其の三 『昔日』
――ヘルシング。
生まれた時から少女はそう呼ばれ、恐れられ、敬われ、そして忌み嫌われてきた。
気が付けば何かを殺していたと思う。それは犬や猫といった小動物だったのか、もしくは人間のような高い知能を持った輩か、あるいは吸血鬼といった人外の類だったのかもしれない。
今考えると少し思うところがある。何故自分は誰かを殺してしまったのだろうと。それは後悔や懺悔などではなく、本当に純粋な疑問だった。
別に手を汚すことなく生きたかったのではない。別に殺しを知らぬ平凡な人生を歩みたかったのではない。
――ただ、ふと考える時があるのだ。
もしもヘルシングという名を持って生まれなければ、今の自分はどのような存在だったのかと。
少女には両親がいた。心優しく、誰よりも強く、そして彼女と同じ赤い髪を持った人狼の肉親。少女がパパとママと呼び、誰よりも慕った掛け替えのない家族が。
そんな彼らから少女は常に聞かされてきた。自分たちにとって吸血鬼とは決して相容れないモノ。敵対することが自然であり、殺さなければ殺されるのだと。
物心がついて、それなりに成長した少女はそのときすでに、吸血鬼と敵対することに対し特に疑念を持ってはいなかった。
なぜなら少女は、ただ愚直なまでに両親の言い付けを守っただけ。敬愛して止まない父と母の言葉を、生まれてから今まで純粋に受け止めてきただけだったからだ。
――ある時、少女は父からとある話を聞かされる。
ヘルシング一族が数百年に渡って追い続けてきた吸血鬼がいること。そして今尚自分たちはソレを狙っていること。これは両親や少女の意思ではなく、無念を残して死んでいった先祖の代から始まった悲願でもあること。
その一人の吸血鬼の名を父はこう呼んだ。――通称”悠久の時を生きた吸血鬼”、と。
当然世界の広さを知らない少女にとって、その話はよく理解できなかった。ただ自分が頑張って倒さないといけない悪いヤツがいるんだ、と幼いながらに奮い立ったぐらいか。
毎晩ベッドの中で考える。父と母に代わって自分がソイツをやっつけてやるんだ、そしてパパとママに頑張ったねと頭を撫でてもらうんだ、と。
眠れない夜は少女なりに幸せな未来を夢想した。両親が不在で孤独な時は、幼いながらにチグハグなトレーニングをした。そして疲れ果てて眠る少女が見る夢は、決まって親子三人が陽だまりの中で笑っている光景だった。
そうだ、別に幸せになりたかったわけじゃない。
そうだ、ただ殺しをしたくなかったわけじゃない。
正直に告白するなら、両親には申し訳ないが、その悪い吸血鬼とやらも少女にはどうでもよかった。
幼い少女が何よりも強く望んだこと――それはただ親子三人で、いつまでも一緒に居るという小さな願いだけだった。
やがて美しく成長した少女は、人狼の中でも高い実力を誇った。ヘルシングの名に、いや、愛する両親に恥じない誇り高き存在へと成ったのだ。
見つけた吸血鬼は片っ端から殺していった。別に抑えきれない殺人衝動があったとか、その吸血鬼がとんでもない極悪人だったとか、そういうことではない。ただ少女は幼いころに両親から教えられた事を、見ていて呆れるほど純粋に守っていただけだったのだから。
必要がなければ人間を殺さなかったけれど、必要さえあれば人間であっても殺した。その最たる例が吸血鬼狩りに所属する人間だ。人狼である少女は吸血鬼を殺すが、その途中、幾度も吸血鬼狩りと交戦した。
そして、殺した。
少女にとっては理解できなかった。罪のある吸血鬼は罰として殺すくせに、罰のない吸血鬼には何の罪も問わない。……おかしな話だ。少女からしてみれば、吸血鬼であるというだけで、既に大きな罪を持っているというのに。
親子三人で過ごす時間は決して多くはなかったが、それでも全く会えないわけじゃなかった。不満を持ったことはあったし、不安に思ったこともある。だが少女は口が裂けても、自分とずっと一緒に居てほしいなどとは言えなかった。それが両親を失望させる一言だと、誰よりも分かっていたからだ。
……思えばそのとき。自分が愚かだとしても行動していれば、何かが変わっていたのではないかと愚考せざるを得ない。
ある時、両親が一人の男を連れてきた。黒いスーツに黒い帽子を被った、どこか不吉そうな男だ。一見して印象を持たせず、存在自体があやふやな、つかみ所のない人物だった。
深く被ったつばの広い帽子が影を落として、常に瞳を隠している。上品な態度と丁寧な口調の裏に、人を嘲笑うかのような本性を持っている。正直に言えば、あまり好きな類の男ではなかった。
それでも両親と親しげに話していた。だから少女もその男を信用したし、疑うことなどまるでしなかった。少女にとって自分が抱いた違和感や危機感よりも、両親がその男を信頼しているという一点が、何よりも重要だったからだ。
――そして、終末はあっさりと訪れた。
少女にとって誰よりも愛していた父と母が、死んだ。
原因は分からない。両親が死んだ現場に少女はいなかったし、遺体さえも見ることができなかった。少女が特に考えず両親に問いかけた『次はいつ会えるの?』という言葉が、彼らが交わした最期の言葉となった。
悲しみに暮れる少女の元へ、例の男が現れた。
帽子で隠した瞳で自分を見つめながら、男は言う。両親は吸血鬼に殺された、そして死の間際に頼まれ、自分が面倒を見ることになった、と。
――それが始まりだった。
両親の代わりに自分が吸血鬼を殺していこう。そしてヘルシング一族の悲願であった、通称”悠久の時を生きる吸血鬼”の抹殺という使命を自分が果たそうと。
少女の名は、ニノ=ヘルシング。
赤い長髪と狼の耳を持った、誰よりも純粋な、生まれついての吸血鬼殺しであった。
****
二月になったばかりの今日この頃。
感想を述べろといわれれば、俺こと宗谷士狼は、語るべき言葉を一つしか持たない。
「あー、クソ寒い」
それなりに厚着しているつもりではあるが、まるでそれを無駄な努力だと嘲笑うかのように、冷たい風が吹き付けてくる。体はまだなんとかなるが、剥き出しの顔は少し厳しいものがある。
前々から思っていたが、この人間に対して試練を課すような冬は、絶対俺たちに恨みがある。むしろ夏は夏で溶けそうになるぐらい暑いことを考えると、やっぱり人間は地球さんに嫌われているんだろうか。
そんな愉快なことを考えながら、俺は日用品の入った袋を手に持って、暦荘への帰路についていた。
体の芯から震えるようなこの寒さは、気温で言うと間違いなく一桁近くだろう。普段なら機嫌が悪くなってしまうところだが、今の俺にとってこの寒さはありがたいものだった。
肌が冷たくなって、頭が冷えて、心が強く引き締まる。腑抜け気味の今の俺にとって、冬は渇を入れてくれる。
……なんとなく予感がする。今のところ俺の周辺やこの街において、目立った事件とかは無いが、それでも不吉な予感がするのだ。
「気のせいだったらいいんだけどなぁ」
戦場を去って、日本に帰ってきて、そしていつしか落ち着ける家を見つけた。
あの頃の俺はきっとバカだった。誰にでも噛み付いて、平和なこの国に帰ってきた後も闘争を忘れられなくて。街中で肩をぶつけられただけで敵だと思って、声をかけられただけで反射的に構えを取った。
人を傷つけることしか出来ず、同時にしてこなかった宗谷士狼という男がいて。そしてそんな俺に手を差し伸べてくれた女の人がいた。
俺は多分、何らかのショックで記憶を失ったとしても、あの笑顔だけは忘れることができないと思う。
『あの~すいません。牛乳いりませんか?』
まるで何も考えていないようで、見ていて心配になるぐらいに天然で。
『あ? なんだよてめえ。死にたくなけりゃ消えろよ』
同時に誰よりも頭が回って、困っている人だけは放っておけなくて。
『いえいえ、ただ貴方があんまりにも辛そうな顔をしているので。そういうときは牛乳を飲むのが一番ですよ~』
テレビのニュースを見て、一々可哀想だと瞳を潤ませるほどお人よしで。
『……人の話聞いてんのか? 大体よ、知らねえ人間にいきなり牛乳勧めるなんざ、下手な勧誘でもありえねえぞ』
人間を突き放そうとする俺に、唯一見捨てることなく話しかけてくれて。
『そうですか? でも貴方がとても寂しそうで、ひとりぼっちに見えたので気になっちゃったんですよねぇ。あ、それに貴方って、何処となく私の甥に似てるんですよ~。京也くんって言うんですけど、ちょっと格好付けてるところがすっごく可愛いんです』
そして底なしの闇に沈んでいた俺を、その朝露のような笑顔で引っ張り上げてくれた。
『……はあ。相当な変人だな、アンタ。見ず知らずの男に話しかけるなんざ、誘ってると思われてもおかしくねえぞ。ていうか甥のことなんてどうでもいいわ。……ん? てことはお前、俺が格好つけてるってのかよ!?』
『ふふふ、やっぱりソックリ。あ、そうだ。よければ家でお茶でも飲んでいきませんか? 先日良い玉露のものが手に入ったんですよね、これが』
『――はあ。もうため息しか出ねえ。変わった人だな、アンタ』
『ダメですよ、ため息は一つにつき、幸せが一つ逃げて行くんですから。人はやっぱり、笑っているのが一番ですよ~』
そうやって能天気に笑う彼女を見て。
俺はきっと日本に来て初めての笑顔を浮かべた。いや、それは当然苦笑とか失笑の類であったが――
あれからもう数年が立つ。
気付けば暦荘には自称陰陽師とか、融通の効かん格闘娘とか、変態ナルシストとか――そしてバカで泣き虫で人懐っこく笑う吸血鬼とか、その他諸々の奇人が集まってきていた。
とりあえず急場だけでも凌げたらいいか――そう考え、暦荘に住み着いて。
ずっと忘れていた人間の温かさっていうヤツを、やがて思い出した。人は傷つけ合わなくても、触れ合うことができるんだ。そして触れ合うことというのは、決して殺し合うこととイコールではない。
気付けば俺は、暦荘を自分の帰る家だと認識していた。
「――丸くなったもんだ」
しかしその角の取れたっぽい今の自分が、割と気に入っている俺は、もしかして弱くなってしまったのだろうか。……だからこそ先に感じた不吉な予感が外れていて欲しい。いや、できることなら無視したい。俺はなるべくなら戦いたくはないのだ。どこぞのバカ吸血鬼の件を除いて。
どことなく味気ない白く濁った空を見上げながら歩いていると、俺は近所の公園の前を通りかかった。
恐らくこの街では一番大きい公園だろう。中には豊富な緑や様々な遊具があって、更には鯉の泳ぐ巨大な池や、自動販売機の類も用意されている。確か春先になると花見なんかで賑わっていた記憶がある。
どうやら中で子供の集団がサッカーか何かをしているようだ。まだ小学生ぐらいの小さな少年少女が、十数人ぐらいで遊んでいるらしい。公園の外にいる俺の位置からでもその様子が伺え、同時に喧騒が届いてくる。
――盛り上がっていた声が途切れる。ふと気付けば、俺の足元にサッカーボールが転がってきていた。
「仕方ねえなぁ」
呟くと同時に、公園の中から人影が出てきた。
蹴り返してやろうと思い、そいつに向かってボールを渡そうとして――
「…………」
沈黙があった。
ボールを取りに来たそいつと目が合う。
もしかして子供がサッカーをしていたというのは勘違いで、実は大人のクラブチームか何かだったかと思った。しかし公園で活動するチームというのは聞いたことがないので、やっぱりそれは気のせいだろう。
俺をじぃーと見つめるそいつは、赤い長髪をした女だった。身長や外見年齢共に多分シャルロットと同じぐらいか。表現することさえ躊躇ってしまうほどの整った容姿と、人を惹き付けるかのような言い知れない魅力。少なくともガキに混じってサッカーをしているようなヤツには見えない。
肌は人間とは思えないほど白くキメが整っていて、鼻はどこまでも真っ直ぐ筋が通り、瞳からは何かを為さんとするかのような強い魂胆が感じられる。寒そうにして息を吐き出す口の中には、時折小さな赤い舌が見える。寒さによって赤らんだ頬と、やや潤んだように見える灰色の瞳は、どこか扇情的にさえ見えた。そんな彼女はカジュアルな服装に身を包み、頭にはキャップを被っている。なんとなくだが、そのキャップが余分に膨らんでいるような。
やがてその女は、白魚のような指を差して言った。
「ボール。返してくれない?」
当然断る理由もなかった俺は、彼女に向けてボールを蹴り返した。
「……なあ。一応聞いておきたいんだが、公園の中でサッカーしてるのって何処かのクラブチームか?」
「くらぶちーむ? よく分からないけど、ただの小さな子供しかいないわよ」
「そうだよな。……つまり、お前は子供が好きだってことでいいんだな」
「なんでそうなるのよ。別に好きじゃないわよ、子供なんて」
「……あぁ、そうですか」
それから女は、公園の中から聞こえてきた子供の声に促されて、ボールを持って戻っていく。
興味を惹かれた俺は少しぐらいならいいかと思い、日用品の入った袋をぶらさげて、公園へと足を踏み入れた。
途中、自販機で缶コーヒーを買おうとした。ブルーメンのそれと比べると味が落ちることは否めないが、今重要なのは体を温める飲み物なので、安っぽい百二十円のコーヒーだとしても有難いことに変わりはない。
……なんとなく。なんとなくだが、俺はコーヒーを二本買うことにした。他意はない。
歩いた先に見えてきたのは、まだ世の中の不条理さも分かっていないような子供たちが、冬の寒さをものともせずにサッカーをしている光景だった。
自然とその中に赤い髪を捜す。しかしどうしたことか、軽く見て回った限り、あの妙な女はどこにもいない。
「――誰か探してるの? お兄さん」
背後から声がかけられた。
振り向くと、そこには例の女が立っていた。このクソ寒い中でサッカーをしていたためか、白い頬が凄まじい勢いで赤くなっている。
「……それ」
発声は一言。
女はやや物欲しそうな目で、俺が持っている二つの缶コーヒーを見つめている。
元々よければコイツにやろうかと思っていた俺は、遠慮なく彼女に渡してやることにした。
しばらくして俺たちは、二人並んでベンチに座っていた。目の前では自分たちが風の子だとでも言うように、少年少女がサッカーに興じている。中には半ズボンの子供とかいて、もはや尊敬してしまう勢いである。
二人して、ちびちびとコーヒーを啜る。
「あのよ、お前って保母さん志望とか?」
黙っていても仕方ないと思い、俺は女に話しかけた。
「保母さん? ……うーん、さっきから思ってたけど、アンタってよく分からないことばっか言うわね。これだから人間ってイヤなのよね」
「いやいや、保母さんぐらい知っとけよ。ていうかおかしな言い回しするんだな、まるで人間じゃないみたいじゃねえか」
「うん? だってウチ、人間じゃないもの」
「…………」
俺はこの時、神様だか悪魔だか分からないが、とにかくこの運命を仕組んだ何かをぶん殴りたい気持ちで一杯だった。
これはマズイ。何がマズイかって言うと、もしコイツまで「私、吸血鬼なんだ、てへっ」とか言い出したら、俺は一ヵ月ぐらい山奥の寺で修行して来ないといけない気がする。
「へ、へえ、そうなんだー。それは凄いなー」
対処法は一つ。それは決してこの女――少女Bに正体を聞かないことだ。もしかしたら人間以外の存在に憧れるような、いたいけな心を持つ少女なのかもしれない。そうだ、きっとそうに違いないのだ。
「何が凄いか分からないけど、とにかく褒められたことはお礼を言っておくわ。ありがとうね、お兄さん」
「別に礼なんざいらねえよ。そんな言うほど褒めてないからな」
「それだけじゃないわよ。このコーヒー、これもありがとうって言ってるの」
「あ? ああ、気に入ってもらえたんなら何よりだ。数ヶ月に一度の、俺の気まぐれな好意ちゃんが発動したんだ。せいぜいありがたく思えよ」
「何かよく分からないけど、まあありがとうね。でも数ヶ月に一度ってことは、前にもやっぱりあったんだ」
「そりゃお前、こんな缶コーヒー一本とは比べ物にならないぐらいの好意ちゃんが発動したわ。もはや血で血を洗うぐらいの好意だっつーの」
「ふーん、意外と大変なんだ、お兄さん。何があったのよ?」
「意外とは余計だ。何がって言われたらそりゃあ――」
俺が味わってきた苦労を事細かに伝えてやろうとしたが、ふと思い返した。
あの怒涛の日々(主にどこぞのバカ吸血鬼が暦荘に住みつくまで)の経緯を本当に話していいのか。実は吸血鬼を――みたいな前置きをした瞬間、俺の方がいたいけな青年になってしまうんじゃないのか。
難しい判断である。この少女Bがどんな反応をするか予想できない。
「……? どうしたの?」
「あー、やっぱりいいわ。思い出しただけでムカついてくるから」
「そう? ならいいけど。人間も色々と大変そうね」
「相変わらずいたいけなことを言うヤツだな。ガキとサッカーなんてせずに、男でも作って遊びに行ったらどうだよ」
「男なんて女を性欲の対象としか見てないんでしょ? そんな相手と恋愛なんて出来るのかしら」
「…………。んんっ、コホン」
「街を歩いていたらすぐ脚とか胸ばっかり見てくるし。おまけに何度か、お金をチラつかせた男が声をかけてきたりもしたわ」
「――あんさぁ。お前の隣にいる白い髪の人って、とっても男の人だよな」
「そう言われてみればそうね。何故かお兄さんといても不快な気持ちにならないんだよね。あ……もしかしてお兄さんも、ウチと寝たいとか思ってるの?」
「待て待て。そんなに軽蔑の眼差しで俺を見るな。――いや、缶コーヒーを捨てようとするなっ! それはそういうつもりで渡したんじゃねえよっ!」
「なーんてね。ちょっとからかってみただけよ。大丈夫、お兄さんがそんな軽薄な人じゃないってこと、分かってるから」
「……こんのクソガキ」
「聞こえてるわよ、お兄さん」
「げっ、マジかよ。お前耳いいなっ」
「まあね。人間とは出来が違うの」
褒められるとふふんと得意げに鼻を鳴らす。
会話しているうちに思ったことだが、きっと少女Bは良くも悪くも純粋なんだろう。さっきの男が云々の話だって、特に他意を持っているわけじゃなく、本当にただそう思っているからこそ口に出したのだ。言ってしまえば、それは少女Bの疑問であったのだ。男っていう生物は何故そうなんだろう、と。
「それでお兄さんはウチに何か用でもあったの?」
「全然ねえよ。さっきも言ったが、俺の気まぐれな好意ちゃんが発動したんだよ。それよりお前こそ、なんでこんなクソ寒い中、わざわざガキとサッカーを楽しんでたんだよ。やっぱり子供好きなんじゃねえのか?」
俺が問うと、少女Bは本当に分からないとでも言いたげに目を細めた。
「……どうだろう。正直に言うとよく分からないの。人間は好きでも嫌いでもないけど、子供ってなんだか把握し切れない。人間の大人ってね、いつもウチに優しくしてくれるんだ。でもそれは下心丸見えで、劣情を催しただけの下種なヤツしか居ない」
「はあ、それは耳が痛い話だな。代表して俺が謝っておく」
「別にいいわよ、アンタが謝らないでも。……でもね、子供は違う。どれだけ凄んでも、誘っても、怒っても――あの子達は笑うだけ。きっと善悪とかの観念がないんでしょうね。ハッキリ言えばバカなのよ、子供って」
「…………」
女って怖いなー、と思った瞬間だった。
「でも、そんなバカな子供だからこそ、ウチに笑いかけてくれるのかな」
「なんだ、やっぱり子供が好きなんじゃねえか、お前」
足を組んで、コーヒーを飲みながらそう言うと、少女Bは驚いたように俺を見た。
「お前の話を聞いてて、俺がそう思ったんだ。別に他意はないぜ」
「……そう、かな。自分ではよく分からない」
「そりゃ残念だ。できれば――」
「――でも」
言いかけた途端、少女Bは遮るようにして口を開いた。
「……別に嫌いじゃあない、かな」
それは自分のことを人間じゃないとか言うコイツが初めて浮かべた、どことなくバカ吸血鬼を思い起こさせるような人懐っこい笑みだった。
「そっか」
思わず笑みが零れる。
この正体不明の少女Bは、とりあえず悪いヤツじゃないと思った。互いに名さえも知らないが、それでもあんな笑顔を浮かべるんだから、きっといいヤツに違いないと思ったのだ。
やがて缶コーヒーを飲み干した俺は立ち上がる。
少女Bは未だその小さな口で、ちびちびとコーヒーを飲んでいた。
「それじゃ俺は行くわ」
「ああ、うん。このコーヒーありがとうね、お兄さん」
最後にもう一度お礼を言われて、俺はなんとなくいい気分になりながら再び帰路についた。
ほら、アレである。たまに見かける募金箱に、余った小銭を入れて少しだけ善行を成した気になるアレだ。もっとも今回は募金箱ではなく、赤い髪をした少女Bであったが。
そうして俺たちは別れた。
互いに名を言い合うことも、再会の約束をすることもなく。
****
街は黄昏を過ぎ、やがて小夜を迎えた。
それは暦荘とて例外ではない。事実、その小さなアパートの中で明かりのついている部屋はなかった。
照明の落ちた部屋で、和服を着た少女――凛葉雪菜は瞼を閉じていた。睡眠している訳ではない。むしろ街中に放った式神を使役し、情報を集めている彼女にとって、この静まり返った夜こそが本番だと言えた。
「……やはり。どうやら人間ではなく、人外の類のようですね」
やれやれ、と雪菜はため息をついた。
どうも相手は闘争を望んでいるらしい。すでに四つある内、結界の基点が一つ破壊されている。暦荘を中心とし、東西南北に設置された彼女特製の基点が。
不吉な存在を感じ取った雪菜は、あれから自身が持つ最高の結界符を使って、暦荘を中心にもう一つの結界を張り巡らせた。それによって急場は凌げると思っていたが、こうも早く動き出すとは予想外であった。
この結界と街中に放った式神が牽制となり、向こうから引いてくれることを密かに望んでいたが――期待は外れてしまったようであった。
「私に喧嘩を売ってくるとは、愚かな輩です」
窓辺に歩み寄って、雪菜は月を見た。
「――凛葉の家名に賭けて誓いましょう。アナタは必ず私が滅します」
その光が照らす月影の向こう。
狼のような哂いが、聞こえてきた気がした。