周り、それをカインが苦笑しながらも説明してやっている。
とにかくロイのブレーキ役がいないことだけは確実だった。
「聞こえてるか? 言いたいことがあんなら、ハッキリ言えってんだよ小僧」
「……え、えーと。じ、じじじ、実はですね」
「あん? とっとと言えやぶった斬んぞコラぁ!?」
「ひぃいいいいいい! 言います言います! 不肖、この周防公人っ! 貴方さまのお酌をしとうございまして、不躾ながらも拝顔させていただいていた所存でございますですはいっ!」
頭を下げて、ややおかしい日本語を言い放つ。
「……くっ、ははははははははっ! そうかそうかっ! なんだ小僧、酒を注いでくれようとしてたのかよっ! それなら早く言えってんだ。ほら、こっち来い。一緒に飲もうや」
「あ、ありがとうございます! 感謝感激でございます! ――あぁ、その日本刀、とても綺麗ですねぇ!」
「おっ、分かってくれるか。お前、意外と見所のあるヤツだな。ようし、舎弟にしてやらぁ!」
「本当ですかぁ!? わ、わーい! 嬉しいなぁー!」
俺はやがてその場を去った。
――かつて暦荘に一人の男がいた。その男は皆に疎まれ、蔑まれながらも明るく振舞い、誰よりも輝かしい笑顔をしていた。そのうざったらしい長広舌は、しかし離れてしまうと、不思議と寂しく感じることもあったという。
忘れてはならないのかもしれない。暦荘には、とある偉大な男がいたことを。
さようなら、周防公人。
またいつか、周防公人。
俺たちは絶対にお前のことを忘れたりなんかしない。
「――う、うわぁ楽しいなぁ! うぅ、楽しいですぅ……アニキぃ!」
「泣くほど嬉しいのか。なんて男気のある小僧だ。ほら、もっと飲め」
聞こえてきたのは、断末魔のような泣き声だった。
酒の入ったグラスを持ちながら、庭を歩く。そこかしらで嬌声に似た笑い声が上がっており、祭りに似た喧騒があった。
ふと、ぶらついていた俺は、何者かに服を引っ張られた。
「……ん?」
誰だと思って振り返る。そこには拳を握りしめ、恍惚とした表情を浮かべるフランシスカが立っていた。
「え、ええと……こほんっ。た、楽しんでおるかのう、白い狼よ」
「ああ、まあな。お前はどうだよ」
「ワシか? ……そ、それは……内緒じゃ」
人差し指の先端をチョンチョンと突き合わせて、意味ありげに見上げてくる。
「それよりもじゃ。……少しばかりお願いがあるのじゃが、よいかの?」
「俺に出来ることなら何でもしてやるよ。言ってみろ」
花咲くような笑顔を浮かべ、フランシスカは飛び上がった。
「まことかっ!? じゃ、じゃあのう……か、かた、か、か、肩車――して欲しいのじゃが」
「……あん? え、なんだって? 肩車?」
「う、うむ。……って、ばかもの! 乙女に二度言わせるでないっ!」
ポカポカと叩いてくる。
なぜ俺にそんなことを頼むかは分からないが、まあこういう席だし、たまには子供の相手をしてやるのも悪くないかなと思った。こいつの実年齢は分からないが。
「まあいいぜ。ほら、乗れよ」
持っていたグラスを置いて、しゃがみ込んで促す。
「よ、よいのか!? おお、これは伝説を築き上げてしまったっ! 今日という日を、キルヒアイゼン家に代々伝えていかねばならんなっ!」
ひとしきり喜んだあと、背中を経由して肩に跨る。
「乗ったか? 立ち上がんぞ」
「了解じゃ! 遠慮はいらんぞ」
落っこちないようにフランシスカの足をしっかりと掴んだ。
やや勢いをつけて体を起こす。いくらフランシスカの体重が軽いと言っても、肩周りに数十キロ単位の重さが加わっているのだ。普段とは違うバランス感覚が必要となってくる。
無事にふらつくことなく起立した俺の上で、幸せそうな笑い声が聞こえてきた。
「ふ、ふふふふ……よいのぅ……こんなに幸せなことがあっていいんじゃろうかぁ……」
顔は見えなかったが、きっと満面の笑みを浮かべているだろうことは容易に想像がついた。
「高いだろ? 暴れたりはするなよ。落ちたりしたら大変だからな」
「安心するがよい。ワシはこの程度の高さから落ちたところで」
「違えよバカ。せっかく綺麗な肌してんだからよ。もしも傷とか出来たらどうするんだって言ってんだよ」
「――はうっ! な、なんじゃこの胸のトキメキは」
「知らねえよ。俺が言いたいことは一つだけだ。絶対に注意してろよ? 分かったか、フランシスカ」
「は、はい……分かりました」
「分かったならいいんだよ。じゃあちょっと歩き回ってみるか」
それからは特に話すこともなく、俺たちは庭を歩き回った。
フランシスカを肩車した状態の俺には様々な声がかけられた。大家さんからは「お似合いですねぇ。宗谷さんはきっといいお父さんになりますね」とか、雪菜からは「これは盲点でした。なるほど、士狼さんにはそういう可能性もあったのですか」とか、姫神からは「さすが宗谷だ。子供を大切にする男に、悪い人間はいないからな」とか、ニノからは「やっぱり士狼は子供が好きだったのね……平らね? 平らがいいんだ?」とか。
やがてカインがやってきた。
「……姉上。何をしているのか――聞いてもいいでしょうか」
呆れ返ったような顔であった。
「ふむ? おお、弟よっ! ちょうどよいところに来たのう! この光景を目に焼き付けておくがよいぞ。伝統あるキルヒアイゼンの中においても、これほどの偉業を達成したのは間違いなくワシだけであろうからな。ふははははははっ!」
「……士狼。姉上が迷惑をかけてしまったようで、申し訳ない」
「別にいいぜ。それよりお前、もう大丈夫なのか? 相当ダメージを負ってたみたいだったが」
「ええ。ある程度の血液さえ摂取すれば大抵の傷は治ります。……それにしても情けないですね。私にもう少しだけ力があれば、事態は変わっていたかもしれないのに」
「カイン、それは――」
「――違うぞ、弟よ」
威厳溢れる声。先の幼い少女とはまるで別人のようであった。
「己に力がないと嘆くのは最も愚かな行為じゃ。同時に、力を誇示する者とて滑稽である。自身の持つ力を過信するのも、不平を言うのも、結局は力に振り回されている状態に過ぎん。ワシらに本当に必要なものは――『現実を受け止める覚悟』じゃ。過ぎ去った過去もいずれ来たる未来も関係ない。唯一確かな『今』というこの時に起こった出来事全てを受け入れよ。それがどのような結果や真実であろうとな」
「……姉上」
「さあ、弟よ! というわけであれじゃ、あれ! あれを頼む! えーと確か……そう、写メとかいうやつじゃ! この歴史ある瞬間を、しっかりと収めるのじゃ!」
次の瞬間には、ただの小さな子供に戻っていた。
呆気に取られていた俺たちは、やがて同時に噴き出した。
「そうですね。では士狼。姉上のご要望どおりにしようと思いますが、よろしいですか?」
「分かった。好きにしてやってくれ」
苦笑しながら、カインは携帯を構える。俺はこのとき口には出さなかったが、カインが携帯を構えて写真を撮ろうとするのはとてつもなくシュールだなと思った。
フラッシュが焚かれ撮影が終わる。
――ただし、それで終わりではなかった。この光景を偶然見ていた大家さんが、家の奥から古びたポラロイドカメラを持ってきたのである。携帯では現像は難しいと知らされてショックを受けていたフランシスカは、これまた大はしゃぎした。
何枚か写真を撮って、その場で現像されたそれを握っては、フランシスカはニヤニヤと締まりのない笑みを浮かべていた。
「……白い狼よ。もう一つだけお願いがあるのじゃが」
最後に照れくさそうな声で、フランシスカはそう言った。
「なんだ? 言ってみろよ」
「さ、さささ――さ、サインをお願いしても……よ、よいかの?」
数枚の写真を俺に差し出して、ラブレターを渡す女子のように緊張している。
正直なぜサインを求められるかは皆目検討がつかなかったが、別に減るもんじゃなし、適当に名前を書いてやることにした。
「あっ、ちなみにフランシスカちゃんへ、と書いてほしいのじゃが――そういう細かな要望もオッケーかの?」
「はいはい、この際だから何でもやってやるよ、もう」
そうこうしてる内に書き終わる。
再び手元に戻った写真を見つめながら、フランシスカはうっとりとため息をついた。
「はふぅ……幸せじゃのう……」
「俺に出来ることなら何でもしてやるよ。だから困ったことがあれば遠慮なく言ってくれ」
この程度でここまで喜ばれることが逆に嬉しかった俺は、調子に乗ってそんなことを付け加えた。
瞬間――キラン、とフランシスカの瞳が光った気がした。
「……なんでも、じゃと?」
「ん? ああ、なんでもだ」
「そうかそうか、いやでもさすがにそれは――むむむ」
腕を組んで唸ったあと、突如その小さな身体が傾いだ。
俺は慌てて抱きとめる。
「おいっ、どうした!?」
「う、うーん。血が足りんのー。この症状は比較的マズイのー。これは白い髪をしてアパートに住んでて肩車もサインもしてくれて現在麗しい美少女を抱きしめている男の血が必要じゃのー」
「…………」
「ひ、必要じゃのー。誰か心優しい人が少しだけ血を吸わせてくれたりせんかのー」
気のせいかもしれないが、その心優しい人の条件がとてつもなく限定されているような。
でもまあ吸血鬼に血を吸われるっていうのは、伝承とはまた違って、いわゆる献血みたいなものらしいとシャルロットが言っていた。ここまで来たらそれぐらい許してやってもいいだろう。
俺はフランシスカに首筋を差し出した。
「……はあ、しょうがないな。ほら、好きなだけ吸えよ。俺はその分、あとで適当に肉でも食って血を補給するから」
「よいのかっ? な、なんて素晴らしい殿方じゃ……これからは弟をこのように育てるとしようぞ」
「…………」
遠くでそれを聞いていたカインが寒気を感じたように震えた。
「ま、まあ許してくれるというなら遠慮なくいただこうかの」
「ああ。好きにしろ」
「はう……この胸の高鳴りは一体なんじゃろうか……では白い狼よ、行くぞ」
言葉をもういらないと、小さな口が俺の首筋に触れた。
――それと同時だった。
「……士狼。なにしてるの」
青い顔をしたシャルロットが、俺たちを咎めるような目をして立っていた。声をかけられて、何事かとフランシスカの唇が離れていく。
「ああ、なんだシャルロットか。いやな、こいつ血が足りないっていうから。だから俺が吸わせてやろうと思って」
俺がそう言うと、シャルロットは頬を膨らませた。血の気がなかった頬に赤みを増していく。
史上類を見ないぐらいに拗ねていた。
「……ふーん。そうなんだ。士狼、フランシスカに血を吸わせちゃうんだ。誰だっていいんだね、士狼って。……なんで、私以外に血を吸わせるのよ」
「え? なに言ってんだお前。血を吸わせるのって献血みたいなもんなんだろ? つか言いたいことがあるならハッキリしろよ」
口論を始める俺たちを、フランシスカがきょとんとした顔で交互に見ていた。
「ハッキリって……ぅぅ、だ、だからぁ……士狼の血を吸っていいのは……私だけっていうかぁ……士狼には私以外に、その――血を吸わせてほしくないっていうか……」
湯気が出そうなぐらいに真っ赤になった顔で、ごにょごにょとぼやく。おかげでほとんど聞き取れなかった。
「悪い、声が小さすぎてなに言ってるか分かんねえ」
「ぅぅ……こ、この分からず屋っ!」
「っ!? なんだと……!」
あのシャルロットが――まさか分からず屋という言葉を知っていたなんて――
とうとうボキャブラリーを増やすことに成功したらしいバカ吸血鬼であった。
「それにちょっと距離が近すぎるってば! もうちょっと離れたほうがいいんじゃないかな? あっ、別に他意なんてこれっぽっちもないよっ? ないんだからねっ?」
「お前どうしたんだ? 本当にちょっとおかしいぞ」
なにやら行動が意味不明すぎる。
そんな俺たちを眺めていたフランシスカが、やがて大きく頷いた。
「――ふはははははっ、なるほどのう。そういうことか。白い狼も罪な男じゃな」
こいつはこいつで訳の分からないことを言い出すし。
「あわわっ、そういうこと言っちゃダメだよっ! わ、私は別に士狼のことなんてどうでもいいんだから」
「隠すでない、小さく偉大な吸血鬼よ。貴女様は己の信じる道を行けばよかろうよ。それが正道であろうが邪道であろうが、その身体に流れる悠久なる血筋が、貴女様を真なる道へ導いてくれるであろう」
「……う、うん」
「とりあえずは子供じゃのう。今晩あたりにでも身体を重ね合わせるがよい」
「――きゃー! ちょっとちょっとー! 女の子がそういうこと言っちゃダメだよー!」
「むが――ま、待つのじゃ、ふがっ、小さく偉大な吸血鬼よ――むぐぐ」
シャルロットに口を塞がれて、フランシスカは苦しそうに言葉を詰まらせた。
潮時だなと思った俺は、音もなくその場を去った。
それからしばらくは適当に酒を飲んだりしていた。酔っ払って雪菜と姫神に絡みまくっている大家さんを宥めたり、ロイと周防の三人で酒を飲んだりと。
結構な量のアルコールを体内に納め、俺はなんとなく――暦荘の屋根に上った。
見事な弧を描く満月と、それぞれ煌く無量の星が視界いっぱいに広がった。
――確か、ずっと前にもこうして屋根に上ったっけ。あの時は俺のとなりに――
「……えへへ、なんだか懐かしいね」
それはどこまでも人懐っこい笑顔。
過去と今が重なる。
バカで泣き虫で人懐っこい笑顔を浮かべる吸血鬼Aは、照れくさそうにしながら、俺のとなりに腰掛けた。
――こうして。
あの始まりの夜と同じ、月夜の密会が始まった。
****
なんだか知らないけど、私たちの入居記念パーティーとやらが秘密裏に計画されていたようだ。
それを知ったのはついさっきだったけど、本当にビックリした。……やっぱり私の内には、いまだ自虐の気持ちがあったんだと思う。みんなは許してくれたけど、それでも心のどこかでは私なんて本当は邪魔かな――という考えがあった。
もっとも、そんな負の感情も今では無くなった。
こんなに楽しいパーティーに、遠慮や気後れする必要なんてまるでないのである。
「――さて。では第一回、暦荘女子における秘密会議を行いたいと思います」
大家さんの家の中。
テーブルを囲むようにして私とニノ、そして雪菜と千鶴の姿があった。
他のみんなはちょうど庭先に出てしまっているので、ここには四人の女の子しかいなかった。
おかげでなんだか怪しい雰囲気になってしまっているのだけど。
「今回の議題は、宗谷士狼という男とニノちゃんという少女の関係性について――です。よろしいですか、皆さん」
雪菜がコップに入った炭酸飲料をちびちびと飲みながら宣言する。
「ねえ、せっちゃん。それならもう結論出てると思わない?」
ニノが余裕の笑みを浮かべながら切り返す。
ちなみに『せっちゃん』とは雪菜のことである。この狼少女はなぜか二人をあだ名で呼ぶ。……なんで、私だけ『シャルロット』なんだろ。ちょっとだけ悲しかったりするのだ。
「ふむ――結論が出ている、と? 一応伺いますがそれは?」
「ウチと士狼はもうヤることヤっちゃったから」
「っ――!?」
ニノを除き、私を含めた全員が思わず立ち上がる。
「…………」
しばらくした後、顔を見合わせて座った。
「……ニノ。それは本当なのか? い、いや、というよりも私たちにまだそういうのは早いと思うんだが」
「ちーちゃんは甘いわね。甘すぎる。そんなことでは女としてダメダメね。……いいかしら、教えてあげるわこの雌豚どもめっ。男っていうのはね――しょせん性欲によって形作られた偽りの存在なのよっ!」
「えぇっ! そうだったのっ!?」
「……ふう」
世界がひっくり返るぐらいの衝撃を受けたが、驚いて声を張り上げたのは私だけだった。
雪菜はそんな私を可哀想な目で見たあと、ため息をついた。
「まったく、このクソ吸血鬼は――ああいえ、なんでもありません。……時にニノちゃん。この自称陰陽師の目は誤魔化せませんよ。あなた――まだ経験したことがないのでしょう?」
言葉を突き付けられた瞬間、ニノは身体をびくんと震わせた。
「な、なにを言ってるのかしら。ウチはそれはもうバリバリよ。この前だって士狼、中々ウチを寝かせてくれなかったんだから。おかげで腰が抜けて大変だったわ。い、いやぁ士狼ってウチの身体に夢中なのよね」
「――もう止めましょうニノちゃん。私はすでに貴女の弱点を見破っているのです」
「っ、なんですってっ!?」
自分の身体を触って異常がないか確かめるニノ。
そんな中、雪菜は黙ってある一点だけを注視していた。そこにあったのはピョコと生えた獣耳である。……あれ、なんか不規則に揺れ動いているような。
私たちの視線が獣耳に集中しているにも関わらず、ニノは気付いていないようだった。
「チ――! なんてことなのっ!? まさかウチに弱点があるですって? しかもそれを見破られるなんて――」
「うわーシャルロットさん見てください。まるでどこかのクソ吸血鬼さんみたいだとは思いませんか?」
「え、それって私のことじゃないよね?」
「もちろんです。当然ですよ。当たり前じゃないですか何を言ってるんですか」
「――絶対にウソだぁー! 今さっきのって絶対に私のことでしょ?」
「はい」
「だよねー」
ゆるゆるの私たちだった。
「ところでだ。ニノ、本当は宗谷とは何もなかったんだろ?」
真実を射抜くような鋭い眼差し。姫神千鶴ここにアリだった。
「う――し、したわよ。えっち」
「…………」
「だ、だからしたって」
「…………」
「うぅ、だから」
「…………」
「っ――ええ、そうよ! まだ何もしてないわよ! 悪い!? でもねぇ、まだだからね。なんて言ったって、ウチは士狼に裸を見られた挙句、ほっぺたにキスだってしたんだからっ! どうかしら。絶対この中ではウチが一番脈アリよね」
「くっ、藪をつついたら蛇が出ましたか。千鶴ちゃん、責任を取ってください」
「えっ、私が? 雪菜ちゃん、何をしろって?」
「千鶴ちゃんは、とーっても可愛いですよ」
「うわぁあああ、止めてくれぇー!」
「はー、スッキリしました。まあこれで許してあげましょう」
私の目の前では、雪菜と千鶴が何やら楽しそうに”いつもの”をしていた。
――でも正直に言わせてもらうなら、私はもっと別のことを考えていた。ニノが口にしたとある言葉がきっかけである。……その、例えば、キスとか。
仮にニノの言葉を借りるなら、この四人の中で一番脈アリなのはもしかして――私なのかな、なんて。
だってだよ? 言うのも恥ずかしいけど……抱きしめあって、キスしちゃったわけだし。しかも舌を絡み合わせて。あれって確かディープキスって言うんだよね。あんなにえっちなキスしちゃうなんて、私もやっぱり変態さんのかな……。
でも――なんだか、気持ちよかったなぁ。
「――さん。吸血鬼さん。なんですか、その恍惚とした顔は」
「うん? ああいや、なんでもないよ? 別に士狼とディープキスしたなんて私は言ってないからねっ?」
「っ――!?」
私を除いて、ニノを含めた全員が立ち上がる。
「…………」
しばらくした後、顔を見合わせて座った。
みんなの視線が集中する。私は激しく後悔していた。雪菜たちに士狼とキスしたってことを知られただけでも恥ずかしくて死んじゃいそうだ。
「――さて、これより第一回、暦荘女子における断罪裁判を始めます。異議ある人はいますか?」
空気が変わる。
なんかみんなの目が凄く怖い。ニノの耳がピーンと尖って固まっている。……なるほど、怒ったときはああなるんだ。
「……異論はないようですね。では吸血鬼さん、包み隠さず真実を述べていただけますか」
「あ、あのー。私は反対かなぁ……なんて言ってみたりするんだけど。……あはっ」
暗い空気を打ち消すように、最後元気よく微笑んでみせたが無理だった。
それから私はこの世の地獄を味わうことになる。あれがいわゆる公開処刑というやつに違いない。みんなの前で赤裸々に事実を告白させられた私は、逃げ帰るように庭先へと飛び出したのだった。
泣く泣く――本当にちょっとだけ涙が出た――庭に出た私は、今夜は綺麗な月が出ていることに気が付いた。
黙って見上げる。ぽけーとした表情で。自分でも間抜けな顔をしている自覚はあったが、そんなのは気にならないぐらいに月が見事だった。
――ふと、背後に気配を感じた。
「……だれ?」
振り返ることなく問いかける。
瞳はずっとお月様に釘付けで、どうしても視線を逸らせなかったから。
返答はなかった。私の後ろに立っているその人は、何度か言葉を詰まらせているようだった。
やがて意を決したように、私のとなりまで歩み寄ってきた。
「月が――綺麗ですね」
銀色の髪が揺れていた。
士狼よりも少しだけ高い背で、整った体つきをしている。闇夜に紛れるような黒いスーツは、このときばかりは不吉に見えず、むしろ寂しそうに見えた。
深蒼の瞳が月を捉える。
――吸血鬼狩りのカインがそこに立っていた。
「あっ、うん。綺麗だよね」
「はい。本当に」
それっきり会話が途切れる。
一応追われていたという経緯もあってか、私は少しだけカインが苦手だった。日本の行く先々で何度も会って、その度に難しい話をいっぱいしてきた。でも今思えば――この吸血鬼は、私に一度として暴力を振るったことがない。いつも拳銃をチラつかせて脅かしてくるくせに、その実はとっても紳士だったんだ。
……そういえば、それって何でだろう?
「ねえ」
「なんでしょう?」
「えっと……あの」
もっと色々と聞きたいことがあるのに、いざとなったら気恥ずかしくて聞けなかった。
口ごもる私を見つめる視線――カインはとても穏やかな顔をしていた。
「……シャルロット」
「だから――え、あっ、なにかな」
「貴女は……この場所が好きですか?」
問いかけられた質問の意図は分からない。
それでも私が返す言葉は決まっていた。
「――うんっ! とっても大好きだよ。だって士狼も、ニノも、雪菜も、千鶴も、大家さんも、周防もいるもん。みんなが大好きだから――暦荘も大好き」
自然と笑みがこぼれる。
そんな私を見たカインもまた笑った。
「そうですか。……ええ、よかった。これで理解しました。私の選択は――――――間違ってなど、いなかったと」
「……? よく分かんないけど、良かったね」
「はい。本当によかった」
頷きあって再び月を見る。
その最中、遠くから鈴のようなはしゃぎ声が聞こえてきた。見れば、フランシスカが士狼に肩車されている。……これ以上、エスカレートしたら止めに行かなきゃダメだね。あっ、別に他意なんてないけれど。
カインがため息をついて、足を前に進めた。
「ではシャルロット。私は姉上の面倒を見なければなりませんので、これで」
「あ、うん。頑張ってね、カイン」
笑顔で手を振る。
すると、カインが寂しそうな瞳で私を見た。
「最後に一つだけ聞いてもいいですか、シャルロット」
「いいよ。なにかな?」
一拍、二拍――質問があると言ったカインは、しかしなかなか言葉を吐き出さなかった。
「貴女は――」
深呼吸があった。私に気付かれないようにと小さくしているつもりだろうけど、残念ながら吸血鬼の中でもっとも賢く鋭い女と謳われたこの私にはバレバレなのだ。
「士狼のことを、愛していますか?」
「っ――!? と、突然なにを言って――」
「冗談などではありません。どうか答えてくれませんか、シャルロット。そうしていただかなければ私は――」
確かに、その蒼の瞳はどこまでも真剣だった。
自然と動悸が治まってくる。だってカインは本気だったから。何の意図があってか分からないけれど、誤魔化してはいけないと思った。
今度は私が深く息を吸い込む番だ。冬の冷たい空気を肺に取り入れると気持ちがすぅと引き締まった。
覚悟を決めて、言う。
「――うん。私は士狼のことが好き。大好き……ううん、愛してる。誰よりも、ずっとずっと士狼のことを愛してる」
胸の前で両手を組んで、祈るように告白する。
この夜天の空に広がる星が、もしかしたら私の願いを叶えてくれるかもしれないから。
長い静寂。
「……そう、ですか」
自分から聞きたいと願ったはずなのに、カインの声はどこか沈んでいるようにも思えた。
「はい、これで私も――諦めがつきましたよ」
「うん? どういうこと?」
「何でもありませんよ。貴女は自分の信じる道を行きなさい。私はそれを影で見守っているだけでいい」
「よく分かんないけど、応援してくれるって言うんなら、お礼を言っておくね。ありがと」
「受け取っておきましょう。……それではシャルロット」
翻って、銀色の吸血鬼は私の元を去っていく。
「さようなら」
最後に放たれた別離の言葉を聞いて、なぜか――私は胸が締め付けられるような錯覚に陥った。
それでも追いかけたりだけはしちゃダメだと思った。なぜだか分からないけど、本当にダメだと思ったんだ。
残ったのは、本当に僅かなモノだけ。
でもさ。
私ってカインのことちょっと苦手だけど、嫌いってことだけは、何故かありえないんだ。
なんとなく――お兄ちゃんがいたらあんな感じなのかなって、そう思うんだ。
それからは大変だった。
士狼がフランシスカに――私以外に血を吸わせようとしていた。当然止めに入った。だ、だって人前で血を吸うなんてよくないことだし、フランシスカはどこからどう見ても血が足りてるんだもん。だから止めるのが自然であって、私は何も間違ったことなどしていないのである。えっへん。
やがて星を見る。
そうして月を望む。
一人で夜空を見上げているうちに、いつかの夜を思い出した。暦荘の屋根の上、士狼と他愛もない話をして、そして――唇を触れ合わせて。
私はふらふらと誘われるように屋根に上った。吸血鬼の私なら、一回跳躍するだけで十分な高さだった。
――そして、そこには。
「……えへへ。なんだか懐かしいね」
白い髪をした男の人が座っていた。
過去と今が重なる。
悪口ばかり言うくせにいっつも私を助けてくれるその人のとなりに、私は気恥ずかしさを感じながらも腰掛けた。
――こうして。
あの始まりの夜と同じ、月夜の密会が始まった。
****
二人して空を見上げていた。
しんと冷たい夜。吐息は白く、身体は寒く、けれど心は温かった。
胡坐をかいて座る俺の隣――シャルロットが三角座りをしながら小さな鼻歌を歌っていた。とても機嫌が良さそうだ。
「楽しそうだな、お前」
「そうかな? なんで?」
「だってさっきから鼻歌歌ってるからよ。何かあったのかと思って」
「――え。私ってそんなことしてたっ?」
顔が赤くなる。
「無自覚だったのかよ。そろそろ重症だな、お前のバカさも」
「ちょっとちょっとー! 別にバカじゃないもん! それにこの美少女の鼻歌だよ? 心が蕩けちゃうぐらいに綺麗だったでしょ」
「ああ、綺麗だったよ」
「――ぅぅ、し、士狼が新しいイジメ方を使ってきてるぅ!」
「イジメてねえし、嘘でもねえよ。俺は本当のことしか言わないから」
「そ、そうなんだ。……あれ? つまり私ってやっぱりバカってことなの?」
「もう気付いたか。バカ吸血鬼め」
「相変わらず口が悪いなぁ。そんなことじゃあ女の子にモテないよ?」
「どうでもいいわ。他の女なんて」
「つまんないの。……? あれれ、今なんか」
「――それよりニノはどうだった? みんなに馴染めてるのか?」
「ああ、うん。それは全然大丈夫みたいだね。むしろ可憐な美少女という私のポジションが、どんどん奪われていくような気がするぐらいだよ」
相変わらずクルクルとよく変わる表情。
楽しげだったり、ちょっと拗ねてみたり、あとは怒ったり、悲しそうに瞳を伏せたりと。
やっぱりコイツはこうやって感情豊かじゃなきゃ嘘だ。間違っても人を傷つけたりなんて似合わないし、誰かの笑顔を奪うこともありえない。むしろその逆だろう。
太陽のように、自分のまわりの人間を笑顔にさせるのがシャルロットだ。吸血鬼のくせに、人間よりも人懐っこく笑うのがこのバカ吸血鬼なんだ。
――本当に目が離せないヤツである。無駄に感受性が高いからすぐにショックを受けるし、泣くときは面白いぐらい泣く。なんだか手のかかる子供の面倒を見ているような気分に、俺はいつもなるのだ
もっとも、それも最近は楽しいと思うことが多くなってきた。
……もしかすると重症なのだろうか、俺は。
「ふぅ……それにしても寒いね」
シャルロットが夜空に白い息を吐く。頬だけでなく、鼻もトナカイみたいに真っ赤になっている。
俺は気が付けば――屋根の上にポツンと垂れた掌がとても孤独に見えて、自分の手をその上に重ねていた。
隣に座りあったまま、身体は触れあわず、手だけが繋がっていた。
「――あのっ、し、士狼っ? えっとねっ、士狼の手が、私の手と重なってるんだけど……」
「いちいちうるさいヤツだな。ただ俺が寒かったからだよ。ほら、お前ってなんだか暖かそうじゃん」
冷静に言ってやると、シャルロットは落ち着きを取り戻したようだった。
「それって褒め言葉?」
「――と、思っていたが、やっぱりお前の手も普通に冷たいな」
「当たり前だよっ! なんで私のせいみたいに言うかなぁ、士狼は。大体前から思ってたんだけど――」
「でもよ」
遮るようにして口を開く。
「こうしてれば、あったまるだろ」
「――っ」
シャルロットの顔が赤くなる。頬に鼻、それに加えて耳までもが朱に染まった。
それほどまでに寒かったのだろう。つまり俺の思いやりは功を奏したというわけだ。
「し、士狼は卑怯だよぅ」
「あん? 何がだよ」
「ふんっ、ズルい士狼には何も教えないもんっ!」
ぷいっと顔を背ける。
俺は自分の掌の中にある小さな白い手を、少しだけ強く握り締めた。
「……ぁぅ」
「それにしても凄い光景だよな」
屋根から少し身を乗り出せば、もはや阿鼻叫喚となった庭先が見えた。
ロイと周防はなんだか肩を組んで笑いあってるし、大家さんとフランシスカがなんか手を繋いで歩いてるし、雪菜とニノは……恐らく胸の大きさを比べあっているし、姫神に至ってはなぜかカインと談笑している。
人間と。
吸血鬼と。
人狼と。
――決して相容れないと誰かが言った。
――決して相容れないと誰が言った?
こんなにも手を取り合えるというのに。笑顔が見えれば、それが違う種族であろうと笑うし、酒を一緒に飲めばそれが誰であろうと飲み比べが始まる。
世界という途方もない箱庭――そんな俺の目が及びもしないようなモノは関係ない。
でも暦荘という身近なアパートではこれが当たり前なんだ。来るものは拒まず、去るものは――逃がさず。その圧倒的であり、お人好し過ぎるほどの善意を持って、何でもかんでも笑顔に変えてしまう。
「……あのね士狼。実は私、隠していたことがあるんだ」
しばらくして、シャルロットは沈んだ声で切り出した。
「なんだよ。やけに神妙な顔して」
「……ぅぅ、ぐすっ――あのね、あの――っ」
突然シャルロットは我慢ができなくなったかのように泣き始めた。
困惑する俺をよそに、空いている方の手で涙を拭う。
「わたしぃ……ね、ねっくれす――士狼からもらったネックレスね……な、ぅっ、なくし、無くしちゃったの――!」
感極まった風に声を出して泣く。
俺の方はというと、そういえば返すの忘れていたなとスッキリしたような気分であった。
ずっとポケットに入っていた子犬のネックレスを取り出す。そして少しだけ――ほんの一瞬、シャルロットから手を離して、素早く首に取り付けてやった。
「っ、ごめ、ゴメンね――ぅぅ、――って、あれ?」
首に違和感を感じたらしいシャルロットは、自身の胸元を確認した。
「悪い、返すの忘れてたわ。たまに思いつめたような顔するなって思ってたけど、そのネックレスを無くしたのが原因かよ」
「――え? これって――」
「俺が拾っておいたんだよ。もう絶対に無くすんじゃねえぞ、バカ吸血――」
「――っ!」
最後まで悪口は言えなかった。
なぜって――シャルロットが、俺に抱きついてきたから。
腕の中に収まるようにして、小さな吸血鬼が震えている。後ろで一つに結った長い金色の髪が浮いて、相変わらずの甘い匂い。なんでコイツって、こんなにいい匂いがするんだろう。
背中を擦ってやる。本当にこのバカ吸血鬼はよく泣くから、いちいち俺が慰めてやらないといけないんだ。
手がかかることこの上ない、が。昔の人は言いました。
バカな子ほど――
「これからも俺のとなりにいろよ。そして、ずっと暦荘にいろよ。そりゃあ時折今回みたいな胸糞悪いこともあるだろうし、辛くて逃げ出したくなる時もあるだろう。それでも忘れんなよ。お前はもうひとりぼっちじゃねえんだ」
「――うんっ! うん――!」
俺は星空を見上げながら言う。
「なあ、シャルロット」
対して、シャルロットは俺に抱きしめられながら言う。
「うん、士狼」
これからもバカみたいな困難が待ち受けているだろう。
大体、あの三人がまだ暦荘に帰ってきてないんだ。この時点ですでに、面倒なことが残されているというのに。
「俺たちは――」
それでもいいんだ。
例え何が待ち受けていたとしても、もうひとりぼっちじゃないんだから。
「私たちは――」
そうだろ、みんな。
そうだよな、シャルロット。
――最後。
冬の夜空に、俺とシャルロットの声が、重なった。
――ずっと、一緒。
****
こうして一つの物語の、一つの節目が終わりました。
とある冬の夜に、ひとりぼっちの吸血鬼は、ひとりぼっちだった白い狼と出会います。
帰る家がなかった少女は、やがて、ただいまと言うその言葉と共に、自身の居場所を見つけました。
これは、本当にそれだけの物語です。
――白い狼と呼ばれた男と。
――小さく偉大な吸血鬼の少女。
伝承でも、現実でもいがみ合って来た二つの種族。
それは決して誇張でも何でもありません。狼と吸血鬼は、どうやっても相容れることはないのですから。
しかし、どうしたことでしょう。
どこかの星の、どこかの国の、どこかの地方の、どこかの街の、どこかのアパートの、その屋根の上。
仲良く寄り添う二人の姿があります。
まるで一つになろうとするかのように、抱きしめ合って、震えるような寒さに耐えています。
あるいは、しんと冷たい冬の夜気でさえ、この二人を引き合わせるためのものだったのかもしれません。
誰よりも隣り合う二人。
どこまでも寄り添う二人。
いつまでも一緒だと誓った二人。
しかし。
そんな二人は――
――けれど、狼と吸血鬼。