其の一 『開幕』
日が落ち、皆が寝静まった暦荘の中、凛葉雪菜は微かな衝撃を受けて眼を覚ました。
ベッドで眠っていた雪菜は、ゆっくりと上半身を起き上がらせる。
「……っ、これは――」
吐息が荒い。まるで醒めない悪夢から目覚めたときのように、身体は汗で濡れていた。
時計をチラリと見ると、短針はピッタリと午前二時を指している。草木や人が眠り、そして――良くないモノが現れる、丑三つ時であった。
額から水のようなモノが垂れ落ちる感触。雪菜は確信に近い予感があって、ベッドから抜け出したあと、ティッシュで額を押さえた。
――しばらくして、皴のついたティッシュを見てみれば、そこには少量の血がついていた。
「やはり、ですか。……ごめんなさい。私の力が未熟なばかりに」
雪菜は宵闇に向けて謝罪を繰り返す。
夢のようなものを見た。その表現は正しく、彼女が覚醒する前に見ていたものは夢ではない。
『ハハハハハ! なぁるほどなるほど、やっぱビンゴだったな――』
人の神経を逆撫でるような哂い。
雪菜が――いや、一人の陰陽師が括った式神を、苦もなく破った男がいた。闇のような黒いスーツと帽子を被り、禍々しい金色の瞳を歪ませる、不吉の象徴のような存在を。
自らの手となり足となり、そして時には知覚を共有する目ともなる式神を通し、彼女は人間ではない何かがこの街に紛れ込んでいるのを感知していた。
普通の人間であらば気にもしない式神に気付き、さらに挑発するかのように噛み砕いたのだ。少なくとも友好的な人物ではあり得ないだろうと雪菜は踏んでいた。
それだけならまだいい。
無に還っていく式神が、その最期に捉えた言葉。
『――気に入ったわ、シャルロットちゃん――』
それは。
雪菜にとって馴染みがあって、ライバルであって、暦荘の家族であって、そして友人でもある少女の名前。
「……やれやれです。あの吸血鬼さんは、当たり前のように厄介事を持ってきますね」
ため息をついて首を振る。
窓際まで歩み寄って、夜空に爛々と輝く月を見た。
本来ならば宗谷士狼やシャルロットにも、このことを伝えるべきなのだろう。そしてシャルロットが吸血鬼だと知り、そして信じている者たちで何らかの対策を講じるのが、恐らく現状においての最善策だ。
しかし、と雪菜は考え直す。
かつて街に買物に出かけた際に、シャルロットに異変があったことを思い出したのだ。アレは明らかに普通ではなかった。……そう、まるで自身の内側から何か強いモノが溢れ出してくるかのように。見ていて心配になりそうなぐらいに、狂気的で、強大で、そして不安定であったのだ。
士狼やシャルロットに相談することは簡単だ。しかしそれがまた懸念でもある。もしも余計な憂慮をさせて、再び不安定になられても面倒だ。出来ることならばシャルロットの耳に入れることなく、事を済ませるのが一番だと雪菜は結論した。
「――吸血鬼さん、今回だけですよ」
月を見ながら自称陰陽師が呟く。
士狼に連れられてやってきた、金髪赤眼の吸血鬼。相対する人間を和ませるような人懐っこい笑みを浮かべながらも、時折寂しそうな顔をするのは、かつて孤独であった名残なのだろう。
ひとりぼっちだった吸血鬼。しかし今はひとりぼっちじゃなくなった吸血鬼。
あのバカで泣き虫で能天気な少女を、雪菜はどう見捨てようとしても放っておけなかった。
「貴女は私が守ります。ですから安心してください」
一人、月に向かって雪菜は誓う。
それは何処までも純粋で、義理堅く、そして見る者を不安にさせるような――危険な誓約だった。
****
「それで宗谷、お前は本当にシャルロットちゃんを祝おうと言う気持ちがあるのかい!?」
呆としていた俺を指でビシッと指して、周防公人は苛立ちを隠さずそう言った。
テーブルに足を乗せて、まるでどこかの大名のようである。まあどうせ周防の部屋のテーブルだから、足蹴にされていたって文句は言わないが。
「祝うって言ってもなぁ。なんかもう微妙にタイミング逃してるじゃん。なんで今更シャルロットの入居記念パーティだかなんだか知らねえが、そんなのしなきゃならないんだ」
「確かに士狼さんの言には一理ありますね。周防さん、詳しく説明していただけますか?」
行儀よく正座して成り行きを見守っていた雪菜が、俺たちを交互に見てから問いかける。
――ここは暦荘にある周防の部屋だった。俺が今朝起きて部屋を出ると、周防が自分の部屋の扉を少しだけ開けて「おいっ、宗谷、こっちだこっちっ」と小声で手招きしてきた。なんだなんだと思って近づいたら、即座に手を掴まれて、コイツの部屋に連行されてしまったのだ。
部屋の隅に座らされた俺は、とりあえず事情を聞こうとした。しかし周防は再び扉を僅かに開け、まるで誰かを待っているかのように外を注視していた。やがて「おーい、雪菜ちゃーん。こっちだよー」と、明らかに俺の時とは違う気色の悪い声で、自称陰陽師を召喚したのだった。
それが今から五分ぐらい前のことだ。
座った俺と雪菜に対し、周防がかけた第一声が「シャルロットちゃんの入居記念パーティを開こうじゃないかっ!」だったという訳である。
「ふふふ、まあまあ雪菜ちゃん。そんなに慌てなくてもいいじゃないか。僕たちの時間は始まったばかりなんだよ?」
「いえ、とりあえず全てに置いて遠慮しておきます」
「はーはっはっはっ! 聞いたかい、宗谷。どうやら雪菜ちゃんは僕のことが好きらしいぜ?」
「残念だが今の会話を聞いて、俺はお前が嫌われてるんじゃねえかと思ったんだが」
「相変わらず愚かとしか言いようがないな。流行を知らない男は、今時女からはモテないよ? 同じ暦荘に住む人間として仕方なく教えてあげよう。さっきの雪菜ちゃんみたいなのを――ツンデレとか呼ぶらしいぞっ!」
「そうなのか、雪菜」
「つんでれという言葉は知りませんが、恐らく違うと思いますよ士狼さん」
「と、言っているが周防」
「なるほど、やっぱりだ。冷たい言葉と、拒絶するような態度の裏に、僕に抱き締められたいと訴えるオーラを感じる……。姫神のヤツとはまるで違う、これぞまさしく美少女!」
「――とにかくお前は茶でも入れてこいバカっ!」
一人で踊るようにして自分に酔う周防を蹴飛ばす。なんだかんだと言いながらも、周防はキッチンでお茶を淹れ始めた。
「悪いな、雪菜。なんだか俺も事態を把握していないが、とにかく謝っておくわ」
「構いませんよ。周防さんって見ていて愉快ですし」
「そうか? まあ確かに愉快ではあるな」
「はい、あの道化みたいなところが」
「……周防。どうやらお前は本当に好意を持たれてないようだぞ」
勘違いをしているっぽい周防の背中に黙祷を捧げる。
やがて手持ち無沙汰となった俺は部屋を見渡した。男にしては割とキレイに整頓されてると言っていい。理由は恐らくキレイ好きとかではなく、万が一女を部屋に上げた時のためとか、そんなところだろう。
「――ん?」
ふと目に止まるモノがあった。勉強机の上で、大切そうに飾られていた写真立てである。
そう言えば周防の家族とか知らないな、とこの時初めて思った。きっとあれだけ丁寧に置かれているのだから、さぞアイツにとって珠玉の一枚なんだろう。
もしくは昔別れた女とか、あるいは掛け替えのない親友と映っているのかもしれない。俺は不思議と興味を引かれて、その写真立てを手に取った。
「…………」
開いた口が塞がらない。もはや顎が外れそうな勢いであった。
どうリアクションを取るべきか、非常に迷う。偶然知り合った友達とかの両親が死んでいる、という話を聞いて気まずくなったときのアレよりも尚気まずい。
「どうしました、士狼さん」
突然、身体を硬直させた俺を不思議に思ったのか。雪菜が上品に立ち上がって、俺の隣まで来る。
「その写真が――」
問いかけようとする雪菜の声が止まる。チラリと彼女を見れば、あの普段は冷静で愛想のない彼女がである、そんな雪菜が大口を開けて固まっていた。
二人して恐らく三十秒ほどは時間の経過というヤツを忘れていただろう。息を吐いた途端、そう言えば長い間呼吸をしていなかったことに気付いた。
「し、し、しし、士狼さん。これはまさか――」
「言うな。これは恐らく他人が口を出しちゃいけない類のヤツだ」
俺は震える指で写真立てを置く。収められた一枚が、窓辺から差し込む日光を受け止めて、いい感じに絵になっている。
――俺と雪菜が見つけてしまったもの。語るべき言葉など持ちたくもないが、しかしそれでも敢えて語らねばならない。コレを見つけてしまった責任というものがあるからだ。
青空があった。白雲があった。紅葉があった。笑顔があった。
写真に写っていた一人の人間。きっと周防にとって最も大事な人なんだろう。まるで亡くなった親や兄弟を、今でも大事に想い続けているような一枚。
そう。
単刀直入に言おう。
そこに映っていたのは――なんと青空と紅葉をバックに、コチラに向けてすんごい満足そうな笑顔を浮かべる周防公人一人だけだったのだ。
まさか自分の部屋に自分の写真を、わざわざ写真立てに入れて飾る人間というのを俺は初めて見た。きっと人生においてベスト3ぐらいには衝撃的な出来事だったであろう。
「おーい、雪菜ちゃんに宗谷ー。お茶が入ったよ」
お盆に湯飲みを乗せて周防が帰ってくる。
――マズイ。反応が遅れた。俺たちがこの写真を見つけたことがバレてしまう。
絶対にイヤだった。この写真立ての一枚について、周防と談義をするのだけは死んでもイヤだった。もしも時間を数分でも戻せるのなら、俺は神様に土下座したってお願いするだろう。
「あ、その写真。見ちゃったのかい?」
「――俺は何も見ていません」
思わず敬語になる。
「雪菜ちゃんは見たのかい?」
「――私は何も見ていません」
あの雪菜がとてつもないぐらいの殊勝そうな顔で首を振る。
「ふふふ、隠さないでもいいよ。キミたちは見たんだろ、そこに映ったこの世で一番崇めるべき男性を」
髪を掻き揚げて、どこまでも気持ち悪く周防は笑う。
「……周防。一つ聞いておきたいんだが、これってお前の双子の兄弟とかだよな?」
「そうです、その手がありましたっ! 士狼さん、きっとそうですよ。これは周防さんではなく、ご兄弟のどなたかに違いありませんっ!」
「いんや、間違いなく僕だよ。それほどの美男子がこの世に二人といるわけないじゃないか」
夢も希望も絶たれた瞬間というのは、きっとある。無情にも襲い掛かる理不尽な現実というヤツは、残念ながら存在するのだ。
俺と雪菜はヘナヘナとその場に腰を下ろして、周防が淹れてくれたお茶を飲む。……意外と美味かった。
「いやぁ、その写真を見ていると勉強がはかどるんだよな。緑は目に良いと言うが、間違いなく僕の方が目に良いと思うよ。そうだ、将来学者になって学会に論文を提出しよう。タイトルは『周防公人が周囲の人間に及ぼす好影響について』でどうだろう。うん、こりゃあいい考えだ。戦争を無くすのはもしかして僕なのかもしれない」
「雪菜、このお茶美味いな」
「そうですね。恐らく玉露でしょうか。お値段も結構張りそうです」
「待てよ、でももしこれで僕が世界的に有名になって、テレビとかに映っちゃったらどうなるんだ? ……もしかして世界中で僕を見てしまった女性が恋に落ちて、それが元で戦争が起きてしまうんじゃあ――ぐっ、ダメだっ! 僕には出来ない! どうすればいいんだぁっ!」
「それで士狼さん。吸血鬼さんの入居記念パーティーどうしますか?」
「そうだな、どうせなら盛大にやるか。ハッキリ言って、今の俺ならどんなに理不尽な事でも喜んでするぜ」
「奇遇ですね、私もです。……ただ」
言って雪菜は言葉を濁す。
どこか様子がおかしいと思った。周防でさえそう感じたのか、暴走していた変態Aは、神妙な所作で腰を下ろした。
「どうかしたのかい、雪菜ちゃん」
「……いえ、どうした、という程のことでもないのですが」
そう前置きをして雪菜は俯いた。
「――私は恐らく、申し訳ないのですがそのパーティの準備を手伝えそうにありません。しなければいけないことがあるので」
本当に済まなさそうに告白するその声の裏には、どこか強い決意のようなものが感じられた。
胸が騒ぐ。なんとなくイヤな予感がしたのだ。――しかしその小さな違和感は、気付けば跡形もなく消えていた。
「なぁんだ、そんなことか。大丈夫だよ、雪菜ちゃん。大学生ってのは意外とヒマが多くてね。準備は全部、僕と宗谷とかに任せていればいい」
「当たり前のように俺を入れるよな、お前。――ま、ここまで来たら文句は言わないけどよ」
「宗谷のクセに物分りがいいじゃないか。とまあ、雪菜ちゃん、だから安心してくれ。雪菜ちゃんは何の遠慮や気兼ねもなく、自分のするべきことをすればいいさ」
そうやって柔らかく微笑む周防は、不覚にも少しだけカッコウ良く見えた。
「……ありがとうございます」
頭を下げる雪菜。
最後に彼女は、こんなことを呟いた。
「きっと私も、皆さんと――吸血鬼さんと一緒に、パーティに参加して見せますから」
「……? ああ、もちろんさ。絶対に参加してくれよ、雪菜ちゃん」
「はい、必ず」
やがて話が纏まる。
雪菜はもう一度だけ頭を下げて部屋を出て行く。それから俺と周防は大家さんや姫神にもこの企画を話して、より綿密に事を進めていく。
会場は大家さんの家であって、日にちは少しだけ先になりそうだ。そして当然だが、シャルロットには内緒で準備を整えることになった。
残念なことに智実のオッサンは出張であちこち飛び回っており、あの性に開放的な変態女医と、口を開けば俺に対して皮肉ばっかり言いやがる如月のヤツも、仕事で参加できないらしい。まあ基本的に忙しいヤツが多いから、仕方ないと言えば仕方ない。
シャルロットの喜ぶ顔が目に浮かぶ。
あの人懐っこい笑顔を想像するだけで、不思議と頑張れる気になれる単純な俺だった。
「全く、人使いの荒い野郎だ」
俺はあれから周防に頼まれた物品を買出しに来ているところだった。
普通にアホみたいな周防だが、こういう楽しそうな催しとかの場合に限って、アイツは不思議と頼もしくなる。
しかし今改めて考えると、周防が入居記念パーティを開こうとか言い出したのは、間違いなく女とキャッキャウフフするために違いない。いや、さすがにシャルロットの入居を祝う気持ちも当然あるにはあるだろう。……多分、あったらいいな。
喧騒に包まれた街中を歩く。
駅前に近いこの場所は、都会でもなく地方でもないぐらいの微妙な発展を遂げているこの街において、恐らく人口密度が最も高い。きっと今時の高校生とかが遊びに繰り出そうとするならば、例外を除いてこの辺りを選択するだろう。アミューズメントやらファーストフードやら、割と揃っていることだし。
手にクラッカーやら飾りつけのための道具が入った袋を持ちながら、俺は暦荘への帰路についていた。
「……ん?」
ぼんやりと歩いていた俺の正面。
この知り合いがいても気付かないような人ごみの中で、俺の目に止まる影があった。
黒いスーツとつばの大きな帽子を被っている男。帽子が影を落として目は見えないが、薄っすらと歪んだ口元だけは分かった。
……既視感。ハッキリとは思い出せないが、なんとなくこの感覚には覚えがある。
その男との距離が埋められていく。特に避ける根拠も注視する理由もなく、俺とソイツは人込みの中ですれ違う。
――その瞬間、金色の瞳が俺を見た。
「クク、久しぶりだなぁ、白い狼?」
それは。
どこまでも嘲笑うかのような、愉悦に満ちた声。
「っ――!?」
振り返る。例え周囲の人間に奇異の目で見られたとしても、構えを取って背後を見た。
しかしそこには知らない人間が生き急ぐかのように歩いているだけで、黒いスーツと帽子の男など全く見当たらない。
ただ気のせいだったと済ませるには、俺が見た影と聞いた声は余りにも鮮明過ぎた。
――どこかで見覚えがある。どこかで聞き覚えがある。そして何よりあの名をソイツは口にした。
「チ……何だってんだ」
俺は足早に暦荘に帰る。あまりきちんと見ていなかったせいで、あの男の正体までは分からないが、しかしなんとなく知っているような気もする。
警戒心が強まる。浮き足立っていた心は、冷水をぶっかけられたかのように引き締まっていた。
――ああ、そうだ。
俺がこの時すぐさま行動していれば、きっとあんな酷いことにはならなかった。
この物語において、最も愚かだったのは間違いなくこの俺だ。
暦荘の居心地の良さに腑抜けていたんだ。牙の抜けた狼がいるとすれば、それは他でもない俺だろう。
だから最初に謝罪をしておく。
それが宗谷士狼という男にとって、唯一許された行いだと思うから。