其の七 『紅想』
月の見えない夜だった。
星の見えない夜だった。
暗雲が立ち込め、そもそもで言えば空さえも見えない。今宵が透き通った黒ではなく、濁ったように見えるのは、きっと空が雲によって覆われているから。
今にも雨が降り出しそうだった。むしろ未だ街が濡れていないことのほうが奇跡に近い。恐らく、もう幾許もしない内に、降雨するに違いない。
「これもやっぱり運命っていうのかしら。アンタはどう思う?」
赤い長髪に灰色の瞳をした少女――ニノは、腰に手を当てつまらなさそうに呟く。
「どういうこと? 貴女、だれ? どうして私のこと知ってるの?」
金色の長髪に深紅の瞳をした少女――シャルロットは、ニノとは裏腹に警戒を保ったまま問いかける。
街の大通りから足一つズレた先にある裏通り。
近くにはラブホテルが密集し、その狭間となる通路に二人はいた。背の高いホテルによる空間の圧迫感は凄まじく、上を見れば細長く切り取られた空が見える。たとえ月が出ていたとして、これでは満足に月光さえも拝めないだろう。
「……そっか、アンタは知らないんだ。それだけ幸福に生きてきたんでしょうね。まあでも、アンタが知らないんじゃ少し味気なさ過ぎるか。自己紹介しておこうかな。ウチはニノって言うの」
「ニノ? ……あ、私は」
「知ってるわよ。シャルロットでしょ? 能天気よね、アンタって。バカって言うのは本当みたい」
「ちょっとちょっと、いきなりバカ呼ばわりは失礼じゃないかな? ニノ……だっけ。さっきから私に何が言いたいのよ」
「別に。……ただ、なんて言うのかな。まさかこんなところで会うなんて思いもしなかったから。ちょっと目的を果たす前に、話でもしてみたくなったのよ」
「目的? 貴女の口ぶりだと私を探してたみたいに聞こえるんだけど、気のせいかな」
「正解。さっきも言ったでしょ? ウチとアンタはこれから殺し合うのよ。それだけのために、ウチは生きてきたんだから」
「――殺すって。なんで? なんで私たちがそんなことしなくちゃいけないの? そんなのきっとおかしいよ。だって」
「はいストップ。さっきから質問してばっかりね、シャルロット。別におかしなことなんてないわよ。吸血鬼と人狼は殺し合うことによって触れ合ってきた。それは自然なことなのよ」
「っ、だからって――!」
「御託はいいでしょ。それとも黙って殺される? たとえ命乞いをされたって、ウチはアンタを倒すわ」
言って、少しだけ寂しそうに笑う。頭部の獣耳が、その笑みに連動してピクピクと動いた。
無防備に立ち尽くしていたニノが構えを取る。武道の型を初めとするような、洗練された構えではない。獣が狩りを行う寸前に見せるような、ただ速く動くためだけの予備動作。
相対していたシャルロットが、じりと足を後退させる。
「……ねえ、ニノ。どうしてもなの?」
「どうしても、よ。こうして出会ってしまった以上、避けることはできない」
冷たい殺気。
昂ぶることも逸ることもなく、ニノは純粋に目標を殺そうとだけしている。
「一つ、聞いてもいいかな」
「なによ」
「ニノって、士狼のこと知ってるの?」
「ええ。あの女心に鈍そうな、白い髪の男でしょう?」
「あのね……その、……士狼、元気そうだった?」
「元気かどうかは知らないけれど、怒ってはいたわよ。自分の家のとなりに住んでるバカで泣き虫な女を、絶対に連れ戻すんだってね」
ニノがため息とともにそう言うと、シャルロットの赤い瞳に涙が浮かんだ。
「……なるほど。士狼の言ったとおり、アンタって泣き虫なんだ」
「べ、別に泣いてなんてないもんっ!」
袖でゴシゴシと涙を拭う。
「微笑ましいな。……ねえ、シャルロット。ウチはアンタに好意さえ感じるわ。だからこそ残念で、同時に嬉しい。だって殺し合う関係でなければ、きっとウチたちは出会うことすらなかっただろうから」
「どうして――? 吸血鬼と人狼ってだけでしょ? おかしいよ、そんなの。それだけで殺し合うって、絶対におかしいよっ!」
「それだけじゃないのよ。ねえ? 通称"悠久の時を生きた吸血鬼”、その娘であるシャルロットさん。ウチがヘルシングとして生まれた以上、どうしてもアンタを殺さなくちゃいけない。だって、だってね、そうしないと――」
パパとママが――と。
ニノは震える声でそう言った。
「ヘルシング……。うーん、なんとなく聞いたことがあるような」
「はあ、緊張感ないわねシャルロット。ハッキリ言って、今アンタがぼんやりとしてた瞬間に、ウチなら二度は殺せてた」
「ぼ、ぼんやりとなんてしてないもんっ! 私はいつだって警戒心バリバリだもんっ!」
「あはは、ウソばっかり。……うん、なんだか楽しいな。もしウチに友達とか、そう呼べるだけの存在がいたとしたら――それってきっと、こんな感じなのかな」
「そうだよ、きっとっ! 今からでも遅くない、全然遅くないんだからっ! 私はニノとお友達になりたいよっ!」
「――今からでも遅くない、か。……そうね、せめてあと数百年早く、ウチたちが生まれて、そして出会っていれば――きっと、友達になれたでしょうね」
それは本当に。
どこまでも孤独で、寂しそうな――そんな笑み。
「さあて、お喋りは終わりよ、シャルロット」
「待って、だってまだ――!」
「もうムリ。これ以上時間を掛けたら、もしかしたらアンタを探し回ってる士狼がここに来るかもしれない。だから――」
「え、士狼が……私を」
シャルロットの顔に人懐っこい笑みが浮かぶ。
自分をまだ探してくれているんだ――そう思うと、ダメなのに、暦荘に戻っては絶対にいけないのに嬉しくなってしまう。
「――笑うのは勝手だけど、死ぬわよ」
すぐ耳元で声がした。
我に返ったシャルロットは、さきほどまで相対していたニノの姿がないことに気付く。
――それもそのはず。ニノはすでにシャルロットの右方に回りこんでいたのだから。
「っ――ニノっ!」
咄嗟に後退しながら、シャルロットは自分に放たれる裏拳をなんとか避けた。
吸血鬼の彼女を持ってしてさえ、反応が間に合わない閃光の動き。他者を圧倒するニノの身体能力は、近接戦闘においてその効果を存分に発揮する。
「遅いっ!」
ひゅん、と空気を切り裂く音がした。
ムチを連想させる回し蹴り。ニノが自身の体を限界まで捻り、腰から足先にまでかけてブレることなく力を伝え、およそ考えられる限り極限の蹴りを放った。
シャルロットはそれを視認することすら難しく、ただ反射するままに両腕で頭を守り、体を縮こまらせた。
「きゃあっ!」
――右腕にズンっ、とハンマーでぶん殴られたかのような衝撃。
体勢を崩し、シャルロットは強力なエネルギーによって吹き飛ばされる。
距離が開き、ニノが再び接近する間に体勢を立て直す。
「痛っ――」
身体を支えようと地面に突き立てた右腕に鈍痛が走った。
折れてはいないだろうが、しばらく使い物にならないことには変わりない。
自身に肉薄するニノを、シャルロットはその赤い瞳を細めて捉えていた。
――精神を極限まで集中させる。頭の中にはあるものは、ただひたすらに燃え盛るイメージ。ごうごう、と火炎があらゆるモノを焼き尽くしていく風景。
左腕を前方に伸ばし、シャルロットは念じる。
「――燃えろっ!」
発声した瞬間、恐らくその声こそが合図。
シャルロットとニノの中心に炎のカベが出現する。地面に落ちていた紙クズやらゴミが刹那の間に灰となっていく。
「チ――!」
眼前に突如現れた火炎を前に、ニノは忌々しげに舌を打つ。
即座に軌道を変更。直線を阻まれたのならば、曲線を描いて接近すればいいだけの話。
ニノは跳躍し、切り立った崖のようなホテルの側面を蹴って、三角跳びの要領で炎のカベを乗り越えた。
「……やだな、ニノって凄いね」
あはは、と弱々しく笑う。
いまだに右腕は強く痺れていて、とてもではないが戦闘に使えるとは思えなかった。
「炎……発火能力者、ね。今まで何度か見たことはある、あるけどこれは――」
どこかがおかしい、とシャルロットを注視する。
なんとなく、本当に確信とか根拠の類はないが、ニノはさきほどの炎に微かな違和感を覚えた。それは言うならば、何か――そう。シャルロットという存在の中に巨大な火炎があって、そこから漏れ出したのが先の発火のような。
――それに。
本当に一瞬、恐らくシャルロットが燃えろと念じて叫んだ、その僅かな間だが――ニノは、ミカヤが持っていた”アレ”の気配を感じていた。
「……ふうん。なんだか分からないけど、やっぱりただの吸血鬼じゃないみたいね」
「違うよ。私は普通だもん。――ただの、吸血鬼Aだもん」
「それこそ違うわ。通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の血を引くアンタがよく言えたものね」
「――関係ないもん。私は、ただのシャルロットだもんっ!」
「はいはい、全く子供みたい。……でも、おかしいな。通称”悠久の時を生きる吸血鬼”の娘にしては力が弱すぎる。まるで――」
抑制されているみたいだ――と。
ニノは続く言葉を飲み込んだ。
「……わたし、全然特別なんかじゃないんだから」
呼吸を乱しながらシャルロットが立ち上がる。
「それはどうかしら。自分自身でどう思おうと関係ないんじゃないかな。結局、評価を下すのは周りの連中なんだし。アンタが悠久の時を生きる吸血鬼と呼ばれ、ウチがヘルシングと呼ばれてきたのと同じようにね」
「あはっ、そうなら私はきっとただの吸血鬼だよ。だって士狼も、雪菜も、千鶴も、大家さんも、周防も、みんなみんな――私をただのシャルロットとしか呼んでくれなかったから」
「――だとしても。そこから逃げ出したアンタの評価を、今度は誰が下すのでしょうね?」
「……そ、それは」
笑顔が曇る。
忘れていたわけではなかったが、もう一度思い出したのだ。――暦荘にはすでに、自分の居場所なんてどこにも無いことを。
「そうよ、結局ウチたちは幸せになんてなれない。……知ってる? 昔々、ただ両親と一緒にいることだけを望んだバカな子供がいてね。経過を語るのは愚かしすぎて省くけど、結果としてその子供は愛する者を全部失った。きっと”ヘルシング”に生まれなければ、その子供は少なくとも両親と――」
拳を握り締めて、ニノは俯く。
赤い長髪が顔を覆い隠し、ただ悲壮に歪む口元だけが見えた。
「アンタだってそうでしょう? ねえ、悠久の時を生きる吸血鬼さん。たとえペットや友人、優しい家族に、誰よりも愛する人――そういった自分なりの幸せを見つけたところで、最終的にはどうなる? 他者とは違う時の流れを生きるアンタは、どうせまたひとりぼっちになる。通称”悠久の時を生きた吸血鬼”の娘という生まれが、いつまでもアンタを縛り続ける」
分かってはいた。考えたこともあった。
けれど必死に頭の隅へ追いやっていた事実を突きつけられ、シャルロットは唇を強く噛んだ。
それを見たニノも辛そうに首を振った。
「……ゴメン。こんなつまらないことを言うつもりはなかった。けど間違ってはいないわ。シャルロットも、ニノも、どうせ一人になるの」
「だとしても、私は……諦めたくないよ、ニノ」
「よく言うわね、逃げ出したアンタが」
「――逃げてなんかっ! ……ない、もん」
「……ふん、そんなに泣きそうな顔で言われても説得力ないわよ」
ごしごし、とシャルロットは袖で瞳を拭った。
「ダメね、ウチ。御託はいいとか言っておきながら、またこうやって無駄話してる。アンタを見てると、どうも殺し合いをする気にならないのよね」
「っ、だったら――」
希望に満ちた顔のシャルロットに対し、ニノは失意に彩られた顔で首を振った。
「それは出来ない。ねえ、シャルロット。通称”悠久の時を生きた吸血鬼”を殺すってこと、ウチのパパとママが願ったことなんだ。だから――」
言葉を置き去りにして、紅い少女が疾走する。
「選択肢は一つしかないのよっ!」
繰り出される猛攻。
シャルロットは感覚のない右腕に鞭を入れながら防御に専念する。
――それでも無理であった。元々の身体的な性能において、ニノはシャルロットを上回る。その上、右腕が使えず、さらに休息もなく街を彷徨っていたシャルロットが満足に戦えるはずもなかったのだ。
防御の合間をすり抜けて、的確にダメージが与えられる。
それでも致命傷となる一撃だけはなんとか避け、ボロボロになりながらもシャルロットは耐えた。
「しぶといわね、シャルロット」
恐らく日本刀よりも鋭いであろう手刀が放たれる。
――ダメだ。アレは触れてはいけない類のもの。手で受け止めるのではなく、避けきらなければ――
「くっ……!」
上体を逸らし、シャルロットは命からがら回避に成功する。
――ピンっ、と音がした。
「あっ!」
呆然としたような声。
シャルロットの首にかかっていた子犬のネックレス。宗谷士狼からもらった大切なネックレスが、手刀の風圧によって首から外れる。
輝くそれは宙を舞い飛んでいく。シャルロットは戦闘中にも関わらず、そのネックレスの行方を追い、そしてキャッチした。
「――終わり、ね」
シャルロットがネックレスを捕まえた瞬間だった。
背後からニノが忍び寄り、そのうなじに手刀を放った。
「……あ、ニ、ノ――?」
ふらり、と体が傾ぐ。
急速に意識が沈んでいくシャルロットは、それでも握り締めたネックレスをこぼすことはなかった。
無防備に倒れた身体。金色の髪が地面に広がっていた。
「本当にバカね、シャルロット。戦闘の途中に変なこと気にするからよ」
その場にしゃがみ込み、眠るようにして沈黙するシャルロットの頬を撫でる。
ニノは今をもって、シャルロットにおける生殺与奪の権利を握った。
「まあでもその前に――ミカヤが言ってたっけ。シャルロットを捕まえる機会があったら、殺す前に自分の元へ連れてこいって」
ふう、とため息をつく。
「アンタを殺すのはそれからね、シャルロット」
白磁のような白い頬。
倒れた際についた汚れを、ニノは指で拭ってやる。
「……よほど大事だったんでしょうね、そのネックレス。察するに、士狼からもらったモノかな? ――でもまあ、そんなに大事なら」
ニノは強く固められた拳をほぐし、その中から子犬のネックレスを取り出した。
そしてシャルロットの首に取り付けてやる。
「せめて死ぬときぐらいは一緒がいいでしょ」
寂しそうに笑う。
ニノは意識を失ったシャルロットの身体を担ぐ。
ミカヤの元へ連れて行くためだ。
――そうして金色の吸血鬼と、紅い人狼はその場を去った。
街外れにある廃墟。
かつて小さな診療所があったその場所は、現在においても、建物が取り壊されることなく原型を留めている。周囲に民家などはなく、そもそもで言えば人気が無い。街の開発が及んでいないのだろう、そこには豊富な緑があった。
端的に言えば、まるで森の中に医院が建っているような印象を受ける。なぜそのようなところに診療所があったかと聞かれれば、答えには窮する。お世辞にも立地的に恵まれているとは言えない。きっと客足に伸び悩み、閉院したのだろう。
人を治療するには向いていない場所でも、悪が潜むには十分な場所であった。
廃墟の中に粗大ゴミのような扱いで放置されている診療用ベッド。そこに腰掛けていたミカヤは、見知った気配を感じて立ち上がった。
「……ふむ。この気配、シャルロットさんかな。つまり」
ガチャと音を立てて扉が開く。
古い書類やガラスの破片が散乱したリノリウムの床に踏み入る足。
小さなランプのみが光源の薄暗い部屋に、ニノが入ってきた。
「ほう、これはこれは――」
強く感嘆するような声。
それも当然。ミカヤの視線の先――そこにはニノに担がれたシャルロットの姿があったのだから。
「ミカヤ、本当に偶然に会って、戦って、そして勝ってきた。約束どおり、殺す前にアンタの元へ連れてきてあげたわよ」
よいしょ、とシャルロットを診療用のベッドに寝かせる。
「いやぁ、さすがに驚きましたよ。まさか本当にシャルロットさんを捕らえてくるとは」
「とか言って、ミカヤならいつでもこの子を捕まえられたんじゃないの? だって隙だらけだしね、彼女」
「どうでしょう。ただ捕まえるだけでは意味がないんですよ。シャルロットさんの周囲の人間を傷つけることに意味があります。だからボクはひとまず彼女を後回しにしました。……けれど、さすがヘルシングですね。これも運命ですか、まるで引かれあっているかのようだ」
それはミカヤにしては珍しく、本当に感心しているかのような声色だった。
反対にニノはどこかやる瀬なさそうに、リノリウムの床につま先をトントンと打ち付けていた。
「ニノ。アナタの両親が渇望した悲願が、ようやく果たされるのです。もっと喜んだらどうですか?」
「……喜ぶ、か。なんでだろう。ようやくって感じなのに、なんでか嬉しくないな」
「ふうむ。まあアナタの胸に去来する感情まではケアできませんが、とにかく賛辞を送らせていただきますよ。おめでとうニノ」
「ありがと、と言っておくわ」
そっぽを向いて、呆とした様子で俯く。
ミカヤはベッドに眠るシャルロットを見下ろし、ニヤリと口の端を吊り上げた。
「――クク、いいですねぇ」
「そんなことはどうでもいいから、とっととミカヤの用件ってやつを済ませてくれない? その後なら殺してもいいんでしょ?」
「はいはい、そう急かさないでくださいよ」
機嫌の良さそうな声でミカヤは応じ、ニノに振り返った。
「あ、そうだ。ニノ、ちょっと後ろを向いてもらえますか?」
ぽん、と手を叩いて思い出したように言う。
「いいけど。……なに? 変なことしないでよね」
気だるそうな所作でミカヤに背を向けたニノは、腰に手を当てて佇む。
「ありがとうございます。それでは、ニノ」
「うん? なによ。とっとと」
――ブスリ。
仮にその光景に音をつけるとするならば、先の表現が正しい。
小さなランプのみが光源の仄暗い部屋。人を治療するには向いていなくとも、悪が潜むには十分な場所。
「……え」
ニノは身体に異変を感じた。
背中から腹部にかけてまで、灼熱の線が通ったみたいに熱い。ついで微かな痛みを感じる。
ゆっくりと下を見る。……ふむふむ、とニノは思考した。なんだか分からないけど、お腹から透明なオブジェクトみたいなものが生えているなぁと。それはどこからどう見てもガラスの破片であって、ちょうど細長くナイフのような形状をしている。
――と、ニノが確かめたところでガラスが消える。
「ぐっ、あ――!」
否。
ナイフのようにして、背後から突き立てられたガラスの破片が抜き取られた。
「いやぁ、本当にお疲れ様でした。今まで色々と大変だったでしょう? そろそろどうです?」
――お父さんとお母さんに会いにいかれては、と。
ミカヤは三日月のように歪んだ口で、そんなことを呟いた。
「……ウ、そ……え、なん、で――?」
腹に手を当てて確かめる。
ランプの明かりに手をかざせば、そこには真っ赤な血がついていた。
――ようやくニノは気付く。
自分はミカヤに背後からガラスの破片を突き立てられ、腹部を貫かれ、そして――裏切られたのだということに。
「ん、どうしましたぁ? そんなに茫洋とした顔をして。あらら、もしかして裏切られたとか思っちゃってますぅ?」
「っ――ミカヤぁ……!」
「可哀想なニノちゃん。両親を亡くし、生きる気力を無くし、ただ吸血鬼を殺すためだけに世界を巡り、そしてようやく悲願を果たせると感慨に浸ったその瞬間、なんとっ! その少女のとなりにいた男は、ずっと彼女を騙していたのでした~」
パチパチ、と劇の終演を示すように拍手する。
「……アン、タって、ヤツは――!」
ニノが左手で腹部を押さえながら、右手でミカヤに掴みかかる。
スーツの胸元を握り締められた彼は、やがて帽子の奥から金色の瞳を覗かせた。
「――てめえうぜぇよ。使い終わった道具が、持ち主に対してキャンキャン吼えてんじゃねえ」
冷酷な笑みを浮かべたミカヤが、自身に縋り付くニノを蹴り飛ばす。
「――くっ!」
防御することも受身を取ることも出来なかったニノは、吹き飛ばされた結果、部屋の壁に強く背中を打ちつけた。
いくら人狼といえど、鋭い刃物状のモノを筋肉だけで受け止めることは不可能だ。油断していたこともあったのだろう。ニノはどれだけミカヤを信用していなかったとしても、彼が自分を裏切ることだけは考えていなかった。
「いやぁ、にしてもホント便利な道具だったわ、お前。アホみてえに正直だし、オレ様が言ったことは大抵信用しやがるし、ガキのくせに無駄に強えし、おまけに見てくれも良かった。もっと手元に置いてやっても良かったんだが、ここでシャルロットちゃんを殺させるわけにはいかねえからよぉ。つーわけで、てめえに死んでもらうことにしたってわけ。分かるー?」
「……ミカヤ、本当なの、それって」
「ああん? まだ信じらんねえの? ――クク、いいねぇその絶望に満ちた顔。普段の澄ましたツラよりよっぽど興奮すんぜぇ、ギャッハッハッハッ!」
腹を抱えて勘に触る笑い声を上げる。
「なん、で――どうして、いつから? 最初から裏切るつも、りだったの……?」
「それは楽しい質問だなぁ。いーつーかーらー? んー、いつからだったかなぁ。てめえはいつからだと思うんだ、ニノ」
問われてニノは思考する。
――狡猾で頭のキレるこの男のことだ。きっと後継人を引き受けたときから――
自分なりの答えを言うと、ミカヤは首を横に振った。
「残念、不正解だ。ぜんっぜん認識が甘えよ。――言ったろ? 最初から。本当に最初からだ」
「――?」
「まだ分かんねえか。じゃあこう言えばバカなお前でも分かんだろ。――てめえのパパとママ。誰が殺したのかなぁ? んー?」
ぞわ、とニノの赤い髪が毛羽立つ。
――まさか、まさか、まさか、まさかまさかまさかまさかまさか――!
「大正解。察したとおり、お前の大好きな両親を殺したのは――なんとっ! このオレ様でしたとさ」
「――なん、ですって……!」
「いやぁ、アレはマジにウケたわ。ヘルシング一族の力は利用するだけの価値があるからよ、お前の両親に取り入ったのよ。バカみてえに気のいいアイツらは簡単にオレ様を信用しやがった。ヘルシングが通称”悠久の時を生きた吸血鬼”を追っていることは衆目の事実だからよ。オレ様もそれに便乗させてもらったわけ」
楽しげに語るミカヤに、ニノはこれほどまでにない怒りを感じた。
爆発寸前の火山があるとすればそれだろう。ただし意思に反して、身体が動いてくれない。今をもって血を垂れ流し続ける腹部が、強く痛んでニノの活動を阻害する。
「――ところでニノ、質問だ。お前の大好きなパパとママが望んでいたこと、分かるか?」
「通称”悠久の時を生きる吸血鬼”の抹殺……そして一族の、悲願でもあること」
「ヒヒ、ハッハハハハハハハハ! 言うと思った、マジで言うと思ったっ! いやぁ、勘違いもここまで来れば尊敬すんぜ」
「勘違いですって? ……どういうこと、よ」
「教えてやるよ、ニノ。どうしてお前の両親がオレ様に殺されたか。――アイツらはよぉ、ヘルシングのくせしやがって、通称”悠久の時を生きる吸血鬼”を追うのを止めるとか言い出しやがったんだよ。なんでだと思う?」
思考するニノに、間髪いれずして答えが投げかけられた。
「――お前のためだよ、ニノちゃん。てめえのパパとママは一族の悲願より、てめえと一緒に暮らすことを選んだんだ。いつまでも過去に縛られてても意味がないってな。それよりも大事な娘と、少しでも長く幸せに暮らしたいってな。バカみてえだろ?」
「――そんな。ウソよ、だってパパとママは」
ずっと教えられてきたはずだった。
自分たちが倒さないといけない悪いヤツがいるんだと。
そのために、家族三人でずっと一緒にいることができなかったのに――
「飽きもせず迷ってたみたいだぜぇ? 一族の悲願を取るか、娘を取るか。その挙句にアイツらはお前を選んだんだ。だ、か、らぁ――」
オレ様が殺しましたー、と。
金色の瞳を愉悦に歪ませて、ミカヤがそう言った。
「いやぁ、あれほど愉快な事はここ数百年の中ではなかったね。さっきのお前と同じように、オレ様を信じきっているアイツらに後ろ向かせてナイフでブスリ――ク、思い出すだけで笑いが止まらねえ。早々に父親のほうをぶっ殺してよ、母親はお前に似てそりゃあ美人だったからな、女に生まれたことを後悔するぐらい弄んでやったよ」
ヒッヒッヒ、と下劣に笑う。
「……アンタ、まさかママを――」
「ご想像にお任せしまちゅね~ニノちゃん。――ヒヒ、でもよぉ。殺す間際に、てめえ等に代わって娘を利用してやるって言ってやったときも愉快だったわ。それだけは止めてください、自分たちはどうなってもいいです、ニノだけはどうか傷つけないであげてください~って懇願してきてな。ま、ウザったらしく纏わりついてきやがったから、罰としてせいぜい苦しめてから殺してやったけどな」
「――う、そ」
「そんでお前を利用してやろうと決めたわけよ。バカ正直に吸血鬼を殺して回っちゃって、側で見ていて笑いを堪えるの大変だったわ。いや、それじゃあパパとママも報われねえなぁ? お前の両親が願ったことは、通称”悠久の時を生きる吸血鬼”の抹殺じゃなく、チンケなてめえの幸せだけだったってのによ。親不孝なニノちゃんだ」
「……ぱぱ、まま……」
呆然と両親の顔を思い浮かべ、ニノは過去を振り返っていた。
優しいところが好きだった。叱ってくれるところが好きだった。少し自分に甘いところが好きだった。怒ると怖いところが好きだった。いつまでも相思相愛な両親が好きだった。何かしらの成果を出すと褒めてくれるところが好きだった。
――ぜんぶ、本当に全部。
嫌いなところなんて一つもなかった。誰よりも愛していた人たちだった。パパとママのためなら、たとえ世界中を敵に回したってよかった。他には何もいらなくて、ただあの人たちが側にいてくれるだけでよかったのに――
「ぅぅ……パパぁ、ママぁ……!」
一つ、過去を思い出すだけで。
瞳からは涙が溢れた。しとどに、雨のように、懺悔するように。
「あらら、泣いちゃった。泣き叫ばれてもうぜぇし、ニノ、てめえそろそろ死ねや」
パチン、と指が鳴る。
漆黒の狼がミカヤの影から出現し、ニノに襲いかかろうとする。
「っ――!」
頭ではなく身体が動いた。死んでもいい、そうすれば両親に会いに行ける――そう考える頭とは裏腹に、娘の幸せを願った両親の想いに突き動かされるように、ニノの身体が動いた。
瀕死の身体を奮い立たせて、ひび割れたガラスの窓を突き破る。
そのまま闇に紛れるようにして、ニノは這々の体で、命からがら逃げ出す。
「ケっ、しぶとい女だ。……でもまあ、生きたいと願うならそれもいいかねぇ。いつまでも自分の愚かさに苛まれながら生きる――んー、いいねぇ。オレ様ってなんて優しいんだろうなぁ」
ミカヤはベッドで眠っているシャルロットに目を向ける。
「……クク、本当に欲しいモノは手に入った。こりゃあ間違いねえな。――オレ様と同じだ。やっぱり、”アレ”で抑制されてる」
闇夜の廃墟に笑い声が響く。
長い時を共有した少女を裏切ったはずなのに、僅かな罪の意識も見られない。
「もうすぐだ。あとは……『人の悪意』か。そろそろ”白い狼”にも役に立ってもらっちゃうかなぁ。さあて――どいつもこいつも、オレ様の掌で踊ってもらおうかね――」
愉しいと、哂う。
ミカヤの目的はもうすぐ果たされようとしていた。
――雨が降っていた。
まるでバケツをひっくり返したかのような豪雨。
身体を打ち付ける針のような水滴が、体温を少しずつ奪っていく。
いまだに出血し続ける腹部を押さえながら、ニノは足を引きずりつつも歩いていた。
灰色の瞳からは輝きが消え、透き通るような白い肌は薄汚れ、血の通った小さな唇は紫色になっている。
人狼の強靭な生命力がなければ、きっと彼女はすでに死んでいるだろう。
あまりに強い雨のせいか、街には人が見当たらなかった。歩けど歩けど孤独。今のニノには、この大きな街が自分の墓場のようにも思えた。
死にたくはない。だからといって生きたくもない。――むしろ、何もしたくなかった。
全てを投げ出して今は眠りたい。……ああ、そうだ。不思議と瞼が重くなってきた。今ならすぐにでも眠ってしまえる。
ふらり、と身体が傾ぐ。
世界が回転するような感覚。地面に足がついているのかも分からない。打ち付ける雨が、ただ体温を奪っていく。
――ああ、ウチ、死ぬんだ。
そう頭の中で、ぼんやりと思った。
走馬灯ではないけれど、滝のように様々な想いが流れた。
――でも別に死んでもいいかな。生きてたって意味ないし、ウチが死んでも悲しんでくれる人なんていないし。この世にいてもパパとママに会えないんだから、いっそあの世に行って謝るのもいいかもね。ごめんねって、そしてありがとうって言いたいな。……言えればよかったな。
ねえ、ウチこんなに大きくなったんだよ? きっとパパに負けないぐらい強くなったし、ママに似てすんごく綺麗な女の子になったんじゃないかな。あっ、そうだ。今まで友達と呼べる子はいなかったけど、ちょっと気が合いそうな女の子を見つけたんだ。うん、今ならきっと……パパとママが願ってくれた通り、あの子と友達になって、人並みの幸せを掴めるような気がするよ。
でもよく男の人には可愛くない性格って言われるの。なんでかな、もしかしてウチって冷たいのかな。せっかくママ似の美人になったんだから、一度ぐらいドキドキしちゃうような恋もしてみたいよね。女の子として生まれたからには、ロマンチックに初夜を迎えて、大好きな人の子供を生みたいな。
やっぱり恋って楽しいものなのかな? よく街中で仲良く歩いている男女を見るけど、みんなとても幸せそうな顔をしてるよね。でも時々、辛そうに喧嘩してるのはなんでかな? ウチには……ぅぅ、経験ないから分かんないや。ちゃんと女の子として、初めては、大好きな人とって決めてるんだ。
そうそう、ちょっとだけ……あっ、ほんのちょっとだけだよっ? 最近さ、ホントにちょっとだけ、この人はなんか違うなぁっていう男の人を見つけたんだ。ウチたちと同じで、ちょっと狼っぽい名前をしててね。ウチのこと少女Bなんて呼ぶんだよ、失礼だよね。でもBってことは、やっぱり少女Aもいたのかな? ……あぁ、なるほど。きっとあの子のことかな。でね、今度とても美味しいコーヒーをご馳走してくれるんだって。楽しみだなぁ。喫茶店とかかな? ウチとその人で、日当たりのいい窓際の席とかで、向かい合ってコーヒーを飲んだりして。うん、それぐらい夢を見てもいいよね――
流れては消えていく想い。
それは何よりもありふれているのに、もはや決して叶うことはなく、そしてどこまでも遠い――少女にとっての、理想郷。
「……ふふ、バカ――みた、い」
瞳からしとどに涙が溢れる。
身体が宙に浮く感覚。
これで――ようやく、パパとママに――
「――お前っ! ……おい、大丈夫かっ! なに血ぃ流してんだよ、起きろバカ!」
その最後。
少女は自分の身体を支える、白い髪の男を見た。