其の九 『銀貨』②
「っ――!?」
なんとなくシャルロットに呼ばれたような気がして、思わず俺は振り返った。
「士狼っ!」
カインの声がする。注意を呼びかけるような、叱咤するような――きっとその両方だろう。
俺は反射的に、身体を大きく後ろへ逸らした。
シャレにならないほどの鋭い蹴りが、鼻先を通過していく。
「――ヒュー、さすがは白い狼。腐っても反応は上々じゃん」
金色の瞳を歪めて、ミカヤが愉快だと笑う。
その背後、カインが銃を構えていた。直後に発砲する。
俺にとっては馴染みのある乾いた音。硝煙の臭い。耳を劈くようなバカでかい音が空間にこだまする。
カインの所持している銃にはサイレンサーが装着してあるが、ぶっちゃけそんなものを取り付けたところで、発砲音を半減することさえできない。よく映画なんかで見るサイレンサーは、はっきり言ってパチモノだ。実際は、およそ三割程度しか音を軽減できない。
先の発砲も例に漏れず、間近で聞いている俺としては非常に鼓膜が痛かった。
「甘えよ、吸血鬼が」
背に向けて放たれた弾丸を、ミカヤは視認さえせず避ける。
俺はその回避した隙を狙って、カインから渡された拳銃――ベレッタM92を構えて、発砲した。
この銃はさきほど、カインが僅かな時間の中で唯一調達してきたものだ。どこぞの国で警官が基本所持しているほどには安定している。派手さはないが、申し分も無い。
今夜、何度目かの発砲。
――しかし。
隙をつきカインが背後から攻撃、それを避けた上での隙を狙った――いわば即席のコンビネーションによる二重の発砲を、ミカヤは難なく回避した。
「チ――!」
いちいち外したことを悔いるヒマはない。
即座に銃口の向きを修正しようとして、
「遅えぞ、雑魚が!」
槍を連想させるような蹴りが、俺の腹に打ち込まれた。
声を上げるヒマもなく吹き飛ばされる。咄嗟に後方へ跳んだおかげで、ダメージを軽減させることに成功した。
――それでも、と思う。上手く体が動かない。脳が発した命令よりも数コンマ遅れて、体がようやく動く、そんな感覚。別に調子が悪いわけじゃない。ただ長く戦場を離れていたツケがここで出たのだ。体が鈍っているのもあるが、何より勘が鈍っている。
ついでカインが、ミカヤの背後から再び襲い掛かる。
「つまんねーなぁ」
振り向きざまに腕を振り払う。
自身を全く確認する余地もなく放たれた攻撃に、カインは逆に不意をつかれ、体を宙に投げ出された形になった。
俺とカインが素早く体を起こし、臨戦態勢を取る。
それをポケットに手を突っ込んだまま、退屈そうにミカヤは首を振った。
「こんなもんかぁ? なあ、カインちゃん。キルヒアイゼンも堕ちたもんだなぁ? それに白い狼、てめえはホント腑抜けちまったもんだよ。昔のお前はいつだって誰かを殺そうとウズウズしてたじゃねえか。あのうざったらしかった目つきも、今では飼われた犬みてえに覇気がない。オレ様はよ、てめえことだけは買ってたんだぜ? 人間の分際で”狼”なんざ呼ばれてたが、それでも容認するほどにお前は強かった。――なのに、このザマはなんだ。てめえらオレ様をナメてんの?」
「……ったく。ごちゃごちゃ面倒な野郎だ。まだ本気出してねえだけだよ、バカが」
「へえ、いいじゃん。もっとギア上げていこうや、じゃねえと手元が狂って殺しちまいそうだ。……ああでも、もしかするとその方が手っ取り早いかも……あーどうしよ。殺そうかな」
「……ミカヤ。この力――貴方は」
「あん? なんだよカインちゃん。もしかしてなんか気付いちゃった? さっすが吸血鬼だなぁ。同族の気配を感じ取れるってか?」
「っ――銀貨のせいですか」
「ピンポーン、大正解。ありゃあ確かに強力だが、いかんせん融通が利かねえもん。吸血鬼に対しては絶大だが、逆に言えば吸血鬼にしか効果を発揮しない。そして――」
「吸血鬼であれば、例えそれが持ち主であろうと、効果を発揮してしまう――」
何かしらの真実にカインが気付いたようだった。
「おいっ、さっきからなに意味の分かんねえこと言ってんだ。俺にも分かるように説明しろ」
「……士狼、ミカヤは吸血鬼です。――いや、違う。吸血鬼でもあります」
「――? どういうことだ?」
「これが真実だとは言いません。ただ私の仮説が正しければ、ミカヤは人狼でもあり――吸血鬼でもある」
ミカヤの口元が三日月のように歪む。
その凄惨な笑みは、明らかに肯定を意味していた。
「ヒヒ――ハーッハッハッハ! 大正解っ! いやぁ、よく気付いたなぁ! あのロリババアでさえ数百年間気付かなかったんだ、さすがだよカインちゃん。まあでもあのロリババアは、殺し合わなきゃあただの間抜けなチビだから仕方ねえか」
位置上、俺とカインに挟まれているのにも関わらず、ミカヤは腹を抱えて笑う。
「やはり――だから銀貨を所持し、使役している貴方はその力の大部分を失っていた」
「そうそうっ! まったく不憫だよなぁ。吸血鬼を虫みてえに踏み潰せる代わりに、オレ様自身も抑制されちまう。まあそれでも、利用するコマは吐き捨てるほどいたから、困ることはなかったけどな。例えば? どこぞの愚かな人狼の小娘とかかね。あ、違った、粗大ゴミかぁギャッハッハッハ!」
コイツ――どこまで腐ってやがる。
少なくとも、長い時間を共有した少女に対して言っていい言葉じゃない。アイツはゴミなんて呼ばれていい女じゃないんだ。
「まあでも今回はよぉ、シャルロットちゃんを封じることで、さすがの銀貨も限界みたいだわ。オレ様にまで抑制が及んでこねえ。おまけにこうしてアレから遠く離れた以上、ちっとだけだが力も出せるってもんよ。あー、例えば――」
ミカヤが俺を見る。
金色の瞳と――目が合った。
「こんな風に」
ただ目が合っただけ。本当にそれだけだった。
まるで体が重しをつけられたみたいに鈍重になる。おまけに全身が言うことを利かない。――視線が交差した、それだけのことで、こちらの命令系統をグチャグチャにされてしまった。
「なーんてな、おもしれえだろ?」
「っ――」
体が軽くなり、全身を蝕んでいた異能の力が解けていく。
「魔眼――高位の吸血鬼のみが持つそれを、貴方が有しているということは、つまり」
「どうだろうね。昔のことはそんなに覚えてねえが、少なくともロリババアよりは長生きしてんだろ。まあ元は人狼の血族だったもんで、オレ様が元来の吸血鬼としての位に当てはまるとも思えねえけどな」
楽しげに語るミカヤ。俺としてはこれっぽっちも面白くない。
「――おい、今そんなことはどうでもいいだろうが」
その一言によって遮る。
カインとミカヤの視線が俺に集中した。
悪いが個人的に言わせてもらうなら、吸血鬼がどうだとか本当は何だったとか、そんなのはどうでもいい。どうしても論議したいならこの夜が終わってからにしてほしいもんだ。
――俺はよ。
「シャルロットを助けることができるなら、なんでもいいんだ。ごちゃごちゃ下らねえこと言ってんじゃねえ」
距離にして百メートルは離れていない場所にシャルロットがいる。
それでも今の俺には、そんな短距離走程度の距離が、とてつもなく遠く見えた。
ミカヤが俺たち二人を相手取りながら、同時にシャルロットに近づかせないように牽制しているからだ。もっとも、あの鎖がある以上近づいたところで意味ないかもしれないが。
「――ま、いいだろ。なあ白い狼? それにカインちゃん。悪いがてめえらにはあのクソガキの見てる前で、存分に苦しんでもらわなきゃなんねえんだ。せいぜい情けない悲鳴を上げてくれや」
「その前にお前を殺すから無理だな」
「私も同じく。ミカヤ、貴方は危険です。吸血鬼狩りとしては野放しにするわけにはいきません」
水を打ったように静まり返った空間に、息が詰まりそうなほどの殺意が充満していく。
そして再び俺たちは激突した。
****
心が静まり返っていた。
それなのに心臓は痛いぐらいに暴れている。
私、どうしちゃったんだろ。
雪菜、私どこかおかしいよね。千鶴、ちょっと変だよね。大家さん、どうしちゃったのかな。周防、こんな私でも可愛いって言ってくれる?
――ねえ士狼、助けてよ。
――?
いま私はなにを考えた?
暦荘のみんなを思い浮かべて、士狼に向けて手を伸ばして。
……助けて?
なにを言ってるのかな。よりによって私があの人たちに助けを求めるなんて。
身の程を知らない、こんな生きる価値もないゴミが。
――全部てめえのせいだ。
ドクン。
――お前と出会ったせいで、お前が頼ったせいで、お前が誰かを求めたせいで、その人間はどうなった?
心臓が。
――いいのかぁ? てめえのワガママに大事な人間を巻き込んで。
心が。
――目を覚ませ。現実を見ろ。そんで枷を取り外せよ? なあ?
私自身が。
――バカみてえにてめえを追っかけてきた白い狼が、てめえのせいで苦しむんだ。
おかしい。
心の奥底から強い感情が湧きあがってくる。――――コロセ。
その黒いモヤのようなものから、必死になって眼を背けて、耳を塞ぐ。――――コロセ。
絶対にイヤ……イヤだっ! ――――コロセ。
ふと気付けば、私の目の前にもう一人の私が立っている。――――コロセ。
真実から目を逸らす私を、軽蔑するような眼差しで見つめている。――――コロセ。
やがて、もう一人の私が言った。
――手に入らないんだったらさ、みんな殺しちゃおうよ。
殺す……? そんなのダメっ! 絶対にイヤだよっ!
――呆れちゃうよね。いつまでそうやって自分の殻に閉じこもってるつもり?
閉じこもる?
――いま悪意に晒されてるのは誰かな。あのさ、これは単なる防衛なんだよ。自分自身を守るために、ちょこっと力を振るうだけ。
……じゃあさ、誰も死なない? 自分を守るだけだったら、誰も死なないよね?
――あはは、うん。だーれも死なないよ。だからさ、無意味な枷なんて取っ払っちゃおうよ。自身の闇を受け入れちゃお。
そう、だね。分かった。じゃあさ、私はどうすればいいの?
――簡単だよ。それはね――
****
――ドクン。
「っ、なんだっ!?」
空間が脈動する。まるで世界そのものが心臓になってしまったかのよう。
シャルロットを見る。……明らかに様子がおかしい。虚ろだった赤い瞳は、まるで血のように赤く光り輝いて――
「来た来た来たぁー! やーっと来たやがった! あともう一押しかぁ!? ならよ、あのクソガキの目の前でてめえが無様に死にさらせばオッケーだろー!」
「っ――!?」
マズイ――これはマズイ。
戦闘から注意を逸らしすぎた。眼前のミカヤが、俺の腹を貫こうと手刀を打ってきた。
回避が間に合わない。これはどう足掻いても食らっちまう。……ウソだろ、おい。俺はこんなところで死ねないんだよ。アイツを助けるって、コイツをぶっ飛ばすって、暦荘のみんなと俺自身に誓ったんだ。
だから、俺はこんなところで――!
「士狼、退いてっ!」
カインの声が聞こえた。いつもの冷静なコイツとは思えないほど、切羽詰った声だった。
右肩あたりを押されて、俺はバカみたいに吹っ飛んだ。吸血鬼のカインが、手加減無しに俺を押し退ける。
次の瞬間。
俺が見ている前で。
カインが腹部を貫かれた。
「――ぐっ、ぁ――」
肺から空気が漏れ出す。
俺はガキみたいに尻もちをついて、その光景を呆然と見ているしかなかった。
「あらら、オレ様としたことが間違えちまった。んー、ゴメンねぇカインちゃん。文句なら殺し合いの最中にオレ様から注意を逸らした、あの白い狼に言ってくれや」
耳元で、そんな言葉を呟く。ついでミカヤは、カインの腹から手を引き抜いた。
ボタボタと血が垂れる。いや、垂れるなんてもんじゃない。人間だったら明らかに絶望的な量の出血だった。
「……っ!」
地面を殴る。自分の不甲斐なさに。
「さあて、まあこんな展開になっちまったわけだし? まずはてめえから死ね、カインちゃん」
四つん這いになって蹲るカインに対し、まるで踏み潰そうとでもするみたいに足を振り上げる。
その瞬間、気付けば走っていた。俺のせいであんな傷を負ったカインに対して、これ以上好き勝手させるわけにはいかない。
「あばよ」
「――チ!」
でも間に合わなかった。
絶望的なぐらいに間に合わない。俺にはミカヤを止めることができなかった。
だから――自分の体で、攻撃を受け止めるしかできなかった。
「がっ――は、っ――!」
カインの前に立った俺の背に、尋常じゃない威力の蹴りがぶち込まれる。
無様に地面を十数メートルも転がって、ようやく止まった。
「ん? ……おいおい、つまんねえことすんなよ白い狼。体を張って誰かを守るなんざ、てめえのすることじゃねえだろうが。にしてもホントに鈍っちまったもんだなぁ? 全盛期の半分以下もねえんじゃねえか? 身体能力、反射神経、銃の腕前――そんなもんが劣ってんじゃなくてよ。誰かと殺し合うってこと自体に、てめえは鈍りきってんだよ。なまくらな日本刀以下だよ、今のお前は」
「……クソ、が」
「あん? 誰に口聞いてんだよ、雑魚が」
頭を踏みつけられる。殺さない程度に、しかし苦しむように。
俺がミカヤに足蹴にされるたび、ドクンと空間が脈動する。
「……いいねぇ。もう少しかぁ? にしてもホント厄介なことだね。ここまで時間がかかるとは思わなかったわ」
凄惨に笑い、権高な目で俺を見下ろし、何度も何度も蹴りつける。
遠くではカインがなんとか体を起こそうとしているが、いかんせん傷が深すぎる。吸血鬼にとって血は命にも等しいという。それをあれだけ大量に失っているんだ。少なくとも回復には時間がかかる。
遠くのほうで俺たちの劣勢にロイが気付くが、あの気色悪い狼を振り切れない。むしろ人間の身でありながら、素手であそこまで立ち回っているロイは賞賛されるべきであって、俺たちの面倒まで見てられないっていうのは自然なことだ。
「ほらほら、痛えだろ? 苦しいだろ? なあ? もっと泣き叫べよ、白い狼」
蹴られる。
ドクンと、空間が跳ねる。
「にしても泣きたくなるぐらい無様だなぁ。戦場で”白い狼”とまで呼ばれたお前が、今じゃあ地面に這い蹲ってオレ様のおもちゃだ。まさかてめえがここまで日和るとは思ってなかったわ」
蹴られる。
ドクン、と空間が跳ねる。
「……んー、もう少しか。よし――おいっ、クソガキぃ! 見てんだろぉ!? 今からてめえの大好きな白い狼が、てめえのせいで苦しむ様をよーく見とけやぁ!」
脇腹を強く踏みつけられる。
――肋骨が、折れた。
「ぐっ――あああぁ!」
ドクン――
「そーら、もう一本」
「あ、ぐ――うぅっ!」
ドクン――――
「はーい、もう一本いっちゃいますねー」
「がっ、あああああああ!」
ドクン――――――
そんな。
音を。
立てて。
空間が。
震える。
「ヒヒヒ、ハハハハ――ヒャーッハッハッハッハ! 来た来た来た来たぁ、ついに来たぞぉ!」
もう俺やカインは用無しとでも言うように、ミカヤが離れていく。
「ぅ、……シャル、ロット――?」
遠く。
鎖で縛り付けられていたシャルロットが立ち上がっていた。
純銀の鎖が手品のように解かれていき、ミカヤの影に潜っていく。
「いいねぇ! 全部っ! なにもかもっ! あらゆるものを曝け出しちまえっ! 通称”悠久の時を生きた吸血鬼”が施した封印も、アホみてえにかかった抑制も、ことごとくを吹き飛ばせぇええええ――!」
――瞬間。
シャルロットの瞳が赤く輝き。
髪留めが弾け飛んで、金色の髪が風にそよぐ。
同時に、圧倒的な規模の火炎が周囲を逆巻いた。それはまるで炎の海みたいで、生い茂った緑が瞬く間に灰燼と化す。時折、蛇のように焔が跳ねて、天高く舞い上がっていく。見上げるのも億劫になるほど長大な火柱が空を焼き、夜を焦がした。
「……っ、月が――」
夜空に照る満月。地球上のどこからでも望めるかわりに、地球上のどこよりも遠いその新円。
いつだって青白かったはずの月が――真紅に、血のように赤く染まっていく。……なんて不気味なんだ。どういう理屈かは分からない。ただ見慣れた月が、血塗られたみたいに真っ赤だというだけで酷く恐怖を感じた。
呼吸さえ困難な威圧。周辺にいた小鳥や猫など、生命の危機を感じてとうに逃げ出している。そこらにある木々でさえ、震えるように幹を揺らして、葉を散らしているというのに。
大地が震え、天が鳴く。
焔を猛らせて、月を従わせる。
まるで、地球そのものが怯えているようだった。
「――やめ、ろぉおおおおおおお!」
痛む体を無視してでも、叫んだ。
シャルロットに向かって手を伸ばす。
けれど、俺がどれだけ懇願して叫んでも、シャルロットは感情のない目で虚空を見つめているだけだった。
「……っ?」
その刹那、小さな音がした。
注意しなければ聞こえないほどの、本当に小さな音が。
小石が落ちたような音にも似ていた。俺は何事かと思い、少し視線を巡らして――――それに、気付いた。
「………っ、ぅぅ」
涙が滲む。それを見た瞬間、こんなときなのに瞳からは涙がこぼれた。
俺の目の前に転がっていたのは、どこにでもありそうな子犬のネックレス。いつだったかは忘れたが、シャルロットが物欲しそうにそれを眺めていたことに気付いて、仕方ないからと買って与えたもの。
あのバカ吸血鬼はさ、本当に信じられないぐらいの大バカだからさ。暦荘にいるときも、みんなと飯食ってるときも、掃除してるときも、家事してるときも、ブルーメンで仕事してるときでさえ、このネックレスをいつも付けてたんだ。
人間じゃないくせに、人懐っこく笑いやがってよ。いつも俺に自慢してくるんだよ。この子犬のネックレス可愛いでしょ、とか言ってさ。……笑っちまうだろ? だってあれ、俺がプレゼントしたんだぜ? そんな安っぽいモンであそこまで喜べるアイツは、間違いなくバカな吸血鬼だよなって――
「――っ、ぁ――!」
そんなアイツがさ。
この子犬のネックレスをさ。
胸元から無くしているのにさ。
――なんでだよ。なんでそんな平気そうな顔してるんだよ? お前いつだって、すっげえ大切そうにしてたじゃねえか。なのに今は――なんで、首からネックレスが無くなったことにも気付かねえんだよ……!
涙を拭き、ネックレスを拾い上げ、立ち上がった。
「……シャルロット」
その呼びかけた言葉は、なんとなくアイツに届いたような気がした。
****
体が熱かった。
心の奥底から何かよくないモノが溢れ出す。
気付けば私の体を覆っていた鎖が消えていた。
なにか――枷のようなモノが外れる。
遠くで士狼がなんか言ってる。でもよく聞こえない。なんでかな?
なんて言ってるんだろう。あ、そっか。消えろって言ってるんだ。あはは、そうだよね。私なんて死ねばいいんだもの。
安心してよ。すぐに消えるから。私みたいなクズ、この世に必要ないもんね。うん、ごめんね、士狼。生まれてきてごめん。
でもね、その前に。
ちょっとだけ、眠っていもいいかな。
さっきからなんだかすっごく眠いんだ。
意識が――途切れてしまいそうで。
もう一人の私が、体の支配権を握っていく。
シャルロットが暗闇に沈んでいく。
その最後。
――シャルロット。
私を心配するような、士狼の声が聞こえた気がした。
****
それは圧倒的な光景だった。
空間は血のように赤く染まり、灼熱の火炎がシャルロットを守るように逆巻いている。生きとし生ける者の尽くを塵へと還す灼熱の業火。およそ一人の吸血鬼が有していい力ではない。
月はまるで彼女に従うかのように真紅へと色を変え、隷属の意志を表していた。
その光景を、宗谷士狼は呆然と見つめることしかできなかった。
「――出た――出た出た出た出たぁあ!」
ミカヤが両手を広げ、唄うように宣言する。
焔が渦巻く。小さく偉大な吸血鬼の少女を中心として、火炎の台風が発生する。まとまりがなく、ただ燃え盛るだけだった炎が集合し、密度を高めていった。
そして――何か、銀色の物体が練成されていく。
「いいねぇ、クソガキぃ! てめえ今さいっこうに輝いてんぜぇ! もっと、もっとだっ! さあ、アレを出せ!」
士狼は言葉もなく、それを見ていた。
炎が意志を持つかのように動き、その中心に銀色をした棒状のモノが見えた。直後、火炎が弾け飛んで――
はたして――”ソレ”は顕現した。
「まさか……銀貨――!?」
カインが息を呑む。
長さにして二メートルはあるだろう。目を奪うような輝きを放つ、純銀の槍が地面に突き刺さっていた。繊細な装飾が施されており、一見して武器というよりは美術品といったイメージに近い。
どこまでも神聖であって、何よりも尊く、いつまでも燦然と煌く。
その純銀の槍を、ミカヤが地面から引き抜いた。
「そのとおりっ! いやぁカインちゃん、てめえはホント優秀だなぁ。ロリババアにも見習わしてやりてえよ」
「っ、……そういう、ことですか」
「察したとおり、これは銀貨だ。それも世界に存在する五つの銀貨の中でも、最大のでかさと純度を持つ、最高の兵器。……んでもって、コレをよぉ。通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の野郎が、よりにもよって自分の娘の力を抑制するためだけに、あのクソガキの体内に埋め込んでたのよ。ケっ、それにしてもお前ら誰一人として疑問に思ったことはねえのか? あのクソガキはよ、通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の娘なんだ。いくら生まれて間もないからといって、あんな程度の力なわけがねえだろうが」
吸血鬼における神話。
神にも等しいとさえ言われたその血筋
シャルロットが持って生まれた力は、通常の吸血鬼とは比べ物にならないほどに強力だった。地を這い天を焼く業火を従え、天空に輝く月さえも隷属させるように。
――しかし。
その強大な力は、シャルロットには重過ぎた。否、およそ一介の生命には抑えきれぬ力だった。
一度開放されてしまうと、森羅万象を焼き尽くさねば止まらないほどに。
「だからこそ、通称”悠久の時を生きた吸血鬼”はコイツの力を封じた。どこまで親馬鹿なんだって話だよなぁ。んで、その親馬鹿は一つの条件が満たされたときのみ、銀貨の抑制が外れるように設定したのよ。その『キーワード』だけは、さすがのオレ様も正確には分からなかった。でも考えてみりゃあすぐにピンと来たわ。本来は必要がないほどの強大な力を、あえて要する時ってのは何時だ? つまり……それが――自身が未曾有の危機に晒されたとき。その根源にあるのが、どこまでも醜く、不吉で、禍々しいほどの――『人の悪意』だ」
ミカヤが跳躍する。
「――んじゃあ、あとは任せたわ。オレ様は"コレ”さえ手に入ればどうでもいいんでね。せいぜい頑張ってちょーだいや」
「ざ、けやがってっ! ちょっ……っ、と待て、やてめえっ! 絶対にぶっ殺してやらぁあああああ――!」
士狼が立ち上がって、拳銃を構える。
「あれぇ、いいの? オレ様に構ってるヒマなんてあるのかなぁ? このままシャルロットちゃんを放っておけば、取り返しのつかないことになんぜ?」
「んだと、クソが――!」
「わざわざ銀貨を用いてまで封じていたバカでけえ力だ。あの百年ぽっちしか生きてねえ小娘が耐えられると思うか? んなもん、人間が生身でジェット機に乗ってるようなもんだ。すぐに限界を迎えんぞ」
「っ――」
シャルロットを見る。
士狼の気のせいでもなんでもなく、火炎の規模が少しずつ広まり始めていた。周辺の若緑が灰燼と化していく。
このままでは恐らく――焔が街を飲み込むのも、そう遠い未来ではない。
「そうそう、最後に出血大サービスだ。シャルロットちゃんを止める方法、教えといてやるよ」
口元を歪めて、ミカヤは指を三本立てた。
「一つ、あのクソガキに自我を取り戻すほどの強烈なショックを与える。まあ今のアイツに近づくことは自殺行為だから、実質ムリだね。二つ、オレ様が持ってる銀貨を再び埋め込む。これもムリムリ、だって今から逃げるもん。そして三つ――」
夜の闇に向かって跳ぶ。
「――あのクソガキを殺すことだ。現実的に考えて、どれがもっとも効率的かは分かんだろぉ? んじゃあな、それなりに楽しかったぜ」
高笑いだけを残して、ミカヤが消えていく。
士狼は咄嗟に追おうとしたが、すぐに止めた。
なぜなら――放ってはおけない、大切な者がいたから――
「……おい、んな顔すんなよ……なあ」
震える声で言う。
子供のように喜ぶのが好きだった。頬を膨らませて怒るのが好きだった。拗ねるとぷいと顔を背けるのが好きだった。吸血鬼なのに、人間よりも人間らしいところが好きだった。食いしん坊の気があるところが好きだった。何事にも努力して頑張る様が好きだった。いそいそと人知れず暦荘の掃除をしているところが好きだった。誤った日本語を使うところが好きだった。人間の常識に少し疎いところが好きだった。ちょっとちょっとー、と膨れながら言う口癖が好きだった。そして――――陽だまりのように、人懐っこい笑顔が大好きだった。
なのに――あんな、感情のない顔をしているのが、士狼にはどうしても許せず――悲しかった。
「白髪野郎、どうなってんだっ!?」
ロイが駆け寄ってくる。体中には爪で切り裂かれたような痕が見られた。
「どうもこうもねえ。……クソ」
「このままじゃマズイぞ。おいカイ――っ、白髪野郎、カインはどこに行った?」
「カイン?」
士狼とロイは周囲を見渡すが、どこにも銀髪の吸血鬼の姿はなかった。さきほどまでカインがいた場所には、大量の血痕が残っているだけだった。
「ああっ! こんなときにどこ行きやがったんだ、アイツはっ!」
ロイが苛立ったように地団太を踏んだ。
「放っとけ。今は時間がねえんだ。シャルロットを止めんぞ」
「止めるったって――お前、もしかして」
ミカヤが言った、三つの条件が頭の中で反芻される。
それらでもっとも現実的であり、効率的なのが――
「お、おいっ! 白髪野郎っ!」
ロイの静止も無視して、士狼は歩き出す。迷うことなく、シャルロットへ向かって。
時々意志を持っているかのように跳ねる火炎も、何もかもを無視して、足を引き摺りながら歩く。
「……俺が責任を取る。俺が、アイツを――」
それだけ呟いて、士狼はロイに背を向けた。
遠く。
灼熱の焔に守護されるようにして佇む、シャルロットの赤い瞳から。
透明色をした、一筋の雫。
――――――涙が、こぼれた。