其の五 『突然』
俺たち暦荘の日常が崩れ去ったのは本当に突然のことだった。
昨日の夜、大家さんが暦荘の前で倒れている雪菜を見つけた。よく見ると、雪菜は全身に深い傷を負ってる。大家さんは慌てて雪菜を病院に連れて行き、検査してもらった。幸いにも死に至るような怪我はなかったが、全身打撲、頭には裂傷が見られ、煌びやかな和服はボロ雑巾のように汚れていた。
病院で僅かに意識を取り戻した雪菜は、何故か入院を拒否した。当然医者から――いや、大家さんも強制に近い勢いで入院を勧めたらしい。それでも雪菜は、頑なに首を縦には振らなかった。
俺がその事実を知ったのは、大家さんと雪菜が病院から戻ってきた後だった。
雪菜は暦荘に着いた途端に、意識を失うようにして眠りに落ちてしまった。自分の家に帰ったことで安心したのか、それとも気が抜けたのか。それはどちらか分からない。けど、きっとどちらでもあると思う。
暦荘に残っている住人は――俺、姫神、周防、大家さん、そしてシャルロット。夜にも関わらず、皆、自分の部屋ではなく大家さんの家に居た。
まるで通夜のような雰囲気。誰一人として口を開かない。……それも当然だ。誰がどう見たって、雪菜は事故じゃなく故意に暴力を振るわれたと分かるのだから。せめてもの救いと言えば、雪菜の体に性的暴行の痕が見られなかったことか。
――平和で寝惚けていた頭がようやく覚醒した。やはり俺が感じた不吉は、気のせいではなかった。あの時、あの駅前、あの人込みの中で、一人の男とすれ違ったとき。俺が何かしら行動に移していればよかった。
きっと雪菜を傷つけたのは俺だ。本当なら男の俺が、女のアイツを守ってやらないとダメなのに。
「……クソ、どうなってるんだ」
重苦しい沈黙を破る声。
顔を上げれば、周防が憤怒に顔を染めていた。
姫神は気弱にお茶を飲んで、シャルロットと大家さんに限っては我慢できずに泣いていた。
「こりゃあ絶対に警察沙汰にしたほうがいいと思う。沙綾さん、何で連絡しないんです?」
「……雪菜ちゃんの希望です。絶対に警察には連絡するな、と」
「――っ、でもさ。あんなに怪我してるんだぜ!? 分かってるのか、みんな。雪菜ちゃんは普段大人びて見えてもさ。まだ高校生なんだよ。女の子なんだよ。そんな彼女に乱暴したヤツがこの街にいるかもしれないってのに、黙って茶でも飲んでろっていうのかよっ!」
「落ち着け、周防。ギャーギャー騒いだところで何も変わらねえよ」
「んだと宗谷。お前ケンカ売ってんのかよ」
周防が立ち上がって、俺の胸倉を掴む。
「てめえうるさいんだよ。もう少し黙れ」
「分かった。お前を黙らせてから僕も黙ることにするよ」
「だからうるせえって。……雪菜が起きたらどうするんだよ」
「――っ」
振りかぶった手を止める。
となりの部屋で雪菜が寝ていることは、当然周防も知っている。だからコイツは俺を殴るよりも、雪菜を労わることを優先したのだ。普段はおちゃらけていても、大切な判断を誤るような男ではない。
「止めろ二人とも。今は身内で争っている場合じゃないだろ。……一番辛いのは、雪菜ちゃんなんだから」
姫神が沈んだ声で仲裁する。
「分かったよ。……宗谷、悪い。少し頭に血が上ってたみたいだ」
「いや、悪いのはお前じゃねえよ。気にすんな」
互いに謝罪して、俺たちは再び腰を下ろした。
それにしても、一体何が起きているのだろうか。『現在の状況』という結果を、引き起こした原因に全く心当たりがない。――いや、無理やりでもいいなら、いくらでも心当たりをつけることはできる。例えば世界中で、俺を目の敵にしてる人間は数多くいるだろうから。
しかし仮にそうだとして、どうして俺を真っ先に狙わない。何故こんな回りくどいやり方をする。――俺が狙いではないのか? 初めから雪菜のみを傷つけるのが目的だったとでも言うのか。
どれだけ考えたところで答えは出ない。
ただ恐怖があった。俺自身が狙われることに、ではなく、暦荘の誰かが傷つく現実に。
――もう夢で見ることもなくなった過去を思い出す。俺が、養父と養母と呼んだ人。そして俺の目の前で――死んだ人。
絶対にイヤだ。あんな思いをするのだけは絶対にイヤだ。あの時は世界の理不尽や不条理を知らないただのガキだったが、今は違う。誰かを守る力を持っている。本来ならば俺は、人を殺すためではなく、守る力を得るために両手を血に染めたのではなかったか――
ならばやるべきことは決まっている。雪菜を傷つけたヤツを見つけ出してぶっ殺してやる。手がかりが無いわけじゃない。俺が探すべきは、恐らくあの黒いスーツに帽子の男なのだから。
「周防、お前悔しいか?」
「いきなり何言ってるんだよ。悔しいに決まっているだろ」
「姫神、お前可哀想だと思うか?」
「――? ああ、それは当然だ。もしも変われるなら、私が雪菜ちゃんと変わってあげたいぐらいだ」
「大家さん、雪菜をあんなにしたヤツが許せませんか?」
「当たり前ですよ。女の子に暴力を振るう人なんて正気とは思えません」
「シャルロット、お前――ここでの生活が大事か?」
泣いていたシャルロットに問うと、彼女は赤い瞳を潤ませながらも頷いた。
「――うん。何よりも大事。今の私にとって、本当にかけがえのないモノだよ」
それで心が決まった。
「分かった。お前らの気持ちは痛いぐらい分かったからよ。今日はもう部屋に帰って休め」
心身共に磨耗している皆を見て、俺は一度解散するべきだと考えた。
初めは傷ついた雪菜を他所に休むことなどできない、と皆渋っていたが、大家さんと俺が徹夜で看病すると告げれば、不承不承、引き上げていった。
「……士狼、大丈夫だよね」
最後まで部屋に帰らなかったシャルロットは、俺にそんな言葉を投げかけてくる。
「ああ、当たり前だろ。雪菜はすぐ元気になるし、もう誰も傷つくことはねえ。またすぐ元の生活に戻れるさ」
「そう……だよね。なんでかな、士狼にそう言われたら安心してきちゃった」
「単純なヤツだな。ついでにそのまま寝ちまえよ。ほら、とっとと自分の部屋に帰れ」
「うん。じゃあゴメンね、士狼。おやすみなさい」
ペコリと頭を下げて、シャルロットが翻る。
「……おい待てよ」
その背中がいつもよりも小さく見えて、俺は思わず呼び止めていた。
「うん? どうしたの、士狼」
「あのよ、なんていうか……」
勢いに任せて言いたいことを言ってしまえばよかったが、一度タメてしまった為に、それも無理だった。
俺をじぃーとバカ正直に見つめる気配がする。お座りを命じられた犬みたいなもの、と言えばイメージ的にピッタリかもしれない。
やがて黙っていても仕方ないと観念し、俺はコホンと咳払いしてから言った。
「……その、なんだ。お前は別に一人じゃねえんだ。だからそんな寂しそうな顔すんなよ」
「――うん。えへへ、ありがと」
瞳を袖でゴシゴシと拭いたシャルロットは、小さく笑みを浮かべて大家さんの家を出て行った。
シャルロットを見送った後、俺は雪菜が寝込んでいる部屋に入る。そこは客間の一つで、中央に布団を敷いて雪菜が寝ている。その隣に、寄り添うように大家さんが座っていた。
「ところで大家さん、久織のヤツはどこ行ってんですか? ブルーメンにも一度来てましたよね、確か」
立っているのも何なので、俺もあぐらを掻いて座る。
雪菜は比較的穏やかに眠っていた。呼吸も安定している。その顔に治療の痕さえなければ、ただ睡眠しているようにしか見えないだろう。
「彼女は今、仕事でロシアに行っているみたいです。確かにこんなときあの子がいれば、と私も思いますけどね」
「チ、あの変態女医が。肝心なときになると役に立たねえな。じゃあ智実のオッサンと、如月は?」
「山田さんは出張で、紫苑ちゃんは元々暦荘に帰ってくるのが稀な子ですから」
「――はあ。分かっちゃいたけど、やっぱりか」
「でも今はあの三人が不在で良かったと思いますね、私は」
「確かに。……こんな思いをする人間は、なるべく少ないほうがいいよな、きっと」
二人して雪菜を見つめる。普段つかみ所がなくて、自称陰陽師とか訳の分からないことを言う雪菜だが、やっぱりコイツは小さな女の子なんだ。できることならば、雪菜のこんな姿だけは見たくなかった。
それから俺と大家さんは、交代で睡眠を取りながら看病を続けた。
昏々と眠る雪菜を見ながら、俺は一つの決意を固めていた。それは――もう絶対に、何があっても暦荘の住人だけは守ってみせるということ。
――しかし。
やはり俺はどこまでもバカで、愚かだったようだ。
結局みんなを守るとか言いながら、約束を破っちまった。
本当にごめんな、■■――
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「――ところで周防、一つ聞いてもいいか」
「なんだよ姫神。――も、もしかして僕を殴ろうっていうのかい!? 暴力はいけないと思うよ!?」
「何をバカなことを言ってるんだ。私が聞きたいのは、なんでお前と二人で買物なんかに行かなければならないんだって話だよ」
「……別にいいだろ。シャルロットちゃんの入居記念パーティに際して、必要なモノは沢山あるんだ。だったら買い手は多い方が得策じゃないか」
カラスが阿呆と鳴く黄昏時。
言い知れないノスタルジックを感じさせる赤い人道を、姫神千鶴と周防公人は歩いていた。
二人の両手には比較的大きな紙袋があって、その中には様々な食材やパーティグッズが所狭しと入っている。
「だからって別に、私一人でもこれぐらいの量は持てたぞ? わざわざ周防まで来なくても」
「本当に鈍いな、姫神。キミがやや鈍感な人間ってことは知ってたけど、これはさすがに憂慮を感じるよ」
「――? どういうことだ?」
「あんまり言いたくはないけど、雪菜ちゃんがあんな目に遭ったんだ。だからお前を一人で歩かせたくなかったんだよ」
「心遣いは嬉しい。けど過信しているつもりはないが、私なら一人でも大丈夫だ。もし襲われて、敵わなかったとしても、少なくとも逃げることぐらいはできるさ」
「はーあ、これだから暴力を振るうヤツはイヤなんだよなー。全くもってアホだね、姫神は」
「……ほう、どうやらもう一度お前の本気を見せてもらうときが来たようだな、周防」
千鶴が袋のヒモに腕を通し、指を鳴らしてみせる。
その何処か暴力の前兆を思わせる小気味良い音を聞いても、公人は怯まなかった。
「――姫神。お前が強いことは知ってるよ。でもさ、キミは一つ忘れてることがある」
「忘れてること? 一体なんだと言うんだ」
公人は普段の軽薄な態度を潜め、千鶴に向き直った。
「雪菜ちゃんと同じでさ。姫神だって――女の子なんだから。例えお前がどれだけ強くたって、一人で大丈夫と言い張ったって、僕が男である以上キミを一人にしたりはできないよ」
言葉を受けて、千鶴の顔が赤く染まる。その上気した頬は、きっと夕日のせいではなかった。
「ば、バカじゃないのかお前は。いきなり何を言い出すんだ」
「ははは、バカと言われちゃ否定できないな。最も、美男子……とか、イケメン……とか言われると、もっと否定できないけどねっ!」
真白の歯を輝かせて、公人が笑う。
「……はあ。そういうことを言わなければ、モテるかもしれないのにな」
「ん? なんか言ったかい、姫神」
「い、いや、なんでもない。……良かった、聞こえてなかったか」
「微妙に、モテる~とか聞こえてきた気がするんだけど勘違いだったかなぁ」
「絶対に勘違いだ。近所にいい耳鼻科があるから、そこで一度診察してもらって来たほうがいいよ」
首を傾げて思考する公人を見て、千鶴は自然と笑みが零れた。
雪菜が何者かに襲われてから、早二日目の今日。まだぎこちなさは残るものの、暦荘にも笑顔が戻ってきていた。どちらかと言えばその楽天は空元気であったが、無いよりは遥かにマシだ。
ただ雪菜が未だ、体を起こせる状態でないことが二人の気がかりであった。大家である高梨沙綾曰く、看病しているときに何度か目を覚ましたことはあったらしい。しかしそれも一瞬であり、千鶴と公人はあれから雪菜と言葉を交わしていなかった。
「……こんなときに、透子さんが暦荘に居てくれたらよかったのにな」
公人が暮れる日を見ながら、哀感を滲ませて呟いた。
「確かにあの人なら、今の雪菜ちゃんをもっと良い状態にしてくれたかもしれない。ああ見えて、日本医療学界を背負って立つ英才と言われているらしいからな」
「むしろ英才というよりも風雲児だろアレ。さすがの僕も透子さんにだけは迂闊に近寄りたくないぞ」
「まあ……確かに尊敬できる人ではあるけど、少し性に開放的なのは傷かな?」
「――おいおい、あれの何処が少しだっ! 僕なんか一度酔っ払った透子さんに、下着と白衣というマニアックな出で立ちで襲い掛かられたんだぞっ!」
「よかったじゃないか。普段から周防が望んでいそうなことで」
「確かに美人に迫られるというのは、何度か夢で見たシチュエーションではある。……しかし僕は気付いた。実際に女の人に襲われてみると、それはとてつもなく恐ろしいということに――!」
過去を思い出したのか、頭を抱えてブルブルと震える公人を見て、千鶴は小さく苦笑した。
彼は普段よりも尚陽気で、動作の一つ一つが大袈裟に見える。それは恐らく千鶴を励ますためのもの。その意図を理解している千鶴は、なんだかんだと悪態をつきながらも、公人に感謝をしていた。
気付いた頃、日はほとんど沈んでいた。
あれだけ哀愁を感じさせた夕暮時が終わる。時刻にしておよそ六時過ぎ。冬の暮れは本当に早いもので、瞬く間に夜になっている。
千鶴と公人は、なんとなく無言で帰路を辿っていた。別に交わす言葉がなかったわけでもないが、突然訪れたかのような暗闇に少し気が落ちていたのだ。
――そして、これは二人に共通する、勘違いであってほしい疑問。
何故だろうか。
先ほどから、人間とすれ違わないのは。
何故だろうか。
先ほどから、自分たち以外の人間を見ないのは。
「姫神、少し急ごうか。暗くなってきた」
「ああ、そうだな。私もその方がいいと思う」
足早に歩く二人。
手に持った袋がガサガサと音を立てるのが、この時ばかりは有り難い。完全な無音だったら、きっと恐慌に陥っている。
――千鶴と公人は、やがて自分たち以外の人間を見つけて安堵した。
正面から歩いてくるその人影は、夜に紛れるような黒いスーツと帽子を身につけた男性だった。目深に帽子を被っているせいで、よく瞳が見えない。どこか違和感を覚えながらも、二人はその男とすれ違う。
繰り返そう。現在の時刻は六時。
「……ふう。なあ周防、あのさ」
さらに繰り返そう。現在が――逢魔時であると。
「なんだよ姫神。そんなに安心したような――っ!」
千鶴の前を歩いていた公人は、どこか恐怖を押し殺したような顔で振り返った。
「――ぇ?」
そこで彼は我が目を疑った。あまりに非現実過ぎて思考さえ停止した。買物袋を持った千鶴の背後――先ほどすれちがった帽子の男が、まるで背後霊のように立っている。
パチン、と場違いな音がした。
帽子を被った男の影から、漆黒の狼が現れる。その悪魔のような狼は、大口を開けて、鋭い牙を千鶴に突き立てようとし――
「――危ないっ! 姫神っ!」
叫び声があった。
自分の背後に男がいることさえ気付いていない千鶴を、公人は力任せに押し退けた。それは思考上での行動でなく、反射故での行動だ。
咄嗟の機転により、千鶴を脅威から守った公人はその代償として――腹部を強く噛み付かれた。
「おやおや、勇敢な方ですねぇ。まさか身を挺してそちらの女性を庇うとは」
ニヤリと。
脱力した体で地に伏した公人は、不気味に哂う男を見た。
「……周防? おい、どうした、もしかしてお前――」
尻餅をついて呆然としていた千鶴は、ようやく事態を把握した。腹から赤い血を垂れ流し、顔色悪く倒れた公人に駆け寄る。
「ひめが、み? ……はは、よかっ、た。無事だったんだ。……どうかな、さっきのぼく、ちょっとだけ、……カッコ良かった、だろ……?」
「こんなときに何を言ってるんだっ!」
「別に、惚れても……っ、いいんだぜ? ――だからさ、姫神。……僕に報いたいなら、さ」
「なんだ? ……ごめん、もう一度言って」
掠れた声で呟く公人の口元に、千鶴は耳を近づけた。
それは本当に一言。
――逃げろ、と。
腹を正体不明の狼に噛み付かれ、放っておけば出血多量で死にさえ至りそうな公人は、その状況に置かれても尚、一人の女の命を優先した。
「――バカっ! 放っていけるわけないだろっ!」
怒鳴る千鶴の声さえ、朦朧とする公人には上手く届かない。
「本来ならば女性を傷つけた方が効果はありそうなんですが、まあいいでしょう。……それにしても美しい人間愛ですねぇ。いやいや、なんだか見ていて癒されますよ。――茶番みたいで」
「なんだと」
「勇ましいお嬢さんだ。僅かな恐怖も見られません。もしもそこの彼がいなければ、この場でボクに殴りかかってきそうな覇気だ。……いいですねぇ、貴女のような女性は好きですよ」
「っ、お前一体なんだ。なぜ私たち襲った」
「これまた哲学的な質問ですね。お答えしたいのは山々ですが、もう用は済みました。あまりアナタ方に時間を掛けるわけにもいきませんしね。ボクはね、お嬢さん」
漆黒の狼が影に沈んでいく。
男がまるで何事も無かったかのように、あっさりと身を翻して去っていく。
「――そう、その顔」
最後に小さく振り返った男は、帽子の影から金色の瞳を覗かせた。
「そうやって困惑したバカみてぇな顔を見れれば十分だ。せいぜいシャルロットちゃんに、襲われましたーと大げさに伝えてくれや」
高笑いをして男が去っていく。
千鶴は出血を厭わぬほど拳を握り締め、男を睨んでいたが、やがて公人を治療することが最優先だと判断した。
ここから暦荘に連れて帰るよりは、救急車を呼んだほうが明らかに早い。千鶴は携帯電話を取り出して、普段は連続して押す機会の無い、三つの数字を続けて押した。
****
この世で最も愚かな人間は誰か――そう問われれば、俺は間違いなく宗谷士狼という男であると答える。みんなを守るとかほざいておきながら、結局は何もせずに傍観していただけの自分を殺したくなる。
……周防が襲われた。雪菜とは違い、腹部のみの負傷であったが、それは局所的に見れば雪菜よりも酷かった。姫神が迅速に救急車を呼んだから助かったものの、あと十分でも搬送が遅れていたら、出血多量で命の危険もあったらしい。
幸いにも命を取り留めたが、しばらく入院することは避けられない。
俺が連絡を受けて病院に駆けつけたとき、周防が眠っているベッドの横で、姫神がひたすらに泣いていた。
眠っている周防の手を握り締め、まるで懺悔をするかのように嗚咽を漏らしている。俺の姿を認めた姫神は、ずっと「こいつはバカなんだよ。なんで私を庇ったりしたんだ」と繰り返しぼやいていた。
姫神はその言葉とは裏腹に、周防の側を片時も離れようとはしなかった。口では言わなかったが、どうやら周防が目を覚ますまで隣に居てやるらしい。
俺は病院から暦荘に帰る前に、姫神から事の詳細を聞いていた。彼女の口から出た言葉は――黒いスーツに、黒い帽子を被った不吉そうな男、だった。
やはり、と納得したのと同時に、強い後悔が押し寄せてきた。もしも俺があのとき直感を信じて、行動に移していれば――と愚考せざるを得ない。
最後、姫神は思い出したかのように呟いた。
――そういえばその男、シャルロットに伝えてくれ……とか言っていた気がする。
この時点で、俺はようやく気付いた。
原因とか、そういう彼女の所為みたいな言い方はしたくないが、狙いは俺ではなくシャルロットであると。
吸血鬼社会のことはよく分からない。しかしカインという男に聞いた話によると、シャルロットは吸血鬼の中でも特別な存在らしい。その事実を踏まえれば、彼女が狙われるというのも無理からぬ話ではない。
……しかし分からないことが一つある。シャルロットを狙うだけならまだしも、なぜ暦荘の人間を傷つける? しかもわざと殺さないように、まるで俺たちを嘲笑うかのような仕業で。
考えても答えは出ない。頭を悩ませたぐらいで正答が導き出せるなら、この問題はとっくに終わってる。
病院を後にし、俺は暦荘に帰る。姫神も一応誘ったが、アイツは帰らないと即答した。
自分の部屋に帰るのも何なので、俺は大家さんの家に向かった。シャルロットはどうも自室にいるらしく姿を見ない。少しだけ安堵した。今シャルロットにどのような顔をすればいいか分からないからだ。
客間に行くと、ちょうど大家さんが部屋から出てきた。
「あら宗谷さん、今帰ってきたところですか?」
「はい。……周防のヤツは、なんだかんだ言って大丈夫そうでした。アイツのことだから、ひょっこり眼を覚ましますよ。むしろ病院のナースさんに同情しますね」
和ませるつもりで冗談を言うと、大家さんは力なく笑った。
「そうだといいんですけど。……それにしても、何であの子達が。雪菜ちゃんや周防くんが人に恨まれるようなこと、するはずがないのに」
俯いてそう吐露した大家さんは、「ダメですね、しっかりしなくちゃ」と少し強引に笑った。
「私も一度、周防くんの病院へ様子を見に行こうと思っているんです。よければ宗谷さん、雪菜ちゃんを見ていてもらえますか?」
「お安い御用ですよ。ここは俺に任せて、早く行ってやってください。姫神のヤツも一人じゃ何かと大変だろうし」
それから大家さんは手早く準備を進めて、周防が入院している病院へと向かった。
俺が暦荘の前で大家さんを見送って、客間へ戻ると、そこには目を覚ました雪菜がいた。
「……雪菜?」
薄っすらと瞼を開け、視線を泳がせている。
やがて隣に腰掛けた俺を見止めた雪菜は、上半身を起こそうとした。
「待て待てっ、そのまま寝てろ。とりあえず喉渇いてるだろ。まずは水を飲んで落ち着け」
用意してあったやかんからコップに水を注ぐ。全身に打撲を負った雪菜は、自分の力でコップを持てなかった。必然的に俺が飲ませてやる形で、彼女はようやく水を飲む。唇の端から垂れる水が少し色っぽく見えた。
「……士狼さん。ありがとうございます」
「ああ、それは全然構わねえよ。で、お前大丈夫なのか?」
「はい。まだ一人で体を起こすこともできませんが、命に別状はありません」
「そりゃあ分かってるよ。ていうか命に別状があったら、お前はここじゃなくて病院にいるに決まってんだろ。俺が聞きたいのは気分とかのことだよ」
「そうですね、悪くはありません。むしろ絶好調と言っても過言ではありませんね、気分だけなら」
「よし、本当に大丈夫みたいだな。――ところで雪菜、色々と聞きたいことがあるんだが、いいか?」
雪菜がやはり、と目を細める。
「……黙秘権ってアリだったりしますか?」
「いや、無い。なあ雪菜。今回ばっかりは俺マジなんだ。なるべく冷静に努めてるけどよ、内心じゃあ今すぐにでも、お前らをそんな目に合わしたヤツをぶっ殺してやりてえんだよ。分かるか?」
「どうしても、ですか?」
「当たり前だ。だから教えてくれ。何があったんだ?」
考え込むように雪菜は沈黙する。
「――黒いスーツに、帽子を被った男」
やがて溜息と共に、雪菜はそんな言葉を口にした。
「……やっぱり、か」
「やっぱり? どういうことです、士狼さん。その男を知っているのですか?」
「違うよ。そういやお前は知らなかったな。いいか、落ち着いて聞けよ。……今日、周防が襲われた。一緒にいた姫神の話によると、相手は黒いスーツに帽子を被った男だったらしい」
「――それは本当ですか」
「ああ。こんなときにウソは言わねえよ」
雪菜の顔が歪む。それは恐らく――後悔。
「……ならば原因は私にもありますね」
「あん? どういうことだ」
「実はですね、私は――」
そう前置きして、雪菜は淡々と語る。
シャルロットを狙う不吉な輩を感知したこと。そしてそれを自分一人の力で何とかしようとしたこと。そのためにシャルロットの入居記念パーティの準備を手伝えなかったこと。
纏めるなら、この自称陰陽師はバカすぎることに、たった一人で決闘を挑んだというのだ。
「――なに考えてんだてめえっ! 自分が何したか分かってんか、ああ!? なんで俺やシャルロットに相談しなかったっ!」
「ご、ごめんなさい」
思わず怒鳴ってしまった俺の剣幕に、雪菜は口元を布団で隠して怯えてしまった。
「……チ。怒鳴ったのは悪かった。でも説明しろ。なんでそんな危険なことをした」
「それは――吸血鬼さんになるべくなら負担をかけたくなかったんです。そして出来ることなら、私の力でみんなを守りたかった。守ることが出来ると、そう思っていたんです」
「お前、自称陰陽師とかいつも言ってたが――もしかして本当に……って言ったら脈退ねえけど、陰陽師だったのか?」
「はい、私は自称陰陽師ですから」
「……はあ。緊張感ねえなぁ。時折、お前の周りで不可思議なことが起きるもんだから、もしかしてぐらいには思ってたけどな」
「あの……士狼さん。私のこと、嫌いになったりしましたか……?」
もはや顔全部を毛布で覆うぐらいに、雪菜は小さくなる。
「なんでだよ? 今の話のどこかに、お前のこと嫌いになる要素なんかあったか?」
本当に意味が分からなかった俺は、首を傾げてそうぼやく。
すると何故か、雪菜は安堵したと瞳を潤ませて、花が咲くように笑った。
「――いいえ。士狼さん、ありがとうございます」
「なんでお礼を言われたか分からないが、まあ受け取っておく」
相変わらずよく分からないヤツだなと思った。雪菜が自称陰陽師だろうが本当に陰陽師だろうが、不可思議な力を持とうが持たまいが関係ないじゃないか。コイツは凛葉雪菜っていう一人の女の子で、そして暦荘の仲間なんだから。その事実だけで十分だ。
「それで話は戻るんだけどよ。お前の話じゃあ、やっぱりその男はシャルロットを狙ってるってのか?」
「ええ。さきほどの士狼さんの話ですと、千鶴ちゃんにもあの男はそう告げたのでしょう? ならば間違いないと思います」
「……なるほど。つまりシャルロットがいたからこそ、ソイツは暦荘の人間を襲ってるってのか」
「恐らく。なぜそんな回りくどいことをするのか分かりませんが」
「同感だ。俺もずっとそう思っていた。……それにしても、シャルロットのヤツがここにいなくて正解だったな。欲しいモノを聞かれて、『みんなとずっと一緒に暮らしたい』とか抜かすぐらい、暦荘ラブなバカだ。こんな話をアイツが聞いたら、どんな行動に出るか分からん」
「確かにそうですね。吸血鬼さんは――っ」
苦笑していた顔が固まる。ついで息を呑む気配。
雪菜の視線はブレることなく俺の背後に注がれている。振り返ってみたが、そこには当然誰の姿もない。……ああ、そうだ。誰の姿もないんだ。でも一つだけおかしな点がある。
――キッチリと閉めたはずの扉が、なぜ僅かに開いているのか――
「……まさか」
俺が呟くのと同時に、バタンと玄関の扉が乱暴に音を立てた。ついで誰かが走り去っていく音。
「――士狼さんっ、私のことはいいですから追いかけてください!」
「悪い雪菜! クソッ、なんでこうもタイミングが悪いんだよ――!」
立ち上がって一言断ってから、俺も大家さんの家を出る。念のためシャルロットの部屋を見てみたが、俺が病院から帰ってきたときには灯っていた明かりが消えている。
それから街中を探し回った。探していない場所はないと断言できるぐらいに駆け回った。目立つ容姿のシャルロットだ。見かけた人もいるかと思い、道行く人を呼びとめるが、誰も首を縦には振らなかった。
「――バカだ。絶対に、バカだ。バカすぎる。死んだほうがいい」
夜の街。
人通りの少ない市道。
俺はただ力任せに、目の前にあった壁を殴った。
「――俺は……バカだ……」
可能性としては十分にあったはずだ。自分の部屋にいたシャルロットが、何かしらの所用があって、俺たちの元へ訪れる可能性が。
誰よりも孤独だったからこそ、孤独であることを誰よりも嫌うシャルロット。そんなアイツがようやく見つけた家と、笑いあえる家族だ。……ならば人一倍、シャルロットが暦荘を大事に想っていることも容易く想像がつく。
ああそうだ、本当に容易に伺い知ることができるんだ。
――シャルロットの今の気持ちが。自分自身こそが、雪菜や周防を傷つけた原因だったと知った、今のアイツの気持ちが。
想像しただけでも胸が痛くなる。今この街のどこかで、それこそ暗い夜の隅っこで、あの笑顔が悲哀に曇っていることを考えると。
客観的に、そして俯瞰的に見た俺でさえこうなんだ。シャルロットが……あのバカで泣き虫で人懐っこく笑う、誰よりも家族を大事にするアイツが、どんな気持ちで暦荘を出ていったのか――
俺はそれからもシャルロットを探し続けたが、ついぞ彼女が見つかることはなかった。
――そして。
翌日の朝になっても、金髪赤眼をした吸血鬼は、暦荘に帰ってこなかった。