其の十二 『一緒』①
それから何が起こったかを話そう。
吸血鬼狩りのヤツらに見送られ、俺たちはいつかの夜と同じく帰路についた。暦荘に帰ったら帰ったで、歩けるようにはなったらしい雪菜が姫神に支えてもらいながら、俺とシャルロットを出迎えた。
そこで聞いた話によると、どうもあの周防の野郎がとうとう眼を覚ましてしまったらしい。美人のナースにちょっかいをかけ続ける周防を見兼ねた姫神は、呆れ果てて暦荘に帰ってきたんだそうな。姫神の代わりと言ってはなんだが、それからは大家さんが付き添っているらしかった。……もっとも周防は、自分で出来るようなことをわざと出来ないフリをし、大家さんに甘えまくっている――という話がついてくるのだが。
やがて雪菜とシャルロットの間に、なんとなくいい感じの雰囲気が流れた。例えるなら、夕焼けの河川敷で拳を交わした男同士の間に友情が芽生えるアレである。雪菜にしては珍しく照れた顔で、「お、おかえりなさい。吸血鬼さん」とそっぽを向いて言うもんだから、俺や姫神としては逆に恥ずかしいったらなかった。
シャルロットはシャルロットで、「た、ただいま。雪菜」とまるで文章そのものを反語にしたみたいな安直な返事をするものだから、お互い様というやつだろう。
――とまあ、それだけならまだ良かったのである。ここまでならよくて美談、悪くて笑い話で済んだ。
しかし俺は少しばかり失念していた。俺の部屋にはその状況を覆すであろう、第三の女がいることを。
ガチャリと開く扉。みんなの視線が集中した先――何者かが出てきたのは、なんと俺の部屋からであった。「あら、士狼帰ってきたの? 遅いわよ」と発言したのはニノ。その言葉もどことなく愛人臭が漂っていたが、さらにまずかったのは服装である。裸に包帯を巻き、その上に毛布を申し訳程度に羽織ったそれは、どこから見ても情事の後みたいだった。
凍る空気。雪菜はバカみたいに口を開き、姫神は呆然とした顔で虚空を見つめ、シャルロットに至ってはプルプルと震えていた。
そんな三人を見て、ニノはすぐさま状況を把握したようであった。なのに続いた言葉は、「ふふ、今夜もいーぱい気持ちよくしてよね」という明らかに確信犯なものであった。
そこから先はあえて語るまい。とりあえず一つだけ言えることは、女というのは怒らせると凄く怖い――という一点のみである。
ともかく本当に色々とあったのだ。
状況が落ち着くと、シャルロットはニノに駆け寄った。そして何事かを言い合ったあと、涙を浮かべてシャルロットはニノを抱きしめた。初めは呆然と抱きしめられるだけだったニノだが、いずれ仕方のない妹を慰める姉のような顔でシャルロットの髪を撫でてやっていた。
――そんなこんなで夜も更けていく。
どこぞのバカ吸血鬼が暦荘を出て行ったあの夜からしばらく。色々と波乱万丈だったような気がするが、終わってみれば全ては一瞬の出来事だったような気もする。結局今回の――人間やら吸血鬼やら人狼やら、様々な種族が入り乱れる――そんな問題も、俺たちにとっては待ち受ける困難の一つでしかないらしい。
数日後、色々と訳あって無理やり退院してきた周防――突発的にナースの尻を触ってしまったせいで追い出されたらしい――と大家さんが暦荘に帰ってきた。
そこで俺とシャルロットと――そしてニノは事情を説明した。吸血鬼のこと、人狼のこと、雪菜と周防を襲った男のこと。普通の人間ならば信じられない、もしくは信じたとしても、シャルロットとニノに対して不信感等を持って、責め立ててしまうような話だ。
……そう、普通の人間ならば――である。残念ながら暦荘という摩訶不思議なアパートに住む変人どもに、常識というものは通じなかったらしい。
周防が怒りに耐えるように震えたあと、「やっぱりね……おかしいと思っていたんだ。――これほど美しい女の子が、人間のはずがないってねっ! なーんだ、やっと納得したよ」と、心底スッキリしたように言った。おかげでバカ吸血鬼は号泣である。それも近所迷惑という言葉を体現するぐらいに、わんわんと泣いたのだった。
――結局は、である。
暦荘の住人たちは全てを受け入れた。
シャルロットが本当に吸血鬼であるということも。
ニノが人狼という存在であるということも。
そして、自分たちを襲った原因がシャルロットにあるということも。
全て知った上で、人の良すぎるあいつらは言ったんだ。――おかえり、って。
それからは本当にビックリするぐらいの騒ぎになった。周防はニノを見た瞬間、「女神見ーっけっ」と猛アタックを仕掛けるし、シャルロットは大家さんと抱きしめあって泣きじゃくってるし。
とりあえず、これでこの物語は一応の結末を迎えたということになる。
――つまり。
これから語るのは、全て蛇足の話だ。
本来ならば必要のないような、あってもなくても変わらない話だ。
それでも俺という狼の名を預かった者と――そしてシャルロットという小さく偉大な吸血鬼からしてみれば、きっと大切で、かけがえのない想い出の話。
さあて、何から話したものかな――
****
ニノという人狼の少女がいた。
あれはもう何時のことだったか。それほど昔のことでもないはずなのに、今は遠い過去のようにも思えるから不思議だ。
もっと話しておけばよかったなぁと思う。美味いコーヒーを飲ましてやるという約束もあった。俺としてはもう一度だけブルーメンに連れて行って、あいつが満足する限りのコーヒーやら紅茶やらデザートをご馳走してやろうと考えていたのだが。
……それも今となっては不可能だ。
ここ最近、ニノの姿なんて見ないから。
あの目を奪われるような赤い長髪をした女は、一言も言わずに俺たちの前から姿を消してしまった。
シャルロットは今でも探しているし、周防に至っては意味の分からない感じで後悔をしている。――そして一番心配しているのは、意外にも姫神であった。こいつらの間に何があったかは分からないが、見ていて驚くほどに息が合っていたのだ。
暦荘の住人たちが心配していることなどどこ吹く風で、ニノは本当に姿を消してしまった。
俺は時折思い出すことがある。
どこか寂しい灰色の瞳を。
シャルロットに似た人懐っこい笑顔を。
妖艶な雰囲気を出すくせに、実は経験皆無なところを。
――そして。
「さっきから何見てるのよ。あんまり女をジロジロと見るもんじゃないわよ」
俺の目の前で、楽しそうに子供たちとサッカーをしているところを。
まったく――どこにいやがるかと思えば、普通に公園でサッカーなんてしてやがった。本当にコイツは落ち着きがないというか、一つの場所に留まらない女だ。自分の部屋にもほとんど帰らず、姫神のところに入り浸っているらしいし。姫神曰く、部屋に帰ってきたらベッドの中にニノが丸まって寝ていた……と言うのはよく聞く話だ。
いつかの公園のベンチ。
俺のとなりにニノが腰掛ける。
この寒空の中だっていうのに、ニノは結構な汗をかいている。額や首筋には赤い髪が張り付いており、赤く上気した頬と相まって、どこか艶かしさを感じる。
――今回は、缶コーヒー無しある。
「……いやな。お前ここで何やってんだと思って。みんな心配してんだぞ。特にシャルロットとか周防とか雪菜とか姫神とか大家さんとか」
「ほとんど全員じゃない。え、ウチってどのぐらい帰ってなかったっけ」
「二日だバカ」
「もうそんなに経つんだ。……うーん、あっ、そうだ。士狼はウチに帰ってきてほしい?」
汗を拭きながら問いかけてくる。
期待に満ちた眼差し。頭についた獣耳が面白いぐらいにピコピコと動いている。
「……別に。どっちでもいいんじゃねえ?」
欠伸をしながらそう言うと、ニノは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「ふーん。どっちでもいいんだ。……まあ、正直に言うとね。なんかウチがいてもいいのかなって思って。あれほど裏のない善意は――ちょっと、気持ち悪いというか」
「気持ちは分かる。上手い話には裏があるってヤツだろ。物事が上手く行き過ぎると、大抵何かしらのリバウンドを警戒するもんだ。……でもよ、たまにはいいんじゃないか? 人の好意を素直に受け入れてもよ」
「…………」
あれから一番問題となったのが、ニノの処遇だった。
俺は密かに吸血鬼狩りのヤツらに接触した。というよりも向こうからアクションをかけてきたのだが。
まずミカヤについてだが――この街には通称"悠久の時を生きた吸血鬼”の娘が暮らしているということもあって常時、吸血鬼狩りが眼を光らせることとなった。言ってしまえば警備体制の強化だ。
その件にニノが関わってくる。
簡単に言ってしまえば、この街には吸血鬼狩りに属する者が常に居つく――という解釈になるのだが、その居つく者こそがなんとニノだった。
両者の間に何があったのかは、当事者ではない俺には分からない。それはまた別の話であって、機会があれば俺以外の誰かが語るだろう。
ともかくそういう訳で、次はニノがどこに住むかという話になった。
ここで、あえて言わせてもらおう。
――あの大家さんは、間違いなくお人好しだと。
本来ならばニノは、吸血鬼狩りから資金を提供されたホテルに住むはずだった。それを本人から聞いた大家さんが、「若い女の子が一人で暮らしてはいけませんっ!」とか言い出して断固拒絶したのだ。
しかし暦荘にはもう空き部屋がない。シャルロットが転がり込んだ部屋こそが、最後の空き室だったからである――が、そこで諦める大家さんではなかった。大家さんは、なんと自分の家の空いている客間に住んではどうか、とニノに提案したのである。
これは個人的な見解だが、どうもニノは大家さんには弱いらしい。……端々に漏らした言葉を繋ぎ合わせて鑑みたところ、ニノの母親にどこか似ているというのだ。
多分、そうじゃなければニノは暦荘には居つかなかった。
結果としては――大家さんの家に間借りする形で、ニノはこの街に住み着くことになったのである。
……もっとも、自分の部屋に帰ることは稀で、大抵は誰かの部屋でごろごろしているようだ。さらには暦荘にも帰らず、平気で外を何日もぶらついたりと。猫みたいだ、とは姫神の談だったか。
「お前が帰ってこないとシャルロットがうるせえんだよ。姫神のヤツも素知らぬ顔をしてるが、俺に会うたびにお前を見なかったかとか聞いてくるんだよ。だから、俺の負担を減らすためにも一度帰って来い。今夜はちょっとしたイベントがあるんだから」
「……イベント?」
ふと見ると、さっきまではあんなに景気良く動いていた獣耳が、今では水をやり忘れた花みたいにしおれている。……相変わらずだな。ニノは顔ではなく、あの耳から感情を読み取ったほうが正確なのだ。
「そ、イベント。何をするかは内緒だ。とりあえず絶対帰ってこいよ」
「……まあ、そこまで言うなら別にいいけどね」
呟く声には微かな照れがあった。
元気を取り戻したように、耳が再びピクピクと動き出した。
それを見ているうちに、なんだか触ってみたくなってきた。だって気になるじゃないか。触り心地はどんなだろう? とか、あれってやっぱ本当についてるのかな? とか。
だから、俺は頼んでみることにした。
「なあニノ」
「なによ」
「お前の耳、触ってみてもいいか?」
「っ――! なんですって……! こ、この変態がっ!」
「…………」
なぜだか分からないが、周防呼ばわりされてしまった。結構ショックである。
ニノはため息をついたあと、出来の悪い教え子を叱る教師のような風に言う。
「いい? 人狼の――特に女の子の耳を触るというのはね、それはそれはいやらしいことなのよ? 士狼が今言ったことを人間の言葉と常識に当てはめて言うと、お前の性器触ってみてもいいか? となるのよ」
「――マジで!? 逆にビックリするわっ!」
「大マジよ。だから変態呼ばわりされても仕方ないと思わない?」
「まあ……確かに」
「女の子同士ならまだしも、異性に耳を触れさせるというのは重大なことよ。人狼の女の子が耳を触ってもいいと言うときは、その男のことが大好きだという証と見てもいいわね」
「へえ、そうなのか。そりゃあなんだか悪いことしたな。もう言わねえよ」
軽く頭を下げる俺を、ニノは腕を組んだまま見ていた。
やがてコホン、と咳払いをして続ける。
「……ところで士狼。なんでウチの耳を触りたいって思ったの? あっ、これは参考までに聞くだけだから自惚れないでよね」
「いやいや、自惚れるの意味が分からん。……まあ、なんかピョコピョコ動いているのを見てたら触りたくなったんだよ。その耳なんか可愛いし」
何気なく、そう言った瞬間であった。
「っ~~!」
ニノがとてつもなく嬉しそうな顔を浮かべた。
ちぎれないかと心配してしまうほどに獣耳が動いている。残像が見えそうな勢いだ。
「え、なに、俺またなんか余計なこと言ったっけ?」
「う、ううん。別になんでもないわよ。……ところで士狼、さっきの言葉もう一度だけ言ってくれる?」
「――? いや、だからその耳なんか可愛いって」
「っ~~!」
あ、また凄く嬉しそうな顔をしてる。
相変わらずピコピコと耳が動いている。……ちょっとだけでもいいから触ってみたいな。
それにしても一体こいつはどうしたと言うんだ。
「さっきからお前どうしたんだ? なんかすっげえ嬉しそうに見えるんだけど」
ギクっ、と固まる。
ニノは一度後ろを向いて、深呼吸をしてから俺に向き直った。頬がやや赤くなっているものの、顔は普通だった。……ただし、耳だけが歓喜を表すように揺れているのだが。もしかして本人は耳が動いていることに気付いていないのだろうか。
「……ふん、なんともないわよ。人狼の女の子にとって、この耳を褒められることが、異性からもらえる最上級の褒め言葉だなんて絶対に言わないわよ」
「…………」
「別にウチは全然嬉しくないから。あーあ、もっと気の利いたこと言いなさいよね」
「お前の耳、世界で一番可愛いよな」
「――っ! な、何よぉ~そんなこと言われたって全っ然嬉しくなんかないってぇ~」
その割に顔はこれでもかと緩みまくってるし、耳は嬉しそうに揺れているのだが。
「で、でもまあ? 自分でもちょっと耳には自信があったりするんだよね。ママもよく褒めてくれたんだぁ。ニノの耳は手触りもいいし、ツヤもあって、さらに形もいいって。士狼はどう思う?」
「……いや。他のを見たことないから分かんねえよ。でもまあ――本当になんか可愛いよな、お前の耳って」
真剣な顔をして言ってみた。
「ぅ――べ、べつに嬉しくなんて」
「世界中の何よりも、お前の耳に触ってみてえよ」
「……あうぅ、で、でも」
「頼む。ニノのがいいんだ」
顔を近づけて囁く。
ニノは頬を真っ赤にさせて、視線を絶えず泳がせている。いつもはどこか冷静で冷めてるヤツだから、こういうニノを見るのは新鮮で面白かった。
「……い、いいわよ」
それは蚊の鳴くような声だった。
「なんだって?」
「っ――だ、だから……別に触ってもいいって……言ったのよ」
俯きがちに、上目遣いでそんなことを言った。
なんだかよく分からないが許可されてしまったらしい。
「あぁ、触ってもいいのか? じゃあ遠慮なく触るけど」
「そ、その代わり責任取ってよね。ウチはもう、どうなっても知らないからね」
「――? まあ、分かった」
頷くが早いか、ニノは立ち上がって俺の膝の上に座ってきた。服という邪魔者を挟んでいるのに、とても柔らかな感触が伝わってくる。ここまでする必要があるのかとも思ったが、まあこのほうが触りやすいしいいかと思うことにした。
少し気になって、回り込むようにしてニノの顔を覗き込む。……なぜか、キスをする時みたいに瞼を閉じている。緊張を表しているのか、獣耳が不規則に揺れている。
この際だからとよくよく観察してみた。まず気付いたことは、まつ毛が驚くほど長い。脱色などでは出せない綺麗な赤い髪も、二重瞼の大きな瞳も、通った鼻筋も、小さな唇も、血色のいい白い肌も――それはどこか、人間という種族を超越した美しさだ。
膝の上に座っているものだから、物理的な距離が近い。ニノ自身から立ち上る甘い香りに混じって、微かな汗の匂いがした。しかも、である。やや上から覗き込むような体勢の俺からは、ニノの大きく開いた胸元が見えた。こいつって、大家さんに次ぐぐらいにでかいんだよなぁ。何がとは言わないが。
いきなり耳に触るのもなんだと思い、まずは火照った肩に手を置いた。意味が分からないぐらいに緊張をしているので、それを解してやろうと思ったのだ。
「なあ、なんか無理してないか?」
「気にしないで。もうウチは覚悟を決めたから」
やや震える声。
俺は頭の中に二百個ぐらいの疑問符を浮かべながら、少しずつ手の位置を上げていく。
肩からうなじへ、そして赤い髪をなぞるようにして、頭頂部あたりについた獣耳へとたどり着いた。
近くで見ると、確かに綺麗な形をしている。ツヤもあるように見えるし、手触りもよさそうである。
とりあえずチョンと人差し指で触れてみた。
「――んっ」
「…………」
おかしいな。
なんかこの場に似つかわしくない、色っぽい声が聞こえてきた気がする。
気のせいだと思って、俺はもう一度だけ耳を指で押してみた。
「ぁっ、ん――」
「……え」
今度は気のせいじゃない。
俺が触れるたびに、ニノが声を上げているのだ。
「あのさぁ、お前どうしたの?」
問うと、ニノは振り返ることなく首を振った。
「はあ、はあ――別に、っ、なんでも……っ、ないわよ」
荒くなった吐息。
それだけならまだいいが、どことなく艶かしいのが気になる。
「……まあ、何でもないならそろそろ本格的に触るけどいいか?」
返答はなく、ただ首が縦に動いた。
――多分あれだな。この過剰なまでの反応は、緊張とか寒さとか、そういった要因からに違いない。だって俺は耳を触ってるだけだ。別にやましいことなんてこれっぽっちもしていないわけだし。
両方の手で包み込むようにして、ニノの耳に触れた。
「あぁ――! そこっ、……ぅっ、だめぇ……!」
途端、もはや人にはお聞かせ出来ないような声が上がる。体は何か得体の知れないモノに耐えるようにくねっており、心なしか、肌も汗に濡れているような気がする。冬なのに。
「えっ。あ、ああ分かった。悪い悪い」
何かタブーを犯してしまったのかと思って、俺は即座に手を退けた。
「……あれぇ、なんでぇ……止めるのぉ?」
呂律の回っていない声で、ニノはそんなことを呟いた。
「いやいや、だってダメって言ったじゃん」
「ぅぅ……それはぁ――っ、も、もういいからっ! 早く触りなさいよっ!」
これまた分からないが、とにかく怒らせてしまったようだった。
怒声にびっくりして、反射的に手が耳に触れる。再び包み込むようにして、俺は獣耳を弄ってみた。……確かにこれは驚きだ。なんという手触り。猫の肉球なんて目じゃないぐらいの質感。永遠に揉んでいたくなってくる。
「……ふぁ、やっ、あぁ――!」
「…………」
「んっ、そこぉ……いいよぉ……」
「――ちょっと待てっ! これは絶対に何かがおかしいって!」
俺は言い知れぬ危機を感じて、耳から手を離した。
不審に思ったニノが振り返る。……少し涙が出ている。頬は真っ赤だし、微妙に涎も出ているような。めちゃくちゃ女の顔だった。
――いやでも、俺がしたことって獣耳に少し触れただけだし。つまり何か他の原因があるってことではないのか。そうだ、そうに違いない。
「なあ、お前やっぱり何かあったの?」
「はあ、はあ、んっ――べ、別になんでもないって言ってるでしょ。人狼の女の子にとって、この耳は何よりの性感帯であって、その中でもウチは特に敏感だなんて絶対に言わないわよ」
「…………」
「ふぅ……っ、そして、それを男の人に触れさせるっていうのは、身体を許したことと同義だなんて間違っても言わないわよ」
「…………」
「ウチは士狼になら好きにされてもいいだなんて、神に誓っても言わないんだからね」
「…………」
今日は寒いなぁ。
今晩のイベントに鍋物ってあったっけ? 今からでも遅くはないから、大家さんに追加オーダーとして頼んでみるのも悪くないかもしれない。
それよりも問題はあの吸血鬼狩りどもだよなぁ。特にフランシスカって子供。この前、ニノの件で会って話をしたとき、イベントのことを言ったらなんか凄く来たがってたから、間違って誘ってしまったんだっけ。
まあ別に構わないか。人数が多ければ多いほど、こういう催しは盛り上がるもんだ。
明日になったら、間違いなく暦荘は死屍累々に違いない。
「……ねえ、士狼。つづき……しないの?」
ぼんやりと空を見て現実逃避していると、ニノが期待と不安が入り混じったような目で見上げてきた。
「いや、続きってお前。だってよ」
「何を心配しているのかは知らないけど、ウチなら大丈夫よ。とっても気持ちいいから」
「お前ワザと言ってるだろ? そうだよな?」
「なにが? ……ああ、士狼が心配してることが分かったわ。場所でしょ? それなら大丈夫よ。この公園を出て、北東の方角に二十分ほど歩くの。すると駅前のロータリー辺りに出るから、そこから道に沿って歩けば大きな橋があるわけ」
「はーん、それで?」
「その橋を渡ればラブホテルがいっぱいあるから、そこならウチがどんな声を上げちゃっても」
「――バカかお前はっ! 頭の中どこまでピンク色なんだよっ! このド淫乱がっ!」
「……え」
反射的にツッコむと、ニノは捨てられた子犬のような目をした。あれだけ元気よかった獣耳が今は力なく、しおれている。
「……淫乱って……そう。そんな風に見られてたんだ、ウチ」
「ちょっと待ってくれ。え、なに、この流れる空気」
「そういえばこの前も経験豊富そうとか言われたっけ。……酷いな、まだ誰ともしたことないのに。好きな人の前でちょっと勇気を振り絞っただけなのにね」
俺に背を向けているせいで、ニノがどんな表情を浮かべているかは分からない。
ただ、しきりに手が動いている。まるで目元の涙を拭うように。
「士狼になら、別にいいと思ったのに」
今度は声に嗚咽が混じり始めた。
「初めては大好きな人がいいって――もう誰も傷つけないって、誰かを殺さないってちーちゃんと約束したから――これからは女の子らしく、恋に生きようって思ってたのに」
……俺は何か悪いことをしたっけ。
ちなみに『ちーちゃん』とは姫神のことである。
「もういい。どうせウチの身体に魅力なんてないんだ。士狼はもっと小さい子が好きなのよね、分かったわ」
「――最後おかしいだろうがっ! そこだけは訂正しやがれ!」
膝が軽くなる。
ニノが立ち上がったのだ。
「……じゃあね」
ノスタルジックにそう言って、ニノは駆け出そうとする。
俺はこのまま行かせてはいけないと思って、その小さな掌を掴んでいた。
「待てよっ! ……あのな、ニノ。自分では気付いてないかもしれねえけど、お前ってめちゃくちゃ美人なんだよ。そんな女が、簡単に身体を許そうだなんて思うな」
「…………っ」
「俺だって男なんだ。これ以上言い寄られたら我慢も利かなくなっちまう。……だから、な?」
「…………くっ」
「あのーだから、ほら。文字通り、狼になっちゃう――なんて面白くねえよな。今のは忘れてくれ」
「……ふふ――あははははははっ!」
失言をしてしまった俺に反応するように、突然ニノが腹を抱えて大笑いした。
「っ!? なんだ、どうした?」
困惑する俺に答えをよこす代わりに、ニノが振り向いた。瞳から流れる涙を拭っている。……ただし、絶対にあの涙は笑いすぎて出たモノだと思う。
「だって――ふふふ、士狼ったら真剣だから。ぜんぶ冗談に決まってるじゃない」
それは今までで一番心臓に悪いドッキリであり。
そして今までで一番ガッカリしてしまうネタばらしでもあった。
「……ははは。だよなぁっ! お前が俺に抱かれてもいいだなんて、冗談じゃなきゃ言わないよなぁ!」
つられて笑う。そりゃあもう、思わず瞳を閉じてしまうぐらいの大爆笑だ。
でも心の奥底では、ちょっとだけ残念だなぁなんて思っていたりして。やっぱり男たる者、いい女から言い寄られて嬉しくないわけが――
「――なーんてね。それも冗談」
風が吹く。
目を開けると、赤い長髪がなびいているのが見えた。しかしニノの姿はどこにもない。
「……うん。やっぱりウチ、士狼のこと、大好きかな」
頬に温かい感触。
それは本当に一瞬だった。
思わず手で撫でて確認してみる。……すると僅かに濡れていた。まるで誰かが俺の頬にキスでもしたみたいに。
となりを見ると、そこにはニノがいた。両手を後ろで組んで、足を揃えて、上半身をやや前傾させて、そして顔を突き出し――瞳を閉じて、赤い舌で唇をぺろりと舐めた。
「――あ、ニノ?」
「聞こえなかった? もう一度言おっか。ウチは士狼のことが大好き。士狼になら何されてもいいし、何でもしてあげる。だからぁ……」
俺に寄りかかって、照れたように赤くなった顔でニノは何かを言おうとして――
「あー! ニノ見つけたぁ! なんか士狼もいるー! ていうか、ちょっとちょっとー! 今何してたのよぉ! 絶対いかがわしいことしてたってー!」
滑り込むようにして現れたシャルロットにより、遮られたのだった。
「チ、またうるさいのが来たな」
「ちょっとちょっとっ! 私べつにうるさくなんてないもんっ! それよりも事情聴取だよ、二人とも。今ここで何をしていたのか、正直に言いなさい」
「本当に子供みたいね、シャルロット。そこまで聞きたいなら教えてあげよっか? ――ウチたちはね、今から大人の遊びをしようとしてたのよ」
「……? なぁに、それ。聞いたことないなぁ」
「仕方ないから教えてあげるわ。耳を貸して」
興味津々な顔でシャルロットは『大人の遊び』の説明を待った。
やがてニノがごにょごにょと囁く。
ちなみに俺は危機を感じて、とうに離脱を始めていた。すでに十メートルほどの距離を開けることに成功している。このまま暦荘まで逃げ帰ってしまえばこっちのもんだ。
「――だ、だだだだ、ダメだよそんなことっ! そんなこと……え、えーと、あっそうだ、不潔だもんっ! 不潔っ!」
「そうかしら? もうウチたちは身体的にも精神的にも成熟しているし、やっぱり愛し合う男女の行き着く先といえば、結局はそれになっちゃうんじゃない?」
「でもっ! ……だ、ダメなものはダメだもんっ!」
「ダメじゃないわよ。ウチは士狼のこと大好きだし。あとは士狼がオッケーしてくれれば、シャルロットがいくら喚こうが関係ないでしょ?」
「むー、それがダメだって言ってるのっ! だってだって、私も士狼のことが――」
そこから先は聞こえなかった。
なぜなら、俺はすでにこの魔境と化した公園からの脱出に成功したからである。
女三人寄れば姦しいとはよく言ったものだが、正直な話、『姦しい』という漢字は『女』という字が二つだけで十分だと思う。
理由は簡単。
シャルロットとニノが集まるだけでこの姦しさだ。ここにもし雪菜とかが入ったらと思うと、俺は怖くて想像すら出来ない。
とまあ。
あんまり遅くならないうちに帰ってこいよな、二人とも。
今夜は、お前らの――――