其の三 『幸多き未来を望む』
俺がマスターと他愛もない話をしていると、奥の方から扉の開く音がした。
もちろん店内にいる人間は限られているから、誰が出てくるかも分かっている。複数人の足音がして、物影から喫茶ブルーメンの制服に身を包んだ三人の女が姿を見せた。
シャルロットと雪菜と姫神である。それぞれが、固定なファンがつきそうな程度には可愛らしくデザインされた制服を着ている。
なぜか三人は何も言わずに、まるで子供の劇の発表会のように横一列に並んだ。左から雪菜、シャルロット、姫神の順だ。
そのまま空気が流れる。
「……えっと、何してんだお前ら」
ツッコミ待ちかと思った俺は、とりあえず当たり障りのない一言から状況を崩していくことにした。
モデルのように薄い笑みを浮かべていた三人の顔が曇る。そして一様に顔を見合わせたあと、がっくりと肩を落とした。
「――? なんだ、もう少し鋭いツッコミが欲しかったのか?」
「もういいよ、別に。そうだよね、士狼だもんね。士狼だから仕方ないもん」
シャルロットはあははと力無く笑って、気を取り直したように前髪を掻き上げた。
「――はい、みんな似合ってるね。いやぁ、これはもしかすると僕の淹れる珈琲よりも、それを運ぶ君たちのほうがメインになってしまうかもしれないね。それじゃ早速、研修を始めたいと思うんだけどいいかな」
パンっと手を叩いたあと、マスターが俺たちを見渡しながらそう言った。
仕事の話をするならマジメにならざるを得ない。これは遊びではなく、人を相手することによって賃金をもらう労働だからである。その辺は皆分かっているのか、引き締まった顔でマスターの話を聞いていた。
要約すると、俺たちのするべきことは至極単純である。注文を取って、軽食や飲み物を運んで、テーブルのバッシングをして、最後に清算をする。どれもが応用的な対応を求められることはあるものの、基本的な事柄さえきちんと覚えていれば難なくこなせる内容だ。
一人ずつ練習をしてみることになった俺たちは、お客役、ウェイトレス役などに分かれながら研修を進めていく。
その直前、俺の眼前をやや沈んだ顔で通り過ぎるシャルロットに目が行った。服の肩のあたりに糸くずがついている。
「おい、シャルロット。ちょっと待て」
呼び止めると、彼女は「んー?」と気のない返事をよこした。
俺は素早くシャルロットの肩辺りを手で払う。
「なんかゴミついてんぞ。気をつけろよ、せっかく似合ってんだからよ」
なんだか保護者の気分であった。今度街を歩く際に、同じことをしている父母の方を見たら優しい気持ちになれる気がした。
――そんなことを考えていると、シャルロットはなぜか呆然とした後に、例の人懐っこい笑みを浮かべた。
「うんっ、ありがとう、士狼!」
白い肌に薄っすらと朱が差す。それは羞恥や寒さなどではなく、きっとただ単に気分が高揚したからのものであって。つまり彼女が、俺のなんでもない一言に対して純粋に喜んでくれたのがよく分かる。
普段は特に意識していないが、シャルロットというヤツは日本ではまずお目にかかれないぐらいの美人である。豪奢な金色の髪も、ルビーのような深紅の瞳も、新雪みたいな白磁の肌も、そのどれも他人が「自分にこの中の何か一つでもあったらな」と願うようなパーツだ。全てが揃ったシャルロットは、まさに神様に愛されているとしか言えないと思う。
「――て、なに恥ずかしいこと考えてんだか」
メルヘンなことを想像した自分を自嘲する。
照れ隠しに頭を掻いていると、シャルロットが俺の目を見て、
「見ててね、士狼。私、いっぱい頑張っちゃうんだから」
ぐっと力こぶを出すように腕を曲げる。ちなみにシャルロットの華奢な腕に、残念ながら力こぶという大層な代物はなかった。
マスターに呼ばれたシャルロットは俺に背を向ける。その際に後ろで一つに結われた長い金色の髪が泳いで、甘い香りが鼻をつく。
ポニーテールのようにした彼女は、うなじがよく見える。だからそこにちょっとだけ見覚えのある、ネックレスっぽいチェーンが見えたりして。
――あのバカ、仕事中ぐらい外しておけよな……。
一応呆れてみせたが、自分の顔がかすかに緩んでいることに気付いた。
まあだってほら、やっぱ嬉しくないわけないだろう。別に何がとは言わないが。
マスターの手前で忙しなくメモを取るシャルロットを見る。紙に文字を書き込むたびに、唇も動いて小さく声を出している。きっと本人は無意識だろうが、本当にどこまでも子供みたいな吸血鬼だ。
「さぁて、頑張るかー」
決してシャルロットに影響された訳ではないが、あまりやる気のなかった今回の仕事も、少しだけ気力が沸いてきた。
研修は数日がかりで行われる。ちなみに覚えるべき仕事の内容が、一日で理解できないほど膨大ということではない。するべきこと自体は、きちんと一日で把握できる。ただその頭で覚えた仕事を、体に覚えさせるために何日かかけて反復練習するのだ。
ひたすらに地味なことを繰り返して、客もいない店内で声を出して、実際には金を払っていないメニューを清算する。客観的に見ればバカみたいだろうが、俺はもし今のシャルロットたちを指を指して笑うようなヤツがいたら、きっと言い訳を聞くヒマもなくぶん殴るだろう。
他人から見たらバカみたいに見えても、本人たちからすると何よりも真剣なんだ。あの捻くれた雪菜や、普段は着ないような制服を着ている姫神でさえ、息を乱すほどに頑張っている。……まあ、若干一般的なウェイトレスと比べて味があることは否めないが。
「宗谷くーん、ちょっといいかい?」
マスターが爽やかな笑みを浮かべながら手を振っている。
「なんですか、まだ他になんかありましたっけ」
「特にないね。まあでも最後に今日の成果として、君にお客様役をやってもらおうと思ってね。シャルロットくん、雪菜くん、姫神くんが順番に給仕をするから、お客様を演じてみてくれないかな。ちゃんと珈琲も入れるから、味見も兼ねて飲んでみてくれ。当然御代はいらないよ」
「ああ、もちろんいいですよ」
要約すると普通の喫茶店に入ったつもりで珈琲を飲めばいいだけだ。ウェイトレスが見知った相手という条件がつくが、特に問題はないだろう。さらにタダで珈琲が飲めるというのだから、俺になんら損はない。むしろ申し訳ないぐらいである。
マスターはカウンターでガサゴソやっていて、ウェイトレス三人はその付近で控えている。俺は一度店の外に出て、普通の客を装いながら喫茶ブルーメンに入っていくことになる。
そういうわけで模擬試験開始である。
俺はわざと大きめに扉を開ける。備え付けられた鈴がチリンチリンとなって、来客の訪問を店内に訴えかけた。
「いらっしゃいませ、一名様ですか?」
すぐさま対応してきたのはシャルロットだ。一瞬、普段はキャーキャー言っている彼女がにこやかな笑みを浮かべながら対応してくることにビックリする。しかし動揺を表に出すことなく、俺は曖昧に頷いて、席に案内される。
俺は一名様だが、これは練習なのでとりあえずボックス席にご案内された。
お冷とおしぼりが渡される。そしてテーブルの隅にメニューがあることを教えたあと、シャルロットは格好よく目立たない位置にまで下がっていった。
メニューにはドリンク類の他に、オムライスやスパゲッティなどの軽食も記されている。サラリーマンやOLが昼休みに利用したりするのにも最適かもしれないと思った。
特に選ぶべきものもないので、俺は普通に珈琲を頼んだ。
シャルロットは紙にさらさらと注文を書いたあと、きちんと復唱する。そして頭を下げて俺の目の前から去っていき、マスターに注文を告げていた。
「……うーん、なぜかカンペキだ」
ある意味で予想を大きく裏切られた気がした。今のところシャルロットの接客は、カンペキすぎる。容姿がムダに整っている分、なんでもない仕草の一つ一つが様になっている。今まで暦荘などでは見たことがない貴重な姿だ
しばらくしてトレイにカップを載せたシャルロットが、これまたウェイトレスの鏡のような美しい姿勢で、珈琲を持ってきた。
「お待たせいたしました、こちらブレンドになります。ごゆっくりどうぞ」
テーブルに淀みなくカップを置く際に、シャルロットは伺うように俺を見た。キレイな二重瞼の赤い瞳が、笑うように細められる。その辺の男なら間違いなくイチコロだろう。
給仕を終えた彼女は、頭を下げて目立たない位置にまで下がる。俺はとりあえず、ずずっと珈琲を口に含んだ。
「……美味いじゃん」
思わず声にしてしまう。俺はいまいち紅茶とか珈琲の味は分からないが、これはもしかして美味しいんじゃないだろうかと思った。缶コーヒーなどのインスタントとは違った深みを感じる。
ちらりとマスターを見ると、どうだと言わんばかりに親指を立ててサムズアップしてきた。
これは参ったと思って、観念するように首を振った。その瞬間のマスターの顔は、今まで見た中で一番喫茶店の主っぽい顔だった。
「しかし――これじゃ練習にならねえな」
珈琲をゆっくりと飲みながらそう思った。なぜってカンペキすぎる。これでは面白くない。いや、面白くないといえば不謹慎だが、俺はシャルロットがどのぐらいの範囲までカバーできるのかが見てみたかった。
だから、とりあえずスプーンを落としてみることにした。
きぃんと金属がぶつかるような音が鳴って、シャルロットが俺の元へとやってきた。
「あ、すんません。スプーン落としちゃったんで、交換してもらえますか?」
「はい、かしこまりました。少々お待ちくださいねー」
にこやかに対応するシャルロット。しかし落ちたスプーンは俺の足元にあって、かがまないと取りにくい位置だ。だから当然、シャルロットはスプーンを拾おうとその場にしゃがみこむのだが――
彼女ががさごそと動くので、俺はそれによって体勢を崩したとばかりに、手に持ったカップを揺らして中身を少しだけ零した。黒い液体は俺のズボンにかかる。
「うわ、熱っ! だりぃ、珈琲足にかかっちまった」
全然熱くなかったし、黒いスラックスを履いているので染みの心配もなかったが、大げさにそう言ってみせた。
シャルロットは少し慌てたようにしながら立ち上がって、第一にと俺に頭を下げた。
「も、申し訳ございませんっ! 私の不注意でした。え、えっと、その……すみません!」
ごめんで済んだら警察はいらない、という言葉がこの世にはある。
「いやいや、すみませんじゃないだろ。人に珈琲かけといて、謝るだけとかこの店どうなってんだ」
店内を見渡しながらため息をつくと、あれだけウェイトレス然としていたシャルロットに変化が見られた。拗ねるように頬を膨らませ、微妙に視線を俺から外している。
しかしそれでも仕事を優先した彼女は、自らを落ち着かそうと深呼吸をして俺に向き直ったあと、再び頭を下げた。
「……申し訳ございま」
「だから謝るんじゃなくて、もっと誠意を見せろって言ってるんだ。そんなことも分からねえのか?」
こんな客がこの世にはいるのだ。だからこれは練習だ、あらゆる状況に対応できるようにと、俺からの粋なプレゼントだ。受け取るがいい、吸血鬼よ。
そう考えていると、とうとうシャルロットは我慢が利かなくなったようであった。
「――ちょっとちょっとー! なによ、その態度! なんでそんなに私のことイジメるのよ、楽しい? ねえ、楽しいの!? 士狼は女の子イジメて喜ぶような変態さんなんだっ!」
「あ? てめえ人聞きの悪いこと言ってんな! 俺はだな、お前のためを思ってだな。決して好きでやってたわけじゃねえよ」
「絶対ウソよっ! 顔ちょっと笑ってたもん、すっごくイジワルだったもん!」
肌を怒りに赤く染めて、ポカポカと背中を叩いてくるバカ吸血鬼。
しばらくしてマスターがやってきた。
「はい、ストップ。今はまだ研修中だよ、気を引き締めて行こう。それに宗谷くんの判断も悪くはなかった。確かにああいうお客様も中にはいらっしゃるからね。経験を積むという意味では、さっきの一連の流れもアリだろう。それからシャルロットくん、さっきみたいな時は僕を呼んでくれればいいからね。自分一人でなんとかしようとしないで」
マスターが言うとなんでも正論に聞こえてしまう。まあ間違ったことは言っていないのだが。
やがて最後に俺が席から立ち上がって、シャルロットは素早くレジに向かう。やや膨れっ面で清算を終えた彼女は、店を出る俺にベーっと小さく舌を出した。
店の外からは俺が使ったカップなどを片付けるシャルロットの姿が眼についた。それが全て終わったと確認したあと、俺は再び店内に入った。
「――はい、いいね。途中で暴走してしまったところもあるけれど、それはまあ相手が宗谷くんだったからだろう。きちんと声も出ていたし、笑顔も忘れてないし、立派なウェイトレスだったよ、シャルロットくん」
マスターからお褒めの言葉をいただいたシャルロットは、やったーと人懐っこい笑みを浮かべた。
「さぁて、続いては雪菜くんの番だね。二人とも、準備はいいかい?」
離れた席に姫神と腰掛けていた雪菜は、流れるような動作で立ち上がった。気品のある動きは、育ちの良さを感じさせる。
俺は再び店外に出たあと、来客を意味するベルを鳴らしながらブルーメンに足を踏み入れた。
するとクールな顔をした雪菜が、ゆっくりと、けれど客を待たせない程度に落ち着いた速度で俺のところにやってきた。
「いらっしゃいませ、一名様でしょうか」
瞼を薄く閉じたまま、小さく頭を下げる。とりあえず普段和服を着ている雪菜が、ウェイトレスの制服を着て俺に挨拶をするということにビックリした。いつもは和服ばっかり着ている彼女だが、意外とこういう可愛らしい服も似合っていると思った。それに案外スタイルが優れている。
再びボックス席に案内される。そしてお冷とおしぼりを置いたあと、メニューを示してから目立たない位置にまで下がっていく。
シャルロットが元気で明るい接客だとしたら、雪菜はどこかベテランの余裕を感じさせる淀みのない接客だ。少しだけぎこちなさのあったシャルロットに比べて、彼女はああ喫茶店に来たんだなと思わせるほどに違和感を感じさせない。ただし、愛想笑いすらもしていないクールさは減点であるが。
俺はこのままでは練習にならないと思い、再び悪質な客を演じようと決心した。
メニューを持ったまま、ちょいちょいと雪菜を呼ぶ。
黙って注文を取ろうとする雪菜に対し、俺は悪びれもなく言う。
「あ、店員さん。俺、カレー食べたいんだけど、キーマカレーお願いできる?」
ちなみに喫茶ブルーメンに、キーマカレーなど無い。
「かしこまりました、キーマカレーですね、珈琲などはいかがですか?」
なぜか当たり前のように対応されてしまった。
「……ん?」
「いかがなさいましたか、お客様」
「いや……んー、あのさ」
「はい、なんでしょうか」
「キーマカレーないよな、この店」
「はい、ございません」
今度はにこやかに対応されてしまった。
「ま、まさかお前――!」
俺にそこまで言わせることを見越しての受け答えだったとでも言うのか。だとするならば、恐るべし自称陰陽師である。
「――それで、お客様。ご注文はどうなさるのでしょうか」
「ああ……、はい。珈琲一つ、お願いします」
なんだかとてつもない敗北感に苛まれながら、俺は搾り出すように注文を口にした。
勝ち誇ったような雪菜の笑みが、とても印象的だった。
「……一筋縄では行かねえとは思っていたが、やはり恐るべしだ」
あの独特の間の取り方や、涼しげな態度が手強い。シャルロットのように元気一杯で明るい感じの接客なら挑発もしやすいが、雪菜みたいに眼に見える反応を示さない場合は逆にやりづらい。自分の攻撃が利いているのかが心配になってくるのだ。
やがて珈琲を持ってきた雪菜は、ほとんど愛想笑いすら浮かべないままに給仕して、下がっていく。
「――クソ、まさかこの俺が手玉に取られるのか」
隙がまるで見当たらない。これほどの強敵には未だかつて出会ったことがないと称しても過言ではない。
なんだかんだとバカなことを考えつつ、珈琲を飲む。やがて心の中で、仕方ないなお前は合格にしてやるぜ(もはや雪菜には勝てないと悟った)、と負け惜しみのように呟き清算を済ませるためカウンターに向かった。
それから滞りなく雪菜の接客が終わった。
「ブラボー! シャルロットくんも良かったが、雪菜くんも負けていないね。この分なら、安心して仕事を任せられそうだよ。ただお客様の前だと、もう少しだけ笑顔でいてほしいね。珈琲の味っていうのはやっぱり、それを給仕する人間の笑顔によっても変わってくると思うからさ」
マスターからお褒めの言葉をいただいた雪菜は、特に喜ぶこともなく頭を下げた。表面上は何も言わなかったが、内心ではそれなりに愉悦を感じているような気がした。
「よし、じゃあ最後は千鶴くんだ。今日のトリだよ、頑張って」
「は、はいっ!」
名を呼ばれた姫神は緊張したように立ち上がる。……否、あれは間違いなく緊張している。
俺は心配になりながらも、客として喫茶ブルーメンに足を踏み入れた。
「い、いらっしゃいませ。一名様ですか?」
少し恥じらいの表情を浮かべながら尋ねてくるのは、普段は凛々しい姫神千鶴である。あれは緊張以前に、まずブルーメンの制服に対して羞恥心を持っているなと思った。
容姿的にはカッコイイ姫神と、可愛らしいブルーメンの制服は、そのアンバランスさが逆に功を成した感じである。モデルのようなスラリとした身体は、どんな服にも柔軟に対応できるらしい。
多少硬さが見られるものの、姫神はなんとか俺を席まで案内することに成功した。
やがて目立たない位置にまで下がった姫神は、緊張を解くように息を吐いた。それを見ていた俺は、どうせなら彼女にも何か練習させてやらねばなるまいと思った。
注文が決まった風を装って、姫神を呼ぶ。少しビクっとしたあと、恐る恐る俺に近づいてくる。
「ご注文はお決まりか――いや、お決まりですか。お客様」
必死に冷静になろうと自分に言い聞かせているのが眼に見えて分かるようである。
俺は考え込むように唸ったあと、ふと姫神を見る。そしてスカートの下に伸びた白い足を視界に収めた。
「あれ、今気付いたんだけどさ。店員さん、すっごく可愛いな。よく言われるんじゃないか?」
「っ――!?」
姫神はタコみたいに顔を真っ赤にさせて、ペンと紙を落とした。
「足だって長いし、腰だって細いし、顔もこんなに可愛いし。男から放っておかれねえだろ?」
「そ、そそそ宗谷。こんなときになに言っているんだっ!?」
すでに接客としては失敗してしまっている姫神だが、ここで終わらせては中途半端だと思い、俺はこのキャラを貫き通すことにした。
「よかったらさ、俺とこのあと遊びに行かねえか? 朝には、家に送るからさ」
「あ――朝、だって……!? それはダメだっ!」
「なんで? 理由教えてくれなきゃ引き下がれないな」
「それは……、ダメなものはダメなんだ!」
じりじりと少しずつ後退していく姫神。俺はそろそろ可哀想になってきたので、演技を終わらすことにした。
「――なーんてな。これじゃダメだぜ、姫神。もっと柔軟に」
「わ、分かったよ。宗谷がそこまで言うなら、私も覚悟を決める。だから――ん?」
「…………」
ブリザードのように流れる冷たい空気。
姫神は顔をさらに赤くしたかと思うと、今度は青くして、
「うわー! 今のは違うんだぁ! 忘れてくれ、むしろ忘れさせてやる!」
なんと俺に殴りかかってきた。握り締められた拳を手で受け止める。
「待て、落ち着け姫神。とりあえず落ち着こう、な? 俺が悪かったから」
バタバタと暴れる俺たちは、それからちょっとしてマスターに止められたのだった。
お互いにやりすぎだと注意を受けたあと、再び姫神の模擬研修が始まる。今度は俺も平均的な客を装った。姫神のヤツはところどころ危なっかしいところを見せたものの、振り返ってみれば難なく試験を終わらせた。
全員が終わって、マスターにサービスだと珈琲を淹れてもらった俺たちは、喫茶ブルーメンの中で一息ついていた。
「みんな凄いね。今日が初めてだとは思えないよ。正直高梨さんの紹介とはいえ、少しだけ心配だったからね。はっはー、この分だとブルーメンは安泰間違いなしだ」
マスターの言葉にシャルロットが一早く反応した。
「すっごく楽しかったですっ! 制服も可愛いし、それにこの珈琲も美味しいですし」
「私も貴重な経験が出来ました。……それよりシャルロットさん、貴女に珈琲の味が果たして分かるんですか?」
「ちょっとちょっとっ、私だって美味しいものとそうでないものの違いぐらい分かるよ! ていうか雪菜のほうこそ分かるのかな」
「当然です、自称陰陽師を侮らないでください。マスター、これはブルマンですよね」
「そのとおりっ! ブルーマウンテンだよ、雪菜くん。いやぁ、まだ高校生なのに一口飲んだだけで珈琲が分かるなんて、いい味覚してるね」
雪菜が勝ち誇るでもなく、当然といわんばかりに黙って珈琲を飲む。それが逆にシャルロットにはショックだったようで、「ガガーン」という擬音を口に出してショックを受けていた。
「おい姫神。お前はどうだったんだ?」
一番端っこのほうで珈琲を飲んでいた姫神に問いかける。
「……まあ。思っていたよりは、楽しかったし、いい経験になった……と思う」
「そっか。ならよかったじゃねえか。頑張れよ」
「あ、うん。頑張るさ」
笑いかけてやると、少しだけ元気を出したように姫神は笑った。
それから俺たちはしばらく一服したあと、マスターが晩御飯までまかなってくれるというので、遠慮なくご馳走になった。味はやはりというべきか、とても美味しいの一言に尽きた。
研修の一日目はこうして終わる。それから何日か、俺たちは時間を決めてブルーメンに通った。
俺の仕事は給仕ではなく、倉庫から食材や珈琲豆を取り出したり、厨房で皿を洗ったりするというものだ。それもブルーメンが開店して、落ち着きを見せ始めたらお役御免となる。
マスターはできることならずっと働いてほしいと言っていたが、丁重にお断りした。喫茶店は好きだが、俺みたいな人間がお客さんをもてなしていいはずがない。それだけこの手は、いくつもの命を刈り取ったのだから。
光陰矢のごとしはよく言ったもので、気が付くと結構な日が経っていた。
なぜかというと、本日土曜日がすでに喫茶店ブルーメンの開店日だからである。
休日ということもあり、雪菜と姫神も朝からシフトを入れていて、ブルーメンは万全の体勢でスタートを切ることになった。
駅前でビラを配ったり、雪菜や姫神が――姫神は恥ずかしがっていたが――学校で友人に宣伝してくれたこともあって、客足は驚くほどに伸びた。
その中には大家さんや周防、そしていつ暦荘に帰ってきたのか智実のオッサンや、あの性に開放的な変態女医、そして如月の姿もあった。最後の三人に限っては忙しい中、大家さんに呼ばれて駆けつけてきたので、あまり時間は取れないらしいが。馴染みのある知り合い達にウェイトレス姿を見られた姫神は、常に顔を赤くしながら働いていた。
口コミというのは本当にあるもので、ブルーメンにあとから来るお客さんは、どうも珈琲や紅茶の美味さと軽食の種類の豊富さ、そしてウェイトレスの可愛さを耳にしてやって来るらしい。部活帰りらしき高校生の集団が、シャルロットに見惚れていたのには少し理解しかねるが。
なんにせよ、これは凄くいいことなんじゃないかと思う。初め大家さんが俺にこの仕事を頼んだときはげんなりしたが、今となっては少しだけ感謝している。雪菜や姫神もそうだが、あのシャルロットがこうやって当たり前のように働く姿は本当に素晴らしいと思ったのだ。きっと誰もが、彼女が吸血鬼だということには気付いていない。しかしそれでも問題なくやっていける。
三人の中で誰よりも明るい笑顔のシャルロット。笑みこそ弱いが、もっとも仕事にそつがない雪菜。照れてすぐに赤くなってしまうものの、芯が強くいざというときには頼りになる姫神。
吸血鬼と、人間と。
その二つの種族に差なんてきっとない。――ああ、だって見てみれば分かるんだ。シャルロットも雪菜も姫神も。今のコイツらを見て、そんな余計なことを考える人間なんて絶対にいないんだから。
一日が終わって、俺たちはクローズ作業を終えた店内で、再びマスターが淹れてくれた珈琲を飲んでいた。
「はっはっはー、最高だね。泣いてもいいかな、もうこの世にいる全ての人たちに感謝を捧げるよ。僕の淹れた珈琲に美味しいと一言くれたときは、ノストラダムスの予言が外れたときぐらいに嬉しかったね」
そう言ったのはマスターであった。言葉の軽さとは裏腹に、本人は本当に満足げな顔で笑っていた。あれだけ軽食を作って、飲み物を淹れて疲れているはずなのに、その疲労を全く感じさせないのは、きっと夢が叶ったという証なのだろう。
俺自身は一歩引いて、みんなの様子を見ていた。しょせん消える身だ。裏方の人間は影から支えるのが仕事だ。そう考えると誰よりも頑張ったマスターとシャルロットたちの輪に、俺が入るのは少しだけ気が引けた。
「お疲れ様です、士狼さん」
やがて雪菜が盛り上がっているマスターとウェイトレス二人から離れて、俺のところに来た。
「はい、お疲れさん。結構良かったじゃねえか。お前のことだから、途中で意味の分からない黒魔術とか唱えだすかと思ってたけどな」
「失敬ですね。私はそんな暗黒染みたものは使えません、自称陰陽師ですから」
「相変わらず胡散臭さ満点の称号だな」
二人してずずっと珈琲を飲む。
雪菜はぼんやりと遠くを見ていた。――そう思っていたのだが、よく見ると雪菜の視線の先にはシャルロットの姿があった。
金髪赤眼の吸血鬼を映す、彼女の眼に宿る感情は一体なんなのだろうか。友情、嫉妬、後悔、不安、心配、そして杞憂――どこか雪菜は安堵しているように思えた。
「士狼さん、吸血鬼さんのことですが」
やがて、雪菜にしてはマジメな声色でそう呟いた。
「あん、なんだよ」
「……いえ。そうですね、士狼さんにはきちんと説明しておいたほうがいいと思いまして」
そう前置きして雪菜は語る。
シャルロットと姫神と買い物に出かけた際に、軽薄な男たちに絡まれたこと。そしてそのときシャルロットの様子が変わって、同時に不吉な力を感じたこと。
「あれほど強大な力は、今まで感じたことがありません。自らを抑制できていないようにも私には思えました。とにかく詳細は分かりませんが、そのようなことがあったと士狼さんも心に留めておいてください」
「分かった。とにかくアイツに関しては、心配しすぎるに越したことはねえからな。ところで雪菜、ずいぶんとシャルロットを心配するんだな。お前にしては珍しいじゃねえか」
俺が茶化すように言うと、雪菜はそうですねと頷く。
「――まあ一応、本当に一応の一応の、仕方なくの極みのさらに果てにあるぐらい仕方なくで一応ですけれど、吸血鬼さんは」
俺から顔を背けて、注意していなければ聞こえないぐらいの小さな声で、雪菜は言う。
「私の、お友達ですからね」
ほんのりと照れたような赤い頬を見て、俺はなんとなく嬉しくなった。
こうして俺たちの――いや、シャルロットのアルバイトは始まった。
願わくば、彼女に幸多き未来があることを望む。
その日は夜遅くまで、喫茶ブルーメンから明かりが消えることはなかった。夜の街にこぼれる笑い声は、自分が今幸せだと叫ぶ証だ。シャルロットはきっと、こうやって自分の生活を手に入れていくのだろう。
――もう一度だけ、願う。
バカで泣き虫で人懐っこく笑う、そんなひとりぼっちだった吸血鬼Aに、幸福な未来があるようにと。
****
闇の中で声がする。
「ハハハハハ! なぁるほどなるほど、やっぱビンゴだったな、ニノ」
パチンと指を鳴らす音。影から現れた漆黒の狼が、小さな猫のようなものを噛み砕く。
「式神――か。相当に高度な術式で括ってやがる。こりゃあ、そのへんのチャチな陰陽師じゃないね。ていうかこの気配の残滓……いいねぇハンパじゃないねぇ。気に入ったわ、シャルロットちゃん」
「待って。本当にこの街にいるの? ウチには吸血鬼が存在するかどうかさえ分からないんだけど」
「ああ、間違いねえよ。どうも強力な結界が張られてるようで察知に遅れたけどな。ケっ、メンドくせぇ。こりゃ相当に腕の立つ陰陽師みたいだわ」
帽子を深く被りなおす気配。
「……しかしこれだけ強力な結界を編み込めるだけの術者がまだいるとは、さすがに日本という国は奥が深いですねぇ。十二大家の――いや、青天宮の人間かな?」
「そんなことはどうでもいいわ。それより早くしましょうよ」
「そうですね。まずは拠点を確保しましょう。話はそれからです」
誰もいない暗闇の中を歩く。
闇の中に一瞬だけ、金色の瞳が浮かび上がった。
「――さあ、せいぜい楽しませてくれや」
それが。
絶望の始まりだった。