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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
第三月 【ずっと、一緒】
44/87

其の十一 『御帰』


 頭の中は冷え切っていた。

 自分でも不思議でならなかった。

 怒りがないわけじゃない。むしろ俺という人間はひたすらに激昂している。比喩を用いるとするならば『火』だ。それは生命を象徴すると同時に、死も象徴する。脳裏に燃立つのは荒々しい赤い炎ではなく、静かに、けれど力強く灼熱する青い炎。

 ここまで何かに駆り立てられることなど、これまでの生涯を振り返って、きっと一度や二度ほどしかない。怒り心頭に発しているのに、こうやって過去を鑑みる余裕さえあるのが、そもそも異質なのだ。もしかするならば、俺が抱いてる感情は憤怒ではなく、もっと別の何かなのかもしれなかった。

 散々御託を並べたところで、結局なにが言いたいのかと問われれば、俺はあえて語る言葉を持たない。先の口上はきっと舞台劇で言うならば、序章でもなく、単なる開幕の挨拶にすぎない。まだ始まってもいない物語についてをグダグダ述べたとして、果たしてどれだけの観客が興味を持つのか。

 さて、いいだろうか。

 さすがに、もうガマンしなくてもいいだろうか。

 ダムの決壊をせき止めるようにして、延々と関係のない話を繰り返して、無駄な足掻きとして理性というリミッターを働かせていたが、そろそろ限界でも許されるだろう。

 正直に言って、やっぱり堪えるのなんて無理だった。

 俺の女――ああ間違えた、今のは絶望的な間違いだった――を泣かせたヤツがへらへらと笑っている事実だけでも、腹わたが煮えくり返りそうだ。もしも怒りのせいで、本当に人間の腸が何かしらの異変を起こすというのなら、俺は間違いなく死んでる。

 この『寒い』という言葉でさえ凍えてしまいそうな夜を持ってしても、俺の熱は冷めやらなかった。むしろ体中に新手のタトゥーのごとく負った火傷にはちょうどいい。

 しんとした夜。まるでここら一帯が、何かしらの暗示や魔法の類にかかったみたいに人気がない。誇張して表現するのなら、街全体が眠りに落ちてしまったかのようだ。

 普段なら色々と心配になるところだが、今の俺にはありがたかった。

 なぜって――これならどんな断末魔だろうと、他人には聞かれないだろうから。

「あー、だりぃな。あんさぁ、てめえ誰に銃向けてるか分かってんの?」

 マンションの建設予定地からしばらく。

 自然公園じみたあの場所から、俺は本当に自然公園にいた。この街の住人全てに認定されている、ホンモノの自然公園だ。近年においては珍しく豊富な自然や、鯉の泳ぐ巨大な池などもあって、春になると花見客でそれはもう賑わう。かつてニノが、子供連中とサッカーに興じていた場所でもある。

 中でも公園の中央に位置する広場には、明らかにその道の人が手間暇かけて作ったであろう、豪壮で立派な噴水があった。

 ちょうど満月のような円形で形作られた広場は、四方に瑞々しく咲く若緑と、地面に真新しいセラミックブロックが敷き詰められている。その心を癒す自然と、人工的な舗装の見事な融合は、風景画に起こしても人を惹く絵になるだろう。そして白――というよりも、銀に近い光沢を放つ噴水が、その風景画を完成させる最後のアクセントとなるに違いない。

 鑑賞する人間がおらずとも、頑なに水を生み出す噴水。

 その目前に俺たちはいた。

 対峙して向かい合う。距離は目算によると、およそ二十メートルほどか。

 少し離れた場所にはカインがうつ伏せに倒れており、これといった反応を示さない。その血に濡れた体に、心の中で最大限の礼を言ってから、俺はヤツを――ミカヤを見据えた。

「相変わらず人をイラつかせる声と喋り方だな。俺に殺されても仕方がない理由がいくつあるか……知ってるか?」

「あらら、いつかに聞いた気がする質問だなぁ。…………へえ、んだよてめえ。もしかしてアレまだ根に持ってんのぉ? オイオイ、いい加減忘れろよ。ちょっとしたジョークってやつだよ分かんねえの?」

「っ――ジョークだと……? ふざけんな。てめえが何したか、本当に分かって言ってんのか」

 脳裏を掠める記憶。

 今でもこびりついて離れない、あの血に濡れた小さな手を思い出す。

 ――士狼お兄ちゃん。……お願いだから、もう――

 それは俺が戦場を去る少し前の出来事。

 本当に微かにだけ、過去を想起した。

「……ふーん。あんな数年前の些事をまだ引きずってるとはなぁ。まあでも? 今のお前の目を見てると昔を思い出すわ。いいねぇ、その人を殺すことしか頭にないような胸糞悪い目つき。――あぁ、そうだ。なあ白い狼、今からでも遅くはねえからよ、オレ様と組まねえ? てめえだけは捨て駒じゃなく、大事な手駒として扱ってやんよ」

「――黙れバカがっ!」

「あーあ、ご立腹の様子で。つまんねえなぁ。別にいいじゃねえか、今の腑抜けた生活なんざ捨てちまえよ。――ヒッヒ、どうせもうシャルロットちゃん……殺っちまったんだろぉ?」

 三日月状に吊り上がる口端。

 喉の奥で気味悪く笑う。

「殺っちまった? 殺ったんだろ? 殺ったんだろうが? 殺って殺って殺り尽くしたんじゃねえのぉ? だよなぁ? それしか方法はねえもんなぁ? いやぁ、可哀想なシャルロットちゃんだねえ。夢にまで見た男にブチ殺されるとはなぁ。……でよ、白い狼。――気持ちよかっただろぉ? どうだぁ、自分のだーいすきな女をぶっ殺した感想はぁ――っ、チ」

 空間にこだまするのは乾いた銃声。

 その凄惨な笑みに耐え切れず、俺は構えた銃を発砲していた。

 空気を切り裂き直進する弾丸は、ミカヤの足元へと被弾する。後退の気配。体一つ分だけ飛びのいたミカヤは、金色の瞳を歪めて舌を鳴らした。

「酷いことすんじゃん。オレ様が満を持した、最っ高のショーだったってのに。それよりもどうよ? やっぱり気持ちいいよなぁ、いい女をブチ殺すのは。あの白い肌から真っ赤な血が噴き出す瞬間なんざ、背筋が凍っちまいそうなぐらいの快感だろ?」

 一人で楽しそうに盛り上がっているミカヤ。

 俺は頭を掻きながら、普通に言ってやった。

「いや、シャルロットなら生きてるから」

「……あ?」 

 気色の悪かった笑い声が止まる。

 ミカヤは注視するように眼を細めた。

「……てめえ何言ってんの? 生きてるだぁ? あの性欲の捌け口としか使い道がなさそうなクソガキがか? ……おいおい笑わせんなよ。銀貨アルジェントはちゃーんとここにあるんだ。つまりアイツをぶっ殺すぐらいしか方法はねえの。冗談も顔だけにしろや」

「なに言ってんだ。お前が教えてくれたんだろ。自我を取り戻すぐらいの強烈なショックを与えろって。だからそうしてやったんだよ」

「それこそパチだろぉ? 確かにオレ様はそう言ったが、現実にあのクソガキを気付ける方法なんざ」

「抱きしめて、キスをした」

「……? てめえなに言って――」

「だから、抱きしめてキスしただけだ。それでアイツはこっちに戻ってこれたぜ」

 俺が言い放つと、次いで、ガラスのように空気がひび割れる――ような錯覚。それは常人ならば発狂してしまいそうなほどの、吐き気がするような怒気。

 ミカヤが右手で顔を覆う。指の合間から覗く金色の瞳は、大きく見開かれていた。

「……なあ。もう一度言えや」

「抱きしめてキスしただけ」

「っ――ざけんな雑魚が。んなアホみてえなことでオレ様の思惑が外されてたまるか。つまんねえこと言ってんとマジで殺すぞ」

 威圧するように、権高に言う。

 だが、ふざけてると言いたいのは俺も同じだ。

「うるせえバカが。人の女を泣かした挙句、ごちゃごちゃと耳に悪そうな声で好き勝手ほざきやがって。度が過ぎるようならマジで殺すぞ」

 銃口を向ける。

 トリガーにかかった指に、あとほんの僅かな力を入れるだけで鉛玉は飛び出す。

 次の瞬間、二つの声が重なった。


「――やってみろよ、雑魚が」

「――やってみろよ、バカが」


 それが合図。

 互いに体勢を低くして地を駆ける。

 ――ずきん、と体が痛む。肋骨が折れているのだ。正直な話、呼吸をするのだって至難だ。活動に必要な酸素を取り込んだ分だけ、身体的な機能が確実に劣化していく。

 それでも駆けた。水のように流麗でも、風のように迅速でなくてもいい。ただシャルロットを泣かしたヤツをぶん殴るだけの力があれば、俺はそれでいい。

 直進する俺に対し、ミカヤは左右に蛇行しながら疾走する。

 満身創痍に近い今の俺にとって、人外の能力を有するミカヤは確かに脅威的だ。しかしあの銀色の鎖を手元に戻したせいか、先よりも動きが遅い。なんとか眼で追える。

 身震いするほどの殺意を滲ませながら、ミカヤが肉薄する。

 そのタイミングを見計らって、俺は発砲した。

「はっ! どこ狙ってんだぁ!?」

 帽子を押さえ、俺の頭上をミカヤが飛び越えていく。攻撃を回避すると同時に、背後を取ったつもりなのだろう。

 だが、別に構わない。

 なぜならこれで障害物はなくなったのだから。

「――っ!? てめえ、銀貨アルジェントを――!」

 俺はそのまま直進し続ける。目標はただ一つ、遠く地面に突き刺さった純銀の槍だ。あれさえあれば、アイツの笑顔を守ってやれる――!

 確かにミカヤの運動能力は高く、総合して見れば今の俺よりは動けるに違いないが、いかんせん気付くのが遅すぎた。スピードを殺さずに走り続ける俺のほうが、明らかに早い。

 コイツをぶっ殺してやりたい。気の済むまでぶん殴ってやりたい。

 ――でも、それより先にしなくちゃいけないことがある。優先順位を間違えるな。俺はミカヤをどうこうするためにシャルロットを助けるのではなく、シャルロットを助けたいからこそ今ここにいるんだから。

 走る――背後からミカヤの気配。

 やがて俺の指が銀色の槍に触れた。

「チぃ――うざってぇ!」

 後方からは、強い苛立ちの感情が伝わってくる。

 今のミカヤには、この純銀の槍を俺に奪われるかもしれないとしか頭に無い。それも当然か。コイツはずっとこの槍を追い求めていたらしいし、言ってしまえば俺がシャルロットを奪われるのと同義――ではないな、別にアイツのことなんて大切じゃないし。

 さて。

 そろそろいいか。

 やっぱどう足掻いても、冷静にはなれない。

「……おい」

 俺は溢れ出てくる怒りを、その小さな言葉に乗せて吐き出した。

 槍から手を離して、体を大きく反転させる。

 ――そして、振り向きざまに、

「よくも――好き勝手やってくれたよなぁ!? コラぁ!」

 遠心力をたっぷりと乗せた、全身全霊の拳を叩き込んだ。

 ちょうどそれはミカヤの頬に命中して、俺に肉薄していた黒い影が面白いように吹っ飛んだ。

 純銀の槍を奪われるかもしれない――それしか頭になかったミカヤを、これでもかと不意をついた形になった。

「ぐぅ――て、めえ――!」

 たたらを踏んで、ミカヤが口元についた血を拭う。

 その隙に俺は走り出していた。もちろん狙いは純銀の槍ではなく――

 駆け出しながら、俺は二度ほど発砲する。大量生産の鉛玉は、一秒も満たない間にミカヤの両足を貫いた。本来ならば四肢を打ち抜いておきたかったが、残念、弾切れだ。俺は役目を果たしてくれた拳銃に礼を言ってから、悪いと思いつつもその場に転がした。

「――っ、クソ」

 自身を支える足を打たれて、ミカヤは一瞬跪いた。見ればすでに再生が始まっている。デタラメな野郎だ。

 しかし動きを止められたことに変わりはない。

「ぶっ飛べや!」

 俺は蹲ったミカヤの腹に、全力で蹴りをぶち込んだ。痛烈な呻き声を上げて、黒スーツが吸い寄せられるように後ろへ飛んだ。

 ズキン――身体が痛む。いや、痛いなんてもんじゃない。常人ならば動くことさえ出来ないような体なんだ。それでも尚ここまで行動できるのは、俺がある程度の痛みに慣れていたからと、ちょっと守ってやらないといけないヤツがいるからだ。あとで蓄積された分の負担なんかは受け入れてやるから――だからもう少しだけ持って欲しい。

「……殺す。殺してやる」

 死をイメージさせるような負の感情に満ちた声。

 立ち上がったミカヤが、ふらつく足で体を支え、上半身をぶらりとさせたまま俺を見た。

 ――でも、そんなのは全然関係ないよな。

 俺は体の悲鳴を懸命に無視して、地面を蹴った。

 拳を握る。歯を食いしばる。腰を捻って、肩を入れる。

「――よくも周防をやってくれたよなぁ!? ああ!?」

 黙ってぶん殴ってやるつもりだったが、瞬間に思わず声が出た。しかしそのせいで瞬発的な力が増幅し、拳の威力が増す。

 有無を言わさず、そして俺自身は全くの躊躇いもなく、ミカヤの顔面を思い切り殴ってやった。

 今まで戦場で培ってきたような戦闘技能など、これっぽっちも反映されていないような、子供の喧嘩じみた殴打。そもそも今の俺の体では、自己のポテンシャルを引き出すことなど出来ない。だが、それでも殴りたいヤツをぶん殴るぐらいなら出来る。

 声も上げずに体が飛ぶ。

 俺はすぐさま駆け寄って、立ち上がったミカヤに対し、腕を振りかぶった。

「――雪菜に何してくれたんだぁ!?」

 殴った俺自身の指が折れてしまいそうな衝撃。その分だけの手応え。

 地面を靴が滑る。強烈な摩擦。やがてミカヤが金色の瞳を歪めた。

「雑魚が……調子に乗りやがってぇ……!」

「喋んなバカが!」

 再び駆け寄る。

 まんねりでも二番煎じでも、何でも構わない。今はこれぐらいしか出来ないから。俺は口下手だし、そもそも話術じゃあ、この舌の長そうなミカヤには勝てないし。だからぶん殴る。気の済むまで殴り続けてやる。

 ミカヤに肉薄する際、一人の少女が頭に浮かぶ。

 かつて戦場で気まぐれに拾ったアイツ。そして血に濡れた手と顔で、最後の最後、微笑んでみせた。

 ――士狼お兄ちゃん、あたしね――

 ギリと奥歯をかみ締める。これはもう思い出しちゃいけないことだ。けれど忘れてもいけない。ただ胸の奥で、ずっと大事にし続けないといけない想いなんだから。

 アイツの分も――忘れてはいけない。

「――っ!」

 殴ってやった。

 本当ならミカヤを殺しても足りないぐらいだ。でも――アイツはきっと、そんなことを望んでないから。むしろ俺が人を殺すと悲しむような、そんなバカなヤツだったから。

 でもよ、これぐらいなら許してくれるだろ? なあ、■■■――

「……クク――ヒッヒ――ヒャーッハッハッハッハ――!」

 突如、空を抱くかのように両手を広げ、ミカヤが腹をよじって笑う。

 やがて力なく項垂れた。脱力しきった体。俯いた顔――そしてその奥――金色の瞳が見えた。

「殺す」

 パチン、と指が鳴る。

 影から這い上がるようにして、黒い物体が浮き出てくる。あやふやな靄のようなソレは、徐々に質量を持ち始め、一匹の獣を形取った。およそ自然界には見られないような、闇よりも尚黒い体毛。その気味の悪い唸り声は、百獣の王ですらも威圧するだろう。細長い体には、しかし獲物を一瞬で仕留めるだけのしなやかな筋肉があった。

「殺す殺す殺すコロスころす殺すコロスころすころす殺す殺す――」

 呪詛のように繰り返す。

「死ねや白い狼ぃいいいいいいい―――――!」

 主人の感情を汲み取った漆黒の狼が、唯一つのめいを執行する。

 それはつまり、俺の殺害。

 闇夜に紛れるような黒いフォルムは、今の俺には全くと言っていいほど視認できない。無理をしすぎたせいか、眼が霞んでいやがる。

 ――でもここで終わるわけにはいかない。まだ足りないから。シャルロットを泣かした分だけは、絶対に忘れるわけにはいかない。

「っ、――!」

 襲い掛かってきた狼をかわす。

 しかし繰り出された鋭い爪が、脇腹を掠めていった。血が面白いように噴き出して、地面の真新しいブロックを朱に染める。

 ――だが。

 それだけだ。

 俺は死んじゃいない。

「おい、聞こえてるか!? しっかり受け取れよ、てめえ!」

 血を撒き散らしながら駆ける。

 拳を振りかぶる。

 ミカヤの顔が驚愕に彩られた。

「クソがぁあああああああっ!」

「俺のっ! 女をっ! 泣かしてんじゃねえぞぉおおおおっ!」

 倒れこむようにして、殴りつけた。

 顔面を、鼻っ柱を。

 力を使い果たす。俺はもうスクワット一回すら出来ないと思う。でもこれでいい。これでいいんだ。

 ――ああ、ていうかまた間違えちまったな。シャルロットなんて全然好みじゃないのに。あんなバカで泣き虫な吸血鬼なんてさらさらゴメンだろう。俺は何度も言うが、もっと落ち着いた雰囲気を持った大人の女性が好みなんだ――

 重い音がする。

 ミカヤが地面をバウンドして転がっていく。

 それを見て驚いた。火事場の馬鹿力というのか、今の自分にまだあれだけの力があったとは。

 見届けてから、笑うように震えていた足が崩れる。限界を迎えたのだ。

 俺は無様に倒れ伏した。敷き詰められたブロックが冷たくて気持ちいい。冬だっていうのに、体は燃えるような熱を持っていて、額からは汗が流れ落ちてきた。

 このまま眠ってしまいそうだ。筋肉のヤツが休ませろとさっきからうるさい。心臓は過労を訴えるように大きく暴れている。つまり一言で言うと、もう限界だった。

「……この落とし前よぉ――――どうつけてくれんだ。あぁ?」

 小さな声がした。

 音の無かった空間、その静寂の代わりに、吐き気がするような殺意が満ちていく。

 圧倒されるような威圧ではなく、気付かぬうちに進行する病魔のような、言い知れぬ気持ち悪さ。突き刺す針みたいなプレッシャーとはまた違った、どこかぶよぶよとしたゴムを連想させる、特定の形を持たない、そんな邪気。

「さすがのオレ様にもよぉ、ガマンの限度ってもんがあるんだわ。分かる? 分かるか?」

 視線を上げて見れば、ミカヤが体を起こしていた。

「白い狼、てめえがオレ様に言いたいことは分かったわ。――つまり、死にてえんだろぉ? あ? ぶっ殺されてえんだろうが? そうだよなぁ? おい?」

 ゆったりとした所作で足を進める。

 ――それに反して、俺の体は上手く動かない。無理をし過ぎたというよりも、一度サボってしまった体は、中々起き上がろうとしてくれない。

「……ふん、死ぬのは――お前だろ、バカが」

 軋む腕をなんとか持ち上げて、中指を立てる。精一杯の虚勢を張ってみた。

「……へえ」

 余計に怒らせてしまったみたいだった。

「てめえがここまで愚かだとは思ってなかったぜ。腑抜けただけじゃなくて、頭のほうもボケちまったらしいなぁ。ケっ、つまんねえ。あん時に殺しときゃよかったか」

 ポケットに手を突っ込んで、本当に気だるそうな足取りで、俺へと向かってくる。

 非常にマズい。なんだか知らないが、最近ピンチにばっかり陥っている気がする。あーあ、この件が終わったらもう一度鍛えなおそうかな――なんて。そんな暢気なことを思わず考えてしまうぐらいに危機感がなかった。

 というよりもここまで全力でやったんだから、後はどう転ぼうが知ったことではない。これでもし俺が死ぬようなことになったら、しょせんそこまでの男だったというだけの話。

 限界をとうに超えた体を奮い立たせる。まだ終わってはいない。この俺があんな野郎に負けるわけがない。

 自慢でも誇りでもなんでもないが――狼は、孤高で、ひたすらに強いんだ。その名を不肖にも預かった者としては、簡単に殺されてはたまらない。

「おっ、いいねえ。無力なてめえを殺しても面白くない。せいぜい足掻けや、オレ様に逆らったことを後悔させてやるよ」

「……はん。相変わらずペラペラうるさいヤツだな。前から思ってたんだけどよ、お前の口調、めちゃくちゃ小物くさいぞ」

 対峙する。

 先よりも互いにダメージを負ったが、それでももう一度だけ向かい合った。

 ミカヤが口元を歪める。

「さあ、白い狼。とっとと――――――っ!?」

 言いかけて止まる。それだけではない。

 俺になど構っていられないとでも言うように、ミカヤが視線を逸らす。その先にあるのは――純銀の槍。

「――クソがぁ! 吸血鬼狩りどもめっ、どこまでオレ様の邪魔をしやがるっ!」

 それだけでは飽き足らず、ミカヤは槍に向かって駆け出した。俺は阻止することもできず、ただそれを眼で追っていた。

 距離が縮まる。恐らく数秒も満たなかった。

 そしてミカヤが純銀の槍に手をかけようとした、その瞬間だった。

 ――天から巨大な雷が降り注ぐ。俺という個人の視界だけでは到底収まらないような極大。青と紫が入り混じった、どこか幻想的な色合いの雷だった。空を見ても雷雲など無い。けれどその轟雷は、耳を劈くような音を立てて、俺たちのいる広場を照らし上げた。

 たまらずミカヤが退く。それは賢明な判断だったと言っていい。もしあと一歩でも踏み込んでいたら、きっとミカヤは文字通り消滅している。自己の命と引き換えに、目的だった槍を手放したのだ。そういう意味では、懸命な判断と言い換えても間違いではない。

「――ふざけやがってぇズタズタに殺してやるボロクソに引きちぎってやる血の涙を垂れ流すぐらいに犯し犯して女に生まれたことを後悔させてやらぁ……」

 帽子を押さえて天を仰ぐ。


「それはワシの台詞じゃ。よくも好き勝手やってくれたのう、ミカヤ」


 返す声は、鈴振るように澄んでいた。

 まるで天女か何かのように、中空から一人の少女が降下してくる。その小さな身体が、時折バチと音を立てて雷を発する。それを見て、不思議なぐらいにすんなりと納得した。先の嘘みたいな稲妻は、きっとこの子の仕業だと。

 眩いばかりの銀色の髪は、ツインテールに結われており、上質な絹糸を纏めたかのように流麗。幼い見た目とは裏腹な、強い意志を秘めた深蒼の瞳は、どこまでも晴れ渡った蒼穹を思わせる。その真白の肌はきっと雪よりも白く、雲よりも柔らかなのだろう。両耳にはこれといった装飾のない、厳かなシルバーピアスが揺れている。

 もしも街中で偶然すれ違ったのなら、見た目幼い少女だ、特に違和感の類を持たないと思うが今は違う。誰かと暴力をかわした後というのは、人間誰だって気が張り詰めているもんだ。研ぎ澄まされた集中力と、長年の勘が告げている――あの少女はきっと人間など足元にも及ばないほどの、絶大な力を秘めていると。

 やがて、少女が地面に降り立つ。

 ちょうどミカヤと純銀の槍の中間あたりだった。

「なんとか間に合ったのう。少しばかり時間をかけすぎたか」

 言葉を吐き出してから、少女はカインを指差した。その指先、緑色の光が複雑怪奇な紋章を描き、柔らかく発光する――が早いか、カインの体が浮かび上がって、少女の足元へと運ばれた。

 もちろん眼を疑った。

「……ふむ、生きているな。まあワシの弟たる者、この程度でくたばってもらっては困るがな」

 正直に言えば、ミカヤよりも俺のほうが困惑していた。なぜって、いきなり出てきて強力な雷をぶっ放した挙句、明らかに年上であろうカインを弟と呼んだのだ。驚いても不思議ではないだろう。

 しかし、と思った。

 カインを弟と呼んだ、つまり少女が姉に当たるというわけだ。要するにあの子も吸血鬼ということになる。……なーんだ、吸血鬼か。もうアイツらがどんな不思議なことをしようが、今の俺は驚いてやらないのだ。

「――そこを退けや、ロリババア。今のオレ様はよぉ、相当にキテんだよ。これ以上邪魔されるとマジでキレそうだ」

 低く押し殺したような、ドスの利いた声。

「何を言っておる。その前に命の心配をしたらどうじゃ」

 少女は呟いて、その小さな手を掲げた。

 同時、円形の広場を取り囲むような何者かの気配。数十人ほどか。……強い。気配だけで分かる。コイツらは人間だけじゃない。きっと吸血鬼とか、もしくはそれ相応の類も混じっている。

「我らキルヒアイゼンが盟友、朔花さくばなの者達じゃ。銀貨アルジェントの回収、そして通称”悠久の時を生きた吸血鬼”のご息女の話をすると、快く協力してくれたわい」

「……チぃ、吸血鬼狩りどもがぁ!」

 ギリと奥歯を噛み締める。

 これは俺個人の考えだが――ミカヤが憤っているのは、自己の保身や安全の件についてではなく、あの純銀の槍のことだろう。残忍で頭のキレるミカヤのことだ。この状況下では、もうあの槍を手に入れることは不可能に近いと理解しているのだろう。

 つまり、俺の目的もこれで達成されたわけだ。

 それにしても――あの小さなガキに、美味しいところを全部持っていかれたような気がする。

「こちらにしても時間が無いのでな。ワシは早急に、この銀貨アルジェントでシャルロット嬢の力を抑制せねばならん。――まったく、それにしても先は驚いたわい。なぜシャルロット嬢が再び自我を取り戻したかは知らんが、あと十分遅かったらこの街どころか、地方ごと吹き飛んでいたぞ」

 やれやれ、と首を振る。

 その仕草と口調を含めて、まるで大人に憧れ背伸びをしている子供を思わせた。

「――ここまで来て……オレ様の計画が狂っちまうとはな」

 怒気が沈んでいく。

 ミカヤは深く帽子を被りなおして、肩をすくめた。

「ふうむ。今回はよい教訓になりました。遊びすぎてもダメ、とね。――その銀貨アルジェントは惜しいですが……まあいいでしょ。まだ時間はたっぷりあるのですから。いずれ回収に参ります」

 身を翻して、ミカヤは歩き出す。

 それに呼応するように、周囲から殺気が溢れる。

「潔いのう。その冷静さがまた脅威でもある――が、逃がすと思うか? 貴様はここで死ぬんじゃよ」

「あらら、怖いですねぇ。でも、ま、ムリですけどね」

「っ、マズい」

 少女が腕を上げる。すると生い茂った自然の影から黒いスーツを着た何人もの人間、または吸血鬼が現れ、ミカヤに襲い掛かった。

「――ヒッヒ」

 パチン、と乾いた音。

 影から銀色の塊が出現し――それは膨大な数の鎖、銀色の束となって、ミカヤを覆い隠す。

 円形の広場を、純銀の鎖がうねって侵食する。黒いスーツを着たヤツらの何人かが慌てて飛び退いた。

「――いやぁ、それにしても残念ですよ。消化不良……そうですね、今のボクの心境を例えるとするならば、その言葉が正しい」

 金属が戯れる音。無機質で、どこまでも冷たい、ただ鎖と鎖がぶつかり合う音。

「相変わらず逃げ足の速いヤツじゃのう。引き際だけは心得ておるようじゃ」

「ボクは臆病ですからねぇ。命と引き換えでは、さすがに銀貨アルジェントを諦めるほかありませんよ。――それに。この国では、まだまだやるべきことがあるのでね」

「ふん。好きにするがいい。その代償として、貴様はワシがぶち殺してやる」

「何度目かなぁ、その台詞。いつか夢が叶うといいですねぇ、フランシスカ・ルナ・キルヒアイゼン」

 銀色の鎖が逆巻く。

 ミカヤの気配がもやのように霞み始め、掌から零れ落ちる砂のように消えていく。

「――まあ。時間はまだ、たーっぷりありますからね。いずれシャルロットさんの銀貨アルジェント、もう一度回収させていただきますよ。それにこの地には、やり残したことが少々多すぎます。……………………なあ、白い狼?」

 勘に障るような、人の神経を逆撫でるような、そんな哂い。

「黙れバカが。次に俺がてめえのツラを見たときが、ミカヤ、お前の命日だ」

「――へえ、言うじゃん。せいぜい足掻けや雑魚が。それまでにはせめて、昔のお前に戻っていて欲しいもんだねえ」

 鎖が勢いを増す。

「それでは皆さん、御機嫌よう。ちなみに追ってきても構いませんが……死にますよ?」

 最後にそんなふざけた台詞を残して、ミカヤは魔法のように消えてしまった。

 渦を巻いていた鎖が収束し、やがて――平常を取り戻したその場に、あの黒いスーツと帽子は見えなかった。

 ――これで、ようやく全てが終わった。

 いやいや確かに、まだ面倒なことは沢山ある。それでも俺にとっては、やっと終わったという感じであった。

 いずれ再び――俺とミカヤは出会い、殺し合うだろう。それがいつになるかは分からないし、もしかしたら実現しないかもしれない。しかし可能性が万に一つでもあるのなら、俺は機に備えるだけだ。

 ――もう何があっても暦荘のみんなを傷つけない。守ってみせる。雪菜を、周防を、そして――シャルロットを。

 そう俺は夜空の満月に誓うのだ。

 青白く輝く、あの新円の月に向かって。

 とまあ、とりあえず、だ。

「…………」

 視線が痛い。

 地面に倒れている俺目掛けて、黒いスーツを着た人たちが、遠慮のない目を向けてくる。

 ――これ、どうしよう?





 あれから何が起こったかを話そう。

 膠着する沈黙を破ったのは、予想通りというかなんというか、あの銀髪ツインテールの少女であった。

 やたらと権高な眼で俺を見下ろし、女王様もかくやという物言いで名を聞いてきたので、とりあえず答えてやると、途端に大人しくなってしまった。

 それだけならまだよかったのだが、今度はいきなり握手を求められた。何がなんだか分からないうちに応えてやると、その女の子はやたらと喜んで跳ね回ったあと、周囲の視線に気付き、こほんと咳払いをした。

 やがてカインが目覚めると、俺という人間をまわりの黒スーツどもに説明し始めた。何故だかざわつく場。……それまではゴミを見るような眼を向けられていたのに、急に頭を低くして視線を逸らされるものだから気味が悪かった。

 微妙な空気を打破するように、ロイと黒スーツ数人がシャルロットを担いで連れてきた。この金髪赤眼の少女こそが、通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の娘だとロイが言った瞬間、まわりの黒スーツがビックリするぐらいにひれ伏した。

 その中でもシャルロットは、幸せそうな顔で眠りながら、むにゃむにゃと相変わらず漫画みたいな寝言を漏らしていた。

 とにかくこれから、再びあの純銀の槍でシャルロットを抑制するらしかった。

「――さて、やるかの」

 銀髪の少女――フランシスカと名乗ったその吸血鬼は、あの重そうな純銀の槍を片手で持って静止した。

 地面にはシャルロットが寝かされており、腹の上で両手を重ねられている。

「おい、フランシスカって言ったっけお前。一応聞いておくが、本当に大丈夫なんだろうな?」

 やや心配になって問うと、逡巡する間もなく頷いた。

「もちろんじゃ。まあ黙って見ておるがいい」

 全員の視線がシャルロットとフランシスカに集中する。

 銀色の槍を手に持ったフランシスカは、瞼を閉じ、何事かを呟いた。するとシャルロットの体が淡い光に包まれていき、金色の髪が得体の知れない力から逃げ惑うように浮いた。

 次の瞬間――躊躇いもなく、フランシスカは槍を突き刺す――それもシャルロットの心臓辺りに向けて、一気に。

「――熱っ」

 どこからともなく火炎が発生した。それはある種の嵐のように吹き荒れて、広場を覆い尽くしていく。

 視界が赤い壁によって遮られ、一切合財見えなくなった。……ほんの数瞬、イヤな予感があった。あの超熱の炎はシャルロットが自我を失っていたときに発していたモノとよく似ている。無意識に月を仰ごうとするが、炎に包まれているせいで、それも出来ない。

 ――しばらくして、全てが元通りになった。

「……うーん」

 冷たい空気が肌に触れる。

 最近こうやって炎とかに晒されることが多かったせいで、本当に忘れがちだが、現在の季節は冬なのだ。外で眠ったら間違いなく凍死するぐらいの冬なのだ。

 ――だからとっとと起きろ、バカ吸血鬼。

「あれ、あれ、あれあれ? なになに、何がどうなってるの?」

 金色の髪がなびく。

 瞼が開き、赤い双眸が見える。

 上半身を起こして、周囲を絶えず見渡すシャルロットは、必死に事態の究明に努めているようであった。それも当然である。ふと目覚めたら、周りには自分に頭を下げた黒スーツの方たちが大勢いるのだ。俺だったら現実逃避して、もう一度夢の中に戻る自信がある。

 ふと、背中を押された。

「……行って来いよ、白髪野郎」

 ロイだった。

「それは貴方の役目ですよ、士狼」

 次いで、その隣で輸血パックの血液をストローで吸っていたカイン――それを見て、思わず笑ってしまいそうになった――が、柔らかな笑みを浮かべて続けた。あれだけ死に体だったカインは、血を飲むことによって力を取り戻したようであった。もっとも、あのフランシスカという子供がなにやら魔法のようなものをカインに唱えていたので、その効力もあったのかもしれないが。

「……お節介なヤツらだな、本当に」

 促されたからではないが、俺は足を一歩前に進めた。

 キョロキョロと小動物みたいに視線をさ迷わせていたシャルロットは、俺という見知った人間を見つけると、途端に――例の、人懐っこい笑顔を浮かべた。

「あー! 士狼だぁ!」

 咲き乱れる花なんかよりもずっと綺麗な、曇りのない無邪気さ。

 立ち上がって、臀部についた汚れを叩き落とし、バカで泣き虫で人懐っこく笑う吸血鬼Aは、俺に向かって駆け寄ってくる。

 そんな俺たちをフランシスカ、カインにロイ、そして吸血鬼狩りの連中が観察するように見つめていたが、なるべく気にしないことにした。

「……遅えよ、バカ」

 ちょっと気恥ずかしくて、そっぽを向いて罵ってやった。ざまあみろ、バカ吸血鬼め。

 ――懐に感触。

 シャルロットは照れ隠しの悪口など意にもかけず、走る勢いそのままに抱きついてきた。

「士狼だっ! 士狼だよ、士狼っ! 士狼だもんっ! ねえねえっ、これって士狼だよ、士狼っ!」

「鬱陶しいんだよ! 俺が士狼だなんてことは、俺が一番よく分かってるわっ! 相変わらずバカだな、お前」

 胸元で俺の名を連呼しながら、シャルロットは両腕を背中に回してきた。

 だから仕方なく。本当に仕方なくだ。つられてしまった俺も、シャルロットの背中に手を回した。

 強く女性だと意識させるような、細い華奢な体。俺たちは身長差によって頭一つ分は違うもんだから、ちょうど金色の髪が顎の下あたりにある。顔を埋めてみると、日向のような、とてもいい匂いがした。

 ……反応がない。さっきバカと言ったのに、珍しく反論がない。

 どうしたのだろうと思って、耳を澄ませてみる。

「――ぅぅ、っ、ひっく――ぅ」

 微かに聞こえてきたのは、必死に押し殺しているのが丸分かりの嗚咽だった。

 痙攣するように震える体。それが寂しそうに見えて、俺はシャルロットを強く抱きしめた。少しでもコイツの震えを止められるように、と。

「っ、――ぐす、ぅぅ、ぁあ――!」

 縋り付くように抱きしめられる。

 そのせいで傷ついた体が悲鳴を上げたが、当然無視した。俺のことはどうでもいいんだ。今だけはシャルロットを甘えさせてやりたいから。それにコイツが泣いてしまったときは、俺が胸を貸してやると勝手に約束したから。

 心が温かい。今まで経験した悲劇の全てが、洗い流されていくような感覚。

 自分でもよく分からないが、シャルロットがひたすらに可愛く見えてきた。

 後ろに回した腕で、背中をゆっくりと擦ってやる。これで泣き止んでくれればいいけど。

「……本当にバカだな、お前。みんな見てるぞ」

「いい、もん……っ、ぅぅ――見せつけてるんだもんっ!」

「……そっか」

「――うんっ」

 抱きしめ合う。

 胸の部分が少し冷たくなってきた気がするが、もしかしてコイツの涙とか鼻水なんだろうか。……でもまあ、いいか。シャルロットが流した涙は全部、俺が拭ってやるんだから。

 俺は甘い匂いのする金色の髪に鼻を埋めながら、言った。

「――シャルロット」

「っ、ぅぅ――な、なに……?」

 嗚咽の合間に、やや気だるそうな返事。

 だから不意をつくように、間髪いれずに言ってやった。

「おかえり」

「っ――――」

 途端、震えていた体が止まる。

 ――と、思った瞬間だった。

「――ぐすっ、ぅぅ、っ――うえ~んっ!」

 なぜだか分からないが、泣きがより一層強くなってしまった。

 首を振りながら、何かを言いたげに、呼吸を繰り返している。さっきから”た”という言葉のみを連発しているのだが、一体なにを言おうとしているんだろう。しゃっくりに似た嗚咽が邪魔をして、シャルロットに言葉を紡がせてくれない。

「……はあ。本当に泣き虫だよな、お前って」

「な、泣き虫じゃあ……ぅっ、ないもんっ! ただの美少女だもんっ!」

「はいはい。じゃあさ、顔、見せてくれよ」

「――?」

 シャルロットは俺の胸元から顔を離した。

 それでも体は抱きしめあったままで。

 涙に濡れた顔。赤くなった頬。艶やかな唇。きょとんとした赤い瞳。

 ゆるやかなラインを描いて、その白い肌の上を透明な雫が伝っている。俺は左手をシャルロットの背中に回したまま、右手だけを前へ持ってきた。

「泣くなよ。お前の泣いてる顔なんて見たくないんだ」

 人差し指で掬うようにして、目元を――涙を拭ってやる。シャルロットはその度に、子猫のようにむずがゆそうにしながらも、黙って俺を見つめていた。

「……士狼?」

「ほら、笑ってくれ。……お前はそっちのほうが、可愛いんだからよ」

 言ってから、俺はなんて臭い台詞を堂々と口にしてしまったんだ――と自分に対し、失望を超えて絶望した。

「……あはっ」

 小さな笑い声。

 頭を撫でてやる。その砂金のような髪には、人間の女が悩むような枝毛の類など全く見られない。なんて表現すればいいんだろうか。”ふわふわ”と”さらさら”が混じったような感触である。ここまで触り心地のいいモノは、世界を探してもそうは無いと思う。

「……士狼もね、とってもす……き、で……カッ……いいよ」

「え? なんだって?」

「――ううん、なんでもない」

 やがてシャルロットは顔を上げた。

 それはどこまでも無邪気で人懐っこい笑顔。

 ――ああ、ようやく終わったんだなぁと実感する。

「えへへ……うん。ただいま、士狼」

 少し照れくさそうな声は、それでいて誇らしげでもあった。

 いつかの夜と同じ――いや、違うか。

 あの時は手を取り合った。それだけだった。しかし今は違う。抱きしめあった俺たちの距離は、シャルロットが一歩を踏み出した夜よりも、きっと近いんだ。

 まだ夜は明けず、黎明は遥か遠く。

 ――それでも俺のとなりには、このバカ吸血鬼が戻ってきたんだから、良しとしようと思うんだ。

 いや、それにしてもである。

 ――コイツって、なんでこんなに可愛いんだろうなぁ。




****




 闇の中で声がする。

「――いやぁ、ボクも修行が足りないですねぇ。主に心の」

 ぬちゃり。

 彼が足を進めるたびに、ぬかるみに似た音が鳴った。

 地面にはちょうど良い大きさの物体が、細切れになって散らばっている。料理用に刻まれた肉のようでもあった。その上を彩るかのように、赤いソースがふんだんに注がれている。

 完成された料理。

 彼はそれを眼にもかけず、踏み潰すことも厭わないまま歩く。

「それにしても――日本という国は本当に奥が深いですねぇ。皆さんもそう思いませんか?」

 帽子を手で押さえ、彼は周囲に視線を遣った。

 返す声はない。

「あらら、ボクとしたことが。――ええ、もう死んでいるんでしたっけね」

 愉しそうに、哂う。

 細切れに――バラバラに刻まれた人間、そして吸血鬼の死体の上を歩いていく。わざと、踏みつけるように。

 黒いスーツが散見されるからには、その肉塊は、元は吸血鬼狩りの者だったのだろう。死体の総数――明らかに十や二十では利かなかった。

「だから言ったでしょう? 追ってきても死ぬだけだと」

 呟く声には、嘲りがあった。

 少なくとも死者に対する礼儀など欠片も見られない。

「さて、と。これからまた忙しくなりますかねえ」

 やがて、その影は闇夜に消えていく。

 残ったのは、膨大な量の肉と、哂いだけだった。



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