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けれど、狼と吸血鬼  作者: ハイたん
第三月 【ずっと、一緒】
43/87

其の十 『抱擁』


 まず始めに断らせていただくと、俺は人間だ。

 正直言って、俺には何の力もない。それにどれだけ粋がったところで人間は人間であり、吸血鬼にも人狼にもなれはしないんだ。

 大それたことを言うわけじゃないが、そんな俺でも――ちっぽけなただの人間でも、一人の女ぐらいは救ってやりたい。

 笑いたいヤツには笑わせてやりたいし。

 泣いてる顔なんて、絶対に見たくないし。

 だから絶対に俺はアイツを――シャルロットを助ける。何があろうと、あの人懐っこい笑顔だけは守ってみせる。

 それは決意であり、誓いでもある。

 大した人生じゃなかった。それでも住めば都ではないが、小さく胸を張れるぐらいには自慢できる家を見つけた。ひとりぼっち――その言葉が遠くなるぐらいには、気の許せる家族が出来た。

 あの自称陰陽師の雪菜に、融通の利かない格闘バカの姫神、天然で困っている人を放っておけない大家さん、女と自分さえあれば生きていける周防、軍隊上がりのサラリーマンである智実のオッサン、性に開放的な変態女医の久織、口を開けば皮肉ばっかり言いやがる女社長の如月。

 ――挙げてみれば、愉快すぎるメンバーだ。しかもそこにバカで泣き虫な吸血鬼が入るもんだから、始末が悪いったらないだろう。

 そうだ、俺が頭の中で思い浮かべた光景。

 みんなが暦荘で幸せそうに笑いあうその中に――シャルロットがいなければ、てんで話にならないんだ。

 ……なあ。

 帰ろう?

 もう一度、あのバカみてえに人懐っこい笑顔、見せてくれよ。





「待て、白髪野郎」

 歩き出した俺の背中に、強張った声がかけられた。

 周囲には相変わらず超熱の火炎が渦巻いている。だから、一秒の時間さえ惜しかった。このまま放っておけば、間違いなく街自体が消し飛ぶだろうから。

 俺たちの遥か彼方に、シャルロットが立っている。……いや、それほど遠い距離じゃない。ただ遮るようにして灼熱する火炎が、聳え立つ壁に見えて、目測を誤っただけ。

 いつもはクルクルと変わる表情が、今は彫像のように固まっている。瞳は赤く光り輝いて、瞳孔がこれでもかと開いており、どこか虚ろだ。後ろで金色の髪を一つに結わえていた髪留めは、先の衝撃で弾け飛び、結果としてストレートのまま風になびいていた。

 四方を囲んでいる若緑が、少しずつ燃えては消えていく。火のついた葉っぱは、頼りなく中空を舞い踊り、時折俺の目の前まで浮いてきては、接地する前に燃え尽きて灰となった。

 見れば脇に置かれていた資材――鉄筋が火炎によって溶かされ、ほとんど原型を留めていない。幸いにもうず高く建設されたマンションの骨組みには、まだ被害が及んでいないようだった。

「……お前、どうするつもりだ」

 ロイが普段とは違う、限りなく剣呑とした目つきで問う。

 俺は脚を止めて振り返った。

「決まってんだろ。あのバカ吸血鬼の目を覚ましてやるんだよ」

「……なあ。俺はよ、お前の気持ちが痛いほど分かるつもりだ。正直に言えば、俺だって現状をなんとかしてやりたい。カインが通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の娘を気にかけてたのも知ってるしな」

「……何が言いたい」

「こんなことは言いたくないが、俺も吸血鬼狩りに所属する人間だ。社会に吸血鬼の機密が漏洩するような事態は極力避けたいし、見逃すわけにもいかない。分が悪い賭けに乗るのだってありえない。これも仕事だからな、より堅実な道を選ぶ」

 逡巡したあと、ロイは苦々しく、けれど俺の目を見据えて言った。

「――あの子を殺すのが一番だと、俺は思う」

「そうか」

 不思議と怒りは沸かなかった。誰だってそんな結末は望んじゃいない。でもロイは、この場で誰かが口にしなくてはいけないことを代弁したのだ。頭のいいヤツならば、その方法を選ぶのが筋だと。

「これほどの事態だ。きっともうすぐ姐さん――いや、俺たちの上司みたいな人が来る。姐さんなら、あの娘を抑え込むことぐらいできるだろ。……だからその隙によ、せめてお前が――」

 引導を渡してやれよ、と。ロイは続けた。

「……ざけんな……んなことできるわけねえだろうが」

「お前も本当は分かってるんじゃねえか? あいつを助ける、具体的な方法がないってことに」

「だからってよ……、絶対にそれだけは出来ない」

「きっと、あいつも望んでるはずだ。どうせなら最後は、白髪野郎――お前がいいって」

「――っ、んなわけ――」

 口を開いて、脳裏に蘇る言葉。

 いつかの夜。

 シャルロットの部屋で、寂しそうな笑顔。

 思い出したくもないのに、一つの言葉が脳裏を掠める。

 ――でもね士狼、もしもだよ――

「何があっても、アイツだけは……っ」

 ――……本当にもしも、私がすっごく悪くて、みんなの――

「っ、止めろ……、違うんだよ……」

 ――暦荘の人たちの笑顔を奪っちゃうような女の子になったら――

「……っ」

 ――そのときは士狼が止めてね――

「なんで……アイツ、んなこと笑って言えるんだよ」


 ――でもね士狼、もしもだよ。

 ……本当にもしも、私がすっごく悪くて、みんなの。

 暦荘の人たちの笑顔を奪っちゃうような女の子になったら。

 そのときは士狼が止めてね――


 シャルロットが未来を予想していたとは思わない。

 でも暦荘のアイツの部屋で、俺は少し前にそんな言葉を聞いた。そして約束してしまったんだ。任せとけって。

 今まで数え切れないぐらいの命を奪ってきた。必要であれば命乞いをする者さえも殺してきた。両手がどれだけ血に塗れたかも覚えてないし、染み付いたガンオイルの臭いは当たり前だった。

 これはワガママだ。罪人の都合のよい言い訳だ。……でも――俺は何があっても、アイツだけは、殺したくない。あの笑顔をこれからも、となりでずっと見ていたいんだ。

 なのに、俺はなぜ約束してしまったんだろう。


 ――安心しろシャルロット。もしお前がどんなに悪いヤツになったって、誰かを傷つけようとしたって、そんときゃ絶対に俺が止めてやるからよ――


 笑顔を曇らせたシャルロットに対して、俺はそんな言葉を言った。

 もちろん全力で止めてやるつもりだった。あのバカ吸血鬼が余計なことをやらかしたら、責任を持って俺が止めてやるつもりだった。

 ……でもよ。

 やっぱり違うだろ、そんなの。

 アイツを殺すことで止めるなんて、そんなの絶対に違うだろ……。

「白髪野郎。覚悟を決めろ」

「……ああ、分かった」

 ロイに背を向ける。

「よし、じゃあ姐さんが来るまで」

「アイツを助ける――何があっても助ける。誰がなんと言おうと助ける。お前らが殺せと言おうが助ける。たとえそれが間違っていたとしてもアイツを助ける。そう覚悟を決めたよ」

「っ、白髪野郎! ……理想論だけじゃ何にもできねえんだよ。夢ばっか見てると、現実が疎かになっちまうんだ」

「正論だな。でもよ、理想が無けりゃあ何もできねえし、夢を見なくちゃ現実もつまんねえだろ」

 これで問答は終わりだ。

 俺には今からするべきことがある。あのバカで泣き虫で人懐っこく笑う吸血鬼の、目を覚ましてやらなくちゃならないんだ。

 ごうごうと炎が燃える。ここまで非現実的な光景もそうないだろう。さっきからチリチリと火の粉が散って、肌のあちこちに軽い火傷が出来ていた。

 時間がない。このままでは本当に取り返しのつかないことになる。シャルロットが自我を取り戻しても、それがこの街を焼き尽くしたあととなれば――アイツは間違いなく、アイツじゃいられなくなる。

 肋骨が何本か折れているせいか、呼吸をするだけでも体が悲鳴を上げた。おまけに何とか取り込んだ酸素は、肺が焦げそうなぐらいに熱かった。サウナなんかとは比べ物にならないぐらいの高温。世も末だとしか言い様がない。

 鉛のように重い足を持ち上げる。

 ただ、前へ――シャルロットが待ってるから。

「止まれ、白髪野郎」

 首筋に冷たい感触。

 この煉獄のような灼熱の中において、唯一その冷たさを失っていないモノ。

 鏡のように磨き上げられた刀身は、今は月明かりではなく、焔を反射していた。

 ロイが背後で日本刀を引き抜き、俺の首筋に当てたのだ。

「……何の真似だ」

「吸血鬼狩りとして、お前を自由にさせるわけにはいかない。お前はきっと百人の人間よりも、私情を優先させてシャルロットを選ぶだろ。だからこれ以上、前に行かせるわけにはいかねえんだよ」

 氷のような殺気。

 ロイはどこまでも本気だ。俺がシャルロットを救える可能性など万に一つもないから、分の悪い賭けには乗ってられないって言ってる。そんな下手なギャンブラーには、到底任せられないと言ってるんだ。

「白髪野郎、ハッキリ言うぞ。これ以上、足を進めるというなら――お前を殺す」

「…………」

「それでもお前は行くっていうのか? あの小娘を助けるって? こう見えても、俺は吸血鬼の専門家だ。その俺の見解からして、現状を打破する方法なんぞ無い。あの炎の中に突っ込めば、間違いなくお前は無事では済まない。……もう一度だけ問うぞ。お前はそれでも」

「助ける」

 ただ一言。

 日本刀の刃を掴んで、俺は告げる。

 研ぎ澄まされた刀身。少し触れただけで、俺の皮膚は裂かれて出血した。

「ははははははっ! そうかっ!」

 突如、ロイが狂ったように笑い出す。

 日本刀を巧みに操って、侍のように鞘へと納めた。

「そこまで言うなら好きにしろ。お前がどうなろうと、吸血鬼狩りに属する人間として、責任は全て俺が取ってやる」

 言うが早いか、ロイはてこでも動かないと、その場に座り込んで胡坐をかく。

「見届けてやる。なあ、白髪野郎。――救ってみせろよ。大事な女なんだろ? てめえが惚れた女ぐらい笑わせてやれねえで、なにが男なんだって話だよなぁ」

 膝を叩いて、さも愉快そうに高笑いする。

 だが――コイツは一つ、絶望的な勘違いをしている。

「おい、そこのハゲ頭っ! 誰が惚れた女だっ! あんなバカ吸血鬼、これっぽっちも俺の好みじゃねえよ」

「そうかぁ? ……はたから見りゃあ、相当に似合いだぜ」

「寝言は寝てから言え。俺はただ、アイツに笑っていてほしいだけだよ」

 歩き出す。

 その際、俺の背に、


「バーカ。それが惚れてるっていうんだよ、この白髪野郎」


 相変わらず勘違いをしているような、ロイの声がかけられた。

 訂正させてやりたかったが、今の俺にそんな余裕はなかった。するべきこと、しなくちゃいけないこと、そして、してやりたいことがあったから。

 もう俺の目には何も見えちゃいない。大勢の人間? 人狼? 吸血鬼? 街? 国? 世界? ……いやいや、そんなもんは関係ない。

「……シャルロットに、笑っていてほしい」

 声に出す。

 それは確認の意味を込めた、自身への誓いの言葉。

「……泣いてる顔なんざ、これっぽっちも見たくねえんだ」

 遠く。

 火炎に守護されるようにして佇む、小さく偉大な吸血鬼。

 そして――俺にとって、大事な女。

 ぼんやりと虚空を見つめるその瞳に、感情の類は見られない。けれどなぜか――頬を、涙が伝っている。

 豪奢な金色の髪は、吹き荒れる炎熱によってふわりと浮いている。髪を下ろしたアイツも綺麗だが、個人的にはポニーテールに結ってるほうが、ずっとアイツらしいと思うんだ。

 ずきん、と胸が痛む。

 俺の目の前で、もう二度とあんな顔をするなって言ったのに。ずっとずっと、バカみたいに笑っていればいいって言ったのに。

 結局全ては、俺の力不足だった。雪菜にいらぬ無理をさせ、周防を守ってやれず、大家さんと姫神にも心配をかけた。本当はもっと早く、ミカヤの存在に気付いていればよかったんだ。

 ……でも、言い訳させてくれよ。

 暦荘での――今までのモノクロみたいだった人生とは違う、陽だまりのような生活。眠くなるぐらいの平穏に、居心地のいい雰囲気。日本のどこを探しても集まらないような奇怪なメンツに、時折起こるバカすぎるハプニング。 

 そんな夢みたいな楽しい日々にいて、また血みどろの生活に戻るのがイヤだった。暦荘という日常の中に、あの人が焼けて飛散した脂の感覚と、闘争を思わせる血と硝煙の臭いなんて、入ってきてほしくなかった。

 ――だから、気付くのが遅れた。いや、気付いていたけど無視した。

 その結末がこれだ。

 今回の物語において、もっとも愚かだったのは間違いなく俺だろう。

「……ゴメンな、シャルロット」

 全てを焼き尽くさんと、火柱が狂ったように巻き上がる。

 それを追って見れば、天空には血のように赤く染まった満月が見えた。

「……苦しいだろ。辛いよなぁ。誰かと一緒にいたいよな。ひとりぼっちは、寂しいよな」

 まだシャルロットは間に合う。こっちに戻ってこれる。アイツは幸せになりたいって、ただいまを言いたいって言ってる。

 仮に全て――それこそ、何もかもがイヤになって、シャルロットが暴走しているというのなら。

 なぜアイツは、あんなに泣いている。

 感情の発露さえなく、声も出せないのに、なんで泣いてるんだ。

「……俺はよ、シャルロット。自分の周りにいる人も満足に守れない、ちっぽけでバカな男だ。特別な力なんて持っちゃいないし、戦場を長く離れたせいで腕もなまりきってる」

 歩く。

 前を向いて、歩く。

「こうして、一人の女の笑顔も守れないようなヤツだ。ずっと笑ってろとか言いながら、今はお前の涙を止めてやることも出来やしない。だから、これから何度も、お前の笑顔を曇らせちまうこともあるだろう。――でも」

 手を伸ばす。

 掴んでもらえない指先を、俺は握り締めた。

「――お前が流した涙は、俺が拭ってやる。ずっとずっと、となりにいてやる。お前が笑えば俺も笑うし、お前が泣けば胸だって貸してやる。だからよ――」

 やがて、火の海へと突入した。

 体が溶けそうな高温の中、遠くに垣間見えた金色に向かって、俺は言った。

「――戻って来い。もう一度だけ、俺の手を掴んでくれよ」

 

 

 

****




 暗い闇があった。

 私は赤ん坊のように、黒い水の中をぼんやりと漂っていた。

 何も見えない暗闇。瞼を開いているのか、閉じているのかさえ判断がつかない。だからいつしか瞬きを忘れて、少しずつ自身が曖昧になっていく。

 瞳に何も映らないから、自分の手足も見えない。だからいつしか動かすことを忘れて、少しずつ自身が曖昧になっていく。

 ここでは呼吸をしなくても大丈夫。だからいつしか息をすることを忘れて、少しずつ自身が曖昧になっていく。

 何もすることがないから、考える必要がない。だからいつしか思考を忘れて、少しずつ自身が曖昧になっていく。

 ――ああ、私、消えちゃうんだ。

 漠然と思った。頭を動かす必要性のない闇の中で、靄がかかった思考の中で。

 不思議と恐怖はなかった。死ぬのはすごく怖いけど、消えるのなら別にいいかなと思ったんだ。だってもう何もない。未練も、希望も、家族も、帰る家も、大好きなあの人も。唯一残ったのは、限りない絶望だけだった。

 だからいい。

 消えちゃってもいい。

 私なんて元々いらない子だったんだから。

 ひとりぼっち――だったんだから。


 ――?


 その瞬間だった。

 宇宙よりもなお広く、闇よりも一層昏いこの空間の最奥。そこに小さな光が見えたような気がした。

 気になって瞼を開ける。微かな光を捉えたことによって、少しずつ自身が明瞭になっていく。

 照らされる私の手足が見える。手を、足を、指を動かすことによって、少しずつ自身が明瞭になっていく。

 呼びかけたくて、声を出そうとしてみた。必要な分の酸素を取り込んで、少しずつ自身が明瞭になっていく。

 あの光はなんだろう、とサボっていた頭が働き始める。ぼうとしていた頭が回って、少しずつ自身が明瞭になっていく。

 ――そうして、私は目を覚ました。

 遠くに見える光が気になって仕方がなかった。どこか温かみのある、そして覚えがある光だった。

 少しずつ、近づいてくる。

 闇を削る勢いが強くなる。

 やがて光の向こうが見えた。

 燃え盛る炎。赤く染まった月。灰へと還っていく自然。

 ――その中に、見覚えのある白い髪を見た。


 ――っ。


 涙が溢れた。

 泣き虫だと言われても仕方ないけど、それでも涙が溢れた。

 私に向かって手を伸ばす、その人の顔が見えた瞬間、我慢ができなくなった。

 ――ぶっきらぼうなところが好きで。ちょっと口が悪いところが好きで。実はすんごくお人好しなところが好きで。頑張ったら頭を撫でてくれるのが好きで。目つきが悪く、格好をつけてるところが好きで。バカ、と親しみを込めて呼ばれるのが好きで。泣き虫、と私の弱点を見破ったところが好きで。ずっと笑っていてくれよと、臭い台詞を言うのが好きで。繊細な女心に鈍いところが好きで。そして――私に、手を差し伸べてくれたところが好きで。

 全部、本当に全部、大好き。

 私は何よりも、きっと誰よりも、士狼のことが好き。――ううん、大好き。

 ねえ。

 いつかの夜、屋根の上でキスしたよね。実はすっごく恥ずかしかったんだよ。

 でも少し照れたような士狼の顔を見て、私は胸が温かくなったんだ。

 あの時は、仕事の報酬って言ってたけど――――自分の気持ちに気付いた今だったら、多分私はキスできない。

 だって恥ずかしいんだもん。自分からそんなことしたら、きっと心臓が破裂しちゃうよ。

 でもね、もう一度だけでいいから。

 士狼と、キスしてみたいな――なんて思ってるんだ。

 うん、だってもう無理だから。私はきっと元には戻れないから。シャルロットという女の子は、もうすぐ消えちゃうだろうから。

 だから最後に、もう一度だけ夢を見てもいいよね。


 ――ねえ、士狼。

 大好きだよ。

 ううん、愛してる。


 ――うん。

 大好きだった、よ。




****




 灼熱の海を歩く。

 まるで侵入者を焼こうとするかのように、炎が俺に向かって跳ねてくる。

 それを何とか避けながら、俺はひたすらに前へと進んでいた。

 気のせいかもしれないが、さっきよりも火炎の勢いが弱くなっている気がする。もしかしてシャルロットに異変が起こったのか、とも思ったが、見た目は全く変わらない。

 燃え盛る焔。

 その中に、俺は過ぎ去った過去を幻視した。




 ――吸血鬼。さっきはご馳走様、AB型の人――

 初めてそんなことを言われたときは、ぶん殴ってやろうかと思ったっけな。

 ――私、帰るとこないんだけど、どうしたらいいかな――

 あのときは本当に参った。しかも期待に満ちた目で見つめてくるんだぜ。

 ――シャルロット。パパが最初に与えてくれて、最期まで呼んでくれた名前だよ。綴りはこう、はい、十秒で覚えてね――

 初めて名前を聞いたときは、正直いい名前じゃねえかちくしょうめ、と内心葛藤したもんだ。

 ――ちょっとちょっと! なんでしょうってなによっ、私のこと、きちんと説明してくれなきゃやだよ!――

 大家さんに適当に紹介してやったら、アイツは頬を膨らませて怒ったっけ。

 ――え、でも、私、帰る家なんてないし……――

 手を差し伸べてやった俺に向かって、今更のように遠慮したときはホント呆れたよな。

 ――うん! 帰ろう、士狼っ!――

 掴んだ手は冷たくて、でもあの人懐っこい笑顔が見れたんだから、それでもいいかなと思った。

 ――ありがとう……士狼――

 バカみてえに赤くなった頬を隠そうともせずに、キスをした。しかも初めてだったって言うんだから、大胆なヤツだ。

 ――ただいま――

 突然思い出したかのように言ったその言葉。

 ――ちょっとちょっとー、バカって何よバカって! さっき帰ってきたら何か廊下にガラスが散らばってるから、掃除しようと思って箒持ってきたのに――

 アホみたいに箒を持って掃除する姿は、実を言うとすっげえ嬉しかったんだ。コイツもようやく暦荘に馴染んできたんだなぁって。

 ――うわぁ、士狼っ! 星見だって、星。星がいっぱい見れるんだよ!――

 周防が言った提案に、ガキみたいに目を輝かせて喜んでいたっけ。

 ――うえーん! お酒が切れたぁ~!――

 本当に吸血鬼らしからぬヤツだよな。バカで、泣き虫で、人懐っこく笑って、そのくせ泣き上戸だなんてさ。

 ――し、しょうがないな~。別に食べたくもないけど、士狼がどーしてもって言うなら、私がちょっとだけ食べてあげてもいいよ――

 食いしん坊のアイツは、機嫌損ねてるくせに、タコ焼きに釣られてたっけ。

 ――ぐすっ、うえーん! 士狼~ありがとうー!――

 子供っぽい、子犬のネックレスを買って首にかけてやったら、びっくりするぐらいに泣いて抱きついてきやがった。

 ――ちょっとちょっとー! バカってなによ、バカって! そんなこと言う士狼には、絶対教えてあげないんだから!――

 流れ星にかけた願い。本当を言うとさ、お前がなにを望んだのか気になって、その夜眠れなかったんだ。

 ――見ててね、士狼。私、いっぱい頑張っちゃうんだから――

 白い華奢な腕を曲げて、にこやかに笑うアイツを見て、俺も頑張ろうって思ったんだっけ。

 ――絶対ウソよっ! 顔ちょっと笑ってたもん、すっごくイジワルだったもん!――

 接客のときにちょっと試してやったら、頬を赤くして怒ってたよな。

 ――う、うるさいなぁっ! 別に照れてなんかないもん! ふーんだ、士狼のバカっ、アホっ、おたんこなすっ、えと……えーと、バカ!――

 いつも頭を悩ませながら口にする悪口。実はそういうとこ、可愛いじゃんってずっと思ってた。

 ――でもね士狼、もしもだよ。……本当にもしも、私がすっごく悪くて、みんなの――暦荘の人たちの笑顔を奪っちゃうような女の子になったら、そのときは士狼が止めてね――

 寂しそうな笑顔で、そんなことを言ってた。あのときは、それが現実になるなんて思ってなかった。

 そして、アイツはなにが欲しいかと聞かれて、こんなことを言ってたっけ。

 ――ずっとずっと、みんなと――

 そうだ。

 シャルロットの入居記念パーティはまだなんだ。だから、俺がとっておきのプレゼントを送ってやる。

 ――ここで暮らしたい。それが私の一番欲しい物、かな――

 お前がそれを望むなら、俺が叶えてやる。

 失いたくないんだ、お前を。

 絶対に、お前だけは――




「――っ!」

 炎が跳ねる。

 まるで主人を守ろうとしているみたいだ。シャルロットに近づこうとする俺に向かって、火炎が意志を持つかのように襲い掛かる。マトモに当たれば命はないだろう。

 息をするのも苦しい。呼吸するたびに肺が焼けていくよう。超高温に熱せられた空気は、体内に侵入するたび、毒を盛ったように体を蝕んだ。

 必死になって突き進む。例えミスったら死ぬとしても関係ない。ここで前へと進まなかったら、俺はきっと一生後悔するだろうから。

 炎の海を掻き分けるように進んでいくと、シャルロットの姿が近くなってきた。

「……久しぶりだなぁ、シャルロット」

 声をかけても反応はない。

 代わりに、侵入者を排除するかのように、炎の槍が数本飛んできた。

「クソ――!」

 かわす。

 けれどその内の一本だけが完全に避けきれず、右肩を掠っていった。

「ぐっ、ぅ……こんの、バカが――!」

 右肩が燃えるように熱い。それは比喩ではなく、一瞬、本当に燃えていた。着ていた服に燃え移ったのだ。すぐさま上着を脱ぎ、肩を叩いて火を消す。

「なにしてんだよ、お前っ! そんなのはお前じゃねえだろうがぁ!」

 叫ぶ。

「俺、言ったよな? ずっと笑ってろって――お前のそんな顔、見たくねえって言ったよなぁ!?」

 ごうごうと音を立てて、炎が燃える。

 シャルロットの距離はおよそ……十メートルほど。

 そんな歩いて数秒の距離が、考えられないぐらいに遠い。

 ――炎のカベが、立ちはだかる。

 その向こうに、シャルロットの姿があった。感情を宿さない深紅の瞳から、ただ涙を流して。

「っ、こんなもんでよぉ――!」

 俺は躊躇うわけじゃなく、飛び込むために一瞬タメを作って、

「引きこもってんじゃねえぞぉ、バカ吸血鬼がぁあああ――!」

 飛び込む。

 炎のカベに向かって、突破を試みる。

 日常では縁遠い、人間の脂が燃える臭いがした。俺が飛び込んだ瞬間、火炎が猛って、その勢いを増す。

 あまりの熱さ――いや、痛さに足がたたらを踏む。それでも止まるわけにはいかなかった。ここはすでに炎の中だ。足踏みすることはすなわち死を意味する。来た道を引き返すのも賢い選択じゃない。そんな情けないことをするよりも、アイツに向かって進んだほうが百倍上等だ。

 ――やがて、視界が開ける。

 シャルロットを守護していた焔を抜けたのだ。

 目の前……本当に、手を伸ばせば届く距離に――バカで、泣き虫で、人懐っこく笑う、俺にとっての吸血鬼Aがいた。

 周囲でゆらゆらと揺れていた火炎が、俺という侵入者を燃やし尽くそうと迫り来る。


 そのとき、

 俺は――――――




****




 不思議な感覚だった。

 私という自分を、遠くから眺めているような感じ。

 目の前にはシャルロットという女の子がいて、ごうごうと燃え盛る炎の中心に彼女は立っている。それをどうすることもできず、私はもう一人の自分として、その光景を見つめていた。

 さっきから張り裂けそうに胸が痛い。

 なぜって……遠くに士狼がいるから。

 それだけならば、まだよかった。悲痛な顔をした士狼は、なにを考えているのか知らないけど、この炎の海に突入してきたのだ。

 迫る火炎を避けて、なるべく危険の少ない道を選び、私――いや、シャルロット目掛けて一直線に向かってくる。その途中、何度も炎によって焦がされた。いまや士狼の体は火傷だらけだ。

 私はずっと叫んでいた。

 こっちに来ないで、

 早く逃げて、

 私のことなんてどうでもいいから、

 士狼の傷つく姿なんて、絶対に見たくないから――と。

 そんな私の願いを無視するかのように、士狼はただ前へと進み続けた。

 何をするつもりかは知らない。……嘘、本当は気付いている。士狼はきっと私を殺すつもりなんだ。

 ――うん、だって約束したもん。私がみんなの笑顔を奪っちゃうような女の子になったら、そのときは士狼に止めてほしいって。……だから士狼にならいいんだ、何をされても。せめて最後ぐらいは、大好きな人の手で眠りたいから。

 もう何を言っても、恐らく士狼は聞かないだろう。だからせめて、あの人がなるべく傷つかないようにと――自分を抑え込もうとする。その成果もあって、あれだけごうごうと燃えていた炎の勢いが少し弱くなった。えっへん、私ってやればできる子なんだもんね。士狼、褒めてくれるかな?

 ……正直言うと、少し怖い。

 もうすぐ私は死んじゃうんだ。大好きな人の手にかかって、死んじゃうんだ。

 それがイヤなわけじゃない。

 ただ……後悔があった。

 ――もっと雪菜と仲良くしてばよかったなぁ。いつもは知らないうちに口論になっちゃうけどさ、本当は私、雪菜のことすっごく大好きだったんだぁ。……うん、今度また三人で見ようって言ってた映画、行けなくてごめんね。

 ――ねえ、千鶴はいつもお姉ちゃんみたいに頭を撫でてくれたよね。本当は私のほうが、ずっとずっとお姉さんなんだよ? あっ、それと胸が小さいって悩んでたけど、千鶴は私の憧れなんだから、もっと自信を持ってほしいな。

 ――あのね、大家さんと一緒にいると、すんごく心が落ち着いたんだ。一緒によく御飯作ったりしたよね。私が握った少し不恰好な……ぅぅ、とんでもないぐらい不恰好なおにぎりを、美味しいと笑いながら食べてくれたときは、思わず泣いちゃったんだよね。

 ――それと周防は、もう少し節操を身につけたほうがいいと思うよ。せっかくモテそうな顔をしているんだから、あの性格をなんとかすれば万事オッケーだね。……うーん、でもそうすると周防じゃなくなるような。あはは、難しいね。


 ――士狼……うん、そうや……しろう。私の、大好きで大好きで、仕方のない人。本当はもっと一緒にいたかった。まだしてないこと、一杯あるよね。花火を見たことないって言った私を、花火大会に連れて行ってくれるって約束もしてくれた。みんなで海に行こうって話もしてたよね。……むー、水着を士狼に見られるのかぁ。私ってね、アレ着たことないんだけど、明らかに表面積が下着とおんなじだよね。人間の女の子って大胆だなぁって思ってたんだ。で、でもだよ? 士狼になら、特別に……あっ、ホントに特別にだよっ? 水着姿を見せてあげてもいいかなぁ、なんて言ってみたりして。あはっ、士狼、絶対にメロメロになっちゃうんだから。ほねぬき……? うん、ほねぬきってヤツだね――


 暦荘。

 雪菜。

 千鶴。

 大家さん。

 周防。

 そして――士狼。

 まだ果たしていない約束がいっぱいあった。

 もっともっとしたいことが山ほどあった。

 だから、敢えて言うならそれが――心残り。

 死んでもいいと思ってたけど、せめてその前に、もう一度みんなと会いたかった。

 これってそんなに贅沢なのかな?

 叶えちゃいけない願いなのかな?

 ……考えても分かんないや。

 だから士狼。もう覚悟はできたよ。


 ――やがて、炎の壁を突っ切って、士狼が私の目の前にやってきた。

 服なんてもうボロボロで、体中のあちこちに火傷を負っていて、白い髪の先端はなんか知らないけどチリチリになっていて。

 うん、なんとか力を抑え込めたみたい。もう元に戻るのは無理だろうけど、士狼が私の元に来れる程度には頑張れたみたいだ。

 一歩、一歩と踏みしめるように歩く。

 手を伸ばせば触れる距離、そこに士狼が――私の大好きな人がいる。

 瞬間、周囲でゆらゆらと揺れていた炎が、士狼に向かって襲い掛かる。

 ダメだと思い、必死に抑えようと試みるが、もう私の力は及ばないようだった。

 叫ぶ。

 早くして、と叫ぶ。

 炎を制御することは無理でも、士狼に殺されるよう、体の動きを封じるぐらいなら出来る。

 灼熱の、業火。


 そのとき、

 士狼は――――――




****




 ――――――抱きしめた。

 ――――――キスをした。


 抱きしめて、キスをした。

 俺を焼き尽くそうとしていた火炎が、戸惑うように揺れて、静止した。

 信じられないぐらい華奢な体。腰は折れそうに細いのに、くっついた胸は大きく、柔らかかった。ふわりと金色の髪が舞い踊って、優しく甘い匂いが鼻をつく。白磁のようにきめ細かな白い肌と、人形のように整った可愛らしい顔立ち。”美”という言葉をここまで体現しているヤツも、そうはいない。

 虚空を見つめていた無感情な深紅の双眸に、”驚愕”という感情が、ほんの数瞬だけ垣間見えた。

 体がビクンと震える。それを逃がさないようにと、さらに強く抱きした。柔らかな、女の体。今まで知らなかった女性的な部分に、酷く興奮した。

 俺たちの周囲ではこれでもかと火炎が猛り、その勢いを増していた。きっと客観的に見たら、その中心でキスをしている俺たちも相まって、すごく非現実的なんだろうなと思った。

 唇を割って、舌を差し入れる。作法や礼儀なんて関係ない。ただ俺がしたいからやっているだけ。

 とろりと唾液が伝う。シャルロットの舌に乗った唾液を吸うと、驚くほど甘かった。それにまた高揚して、身体を強く抱きしめた。

 まるで蛇と蛇が絡み合うような、そんな扇情的な口付け。歯列をなぞってやるたびに、シャルロットの身体が震える。見れば彫像のように固まっていた青白い顔、その頬が赤く上気していた。

「……し、ろ――」

 か細い声を上げる。

 それがなんとなく悔しくて、俺はよりキスに没頭した。

 柔らかな唇を舐め上げて、逃げようとする舌を吸ってやる。そのたびにシャルロットの身体が痙攣するように震えて、瞳は扇情的に潤んでいく。

 音を鳴らして、唾液を口から口へと送り込む。シャルロットの白い喉が嚥下するように動いたのを見計らって、今度は俺が唾液を啜った。

 ――それは恋人同士がするような、甘い恋慕のキスではなく。ただの興奮を高め合うような、どこまでも官能的な接吻。

「ぁ……んっ――」

 瞳に感情が宿っていく。

 最初は『驚愕』だった。やがて『興奮』、『快感』、『歓喜』、『悲哀』、『憤怒』と続き、人が備え持つ当たり前の感情を取り戻していく。

 ――まだだ。まだ放してやらない。こんな程度では、てんでオシオキにならない。もっともっと抱きしめて、キスしてやる。コイツの腰が抜けて、暦荘から、俺たちの目の前からいなくなれないようにしてやる。

 だって、俺言ったよな、シャルロット。

 約束したよな。

 あの夜に。

 約束したもんな。

 ――ああ、任せとけ。大体俺を誰だと思ってんだ。バカな吸血鬼の一人や二人――

 だからこれは、ただ約束を果たしているだけだ。

 ――この口だけで止めてみせるっての――

 つまりは勝負なのだ。このバカで泣き虫な吸血鬼が勝つか、ちっぽけな人間である俺が勝つか。コイツがどれほど凄まじい力を持っていようが関係ない。だって俺にとって、シャルロットはただの吸血鬼Aなんだから。いくら不幸を喚こうが、そんな胸糞悪い言葉をいう口は、俺が全部塞いでやる。お前の口から発していいのは、せいぜいバカみたいな笑い声だけだ。これぞまさしく、対バカ吸血鬼用教育プログラムである。

 絶対に離さない。

 もう何処にも行かせない。

 お前はここにいていいんだ。

 なあ、シャルロット――

「っ、ん――しろ、あ……ん――!」

 言いかけた言葉を飲み込ませる。

 開きかけた口を、口で塞ぐ。

 特別なことなど何もしていない。ただきつく抱きしめて、強くキスしているだけ。本当にそれだけ。作戦ではないし、戦術などではありえない。そもそもシャルロットの元へまでたどり着けるかも賭けだったし、この方法が最善策だとは、とてもではないが胸を張って言えない。

 ――でも俺はこの方法でしか、コイツに伝えられない。口下手だし、言葉にするのなんて恥ずかしいし。だから、どこにも行くなって、お前はここにいてもいいんだって、ずっと俺のとなりにいろって、そうキスによって伝えてやる。

 ……あ、でも別にコイツに惚れてるとかじゃないからな。むしろぜんっぜん惚れてなんてないぞ。俺の好みは、もっと落ち着いた雰囲気を持った大人の女性であって、こんなバカで泣き虫で人懐っこく笑うような吸血鬼なんて、はなはだ論外なのである。

「……ぅ、ん――」

 口腔内を舌で掻き回す。人によっては口内が性感帯の人間もいる。どうもこのバカ吸血鬼にもその例は当てはまったらしい。いや、だって過剰なまでの反応だもん。

 シャルロットの背後に回した腕で、丸みを帯びた背中のラインをなぞってやる。そのたびに艶かしく跳ねて、口からは喘ぎが漏れた。

 もはや頬は真っ赤に上気し、瞳は潤みきって、どこからどう見ても女の顔になっている。今のコイツを見て、吸血鬼だなんて思うヤツは、きっと世界中のどこを探したっていないだろう。

 感情を取り戻す。

 シャルロットの瞳から、悲しみではありえない、柔らかな雫が溢れる。

「ぅぅ――! しろ、……っ、う――! しろ、――んっ!」

 喋らせない。

 今コイツに喋らせたら、負けのような気がするから。

 やがて、俺が独りよがりに求めているだけだったキスに、変化が見え始めた。そして、呆然と抱きしめられるだけだった身体に、新たな動きがあった。

 今度は俺を求めるかのように、シャルロットが舌を絡ませてくる。ぶらんと垂れていた腕は、俺の背中に回され、きつく締め上げられた。


 ――抱きしめ合って。

 ――互いに、キスをする。


 愛でもなく、恋でもなく、性欲でもなければ、本能的でもない。

 それはただの――約束のキスだった。

 離さないようにと、身体を抱きしめる。逃げられないようにと、強くキスをする。すると今度は回した腕に力が入って、より身体が密着する。そのせいで、キスはさらに情熱的となった。

 繰り返しだ。絡み合う螺旋のように、どこまでも繰り返す。

 俺たちの周囲でバカみたいに猛っていた焔なんて、今となっては雰囲気を盛り上げるだけのかがり火にしか見えない。

 求め合う。

 欠けていた部分を補うように、離れていた時間を取り戻すように。

 こんなときなのに――いや、こんなときだからこそかもしれないが、今はシャルロットがひたすらに愛おしい。抱きしめても、キスをしても足りないぐらいに愛おしい。……でも別に、これっぽっちも惚れてないけどな。

 俺が起こすアクションに、いちいち身体をビクンと震わせる。足はすでに限界を迎えていて、俺が腕を離せば、きっとシャルロットは崩れ落ちる。だからコイツは、まるでしがみつくように俺に抱きついている。

 それでもキスを続けた。一切の逃げ場など与えない。もうコイツが迷ってしまわないように、ただ自分の進みたい道を歩んでいけるように、俺があらゆる逃げ道を塞いでやる。

「ぅぅ、ぐすっ――しろう、しろ――!」

 嗚咽が混じる。

 シャルロットの身体はもうどうしようもないぐらいに快感に震えていて、今にも果ててしまいそうだった。

 それでも、それだからこそ、声が震えていた。

「バ――カぁ! ……っ、しろ、う、の――バカぁ!」

 キスの合間からこぼれるのは、相変わらずボキャブラリーの少ない悪口。

 それは罵っているはずのなのに、むしろこっちが心配になるぐらい語彙が少なくて。でもそんなところがコイツの魅力で、可愛らしいところでもあるんだ。……もう一度言うが、本当に、これっぽっちも、俺はコイツに惚れてなんてない。

「なん、でぇ……! ん――なんで、っ……よぉ――!」

 シャルロットの声と連動するかのように、天まで届きそうな火柱が上がる。

 そして舞い上がった焔は、やがて手品のように消えていく。

「だって、……ぅぅ、わた、わたしぃ――! もう、いらないんじゃ――!」

 唇を、舌を、強く吸い上げる。

 どうやらまだ分かっていないらしい。このバカ吸血鬼は。

「――お前は、ここにいてもいいんだ」

 唇と唇が、離れる。

 まるで名残惜しむように、唾液が糸を引いていた。

 シャルロットの顔は子供みたいに真っ赤で、目からはしとどに涙が溢れて、口元は情けなく歪んでいる。おまけに口端から垂れたよだれも相まって、見た目は本当にガキみたいだった。

 でも――あんな感情のない顔をしているよりは、ずっと上等だ。

「ぐすっ、でも、でもぉ……私がいたら、ぅっ、みんなが――!」

「お前がいなけりゃあ、みんなが笑えなくなるんだよ」

「ウソだもん……っ、そんなの絶対ウソだもん――!」

「まぁだ分かってねえようだな。これはどうも、もう一度オシオキが必要みたいだ」

 冗談のつもりで言うと、シャルロットは顔を赤く染めて、

「……う、うん。……私、悪い子だから、もっとオシオキされなきゃダメだもん。だ、だからこれは、仕方ないんだもんっ」

 そんな、バカみたいなことを呟いた。

「オシオキなんだもん。別に私はキスしたいなんて、これっぽっちも――っ、んっ!」

 唇を再び塞いだ。

 今度は官能的なキスではなく、ただいらない言葉を封じるためだけの、触れるような口付けだった。

 ゆっくりと――本当にゆっくりと、俺たちは唇を離した。

「……ぅぅ、士狼ぉ……」

「泣き虫が。……言っただろ。この口だけで、止めてみせるってな。このバカ吸血鬼が」

「――バカぁ。……わ、悪口言う気ぃ……ぅぅっ、満々じゃない――!」

 呟いて。

 爆発するように、炎が膨れ上がった。

「――ぐすっ、うえ~んっ! 士狼のバカバカバカバカバカぁああああっー! なにやってるのよぉ、なんでこんなに傷ついてまで、私に構うのよぉ……ぐす、ひっく、うえ~ん!」

 俺たちの四方を逆巻いていた火炎が――消える。血のように赤く染まっていた月が――青白く、色を変える。

 しかし、この空間からは、いまだ非現実が消えることはなかった。

 確かに炎は消えた。月も戻った。しかし――

 草が、花が、木が、緑が――まるで魔法をかけられたみたいに色づき、吹き返すように生を取り戻す。塵になるほど燃え尽きた若緑が、元の姿を――いいや、以前よりも遥かに美しい姿へと咲き戻っていく。

 それはどこまでも幻想的な光景だった。非現実的なことなんてもうゴメンだが、こんなありえない事なら歓迎してやってもいいと思った。

 さすがに溶けた鉄鋼までは元通りにならなかったが、マンションの骨組みにはそもそも被害が及んでいなかったので、ギリギリセーフというところか。

「――約束したからな。お前が欲しいモノをやるって。聞いたからには、叶えてやるのが俺だ。何でも屋だからな、一応」

「でも……私、もう帰る家なんてない。暦荘には、私の居場所なんて」

「なにバカなこと言ってんだ? お前の部屋は普通にあるし、ていうかお前が出て行ったことを知ってるの、俺と雪菜だけだし。思春期のガキのプチ家出と、なんら変わらねえよ、お前がしたことは」

「――っ、でも――!」

「でもでもうるさいヤツだな。じゃあよ、こう言えば分かってくれるか? ……お前にはずっと俺のとなりにいてほしい。もう一度、あのバカみてえに人懐っこい笑顔、見せてくれよ」

 俺がそう言うと、シャルロットはごしごしと涙を拭いて、顔を上げた。

「――うんっ! えへへ、士狼――大好き!」

 それは相変わらずのバカみたいな笑顔。

 そして俺が望んでいたモノであり、となりでずっと見ていたいモノでもある。

 ああ、そう。

 バカで泣き虫で人懐っこく笑う吸血鬼Aの捕獲作戦は、こうして幕を閉じたのだった。




「……さすがの俺もびっくりだな。白髪野郎、お前いったい何をしたんだ?」

 泣き疲れて眠ったシャルロットを抱きかかえていた俺に、ロイが駆け寄ってきた。

「大したことじゃねえよ。男なら、女の一人や二人、守ってやるぐらい当たり前のことだろ」

「……ま、いいか。今はまだそれどころじゃねえしな」

「……やっぱり、か」

「ああ。確かに今は一時的に自我を取り戻し、安定しているが、それもまたいつ暴走するか分からん。現状はなんとかなったが、銀貨アルジェントで再び抑制しないとダメだろうな」

 安らかに眠るシャルロットを見る。

 眠っているくせに、幸せそうな笑みを浮かべて、時折むにゃむにゃと漫画みたいな寝言を言っている。

 まだ――コイツを守ってやったとは、言えない。

「ならよ、坊主頭。あの銀色の槍を取り戻してくりゃあ、万事解決ってことか?」

「そうなるな。……もっとも、ミカヤがまだこの街にいるかさえ怪しいからな。実質手詰まりかもしれ」

「――いいや、俺の勘が正しければ大丈夫だ。というわけで、コイツの面倒を見ててくれ。俺はちょっと大事な仕事があるからな」

 シャルロットをロイに預けて、俺は銃のグリップを握った。

「お、おいっ! どこに行く気だよ! 当てでもあんのか?」

 時間が惜しい。

 俺は足を進めながら、振り返ることなく言った。

「――ちょっとは相棒を信じてやれよ、坊主頭」

 最後にヒントを教えてやり、俺はボロボロになった体に鞭を打って、夜の街へと駆け出した。




****


 


 静まり返った夜の街。

 仄暗い影に紛れるようにして、一人の男が歩いていた。

 黒いスーツに、つばの広い帽子。

 機嫌良さそうに弾む体、その手には、純銀に輝く一振りの槍が握られていた。

 目的は果たした。もうこの街にも、通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の娘にも用はない。暴走したシャルロットが街を焼き尽くそうが、吸血鬼狩りに処理されようが、彼には何の興味もないことだ。

 ただ、敢えて言うなら――”白い狼”と呼ばれた男と、決着をつけられなかったことだけが、彼の心残りだった。

 しかしそれも憂うほどのことではない。これで死ぬなら、しょせんそこまでの男だっただけの話である。

「……へえ、これはこれは」

 淀みなく動いていた足が止まる。

 彼――ミカヤは、自身の前に立ちはだかった男を見て、素直に感嘆の意を示した。

「カインさんじゃありませんか。どうしたんですー? そんな今にも死んでしまいそうな体で。あまり無理をしないほうがいいのでは? いくら吸血鬼であろうと、さすがに死んじゃいますよ?」

 銀色の吸血鬼。

 吸血鬼狩りに所属するその男、名をカインという。

 ふらつく足に、前のめりになった体。すでに死に体に近く、身体機能は低下の一途を辿っており、恐らく人間にも劣るだろう。青い瞳は頼りなくブレて、時折焦点が定まっていないこともあった。

 五体満足であり、さらに銀貨アルジェントを二つも所持しているミカヤにとって、それは理解不能な行動だった。

「まさかボクから”コレ”を取り戻そうとでも? いやぁ、さすがに頭が悪いですねぇキルヒアイゼンは。あんまり調子に乗ってると、どこかの誰かに踏み潰されても知りませんよ?」

「…………」

「どうしました? カインさん。なにか言ったら――」

 そこまで言葉にして、ミカヤは口を閉じた。

 憤怒ゆえに言葉を持たなかったのでも、ミカヤとは口を聞くのも汚らわしいとしているのでもない。

 ――もう、声を発する力さえ、ないのだ。

 それでも立ちはだかった。行かせない、と。決して行かせるわけにはいかない、と。カインは言葉ではなく、行動によってその意志を示した。

「……なるほどなるほど。たとえ敵わないとしても、何事もなくボクを行かせるわけにはいかない――ということですね。さすがカインさんだ。ふうむ、しかしここまでするとは。これはもしかして……シャルロットさんに恋慕していたりしてー?」

 純銀の槍――銀貨アルジェントを、地面に突き刺す。

「ま、なんでもいいでしょ。とにかく」

 疾走する。

 いくら銀貨アルジェントで抑制されているからといっても、一般的な吸血鬼よりは強力なミカヤだ。その脚力は風にさえ匹敵する。

「苦しんで、後悔して死んでもらいましょうかね」

 ミカヤなら、今のカインを刹那の間に殺すことも容易だった。

 しかし簡単には殺さない。武器を、兵器を使わず、ミカヤは駆けたエネルギーを乗せた蹴りを、カインに叩き込んだ。

「っ――!」

 声はなく、音を立ててカインが吹き飛んだ。

 追い討ちをかけるようにして、ミカヤが倒れたカインを踏みつけた。

「ほらほらぁ、苦しいですかぁ? 辛いですよねぇ? 痛いでしょう? ほんとにバカですね、アナタは。いったい何がしたいんです? わざわざ殺されに来るなんて、本当に解せないとしか言い様がありませんね」

 何度も痛めつけた。

 顔を、手を、足を、肩を、腹を、腰を、指を――ありとあらゆる箇所を、じわじわと苦しむように蹴りつけた。

「……ふうむ、つまらないですねぇ」

 何の反応もなく、ただ人形のように倒れこむカインを見下ろし、ミカヤはため息をついた。

「もういいでしょう。何か策があったのかと期待していましたが、どうも無策のようですね。時間をかけるのも賢くないですし、そろそろ死にましょう? ね?」

 指一本動かさないカインに背を向ける。

 ミカヤは遠く、地面に刺さった純銀の槍を手に取ろうとその場を離れて――

 やがて銀貨アルジェントを握って振り返ると、そこには満身創痍の体で立ち上がるカインの姿があった。

「……ほほう、大したものだ。いくら吸血鬼といえど、ここまでくれば素晴らしい生命力です。さすがはキルヒアイゼンといったところでしょうか。まあ、でも――」

 上半身を逸らす。

「これで、死んでください。さようなら~」

 銀色の槍を、カインに向かって投擲した。

「……ふふ」

 最後に、カインは笑った。

 どこまでも満足そうに微笑んだ。

 それはどこか、目的を果たした顔にも似ていた。

 ――今の自分に出来ることなど高が知れてる。守ってやりたい者は、信頼できる者に任せた。故に自分がするべきことなど、元来的には何一つとしてない。

 でも、とカインは思う。


 瞬間。

 一発の銃声が響き渡り。

 カイン目掛けていた純銀の槍が、弾かれて宙を舞った。


「――っ!? ……まさか」

 ミカヤが暗がりの奥へと目を向ける。

「……やっ――と」

 カインが安堵の笑みを浮かべて、その場に崩れ落ちる。

 ――そう。今の自分に出来ることなど無い。しかし、でも、けれど――

 

 ――大切な人を守ろうとする人間の、手助けをすることぐらいならば、出来る――


 前のめりにカインは倒れた。それも顔から、受身を取ることもなく倒れ伏した。

 なぜなら彼の役目はもう終わったから。とある男を信じて、必ず来てくれると信じて稼いでいた時間は、もう必要ないから。

「……よくもアイツを泣かせてくれたよなぁ。お前だけは絶対に許さねえ」

 足音が聞こえる。近づいてくる。

 ミカヤはその人物を見た瞬間、ギリと奥歯を噛んだ。

 手で押さえた帽子の奥――金色の瞳が忌々しげに歪んだ。

「てめえ――雑魚の分際で、オレ様の邪魔しやがって――!」



 やがて、影からその男は現れた。

 かつて戦場で一種のオカルトとまで呼ばれた男。部下を使い捨てにするような部隊長でさえ、その男と出会った場合、するべきことは闘争ではなく『逃走』だけと言った。

 名誉欲しさに挑んだ者のことごとくが死。きっと死神でさえ、あれほど人を死に追いやることなどできない。

 孤高に駆け回るその姿は、ある時から一匹の獣に例えられ、戦場で伝説とまで成って語り継がれることとなった。 

 ボロボロになった体に反して、その瞳は死んでいなかった。

 白い髪を揺らし、構えた銃を突きつけて。

 宗谷士狼が――いや。


 ――”白い狼”が、そこにいた。




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